Archive for category 所有と存在

Date: 4月 21st, 2017
Cate: 所有と存在

所有と存在(その13)

虚構の「虚」とは、くぼんで、中があいているさま、と辞書にはある。
虚構とは、辞書には、
事実でないことを事実らしく作り上げること、また,作り上げられたもの、作りごと、とある。

虚構の世界には、何も満ちていいないのだろうか。
そうだとしたら、虚構世界であるオーディオに、感動することがあるのか。

──そんなことを考えていたら、上村一夫の「同棲時代」が浮んだ。
「同棲時代」の、もっとも知られているであろうシーンである。

男と女が向いあっている。
ふたりの横顔のあいだに、独白がある。
どちらかのセリフというわけではない。
     *
愛はいつも

いくつかの過ちに
満たされている

もしも愛が
美しいものなら

それは男と女が犯す
この過ちの美しさに
ほかならぬであろう
     *
虚構世界も、もしかすると過ちに満たされているのか──、
そう思いたくなる。

過ちの美しさがあるからこそ、なのかもしれない。

Date: 4月 18th, 2017
Cate: 所有と存在

所有と存在(その12)

私は、音も音楽も所有できない、と何度も書いてきている。
他の人が、そんなことはない、現実に所有できる、と思われていようと、
それはそれでいい、と思っている。

人は人である。

といいながらも、やはり気になる人がいる。
瀬川先生は、どうだったのだろうか、
五味先生は……、と考えてしまう。

ステレオサウンド 24号「良い音とは、良いスピーカーとは?」で、こんなことを書かれている。
     *
 レコードにはしかし、読書よりもさらに呪術的な要素がある。それは、レコードから音を抽出する再生装置の介在である。レコードは、それが再生装置によって《音》に変換されないかぎり、何の値打もない一枚のビニール平円盤にすぎないのである。それが、個人個人の再生装置を通って音になり、その結果、レコードの主体の側への転位はさらに完璧なものとなる。再生音は即原音であり、一方、それは観念の中に抽象化された《原音のイメージ》と比較され調整される。こうしたプロセスで、《原音を聴いたと同じ感覚》を、わたくしたちは現実にわがものとする。
 言いかえるなら、レコードに《原音》は、もともと実在せず、再生音という虚像のみが実在するのである。つまり、レコードの音は、仮構の、虚構の世界のものなのだ。映画も同じ、小説もまた同じである。
     *
瀬川先生は、著書の「虚構世界の狩人」というタイトルを気に入られていた、ときいている。
上の文章にも、レコードには、再生音という虚構のみが実在する、と書かれている。

はっきりと、どこかに音は所有できない、音楽は所有できない、と書かれているわけではない。
少なくとも私がこれまで読んできた中には、なかった。

けれど、少なくとも音は所有できない、と思われていたのではないだろうか。

Date: 4月 7th, 2017
Cate: 所有と存在

所有と存在(その11)

どちらが正しいという類のことではない──、
そう書いておきながら、私自身が毎日こうやって書いているのは、
正しい答を求めての行為なのか、と自問するわけだが、
少なくとも、この項で問うていることについては、
正しい答ではなく、完璧な答を求めて──といえる。

正しい答ではなく完璧な答。
こう書いてしまうと、よけいに何を言っているのか、と思われそうだが、
正しい答とはいわば客観的な答なのではないだろうか。

そんな答を求めているわけではない。
あくまでも主観的な答であり、
その答は己が心底納得できるのであれば、それは私にとって完璧な答であり、
その完璧な答と、いま思えたことが、十年後も二十年後も納得できるのであれば、
私にとっての完璧な答であり、それでいいと思っているのだから、
世間一般の「完璧な」からイメージされるのと違い、
あくまでも主観的な、徹底した主観的な答としての完璧な答。

それがあればいい。
自恃とはそういうことだろう。

Date: 4月 3rd, 2017
Cate: 所有と存在

所有と存在(その10)

