Archive for category 「オーディオ」考

Date: 7月 6th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

豊かになっているのか(その10)

今年のOTOTENに出展していたESD ACOUSTICは、中国の若いメーカーである。

中国は、衣食住足りて、いま文化的なことに目を向けている──、
そういう意見を目にした。
ESD ACOUSTICは、そういう背景から生れたメーカーなのかもしれない。

日本の、1970年代のオーディオブームも、そうだったのかもしれない。
高度成長期を経て、文化的なことに目を向けるようになってのオーディオブームだったのか。

そうともいえるし、
そうだとしたら、衣食住足りて、いま文化的なことに目を向けている」ということでは、
日本と中国も同じなのか、という気もする。

けれど違う背景がある、とも思っている。
決して衣食住足りている、とはいえない時代に、
オーディオに真剣に取り組んでいた人たちが日本にはいた。

五味先生がそうだった。
芥川賞を受賞されるまでのこと、
受賞されてからも、それ以前の生活とたいしてかわらなかったこと、
剣豪小説を書く決心をされるまでのことは、
五味先生の書かれたものを読んできている人ならば知っている。

そうであっても、五味先生は、いい音を求めて続けられていたからこそ、
「オーディオ愛好家の五条件」の一つに、
「金のない口惜しさを痛感していること」を挙げられている。

五味先生だけではない、瀬川先生もそうだ。
ステレオサウンド 62号、63号の記事を読んで、瀬川先生の少年時代の家庭事情を知った。
瀬川先生も「金のない口惜しさを痛感している」人であった(はず)。

衣食住足りなくとも、オーディオに、音に情熱を注いできた人たちがいる。
衣食住足りている時代以前の背景が、
日本と中国とでは違うのではないだろうか。

中国に、五味先生、瀬川先生のような人はいなかったのではないか。
中国だけではない、他の国でもそうなのではないだろうか。

Date: 6月 17th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その12)

別項「変化・進化・純化」で自己模倣と書いた。
古い知人の出していた音を、私は自己模倣と書いた。

自己模倣も「音は人なり」となるのだろう。

さらに「自己模倣という純化の沼」とも書いた。

自己模倣という純化の沼にどっぷり浸っているのが、
いちばん楽なのかもしれない。

しかも周りにはオーディオという泥沼にどっぷりに浸かっていまして……、
そんなことを自虐的に、そして自慢気に話す。

マニアとしてのプライドも保てるのかもしれない。

けれど自己模倣という純化の沼に浸かっていては、
人間的成長からは遠くなっていく。

自己模倣であっても、音は変っていく。
変らないということはない。

けれど、自己模倣はどこまでいっても自己模倣でしかない。
そこでの音の変化も、自己模倣の領域内でのことである。

Date: 6月 6th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その11)

昨晩のaudio wednesdayは、三ヵ月ぶりの標準システムだけによる音出しであった。
4月はメリディアンのULTRA DAC、5月はメリディアンの218を迎えての音出しであった。

マッキントッシュのMCD350、MA7900、それにアルテックを中心としたスピーカー。
今回三ヵ月前と違うのは、電源コードだけである。

しかもMA7900の電源コードは5月にすでに聴いてもらっている。
MCD350の電源コードだけ、3月に聴いてもらったのを長くして、
壁のコンセントから直接とれるようにしただけである。

音の変化は小さくなかった。
私にとってはそうしている範囲でのことであっても、
昨晩来られた方には、かなり大きな変化だったようだ。

ある人から、「変えたの電源コードだけですか」と訊ねられた。
「電源コードは変えたけれど、いちばんの大きな変化は、私の人間的成長です」、
そう返した。

私の答を、また冗談言っている、と受け止められたと思うが、
けっこう本気で言ったことだ。

「音は人なりと昔からいうでしょう」ともつけ加えた。

オーディオで音を変えるのは、特に難しいことではない。
何かを変えれば、音は変化する。
いい方向にも悪い方向にも、音は変化する。

何かを、以前のモノよりせずっと高価なモノに買い替えれば、
音の変化は、決して小さくないはず。

そういう音の変化を楽しむのも、オーディオの楽しみではある。
それでも「音は人なり」である。

結局、音を大きく変化させるのは、鳴らし手の人間的成長である。

Date: 4月 19th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

時代の軽量化(その12)

