Archive for category 所有と存在

Date: 4月 11th, 2024
Cate: 所有と存在

所有と存在(その21)

何度でも、そしてしつこいぐらいに書いておく、
音も音楽も所有できない。

所有できるのはオーディオ機器であったり、LPやCDである。
どんな名器、名盤を数多く所有していたとしても、
だからといって音、音楽を所有していることにはならない。

いや、所有できる──、
そういえる人がいてもいい、私と考えが違うというだけのことだ。

音も音楽も所有できない
けれど、音も音楽も存在している、と考えている。

音も音楽も鳴った次の瞬間、消え去っていくのに、
存在しているといえるのか。

どこに存在しているのかといえば、私の裡
やはり(そして、やっと)「音は人なり」だと改めて実感できる。

Date: 2月 19th, 2023
Cate: 所有と存在

所有と存在(とディスクラック・その2)

別冊 暮しの設計 No.20「オーディオ〜ヴィジュアルへの誘い」に、
安岡章太郎氏の「ビデオの時代」が載っている。

そこに書かれていることは、別項『「芋粥」再読』でも引用しているが、
ここでもくり返し引用しておきたいし、読み返してほしい。
     *
 七十歳をこえた小生ぐらいの年になると、中学生の頃から見てきた数かずの映画の大部分を忘れてしまっているので、これをビデオで繰り返し見ているだけでも、余生を娯しむには十二分のものがある。いや、昔見たものだけではない、見落したものや、全く知らなかったものまでがビデオになっているので、こういうものを全部入れると、もう残り少ない自分の人生を総てビデオ鑑賞のために費やしても、足りないことになるかもしれない。
 先日、岡俊雄氏からキング・ヴィドゥアの名作『ザ・ビッグ・パレード』のビデオを拝借したとき、岡さんは現在、エア・チェックその他の方法で見たい映画、気になる映画のビデオを殆ど蒐集してしまったが、そうなると却って、もうビデオを見る気がせず、録画ずみのカセットの山をときどき呆然となって眺めておられる由、伺った。
「われながら奇現象ですな、これは」
 と、岡さんは苦笑されるのだが、私は芥川龍之介の『芋粥』の主人公を思い出した。実際、充足ゆえの満腹感が一種の無常観をさそうことは、現代日本の何処にでも見られることだろう。
 考えてみれば、庶民に夢をあたえてくれるものが映画であり、だからこそ映画撮影所は「夢の工場」などと呼ばれたわけだろう。そして庶民の夢は、つねに多分に物質的なものであるから、一旦夢がかなえられると直ちに飽和点に達して、夢見る能力自体が消えてしまうわけだ。
     *
ビデオにしてもディスクにしても、
そこにおさめられている映画、音楽を観たい・聴きたいからこそ蒐集するはずなのに、
いざほとんどを蒐集してみるとこうなってしまうのは、なぜなのか。

《充足ゆえの満腹感が一種の無常観をさそう》からだけなのか。
《一旦夢がかなえられると直ちに飽和点に達して、夢見る能力自体が消えてしまう》ともある。

夢とは、映画を観ること、音楽を聴くことのはずなのに、
しかも、そのことは多くの人がわかっていることなのに、そうなってしまいがちだ。

安岡章太郎氏は《庶民の夢》とされている。
自身を含めての庶民ということである。

《庶民の夢は、つねに多分に物質的なものである》
このことをつい忘れがちになってしまうのではないだろうか。

Date: 2月 12th, 2023
Cate: 所有と存在

所有と存在(とディスクラック・その1)

ADK(朝日木材加工)のCDラックがある。
SD-CD1BDXという製品である。

このSD-CD1BDX(八段重ね)が、もうじきやって来る。
SD-CD1BDX一段に、約73枚のCDが収納できる、とある。
73枚の八段だから、584枚ほどのCDを収納できることになる。

600枚弱のCD。いまでは多くない数字どころか、少ない数字といえる。
学生だったころ、壁いっぱいのディスクのある生活に憧れたこともある。

ステレオサウンドで働くようになり、六本木にWAVEができてからというもの、
頻繁にCD、LPを買っていた。
そんなふうにして買っていると、千枚ぐらいはすぐに集まる。

