Archive for category 「オーディオ」考

Date: 7月 11th, 2017
Cate: 「オーディオ」考

JBL 537-500は理外の理なのか

別項「ホーン今昔物語」を書こうと思ったのは、
JBLの蜂の巣ホーン537-500(後のHL88)について考えていたからである。

537-500について考えていたのは、オーディオにおける理外の理について考えていたからだ。

537-500、それにLE175DLHは、
ホーンの開口部にパーフォレイテッドプレート型音響レンズがついている。
537-500の音響レンズは、たしか14枚のドーナツ状のパンチングメタルからなる。

いくら小さな穴がびっしりとあるといっても、
これだけのものがホーンの開口部を、いわばふさいでいる、ともいえるシロモノだ。

現在のJBLならば、
この種のホーンは、理論から外れているといって絶対につくらないであろう。
でも、このホーンをJBLはウェストレックスに納入していた。
ウェストレックスのT550Aという型番のホーンが、そうである。

私は537-500の実測データをみたことはないが、
このホーンを使ったことのある友人のKさんによれば、
5kHz以上はダラ下りの特性になっているそうだ。

そうだろうな、と思う。
それが道理というものだろう。

それでも、このホーンの魅力にとりつかれた人がいるのもまた事実である。
菅野先生が、そのひとりである。

私は、まだこのホーンを自分で鳴らしたことはない。
LE175DLHは、いま鳴らしている。

その開口部を長めながら、理外の理について考えている。

Date: 3月 18th, 2017
Cate: 「オーディオ」考

豊かになっているのか(その8)

40年以上前の富士フイルムの広告。
モノクロであり、洗練されているとはいえなかったが、
いま改めてみると、考えさせられるヒントとなることがあったりする。

ステレオサウンド 16号の富士フイルムの広告もそうだ。
モノクロ見開き二ページ。

左上に、
オーディオ評論家リスニングルーム深訪シリーズ(2)
瀬川冬樹氏
とある。

右側には、広告のコピーがある。
     *
音楽とは、ずっと
蓄音機時代から……。
うーん……〈太公トリオ〉が
ぼくの初恋。
あまりの感激に
床にしゃがみこんじゃったな。
衝撃的なフィーリング
だったんですよ……。
     *
瀬川先生(というよりも大村少年)の音楽の初恋は、
ベートーヴェンの大公トリオなのは、すこし意外な気がした。

大公トリオについては「虚構世界の狩人」でもふれられている。
     *
 オーディオとは、しかしいったい何なのだろう。音を良くする努力は、自分の音楽体験に何をもたらしたのだろうと、ときどき考え込むことがある。ずっと以前、いまからみればよほど貧弱な装置で、モノーラルをこつこつと集め、聴いていたころからくらべて、自分の中の「音楽」は果して豊かになっているのだろうか。むかしの方が、よほど音楽は自分にとって身近にあり、もっと切実だったように思われる。むかし小さなラジオで聴いたカザルス・トリオの「大公」や、ヤマハのコンサートで聴いたフルトヴェングラーの「エロイカ」や、M氏のお宅で聴いたカペエの「131」や、そしてブリヂストンの土曜コンサートで聴いた——こればかりは演奏者をどうしても思い出せないシベリウスのヴァイオリン協奏曲の、めくるめくような衝撃が、どこへ逃げて行ってしまったのか——。自分自身の環境や感受性の違いなのかあるいは年齢がそうさせるのか。もしかしたら装置そのもののせいなのか——。
     *
ここにも《果して豊かになっているのだろうか》とある。

Date: 3月 13th, 2017
Cate: 「オーディオ」考

豊かになっているのか(贅沢な環境)

三日前の「会って話すと云うこと(その12)」で書いた
「若い才能は育ってきているけれど、贅沢な環境は失われつつある」。

昨晩「瀬川冬樹という変奏曲(その6)を書いていて、気づいたことがある。
瀬川先生はマランツのModel 7を買ったときのことを書かれている。
JBLのSA600を輸入元の山水電気から借りて、初めてその音を聴かれたことを書かれている。
JBLの175DLH、375と蜂の巣ホーンのことを書かれている。

