戻っていく感覚(再会という選択)
「戻っていく感覚」というテーマで書いている。
昨年の10月から書き始めた。
今年は、もっと書いていこうと考えている。
昨晩書いた「オーディオ機器を選ぶということ(再会という選択)」も、
やはり戻っていく感覚なのだろうか、といま思っている。
「戻っていく感覚」というテーマで書いている。
昨年の10月から書き始めた。
今年は、もっと書いていこうと考えている。
昨晩書いた「オーディオ機器を選ぶということ(再会という選択)」も、
やはり戻っていく感覚なのだろうか、といま思っている。
旅人がトランクにつめこんだレコードは、いうまでもなく「ききたいレコード」であった。
ききたいレコードが一枚ではなく、何枚もあったから車掌は、
いきたいところがわからなかった旅人の行き先を察することができた。
ききたいレコードは、ききたくないレコードの裏返しでもある。
ならば旅人がトランクにききたくないレコードばかりをいれていたら、
それを見た車掌は、旅人がいこうとしている目的地を察することができただろうか。
38年前には考えなかった、こんなことをいまは考えている。
単純接触効果というのが、すでに実証されている。
くり返し何度も対象と接することで、好意度が高まり印象が良くなる、というものである。
音に関しても、単純接触効果はあるのだろう。
だとすれば……、と思う。
オワゾリール、アルヒーフの録音が好きだったききては、
ほんとうにこれらのレーベルの音が好きだったのか、である。
人の好みは、どうやって形成されていくのか、くわしいことは知らない。
ただ思うのは、嫌いなものを排除することの好みの形成であるはずで、
好きな音がまだつかめていない段階でも、嫌いな音、ききたくない音ははっきりしているのではないだろうか。
人によって、それも異っているのかもしれないが、
とにかく嫌いな音を徹底的に排除することから、
オーディオをスタートさせたききては十分考えられる存在だ。
嫌いな音を徹底排除することによって、ある独特な音が形成される。
その音で、彼はさまざまな音楽をきいてきた。
音楽をきいてきた回数だけ、その音に接している。
そして、いつしか、その音を好きになっている──。
これも単純接触効果といえるだろう。
カラヤンは、古楽器について、ひからびた、しなびたといった表現をしている。
これはカラヤンが古楽器を全否定しているから、こういった表現になっているのであり、
古楽器には古楽器ならではの音のよさがあり、古楽器によるすべての演奏がそんな響きだとは思っていない。
それにそんな響きであっても、
人によっては、ストイックな響き、と受けとめる。
一方の、古楽器ではない響きを、堕落した響きと受けとめる人もいても不思議ではない。
古楽器の響きをストイックと受けとめる人は、
古楽器の響きが好きということであり、
オワゾリールやアルヒーフ、このふたつのレーベルの音が好んでいたききても、そうであるといえる。
けれど好きな音と嫌いな音も、また呼応していることを忘れてならない。
オワゾリール、アルヒーフの音を好んでいたききてには、苦手な音・嫌いな音があった。
苦手な音・嫌いな音は、誰にだってある。
私にも、それはある。
どんな音かというと、磁石を砂鉄の中にいれると磁石に砂鉄がけば立つようについていく。
こういう感じの音が、どうしても苦手である。
一部では、こういう音をエッジがはっきりしている音と評価しているようだが、決していい音ではない。
ただ、こういう音は悪い音であるわけだから、苦手・嫌い、というよりも、
こういう音を出してはいけないともいえる。
とすると、いまの私は、はっきりと苦手な音・嫌いな音は、他に思い浮ばないから、ないのかもしれない。
嫌いな音は好きな音と呼応しているのだから、
好きな音がはっきりとしている(そのため狭くなりがちでもある)からこそ、
嫌いな音も、またはっきりと存在している──、のではないだろうか。