「ただの音楽愛好家にもどられた」なのか、
「真の音楽愛好家になられた」なのか、
どちらが正しいという類のことではない。

その人の立脚点が違うだけのことである。
その立脚点も、どちらが正しいとか、そういうことではない。

ただただ立脚点が違う、というだけのことだ。
それゆえの解釈の違いである。

このことはこの項のタイトル「所有と存在」にかかってくる。
ここで音は所有できない、音楽も所有できない、と書いてきている。

「音は所有できるのか」というタイトルは、まったく考えなかった。
あくまでも「所有と存在」である。

音は所有できない。
でも存在するものがある。
そう考える私は、オーディオマニアである、ということ、
そこから解釈している、ということだ。

Date: 4月 3rd, 2017
Cate: 所有と存在

所有と存在(その9)

「これで充分じゃないか」
そう心でつぶやく。

オーディオと格闘してきたながい時間をもつ者も、
まったくオーディオに理解を持たない者も、
「これでじゅうぶんじゃないか」という。

「じゅうぶん」は充分とも書くし十分でも書く。
後者のいう「これでじゅうぶんじゃないか」がどちらなのかはわからない。

音楽が好きで、好きな音楽を少しでもいい音で聴きたい──、
と思い行動するのがオーディオマニアだ、とながいこと思っていた。

でも十年ほど前から、どうも違うようだと感じつつある。
好きな音楽をいい音で聴くための、いわば行き過ぎた行為をする人を、
世間ではオーディオマニアと呼ぶ。

けれどそれだけではオーディオマニアか、どうかは判断できない。
そのことに気づいた。

システムにかけたお金の多寡でもないし、
専用のリスニングルームを建てたかどうかでもない。
そんな視覚的に捉えれることでは何も判断できない。

では出している音なのか。
いい音を出しているからといって、オーディオマニアだろうか。
音楽が好きでいい音で聴きたいと思っている人たちと、
オーディオマニアはどうも違う。

オーディオマニアでない前者の人たちの呼び方を考える時期なのかもしれない。

五味先生が病室で聴かれたシステム。
それで満足されていた、ということを読み、どうおもうかによって、
オーディオに関心と理解があっても、オーディオマニアがどうかがわかる、
いい音を出していても、オーディオマニアではないことがわかる。

むしろその方が幸せなことだと思う。
オーディオマニアではないことが幸せだろう。

この人たちは、五味先生はさいごに「ただの音楽愛好家に戻られた」というであろう。
オーディオマニアでないのだから、出てくることばである。

どうしようもなくオーディオマニアである私は、
「ただの音楽愛好家に戻られた」がひっかかる。

「ただの」がまずひっかかる。
「戻られた」にひっかかる。

オーディオマニアの私は、絶対にこうはいわない。
あえていうのであれば、「真の音楽愛好家になられた」である。

Date: 4月 3rd, 2017
Cate: 所有と存在

所有と存在(その8)

五味先生は病室で、テクニクスのSL10とSA-C02、
それにAKGのヘッドフォンで、音楽を聴かれていたことは、
当時のステレオサウンドを読んできた者は知っている。

オーディオのことに心を患わすことなく、音楽を聴かれていた──、のであろう。
この時、《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめ》ていたのか。

解釈はひとつではない。
そうともいえるし、そうでもないともいえる。

いい音をひたすら求めて、音とオーディオと格闘されたながい日々が背景にあったからこそ、
テクニクスの小型のアナログプレーヤーとレシーバー、AKGのヘッドフォンというシステムで、
音楽のみを聴かれていたのではないだろうか。

同じ、もしくは同じような体験は、ながくオーディオをやってきている人ならばあるはずだ。
マルチウェイの大型システム、
アンプはセパレートで、さらにはマルチアンプという人もいる。
おおがかりなシステムを丹念に調整してきて、満足のいく音を出せるようになる。

