Archive for 3月, 2022

Date: 3月 31st, 2022
Cate: 戻っていく感覚
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GAS THAEDRAがやって来る(その6)

1970年代に登場したトランジスターアンプをすべて聴いているわけではない。
なのにおもうのは、意外にもGASのTHAEDRAとSAEのMark 2500の組合せこそ、
マッキントッシュのC22とMC275のトランジスターアンプ版といえるのではないか、と。

C22とMC275の組合せ、C28とMC2105の組合せは聴いたことがある、
といっても、比較試聴しているわけではない。
それぞれ別の場所で、まったく違うスピーカーで聴いたことがある、というだけでしかない。

どちらのアンプの組合せも、新品同様の性能(音)を維持していたのかは、はっきりしない。
そういう状態での、いわば記憶のなかでの比較でしかないのだが、
C28+MC2105は、C22+MC275とはずいぶん違った方向の音のように感じてしまった。

もちろんC28+MC2105に、C22+MC275そっくりの音を求めていたわけではない。
私が感じている音の良さを引き継いでいてほしかった、というだけのことで、
私がそう感じないからといって、他の人もそうだ、とは思っていない。

また、その音を聴いてもいないのに、
THAEDRAを落札した時から、Mark 2500との組合せは、
私にとってのC22+MC275のトランジスターアンプ版といえる存在になってくれるのかも──、
そんな予感が生れてきた。

マークレビンソンのLNP2とスチューダーのA68の組合せも、
また充分魅力的なのだが、この組合せはC22+MC275のトランジスター版ではない。

LNP2とMark 2500の組合せも、ちょっと違う。
あくまでも感覚的なことでしかないし、
こんな感覚的なことは、誰かに理解してもらう、なんてこととは無縁のこと。

つまりは、書いても無駄なことなのかもしれないが、
それでも私にとって大事なのは、そう感じてしまった、ということである。

Date: 3月 31st, 2022
Cate: 老い

老いとオーディオ(なにに呼ばれているのか・その4)

1976年、「五味オーディオ教室」と出逢った私は、
その一ヵ月後くらいにステレオサウンドを書店で見つけた。

41号と別冊の「コンポーネントステレオの世界 ’77」である。
「コンポーネントステレオの世界 ’77」の巻頭は、
黒田先生の「風見鶏の示す道を」である。
     *
 ともかく、ここに、一枚のレコードがある。あらためていうまでもなく、ピアニストの演奏をおさめたレコードだ。
 そのレコードを、今まさにきき終ったききてが、ここにいる。彼はそのレコードを、きいたと思っている。たしかに、彼は、きいた。きいたのは、まさに、彼だった。しかし、少し視点をかえていうと、彼は、きかされたのだった。なぜなら、そのレコードは、そのレコードを録音したレコーディング・エンジニアの「きき方」、つまり耳で、もともとはつくられたレコードだったからだ。
 しかし、きかされたことを、くやしがる必要はない。音楽とは、きかされるものだからだ。たとえ実際の演奏会に出かけてきいたとしても、結局きかされている。きのうベートーヴェンのピアノ・ソナタをきいてね——という。そういって、いっこうかまわない。しかしその言葉は、もう少し正確にいうなら、きのうべートーヴェンのピアノ・ソナタを誰某の演奏できいてね——というべきだ。誰かがひかなくては、ベートーヴェンのソナタはきくことができない。
 楽譜を読むことはできる。楽譜を読んで作品を理解することも、不可能ではない。だが、むろんそれは、音楽をきいたことにならない。音楽をきこうとしたら、誰かによって音にされたものをきかざるをえない。つまり、ききては、いつだって、演奏家にきかされている——ということになる。
 レコードでは、もうひとり別の人間が、ききてと音楽の間に介在する。介在するのは、ひとりの人間というより、ひとりの(つまり一対の)耳といった方が、より正確だろう。
 ここでひとこと、余計なことかとも思うが、つけ加えておきたい。きかされることを原則とせざるをえないききては、きかされるという、受身の、受動的な態度しかとりえないのかというと、そうではない。きくというのは、きわめて積極的なおこないだ。ただ、そのおこないが、積極的で、且つクリエイティヴなものとなりうるのは、自分がきかされているということを正しく意識した時にかぎられるだろう。
 なぜなら、きかされていることを意識した時にはじめて、きこえてくる音楽に、みずから歩みよることができるからだ。きいているのは自分なんだとふんぞりかえった時、音楽は、きいてもらっているような顔をしながら、なにひとつきかせていないということが起こる。ききての、ききてとしての主体性も、そしてききてならではの栄光も、きかされることにある。
     *
中学二年の冬だった。
「風見鶏の示す道を」を、この時、くり返し読んでいてよかった、と思っている。