千枚ほどでは壁いっぱいには、まだまだである。
世の中には、千枚の一桁上、二桁上の枚数のコレクションの人も少なくない。

なのに600枚弱しかおさめられないCDラックについて書いているのは、
このくらいの枚数が、ちょうどいいのかもしれない、と思うからだ。

ほんとうに大切で、くたばるまで聴き続けたい音楽(ディスク)というのは、
そう多いものではない。

壁いっぱいのディスクといっても、狭い部屋と広い部屋とでは、
壁いっぱいのディスクといっても、その枚数は多く違ってくる。

壁いっぱいということに、もう憧れはない。
TIDALがあるから、ということも関係している。
TIDALがなかったとしても、心から愛聴盤とすなおにいえるディスクは、
どんなにながく音楽を聴いてきていても、このくらいなのではないのか。

Date: 11月 12th, 2022
Cate: 所有と存在

所有と存在(その20)

音楽を手にする感覚、先日ソーシャルメディアで目にしたことばだ。
アナログディスクのよさをあらわすものとして、そこでは使われていた。

音楽を手にする感覚、CD登場以前からオーディオにめり込んできた者ならば、
それは日常の感覚といえる。

そこにCDが登場した。ディスクの直径はLPの半分以下になり、
両手で扱うLP、片手で扱えるCDでもあった。

ディスクのサイズの違いは、ジャケットサイズの違いでもあった。
当時は、あれこれいわれていた。
所有する喜びは、CDよりもLPが上である。

その意味でも、音楽を手にする感覚は、CDよりもLPだろうし、
TIDALなどで音楽を聴く行為には、音楽を手にする感覚はない、といっていい。

なので、音楽を手にする感覚という表現を目にすると、
そうか、この人は、音楽を所有できると思っている人なのか、とそうおもうだけである。

私は、何度も書いてきているように、
音楽も音も所有できないと考えている。

Date: 10月 12th, 2022
Cate: 所有と存在

所有と存在(その19)

音楽も音も所有できない──、
そう考えるようになって十年以上が経つ。

音も音楽も所有できない、と何度も書いてきている。
一方で、音も音楽も所有できる、と思っている人たちがいる。

私はどこまでもいっても所有できないと考える人間だし、
この考えは今後も変ることはない、と断言できる。

音楽を所有できる、
音を所有できる、
そう考えている人は、美を所有できる、と考えているのか。
そう問いたくなる。

Date: 6月 20th, 2022
Cate: 所有と存在

所有と存在(その18)

その1)を書いたのは2014年8月。
八年前のことで、TIDALはまだ立ち上げられていなかった。
TIDALの設立は2014年10月である。

MQAも登場していなかった。

インターネット配信で音楽を聴くようになるだろう、とは思っていたけれど、
それでもまだディスク中心がもう少しばかり続くものだ、となんの根拠もなしに思っていた。

MQAの音を2019年に聴いていなかったら、
いまもディスク中心だったであろう。

メリディアンのULTRA DACでのMQAの音を聴いて、
メリディアンの218を導入してからというもの、
MQAで聴きたいという気持は強くなるばかりで、
e-onkyoをまず使うようになったし、TIDALも使うようになった。

もともと私は音楽も音も所有できない──、と考えているわけだから、
存在してくれればいい、それを聴く権利を使えるようになればいい──、
と八年前よりも強くおもうようになってきている。

そんな私だってある時期までは、自分の部屋にLPやCDの枚数が、
少しずつ増えていくのが喜びでもあった。

同時に火事になったらどうしよう……、と真剣に考えるようにもなっていた。
留守にしていたときに火事になったら、どうすることもできない。

その時、部屋にいたら火の勢いによるが持ち出すことはできる。
けれど、すべては無理で、ではどれを諦めて、どれを持って逃げるのか。

そんなことを真剣に悩むこともあった。
そんなこと悩んだことがない──、
ある程度以上の枚数のディスクを所有している人ならば、
少なくとも一度や二度は考えたり悩んだりしたのではないのか。

Date: 4月 17th, 2022
Cate: 所有と存在, 欲する

「芋粥」再読(その11)

安部公房の「他人の顔」が発表されたのは1964年。

バルトークは1945年に亡くなっている。
「他人の顔」の時代は、バルトークは現代音楽だったのか。

死後二十年ほど経っているのだから、もう現代音楽ではないんじゃないか──、
そういう受け止め方があるのはわかっているが、
「他人の顔」の〈ぼく〉は、レコード(録音物)で音楽を聴いている。