そんなある日、もっと簡潔なシステムで、
たとえばフルレンジと真空管アンプの組合せから鳴ってくる音、
いまではiPhoneに、ちょっと良質のヘッドフォン(イヤフォン)を組み合わせた音、
その音に、「これで充分じゃないか」と思ってしまう一瞬はあろう。

私は何度もある。
オーディオの仲間も、そんなことがあった(ある)といっていた。

でも、それは彼も私も、それまでオーディオと取り組んできた経験が背景にあるからこそ、
そういうシステムで音楽を聴いても「これで充分じゃないか」と思えるわけである。

それまでの経験がなんらかの作用をしての「これで充分じゃないか」のはずだ。
そう考えると、オーディオから離れて……、とはいえない。

私はそう考える。
いまはそう考えている。

Date: 4月 2nd, 2017
Cate: 所有と存在

所有と存在(その7)

ステレオサウンド 39号。
瀬川先生の「天の聲」の書評が読める。
     *
「天の聲」になると、この人のオーディオ観はもはや一種の諦観の調子を帯びてくる。おそらく五味氏は、オーディオの行きつく渕を覗き込んでしまったに違いない。前半にほぼそのことは述べ尽されているが、さらに後半に読み進むにつれて、オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる。しかもこの音楽は何と思いつめた表情で鳴るのだろう。
     *
《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
これはあくまでも、「天の聲」を読み進むにつれて──、のことである。

それでも……、と考える。

(その5)で引用したこととの関係だ。
     *
さて今夜はこれを聴こうかと、レコード棚から引き出してジャケットが半分ほどみえると、もう頭の中でその曲が一斉に鳴り出して、しかもその鳴りかたときたら、モーツァルトが頭の中に曲想が浮かぶとまるで一幅の絵のように曲のぜんたいが一目で見渡せる、と言っているのと同じように、一瞬のうちに、曲ぜんたいが、演奏者のくせやちょっとしたミスから──ああ、針音の出るところまで! そっくり頭の中で鳴ってしまう。
     *
そう、ここのところだ。
この時、《そっくり頭の中で鳴ってしまう》音楽は、
《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽》ではないはずだ、ということをおもう。

レコード(録音物)で音楽を聴く人すべてがそうとは思っていない。
そのレコードを鳴らしたオーディオとは無関係の音で、
音楽が頭の中で鳴ってしまう人もいるだろうし、
そのレコードを鳴らしたオーディオと深く関係した音で、
音楽が頭の中で鳴ってしまう人もいよう。

後者がオーディオマニアなのだろう。

Date: 3月 16th, 2017
Cate: 所有と存在

所有と存在(その6)

《──ああ、針音の出るところまで! そっくり頭の中で鳴ってしまう》
と書かれている。

LPを大切に扱っていても、何かの拍子に疵をつけてしまうことがある。
青くなる瞬間だ。

買いなおそうと思いつつも、学生のころは買いたいレコードとふところ具合を勘案して、
そのまま聴き続けることもあった。
針飛びするほどならば買いなおすけれど、それほどでもない。

