Archive for category 提言

Date: 11月 15th, 2021
Cate: 提言

いま、そしてこれから語るべきこと(その18)

「トイレのピエタ」。
手塚治虫が死の前日、日記に書き残した作品のタイトルであり、
その構想が「トイレのピエタ」である。

インターネットで検索すれば、いくつかの記事がヒットする。

癌患者が入院先の病院のトイレの天井画を描き始める──。

映画「MINAMATA」の最後のシーン。
あの写真の撮影シーン。
あれもピエタである。

あの写真は、私だってずっと昔に見て知っている。
そのくらいよく知られている写真だ。

手塚治虫が知らなかったわけがない。

私には無関係とはとうていおもえない。

Date: 10月 5th, 2021
Cate: 提言

いま、そしてこれから語るべきこと(その17)

20代のころは、映画館のはしごをごくあたりまえにやっていた。
日曜日は映画を三本観ることが多かった。

そのころはシネコンなんてものはなかった。
映画を数本観るということは、映画館をはしごすることであった。

いまはシネコンばかりになってきているから、
映画館をはしごすることなく、二本、三本の映画を観ようと思えば、
以前よりも楽になっている。

とはいうものの、30を超えたころから、映画を観る本数が減ったし、
一日に数本観ることもやらなくなっていた。

最後に映画館をはしごしたのは、もういつのことだろうか。三十年ほど経っているはずだ。

今日、ひさしぶりに映画を二本たてつづけに観てきた。
ここでとりあげている「MINAMATA」と007の二本を観てきた。

007「ノー・タイム・トゥ・ダイ」、最後で涙するとは予想していなかった。

「MINAMATA」は、007とはまったく違う映画だ。
スクリーンのサイズも違う。
けれど、意外にも多くの人が来ていた。
高齢者の方も多かった。

007は9時20分から、「MINAMATA」は13時25分と上映開始時間が違うため、
単純な比較はできないけれど、
007と同じくらいの人が、私が観た回にはいた、と思えるくらいだった。

忘れられていない。
そう思っていた。

「MINAMATA」も、最後のところで涙が出た。

映画を観ての涙であっても、同じではない。

「MINAMATA」の公開にあわせて、
ユージン・スミスとアイリーン・美緒子・スミスの写真集「MINAMATA」が復刻されている。

Date: 9月 25th, 2021
Cate: 提言

いま、そしてこれから語るべきこと(その16)

映画「Minamata」が、二日前にようやく公開になった。
2020年秋公開の予定が延びた。

4月に9月公開が発表になった。
それでも、もしかするとまた延期になるかもしれない、と思っていた。

いつまでの公開なのかは、いまのところはわからない。
そんなに長くはないであろう。

来週に観に行くつもりでいる。
まだ観ていないけれど、多くの人に観てもらい。

Date: 4月 23rd, 2021
Cate: 提言

いま、そしてこれから語るべきこと(その15)

昨年1月の(その14)で、
実在の写真家、ユージン・スミスをジョニー・デップが演じる「Minamata」が、
今秋公開される、と書いた。

2020年秋には公開されなかった。
ようやく、今年9月に公開が決った。

けれど流動的とも思っている。
公開は延期される可能性もあるだろうし、ごく短い上映期間になってしまうかもしれない。

水俣市出身なわけではないが、同じ熊本県の生れである私にとって、
小学生のころ、
テレビから流れてくる水俣病(以前も書いたが病気ではなく水俣事件である)のことは、
身近な、それでいて大きな恐怖だった。

絶対に忘れられない、忘れてはいけない(忘れたくない)事件である。

Date: 1月 7th, 2020
Cate: 提言

いま、そしてこれから語るべきこと(その14)

その13)で、二つの映画のことに少しだけ触れた。
実在の写真家、ユージン・スミスをジョニー・デップが演じる「Minamata」が、
今秋公開される、とのこと。

この映画のテーマ曲が世界で初めて披露されたコンサートが、昨年末、熊本で開催されている。

Date: 2月 4th, 2019
Cate: 提言

いま、そしてこれから語るべきこと(その13)

