オーディオの罠(その9)
好きという感情は、オーディオという趣味において最も尊いものなのか。
そのとおりだ、と答える人がどのくらいいるのか。
ソーシャルメディアを眺めていると、こちらのほうが多数派のように感じることもある。
そんなことを以前、別項で書いている。
オーディオの罠について考えていると、このこともそうだと思うだけだ。
その結果、耳に近い音だけを求めてしまうようになるだけなのかも。
好きという感情は、オーディオという趣味において最も尊いものなのか。
そのとおりだ、と答える人がどのくらいいるのか。
ソーシャルメディアを眺めていると、こちらのほうが多数派のように感じることもある。
そんなことを以前、別項で書いている。
オーディオの罠について考えていると、このこともそうだと思うだけだ。
その結果、耳に近い音だけを求めてしまうようになるだけなのかも。
別項で、
覚悟なしな人は、自分のヘソだけを見つめていればいい、と書いた。
心を塞いで、キズつくことを極度に怖れて、自分のヘソだけを見つめている。
これはオーディオの罠なのだろうか。
私は違うと考えている。
他の人はどうおもっているのかは知らないけれども。
2006年、金沢に向う電車の車内広告に、目的地であった21世紀美術館の広告があった。
そこには、artificial heartの文字があった。
artificialのart、heartのartのところにはアンダーラインがあった。
artificial heartは、artで始まりartで終ることを、この時の広告は提示していた。
この時の目的地であった21世紀美術館では川崎先生の個展が開かれようとしていた。
2015年12月に「eとhのあいだにあるもの(その5)」の冒頭に、そう書いている。
artificial heartを見て以来、artで始まりartで終るものには、
他に何があるのかを、あれこれ考えていた。
あるとき、これもartで始まりartで終ると気づいた。
artificial mozart。
アーティフィシャル・モーツァルト。
そのころはただ思いついただけだったけれど、
ここ数年、artificial mozartは私にとって、別の意味ももつようになってきている。
《憧憬の念のうちに、実は少しずつ音は美化され理想化されているらしい》、
五味先生がそう書かれている。
五味先生だけに限らない、同じことを何人もの方が書いてこられてきた。
だから、頭では、そのことはわかっている。
わかりすぎている、ともいっていい。
それでも若いころ、憧れのオーディオ機器が一つ二つは、
どんなに人にもあったはずだ。
そんな数では足りない、という人もいる。
憧れのオーディオ機器。
しかも、その音を聴く機会がなかったオーディオ機器ほど、
それへの憧れは大きく増していく。
ずいぶんと年月が経って、憧れのオーディオ機器との出合いがあったりする。
昔とは違う。ポンと買えるだけの経済力もある。
ようやく憧れのオーディオ機器が手元に来た。念願かなってだ。
その喜びは、本人にしかわからないはずだ。
問題はここからだ。
冷静に音を聴ける人もいるし、ずっと憧れのままで聴く人もいる。
失望を味わう人もいるし、ずっと喜んでいられる人もいる。
思うのは、後者のオーディオマニアは、オーディオの罠におちているのかだ。
以前別項で書いたことを思い出している。
こんなことを書いた。
己の知識から曖昧さを、できるだけなくしていきたい。
誰もが、そう思っているだろうが、罠も待ち受けている。
曖昧さの排除の、いちぱん楽な方法は、思いこみ、だからだ。
思いこんでしまえれば、もうあとは楽である。
この罠に堕ちてしまえば、楽である……。
このこともオーディオの罠といえるし、
オーディオに限ったことではない。
耳の記憶の集積こそが、オーディオである──、
なのだから、過去を物語として語れない時点で、
その人はオーディオを語れない、ともいえる。
オーディオに限らず、どの分野、とくに趣味の世界では、
自称オーソリティがすくなからずいる。
他称オーソリティももちろんいるのだけれど、
その他称オーソリティのなかには、自称オーソリティが認めるオーソリティだったりして、