そこには瀬川先生の驚きがある。
     *
 何度も書いたように、アンプの回路設計はふつうにできた。デザインや仕上げにも人一倍うるさいことを自認していた。そういう面から選択を重ねて、最後に、マランツの回路にも仕上げにも、まあ一応の納得をして購入した。さんざん自作をくりかえしてきて、およそ考えうるかぎりパーツにぜいたくし、製作や調整に手を尽くしたプリアンプの鳴らす音というものは、ほとんどわかっていたつもりであった。
 マランツ7が最初に鳴らした音質は、そういうわたくしの予想を大幅に上廻る、というよりそれまで全く知らなかったアンプの世界のもうひとつ別の次元の音を、聴かせ、わたくしは一瞬、気が遠くなるほどの驚きを味わった。いったい、いままでの十何年間、心血そそいで作り、改造してきた俺のプリアンプは、一体何だったのだろう。いや、わたくしのプリアンプばかりではない。自作のプリアンプを、先輩や友人たちの作ったアンプと鳴きくらべもしてみて、まあまあの水準だと思ってきた。だがマランツ7の音は、その過去のあらゆる体験から想像もつかないように、緻密で、音の輪郭がしっかりしていると同時にその音の中味には十二分にコクがあった。何という上質の、何というバランスのよい音質だったか。だとすると、わたくしひとりではない、いままで我々日本のアマチュアたちが、何の疑いもなく自信を持って製作し、聴いてきたアンプというのは、あれは一体、何だったのか……。日本のアマチュアの中でも、おそらく最高水準の人たち、そのままメーカーのチーフクラスで通る人たちの作ったアンプが、そう思わせたということは、結局のところ、我々全体が井の中の蛙だったということなのか──。
(ステレオサウンド 52号より)
     *
ここには、きっと驚きだけでなく悔しいという感情もあったのではないだろうか。
井の中の蛙だったということなのか──、と書かれている。

当時の、どんな日本のアンプもModel 7には遠く及ばなかったのだから。
そこに悔しいという感情がないはずがない。

そして悔しいというおもいが、
その後の、いま私が贅沢な環境だったと感じている時代につながっていっているはずだ。

Date: 3月 5th, 2017
Cate: 「オーディオ」考

豊かになっているのか(組合せを考えていて)

別項「ラジカセのデザイン!」(余談)を書いている。
また古い機種を持ち出して書いている、と思う人がいるのはわかっている。

私だってもっと新しいオーディオ機器で、同じことが書けるのであればそうする。
おまえの実力がそれまでなんだよ、といわれようと、
4310と1060の組合せと同じことを、
現在のオーディオ機器で書けるだろうか、となると、なかなか難しい。

なので昔のオーディオ機器のことを、あえて書いているし、
書きながら、ほんとうに豊かになっているのか、とそこでも考える。

Date: 1月 12th, 2017
Cate: 「オーディオ」考

「オーディオの対岸にあるもの」について(その2)

“See the world not as it is, but as it should be.”
「あるがままではなく、あるべき世界を見ろ」

gleeの最後に、このことばが登場する。

オーディオにもあてはまるといえる。
あるがままではなく、あるべき世界を聴け、といえる。
あるべき世界は、あるべき音ともいえる。

けれどオーディオの難しさは、
あるがままとあるべき世界の両方を聴くことを求められるところにある。

オーディオの対岸にあるもの。
それは聴き手の聴き方によっても違ってこよう。

あるがままを聴いている人が、オーディオの対岸にあると感じているもの
あるべき世界を聴いている人が、オーディオの対岸にあると感じているもの、
あるがままとあるべき世界を聴いている人が、オーディオの対岸にあると感じているもの、
──こういうことを考えている。

Date: 1月 9th, 2017
Cate: 「オーディオ」考

「オーディオの対岸にあるもの」について(その1)