Date: 3月 30th, 2022
Cate: 戻っていく感覚

GAS THAEDRAがやって来た

三十分ほど前に、ヤフオク!で落札したGASのTHAEDRAが届いた。
SAEのMark 2500の上に置いて、眺めているところ。

ヤフオク!の写真のとおり、かなり程度はいい。
THAEDRAのリアパネルは酸化していたり、錆びついてたりしていることが、割と多い。

THAEDRAはヤフオク!に、よく出品されている。
このブログを読んで、THAEDRAを買ってみようかな、と思う人がいるのかどうかはわからない。
もしかすると一人くらいはいるのかもしれない。

そういう人に一つだけいえるのは、
リアパネルの写真がないTHAEDRAの出品は用心した方がいい、ぐらいである。
リアパネルの写真がなかったら、出品者に質問して写真を追加してもらった方がいい。

THAEDRAの音は──、というと、まだ音を出していない。
音が出ない、とあったわけだから、来週あたり、少し時間がとれるようになったら、
内部をチェック、分解掃除して、それからになる。

20代のころ、SUMOのThe Gold(中古)を買った時も、そうした。
丸一日かけてすみずみまで分解掃除して、それから電源投入。
それから一週間は、なにかあっても大丈夫なように、10cmのフルレンジを鳴らしていた。

安心して使えるという確信が得られてから、
当時鳴らしていたセレッションのSL600に接続したものだ。

今回のTHAEDRAも、同じようにする。

別項「サイズ考(SAE Mark 2500を眺めていると)」でも書いているように、
THAEDRAも、いま見ると、意外にコンパクトなコントロールアンプとして映る。

それからMark 2500もAGIの511もそうなのだが、
このころのアメリカのアンプの板金加工は、いい感じだな、と思ってしまう。

天板といっても平らな金属板ではなく、側版もかねているからコの字型である。
曲げ加工が施されているわけだが、そのカーヴが、アメリカのアンプだな、と感じさせる。

金属から削り出された筐体も魅力的ではあるが、
この時代の筐体も、私にはとても魅力的である。

Date: 3月 29th, 2022
Cate: 戻っていく感覚

GAS THAEDRAがやって来る(その5)

コーネッタを、
マークレビンソンのLNP2とスチューダーのA68で鳴らしたい、と欲求は、
いまもかなり強く持っている。

けれど、以前から思っていることの一つに、
五味先生はタンノイ・オートグラフをマッキントッシュのC22とMC275で鳴らされていた。
この組合せがメインだったし、
晩年は、カンノアンプの300Bシングルで鳴らされてもいた。

C22とMC275はどちらも管球式である。
トランジスターアンプで、C22とMC275にかわる組合せは、なんだろうか。

中学生のころから、そんなことをあれこれ想像していた。

ステレオサウンド 47号の「オーディオ巡礼」のなかで、
五味先生は、こう書かれている。
     *
南口邸ではマッキントッシュではなくスレッショールドでタンノイを駆動されている。スレッショールド800がトランジスターアンプにはめずらしく、オートグラフと相性のいいことは以前拙宅で試みて知っていたので南口さんに話してはあった。でも私は球のマッキントッシュを変える気にはついになれずにきたのである。
     *
スレッショルドの800Aは、そのころの私にとっては憧れのパワーアンプだった。
A級動作で200W+200Wの出力を誇る。
同時代の日本のA級アンプの代表的存在であったパイオニアのExclusive M4が50W+50Wだった。

