Archive for category 「オーディオ」考

Date: 3月 3rd, 2024
Cate: 「オーディオ」考

オーディオの罠(その9)

好きという感情は、オーディオという趣味において最も尊いものなのか。

そのとおりだ、と答える人がどのくらいいるのか。
ソーシャルメディアを眺めていると、こちらのほうが多数派のように感じることもある。

そんなことを以前、別項で書いている。

オーディオの罠について考えていると、このこともそうだと思うだけだ。
その結果、耳に近い音だけを求めてしまうようになるだけなのかも。

Date: 3月 2nd, 2024
Cate: 「オーディオ」考

オーディオの罠(その8)

別項で、
覚悟なしな人は、自分のヘソだけを見つめていればいい、と書いた。

心を塞いで、キズつくことを極度に怖れて、自分のヘソだけを見つめている。

これはオーディオの罠なのだろうか。
私は違うと考えている。

他の人はどうおもっているのかは知らないけれども。

Date: 2月 29th, 2024
Cate: 「オーディオ」考, モーツァルト

artificial mozart

2006年、金沢に向う電車の車内広告に、目的地であった21世紀美術館の広告があった。
そこには、artificial heartの文字があった。
artificialのart、heartのartのところにはアンダーラインがあった。

artificial heartは、artで始まりartで終ることを、この時の広告は提示していた。
この時の目的地であった21世紀美術館では川崎先生の個展が開かれようとしていた。

2015年12月に「eとhのあいだにあるもの(その5)」の冒頭に、そう書いている。

artificial heartを見て以来、artで始まりartで終るものには、
他に何があるのかを、あれこれ考えていた。

あるとき、これもartで始まりartで終ると気づいた。

artificial mozart。
アーティフィシャル・モーツァルト。

そのころはただ思いついただけだったけれど、
ここ数年、artificial mozartは私にとって、別の意味ももつようになってきている。

Date: 2月 19th, 2024
Cate: 「オーディオ」考

オーディオの罠(その7)

《憧憬の念のうちに、実は少しずつ音は美化され理想化されているらしい》、
五味先生がそう書かれている。

五味先生だけに限らない、同じことを何人もの方が書いてこられてきた。

だから、頭では、そのことはわかっている。
わかりすぎている、ともいっていい。

それでも若いころ、憧れのオーディオ機器が一つ二つは、
どんなに人にもあったはずだ。
そんな数では足りない、という人もいる。

憧れのオーディオ機器。
しかも、その音を聴く機会がなかったオーディオ機器ほど、
それへの憧れは大きく増していく。

ずいぶんと年月が経って、憧れのオーディオ機器との出合いがあったりする。
昔とは違う。ポンと買えるだけの経済力もある。
ようやく憧れのオーディオ機器が手元に来た。念願かなってだ。

その喜びは、本人にしかわからないはずだ。

問題はここからだ。
冷静に音を聴ける人もいるし、ずっと憧れのままで聴く人もいる。
失望を味わう人もいるし、ずっと喜んでいられる人もいる。

思うのは、後者のオーディオマニアは、オーディオの罠におちているのかだ。

Date: 2月 16th, 2024
Cate: 「オーディオ」考

オーディオの罠(その6)

以前別項で書いたことを思い出している。
こんなことを書いた。

己の知識から曖昧さを、できるだけなくしていきたい。
誰もが、そう思っているだろうが、罠も待ち受けている。

曖昧さの排除の、いちぱん楽な方法は、思いこみ、だからだ。
思いこんでしまえれば、もうあとは楽である。
この罠に堕ちてしまえば、楽である……。

このこともオーディオの罠といえるし、
オーディオに限ったことではない。

Date: 2月 16th, 2024
Cate: 「オーディオ」考

耳の記憶の集積こそが……(その7)

耳の記憶の集積こそが、オーディオである──、
なのだから、過去を物語として語れない時点で、
その人はオーディオを語れない、ともいえる。

Date: 6月 21st, 2023
Cate: 「オーディオ」考

時代の軽量化(その21)

オーディオに限らず、どの分野、とくに趣味の世界では、
自称オーソリティがすくなからずいる。

他称オーソリティももちろんいるのだけれど、
その他称オーソリティのなかには、自称オーソリティが認めるオーソリティだったりして、
実のところ、自称オーソリティとなんらかわらないだけの、あやしいオーソリティだったりする。

