オーディオへの献身(その3)
二日前に書いた『「音は人なり」を、いまいちど考える(その30)』は、「オーディオへの献身」を考えてのことだと、さっき気づいた。
二日前に書いた『「音は人なり」を、いまいちど考える(その30)』は、「オーディオへの献身」を考えてのことだと、さっき気づいた。
五年前に、別項で書いたことを思い出している。
2008年だったか。
菅野先生が「痴呆症になった時の音に興味がある」といわれた。
老人性痴呆症になったときに、自分はどういう音を出すのか。それにいちばん興味がある、ということを話された。
痴呆症になってしまったら、音の判断もできなくなるだろうから、実際には無理な話だからこそ、この時の菅野先生の話は、いまも思い出しては、考えてしまう。
「音は人なり」という。
何度も、私自身、そのことについて書いてきている。「音は人なり」は、いろんな面を持っている。
時に「音は人なり」は、押しつけになってしまわないだろうか。
オーディオの勉強をして、いろんな音を聴いて、いろんな工夫をして音を出していく。
お金の工面もして、高価なオーディオ機器も手に入れたりする。
そういう行為を、何十年も重ねていけば、
経験が、知識が、ノウハウが、その人のなかに積み上っていくし、オーディオ機器もより良いモノへとなっていく。
でも、それは極まった、といえるのだろうか。
極まった時、「音は人なり」という押しつけは消えていくのではないだろうか。
五年前に、実のところ、そういったものすべてを捨て去って、つまり空っぽになって出てくる音こそが、ほんとうの「音は人なり」なのではないか、と書いた。
空(カラ)になった音──。
そこでの「音は人なり」もあるのではないか。
押しつけは消え、無私の境地となった音。
そんな音が聴ける日がくるのか、と考え目指すことが、すでにそこから外れていってしまうのかもしれないと思いつつも、
無私こそ「音は人なり」とも思えてしまう。
(その1)を公開して、わりとすぐに答といえるものは出た。
答になっていないと受け止められるだろうが、その行為が美しいのであれば、「オーディオへの献身」といえる、という、いまのところの答だ。
オーディオへの献身。
先ほど思いついたばかりのタイトルでしかなく、何を書いていこうかと決まっているわけではない。
何か書けそうな感じがしているだけで、それでは「オーディオへの献身」とは、具体的にどういうことなのか。
おそろしく高額になっていっているハイエンドオーディオ機器を購入することも、オーディオへの献身かもしれないし、
そういったハイエンドオーディオ機器ではなくとも、スピーカーシステムやアンプを何組も所有していることも、そういえるかもしれない。
誰かに、自身の音を聴かせることも、誰かのリスニングルームに行って音を聴いてくることも、そうかもしれない。
昔、ステレオサウンドにいたころ、ステレオサウンドはオーディオのバイブルと、編集部宛に手紙を書いてきた読者がいた。
そういう人にとっては、バイブルと思えるオーディオ雑誌を隅から隅まで読むことも、そうかもしれない。
オーディオに関するウェブサイトやブログを作って公開すること、ソーシャルメディアで何かを発信することも、おそらくそうだろう。
こんなふうに書いていくと、あれもこれもとなっていく。でも、これこそが、と思えるわけではない。
「オーディオへの献身」とは、なんなのだろうか。
何かを教わることの恍惚感。
スピーカーを通して音楽を聴く行為、それを長いこと続けられるのは、何かを教わることの恍惚感があったことだろう。
それは教わるでもあり、学ぶでもあり、
新たな景色に触れる歓びなのかもしれない。
知らなかった扉が開く。
その扉は、ずっと目の前にあったにも関わらず、それまで気づかずにいた。
そういう扉が開く瞬間に訪れるのが恍惚感なのか。
この恍惚感なしに教養が身につくことはないだろう。
音楽の知識が豊富な人、オーディオの知識が豊富な人は意外と多かったりする。
キャリアが長いから、知識が豊富とは限らないのだが、それでも豊富な人はけっこういるものだ。
けれどそれらの人全員が、音楽の教養がある、オーディオの教養がある、と感じさせるわけではない。
むしろ教養があるな、と感じさせる人は、かなり少ないと感じている。
知識だけはあるのに教養はない──、とでも言ったらいいのか。
以前どこかで目にしたのは、知識だけではだめで、愛があってこそ教養となる、というものだった。
検索してみると、愛を経てこそ、愛を触媒として、が表示される。
誰が言い出したことなのかは知らない。
それはどうでもいいことで、知識が豊富でも教養がない人は、確かに愛が欠けている人といえよう。
反論があるのはわかっている。
オーディオ愛なんて言っていて恥ずかしくないのか、そんなことを言う人もいる。
オーディオに教養? という人もいよう。
そういう時代なのか。
(その28)で、
腐らないために必要なことは、才能とか自信とかではなく、
結局、覚悟のみだと思う。
