「音は人なり」を、いまいちど考える(その26)
傷ついた自尊心をどうするか。
傷ついたのではなく、心ない言葉によって傷つけられた──、
本人はそう思っているかもしれないが、
とにかく傷が入ってしまった自尊心は、自ら毀すしかない。
いいきっかけではないか。
私は、そう思う人間だ。
オーディオマニア全員が、そうである必要はない。
傷ついた自尊心を、優しく優しく修復するのもいいし、
自尊心が傷つけられた者同士、傷を舐め合うのもいい。
それらをひっくるめての「音は人なり」なのだから。
傷ついた自尊心をどうするか。
傷ついたのではなく、心ない言葉によって傷つけられた──、
本人はそう思っているかもしれないが、
とにかく傷が入ってしまった自尊心は、自ら毀すしかない。
いいきっかけではないか。
私は、そう思う人間だ。
オーディオマニア全員が、そうである必要はない。
傷ついた自尊心を、優しく優しく修復するのもいいし、
自尊心が傷つけられた者同士、傷を舐め合うのもいい。
それらをひっくるめての「音は人なり」なのだから。
自尊心は傷つきやすい。
オーディオマニアの自尊心は、ほんとうにちょっとしたことでも傷つくようだ。
助言や指摘でも傷つく。
批判された、攻撃された、と思うようだ。
だから言う。誇りがないからだ、と。
自尊心だけで、オーディオマニアとしての誇りがどこにもないからだ。
誇りは強い。
自尊心とは違う。
人の裡には、さまざまな「ろくでなし」がある。
嫉妬、みえ、弱さ、未熟さ、偏狭さ、愚かさ、狡さ……。
それらから目を逸らしても、音は、だまって語る。
音の未熟さは、畢竟、己の未熟さにほかならない。
音が語っていることに気がつくことが、誰にでもあるはずだ。
そのとき、対決せずにやりすごしてしまうこともできるだろう。
そうやって、ごまかしを増やしていけば、
「ろくでなし」はいいわけをかさね、耳を知らず知らずのうちに塞いでいっている。
この「複雑な幼稚性」から解放されるには、対決していくしかない。
2009年に書いていることを、引用した。
ひどい音しか出せない時、どうするのか。
ひたすら聴くしかない。
その場から逃げてはダメだ。
この当たり前のことが通じなくなっている。
耳の記憶の集積こそが、オーディオだと(その1)で書いている。
別項で、自己模倣でしかオーディオをやれていない人がいることを書いている。
この二つのことは深く関係しているのか。
自己模倣でしかオーディオをやれていない人は、耳の記憶の集積がないのか。
上書きしかできないから、自己模倣という罠に囚われるのか。
こんなことを考えるのは、最近、いくつかのことがあったからだ。
屋上屋を架したような音を出していた人と、
その音を聴いて私が思い出した人には、どんな共通するところがあるのか。
何もなければ、その人のことを思い出したりはしなかったはず。
まず浮かんだのは、低音の鳴り方だ。
誰かの音を聴いて、音は人なりと感じるところは、
時として低音だったりする。
低音の鳴り方(鳴らし方)に、その人となりの全てがあらわれる──、
とまではもちろん言わないけれど、
それでも低音からはかなり色濃くその人となりが聴こえてくる、と言っても、大きく外れはしない。
屋上屋を架した人と、その人の音を聴いて思い出した人の低音は、
よく似ていた。これを書きながら、確かにそうだとひとり頷くほどに似ている、
というよりと本質的に同じとまで言いたくなる。
この二人は、どうして、こういう低音を鳴らすのか、
こういう低音にしてしまうのか。
そのことを考えていると、
別項のテーマである「複雑な幼稚性」に思い至る。
数ヵ月前に、ある人がセッティング、チューニングした音を聴いた。
屋上屋を架すとしか言いようのないセッティングだった。
肝心なのは音である。
そういうセッティングでも、出てきた音が素晴らしいのであれば、
または説得力に満ちた音であれば、
そのために必要だったことと受け止めるしかないわけだが、
その時の音は、お世辞にもそうとは言えなかったから、
屋上屋を架した、としか言いようがなかった。
どこかいびつで異様な感じが常に付き纏っていた。
そういう音を迫力があると評価するする人がいるかもしれないが、
私の耳には、どんなディスク(録音)をかけても、ずっと同じ感じ(一本調子)でしか鳴らない音、
そんなふうにしか、感じられなかった。
これも、ある意味、音は人なりだな、思うとともに、
別の人が出していた音を思い出してもいた。
自己模倣というオーディオの罠は、案外心地よいのかもしれない、
そう考えるのは、自己模倣の音は、自己肯定の音でもあるからだろう。
以前、別項で自己肯定の音、自己否定の音ということを少しだけ触れた。
ならば自己模倣の音があるならば、他者模倣の音もあるはずだ。
自己模倣という純化の沼にはまってしまったら、
心に近い音には近づかないだけでなく、
気づきもしないかもしれない。
しかも、自己模倣という罠は、
案外心地よいのかもしれないから、やっかいだと思う。
耳の記憶の集積こそが、音楽に対する「想像と解釈」に深くつながっていく。