価格が違うにしても、アメリカと日本という国の規模の大きさが、
そのまま出力にもあらわれている──、とそう感じたものだった。

そのころは可変バイアスによる動作だ、ということはまだはっきりとしていなかった。
なので素直にA級動作と信じていた。

とにかくスレッショルドの800Aは、理想のアンプに近かった存在ともいえた。
オートグラフをトランジスターアンプで鳴らすのなら、800A!
それしかない!、と思えていた時期が私にはあった。

800Aの音は、個人宅で二回(違う方のリスニングルーム)、
熊本のオーディオ店でも何度か聴く機会があった。

800Aを手に入れようとしたことがあった。
それでも、それは800Aをいいアンプと思ったからで、
800AがMC275の代り、というか、MC275のトランジスター版だと思っていたわけではない。

五味先生もそうだったはずだ。
だから、C22とMC275のトランジスター版といえる組合せは、どういうものがあるのか。

マッキントッシュのC28とMC2105がそれにあたる、とはどうしても思えなかった。

Date: 3月 29th, 2022
Cate: 戻っていく感覚

GAS THAEDRAがやって来る(その4)

SAEのMark 2500とGASのTHAEDRAはどうなのか。
悪くないはずだ、という予感はもっているが、
音だけは実際に聴いてみないことには、何もいえない。

それでも悪くない、と思うのは、
どちらもジェームズ・ボンジョルノが設計に関わっていること、
それにステレオサウンド 37号の新製品紹介の記事でTHAEDRAが取り上げられている。

そこで試しにMark 2500と組み合わせてみたら、ひじょうにいい結果が得られた、
と井上先生が語られている。

そうであろう、と思うだけでなく、
その結果は、やはりTHAEDRAの初期モデルだったから、よけいにそうだったのか、とも思う。

初期モデルということで思い出すのは、
これまでに別項で何度か引用している五味先生の文章だ。
     *
 JBLのうしろに、タンノイIIILZをステレオ・サウンド社特製の箱におさめたエンクロージァがあった。設計の行き届いたこのエンクロージァは、IIILZのオリジナルより遙かに音域のゆたかな美音を聴かせることを、以前、拙宅に持ち込まれたのを聴いて私は知っていた。(このことは昨年述べた。)JBLが総じて打楽器──ピアノも一種の打楽器である──の再生に卓抜な性能を発揮するのは以前からわかっていることで、但し〝パラゴン〟にせよ〝オリンパス〟にせよ、弦音となると、馬の尻尾ではなく鋼線で弦をこするような、冷たく即物的な音しか出さない。高域が鳴っているというだけで、松やにの粉が飛ぶあの擦音──何提ものヴァイオリン、ヴィオラが一斉に弓を動かせて響かすあのユニゾンの得も言えぬ多様で微妙な統一美──ハーモニイは、まるで鳴って来ないのである。人声も同様だ、咽チンコに鋼鉄の振動板でも付いているようなソプラノで、寒い時、吐く息が白くなるあの肉声ではない。その点、拙宅の〝オートグラフ〟をはじめタンノイのスピーカーから出る人の声はあたたかく、ユニゾンは何提もの弦楽器の奏でる美しさを聴かせてくれる(チェロがどうかするとコントラバスの胴みたいに響くきらいはあるが)。〝4343〟は、同じJBLでも最近評判のいい製品で、ピアノを聴いた感じも従来の〝パラゴン〟あたりより数等、倍音が抜けきり──妙な言い方だが──いい余韻を響かせていた。それで、一丁、オペラを聴いてやろうか、という気になった。試聴室のレコード棚に倖い『パルジファル』(ショルティ盤)があったので、掛けてもらったわけである。
 大変これがよかったのである。ソプラノも、合唱も咽チンコにハガネの振動板のない、つまり人工的でない自然な声にきこえる。オーケストラも弦音の即物的冷たさは矢っ張りあるが、高域が歪なく抜けきっているから耳に快い。ナマのウィーン・フィルは、もっと艶っぽいユニゾンを聴かせるゾ、といった拘泥さえしなければ、拙宅で聴くクナッパーツブッシュの『パルジファル』(バイロイト盤)より左右のチャンネル・セパレーションも良く、はるかにいい音である。私は感心した。トランジスター・アンプだから、音が飽和するとき空間に無数の鉄片(微粒子のような)が充満し、楽器の余韻は、空気中から伝わってきこえるのではなくて、それら微粒子が鋭敏に楽器に感応して音を出す、といったトランジスター特有の欠点──真に静謐な空間を持たぬ不自然さ──を別にすれば、思い切って私もこの装置にかえようかとさえ思った程である。でも、待て待てと、IIILZのエンクロージァで念のため『パルジファル』を聴き直してみた。前奏曲が鳴り出した途端、恍惚とも称すべき精神状態に私はいたことを告白する。何といういい音であろうか。これこそウィーン・フィルの演奏だ。しかも静謐感をともなった何という音場の拡がり……念のために、第三幕後半、聖杯守護の騎士と衛士と少年たちが神を賛美する感謝の合唱を聴くにいたって、このエンクロージァを褒めた自分が正しかったのを切実に知った。これがクラシック音楽の聴き方である。JBL〝4343〟は二基で百五十万円近くするそうだが、糞くらえ。
     *
4343を鳴らしていたアンプはGASのTHAEDRAとマランツのModel 510Mである。
この時のTHAEDRAも初期モデルだったはず。