修羅場の経験を持たぬ者と持つ者の二人がいれば、
その二人がオーディオマニアであるならば、
鍛えられているのは、修羅場の経験を持つ者のはずだ。

オーディオは趣味である。
音楽は嗜好品である。
そこにおいて修羅場とは、なんと大仰な、大袈裟な、といわれようと、
修羅場の経験を持たぬ者と持つ者とは、常にいたはずだ。

けれど、いまでは持たぬ者ばかりになってしまってきているのかもしれない。

オーディオは確かに趣味であるのかもしれない、
音楽には嗜好品という一面も確かにある。
でも、それだけだったら、私はここまでオーディオに夢中になっていない。

元来飽きっぽい性格である。
そんな私が四十年以上つきあってきている。

死ぬまでオーディオマニアのはずだ。

オーディオで修羅場なんて──、
そんなことを書く者は時代錯誤者といわれる時代なのかもしれない。

こう書きながらも、世の中そんなには変っていないのかもしれない、というおもいももつ。
ただ数人のオーディオの修羅場の経験を持つ人が、もういないだけであって……

Date: 3月 25th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

時代の軽量化(その11)

別項「正しい聴き方と自由自在な聴き方(self reliance)」で、自由について書いた。

自由を好き勝手というふうに捉えていては、時代の軽量化を感じることはないのかもしれない。

仏教学者の鈴木大拙氏は、「自由」の英訳を、
辞書に載っているfreedomやlibertyではなく、self relianceとした、ときいた。

正しく鍛えられていれば、自由の英訳としてself relianceを選ぶのではないだろうか。
正しく鍛えられていれば、それまでやってきたさまざまなことが結ばれていく、つながっていく。
そうすることで、解答へと近づいていく。

ただ鍛えられているだけでは、自由の英訳としてfreedomを選ぶのではないだろうか。
ただ鍛えられているだけでは、それまでやってきたさまざまなことが結びつくとは限らない。
それでは回答へと近づけても、解答には近づけない。

Date: 3月 11th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その12)

100%理想の録音、100%理想の再生(部屋を含めて)が可能になったときに何が起るか。
そういう時がいつくるのかわからないし、
実際にその時を迎えてみないことには、想像だけでは語れないことがいくつも出てくるはずだ。

それでもひとついえることがあると考えるのは、音量について、である。
100%理想の録音を100%理想の再生をするのであれば、
音量設定は聴き手の自由にはならなくなる。

100%理想の録音を、100%理想の再生を行うということは、
そういうことである。
音量を、ほんのわずかでも再生時に聴き手の自由にしてしまったら、
もうそれは100%理想の再生から遠ざかることになる。

私たちは、もうあたりまえのようにボリュウムを操作する。
同じ曲をかけるにしても、昼と夜とでは音量も違ってくることがあるし、
独りで聴くのか、誰かと一緒に聴くのかでも違ってこよう。
気分によっても体調によっても変ってくる(というか変えてしまう)。

音量の自由が奪われてしまったら、
それはオーディオといえるだろうか。

このことをたいした問題ではない、と考えるか、
重大な問題と考えるか。

オーディオの出発点ともいえるアクースティック蓄音器。
アクースティック蓄音器には音量調整という機能は、元からなかった。

電気蓄音器になり、はじめて音量が調整(設定)できるようになった。

100%理想の録音と100%理想の再生が可能になっときに、
音量についてどう考えるのか。
時代を遡って考える必要が出てくるのかもしれない。
(私は、そこまでは生きていないであろう。)

Date: 3月 11th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その11)

