Archive for 12月, 2017

Date: 12月 31st, 2017
Cate: 1年の終りに……

2017年の最後に

四谷三丁目のジャズ喫茶、喫茶茶会記での音出し。
「THE DIALOGUE」をしつこいぐらいに鳴らしてきた。

「THE DIALOGUE」をひとりで、自分のシステムで聴くのと、
喫茶茶会記のシステムをセッティングしなおして、来てくれた人たちといっしょに聴くのは、
同じではない。

ひとりなのか、複数なのか、という違いではない。
自分のシステムの音を誰かに聴かせるのとも違うからだ。
といっても私自身の音を、誰にも聴かせなくなってもう30年近くになる。

ジャズ喫茶という場での「THE DIALOGUE」、
特にこの組合せでの音は、かかってこい、という気持のあらわれでもある。

誰に対しての「かかってこい」かというと、聴いている人たちに対して、である。

最初から、そのことに気づいていたわけではなかった。
後半になってきて、気づいてきた。
この「かかってこい」は、圧倒的であれ、にもつながっていく。

「かかってこい」という気持に気づかせてくれたという意味でも、
私にとって「THE DIALOGUE」はジャズであり、
2018年も、この「かかってこい」という気持をより強くしていく。

Date: 12月 31st, 2017
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その12)

スイングジャーナルの編集部に、1970年代後半にいた友人からきいた話がある。
ある人に、レコードの録音評を依頼した。
けれど、その人は丁寧にことわってきた。

レコードの録音評は、多くの場合、
その人自身のシステムで聴くことになる。

オーディオ機器の試聴であれば、
ステレオサウンドの場合、試聴室に来てもらっての試聴ということになる。
レコード(録音物)の場合は、スイングジャーナルも、おそらくレコード芸術も、
録音評をやる人のところにレコードを届けての試聴となる。

掲載される雑誌の試聴室で聴くのか、自身のシステムで聴くのか、
さほど違いはなかろう、と思う人は、聴くことの難しさと怖さを理解していない。

そのレコードの録音について語る、ということは、
自身のシステムから鳴ってきた音について語ることである。

そのレコードのここがよかった、というのはまだいい。
そのレコードのここがよくない、というのは、
ほんとうにその録音のまずさについて語っているのか、
それとも自身のシステムの不備を語っているのか、微妙なところである。

自身のシステムの不備とは、システムが力量に問題があるのか、
それとも聴き手(鳴らし手)の力量に問題があるのか、
そこもしっかりと判断しなければならない。

つまりセルフチェックをつねにくりかえしの試聴を行なわなければ、
いったい何を聴いているのかがわからなくなってくる。

そんなのわかりきったことだろう、
レコードの録音の良し悪しを聴いているんだ、と言い切れる人は、
しっぺがえしを喰らっていることにすら気づかずにいるだけだ。

レコードの録音評にしても、スピーカーの試聴記にしても、
己をさらけ出している、というより、
己をさらけ出すことだ、ということに気づかずにいれる人は、
聴くことの怖さを知らずにいる能天気な人、
オーディオ、音楽を嗜好品としてしか捉えていない人だろう。

Date: 12月 31st, 2017
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その11)