1963年に、ジュリアード弦楽四重奏団がバルトークの弦楽四重奏曲を録音している。
ジュリアード弦楽四重奏団は、その十八年後の1981年も録音している。

ジュリアード弦楽四重奏団の二つのバルトークを聴きくらべると、
そこから感じとれる気迫がずいぶん違って聴こえる。

1981年の録音は、1963年の録音よりも気迫が薄くなっている。
1963年のジュリアード弦楽四重奏団の演奏を聴いていると、
この時代、バルトークはまだ現代音楽だった、というふうに感じとってしまう。

同じ気迫を、私はアバドとポリーニによるバルトークのピアノ協奏曲にも感じる。
1977年の録音なのにもかかわらずだ。

そんなバルトークの聴き手である私は、〈ぼく〉の時代のころ、
バルトークは現代音楽であった、と思うわけだ。

Date: 7月 23rd, 2021
Cate: 所有と存在, 欲する

「芋粥」再読(オリンピックが始まった)

ちょうど、いまオリンピックの開会式をやっているところだな、
と思いながら書いている。

テレビのない生活をずっとしているから、
オリンピックも見る機会は、まったくといっていいほどない。

最後に、リアルタイムでオリンピックをテレビで見た記憶は、
1988年の男子100m走の決勝だった。
そのころはステレオサウンドに勤めていたから、
みなで仕事中にもかかわらずテレビを囲んで見ていた。

そんな私でも実家に住んでいたころは、オリンピックは大きな楽しみだった。
コマネチが登場した時は、学校に行けば、コマネチの話題で持ち切りだった。
みな昂奮していた。

そのオリンピックが終る。
昂奮も薄れてきたころに、アサヒグラフ、毎日グラフといった写真誌が、
オリンピックの特集号を出す。

ここで、また昂奮がよみがえってくる。
しかもテレビでは見れなかった競技の写真も、そこにはあるから、
オリンピックの余韻は、ここまで持続するだけでなく、少しだけといえ新たな昂奮もある。

それがいまはねぇ……、と書くわけではない。
二十年以上、見ていないのだから、書こうとは思っていない。

ただ、四年ほど前にも書いたことのくり返しなのだが、
そういった余韻が、いまの時代はほんとうに短い。

開幕までにこれだけごたごたのあった東京オリンピックでも、
閉会式を迎えてしまえば、さっと余韻も霧散してしまうことだろう。

こんなことを書いているからといって、
いまの私は余韻を充分に味わっているのかというと、
TIDALで音楽を聴く時間が長くなるにつれて、
あのころとは音楽の余韻の味わい方も、
知らず知らずのうちに変っていったことを感じている。

オリンピックを熱心に見ていたころは、聴きたいレコードをほいほい買えたわけではない。
聴きたくとも買えなかったレコードのほうが、多い。

一枚のレコードを、くり返し聴いた。
そうやって得られた余韻と、TIDALで聴いての余韻は、同じとはいえない。

TIDALで聴こうが、レコードで聴こうが、ようするにこちらの聴き方の問題であって、
TIDALに問題があるわけではないことはわかっている。

TIDALでは、どちらかといえは、まだ聴いたことのない人の演奏を聴く。
そうやって聴き続けたあとに、ふと往年の演奏家を聴く。

フルトヴェングラーでもいい、カザルスでもいい、グールドでもいい。
そういった人たちの演奏を聴くと、たしかに余韻があるのに気づく。

その余韻を聴き終って、楽しんでいることに気づく。

Date: 2月 19th, 2021
Cate: 所有と存在, 欲する

「芋粥」再読(その10)