そんなふうに感じているのは私ぐらいのものか、と思っていたら、
そうではなかった。

やっぱりそうなんだなぁ……、とおもうしかない。

自称オーソリティの周りには、類は友を呼ぶわけだから、
同じ人たちが集まって、互いに、あの人はオーディオのオーソリティですから、と呼ぶ。

そういう時代である。

Date: 6月 2nd, 2023
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その21)

その19)、(その20)で、
ステレオサウンド・グランプリの次の選考委員長は誰なのかについて、すこしばかり書いている。

(その19)と(その20)を書いたのは2020年9月。
三年前に書いていることの続きを、いま書いているのは、
昨日発売になったステレオサウンド 227号に、柳沢功力氏の名前がないからだ。

3月発売の226号にも、柳沢功力氏の名前はなかった。

今年12月発売の229号でのステレオサウンド・グランプリの選考委員に、
柳沢功力氏の名前はないかもしれない。

そうなった場合、次の選考委員長は誰になるのだろうか。
そして、誰か一人、選考委員に新たに加わるのだろうか。
それは誰なのだろうか。

Date: 1月 17th, 2023
Cate: 「オーディオ」考

オーディオの罠(その5)

続・再生音とは……(その33)」で、
自己模倣という純化の沼にはまってしまったら、
永遠に花を咲かすことはできない、と書いた。

自己模倣という純化の沼にはまってしまった人は、つぼみのままの音を聴き続ける。
音という花を咲かせることはできない。
そのこと、書いた二年前よりも、強く感じるようになってきているし、
つぼみのままの音を愛でることから脱却できない人は、
たがやさせない人でもある。

これも以前書いていることなのだが、
たがやすは、cultivateである。
cultivateには、
〈才能·品性·習慣などを〉養う、磨く、洗練する、
〈印象を〉築く、創り出す、
という意味もある。

Date: 1月 14th, 2023
Cate: 「オーディオ」考

オーディオの罠(その4)

自己模倣という純化の沼のこわいところは、
本人だけが気づかぬまに、
憧れがたてまえの憧れとなってしまうことだ。

そして、そうなってしまった憧れは、憧れがもつ本来の精気、輝きを失う。

Date: 1月 8th, 2023
Cate: 「オーディオ」考

潰えさろうとするものの所在(その3)

五年前に、別項「続・再生音とは……(続その12に対して……)」で、
AIとは、artificial intelligenceだけではなく、
auto intelligenceなのかもしれない、と思うようにもなってきた、と書いたことを、
このテーマの続きを書こうとしたら思い出した。

Date: 1月 6th, 2023
Cate: 「オーディオ」考

時代の軽量化(その20)

オーディオマニアが、
オーディオマニアとしての役目、役割をまったく考えなくなったとしたら、
それは、やはり時代の軽量化なのだろう。

実際のところ、どうなのだろう?
オーディオマニアとしての役目、役割──、
そんなこと、自分には無関係という人の方が多いのだとしたら……。

Date: 12月 3rd, 2022
Cate: 「オーディオ」考

デコラゆえの陶冶(とTroubadour 40)

デッカ・デコラも、終のスピーカーなのか、と考えたことがないわけではない。
それでもデコラは、私にとってスピーカーシステムとしての存在ではなく、
別の存在としてのモノであって、デコラは少なくとも私にとって終のスピーカーとはいえない。

いつかはデコラ、という気持は持ち続けている。
なのに終のスピーカーといえない気持は、いまのところ自分でもうまく説明できない。

それでもおもっていることはある。
もし、デコラに匹敵する存在のモノをつくれ、といわれたならば、
スピーカーに関しては、Troubadour 40を選択する。

デコラと同じように、複数のトゥイーターを角度をつけて配置するという方法も考えるが、
それではオリジナルのデコラを超えること(肩を並べること)はできないように考えるからだ。

全体のデザインはほとんどなにも考えていないのだが、
それでもスピーカーの中心となるのはTroubadour 40(DDD型ユニット)しかない。

Date: 10月 23rd, 2022
Cate: 「オーディオ」考

耳の記憶の集積こそが……(その6)

耳の記憶の集積こそが、オーディオである──、
私はそう考えている人間だから、
オーディオにおける快感か幸福かについても、
耳の記憶の集積によって、大きく左右される、とうけとめている。

Date: 8月 25th, 2022
Cate: 「オーディオ」考

耳の記憶の集積こそが……(その5)

耳の記憶の集積こそが、オーディオである──、
その1)で書いている。

そのまま、もう一度書いておく。
この大事なことを抜きにして、オーディオについて語り合うことはできない。