昨晩、ほぼタイトルだけの「オーディオの対岸にあるもの」に、
facebookで数人の方からコメントがあった。

コメントを読んで、タイトルを「再生音の対岸にあるもの」にしなくてよかった、思っていた。

オーディオは再生音といえるのは確かだが、
オーディオ・イコール・再生音ではないことも確かだ。

「オーディオの対岸にあるもの」の「オーディオ」は、
人によって違うはずである。

Date: 1月 8th, 2017
Cate: 「オーディオ」考

オーディオの対岸にあるもの

オーディオについて、再生音について考えるために思いついたタイトル。
いまのところタイトルでしかない。

Date: 1月 4th, 2017
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その5)

SACDがDSDではなく、CDと同じPCMで、
サンプリング周波数、ビット数を44.1kHz、16ビットから離れて高めたものてあったなら、
スーパーレゾリューションよりもハイレゾリューションのほうが、
的確に表現しているといえる。

でもSACDはPCMではなくDSDである。
同じデジタルといっても、変調方式の違いがはっきりとある。

そのことを伝える意味でも、
ハイレゾリューションではなく、スーパーレゾリューションを、
ソニーの出井伸之氏は使われたのかもしれない。

CDの登場は1982年。
そのころのパソコンのCPUの動作周波数はどのくらいだったか。
2017年のいま、CPUの動作周波数はどこまで高くなっている。
しかも内部もシングルコアからマルチコアへと変化している。

いまハイレゾと呼ばれている規格の定義。
電子技術産業協会(JEITA)による定義と、
日本オーディオ協会(JAS)による定義は同じではない。

JEITAの定義では、CD規格よりも、サンプリング周波数、ビット数、
どちらかが超えていればハイレゾとなる。
もちろんもう一方は最低でもCD規格と同じでなければならない。

ここでのCD規格とは44.1kHz、16ビットではなく、48kHz、16ビットであるから、
48kHz、18ビットであってもハイレゾということになる。

どちらの定義にしても、そこには数値がある。
数値があるということは、技術の進歩によって、CPUの動作周波数が上っていったように、
上へ上へと目指していく。

ということはハイレゾ(High Resolution)は、
ハイアーレゾ(Higher Resolution)、さらにはハイエストレゾ(Highest Resolution)、
ハイレゾに留まらないのかもしれない。

Date: 1月 2nd, 2017
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その4)

ステレオサウンド 131号(1999年夏号)での、
ソニーの出井伸之氏と菅野先生の対談を読み返している。
     *
出井 やはり、音を聴く楽しみというのは、画を観ながらでは楽しめないんですね、オペラなら楽しめるでしょうが。
 最近は、コンピュータ通信の普及などによって、信号圧縮されたオーディオが盛んになってきていて、ソニーでもメモリースティック・ウォークマンというものを提案しているんですが、そのいっぽうで、パッケージメディアを残そうと思ったら、映像でも音でも、スーパーレゾリューションでなければダメなんです。上限がないぐらいまでのね。
     *
別項「オーディオと青の関係(その15)」で引用しているとおり、
SACDは《〝量〟にたいするアンチテーゼ》である。

出井氏の発言に同意する。
だからこそハイレゾリューションではなく、スーパーレゾリューションでなければ、と思う。

ハイ(High)では、量に対するアンチテーゼにはなりにくい。
ハイサンプリング、ハイビットと、それは量から少しも離れきっていない。

同じことがクルマはスーパーカーであって、
オーディオはハイエンドオーディオなのにいえる。

スーパーカーという呼称は、横尾忠則氏が言い始めたことかもしれない、ときいている。
ほんとうなのかははっきりしないが、
1968年の海外向けのカタログ制作で、SUPER CARが使われている。

このスーパーカーは、スーパーマンの有名すぎるキャッチフレーズ、
「空を見ろ!」「鳥だ!」「飛行機だ!」「いや、スーパーマンだ!」、から来ているとのことだ。

SACD(DSD)を、ハイレゾリューションではなくスーパーレゾリューションと捉えたのは正しい。
それまでのPCMに対してのDSDであるからこそ、なおさらだ。

にも関わらず、いまではアナログディスクまでもハイレゾリューションで括ってしまっている。

Date: 12月 30th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その3)