瀬川先生が、ステレオサウンド 52号に書かれていることを、
ここで思い出す。
     *
 しかしアンプそのものに、そんなに多彩な音色の違いがあってよいのだろうか、という疑問が一方で提出される。前にも書いたように、理想のアンプとは、増幅する電線、のような、つまり入力信号に何もつけ加えず、また欠落もさせず、そのまま正直に増幅するアンプこそ、アンプのあるべき究極の姿、ということになる。けれど、もしもその理想が100%実現されれば、もはやメーカー別の、また機種ごとの、音のニュアンスのちがいなど一切なくなってしまう。アンプメーカーが何社もある必然性は失われて、デザインと出力の大小と機能の多少というわずかのヴァリエイションだけで、さしづめ国営公社の1号、2号、3号……とでもいったアンプでよいことになる。──などと考えてゆくと、これはいかに索漠とした味気ない世界であることか。
 まあそれは冗談で、少なくともアンプの音の差は、縮まりこそすれなくなりはしない。その差がいまよりもっと少なくなっても、そうなれば我々の耳はその僅かの差をいっそう問題にして、いま以上に聴きわけるようになるだろう。
     *
52号の特集の巻頭「最新セパレートアンプの魅力をたずねて」からの引用である。
ここではアンプのことだけを書かれているが、
《入力信号に何もつけ加えず、また欠落もさせず》、
録音の現場で鳴っていた音を、そのまま再生の現場(家庭)で鳴らさせるようになったら、
《もはやメーカー別の、また機種ごとの、音のニュアンスのちがいなど一切なくなってしまう》わけだ。

それに使いこなしなどということも、ここでは無関係になってしまう。
誰が鳴らしても、同じ音がする──、
録音の現場での音がそのまま鳴ってくれる──、
いわゆに原音再生の理想が100%実現されたとして、
瀬川先生と同じように《索漠とした味気ない世界》と感じるか、
素晴らしい世界と感じるか──、
私ははっきりと前者である。

けれど、世のすべてのオーディオマニアがそうだとは思っていない。
後者の人も少なくない(というか多い)のではないのだろうか。

Date: 3月 11th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その10)

七年前から「ハイ・フィデリティ再考(原音→げんおん→減音)」というテーマを書いている。
一年ちょっと、このテーマで30本以上書いてきた。

どんなものであろうと、非可逆圧縮を絶対に認めない、というオーディオマニアは、
原音→げんおん→減音という発想はしないだろうし、
こんな発想はおかしい、ということになるだろう。

ここで使っている減音という言葉の意味あいとは違うが、
録音、再生どちらにも、情報欠落が生じる箇所が、それこそ無数にある。

マイクロフォンが音の疎密波を電気信号に変換する時点で、
情報の欠落はすでに生じている。
それを増幅してミキシングコンソールへ伝送する時点でも、情報の欠落は生じる。

ケーブル一本を信号が通るだけで、まったく情報の欠落が生じないといえるだろうか。
接点でも同じだ。

こんなことを一つひとつ挙げていくようなことはしない。
延々と書きつづけなければならなくなるからだ。

情報の欠落と同時に、欠落する箇所では、何かが元々の信号に加わる。
ノイズが加わったり、歪だったり、
測定できる要素として、このくらいであっても、
機械的な共振、電気的な共振などによっても何かが加わる。

これらの情報の欠落と、何かが加わることを極力排除していく方向が、
技術の向うべき途であるのはわかる。

あと十年後、二十年後……、どのくらい未来なのかはなんともいえないが、
そういう時代が来るのかもしれない。

そんな時代が来たとして、オーディオマニアにとって理想といえる時代なのか。

Date: 1月 6th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

時代の軽量化(その10)

その9)で《鍛えられずに》と書いた。
(その9)でいいたかったことは、この一言につきる。

鍛えられる──、
こんなことを、オーディオという趣味の分野で使うことに抵抗を感じる人はいよう。
趣味なのだから、本人が楽しめればいいじゃないか、
そこに苦しいおもいをする必要はないはず──、と。

鍛える、ということに少しは賛同してくれる人がいたとしても、
彼らは、では、どうやって鍛えるのか、ときいてくるかもしれない。

アンプでもケーブルでもいい。
システムのどこ一箇所を変更する。
変更前と変更後の音を、オーディオマニアならば納得するまで比較試聴するはず。

わかりやすい違いもあれば、微妙な違いのときもある。
微妙な違いの場合、どちらがいい音(望む音)なのか、判断に迷うこともある。
そこで時間をかけて、しつこく試聴を重ねる。