その2)でも書いている伊藤先生のいわれたこと。
「スピーカーを選ぶなどとは思い上りでした。良否は別として実はスピーカーの方が選ぶ人を試していたのです。」

ほぼ同じことを、黒田先生が、ステレオサウンド 45号特集の「試聴テストを終えて」で書かれている。
     *
 このスピーカーでこのレコードをきいたら、こんな感じだったと、限られた字数でしるすことはできる。その言葉に、うそもいつわりもない。ただ、たしかにぼくがそうきいたにはちがいないが、立場をいれかえ、言葉の順番をかえると、そのスピーカーはぼくにそうきかせたということになる。スピーカーにもし口があれば(speakerのくせに口がないとはおかしなことだが)、そうかお前には俺をその程度にしかきけなかったのか──ということになる。
 スピーカーに口がないのをいいことに、というより、このことはアンプについても、カートリッジについても、つまりさまざまなパーツについていえることだが、好き勝手なことをいっていると、結果として、おのれの耳のやくざさかげんを、さらにはきき方のなまぬるさを、逆に、スピーカーに笑われることになりかねない。
 テストという言葉を使おうと、試聴という言葉をつかおうと、ことは同じだが、いずれにしろ、主客は、微妙なバランスでいれかわる。テストをしていたつもりの人間がテストされ、試聴されていたはずのスピーカーがその時のききてを試聴しているということだって、充分に起こりうる。
 それを覚悟していなくては、こういう仕事はできない。たしかに、いささかの自信は、なくもない。しかし、自信があれば、それでいいというわけにはいかないだろう。自信という奴には、ともすると、慢心と結託して、のぼせあがるという性格がある。
 なんでまた、そんなわかりきったことを、ことあらためていいだしたかといえば、それは他でもない、そっくりかえっての試聴が、ものであるスピーカーからしっぺがえしをくらう危険があるからだ。自分が充分にききとりかえたかどうかの、いわばセルフ・チェックをくりかえしつつ、先に進まないかぎり落し穴がぽっかり口をあけているのにも気づかず足をふみだしかねない。
     *
覚悟なき聴き手が増えているように感じることがある。
同じことはレコードの録音評にもいえることだ。

Date: 12月 31st, 2017
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(NIRO Nakamichiの復活・その4)

たぶんいまも同じことが行われていると思うが、
オーディオ評論家の元には、メーカーから試作品が持ち込まれることがある。

完成品を聴いて、その評価をするだけがオーディオ評論家の仕事ではなく、
試作品を聴いて、という仕事もある。

そこでのオーディオ評論家とメーカーの人たちとの会話の内容が具体的に漏れてくることはないが、
まったく伝わってこないわけではない。

たいてい気になる点を、オーディオ評論家は指摘する。
メーカーの人は、後日、直して持って来ます、といって帰る。

数日か一週間ほどして、同じメーカーの人が、手直しした、という試作品を持ち込む。
気になった点が、これで直っていることは、まれである、という話は、よく聞いている。

いっしょに試作品の音を聴いて、オーディオ評論家の指摘をメモしていっても、
肝心の担当者が音をよく聴いてなかったり、よくわかってなかったりするから、
こんなやりとりが生じてしまう。

この話をしてくれるオーディオ評論家の人たちも、
ダメなメーカーの名前をいったりはしないが、優秀なメーカーの名前、
それに担当者の名前は話してくれる。

瀬川先生から直接きいた話ではないが、
直接きいた友人が私にはなしてくれたところによると、
デンオンのU氏のことは褒められていた、ということだった。

ここがダメだ、と指摘すると、すぐに手直しした試作品を早いうちに再度持ち込む。
きちんと音を聴いて、音がわかっている人だから、
瀬川先生の指摘が理解できるからこその手直しである。

残念ながら、こういう人は少ない。
私が井上先生からきいたなかでは、中道仁郎氏がそうである。

Date: 12月 31st, 2017
Cate: 書く

毎日書くということ(自覚してきたこと)

毎日書くことによって、自分の中ではっきりとしてきることがいくつもある。
そのひとつが、物分りのいい人ぶっているオーディオマニアが、
大嫌いだということだ。

そういう人にかぎって、いい音はないんだよ、とかいう。
好きな音、嫌いな音があるだけだ、と、わかりきったようなことをいう。

そういう人は正しい音、間違っている音もない、という。

そういう人にとって、オーディオも音楽も嗜好品なのだ、と気づく。
嗜好品として楽しんでいるのであれば、好き嫌いだけの世界に留まっていればいい。

Date: 12月 30th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(JBL 4301・その22)

話がすこしそれてしまったが、
4301には時代の軽量化と感じなくて、Control 1には感じるのか。

別項「時代の軽量化(その2)」で、
時代の軽量化とは、
残心なき時代のことのようにも感じている、と書いた。

[残心]
武道における心構え。一つの動作が終わってもなお緊張を解かないこと。剣道では打ち込んだあとの相手の反撃にそなえる心の構え、弓道では矢を射たあとその到達点を見極める心の構えをいう。
(大辞林より)

武道における心構えとしての残心とはすこし違っていても、
4301には残心を感じ、Control 1には感じない。

たしかに、これははっきりといえる。

Date: 12月 30th, 2017
Cate: 書く

毎日書くということ(8000本をこえて感じていること)