別項「background…」で書いている安部公房の「他人の顔」の主人公〈ぼく〉。

「他人の顔」の主人公〈ぼく〉の時代には、
CDもなかったし、TIDAL(ストリーミング)もない。

〈ぼく〉が聴くことができる音楽の量は、いまよりもずっと少なかった。
音楽のジャンルに関してだけでなく、演奏の数も少なかった。

その〈ぼく〉が、いまの時代に生きていたら、どうなのか。
そんなことを想像してみたくなる。

〈ぼく〉は、音楽の利用法について語っている。
     *
その夜、家に戻ったぼくは、珍しくバッハを聴いてみようという気をおこしていた。べつに、バッハでなければならないというわけではなかったが、この振幅の短くなった、ささくれだった気分には、ジャズでもないし、モーツァルトでもなく、やはりバッハがいちばん適しているように思われたのだ。ぼくは決して、音楽のよき鑑賞者ではないが、たぶんよき利用者ではあるだろう。仕事がうまくはかどってくれないようなとき、そのはかどらなさに応じて、必要な音楽を選びだすのだ。思考を一時中断させようと思うときには、刺戟的なジャズ、跳躍のバネを与えたいときには、思弁的なバルトーク、自在感を得たいときには、ベートーベンの弦楽四重奏曲、一点に集中させたいときには、螺旋運動的なモーツァルト、そしてバッハは、なによりも精神の均衡を必要とするときである。
     *
〈ぼく〉は音楽のよき鑑賞者ではないことを自覚している。
だからこそ、音楽のよき利用者なのかもしれないわけなのだが、
音楽のよき利用者であるためには、さまざまな音楽を聴いていることが必要になるし、
それぞれの音楽の特質を捉えることができていなければ、よき利用者にはなれない。

刺戟的なジャズ、思弁的なバルトーク、螺旋運動的なモーツァルトなどとある。
世の中には刺戟的でないジャズもあるし、
思弁的な演奏ではないバルトークもある。

「他人の顔」が発表された時代、バルトークは現代音楽であった。
そんなことも思ってみるのだが、
いまの時代、バルトークが現代音楽だったころに録音された演奏も聴けるし、
現代音楽でなくなった時代に演奏された録音も聴ける。

〈ぼく〉が思弁的と捉えているバルトークは、曲そのものであって、
演奏をふくめての話ではないのかもしれない。

それでも〈ぼく〉の時代のころは、バルトークはまだ現代音楽だった。

Date: 2月 15th, 2021
Cate: 所有と存在, 欲する

「芋粥」再読(その9)

TIDALが、10代のころに存在していたら、歓喜していただろうか。
TIDALでなくてもいい、Netflixでもいい。

この種のサービスが、いまから四十年ほど前、
中学生、高校生だったころにあったならば、どうだったろうか。

あのころの私は、毎月の小遣いをやりくりしてLPやミュージックテープを買っていた。
田舎のレコード店には輸入盤はなかった。

バスで約一時間、熊本市内に出れば、輸入盤を扱うレコード店もあったが、
往復のバス代はレコード一枚分に近かった。

FMの放送局も、そのころはNHKのみだった。
聴きたい音楽(ディスク)をすべて買えるわけではなかったどころか、
ほとんど買えなかった(聴けなかった)、といっていい。

そういう田舎での音楽体験に、TIDALがあったならば、
それはすごいことではあるけれど、
いま毎日のようにTIDALで音楽を聴いていて思っているのは、
そういう青春時代を送ったからこそ、
この歳になってTIDALがあってよかった、と感じている、ということだ。

聴きたくともなかなか聴けない。
そんな10代を送っていていなければ、
TIDALとの接し方も、少し違っていたかもしれない。

Date: 2月 4th, 2021
Cate: 所有と存在, 欲する

「芋粥」再読(その8)

数年前の一時期、
Hulu、Netflix、Amazon Prime Video、
この三つのサービスを利用していた。

それぞれでしか見れない作品があるのだから、
海外ドラマ好きの私にとっては、どれも外せなかった。

けれどHuluは日本テレビの子会社になってから、質が落ちた。
見ている途中で途切れてしまう。
何度もそういうことがあったし、
さらに「他のデバイスで使用中だから見れません」的なことが表示される。

独り暮しでMacでしかみていないのに、この表示が頻繁に出てくる。
サービスセンターに問い合せても、毎度同じことしか返ってこない。

回線スピードが遅い、ということと、
そういう事例は、他からは報告されていません、だった。

回線スピードに関しては、測定すれば問題なかったし、
Netflixではそんなことは一度も発生してなかった。

なのでHuluはやめてしまった。
いまはNetflixとPrime Videoの二つなのだが、
この二つで、不満はない。

けれどほぼ毎日のように使っていて、何を思っているかというと、
どの作品を見たいのか、それをチェックしている時間が、
場合によっては作品をみている時間よりも長いのではないか、ということだ。