これも鍛えることではある。
それでも、私がいいたい「鍛える」「鍛えられる」は、
その域に留まっていることではない。

オーディオは一人でできる趣味である。
それでも師と呼べる人をもつべきだ、と、
私は自分の幸運をふりかえって、そういおう。

スポーツでも、楽器の演奏でも、コーチ、師といった存在がいる。
優れたコーチに出逢えた選手と出逢えなかった選手とでは、
当然のことながら違ってくる。

正しく鍛えられた選手とそうでない選手の違いがある。

Date: 1月 4th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

時代の軽量化(その9)

文字情報による知識を得るのは、たやすい時代になっている。
そういう時代にあって、受験テクニックを身につけている世代は、
どれだけでも知識を増やしていけることだろう。

そういう人を知っている。私より一世代くらい若い人だ。
知識を、とにかく身につけているオーディオマニアだ。

けれど、残念なことに、それらの知識が有機的に結びついているとは言い難い。
体系化できていない。
だから、それらの知識は、いわば脂肪のように彼にまとわりついている。

本人は、オーディオに詳しいと自負していることだろう。
知識量だけはあるのだから、そういえなくもない。

でも、身につけているだけである。
筋肉とは違い、脂肪のようだ、という理由はそこにある。

そのためか、その人のオーディオの言動は、
とても見苦しい、と感じる。

いわば知識の肥満体である。
ぶくぶくと知識だけが、鍛えられずに身についているだけなのだから。

これも時代の軽量化のように感じている。

Date: 9月 25th, 2018
Cate: 「オーディオ」考

耳の記憶の集積こそが……(その4)

その1)で、
耳の記憶の集積こそが、オーディオである、といまいおう、と書いた。

メリディアンのULTRA DACを聴いて、
そしてULTRA DACについて、関係してくることについて書いていて、
まさに、耳の記憶の集積こそが、オーディオである、といまいちど強くいおう。

Date: 8月 21st, 2018
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その9)

マッキントッシュのゴードン・ガウの言葉だったと記憶している。

「quality product, quality sales and quality customer」だと。
どれかひとつ欠けても、オーディオの世界はダメになってしまう、と。

quality product(クォリティ・プロダクト)はオーディオメーカー、
quality sales(クォリティ・セールス)はオーディオ店、
quality customer(クォリティ・カスタマー)はオーディオマニア、
主にそういうことになる。

クォリティ・セールスには、オーディオ店以外にも、
メーカーの売り方も深く関ってくるし、
海外で売られる場合には、その国の輸入元も含まれる。

メーカー、輸入元の売り方には、広報・広告が含まれる。
ここでの広報とは、オーディオ雑誌での記事の掲載、
インターネットでのなんらかの記事などが、そうだといえよう。

クォリティ・カスタマーは、売らんかな、だけのメーカー、輸入元にとっては、
クォリティがつかないカスタマーのほうが都合はいいだろう。

高価なモノをポンと買っていく客が、クォリティ・カスタマーなわけではないし、
誰しもが最初からクォリティ・カスタマーなわけでもない。

客(オーディオマニア)をクォリティ・カスタマーに導いていくのには、
クォリティ・セールスが重要となってくる。

Date: 8月 15th, 2018
Cate: 「オーディオ」考

時代の軽量化(その8)