オワゾリール、アルヒーフの音を好むききてをみていて感じていたのは、このことである。
彼は好きな音を追い求めていたのだろうか、
それとも嫌いな音を徹底的に排除していたのだろうか。
なにもカラヤンをきく人は、古楽器による演奏をきいてはいけない──、
などといいたいわけではない。
ある人は、レーベルでいえばオワゾリールやアルヒーフの音を好んでいた。
このふたつのレーベルのLPやCDを買っては鳴らしていた(きいていた)。
彼自身の音の好みも、このふたつのレーベルに共通したところのあるものだった。
彼が、だからふたつのレーベルを好むのは自然なことだったのかもしれないし、
そういう音に自分のシステムの音を仕上げるのも、また彼にとっては自然な行為だったのであろう。
だが彼は、そういうシステム・音できいて、カラヤンは素晴らしい、という。
彼の音の好みは変ることはなかった。
彼の音も大きく舵を切ることはなかった。
そういう音で彼はきいて、カラヤンのブルックナーは素晴らしい、とまた言う。
カラヤンのブルックナーでの響きと、彼が好む響きは、いわば相容れないようにしか、私には感じられない。
そういえば、おそらく彼は「音楽をきいている」というだろう。
けれどくり返すが、音楽と音は呼応している。
豊かさを拒絶した響き(それを響きといっていいものだろうか……)で、カラヤンのブルックナーをきく。
ジャズでいえば、ルディ・ヴァン・ゲルターの録音したブルーノートのアルバムを、
ECM的な音できいて、素晴らしい、といっているようなところがある。
ここにちぐはぐさがある。
「風見鶏の示す道を」のなかに、こう書いてある。
*
残念ながら、その点でちぐはぐな例も、なくはない。最新鋭の装置をつかいながら、今となってはあきらかに古いレコードを、これがぼくの好きなレコードです──といってきいている人がいる。それはそれでかまわないが、その人はおそらく、どこかで正直さがたりないのだろう。
*
私にも同じことがあった。
好きなレコード(演奏)と好きな音に、どこかちぐはぐなところがあった。
ききたいレコードはわかっていても、目的地がわからなかった旅人には、車掌という存在が必要だったといえる。
聴きたいレコードはわかっている、目的地もわかっている、
だから車掌という存在は必要ない、という人もいる。
彼は旅人といえるのだろうか。
ききたいレコードと目的地は本来は呼応している。
いいかえれば、ききたい音楽と、その音楽をきくための音とは呼応している。
だから黒田先生は書かれている。
*
あなたはどういうサウンドが好きですか──という質問は、あなたはどういう音楽が好きですか──という質問と、実は、そんなにかわらない。ここでいう音楽とは、あらためていうまでもないが、演奏を含めての音楽である。青い音が好きで、同時に紅い音楽が好きだということは、本来、ありえない。音と音楽とは、もともと、呼応していてしかるべきだろう。そのことは、なにごとによらずいえるのだろうが、音に対しての好みと音楽に対しての好きがちぐはぐだとしら、それは多分、その人の音に対しての感じ方と音楽のきき方のあいまいさを示すにちがいない。
それは、多分、演奏家の楽器のえらび方と、似ている。すぐれた演奏家なら誰だって、彼がきかせる演奏にかなった楽器をえらぶ。なるほどこういう演奏をするのだから、こういう楽器をつかうんだなと、思える。それと同じようなことが、ききてと、そのききてがつかう装置についても、いえるにちがいない。
*
カラヤンがいた。
カラヤンは指揮者だから、直接楽器を選ぶことはない。
彼にとっての楽器は、彼が指揮するオーケストラといえる。
カラヤンは古楽器に対して、全否定といえた。
正確な引用ではないが、
古楽器特有の響きを、ひからびた響き、そういった表現をしていたと記憶している。
カラヤンの演奏をきいてきた者であれば、カラヤンが古楽器を選ぶとは思わない。
けれど、青い音が好きで、紅い音楽が好きだという、
本来ありえないこと(ききて)がいた。
