新月に出逢う(その10)
今年はすでに三箇所の展示会で、En氏の人形をみてきている。
それぞれの展示会には、En氏以外の人形作家の作品も、もちろんある。
去年2月の新月でEn氏の作品に出逢ってからというもの、
これまでに何人もの人形作家の作品(人形)をみてきて、
なぜ、ここまでEn氏の人形に惚れ込んでいるのだろうか、
その理由がおぼろげながらではあるが、つかめてきている。
(その4)で書いていること、である。
En氏の人形は、私にとって「目があるもの」なのだ。
En氏以外の作家の人形にも、もちろん目はある。
目のない人形なんて、おそらくないであろう。
けれど目がついているからといって、
「目があるもの」と認識するかどうかはなんともいえない。
「目があるもの」ならば、その人形からこちらが見られている、と感じられなくてはならない。
世の中には、私が一年間見てきたよりもずっとずっと多い人形作家、
それからその作品である人形がある。
それらのなかには、En氏の作品と同じように「目があるもの」と感じられる人形があるだろう。
もっと強く感じられる人形もあるかもしれない。
でも、いまのところ私にとって「目があるもの」が感じられるのは、
En氏の人形である。