「(水俣病患者は)人間の形はしていても中身は人間でなくなる」
と発言した原一男氏のドキュメンタリーは「MINAMATA NOW!」というそうだ。

原一男氏の、この発言のほぼ一年後に、ジョニー・デップ主演の「Minamata」がニュースになった。
実在の写真家、ユージン・スミス役を演じる、とのこと。

数日前に、劇中写真が公開され、日本人キャストも発表になっている。
公開日はまだ発表になっていない。

「MINAMATA NOW!」と「Minamata」。
前者の「NOW!」は、いったいなんなのだろうか。

Date: 5月 15th, 2017
Cate: 提言

いま、そしてこれから語るべきこと(その13)

原一男氏が12日の謝罪で、何を語ったのか。
原一男、謝罪で検索すれば、いくつかのニュースサイトが表示される。

謝罪のすべてが読めるわけではない。
あくまでも一部分だけがニュースになっている。

それを読む限りでは、やはり原一男氏にあるのは無情だ、と思った。
無情があるという言い方も変とは思いつつも、やはりそう思った。

ドキュメンタリー映画は、いわば記録である。
なぜ、ドキュメンタリー映画を撮るのか(残すのか)。

10年後、20年後、さらには50年後、100年後、
そのドキュメンタリー映画(記録)が、未来の人たちはどう観るのか(感じるのか、考えるのか)。

原一男氏に、そこまで想像力はあるのだろうか、と考えてしまう。
無情と書いたのは、想像力がない、という意味も含めてであり、
そこが非情と無情の決定的な違いと考えている。

Date: 5月 10th, 2017
Cate: 提言

いま、そしてこれから語るべきこと(その12)

(その11)に、facebookでコメントがあった。

そこには、
水俣病と病気扱いしたのが間違いである、と,まずあった。
たしかにそうである。
水俣病と、私も書いている。けれど、病気ではない。

コメントには、森永ヒ素ミルク中毒事件と同じくチッソ水銀中毒事件であり、
事件であるのだから、患者ではなく被害者とされるべきだ、と。

そうである、チッソ水銀中毒事件の被害者である。
(その11)でリンクしている産経ニュースの記事で、
原一男氏は
「説明不足で、差別意識があると受け止められても仕方がない発言をした。傷つけた患者や家族に謝りたい」
と語っている、とある。

ドキュメンタリー映画を製作している監督が、被害者ではなく患者と呼んでいる。
この原一男氏は、プロフェッショナルなのだろうか。

ドキュメンタリーをつくっていく人間として、
プロフェッショナルとしての非情を、原一男氏はもっていないのではないだろうか。

原一男氏にあるのは、無情だけかもしれない。

Date: 5月 10th, 2017
Cate: 提言

いま、そしてこれから語るべきこと(その11)

さまざまなニュースが流されていっていく。
ある人は気にも留めないニュースであっても、
別のひとにとっては、絶対に見過せないニュースでもある。

このニュースがそうだ。
水俣病テーマの映画撮影中の原一男監督が「(患者は)文化を受け入れる部分がダメージを受ける」と発言 謝罪へ

映画監督の原一男氏の講演会での発言のすべてが読めるわけではなく、
その一部分だけである。
その前後に関しても情報はない。

それでも……、である。
原一男氏は説明不足といわれている。
そうとはとうてい思えない発言をされている。
見出しになっている発言よりも、はるかにひどい。

「(水俣病患者は)人間の形はしていても中身は人間でなくなる」

記事には、《参加者らから「患者への差別だ」と批判が出ている》とあるが、
これは差別という言葉でおさめてしまっていいとも思えない。

原一男氏の根底にあるのは、もっとひどい、別のもののような気がする。
それこそが「人間の形はしていも中身は人間でなくなる」ものではないのか。

Date: 1月 29th, 2015
Cate: 提言

いま、そしてこれから語るべきこと(その10)

水俣病は熊本県水俣市で発生した公害病である。
私も熊本生れである。
水俣市と私の故郷である山鹿市は同じ熊本でも南と北でかなりの距離がある。
山鹿市は海に面していない。