「ぼくはどの汽車にのったらいいのでしょう?」といっていた旅人は、車掌とともに汽車にのる。
目的地である駅をめざす。
どこかの駅に向う。
目的地につくには、ある時間を要する。
その駅がどこにあるかで、その時間が長くなることだってある。
しかも、その駅は目的地であるけれど、最終目的地とはいえない。
おそらく目的地(駅)についた旅人は、またいつの日か、次なる目的地をさがすことになる。
そのときトランクの中のレコードは、最初の旅立ちと同じではないはず。
様変りしているかもしれない。
旅人は、また車掌にたずねるのだろうか、「ぼくはどの汽車にのったらいいのでしょう?」と。
いま「風見鶏の示す道を」を読み返すと、あれこれ考えてしまう。
「風見鶏の示す道を」はオーディオ誌に書かれたものだ。
旅人は誰なのか、車掌もそうだ、誰なのか。
駅はなんなのか、なぜ汽車なのか。
これらが示唆するもの。
書く必要はないだろう。
オーディオマニアならば、そうやって生きてきた(いる)からだ。
旅人はいくつかの駅にたどり着く。
いくつの駅だったのかは、わからない。
最終目的地と思える駅に、彼はたどり着けるのだろうか。
38年前、レコード(録音物)といえば、LP(アナログディスク)をさしていた。
いまはさしずめCDになる。
LPかCDか、ということはさほど、ここで語ることに関しては大きな違いとはいえない。
38年前と大きく違っていて、そのことがここで語ることに大きく関係してくるのは、
メディア(録音物)の売られ方である。
38年前、LPは決して安いとはいえなかった。
新譜であっても旧譜であっても、たやすく買えるものではなかった。
CDが登場しても、そのことは大きくは変らなかった。
けれどいま、CDはボックスだと、昔の感覚では信じられないほど安くなってしまった。
30枚セット、50枚セット、60枚セット、
LP全盛時代には考えられなかったボックスの枚数であり、いくつものそういうボックスが矢継ぎ早に出てくる。
しかも相当に安い。
ボックスCDを買うことで、それまで避けていた、あまり関心の持てなかった音楽もきくことになる。
ボックスCDを、だから否定したくはないが、それでも旅人がトランクから取り出したのが、
すべてボックスCDであったら、そこに一本の筋はみえてきただろうか。
車掌は目的地を読みとることができただろうか……。
こんな現実的なことも、考えてしまう。
乗客(旅人)のトランクにはレコードがいっぱいだった。
ただ、これらのレコードは、乗客がこれまできいてきたレコードだったのか。
それとも、これからききたいと思っているレコードだったのか。
38年前の13歳のときには考えなかったことを、いまは考えている。
トランクいっぱいのレコードが愛聴盤ばかりのときの目的地と、
未聴のレコードばかりのときの目的地、
愛聴盤と未聴盤がまざりあっての目的地とでは、
めざす方向は同じになるのかもしれないが、
目的地となる駅は必ずしも同じになるとはかぎらないのではないか。
ただいえるのは、どの場合であっても、
旅人という《ひとつの個性でえらばれた》レコードであることにはかわりはない。
黒田先生は書かれている。
*
ひとつの個性でえらばれた数枚のレコードには、おのずと一本の筋がみえてくる。そのみえてきた筋が示すのは、そこでレコードを示した人間の音楽の好みであり、敢えていえば音楽のきき方である。
*
みえてきた筋が示すところに、目的地となる駅はある。
レコードの持主である旅人が汽車に乗れたのは、
汽車の車掌を自称する男が、旅人がとり出したレコードから、筋が示す先を読みとることができたからである。
人は蒐集する。
なにかを蒐集する。なにかとはモノであり、モノはレコードであったり本であったり、他のモノであったりする。
音楽をきくためにレコードを買う。
あの音楽もききたいからと、別のレコードを買う。
そうやってレコードの枚数は少しずつであっても確実にふえていく。
10枚くらいたったレコードがすぐに100枚をこえ、
