オーディオへの献身(その2)
(その1)を公開しえ、わりとすぐに答といえるものは出た。
答になっていないと受け止められるだろうが、その行為が美しいのであれば、「オーディオへの献身」といえる、という、いまのところの答だ。
(その1)を公開しえ、わりとすぐに答といえるものは出た。
答になっていないと受け止められるだろうが、その行為が美しいのであれば、「オーディオへの献身」といえる、という、いまのところの答だ。
オーディオへの献身。
先ほど思いついたばかりのタイトルでしかなく、何を書いていこうかと決まっているわけではない。
何か書けそうな感じがしているだけで、それでは「オーディオへの献身」とは、具体的にどういうことなのか。
おそろしく高額になっていっているハイエンドオーディオ機器を購入することも、オーディオへの献身かもしれないし、
そういったハイエンドオーディオ機器ではなくとも、スピーカーシステムやアンプを何組も所有していることも、そういえるかもしれない。
誰かに、自身の音を聴かせることも、誰かのリスニングルームに行って音を聴いてくることも、そうかもしれない。
昔、ステレオサウンドにいたころ、ステレオサウンドはオーディオのバイブルと、編集部宛に手紙を書いてきた読者がいた。
そういう人にとっては、バイブルと思えるオーディオ雑誌を隅から隅まで読むことも、そうかもしれない。
オーディオに関するウェブサイトやブログを作って公開すること、ソーシャルメディアで何かを発信することも、おそらくそうだろう。
こんなふうに書いていくと、あれもこれもとなっていく。でも、これこそが、と思えるわけではない。
「オーディオへの献身」とは、なんなのだろうか。
何かを教わることの恍惚感。
スピーカーを通して音楽を聴く行為、それを長いこと続けられるのは、何かを教わることの恍惚感があったことだろう。
それは教わるでもあり、学ぶでもあり、
新たな景色に触れる歓びなのかもしれない。
知らなかった扉が開く。
その扉は、ずっと目の前にあったにも関わらず、それまで気づかずにいた。
そういう扉が開く瞬間に訪れるのが恍惚感なのか。
この恍惚感なしに教養が身につくことはないだろう。
音楽の知識が豊富な人、オーディオの知識が豊富な人は意外と多かったりする。
キャリアが長いから、知識が豊富とは限らないのだが、それでも豊富な人はけっこういるものだ。
けれどそれらの人全員が、音楽の教養がある、オーディオの教養がある、と感じさせるわけではない。
むしろ教養があるな、と感じさせる人は、かなり少ないと感じている。
知識だけはあるのに教養はない──、とでも言ったらいいのか。
以前どこかで目にしたのは、知識だけではだめで、愛があってこそ教養となる、というものだった。
検索してみると、愛を経てこそ、愛を触媒として、が表示される。
誰が言い出したことなのかは知らない。
それはどうでもいいことで、知識が豊富でも教養がない人は、確かに愛が欠けている人といえよう。
反論があるのはわかっている。
オーディオ愛なんて言っていて恥ずかしくないのか、そんなことを言う人もいる。
オーディオに教養? という人もいよう。
そういう時代なのか。
(その28)で、
腐らないために必要なことは、才能とか自信とかではなく、
結局、覚悟のみだと思う。
覚悟を持って立つことだけが、腐らずにオーディオをやっていける、
と書いた。
腐らないにこしたことはないが、それでも腐ることはあるだろう。
腐ってしまったら、腐ったところを切り捨てるしかないだろう。ここでも切り捨てる覚悟が必要となる。
オーディオにおいて切り捨てるとは、どういうことなのか、それを考えることからも目を逸らしてしまうのもいいだろう。
趣味だから──、と覚悟なしにやっていけばいいだけのことだ。
そのこともまた「音は人なり」なのだから。
「趣味なんだから」、
これに続くことばは、人によってずいぶん違う。
昔から、楽しむことと楽をすることは違う、と言われてきている。
どちらも「楽」という漢字であっても、違う。
これも人によっては、同じと捉えている。
その人は「趣味なんだから」に続くことばとして、
どんなことを言うのだろうか。
楽しむを拡充していくには、積み木を一つひとつ積み上げていく地道なことが求められる。
それは才能だけでは、どうにもならないことでもある。
最近になって、楽しむために積み木を積み上げてきた人と、
楽をしてきただけの人が、なんとなくだが見分けられるようになってきた。
口では何とでも言える。
けれど積み上げてきた(きている)人とそうでない人は、
同じことを言っていたとしても、何かが違う。
楽をするのはいい。
けれど、それは楽しむこととは、違う。
五年前の(その16)で、
イェーツの“In Dreams Begin Responsibilities”を引用している。