小学生高学年から中学にかけてのころ、スーパーカーブームがあった。
スーパーカーという言葉は、そのころから登場したのだろうか。

いまもスーパーカーと呼ばれている。

一方オーディオは、というと、スーパーオーディオとはあまり使われない。
SACDはSuper Audio Compact Discだから、
ここにはスーパーオーディオがある。

けれどスーパーカーと同じように使われるのは、
オーディオではハイエンドオーディオである。

ハイエンドカーというのだろうかと検索してみると、
上位に表示されるのはハイエンドカーオーディオである。

ハイエンドはオーディオにかかってくる言葉なのだろうか、と苦笑いしてしまった。

私がクルマに詳しくないためだろうか、
ハイエンドカーという言葉が一般に使われているとは感じられない。

価格の高さでいえば、スーパーカーもハイエンドである。
クルマの方が、よりハイエンドであっても、
やはりスーパーカーなのだ。

なぜオーディオはスーパーオーディオではなく、
ハイエンドオーディオなのだろうか。

このことが「オーディオがオーディオになくなるとき」にも、
そして岩崎先生のリスニングルームに憧れても、
どれだけの資産があれば、これだけのリスニングルームとオーディオ機器を揃えられるのか、
と考えてしまうリスニングルームには、憧れを抱くことがないことが多いのにも、
(その1)で書いた、その人はオーディオマニアだろうか、
ということにもつながっていく直感である。

Date: 11月 8th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

額縁の存在と選択(その5)

私にとってLS3/5Aの鳴らし方は、
何度も書いているように一辺が1m程度の正三角形の頂点に、
ふたつのLS3/5Aと自分の耳を置くというセッティングを前提としている。

アナログディスクでの低域の揺すられがCDではなくなり、
かなり安定した再生が楽に可能になるとともに、
アナログディスク再生よりもCD再生のほうが音量面でも有利になっている。

アナログディスクをメインにするのであれば、
LS3/5Aに出力トランスというバンドパスフィルターをかかえる真空管アンプのほうが、
低域の安定性に関しては有利といえる。

最近ではLS3/5Aも左右の間隔を、
通常のスピーカーのように広くとって聴く人(聴かれること)も多いようである。

そうやって聴くLS3/5Aが提示する音のイメージと、
至近距離でひっそりとした音量で聴くLS3/5Aが提示する音のイメージは、
少なくとも私の中ではずいぶんと違ってくる。

ここで書くLS3/5Aの音は、瀬川先生が小人のオーケストラが現出した、と感じられる鳴らし方である。
至近距離で、音量も小さい。
そこにおける音場と、
大型スピーカーを、左右の間隔を大きくとり、
音両面での制約もなしに鳴らしたときの音場とも、同じには語れない。

しつこいくらいくり返しているが、
あくまでもそういう鳴らし方をした時のLS3/5Aのことを、
Pokémon GOのAR機能をONにしてやっていて、
この感覚、決して新しいものではない、
ずっと以前に体験したことがある──、と思い出したのだ。

そして小人のオーケストラを聴いていると錯覚しているときに、
額縁はどうだったのだろうか、と考えた。

Date: 11月 1st, 2016
Cate: 「オーディオ」考

デコラゆえの陶冶(その8)

ステレオサウンド別冊Sound Connoisseur掲載の五十嵐一郎氏の「デコラにお辞儀する」。
ここでの写真は、いままで見たことのなかったデコラの姿を伝えてくれる。

カラー写真だけではない、モノクロでも、正面からのカットは二枚並んである。
正面からのカットも似まいある、後からのカットも二枚あり、
どちらもグリル、カバーを装着した状態と外した状態のカットである。

その他にも、コントロールアンプ、チューナー、パワーアンプ、電源部、
スピーカーユニット、ネットワークなどのカットもある。

それらの写真の中で、220ページと221ページの見開きのカットを見て、気づいたことがある。
このカットは両サイドのグリルだけでなく、各部の扉を全開にしている。

デコラ右側のスピーカー上部の扉をあけるとコントロールアンプ、
左側の扉をあけるとチューナーがある。
そして中央の両開きの扉をあけると、レコード収納のためのスペースがある。

