Archive for category 「オーディオ」考

Date: 8月 26th, 2024
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その26)

傷ついた自尊心をどうするか。
傷ついたのではなく、心ない言葉によって傷つけられた──、
本人はそう思っているかもしれないが、
とにかく傷が入ってしまった自尊心は、自ら毀すしかない。
いいきっかけではないか。
私は、そう思う人間だ。

オーディオマニア全員が、そうである必要はない。
傷ついた自尊心を、優しく優しく修復するのもいいし、
自尊心が傷つけられた者同士、傷を舐め合うのもいい。

それらをひっくるめての「音は人なり」なのだから。

Date: 8月 24th, 2024
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その25)

自尊心は傷つきやすい。
オーディオマニアの自尊心は、ほんとうにちょっとしたことでも傷つくようだ。

助言や指摘でも傷つく。
批判された、攻撃された、と思うようだ。

だから言う。誇りがないからだ、と。
自尊心だけで、オーディオマニアとしての誇りがどこにもないからだ。

誇りは強い。
自尊心とは違う。

Date: 8月 19th, 2024
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その24)

人の裡には、さまざまな「ろくでなし」がある。
嫉妬、みえ、弱さ、未熟さ、偏狭さ、愚かさ、狡さ……。

それらから目を逸らしても、音は、だまって語る。
音の未熟さは、畢竟、己の未熟さにほかならない。

音が語っていることに気がつくことが、誰にでもあるはずだ。
そのとき、対決せずにやりすごしてしまうこともできるだろう。

そうやって、ごまかしを増やしていけば、
「ろくでなし」はいいわけをかさね、耳を知らず知らずのうちに塞いでいっている。

この「複雑な幼稚性」から解放されるには、対決していくしかない。

2009年に書いていることを、引用した。
ひどい音しか出せない時、どうするのか。
ひたすら聴くしかない。

その場から逃げてはダメだ。
この当たり前のことが通じなくなっている。

Date: 8月 11th, 2024
Cate: 「オーディオ」考

耳の記憶の集積こそが……(その9)

耳の記憶の集積こそが、オーディオだと(その1)で書いている。
別項で、自己模倣でしかオーディオをやれていない人がいることを書いている。

この二つのことは深く関係しているのか。

自己模倣でしかオーディオをやれていない人は、耳の記憶の集積がないのか。
上書きしかできないから、自己模倣という罠に囚われるのか。

こんなことを考えるのは、最近、いくつかのことがあったからだ。

Date: 8月 8th, 2024
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その23)

屋上屋を架したような音を出していた人と、
その音を聴いて私が思い出した人には、どんな共通するところがあるのか。

何もなければ、その人のことを思い出したりはしなかったはず。

まず浮かんだのは、低音の鳴り方だ。
誰かの音を聴いて、音は人なりと感じるところは、
時として低音だったりする。

低音の鳴り方(鳴らし方)に、その人となりの全てがあらわれる──、
とまではもちろん言わないけれど、
それでも低音からはかなり色濃くその人となりが聴こえてくる、と言っても、大きく外れはしない。

屋上屋を架した人と、その人の音を聴いて思い出した人の低音は、
よく似ていた。これを書きながら、確かにそうだとひとり頷くほどに似ている、
というよりと本質的に同じとまで言いたくなる。

この二人は、どうして、こういう低音を鳴らすのか、
こういう低音にしてしまうのか。

そのことを考えていると、
別項のテーマである「複雑な幼稚性」に思い至る。

Date: 8月 3rd, 2024
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その22)

数ヵ月前に、ある人がセッティング、チューニングした音を聴いた。
屋上屋を架すとしか言いようのないセッティングだった。

肝心なのは音である。
そういうセッティングでも、出てきた音が素晴らしいのであれば、
または説得力に満ちた音であれば、
そのために必要だったことと受け止めるしかないわけだが、
その時の音は、お世辞にもそうとは言えなかったから、
屋上屋を架した、としか言いようがなかった。

どこかいびつで異様な感じが常に付き纏っていた。
そういう音を迫力があると評価するする人がいるかもしれないが、
私の耳には、どんなディスク(録音)をかけても、ずっと同じ感じ(一本調子)でしか鳴らない音、
そんなふうにしか、感じられなかった。

これも、ある意味、音は人なりだな、思うとともに、
別の人が出していた音を思い出してもいた。

Date: 7月 29th, 2024
Cate: 「オーディオ」考

オーディオの罠(その11)

自己模倣というオーディオの罠は、案外心地よいのかもしれない、
そう考えるのは、自己模倣の音は、自己肯定の音でもあるからだろう。

以前、別項で自己肯定の音、自己否定の音ということを少しだけ触れた。

ならば自己模倣の音があるならば、他者模倣の音もあるはずだ。

Date: 6月 29th, 2024
Cate: 「オーディオ」考

オーディオの罠(その10)

自己模倣という純化の沼にはまってしまったら、
心に近い音には近づかないだけでなく、
気づきもしないかもしれない。

しかも、自己模倣という罠は、
案外心地よいのかもしれないから、やっかいだと思う。

Date: 4月 16th, 2024
Cate: 「オーディオ」考

耳の記憶の集積こそが……(その8)

耳の記憶の集積こそが、音楽に対する「想像と解釈」に深くつながっていく。

artificial mozart(とaudio wednesday)