実のところ、自称オーソリティとなんらかわらないだけの、あやしいオーソリティだったりする。
そんなふうに感じているのは私ぐらいのものか、と思っていたら、
そうではなかった。
やっぱりそうなんだなぁ……、とおもうしかない。
自称オーソリティの周りには、類は友を呼ぶわけだから、
同じ人たちが集まって、互いに、あの人はオーディオのオーソリティですから、と呼ぶ。
そういう時代である。
(その19)、(その20)で、
ステレオサウンド・グランプリの次の選考委員長は誰なのかについて、すこしばかり書いている。
(その19)と(その20)を書いたのは2020年9月。
三年前に書いていることの続きを、いま書いているのは、
昨日発売になったステレオサウンド 227号に、柳沢功力氏の名前がないからだ。
3月発売の226号にも、柳沢功力氏の名前はなかった。
今年12月発売の229号でのステレオサウンド・グランプリの選考委員に、
柳沢功力氏の名前はないかもしれない。
そうなった場合、次の選考委員長は誰になるのだろうか。
そして、誰か一人、選考委員に新たに加わるのだろうか。
それは誰なのだろうか。
「続・再生音とは……(その33)」で、
自己模倣という純化の沼にはまってしまったら、
永遠に花を咲かすことはできない、と書いた。
自己模倣という純化の沼にはまってしまった人は、つぼみのままの音を聴き続ける。
音という花を咲かせることはできない。
そのこと、書いた二年前よりも、強く感じるようになってきているし、
つぼみのままの音を愛でることから脱却できない人は、
たがやさせない人でもある。
これも以前書いていることなのだが、
たがやすは、cultivateである。
cultivateには、
〈才能·品性·習慣などを〉養う、磨く、洗練する、
〈印象を〉築く、創り出す、
という意味もある。
自己模倣という純化の沼のこわいところは、
本人だけが気づかぬまに、
憧れがたてまえの憧れとなってしまうことだ。
そして、そうなってしまった憧れは、憧れがもつ本来の精気、輝きを失う。
五年前に、別項「続・再生音とは……(続その12に対して……)」で、
AIとは、artificial intelligenceだけではなく、
auto intelligenceなのかもしれない、と思うようにもなってきた、と書いたことを、
このテーマの続きを書こうとしたら思い出した。
オーディオマニアが、
オーディオマニアとしての役目、役割をまったく考えなくなったとしたら、
それは、やはり時代の軽量化なのだろう。
実際のところ、どうなのだろう?
オーディオマニアとしての役目、役割──、
そんなこと、自分には無関係という人の方が多いのだとしたら……。
デッカ・デコラも、終のスピーカーなのか、と考えたことがないわけではない。
それでもデコラは、私にとってスピーカーシステムとしての存在ではなく、
別の存在としてのモノであって、デコラは少なくとも私にとって終のスピーカーとはいえない。
いつかはデコラ、という気持は持ち続けている。
なのに終のスピーカーといえない気持は、いまのところ自分でもうまく説明できない。
それでもおもっていることはある。
もし、デコラに匹敵する存在のモノをつくれ、といわれたならば、
スピーカーに関しては、Troubadour 40を選択する。
デコラと同じように、複数のトゥイーターを角度をつけて配置するという方法も考えるが、
それではオリジナルのデコラを超えること(肩を並べること)はできないように考えるからだ。
全体のデザインはほとんどなにも考えていないのだが、
それでもスピーカーの中心となるのはTroubadour 40(DDD型ユニット)しかない。
耳の記憶の集積こそが、オーディオである──、
私はそう考えている人間だから、
オーディオにおける快感か幸福かについても、
耳の記憶の集積によって、大きく左右される、とうけとめている。
耳の記憶の集積こそが、オーディオである──、
(その1)で書いている。
そのまま、もう一度書いておく。
この大事なことを抜きにして、オーディオについて語り合うことはできない。