LPの疵。
カチッ、カチッという疵音。
五味先生が書かれている。
     *
 フランクのソナタは、言う迄もなく名曲である。LP初期のころ、フランチェスカッティとカサドジュのこのイ長調のソナタを聴きに、神保町の名曲喫茶へよく私は行った。昭和二十七年の秋だった。当時はLPといえば米盤しかなく、たしか神田のレコード店で一枚三千二百円だったとおもう。月々、八千円に満たぬ収入で私達夫婦は四畳半の間借り生活をしていた。収入は矢来町にある出版社の社外校正で得ていたが、文庫本を例にとれば、一頁を校正して五円八十銭もらえる。岩波文庫の〝星〟ひとつで大体百ページ、源泉徴収を差引けば約五百円である。毎日、平均〝星〟ひとつの文庫本を校正するのは、今と違い旧カナ使いが殆どだから大変な仕事であった。二日で百ページできればいい方だ。そういう収入で、とても三千円ものレコードは買えなかった。当時コーヒー代が一杯五十円である。校正で稼いだお金を持って、私はフランクのソナタを聴きに行った。むろん〝名曲喫茶〟だから他にもいいレコードを聴くことは出来る。併し、そこの喫茶店のお嬢さんがカウンターにいて、こちらの顔を見るとフランクのソナタを掛けてくれたから、幾度か、リクエストしたのだろう。だろうとはあいまいな言い方だが私には記憶にない。併し行けば、とにかくそのソナタを聴くことができたのである。
 翌年の一月末に、私は芥川賞を受けた。オメガの懐中時計に、副賞として五万円もらった。この五万円ではじめて冬用のオーバーを私は買った。妻にはこうもり傘を買ってやった。そうして新宿の中古レコード屋で、フランクのソナタを千七百円で見つけて買うことが出来た。わりあい良いカートリッジで掛けられたレコードだったように思う。ただ、一箇所、プレヤーを斜めに走らせた針の跡があった。疵である。第三楽章に入って間なしで、ここに来るとカチッ、カチッと疵で針が鳴る。その音は、私にはこのレコードを以前掛けていた男の、心の傷あとのようにきこえた。多分、私同様に貧しい男が、何かの事情で、このレコードを手離さねばならなかったのであろう。愛惜しながら売ったのだろう。私の買い値が千七百円なら、おそらく千円前後で手離したに違いない。千円の金に困った男の人生が、そのキズ音から、私には聴こえてくる。その後、無疵のレコードをいろいろ聴いても、第三楽章ベン・モデラートでピアノが重々しい和音を奏した後、ヴァイオリンがあの典雅なレチタティーヴォを弾きはじめると、きまって、架空にカチッ、カチッと疵音が私の耳にきこえてくる。未知ながら一人の男の人生が浮ぶ。
(フランク『ヴァイオリン・ソナタ』より)
     *
《勿論、こういう聴き方は余計なことで、むしろ危険だ》とも書かれている。
そのとおりである。
けれども……、である。
それでも……、だ。

Date: 3月 14th, 2017
Cate: 所有と存在

所有と存在(その5)

音も音楽も所有できない、と考えている私でも、
音楽を所有できる瞬間はある、と思っている。
     *
「もう二十年も昔の事を、どういう風に思い出したらよいかわからないのであるか、僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついてゐた時、突然、このト短調シンフォニィの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。」
「モオツアルト」の中でも最も有名な一節である。なに、小林秀雄でなくなって、俺の頭の中でも突然音楽が鳴る。問題は鳴った音楽のうけとめかただが、それを論じるのが目的ではない。
 だいたいレコードのコレクションというやつは、ひと月に二〜三枚のペースで、欲しいレコードを選びに選び抜いて、やっと百枚ほどたまったころが、実はいちばん楽しいものだ。なぜかといって、百枚という文量はほんとうに自分の判断で選んだ枚数であるかぎり、ふと頭の中で鳴るメロディはたいていコレクションの中に収められるし、百枚という分量はまた、一晩に二〜三枚の割りで聴けば、まんべんなく聴いたとして三〜四カ月でひとまわりする数量だから、くりかえして聴き込むうちにこのレコードのここのところにキズがあってパチンという、ぐらいまで憶えてしまう。こうなると、やがておもしろい現象がおきる。さて今夜はこれを聴こうかと、レコード棚から引き出してジャケットが半分ほどみえると、もう頭の中でその曲が一斉に鳴り出して、しかもその鳴りかたときたら、モーツァルトが頭の中に曲想が浮かぶとまるで一幅の絵のように曲のぜんたいが一目で見渡せる、と言っているのと同じように、一瞬のうちに、曲ぜんたいが、演奏者のくせやちょっとしたミスから──ああ、針音の出るところまで! そっくり頭の中で鳴ってしまう。するともう、ジャケットをそのまま元のところへ収めて、ああ、今夜はもういいやといった、何となく満ち足りた気持になってしまう。こういう体験を持たないレコード・ファンは不幸だなあ。
     *
瀬川先生の「虚構世界の狩人」からの引用だ。