さらには一千枚をこえることも、そうめずらしいことではない。
世の中には、もっと多くの枚数のレコードをもつ人もいる。
昔からいわれていたことだが、一枚のレコードをきくのに小一時間ほど必要となる。
365枚のレコードを所有していたら、一日一枚のレコードをきくとして、
次に同じレコードをきくのは一年後となる。
一日一枚のレコードをきく人、もっと多くの枚数のきく人もいる。
それでも枚数がふえれば、次にそのレコードをきく日はいつになるのか。
もちろんレコードだから、同じレコードをたてつづけてにきいてもかまわない。
毎日ききたい曲があるし、一年に一度きければいい、という曲もある。
そうなれば、きかないレコードは次にきかれる日が延びていく。
それでも人は蒐集する。
冷静になれば、そんなに集めることが音楽をきくことになるのか、とも思うこともある。
けれど、いくつもの点が集まることで一枚の写真となり、そこでなにかがはっきりと浮び上ってくる。
レコード一枚一枚はひとつの点である、と書いた。
蒐集とは、自身の目的地を知るための行為なのだとおもう。
乗客は、どの汽車にのったらいいのかわからなかった。
けれど、彼はききたいレコードははっきりとわかっていた。
だから駅員に「ぼくは、このレコードが、ききたいんですよ。」といい、
トランクをあけ、一枚のレコードをとりだす。
ピアノのレコードであった。
「風見鶏の示す道を」でははっきりと書かれていないが、
乗客の手荷物はレコードでいっぱいになったトランクだけのようである。
乗客が「ぼくは、このレコードが、ききたいんですよ。」と示したレコードを、
駅員は手に取り懐しげな表情をして、さらに乗客にたずねる。
「ききたいのは、このレコードだけですか?」
乗客はトランクの中いっぱいのレコードを駅員にみせる。
駅員はますます懐しげな表情をして、こういう。
「そうでしたか。あなたのいらっしゃりたいところは、あそこだったんですか。よくわかりました。さあ、まいりましょう。ぼくは、あなたがいこうとしているところにむけて出発,仕様としている汽車の車掌なんですよ。間もなく汽車の出発の時間です。」
乗客がどこをめざすのかがはっきりしたのは、一枚のレコードでは無理だった。
トランクいっぱいのレコードゆえに、駅員は理解できた。
黒田先生は、一枚一枚のレコードを新聞にのっている写真の、ひとつひとつのドットにたとえられている。
いまの新聞の写真はカラーがずいぶんきれいになったけれど、
「風見鶏の示す道を」のころの新聞の写真はずいぶんと粗いものだった。
モノクロの写真は、点(ドット)の集合したものでしかなかった。
ドットを凝視しても虫めがねでみようと点は点にかわりない。
ところが、ある距離をおくと、人の顔であったり、風景であったりするのがわかる。
人の顔の表情までわかる。
一枚のレコードは点であり、
トランクいっぱいのレコードによって一枚の写真になり、
行き先のわからない乗客にかわり、何かを駅員に語っている。
「風見鶏の示す道を」での駅員と乗客(旅人)の会話と会話のあいだに、
レコード(録音)について、レコードをきくという行為についての記述がある。
*
ともかく、ここに、一枚のレコードがある。あらためていうまでもなく、ピアニストの演奏をおさめたレコードだ。
そのレコードを、今まさにきき終ったききてが、ここにいる。彼はそのレコードを、きいたと思っている。そのレコードをきいたのは自分だと思いこんでいる。たしかに、彼は、きいた。きいたのは、まさに、彼だった。それは、一面でいえる。しかし、少し視点をかえていうと、彼はきかされたのだった。なぜなら、そのレコードは、そのレコードを録音したレコーディング・エンジニアの「きき方」、つまり耳で、もともとはつくられたレコードだったからだ。