Date: 3月 29th, 2022
Cate: 戻っていく感覚

GAS THAEDRAがやって来る(その3)

THAEDRAの音は、わりと誤解されているのかもしれない。

GASはGreat American Soundのことである。
そのGASのデビュー作がAMPZiLLAなのだから、
ユニークなネーミングと受けとる人もいれば、
ふざけたネーミングだと憤る人もいるのが世の中だし、
どちらにしてもGASと名乗る会社のアンプだけに、
いかにもアメリカンな音がするもの──、
とその音を実際に聴いていない人ならば思い込んでいたとしてもおかしくない。

GASの音は、当時から男性的といわれていた。
けれど如何にも、その力を誇示するような音では本来なかったのだが、
GASのアンプも、海外製アンプの例にもれず、
型番は同じでも製造ロットによって、けっこう音の傾向が変ってきている。

瀬川先生は、
《初期の製品だけが持っていた、素直さが魅力につながるような、控え目ゆえの好ましさ》、
そんなことを書かれている。

THAEDRAに、それはあてはまる。
むしろTHAEDRAとAMPZilLAが、特にそうだ、ともいえる。

THAEDRAはTHAEDRA IIになり、THAEDRA IIBが日本に入ってきている。
末尾に何もつかないTHAEDRAにしても、
内部をみると、こまかなところが変更されているのがわかる。

どの時期のTHAEDRAを聴いているのか、
それによってTHAEDRAの音の印象は、かなり違っていることだろう。

私は幸運なことに初期のTHAEDRAの音を聴いている。
私が20代のころに自分のモノとしたTHAEDRAもそうである。

今回のTHAEDRAは、まだ届いていないのでなんともいえないが、
ヤフオク!の写真で判断するかぎりでは、初期のモノの可能性が高い。

初期のTHAEDRAこそが最高、といいたいのではない。
私が求めているTHAEDRAは、初期のモノだというだけのことだ。

Date: 3月 28th, 2022
Cate: James Bongiorno

GASとSUMO、GODZiLLAとTHE POWER(その14)

GASのデビュー作は、パワーアンプのAMPZiLLAである。
ステレオサウンド 36号(1975年9月発売)の新製品紹介の記事に登場している。
51号(1979年6月発売)に新製品としてGODZiLLAが取り上げられている。

なので、これまでAMPZiLLAが出て、
その上級機としてGODZiLLAが出てきたものだと思ってしまっていた。

けれど、AMPZiLLAの前に、GODZiLLAがあった、という話も耳にしていた。
それでもステレオサウンドのどこを見ても、そんなアンプは登場していないのだから、
AMPZiLLA、 GODZiLLAの順だと信じていた。