三日前に8000本目を書いた。
10000本書くことを目標としている。
ここに来て、ようやくゴールが見え始めてきたかな、という感じがしている。

この調子でいけば、2019年12月には10000本目を書き終える。
ここ二三年、なにかのひょうしに考えているのは、
大病にかかり余命何ヵ月といわれたら、
黙々とブログを書きためよう、ということだ。

毎日の更新とともに書きためていく。
書きためた分は予約投稿にしておく。
そうすれば、くたばったとしても自動的にブログは更新されていく。
読んでいる人は、誰も私がくたばっていることは知らないままだ。
そんなことを望む気持が、どこかにある。

先日のKK適塾で、久坂部羊氏がいわれた。
癌は、ある意味、しあわせな病気である、と。

余命が宣告される。
その時はショックをうけるだろうが、冷静になれば、
その日までの計画をたてられ、やりたいことをやれるし、身の回りの整理もやれる。

突然死を迎えることになったら、そんなことはできない。
ブログを書きためておくこともできない。

同じことを考える人がいるんだな、とおもい聞いていた。
8000本目が近づいたいたときにきいた話だけに、よけいそう思った。

Date: 12月 30th, 2017
Cate: ケーブル

ケーブルはいつごろから、なぜ太くなっていったのか(その21)

送り出し側が600Ω負荷でも問題としなければ、
600Ωラインが音がいい、とは昔からいわれていることである。

もっとも600Ωにするために送り出し側にトランスを入れることを問題視する人もいるが、
トランスなしでも600Ωラインは可能であり、600Ω出しの600Ω受けはひとつのスタンダードだった。

600Ω負荷では、ラインケーブルに流れる電流は、ハイインピーダンス受けよりも電流が多く流れる。
つまり電流密度が高くなる状態だ。

そのことが600Ωラインの音の良さ、と説明する人は昔からいた。
600Ωラインにすれば、ケーブル、接点の影響も受けにくくなる、ということもいわれていた。

たしかにそう感じることはある。
けれど一方で、受け側のインピーダンスを、SUMOのThe Goldのように1MΩまで高くすると、
当然ラインケーブルに流れる電流密度はぐんと低くなる。

ならばケーブルや接点の影響を受けやすくなるかというと、
理屈ではそうではない。

たとえば接点。
接点のもつ接触抵抗の影響を受けにくくするには、電流を小さくすることはひとつの手である。
接触抵抗に電流をかけあわせた値、つまり電圧が発生して悪影響を与える。

接触抵抗が同じであれば電流が小さいほど、発生する電圧も低くなる。
これはケーブルのもつ直流抵抗に関しても、同じことがいえる。

The Goldを使っていたとき、最初はバランス入力で鳴らしていた。
しばらくしてGASのThaedraで鳴らすようになった。
アンバランスで、1MΩ受けとなる。

Thaedraのラインアンプは、小型スピーカーならばパワーアンプなしに鳴らせるくらいに、
終段のトランジスターにたっぷりと電流を流している設計で、
コントロールアンプとは思えぬほどシャーシーは熱くなる。

そうThaedraにとっては、受け側のインピーダンスの低さは問題にならないはずである。
けれどThaedraで鳴らしたThe Goldの音は、いろいろと考えさせるほどに見事な音だった。

Date: 12月 30th, 2017
Cate: ディスク/ブック

ニュー・アトランティス(その3)