確かに、こういう体験を持っている。
それも瀬川先生が書かれているように、学生のころはひと月に一枚くらいしか買えなかった、
それが少しずつ増えてきて、ニ〜三枚のペースで買えるようになった。

わずかだったコレクションも増えていく。
確かに百枚くらいまでは、こうい体験があった。

コレクションが少ないからくり返し聴く。
そうすることで細部までいつのまにか記憶している。
そこまで来て、こういう体験はふいに訪れる。

頭の中で一斉に、そのレコードにおさめられている音楽が鳴り出す。
聴かずとも満ち足りた気持になる。

それはほんの一瞬である。
一瞬のうちに、音楽が一斉に鳴り出すからだ。

この一瞬こそが、音楽を所有できる、といえる。
けれど、それは一瞬で終ってしまう。

Date: 3月 9th, 2017
Cate: 所有と存在

所有と存在(その4)

音は所有できない。
同じ意味で、音楽も所有できない。

先日、バーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」のCDを買った。
一度手離したディスクを久しぶりに聴きたいがためである。

バーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」のCDは四枚組である。
私が所有している(できている)のは、
バーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」を収めた四枚組のCDである。

それはバーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」という音楽を所有していることにはならない。
あくまでも四枚組のCDを所有している、ということに留まる。

CDにしてもアナログディスクにしても、他のメディアだろうが、
そのメディアに記録されている音楽を聴くためには、再生装置が必要となる。

たとえば本。
本とレコードは似ている、といえば似ている。
けれど本を読むのに、レコードを聴くのに必要な再生装置の類は要らない。

その本さえあれば、まっくら闇でもなければ読める。
本は、レコードよりも、よりダイレクトといえる。
それでも、その本におさめられている作品を所有したとはいわないし、思わない。

いま私は「3月のライオン」に夢中になっている。
単行本が手元にある。
購入した本であるが、だからといって「3月のライオン」を所有している、
所有できた、とはまったく思わない。

どんな本でもいい。
そこにおさめられている作品を所有している(できた)と思った人はいるのだろうか。

Date: 2月 2nd, 2016
Cate: 所有と存在, 欲する

「芋粥」再読(その1)

別冊 暮しの設計 No.20「オーディオ〜ヴィジュアルへの誘い」には、
安岡章太郎氏の「ビデオの時代」が載っている。

そこに、こう書かれている。
     *
 七十歳をこえた小生ぐらいの年になると、中学生の頃から見てきた数かずの映画の大部分を忘れてしまっているので、これをビデオで繰り返し見ているだけでも、余生を娯しむには十二分のものがある。いや、昔見たものだけではない、見落したものや、全く知らなかったものまでがビデオになっているので、こういうものを全部入れると、もう残り少ない自分の人生を総てビデオ鑑賞のために費やしても、足りないことになるかもしれない。
 先日、岡俊雄氏からキング・ヴィドゥアの名作『ザ・ビッグ・パレード』のビデオを拝借したとき、岡さんは現在、エア・チェックその他の方法で見たい映画、気になる映画のビデオを殆ど蒐集してしまったが、そうなると却って、もうビデオを見る気がせず、録画ずみのカセットの山をときどき呆然となって眺めておられる由、伺った。
「われながら奇現象ですな、これは」
 と、岡さんは苦笑されるのだが、私は芥川龍之介の『芋粥』の主人公を思い出した。実際、充足ゆえの満腹感が一種の無常観をさそうことは、現代日本の何処にでも見られることだろう。
 考えてみれば、庶民に夢をあたえてくれるものが映画であり、だからこそ映画撮影所は「夢の工場」などと呼ばれたわけだろう。そして庶民の夢は、つねに多分に物質的なものであるから、一旦夢がかなえられると直ちに飽和点に達して、夢見る能力自体が消えてしまうわけだ。
     *
芥川龍之介の短篇「芋粥」は、学生のときに読んでいる。
いまでは青空文庫で、インターネットにつながるのであれば、すぐに読める。