GASのTHAEDRAを昨晩落札したことを別項で書いている。
それでGASの情報を、改めて蒐集しようと検索してみた。
画像検索のみをしていたら、
いままで目にしたことのない、それでもAMPZiLLAによく似たアンプの写真がヒットした。

GODZiLLAとある。
AMPZiLLAをモノーラル仕様にしたアンプである。
なのでパワーメーターは一つだけ。

出力は8Ω負荷で250W、4Ω負荷で500W、2Ω負荷で1000Wとなっている。
まさにGODZiLLAだ。

このオリジナルGODZiLLAが世に出たのかどうかは、はっきりしない。
プロトタイプだけなのかもしれない。

まだまだ知らないことがある。
ソーシャルメディアが、その知らないことに出会わせてくれる。

Date: 3月 28th, 2022
Cate: 戻っていく感覚

GAS THAEDRAがやって来る(その2)

GASのTHAEDRAの落札は昨晩、つまり日曜日である。
ヤフオク!にはいくつかのクーポンがある。

土日落札分にかぎり、10%割引(上限5,000円まで)というクーポンもある。
このクーポンが使えて、33,000円の落札金額は10%割引の金額になった。

こんな金額で落札してTHAEDRAに申しわけない、みたいな気持もある。
とはいっても、四十年以上のアンプを入手して、
そのまま使おう、とはまったく考えていないわけで、
メインテナンス、場合によっては修理が必要になることも、
その費用も考慮して、つねに落札金額を決めて入札している。

応札することは、なので、まずない。

ヤフオク!を眺めていると、
ジャンクと説明されているアンプを、けっこうな金額で落札する人がいる。
そういうモノのなかには、写真で判断するかぎり、かなり手入れが必要と思われるのがある。

その費用はけっこう金額になるであろうに、
そんな金額で落札するのか──、
落札した人は、どこに修理依頼するのか、それとも自分で直すのか、
まさかそのまま聴くということはないであろうに、
いったいどうするつもりなのか。よけいなことをつい考えてしまう。

話が逸れてしまったが、
今回、THAEDRAをもう一度と思ったのには、いくつかの理由がある。
といっても、欲しい、というまず気持があっての、後付けみたいな理由なのだが、
THAEDRAのヘッドフォンアンプとしての実力を知りたい、というのがまずある。

以前、別項で書いているように、ロジャースのLS3/5AをTHAEDRAで鳴らしたことがある。
私にとって、LS3/5Aの最上の音は、この時の音である。

多くの人がもっているGASのアンプの音のイメージとは、違っているのかもしれない。
LS3/5Aから、馥郁たる響きが鳴ってきた。

馥郁たる響きといっても、人によってイメージする響きは、たぶん大きく違うだろう。
ここで聴けた響きこそが、イギリスの、あの時代のスピーカーだからこそ聴けた響きであり、
THAEDRAの繊細な一面をはっきりと聴きとれた。

LS3/5Aを持っている人は割と多い。
そういう人のところで、いくつかのLS3/5Aの音を聴いてきたけれど、
THAEDRA+LS3/5Aの音を超えていない。

Date: 3月 27th, 2022
Cate: 戻っていく感覚
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GAS THAEDRAがやって来る(その1)

GASのTHAEDRAをヤフオク!で落札したばかりだ。
音が出ない、ということがあってか、33,000円(税込み)という、
予想していた価格よりもかなり安価で落札できた。

音は出ないわけだから、どこかが故障しているわけだ。
それでも写真を見る限りは、さほどくたびれた印象は受けない。
となると、音が出ない原因は、おそらくあそこだろう、という見当はついている。

実は20代のころ手に入れたTHAEDRAも、最初音が出なかった。
輸入元のエレクトリで、私のところに届く前にチェックされているにもかかわらず、である。

なので原因はここじゃないか、と思うところがあった。
事実、そこが原因だったし、簡単に修理できた。

今回も同じところが原因であれば、すぐに音は出るようになる。
もっとも実物が届いてみないことには、なんともいえないけれど、
この値段で手に入れたのだから、いろいろやって楽しむつもりでいる。