『「もの」に反映するジョンブル精神』から、あと一本書き写しておきたい。
     *
最初の「拡声器」を作った人は、イギリス人、サミュエル・モーランド卿であると、ヨハン・ベックマンは言う(『西洋事物起源』特許庁内技術史研究会・ダイヤモンド社)。サミュエルは、数年にわたって多くの実験を行なった後、1671年に拡声器に関する本を発行した。この器具は、口が広いトランペットのような形状のもので、彼は最初、これをガラスで作らせ、後に、種々の改良を施して銅で作らせた。彼はこれを用い、王(チャールスII世)や、ルパート(Rupert)皇子らの人びとの隣席の下でさまざまな実験を行ったが、人びとはその効力に驚嘆したのであった。ベーコンの予言、『ニュー・アトランティス』の約半世紀あとのことであった。サミュエル・モーランドと、ほぼ同時代人だったのが、ニュートンである。ニュートンによって象徴されるように、17世紀は、数学や物理や化学の基礎研究が積み重ねられていった時代である。それが18世紀前半から、せきを切ったように、発明ラッシュとなり、やがて産業革命のクひとつの要因となっていく、そういう世紀を準備していた時代でもある。『電気音響学』の名著(1954)で知られるフレデリック・ハントは、その学問の契機となった重要な発見として、1729年のステファン・グレイによる電気の導体と不導体の区別を挙げている。もちろん、グレイもイギリス人である。次の世紀にあらわれたマイケル・ファラデーの名前はあまりにも有名である。かれが発見した電磁誘導の現象を、さらに深く追求したのが、ジェームス・マックスウェルであり、その後継者、ジョン・ウィリアム・ストラット・レーリイは今日もなお復刻されている名著『音の理論』を著わした(1877年)。これだけの種がまかれてきたのだから、20世紀のイギリス人のオーディオでの分野の収穫が、その質において、きわめてたこかいものも充分にうなずけるのである。
     *
THE BRITISH SOUNDのカラー口絵ということを差し引いても、
底の深さのようなものを感じる。

そしてくり返しになるが、情報革命は劇場から、ということも深く実感する。

THE BRITISH SOUNDには、「英国製品の魅力を語る」というページもある。
井上卓也、上杉佳郎、岡俊雄、菅野沖彦、長島達夫、柳沢功力の五氏によるものだ。

井上先生が、こんなことを書かれている。
     *
 英国のオーディオは、その歴史も古く、趣味性豊かでオリジナリティのある製品を、SP時代の昔から原題にいたるまでつくり続けてきた点で、特異な存在である。
 英国のオーディオの独自性を示す一つの例がある。去年の八月末に西独デュッセルドルフで開かれたテレビ・ラジオ・ショー(日本のオーディオフェアに相当する)で、各国のジャーナリストが集まり良いオーディオ製品とは何か、をメインテーマとして話し合いをする催しが開かれた。これに西独のオーディオ誌から四名、英国のフリーランスの評論家二名、それに日本から三名が参加したときのことである。西独側が測定データをチェックし、それに補足的に試聴を加えて、基本的に測定データの優れた製品が良いオーディオ製品である、雑誌にもデータ類を優先し、主にグラフ化して発表するという立場を主張するのに対して、英国側は同様に測定データを優先させながらも、かなり試聴にも重点を置き、良い製品をセレクトし、リポートする立場をとる。このように、文字として記せば大差ないことのように思われがちな主張の差であるが、西独側の発言で、ヨーロッパでは一般にこのような考え方をする……というと、英国側から間髪を入れずに、我々は異なった見解であるという意味の反論が飛び出してきた。穏やかな話し合いの場でさえも、明確に自己の主張を通す態度は、少なくともこの催しの場では英国側の際立った特徴であり、西独側のほうが論理的ではあるが、むしろ、主張の鋭さにいま一歩欠けた点が感じられるようであった。
     *
イギリスのふたりのフリーの評論家が誰なのかはわからないし、
彼らがフランシス・ベーコンの「ニュー・アトランティス」を読んでいたのか、
サミュエル・モーランド、ステファン・グレイ、
ジョン・ウィリアム・ストラット・レーリイといった人たちのことを、
どれだけ知っていて、彼らを関連付けて捉えているのか、そんなことは一切わからないが、
それでも「イギリスこそが……」という自負のようなものがあるのではないのか。

それはシェークスピアの国だからなのか。

Date: 12月 29th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(1963年生れと4343)

1963年生れのAさんと私が知りあったのは、12年前のインターナショナルオーディオショウだった。
そのとき、ふたりは42歳。
よくふたりで会って食事をして飲むことがあった。

翌年、ふたりとも43歳になった。
ふたりあわせて4343だ、と言って笑いあっていた。

2017年は54歳。ふたりあわせると、ゴシゴシだね、とまた笑いあっていた。
ゴシゴシとしごかれた一年から、
来年はゴーゴー(55)だからイケイケだ、と、バカをいう仲だ。