Netflixならばマイリスト、Prime Videoはウォッチリストとついている。
そのリストに、みたい作品を登録していく。

リストに登録される作品の傾向から、
あなたにはこれがおすすめ、というものも表示される。

こんな作品があるんだ、とか、
関連作品として表示されるのも気になってしまう。
そうやって登録するだけで、作品をみない日があったりする。

やりながらバカなことをしている、と自覚している。
アホウな話である。

私にとって、音楽を聴くことは、
映画や海外ドラマをみることよりも、ずっと大事で大切なことだから、
こんなアホウなことはやりたくない。

やらないためにTIDALだけを選択している。

Date: 2月 3rd, 2021
Cate: 所有と存在, 欲する

「芋粥」再読(その7)

CDを買う理由は、そのディスクにおさめられている音楽を聴きたいからにほかならない。
すぐに聴きたいのか、
それともじっくり聴くための時間がとれるようになってからなのか、
どちらにしても、そこに収録されている音楽が目的のはずだ。

けれどCDボックスのいくつもに手を出す。
その結果、聴かずのディスクが100枚を超えている人を知っているし、
そのくらいの人は、クラシックを聴く人では、もう珍しくなっているようでもある。

2ちゃんねる(5ちゃんねる)には、
《未聴のCDの山を見て人生の残りを考える》というスレッドが、
ずっと続いていることからもうかがえる。

つまり飽和点に達している、もしくは近づいている人はけっこういる。
なのに、CDボックスをつい買ってしまう。

聴くのが目的であれば、いまではCDに頼る必要はない。
TIDALにすべてがあるとはいわないが、クラシックに限ってもかなりの曲数である。

聴くのが目的なら、おまえはなぜTIDALだけなのか、といわれるかもしれない。
いまではAmazon Music HD、mora qualitasが日本ではサービスを開始しているし、
海外にはQobuzがある。

それらのサービスは利用していない。
聴くのが目的ならば、それらのサービスも、と考える人もいるけれど、
私は、聴くのが目的だから、TIDALだけ、である。

選択肢を増やしすぎると、選択のためだけに時間を費やしてしまうからだ。

Date: 1月 27th, 2021
Cate: 所有と存在, 欲する

「芋粥」再読(その6)

未開封のCDボックスが溜っていく……。

クラシックのCDボックスの安さは、
つい買っておこう、と思ってしまうほどで、
これを書いている私も、さすがに未開封のCDボックスはないが、
CDボックスすべてのディスクを聴いているのもあれば、そうでないボックスものもある。

CDボックスが、こんなに安価で入手できる以前から、
封も切らずにそのまま、ということはあった。

五味先生にもある。
     *
 書籍に〝ツンドク〟というのがある。全集もののように、申し込めばいやでも届けられるのではなく、ふらりと入った書店で読んでみようと買った本を、そのまま、読まず積んでおく謂だが、私くらいの歳になると、買ったレコードも帰宅後すぐ聴かず、レコード棚に置いたまま忘れることがある。まさか〝ツンレコ〟ともいうまいが、似たようなものだ。最近、そういうレコードが二十枚ちかくあるのに気がつき、あらためて聴いてみて無性に腹の立ったのが、ポリーニのベートーヴェンのソナタ(作品一一一)だった。
     *
「いい音いい音楽」に収められている「他人の褒め言葉うのみにするな」からの引用だ。
1970年代終りごろで、五味先生でも20枚ほど聴かずのレコードが溜まっていた。

クラシックのCDボックスは、20枚以上のものもけっこう出ている。
50枚を超えるものも少なくない。

五味先生のころから四十年。
あとで聴こう、時間がゆっくりとれたら聴こう、などと思っていたら、
聴かずのディスクは数十枚単位で増えていくばかりだ。

ここで考えたいのは、聴かずのCDボックスが増えていく一方の人は、
TIDALを利用するだろうか、である。

CDボックスを買ったり、中古店にまめに通い、コレクションに足りないものを探す。
そういう人でTIDALを利用していない、というのはどのくらいの割合なのだろうか。

日本では正式にサービス開始になっていないが、
Googleで検索すればどうすればいいのかはすぐにわかるし、
それにかかる労力はわずかでしかない。

しかもTIDALは44.1kHz、16ビットで聴ける。
CD未満の音というわけではない。
それにMQAでの配信もかなり積極的に行っている。

TIDALに手をのばさない理由があるだろうか。

Date: 11月 18th, 2020
Cate: 所有と存在, 欲する

「芋粥」再読(その5)