これまでいろんなオーディオ機器を使ってきたけれど、
一度手離した機種をふたたび使うようになるのは、今回が初めてだ。

それにしても2020年に、タンノイのコーネッタを、
2021年に、SAEのMark 2500を、
そして今回(2022年)に、GASのTHAEDRAである。

すべてヤフオク!で、そのころの落札相場よりもかなり安価で落札できている。

コーネッタを手に入れたとき、
アンプはマークレビンソンのLNP2とスチューダーのA68の組合せで鳴らしてみたい、
そんなことをおもっていたのに、
現実には、Mark 2500にTHAEDRAである。

THAEDRAはジェームズ・ボンジョルノの作である。
Mark 2500の回路の基本設計もボンジョルノである。

いったいどんな音がするのだろうか。

Date: 3月 27th, 2022
Cate: ディスク/ブック

新版 名曲この一枚(その1)

西条卓夫氏の「名曲この一枚」が復刊している。
二ヵ月ほど前に出ていたのを、昨日知ったばかり。

盤鬼・西条卓夫氏について語る必要はないだろう。

Date: 3月 27th, 2022
Cate: 書く, 老い

老いとオーディオ(なにに呼ばれているのか・その3)

十年以上、毎日こうやってオーディオ、音楽、音について書いている。
毎日、オーディオ、音楽、音について考えている、ともいえる。

「五味オーディオ教室」と13歳のときに出逢ってからというもの、
オーディオ、音楽、音について考えなかった日はなかった、といえる。

けれどここに来て、考えているのか──、と思うようになってきた。
つまり考えているのではなく、考えさせられているのでは──、
そんなふうに感じることが出てきたからだ。

Date: 3月 26th, 2022
Cate: 欲する

新月に出逢う(その10)

今年はすでに三箇所の展示会で、En氏の人形をみてきている。
それぞれの展示会には、En氏以外の人形作家の作品も、もちろんある。

去年2月の新月でEn氏の作品に出逢ってからというもの、
これまでに何人もの人形作家の作品(人形)をみてきて、
なぜ、ここまでEn氏の人形に惚れ込んでいるのだろうか、
その理由がおぼろげながらではあるが、つかめてきている。

その4)で書いていること、である。
En氏の人形は、私にとって「目があるもの」なのだ。

En氏以外の作家の人形にも、もちろん目はある。
目のない人形なんて、おそらくないであろう。

けれど目がついているからといって、
「目があるもの」と認識するかどうかはなんともいえない。

「目があるもの」ならば、その人形からこちらが見られている、と感じられなくてはならない。
世の中には、私が一年間見てきたよりもずっとずっと多い人形作家、
それからその作品である人形がある。

それらのなかには、En氏の作品と同じように「目があるもの」と感じられる人形があるだろう。
もっと強く感じられる人形もあるかもしれない。

でも、いまのところ私にとって「目があるもの」が感じられるのは、
En氏の人形である。

Date: 3月 26th, 2022
Cate: 604-8G, ALTEC, ワイドレンジ
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同軸型ユニットの選択(その27)

ステレオサウンド 50号のマイ・ハンディクラフト、
別冊「HIGH-TECHNIC SERIES 4」、
同じく別冊「SOUND SPACE 音のある住空間をめぐる52の提案」、
これらの記事を何度もくり返し読んできた私にとっては、
アルテックの604-8Gと平面バッフルとの組合せが鳴らす音と響きは、
私自身が心から求める世界とは違っていることはわかっていても、
思いっきり鳴らしてみたい世界でもある。

でるだけ大きな面積の平面バッフルこそが、
こういう音を求めるには最良の結果をもたらすことぐらいはわかっていも、
現実に5.5畳ほどのワンルームに、1.8m×0.9mの平面バッフルを無理矢理入れて、
シーメンスのコアキシャルを取り付けて聴いていた私は、
いかにも大きすぎることを感じていた。