ふたりとも中学生、高校生のころに4343という存在があって、
4343に強く憧れていたから、43歳になったときに「4343だ」といって、
笑って喜べたわけだ。

生れる時代は選べない、といわれる。
そうかもしれないし、いい時代に生れたのかそうでもないのか──。
とにかくふたりあわせて4343だ、といえる世代に生れたことだけは確かだ。

Date: 12月 29th, 2017
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その39)

オーディオの想像力の欠如とは、甘えそのものだ。

Date: 12月 29th, 2017
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その38)

オーディオの想像力の欠如は、聴かなければならない音を聴くために、
聴く音楽があることにも気づかない。

Date: 12月 29th, 2017
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その37)

オーディオの想像力の欠如は、聴かなければならない音があることに気づかない。

Date: 12月 29th, 2017
Cate: 1年の終りに……, High Resolution

2017年をふりかえって(その10)

今年の1月に「オーディオがオーディオでなくなるとき(その5)」の中で、
ハイレゾ(High Resolution)は、
ハイアーレゾ(Higher Resolution)、さらにはハイエストレゾ(Highest Resolution)、
ハイレゾに留まらないのかもしれない、と書いた。

昨年よりも今年はHigher Resolutionといえなくもない。
今年のインターナショナルオーディオショウでも、
Higher Resolutionといえる録音ソースが鳴らされてもいた。

Higher Resolutionといえるソースを、じっくり聴いているわけではないが、
なんとなく、そこに感じるのはドキュメンタリー的な色をつよく受けてしまう。

録音はスタジオプロダクト(studio product)だ、と私は考えている。
Higher Resolutionといえるソースで、
スペックをつよくうち出しているもののなかには、
スタジオプロダクトなのか、と思いたくなる感じのものがあった。

Date: 12月 29th, 2017
Cate: ディスク/ブック

ニュー・アトランティス(その2)

『「もの」に反映するジョンブル精神』の文章は、
私の記憶違いでなければ、Kさんである。

私よりかなり年上のKさんは、知識欲旺盛な人である。
こういうひとが、あの大学に行くのだな、と納得させられるほど、
あらゆる勉強を楽しまれている感じを、いつも受けていた。

しかもマンガもしっかり読まれている、というのが、私には嬉しかった。

「ニュー・アトランティス」について書かれた次のページには、こうある。
     *
シェークスピアの同時代人であるベーコンが音響工学に興味を持った理由を想像してみる。そこで、思いつくのは、この時代のロンドンのひとたちの演劇についての異常なまでの熱狂ぶりである。木造で、数千人を収容できる公衆劇場が、1600年当時、すくなくとも5つか6つ存在した、と推定されている。この店ではヨーロッパの他の都市にはくらべるものがなく、ロンドンをおとずれた外国人をおどろかせたという。この話を紹介しているフランセス・イエイツ(『世界劇場』藤田実訳・晶文社)は、これらの劇場が、いずれも〝古代ローマ人の方式にならった木造の〟劇場であったと述べている。〝これらの建物には屋根がなく、座席が階段状についた桟敷(ギャラリー)が、劇場のまんなかの上に開いた空間「中庭(ヤード)」を取り囲み、この中庭に開け放しの舞台(オープン・ステージ)がつき出ている。〟イギリスのルネッサンスは、劇場と演劇というかたちで、その独自の発現を見せたようである。その頂点に、私達は、あのウィリアム・シェークスピアの名を見ることができる、そう言ってよいだろう。数千人を収容できる公衆劇場が、PA装置もなく用いられるとしたら、これはどうしても音響工学と直面しなければならなくなってしまう。これらの劇場の下敷となったと思われる、古代ローマの建築家、ヴィトルヴィウスの著述のことをも、イエイツは指摘している。このヴィトルヴィウスは劇場の音響効果にも、すでに大きな関心をはらっていた。ヴィトルヴィウスの建築書を、歴史のなかから、ルネッサンスのヨーロッパに持ちこんだのはイタリア人だったが、それを、故大劇場の復活というかたちで、もっともよく生かしたのはイギリス人だった。それは、同時に、音響工学のルネッサンスでせあった。イギリス人は、その歴史を受け継いでいるのである。
     *
こうやって書き写していても、Kさんでなければ書けない文章だ、と思っていた。

同時に、農業革命は農場から、工業革命は工場から、
情報革命は劇場から、という川崎先生のことばも思い出していた。