しかし、きかされたことを、くやしがる必要はない。音楽とは、きかされるものだからだ。たとえ実際の演奏会に出かけてきいたとしても、結局きかされている。きのうベートーヴェンのピアノ・ソナタをきいてね──という。そういって、いっこうにかまわない。しかしその言葉は、もう少し正確にいうなら、きのうベートーヴェンのピアノ・ソナタを誰某の演奏できいてね──というべきだ。誰かがひかなくては、ベートーヴェンのソナタはきくことができないからだ。
楽譜を読むことはできる。楽譜を読んで作品を理解することも、不可能ではない。だが、むろんそれは、音楽をきいたことにならない。音楽をきこうとしたら、誰かによって音にされたものをきかざるをえない。つまり、ききては、いつだって演奏家にきかされている──ということになる。
それがレコードになった時、もうひとり別の人間が、ききてと音楽の間に介在する。介在するのは、ひとりの人間というより、ひとつの(つまり一対の)耳といった方が、より正確だろう。
ここでひとこと、余計なことかも思うが、つけ加えておきたい。きかされることを原則とせざるをえないききては、きかされるという、受身の、受動的な態度しかとりえないのかというと、そうではない。きくというのは、きわめて積極的なおこないだ。ただ、そのおこないが、積極的で、且つクリエイティヴなものとなりうるのは、自分がきかされているということを正しく意識した時にかぎられるだろう。
*
汽車はレールの上を走る。
音楽をきかされている、というたとえでいいかえれば、レールの上を走らされている。
汽車の乗客は乗っているだけである。
車を運転するのと違う。
スピードの自由度は乗客にはまったくない。寄り道の自由もない。
汽車の乗客は、
車での旅人よりも受身、受動的な態度の旅人なのだろうか。
駅員と乗客の会話(対話)はつづいていく。
駅員と乗客の会話はもう少し続く。
そして、中ほどに、こう書かれてある。
*
目的地がわからない旅人──、そんな馬鹿なこと、ありうるはずがないと、思われがちだ。本当にそれは、馬鹿げたことか、ありえないことか。
*
乗客は旅人である。
どこかの駅から、どこかの駅に行こうとしている。
だが旅人は、どこに行きたいのか、自分でも掴めずにいる。
駅にいけば、それも旅に出ようとしているわけだから、
通勤のための最寄りの駅ではなく、もっと大きな駅であるはずだ。
大きな駅にはいくつもの汽車がいる。
乗客を待っている。
目的地が決っていなければ、どの汽車にのっていいのかすらわからない。
《旅は、なにものかに呼ばれて、はじめて可能だ。》
「風見鶏の示す道を」の中ほどに、こう書いてある。
目的地とは、なにものかに呼ばれているところでもあるのかもしれない。
なにものが呼ぶのか。
レコードである。
聴きたい音楽である。
私が初めて読んだ黒田先生の文章は、
ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’77」巻頭の「風見鶏の示す道を」である。
サブタイトルとして、音楽が呼ぶ夢の顕在としてのコンポーネント、とある。
《汽車がいる。汽車は、いるのであって、あるのではない。りんごは、いるとはいわずに、あるという。りんごはものだからだ。》
ここから「風見鶏の示す道を」をはじまる。
駅が登場してくる。
幻想の駅である。
駅だから人がいる。
駅員と乗客がいる。
しばらく読んでいくと、こんな会話が出てくる。
*
「ぼくはどの汽車にのったらいいのでしょう?」
「どの汽車って、どちらにいらっしゃるんですか?」
「どちらといわれても……」
*
不思議な会話である。
駅でなされる会話とはおもえぬ会話があった。
38年前に、この文章を読んでいた。
ちょうどいまの季節である。
二度三度読み返した。
13歳の中学生には、わかったようで、この人(黒田先生)が何を書きたいのか、
ほんとうのところはつかめずにいた。
それでもなにかしら惹かれるところがあって、そのあとも何度か読み返している。
本だけでなく、DVDやゲームソフトも取り扱っている書店には、
液晶テレビが置いてあり、話題のDVDのデモが映し出されている。
今年は、ここに「アナと雪の女王」がよく映し出されていた。