私の感覚からすれば、自分の身長よりも高いスピーカーはあまり使いたくない。
それは広いリスニングルームがあったとしてもだ。

このへんのことは、人それぞれの感覚があってのことだから、
どんなに背の高いスピーカーであっても、音が良ければまったく気にならない、
そういう人もいれば、私のような人もいる。

さほど大きくない平面バッフルに604-8Gを取り付けて、
サブウーファーはエンクロージュアにおさめる。

こんな構想を考えながら思い出しているのは、
ダルクィストのスピーカーシステムDQ10のことだ。

いまではDQ10といっても、どんなスピーカー?
ダルクィスト? という人のほうが多数だろう。

あえてQUADのESLのアピアランスに似せたDQ10は、
私は聴く機会はなかったけれど、
ハイエンドスピーカーの流れに連なっていく音だったのではないだろうか。

DQ10はウーファーだけがエンクロージュアに収まっていた。
他のユニットは最小限のバッフルに取り付けられていた。

サランネットを外した姿、いわば裸のDQ10はバラックのようでもあった。

Date: 3月 26th, 2022
Cate: LNP2, Mark Levinson

Mark Levinson LNP-2(silver version・余談)

ブラックパネルだけだとおもっていたモデルに、
シルバーパネルまたはホワイトパネルがあるのを知ることがある。

マークレビンソンのLNP2だけでなく、ヤマハのC2もそうである。
GASのコントロールアンプのThaedraにもホワイトパネルがある。

ステレオサウンド 38号の特集、
山中先生のリスニングルームにはホワイトパネルのThaedraが置かれてた。

Thaedraのホワイトパネルは、初期のThaedraだけかとずっと思い込んでいた。
それにThaedraだけにホワイトパネルがある、とも思っていた。

ヤフオク!やソーシャルメディアを眺めていると、そうでなかったことを知る。
Thaedra IIにもホワイトパネルがある。
それだけでなく、Thaliaにもホワイトパネルがあるのを数ヵ月前に知った。

となるとThoebeにもホワイトパネルがあってもおかしくない。
あるのだろうか。

おもしろいのは、いまのところホワイトパネルが存在するのは、
コントロールアンプだけのようである。

マークレビンソンもヤマハもGASもそうである。
私がまだ知らないだけで、パワーアンプにもホワイトパネルがあったりしたのだろうか。

Date: 3月 25th, 2022
Cate: コントロールアンプ像

パッシヴ型フェーダーについて(その8)

