Archive for category Leonard Bernstein

Date: 3月 16th, 2017
Cate: Leonard Bernstein

ブルックナーのこと(その2)

別項のためにステレオサウンド 16号を開いている。
16号でのオーディオ巡礼には、瀬川先生のほかに、山中先生と菅野先生も登場されている。

このころの山中先生はアルテックのA5に、
プレーヤーはEMTの930st、アンプはマッキントッシュのMC275を組み合わされていた。
     *
そこで私はマーラーの交響曲を聴かせてほしいといった。挫折感や痛哭を劇場向けにアレンジすればどうなるのか、そんな意味でも聴いてみたかったのである。ショルティの〝二番〟だった所為もあろうが、私の知っているマーラーのあの厭世感、仏教的諦念はついにきこえてはこなかった。はじめから〝復活〟している音楽になっていた。そのかわり、同じスケールの巨きさでもオイゲン・ヨッフムのブルックナーは私の聴いたブルックナーの交響曲での圧巻だった。ブルックナーは芳醇な美酒であるが時々、水がまじっている。その水っ気をこれほど見事に酒にしてしまった響きを私は他に知らない。拙宅のオートグラフではこうはいかない。水は水っ気のまま出てくる。さすがはアルテックである。
     *
アルテックでブルックナーか、
と読んだ時から思っていたけれど、なかなか聴く機会はこれまでなかった。

アルテックといっても604ではなく、ここでのアルテックは劇場用スピーカーとしてのアルテックであり、
A5、最低でもA7ということになる。

周りにA5(A7)を鳴らしている人はいないが、
喫茶茶会記のスピーカーのユニット構成は、A7に近い。
アンプもMC275ではないけれど、MA2275がある。

もらろん山中先生の鳴らし方ではないけれど、
これまで私がブルックナーを聴いてきたシステムとは傾向が違うし、
いちどブルックナーを聴いてみようかな、と思っている。

audio wednesdayのどこかでやってみたい。

Date: 4月 23rd, 2013
Cate: Leonard Bernstein

ブルックナーのこと(その1)

クラシックを、これまでずっと聴いてきた。
クラシックばかり、とまではいえないものの聴いてきたもののほとんどはクラシックであっても、
クラシックの作曲家といわれている人すべての曲を聴いてきているわけではない。

ほとんど聴かない作曲家もいる。
そのひとりが、私にとってはブルックナーである。
どうも苦手なのである。

それでもある時期(24から25歳のころ)、ブルックナーを集中して聴いたことはある。
フルトヴェングラーのレコードも当然聴いたし、
ブルックナーの名盤といわれているモノはけっこう聴いた。

ブルックナー好きでも熱心なブルックナー聴きの人たちのあいだで評価が抜群に高いシューリヒトも聴いた。
ちょうど、そのころシノーポリが来日してブルックナーの四番を指揮するので、それも聴きに行った。

それでも、ブルックナー好きの人たちが熱く語ってくれるブルックナーの良さを感じとれなかった。
その後も、ブルックナーのディスクも買わなかったわけではない。
他の作曲家に較べて買う枚数はぐんと少ないものの、買っては聴いていた。

そうやって歳もとっていった。
それでブルックナーの良さがわかるようになったかといえば、
ほとんど25のときと変っていない。

50になって、もうこのままブルックナーに夢中になることはないまま終るのか、ともおもう。
ここ数年、ブルックナーの新盤への興味もほぼ失いかけていた。
それでもいいかと思いつつも、ふと気づいた。
そういえば、バーンスタインのブルックナーはまだ一度も聴いていないことに。

バーンスタインのブルックナーの録音はあるのか調べてみると、
1990年にウィーンフィルハーモニーとのライヴ録音がいまも入手できる。

1990年はバーンスタインの最後の年だ。
このときウィーンフィルハーモニーを振ってのブルックナーである。

もしかすると、この演奏によってブルックナーへの認識を新たにするかもしれない。
変らないかもしれない。
バーンスタインの、このブルックナーだけはこれからも聴いていくことになるかもしれない。

どうなるかなんて、まったくわからない。
とにかく、できるだけ早く聴いてみることにしよう。

Date: 10月 19th, 2012
Cate: Leonard Bernstein

バーンスタインのベートーヴェン全集(続々・1990年10月14日)

コロムビアに、あれだけの録音を残しているバーンスタインなのに、
モーツァルトのレクィエムだけは残していない。

ドイツ・グラモフォンでの、1988年7月のライヴ録音が、バーンスタインの初録音ということになる。
すこし意外な気もする。
いままでモーツァルトのレクィエムを演奏してなかった、ということはないと思う。
なのに録音は残していない。

1988年7月のコンサートは、愛妻フェリチア没後10年ということによるもの。
それが録音として残され、CDになっている。

1988年7月ということは、バーンスタインは70の誕生日まであと2ヵ月という年齢。
バーンスタインが、このときどう思っていたかは、まったくわからない。
けれど、レクィエムの再録音をすることはない、と思っていたのではなかろうか。