それでも私が小学校のころ、テレビではひんぱんに水俣病のことがとりあげられていた。
小学生であった私には、身近な恐怖にも感じられた。

1971年にはゴジラ対ヘドラという映画が公開された。
公害が問題になっていた時代だった。

大都会から離れている田舎町では公害なんて……、と思えないことを、
水俣病はわからせてくれていた。

水俣の問題は熊本で生れ育ち、
あの時代、頻繁に報道される水俣病のことを見聞きしてきた者には忘れるわけにはいかない。

それでも熊本から離れ東京で暮すようになると、
時代もずいぶん経ったこともあり、それにテレビのない生活をおくってきたことも重なって、
水俣病・水俣に関することを目にすることが極端に減っていた。

そこにNHKのニュース番組での、坂本しのぶさんであった。

六床部屋のベッドの上で、イヤフォンをつけてテレビを見ていた。
消灯時間は夜九時。いわば黙認のかたちで、みな十時くらいまではカーテンを閉めテレビを見ていた。
私もそのひとりだった。

涙はこんなに出てくるものなのか、と思うほどだった。
個室だったら声を出していたであろう。

偽善者にもなれない私はテレビを見つめるだけである。
私には何もできない。涙を流すことだけである。

けれど、オーディオは何かができるのではないか、
オーディオにできることはあるはずだと思っていた。

Date: 1月 27th, 2015
Cate: 提言

いま、そしてこれから語るべきこと(その9)

夜九時からのNHKのニュース番組だった。
番組の冒頭ではなく、その日のニュースあとに、特集としての映像だった。

どのくらいの長さだったのだろうか。
長いようで短かったのかもしれない。
20分はなかったのではないか、もしかすると10分くらいの映像だったのかもしれない。

長さを憶えていないのは、長さはここではどうでもいいことでしかなかったからだ。

映像が終り、画面はスタジオに切り替る。
ニュースキャスターが、涙をこらえているのがわかる。

彼も、映像が放送されていた時、涙を流していたのだろう、と思っていた。
彼はプロである。
だから映像が終って、自分にカメラが向けられれば、涙を視聴者にみせるわけにはいかない。

胸を打つ映像だった──、とはいいたくない。
映像は、胎児性水俣病患者の坂本しのぶさんだった。

Date: 1月 26th, 2015
Cate: 提言

いま、そしてこれから語るべきこと(その8)

このブログが書き始めたのは2008年9月。
六年半ほど前。私は45だった。

いま、このタイトルのブログを読みなおしていて、
六年半前のことなのに、「青かったなぁ……」と思ってしまった。

タイトルもそうだし、カテゴリー分けにしてもそうだ。
ひとつ前の(その7)を書いたのが、2008年11月。
そのころは、このタイトルでいこう、と思っていた。

いま「青かったなぁ……」と思い、タイトルもカテゴリー変えようかとも考えた。
でも、変えずにこのまま書いていこうと思う。

(その7)で、交通事故にあわれたオーディオファイルの方のことを書いている。
私が、ここで書きたいのは、オーディオの効能性である。
なぜ効能性なのかについては、(その2)でふれている。

菅野先生のベストオーディオファイルには多くの人が登場された。
私にとっても、もっとも印象深かったのは、交通事故にあわれた人だった。

このとき菅野先生と、このオーディオファイルの方が話されているカセットテープを聞きながら、
ワープロで文字入力していた。まとめも私がやっている。

テープに録音された会話をきいていた。
そのころから、オーディオの効能性を考えはじめていたのかもしれない。
この数年後、私は左膝を骨折して入院した。手術を受けた。
そのときのプレートを抜くために八ヵ月後にまた入院した。

このときNHKのニュース番組をみていた。
このNHKのニュースを見るための骨折・入院・手術だったのかもしれない──、
真面目にそう感じていた。

テレビには、水俣病の女性が映し出されていた。

Date: 11月 14th, 2008
Cate: 提言

いま、そしてこれから語るべきこと(その7)

ステレオサウンドで連載されている菅野先生の「レコード演奏家訪問」、
この企画の前身にあたる「ベストオーディオファイル」の対談のまとめを担当していたときがある。
どの号に載っているのかは忘れてしまったが、交通事故に遭われた方との菅野先生の対談は、
いまオーディオの効能性を考えるにあたって、私の中では継がっている。