2011年2月の第一水曜日から始めたaudio wednesday。
そのころは、audio sharing例会と呼んでいた。
喫茶茶会記の店主、福地さんから、
「オーディオのイベントを定期的に、何かやってほしい」と何回かいわれていた。
といっても、そのころの喫茶茶会記にはアルテックのスピーカーはあったものの、
エンクロージュアはボロボロで、他のユニットの程度もかなりひどかった。
音を鳴らすのは無理という判断で、
とにかくオーディオについて語っていける場としてのaudio sharing例会のスタートだった。
2020年12月まで続けた。
後半の五年間は音を鳴らすことができた。
音を鳴らせるようになって、私がやりたい、と最初に考えたのは、
瀬川先生が、熊本のオーディオ店に定期的に来られていた「オーディオ・ティーチイン」だった。
同じことができればいいな、と思っても、
それをやるにはいろんな協力が必要となるけれど、最初からそのことは諦めていた。
でも、五年間、飽きずに音を鳴らしてきた。
2018年9月5日、メリディアンのULTRA DACを聴くこと(鳴らすこと)ができた。
こんな小人数の集まりに、よく貸し出してくれた──、
しかもその音、特にMQAの音のよさといったら──、
感謝しかない。
他にも書いておきたいことはいくつもあるが、
こうやってふりかえって思うのは、無邪気に音楽(音、オーディオ)を楽しみたい、
それだけのことだ。
そう、モーツァルトがそうであったように、
とにかく音楽を無邪気に楽しむ、
私自身がそうやって楽しむ。
そのためのaudio wednesdayであり、
私のなかでは、artificial mozartへとつながっていくことでもある。
好きという感情は、オーディオという趣味において最も尊いものなのか。
そのとおりだ、と答える人がどのくらいいるのか。
ソーシャルメディアを眺めていると、こちらのほうが多数派のように感じることもある。
そんなことを以前、別項で書いている。
オーディオの罠について考えていると、このこともそうだと思うだけだ。
その結果、耳に近い音だけを求めてしまうようになるだけなのかも。
別項で、
覚悟なしな人は、自分のヘソだけを見つめていればいい、と書いた。
心を塞いで、キズつくことを極度に怖れて、自分のヘソだけを見つめている。
これはオーディオの罠なのだろうか。
私は違うと考えている。
他の人はどうおもっているのかは知らないけれども。
2006年、金沢に向う電車の車内広告に、目的地であった21世紀美術館の広告があった。
そこには、artificial heartの文字があった。
artificialのart、heartのartのところにはアンダーラインがあった。
artificial heartは、artで始まりartで終ることを、この時の広告は提示していた。
この時の目的地であった21世紀美術館では川崎先生の個展が開かれようとしていた。
2015年12月に「eとhのあいだにあるもの(その5)」の冒頭に、そう書いている。
artificial heartを見て以来、artで始まりartで終るものには、
他に何があるのかを、あれこれ考えていた。
あるとき、これもartで始まりartで終ると気づいた。
artificial mozart。
アーティフィシャル・モーツァルト。
そのころはただ思いついただけだったけれど、
ここ数年、artificial mozartは私にとって、別の意味ももつようになってきている。
《憧憬の念のうちに、実は少しずつ音は美化され理想化されているらしい》、
五味先生がそう書かれている。
五味先生だけに限らない、同じことを何人もの方が書いてこられてきた。
だから、頭では、そのことはわかっている。
わかりすぎている、ともいっていい。
それでも若いころ、憧れのオーディオ機器が一つ二つは、
どんなに人にもあったはずだ。
そんな数では足りない、という人もいる。
憧れのオーディオ機器。
しかも、その音を聴く機会がなかったオーディオ機器ほど、
それへの憧れは大きく増していく。
ずいぶんと年月が経って、憧れのオーディオ機器との出合いがあったりする。
昔とは違う。ポンと買えるだけの経済力もある。
ようやく憧れのオーディオ機器が手元に来た。念願かなってだ。
その喜びは、本人にしかわからないはずだ。
問題はここからだ。
冷静に音を聴ける人もいるし、ずっと憧れのままで聴く人もいる。
失望を味わう人もいるし、ずっと喜んでいられる人もいる。
思うのは、後者のオーディオマニアは、オーディオの罠におちているのかだ。
以前別項で書いたことを思い出している。
こんなことを書いた。
己の知識から曖昧さを、できるだけなくしていきたい。
誰もが、そう思っているだろうが、罠も待ち受けている。
曖昧さの排除の、いちぱん楽な方法は、思いこみ、だからだ。
思いこんでしまえれば、もうあとは楽である。
この罠に堕ちてしまえば、楽である……。
このこともオーディオの罠といえるし、
オーディオに限ったことではない。