手元に「芋粥」がおさめられている文庫本がないから、
青空文庫からダウンロードしてiPhoneで読みなおした。

長くはないから、すぐに読み終えるし、
インターネットで検索すればあらすじもすぐに読める。
それに、昔読んでいる、という人のほうが多数だろう。

主人公である五位にとっての芋粥は、現代の私たちオーディオマニアにとっては、何にあたるのだろうか。
レコードがまず浮ぶ。

LP、CD、その他の方法で入手できる録音の数々。
ずっとずっと昔にくらべれば、レコードの価格は相対的に低くなっている。
それだけでなく、ここ十年以上、各レコード会社から発売されるCDボックスの枚数と、その安さ。
同時に、購入もインターネットを通じて簡単にできるし、すぐに配達される。

このブログを読まれている方のなかには、
リスニングルームに未開封のCDボックスがあるという人もいると思う。
それもひとつやふたつではないかもしれない。

2ちゃんねるのクラシック板には、
《未聴のCDの山を見て人生の残りを考える》というスレッドがあり、かなり続いている。

Date: 8月 26th, 2015
Cate: 所有と存在

所有と存在(その3)

音は所有できない、と書いた。
この考えは変らない。
おそらく、これから先も変らない、と思う。

所有できるのは、ディスク、オーディオ機器、部屋という器だとも書いた。

音は所有できないからこそ、この「器」に何をいれるのか。

Date: 11月 17th, 2014
Cate: 所有と存在

所有と存在(その2)

できるもの、できないもの」の(その1)で、音は所有できない、と書いた。
二年前に書いた。
いまもその考えは変らない。

音は所有できない。
所有できるのは、あくまでもオーディオ機器とそれを設置し鳴らす環境でしかない。

オーディオとはオーディオ機器とその環境だと定義すれば、オーディオは所有できることになる。
オーディオとは、つまるところ「音」であるとするならば、オーディオは所有できない。

音楽に関しても同じことはいえる。
SP、LPといったアナログディスク、CD、SACDといったデジタルディスク、
これらを所有することはできる。
お金が許すかぎり、置けるスペースがあるかぎり所有できる。

これらのパッケージメディアを音楽と定義するなら、音楽は所有できるといえる。
アナログディスクは溝の刻まれた円盤でしかない、
デジタルディスクは肉眼では見えないほど小さなピットが無数にある円盤でしかない。

これらを再生するシステムを所有していても、音楽を所有できる、といえるだろうか。

所有できるのは、器である。
LPという器、CDという器、
アンプやプレーヤー、スピーカーといったオーディオ機器という器、
リスニングルームという器。

器だけである。

Date: 8月 22nd, 2014
Cate: 所有と存在

所有と存在(その1)

オーディオ愛を語る文章がある。
オーディオ愛でなくとも、レコード愛でもいい。

書いている本人はオーディオ愛、レコード愛を書いているわけだが、
読み手がそこに書き手のオーディオ愛、レコード愛を感じとれるかとなると、それは文章の巧拙とは関係がない。

たとえばオーディオに、レコードに、さらには音楽に、どれでもいいが、
対象物に恋する、と書くし、対象物を愛する、と書く。

間違っても対象物を恋する、対象物に愛する、とは書かない。

恋と愛。
これは言い換えれば、所有と存在なのではないのか。

オーディオ愛を感じられないオーディオ愛について書いてある文章は、
つまるところ、愛ではなく恋(所有)なのだろう。