その方はひどい交通事故に遭われて、医者からも「そんなに長くない」と言われ、
実際、後遺症がひどくて、風で髪の毛がなびいただけでも、全身に強い痛みが走り、
ものすごい強い痛み止めの薬を(医者からは一日の量が決められていたにもかかわらず)、
家中、それこそトイレの中にまで痛み止めの薬を置いて、
制限量などまったく無視して服用しなければ、がまんできないほどの痛みに悩まされていた。

そういう日々をおくっていたら、ある日、
ある医者に「最近はCDという便利なものが出ていて、比較的簡単にいい音がきけるから」と
オーディオをすすめられて、毎日毎日モーツァルトのオペラを中心に、
CDプレーヤーのリピート機能を使って、一日中聴く生活をはじめられた。

モーツァルトを聴き続けているうちに、知らず知らずのうちに薬を飲む量が減ってきて、
菅野先生が訪問されたときには、ほとんど服用しなくてもいいくらいに回復されていた。

ステレオサウンドの80号前後に載っているはず。
手元にその号をお持ちなら、ぜひ読みなおしていただきたい。

オーディオの持つ効能性だと、私は思っている。

Date: 11月 14th, 2008
Cate: 提言

いま、そしてこれから語るべきこと(その6)

2000年ごろの資生堂発行の「花椿」に、
資生堂の研究所が、肌に心地よい刺戟を与えると、免疫力が活発になることを発見した、
という短い記事が載っていたのをしっかりと憶えている。

肌に心地よい刺戟……。
いろいろあると思う。
肌の触れ合いやマッサージもそうだろうし、それこそ男女の営みもそう。
もちろん、いい音楽をいい音で聴くという行為(ヘッドフォンではなく、スピーカーで)も、
肌への心地よい刺戟となっているはずだ。

菅野先生が、ジャーマン・フィジックスのトロヴァドールを導入されたときの音、
何度も菅野先生の音を聴かせてもらっているが、それまでの音といちばん異っていたのは、
皮膚感覚に訴えてかけてくる感触だった。音を浴びているといってもいいかもしれない。

その日は、5月にしてはかなり暑い日で、たまたま半袖姿だったので、
肌が露出している両腕、顔が受けている刺激は、いままで体験したことのない心地よいものだった。

菅野先生の肌艶がいいのもうなずける。

音楽療養師という仕事がある。
実際に見たことがあるが、その仕事は、患者が歌をうたったり、楽器を演奏することでリハビリを行なうもの。

脳血管障碍の合併症としての、
失語症(自分の考えている言葉がスムーズに出てこない、もしくは思っている言葉と違う言葉が出てしまう)でも、
話す言葉の中枢と歌うときの中枢は異るようで、
流暢にカラオケで歌うことができ、その表情は生き生きとし、
話せないことによるストレスが、歌うことで解消されると聞いている。

またリハビリの時、痛さを少しでも紛らわせるために、BGMとして、
クラシックに関心のない人でも、耳にしたことのある曲を流しているところもある。

ただ、どちらも積極的に音楽を聴くことによる療養ではない。
病院というシステムの中で、音楽を聴かせるためだけのスペースを確保し、
そのための装置を用意して、しかも調整して……、ということは、まだまだ望めないことだろう。

けれど、いつかそういう日が来てほしいし、そうあってほしい。
そう思うのには理由がある。

Date: 11月 14th, 2008
Cate: 提言

いま、そしてこれから語るべきこと(その5)

個々のオーディオ機器が持つ効能性、オーディオそのものが持つ効能性がある。

オーディオ機器の効能性といっても、なかなか定義し難い。
ひとつ言えるのは、効能性を語るには、機能性、性能性について語っておくべきだということ。
機能性、性能性を把握したうえで、何ができるようになったのか、ではないだろうか。

どれだけよくなったとか、これだけ素晴らしい音がするといったことから一歩踏み込んでところでの、
どんなことが可能になり、どんなことをもたらしてくれるのか。

これから先、ハードウェア、ソフトウェアとも、
デジタル技術がますます導入されるのは間違いないこと。
プログラムソースの形態も変りつつある。
コントロールアンプの形態も、必然的に変っていく。

これから機能性を語ることが重要視されるだろうし、
効能性への言及も求められると思っていいだろう。
というよりも、求められなくとも、自ら語っていくべきだと思っている。

ただ、すべてのオーディオ機器について、効能性を語れるかというと、そうでないものもある。