録音して残す、最初で最後のモーツァルトのレクィエムを、
バーンスタインは、そういう演奏をしている。
だから聴き終ると、ついあれこれおもってしまう。

当っていることもあればそうでないこともあるだろう。
でもどれが当っているかなんて、わからない。
それでも、おもう。

おもうことのひとつに、こういうバーンスタインの表現は、いまどう受けとめられているのだろうか、
そして、バーンスタインの演奏をしっかりと鳴らしてくれるスピーカーシステムが、
現代のスピーカーの中に、いったいどれだけあるんだろうか、ということがある。

Date: 10月 18th, 2012
Cate: Leonard Bernstein

バーンスタインのベートーヴェン全集(続・1990年10月14日)

昨夜遅く、といっても正確には今日の午前2時すこし前という時間に、
バーンスタインのモーツァルトのレクィエムを、ひっそりと聴いていた。

スピーカーは、テクニクスの30年以上前の古いモノ。
ヘッドフォンの駆動部をアルミ製のエンクロージュアに収めたモノといったほうがいいSB-F01で聴いていた。

このSB-F01は目の前30cmほどのところに置いている。
もともと大きな音量で聴くためのスピーカーではないから、
このくらいで距離で聴いたときに、このスピーカーの良さは活きてくる。

遮音に優れたところに住んでいるわけではないから、
こんな時間に音楽をスピーカーから聴くには音量を絞らざるをえない。

こういう聴き方もいい。

音量と音像と距離、
この3つのパラメータの関係は、
使っているスピーカー、鳴らしている部屋、聴く音楽、聴く音量によって、
じつにいくつもの組合せがあって、どれが正解とはいえないおもしろさがある。

同じ音量で鳴らしていても距離をとった聴き方とスピーカーにぐんと近づいた聴き方では、
音楽の印象も少なからず変ってくるところがある。

SB-F01による音像は小さい。
その小さな音像を、すこし上から見下ろすように聴いていた。

ひっそりとした音量、小さな音像とは、
およそ似合わない、といいたくなるバーンスタインによるレクィエム。

ここでもバーンスタインはかなり遅めのテンポで劇的なレクィエム、荘厳なレクィエムを表出させている。
これもまた執拗といっていい、そういうレクィエムだと思う。

Date: 10月 14th, 2012
Cate: Leonard Bernstein

バーンスタインのベートーヴェン全集(1990年10月14日)

1990年夏の終りに左膝を骨折して10月10日に退院して、それからリハビリ通いしていた。
バーンスタインが亡くなったのを知ったのも、
病院の待合室に置かれているテレビから流れてくるニュースによってだった。
ニューヨークで亡くなっているから時差を考えると、15日のニュースだったのだろう。

リハビリに通う以外は何もしていなかったころである。
新聞もとってなかったし、テレビはもうずっと所有していなかったから、
病院に通っていなかったら、バーンスタインの死をしばらく知らなかったことかもしれない。
リハビリは想像していた以上に痛かったけれど、
リハビリに通っていたおかげで知ることができた、ともいる。

テレビを見ていたわけではない。
どこか違うところを眺めていたら、バーンスタインという単語だけが耳にはいってきた。
へぇー、珍しいこともあるんだな、とテレビの方を向くと、亡くなったことを知らせていた。

1980年代の後半、現役の指揮者で夢中になって聴いていた指揮者のひとりがバーンスタインだった。
コロムビア時代の録音にはそれほど関心はなかったのに、
ウィーン・フィルハーモニーとのブラームスあたりからバーンスタインに夢中になっていた。

ドイツ・グラモフォンからは次々と新譜がでていた。
フィリップスからもトリスタンとイゾルデが出た。

バーンスタインは1918年生れだから、このころは70になる、ほんの少し前。
こんなにも精力的に録音をこなしていくバーンスタインの演奏は、
若い頃のコロムビア時代の録音と比較して、執拗さが際立っていた。

マーラーはコロムビアとドイツ・グラモフォンの両方に録音を残している。
ずいぶん違う。
どちらが好きなのかは人によって違うもの。

歳のせいか、ドイツ・グラモフォンの再録は聴いていてしんどくなる……、
そんなことも耳にする。
たしかに、ワーグナーのトリスタンとイゾルデもそうだったけれど、
マーラーもしんどくなるほどの執拗さと情念が、渦巻いていると表現したくなるほど、だが、
このころのバーンスタインよりも歳が上の聴き手がそういうことをいうのは、
そうかもしれないと納得できるけれど、
すくなくともこのころのバーンスタインよりも、
まだ若い聴き手が、そんなことを口にして敬遠しているのは、
音楽の聴き方は聴き手の自由とはいうものの、少し情けなくはないだろうか。

執拗ではある、けれど決して鈍重ではないバーンスタインのワーグナーやマーラーを聴いていた、
そのころは私は、バーンスタインに録音してほしい曲がいくつもあった。

いまのバーンスタインだったら……、そんなことを思いながら、
バーンスタイン関係の録音のニュースをいつも期待して待っていた。

それが、この日のニュースによって、すべてすーっと心の中から消えていってしまった。

マタイ受難曲をもういちど録音してほしかった……。