黒田先生の著書「音楽への礼状」からの、ここのところを引用するのはこれで四度目だ。
     *
 かつて、クラシック音楽は、天空を突き刺してそそりたつアルプスの山々のように、クラシック音楽ならではの尊厳を誇り、その人間愛にみちたメッセージでききてを感動させていました。まだ幼かったぼくは、あなたが、一九五二年に録音された「英雄」交響曲をきいて、クラシック音楽の、そのような尊厳に、はじめて気づきました。コンパクトディスクにおさまった、その演奏に耳を傾けているうちに、ぼくは、高校時代に味わった、あの胸が熱くなるような思いを味わい、クラシック音楽をききつづけてきた自分のしあわせを考えないではいられませんでした。
 なにごとにつけ、軽薄短小がよしとされるこの時代の嗜好と真向から対立するのが、あなたのきかせて下さる重くて大きい音楽です。音楽もまた、すぐれた音楽にかぎってのことではありますが、時代を批評する鏡として機能するようです。
 今ではもう誰も、「英雄」交響曲の冒頭の変ホ長調の主和音を、あなたのように堂々と威厳をもってひびかせるようなことはしなくなりました。クラシック音楽は、あなたがご存命の頃と較べると、よくもわるくも、スマートになりました。だからといって、あなたの演奏が、押し入れの奥からでてきた祖父の背広のような古さを感じさせるか、というと、そうではありません。あなたの残された演奏をきくひとはすべて、単に過ぎた時代をふりかえるだけではなく、時代の忘れ物に気づき、同時に、この頃ではあまり目にすることも耳にすることもなくなった、尊厳とか、あるいは志とかいったことを考えます。
     *
黒田先生が書かれている「あなた」とは、フルトヴェングラーのことである。

世の中には、上っ面だけの音楽への礼状もどきがある。
どうも増えているようだ。

黒田先生の「音楽への礼状」は、まさに音楽への礼状である──、
と強く感じる世の中になってきているようにも感じている。

「音楽への礼状」のなかの、フルトヴェングラーへの礼状は、
そのなかでも「音楽への礼状」と感じている。

《あなたの残された演奏をきくひとはすべて、単に過ぎた時代をふりかえるだけではなく、時代の忘れ物に気づき、同時に、この頃ではあまり目にすることも耳にすることもなくなった、尊厳とか、あるいは志とかいったことを考えます》
とある。

そうであってほしい、とおもう。
おもう、ということは、すでにそうではなくなりつつあるような気配を感じている。

時代の忘れ物に気づかなくなった人があらわれはじめ、増えてきたことこそ、
時代の軽量化なのではないだろうか。

Date: 8月 3rd, 2018
Cate: 「オーディオ」考

時代の軽量化(その7)

一年前「毎日書くということ(続・引用することの意味)」で、
積分的な聴き方、微分的な聴き方に付いて少しだけ触れた。

これは聴き方だけだろうか。
積分的な読み方、微分的な読み方もある、と、実感することが増えている。

もっといえば、微分的読み方をする読み手がいる、ということだ。

Date: 8月 1st, 2018
Cate: 「オーディオ」考

時代の軽量化(その6)

(その5)へのコメントがfacebookであった。

そこにはトップダウン、ボトムアップとあった。
トップダウンは、企業経営などで,意思決定は社長・会長がして上位から下位へ命令が伝達され,
社員に従わせる管理方式、
ボトムアップは、企業経営などで,下位から上位への発議で意思決定がなされる管理方式、とある。

コメントされた方は、
過去のオーディオ誌に求められたのがトップダウンの評論であるとすれば、
今はボトムアップのノウハウのようなものが求められると感じている、とあった。

いわんとされることはわかる。
コメントをされた方は私よりも若い世代。
そういうふうに感じられているのか、と思う。

過去のオーディオ誌は、私が熱心に読んでいた時代のオーディオ雑誌を指すのか。
それともそれより後の時代のオーディオ雑誌なのか。

私が熱心に読んできたオーディオ雑誌の時代は、
私にはトップダウン的評論とは感じていなかったし、いまもそれは変らない。

あの時代、オーディオ評論家(職能家)は、手本であり、
憧れというより目標であった。
もっといえば、将来のライバルというふうにも見ていた。

いまは10代の若造だけれど、あと十年すれば、
そのレベルにまで上っていく──、そういう意味での目標であり、
将来のライバルとは、そういうことである。

そんな私は、トップダウンの評論とは感じていないが、
評論のところを編集に変えてみたら、どうだろうか。

トップダウンの編集、ボトムアップの編集である。