半年ほど前、ソニークラシカルから1994年ごろに発売になっていたCDボックスを買った。
中古である。

CDボックスといっても、単売されていたCDを五枚をまとめたものだから、
ボックスには、五枚分のCDケースが入っている。
しかもそれぞれのディスクがパッケージされている。

二十数年前のCDボックスにも関らず、
開封されていたのは一枚だけだった。
残り四枚は封が切られてなかった。

このカザルスのCDボックスを最初に購入した人は、どういう聴き方をしていたのだろうか。
五枚すべてを、買った当初は聴くつもりだったはずだ。
けれど、一枚だけで終ってしまっている。

人にはいろんな事情があるから、あれこれ詮索したところで、
ほんとうのところが、まったく見知らぬ人についてわかるわけなどない。

私としては、新品同様に近いカザルスのCDボックスが格安で買えたわけで、
前の所有者が封も切らなかったことを喜んでもいいわけだ。

これはそんなに珍しいことではない。
クラシックのCDボックスを購入した人には、わりとあることのはずだ。
しかも、いまのCDボックスは、もっと枚数が多い。

しかも価格も安い。一度に複数のCDボックスを購入することもある。
昔は店に行って買っていたから、荷物になるから、と控えることもあっただろうが、
インターネットの通信販売を利用すれば、そんなことを気にする必要はない。

一度に複数のCDボックスを注文したことのある人は、けっこう多いと思う。
それだけの枚数のCDが届けば、それなりの満足(満腹)感が得られるだろう。

どんなに空腹であっても、目の前に一度では食べきれない量の料理を出されたら──。
いまだ封すら切っていないCDボックスが、目の前に積み上げられていく。

その人は、ディスクの購入者ではある。
けれど音楽を聴く権利を行使しないままでいるということは、
どこまでいっても、ディスクの購入者(所有者)でしかなく、
音楽の聴き手とはいえない。

Date: 11月 18th, 2020
Cate: 所有と存在, 欲する

「芋粥」再読(その4)

オーディオマニアのなかには、パッケージメディア、
つまりアナログディスク、CD、ミュージックテープなどといった購入したメディアでのみ、
音楽を聴くことにこだわる人がいる。

そういう人は、パソコンやiPhoneなどで音楽を聴くことは視界にすら入っていないのだろう。
趣味の世界ととらえれば、それはそれでいい。

けれど、これだけネットワークが普及して、
音楽を聴くために必要なことがずいぶん変化してきた時代において思うのは、
ここで何度も引用していることである。

黒田先生の「聴こえるものの彼方へ」のなかの
「ききたいレコードはやまほどあるが、一度にきけるのは一枚のレコード」に、
フィリップス・インターナショナルの副社長の話だ。
     *
ディスク、つまり円盤になっているレコードの将来についてどう思いますか? とたずねたところ、彼はこたえて、こういった──そのようなことは考えたこともない、なぜならわが社は音楽を売る会社で、ディスクという物を売る会社ではないからだ。なるほどなあ、と思った。そのなるほどなあには、さまざまなおもいがこめられていたのだが、いわれてみればもっともなことだ。
     *
レコード(録音物)でも本でもいいのだが、
それを購入した人は、ディスクというモノ、紙の本というモノを所有していることになる。
けれど、それらを聴かず読まずであれば、どうだろうか。

そのディスクにおさめられている音楽、その本におさめられている小説、論文などを、
自分のものにした、とはいえない。

つまりディスクや本を買ったということは、そのディスク、本におさられている内容を、
聴いたり読んだりする権利を買ったわけで、その権利を行使するかのか、
それとも買っただけで、いわゆるツンドクのままにしておくのか。

そんなふうに考えていくと、レコード会社も出版社も、
ディスクや本といった物を売る会社ではなく、聴いたり読んだりする権利を売る会社といえる。

もっといえば、聴いたり読んだりする機会を売る会社でもある。

クラシックでは、CDボックスが、どのレコード会社からも毎月のように発売になる。
それらの多くは、CD一枚あたり数百円か、それ以下の価格で売られる。

なので、つい購入する。
購入すれば、一度十枚、二十枚、それ以上のCDが手元に来る。
一度にそれだけのCDが届いたからといって、それらをすべて聴くとはかぎらない。