いくつかの訳がある。
どれが、いまの自分にとってしっくりくるのか、
ずしっとしたものを感じるとか、
それは人によって違ってきて当然である。
“In Dreams Begin Responsibilities”、
これ自体に何も感じない人もいても不思議ではない。
そのくらい、人はさまざまである。
それでも、再び“In Dreams Begin Responsibilities”を引用しておきたい。
別項で、屋上屋を架すとしか言いようのない音を出す人がいる、と書いている。
どうして、そんな音しか出せないのか。
そのことについて考えると、耳の記憶という積み木を、
彼らは積み重ねていくことができないのだろう、という結論が、
いまのところ見えてくる。
積み木を積むのに、接着剤とか釘、ボルト、ナットなどを使って、
積み木を一つずつを固定しながらやっていくのではない。
慎重に確実に積み上げていくしかない。
屋上屋を架す音しか出せない人は、ただ勢いだけで積み木を積んでいくのだろう。
基礎をしっかりした上で、ということをやらないのではないのか。
ただただ積んでいく。
それでもある程度の高さまではいける。
でも、所詮はそこまでだ。
きっと彼らには、その積み木が、耳の記憶だという認識もないのだろう。
腐らないために必要なことは、才能とか自信とかではなく、
結局、覚悟のみだと思う。
覚悟を持って立つことだけが、腐らずにオーディオをやっていける。
どこまでいっても「音は人なり」なのだから、
オーディオにおいて大事なことは、腐らないことだ。
才能がない、とか、周りの環境が……とか、時代が違えば……とか、
腐りたければいくらでも、そんなことを言って腐ることができる。
腐ってしまえば、音もそうなってしまう。
だから、絶対に腐ってはいけない。
傷ついた自尊心をどうするか。
傷ついたのではなく、心ない言葉によって傷つけられた──、
本人はそう思っているかもしれないが、
とにかく傷が入ってしまった自尊心は、自ら毀すしかない。
いいきっかけではないか。
私は、そう思う人間だ。
オーディオマニア全員が、そうである必要はない。
傷ついた自尊心を、優しく優しく修復するのもいいし、
自尊心が傷つけられた者同士、傷を舐め合うのもいい。
それらをひっくるめての「音は人なり」なのだから。
自尊心は傷つきやすい。
オーディオマニアの自尊心は、ほんとうにちょっとしたことでも傷つくようだ。
助言や指摘でも傷つく。
批判された、攻撃された、と思うようだ。
だから言う。誇りがないからだ、と。
自尊心だけで、オーディオマニアとしての誇りがどこにもないからだ。
誇りは強い。
自尊心とは違う。
人の裡には、さまざまな「ろくでなし」がある。
嫉妬、みえ、弱さ、未熟さ、偏狭さ、愚かさ、狡さ……。
それらから目を逸らしても、音は、だまって語る。
音の未熟さは、畢竟、己の未熟さにほかならない。
音が語っていることに気がつくことが、誰にでもあるはずだ。
そのとき、対決せずにやりすごしてしまうこともできるだろう。
そうやって、ごまかしを増やしていけば、
「ろくでなし」はいいわけをかさね、耳を知らず知らずのうちに塞いでいっている。
この「複雑な幼稚性」から解放されるには、対決していくしかない。
2009年に書いていることを、引用した。
ひどい音しか出せない時、どうするのか。
ひたすら聴くしかない。
その場から逃げてはダメだ。
この当たり前のことが通じなくなっている。
耳の記憶の集積こそが、オーディオだと(その1)で書いている。
別項で、自己模倣でしかオーディオをやれていない人がいることを書いている。
この二つのことは深く関係しているのか。
自己模倣でしかオーディオをやれていない人は、耳の記憶の集積がないのか。
上書きしかできないから、自己模倣という罠に囚われるのか。
こんなことを考えるのは、最近、いくつかのことがあったからだ。
屋上屋を架したような音を出していた人と、
その音を聴いて私が思い出した人には、どんな共通するところがあるのか。
何もなければ、その人のことを思い出したりはしなかったはず。
まず浮かんだのは、低音の鳴り方だ。
誰かの音を聴いて、音は人なりと感じるところは、
時として低音だったりする。
低音の鳴り方(鳴らし方)に、その人となりの全てがあらわれる──、
とまではもちろん言わないけれど、
それでも低音からはかなり色濃くその人となりが聴こえてくる、と言っても、大きく外れはしない。
屋上屋を架した人と、その人の音を聴いて思い出した人の低音は、
よく似ていた。これを書きながら、確かにそうだとひとり頷くほどに似ている、
というよりも本質的に同じとまで言いたくなる。
この二人は、どうして、こういう低音を鳴らすのか、
こういう低音にしてしまうのか。
そのことを考えていると、
別項のテーマである「複雑な幼稚性」に思い至る。