グラフィックイコライザーとはまったく関係のないことと思われるだろうが、
ステレオサウンド 54号の瀬川先生の文章を読んでほしい。
     *
 本誌51号でも、計画の段階で、いわゆるライブな残響時間の長い部屋は本当に音の細かな差を出さないだろうか、ということについて疑問を述べた。あらためて繰り返しておくと、従来までリスニングルームについては、残響時間を長くとった部屋は、音楽を楽しむには響きが豊かで音が美しい反面、細かな音の差を聴き分けようとすると、部屋の長い響きに音のディテールがマスクされてしまい、聴き分けが不可能だといわれていた。細かな音をシビアに聴き分けるためには、部屋はできるだけデッドにした方がよい、というのが定説になっていたと思う。たとえば、よいリスニングルームを定義するのに、「吸音につとめた」というような形容がしばしば見受けられたのもその一つの証明だろう。
 現実にごく最近まで、いや現在、または近い将来でさえも、音を聴き分け判断するためのいわゆる試聴室は、できるかぎりデッドにつくるべきだ、という意見が大勢をしめていると思う。しかしそれならば、決して部屋の響きがデッドではない、一般家庭のリビングルームなどを前提として生み出される欧米の様々な優れたスピーカーやアンプやその他の音響機器たちが、何故あれほどバランスのよい音を出すのだろうか……。なおかつそれを日本の極めてデッドなリスニングルーム、つまり、アラを極めて出しやすいと信じられているリスニングルームで聴いても、なおその音のバランスのよさ、美しさ失わないか、ということに疑問を持った。その結果、部屋の響きが長い、ライブな空間でも、音の細かな差は聴き分けられるはずだと確信するに至った。部屋の響きを長くすることが、決して音のディテールを覆いかくす原因にはならない。また、部屋の響きを長くしながら、音の細かな差を出すような部屋の作り方が可能だという前提で、この部屋の設計を進めてきた。
 部屋の響きを美しくしながら、なおかつ音の細かな差をよく出すということは、何度も書いたことの繰り返しになるが、残響時間周波数特性をできるだけ素直に、なるべく平坦にすること。つまり、全体に残響時間は長くても、その長い時間が低域から高域まで一様であることが重要だ。そして減衰特性ができるかぎり低域から高域まで揃っていて、素直であるということ。それに加えて、部屋の遮音がよく、部屋の中にできるかぎり静寂に保つ、ということも大事な要素である。ところでこの部屋を使い始めて1年、さまざまのオーディオ機器がここに持ち込まれ、聴き、テストをし、仕事に使いあるいは楽しみにも使ってみた。その結果、この部屋には、音のよいオーディオ機器はそのよさを一層助長し、美しいよい音に聴かせるし、どこかに音の欠点のある製品、ことにスピーカーなどの場合には、その弱点ないしは欠点をことさらに拡大して聴かせるというおもしろい性質があることに気がついた。
 これはおそらく、従来までのライブな部屋に対するイメージとは全く正反対の結果ではないかと思う。実際この部屋には数多くのオーディオの専門の方々がお見えくださっているが、まず、基本的にこれだけ残響の長い部屋というのを、日本の試聴室あるいはリスニングルームではなかなか体験しにくいために、最初は部屋の響きの長さに驚かれ、部屋の響きにクセがないことに感心して下さる。反面、たとえば、試作品のスピーカーなどで、会社その他の試聴室では気づかなかった弱点が拡大されて聴こえることに、最初はかなりの戸惑いを感じられるようである。特にこの部屋で顕著なことは、中音域以上にわずかでも音の強調される傾向のあるスピーカー、あるいは累積スペクトラム特性をとった場合に部分的に音の残るような特性をもったスピーカーは、その残る部分がよく耳についてしまうということである。
 その理由を私なりに考えてみると、部屋の残響時間が長く、しかも前掲のこの部屋の測定図のように、8kHzでも1秒前後の非常に長い残響時間を確保していることにあると思う(8kHzで1秒という残響時間は大ホールでさえもなかなか確保しにくい値で、一般家庭または試聴室、リスニングルームの場合には0・2秒台前後に収まるのが常である)。高域に至るまで残響時間がたいへん長いということによって、スピーカーから出たトータル・エネルギーを──あたかもスピーカーを残響室におさめてトータル・パワー・エナジーを測定した時のように──耳が累積スペクトラム、つまり積分値としてとらえるという性質が生じるのではないかと思う。普通のデッドな部屋では吸収されてしまい、比較的耳につかなくなる中域から高域の音の残り、あるいは、パワー・エネルギーとしてのゆるやかな盛り上りも、この部屋ではことさら耳についてしまう。従って非常にデッドな部屋でだけバランス、あるいは特性を検討されたスピーカーは、この部屋に持ち込まれた場合、概してそれまで気のつかなかった中高域の音のクセが非常に耳についてしまうという傾向があるようだ。いうまでもなく、こういう部屋の特性というのは、こんにちの日本の現状においては、かなり例外的だろう。しかしはっきりいえることは、これまで世界的によいと評価されてきたオーディオ機器(国産、輸入品を問わず)は、この部屋に持ち込むと、デッドな部屋で鳴らしたよりは一層美しく、瑞々しい、魅力的な音で鳴るという事実だ。
 つまりこの部屋は、オーディオ機器のよさも悪さも拡大して聴かせる、というおもしろい性質を持っていることが次第にわかってきた。
(「ひろがり溶け合う響きを求めて」より)
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グラフィックイコライザーを菅野先生と同じレベルで使いこなせれば、
同じことがいえる。
もちろんグラフィックイコライザーをどんなに調整したところで、
リスニングルームの残響特性が変化するわけではない。

けれどうまく部屋のクセを補整していくことで、
オーディオ機器の音の違いは、よりはっきりと聴きとれるようになる。