ほとんどの場合、液晶テレビの前に小さな子供がいた。
じぃーっと「アナと雪の女王」を見ている。
くいいるように見ている。
お母さんもいっしょに見ていることが多い。
もうひとつ「妖怪ウォッチ」のようかい体操第一もよく映し出されていた。
こちらも子供たちがくいいるように見ているところに何度も遭遇している。
そんな子供たちの姿をみていると、
私もこのくらいのころは、こんなふうにテレビをみつめていたのか、と思う。
子供には子供向けのテレビ番組がある。
ずっと昔からある。
世代が違えば見てきた子供向けのテレビ番組は違っている。
人によっては割と早い時期から子供向けの番組は見なくなるだろうし、
ほとんどの人がもう見ていない、となる。
それでも結婚し子供が生まれ、子供がテレビ番組に興味を持ちはじめるころになれば、
子供と一緒に子供向けのテレビ番組を見ることになる。
世代が同じでも、子供といっしょに子供向けのテレビ番組をみるころには、
人によって、その時期は違ってくる。
早く子供が生まれた人、遅くに生れた人とでは10年くらいの開きがあっても不思議ではない。
子供もひとりだけの人もいればふたり、三人という人もいるから、
そうなると、子供向けの番組を二番目の子供、三番目の子供といっしょに見ることになる。
結婚していなかったり子供がいなかったりしたら、
大人になってから子供向けの番組を見ることはないのが、普通ということになるのか。
「子供向けだからなぁ……」という人がいる。
ここでの「子供向けだからなぁ……」には、
「子供だましだからなぁ……」というニュアンスがふくまれていたりする。
だがほんとうに子供だましなのか。
少なくとも「アナと雪の女王」、「妖怪ウォッチ」のようかい体操第一を見ている子供たちの表情をみれば、
子供だましではないことが伝わってくる。
手塚治虫の未完の作品のひとつが「ネオ・ファウスト」。
タイトルからわかるようにゲーテの「ファウスト」を題材としていて、
手塚治虫は三度「ファウスト」を作品化している。
第一作は1949年(1950年かもしれない)に「ファウスト」というタイトルで不二書房から出ている。
第二作は1971年に「百物語」のタイトルで、少年ジャンプでの連載が開始。
第三作の「ネオ・ファウスト」は1988年1月から朝日ジャーナルでの連載が始まっている。
ゲーテの「ファウスト」は第一部が1808年、第二部がゲーテの死後の1883年に発表されている。
「ファウスト」の第一部から「ネオ・ファウスト」の連載開始までの180年。
科学技術はおそろしく進歩していった。
手塚治虫の「ファウスト」から「ネオ・ファウスト」までの39年でも、大きく進歩している。
だからこそ手塚治虫は「ネオ・ファウスト」を描いたような気がしてならない。
ゲーテの「ファウスト」の時代、ホムンクルスは錬金術による人造人間だったのが、
「ネオ・ファウスト」ではバイオテクノロジーが生み出す人造人間となっている。
ゲーテの「ファウスト」ではホムンクルスの登場は少ない。第二部に登場してエーゲ海であっけなく消える。
「ネオ・ファウスト」の第二部にホムンクルスは登場する予定だった。
だが手塚治虫の死で第二部は二話で未完となってしまう。
ホムンクルスはまだ登場せずに、だ。
手塚治虫の死後に出た関連書籍を読むと、ホムンクルスは最後まで登場する構想だったことがわかる。
重要な存在としてのホムンクルスであるところが、ゲーテの「ファウスト」と違ってくるところであり、
これこそが180年のあいだに進歩した科学技術があるからだ、と思う。
「ネオ・ファウスト」がどう話が展開して、どういう終りになるのかまったく想像はつかない。
けれど、倫理について語られるものがあった、と思う。
「ネオ・ファウスト」のホムンクルスは地球を破壊していく。
バイオテクノロジーに対する不安、拒絶反応が「ネオ・ファウスト」の大きなテーマ、ということだ。
21世紀を目前にしていた時代に、手塚治虫がどう倫理を描いていくのかを読みたかった。