2011年2月の第一水曜日から始めたaudio wednesday。
そのころは、audio sharing例会と呼んでいた。

喫茶茶会記の店主、福地さんから、
「オーディオのイベントを定期的に、何かやってほしい」と何回かいわれていた。

といっても、そのころの喫茶茶会記にはアルテックのスピーカーはあったものの、
エンクロージュアはボロボロで、他のユニットの程度もかなりひどかった。

音を鳴らすのは無理という判断で、
とにかくオーディオについて語っていける場としてのaudio sharing例会のスタートだった。

2020年12月まで続けた。
後半の五年間は音を鳴らすことができた。

音を鳴らせるようになって、私がやりたい、と最初に考えたのは、
瀬川先生が、熊本のオーディオ店に定期的に来られていた「オーディオ・ティーチイン」だった。
同じことができればいいな、と思っても、
それをやるにはいろんな協力が必要となるけれど、最初からそのことは諦めていた。

でも、五年間、飽きずに音を鳴らしてきた。
2018年9月5日、メリディアンのULTRA DACを聴くこと(鳴らすこと)ができた。
こんな小人数の集まりに、よく貸し出してくれた──、
しかもその音、特にMQAの音のよさといったら──、
感謝しかない。

他にも書いておきたいことはいくつもあるが、
こうやってふりかえって思うのは、無邪気に音楽(音、オーディオ)を楽しみたい、
それだけのことだ。

そう、モーツァルトがそうであったように、
とにかく音楽を無邪気に楽しむ、
私自身がそうやって楽しむ。
そのためのaudio wednesdayであり、
私のなかでは、artificial mozartへとつながっていくことでもある。

Date: 3月 3rd, 2024
Cate: 「オーディオ」考

オーディオの罠(その9)

好きという感情は、オーディオという趣味において最も尊いものなのか。

そのとおりだ、と答える人がどのくらいいるのか。
ソーシャルメディアを眺めていると、こちらのほうが多数派のように感じることもある。

そんなことを以前、別項で書いている。

オーディオの罠について考えていると、このこともそうだと思うだけだ。
その結果、耳に近い音だけを求めてしまうようになるだけなのかも。

Date: 3月 2nd, 2024
Cate: 「オーディオ」考

オーディオの罠(その8)

別項で、
覚悟なしな人は、自分のヘソだけを見つめていればいい、と書いた。

心を塞いで、キズつくことを極度に怖れて、自分のヘソだけを見つめている。

これはオーディオの罠なのだろうか。
私は違うと考えている。

他の人はどうおもっているのかは知らないけれども。

Date: 2月 29th, 2024
Cate: 「オーディオ」考, モーツァルト

artificial mozart

2006年、金沢に向う電車の車内広告に、目的地であった21世紀美術館の広告があった。
そこには、artificial heartの文字があった。
artificialのart、heartのartのところにはアンダーラインがあった。

artificial heartは、artで始まりartで終ることを、この時の広告は提示していた。
この時の目的地であった21世紀美術館では川崎先生の個展が開かれようとしていた。

2015年12月に「eとhのあいだにあるもの(その5)」の冒頭に、そう書いている。

artificial heartを見て以来、artで始まりartで終るものには、
他に何があるのかを、あれこれ考えていた。

あるとき、これもartで始まりartで終ると気づいた。

artificial mozart。
アーティフィシャル・モーツァルト。

そのころはただ思いついただけだったけれど、
ここ数年、artificial mozartは私にとって、別の意味ももつようになってきている。

Date: 2月 19th, 2024
Cate: 「オーディオ」考

オーディオの罠(その7)

《憧憬の念のうちに、実は少しずつ音は美化され理想化されているらしい》、
五味先生がそう書かれている。

五味先生だけに限らない、同じことを何人もの方が書いてこられてきた。

だから、頭では、そのことはわかっている。
わかりすぎている、ともいっていい。

それでも若いころ、憧れのオーディオ機器が一つ二つは、
どんなに人にもあったはずだ。
そんな数では足りない、という人もいる。

憧れのオーディオ機器。
しかも、その音を聴く機会がなかったオーディオ機器ほど、
それへの憧れは大きく増していく。

ずいぶんと年月が経って、憧れのオーディオ機器との出合いがあったりする。
昔とは違う。ポンと買えるだけの経済力もある。
ようやく憧れのオーディオ機器が手元に来た。念願かなってだ。

その喜びは、本人にしかわからないはずだ。

問題はここからだ。
冷静に音を聴ける人もいるし、ずっと憧れのままで聴く人もいる。
失望を味わう人もいるし、ずっと喜んでいられる人もいる。

思うのは、後者のオーディオマニアは、オーディオの罠におちているのかだ。

Date: 2月 16th, 2024
Cate: 「オーディオ」考

オーディオの罠(その6)

以前別項で書いたことを思い出している。
こんなことを書いた。

己の知識から曖昧さを、できるだけなくしていきたい。
誰もが、そう思っているだろうが、罠も待ち受けている。

曖昧さの排除の、いちぱん楽な方法は、思いこみ、だからだ。
思いこんでしまえれば、もうあとは楽である。
この罠に堕ちてしまえば、楽である……。

このこともオーディオの罠といえるし、
オーディオに限ったことではない。