アクースティック蓄音器と電気式蓄音器の違いはいくつかあるが、
このレコード収納のスペースの有無も、そうである。

アクースティック蓄音器にはSPを収納するスペースは設けられていない。
大型のアクースティック蓄音器であってもそうだ。

電蓄と呼ばれるようになって、蓄音器は音量の調整ができるようになり、
チューナーも付属するようになったりしたが、レコードの収納のスペースも設けられるようになった。

デコラにも、それがある。
扉を閉じた写真をみているだけでは、そのことに気づかなかった。
あって当然のことなのだが、なかなか気づかないことはある。

デコラにある収納スペースを見て、(その1)に書いているS氏のことが結びついた。

Date: 10月 25th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

虚実皮膜論とオーディオ

 ある人の言はく、「今時の人は、よくよく理詰めの実らしき事にあらざれば合点せぬ世の中、昔語りにある事に、当世受け取らぬ事多し。さればこそ歌舞伎の役者なども、とかくその所作が実事に似るを上手とす。立役の家老職は本の家老に似せ、大名は大名に似るをもつて第一とす。昔のやうなる子どもだましのあじやらけたる事は取らず。」

 近松答へて言はく、「この論もつとものやうなれども、芸といふものの真実の行き方を知らぬ説なり。芸といふものは実と虚との皮膜の間にあるものなり。なるほど今の世、実事によく写すを好むゆゑ、家老は真まことの家老の身ぶり口上が写すとはいへども、さらばとて、真の大名の家老などが立役のごとく顔に紅脂、白粉を塗る事ありや。
また、真の家老は顔を飾らぬとて、立役が、むしやむしやと髭は生えなり、頭ははげなりに舞台へ出て芸をせば、慰みになるべきや。皮膜の間と言ふがここなり。虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰みがあつたものなり。

 絵空事とて、その姿を描くにも、また木に刻むにも、正真の形を似するうちに、また大まかなるところあるが、結句人の愛する種とはなるなり。趣向もこのごとく、本の事に似る内にまた大まかなるところあるが、結句芸になりて人の心の慰みとなる。文句のせりふなども、この心入れにて見るべき事多し。」
     *
近松門左衛門の「虚実皮膜論(きょじつひにくろん)」である。
インターネットで検索すれば現代語訳はすぐ見つかる。

ここでの「芸」をオーディオにおきかえれば、
見事、オーディオで音楽を聴く行為の本質をついている。

Date: 9月 10th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

「気」と「手」(その1)

オーディオに不可欠なものとして、電気と空気が挙げられる。
将来はスピーカーというトランスデューサーを必要とせず、
脳に直接信号を送るという技術が生れるであろうし、
そうなったら空気は必要不可欠なものではないわけだが、
いまわれわれがオーディオと認識している現象には、
電気と空気は必要不可欠であり、
どちらにも「気」がついている。

空気も電気に形がないから、「気」なのかと思いながら、
なぜ聴き手には「手」がついているのかを考えてしまう。

書き手ならば、まだわかる。
書くためには手を使う。だから書き手。
読み手もそうだ。本を読むのに手を使う。だから読み手。

楽器の演奏者を弾き手という。
これもわかる。
楽器を弾くには手を使う。だから弾き手。

けれど聴き手はどうだろう。
ここでの聴き手は、音楽を聴く人のことである。

たとえばインタヴューをする人のことを聞き手という。
これはまだ理解できる。
相手が話したことを書き留めるために手を使う。
そんなふうに解釈できないこともない。

でも聴き手は違う。
聴く前には手を使う。
LPなりCDなりセットして、音を出すまでには、さほどでもないにしろ手を使う。
だが音を出たら、手を使うことはない。
にも関わらず聴き手というのは、なぜなのか。

「気」と「手」がいま気になっている。
関係しているように感じているからだ。

Date: 9月 8th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

時代の軽量化(その2)

時代の軽量化。

それは残心なき時代のことのようにも感じている。

[残心]
武道における心構え。一つの動作が終わってもなお緊張を解かないこと。剣道では打ち込んだあとの相手の反撃にそなえる心の構え、弓道では矢を射たあとその到達点を見極める心の構えをいう。
(大辞林より)