覚悟を持って立つことだけが、腐らずにオーディオをやっていける、
と書いた。
腐らないにこしたことはないが、それでも腐ることはあるだろう。
腐ってしまったら、腐ったところを切り捨てるしかないだろう。ここでも切り捨てる覚悟が必要となる。
オーディオにおいて切り捨てるとは、どういうことなのか、それを考えることからも目を逸らしてしまうのもいいだろう。
趣味だから──、と覚悟なしにやっていけばいいだけのことだ。
そのこともまた「音は人なり」なのだから。
「趣味なんだから」、
これに続くことばは、人によってずいぶん違う。
昔から、楽しむことと楽をすることは違う、と言われてきている。
どちらも「楽」という漢字であっても、違う。
これも人によっては、同じと捉えている。
その人は「趣味なんだから」に続くことばとして、
どんなことを言うのだろうか。
楽しむを拡充していくには、積み木を一つひとつ積み上げていく地道なことが求められる。
それは才能だけでは、どうにもならないことでもある。
最近になって、楽しむために積み木を積み上げてきた人と、
楽をしてきただけの人が、なんとなくだが見分けられるようになってきた。
口では何とでも言える。
けれど積み上げてきた(きている)人とそうでない人は、
同じことを言っていたとしても、何かが違う。
楽をするのはいい。
けれど、それは楽しむこととは、違う。
五年前の(その16)で、
イェーツの“In Dreams Begin Responsibilities”を引用している。
いくつかの訳がある。
どれが、いまの自分にとってしっくりくるのか、
ずしっとしたものを感じるとか、
それは人によって違ってきて当然である。
“In Dreams Begin Responsibilities”、
これ自体に何も感じない人もいても不思議ではない。
そのくらい、人はさまざまである。
それでも、再び“In Dreams Begin Responsibilities”を引用しておきたい。
別項で、屋上屋を架すとしか言いようのない音を出す人がいる、と書いている。
どうして、そんな音しか出せないのか。
そのことについて考えると、耳の記憶という積み木を、
彼らは積み重ねていくことができないのだろう、という結論が、
いまのところ見えてくる。
積み木を積むのに、接着剤とか釘、ボルト、ナットなどを使って、
積み木を一つずつを固定しながらやっていくのではない。
慎重に確実に積み上げていくしかない。
屋上屋を架す音しか出せない人は、ただ勢いだけで積み木を積んでいくのだろう。
基礎をしっかりした上で、ということをやらないのではないのか。
ただただ積んでいく。
それでもある程度の高さまではいける。
でも、所詮はそこまでだ。
きっと彼らには、その積み木が、耳の記憶だという認識もないのだろう。
腐らないために必要なことは、才能とか自信とかではなく、
結局、覚悟のみだと思う。
覚悟を持って立つことだけが、腐らずにオーディオをやっていける。
どこまでいっても「音は人なり」なのだから、
オーディオにおいて大事なことは、腐らないことだ。
才能がない、とか、周りの環境が……とか、時代が違えば……とか、
腐りたければいくらでも、そんなことを言って腐ることができる。
腐ってしまえば、音もそうなってしまう。
だから、絶対に腐ってはいけない。
傷ついた自尊心をどうするか。
傷ついたのではなく、心ない言葉によって傷つけられた──、
本人はそう思っているかもしれないが、
とにかく傷が入ってしまった自尊心は、自ら毀すしかない。
いいきっかけではないか。
私は、そう思う人間だ。
オーディオマニア全員が、そうである必要はない。
傷ついた自尊心を、優しく優しく修復するのもいいし、
自尊心が傷つけられた者同士、傷を舐め合うのもいい。
それらをひっくるめての「音は人なり」なのだから。
自尊心は傷つきやすい。
オーディオマニアの自尊心は、ほんとうにちょっとしたことでも傷つくようだ。
助言や指摘でも傷つく。
批判された、攻撃された、と思うようだ。
だから言う。誇りがないからだ、と。
自尊心だけで、オーディオマニアとしての誇りがどこにもないからだ。
誇りは強い。
自尊心とは違う。
人の裡には、さまざまな「ろくでなし」がある。
嫉妬、みえ、弱さ、未熟さ、偏狭さ、愚かさ、狡さ……。
それらから目を逸らしても、音は、だまって語る。
音の未熟さは、畢竟、己の未熟さにほかならない。
音が語っていることに気がつくことが、誰にでもあるはずだ。
そのとき、対決せずにやりすごしてしまうこともできるだろう。
そうやって、ごまかしを増やしていけば、
「ろくでなし」はいいわけをかさね、耳を知らず知らずのうちに塞いでいっている。
この「複雑な幼稚性」から解放されるには、対決していくしかない。
2009年に書いていることを、引用した。
ひどい音しか出せない時、どうするのか。
ひたすら聴くしかない。
その場から逃げてはダメだ。
この当たり前のことが通じなくなっている。