自己表現と仏像(その16)
《自分自身の神性の創造》、
このことを念頭において、手塚治虫の「火の鳥」に「鳳凰」編を読んでほしい。
《自分自身の神性の創造》に必要なのは、
名声なのか、ふたつの腕なのか、恵まれた環境なのか。
《自分自身の神性の創造》、
このことを念頭において、手塚治虫の「火の鳥」に「鳳凰」編を読んでほしい。
《自分自身の神性の創造》に必要なのは、
名声なのか、ふたつの腕なのか、恵まれた環境なのか。
別項でも何度も引用しているグレン・グールドのことばを、
ここでも引用することになる。
*
芸術の目的は、神経を昂奮させるアドレナリンを瞬間的に射出させることではなく、むしろ、少しずつ、一生をかけて、わくわくする驚きと落ち着いた静けさの心的状態を構築していくことである。われわれはたったひとりでも聴くことができる。ラジオや蓄音機の働きを借りて、まったく急速に、美的ナルシシズム(わたしはこの言葉をそのもっとも積極的な意味で使っている)の諸要素を評価するようになってきているし、ひとりひとりが深く思いをめぐらせつつ自分自身の神性を創造するという課題に目覚めてもきている。
*
《自分自身の神性の創造》、
仏像へと、私の裡ではつながっているといえる。
この項のテーマについて深く考えるようになったきっかけとして、
audio wednesdayで音を鳴らすようになったことが、一つある。
四谷三丁目の喫茶茶会記で五年、主にアルテックのスピーカーを鳴らした。
今年になって、場所を狛江で音を鳴らすようになった。
このことと、もう一つ。
iPhoneで音楽をよく聴くようになったことが挙げられる。
iPhoneに指先サイズのD/Aコンバーター兼ヘッドフォンアンプをつけて、
ヘッドフォンで聴く。
そのヘッドフォンも普及クラスのモノ。
リケーブルできるタイプだが、ついてきたケーブルのまま聴いている。
これについては別項で触れているように、
これ以上ミニマルにはできないシステムであり、
私にとってはラジカセ的でもある。
iPhoneによるシステム(というほど大げさなものではない)と、
メインのシステムで音楽を聴く行為における違いは、何なのか。
前者は、私にとって、誰かの手による仏像を鑑賞している、
そんな感じであるし、
メインのシステムで聴く、そしてaudio wednesdayでの音は、
自ら仏像を彫る行為のように、いまは感じている。
自尊心を満たすためだけのオーディオであるならば、
それは確かに「自己表現」といえよう。
そして、そんなオーディオは、自分のためだけのオーディオともいえる。
オーディオは音楽を聴くため、
つまりは自分のためのものであることはそうなのだが、
自分のためだけのものなのか、と問いたい。
誰かのためなのか。
これも、はっきりそうとは言えない。
自分のため、誰かのため、その狭間にあるのだろうか──、思いつつも、なぜ仏像なのかに、もう一度還ることになる。
オーディオは自己表現だ、と、
恥ずかしげもなく堂々と言う人を何人も知っている。
勝手に思っていればいい──、
私はそう思いながらも、
「オーディオは自己表現だ」、
さらには「自己表現だから──」と主張する人は、
手塚治虫の「火の鳥」、「鳳凰」編を読んでいないのだろうな、
と思うようになってきた。
像を想うと書いて、想像である。
誰が考えたのかは知らないけれど、仏の姿を想うことこそ想像である。
誰も仏をみたことがないわけで、
仏が人間と同じような姿かたちなのか、それすら誰もわからないのに、
人間の姿かたちに近い仏像が世の中には存在しているし、
そのことに疑問を抱いたとしても、
仏像を仏の姿かたちとして受け止めているのは、
なんともふしぎなこと。
そのうえで、では仏像は何をあらわしているのか。
仏の姿かたちではないことは明白で、
つまるところ仏の心なのだろう、
というところに行き着くのではないだろうか。
仏の「心」だとして、オーディオの場合は、何なのか。
ステレオサウンド 208号の特集「オーディオ評論家の音 評論家による評論家訪問」では、
傅 信幸氏のリスニングルームを黛 健司氏、
宮下 博氏のリスニングルームを傅 信幸氏、
山本浩司氏のリスニングルームを宮下 博氏、
黛 健司氏のリスニングルームを山本浩司氏が訪問している。
227号の特集「待望のニューモデル導入顛末記」に登場しているのは、
傅 信幸、黛 健司、三浦孝仁、山之内正、宮下 博の五氏。
三浦孝仁氏、山之内正氏は、208号には登場していないが、
三浦氏は195号の「オーディオ評論家の音 評論家による評論家訪問」に登場。
和田博巳氏が訪問されている。
ならばだ、黛氏に傅氏の音、
山本氏に黛氏の音、
和田氏に三浦氏の音、
傅氏に宮下氏の音を聴いてもらおうとは、
ステレオサウンド編集部の誰一人として考えなかったのか。
ステレオサウンド 227号の特集は、
「待望のニューモデル導入顛末記」である。
ステレオサウンドのウェブサイトには、こんなふうに紹介されている。
*
特集1は、215号(2020年6月発売)以来、3年ぶりとなるオーディオ製品の導入記です。4名のオーディオ評論家が2022年以降に新しく導入した製品について執筆しています。各評論家による製品選びの基準や、製品との出会いから導入に至るまでの経緯が明らかになると同時に、一人のオーディオファンとしての個人的な情熱やコダワリまで感じられる記事となっています。
*
227号はまだ読んでいないけれど、記事の構成としては215号と同じなはずだ。
《各評論家による製品選びの基準や、製品との出会いから導入に至るまでの経緯》が、
それぞれのオーディオ評論家の書き原稿によって語られているはずだ。
こういう記事を目にするたび毎回思うのは、
なぜ同じやり方をくり返すのかだ。
そしてもうひとつ、オーディオはコンポーネントであり、組合せの世界である。
なぜ記事にも、組合せという考えを持ち込まないのかだ。
ステレオサウンドは、195号(2015年6月発売)と208号(2018年9月発売)の特集で、
「オーディオ評論家の音」をやっている。
オーディオ評論家によるオーディオ評論家のリスニングルーム訪問の記事である。
「待望のニューモデル導入顛末記」と「オーディオ評論家の音」、
この二つの企画を組合せないのか。
二年前の(その8)で、
そして、オーディオマニアは一人ひとり、それぞれの「仏」の姿を再生音であらわしている、
と書いた。
誰も仏をみたことがないのに、仏像が世の中には存在している。
私にとって、終のスピーカーとは、仏像を彫っていくことに近い、
そのためのスピーカーなのかもしれない、とここにきて思うようになってきている。
《熱っぽく》に関することで、思い出すことがある。
東京に来たばかりのころ、1981年ごろのことである。
このころ、ダイナミックオーディオにはトートバッグがあった。
並の大きさのトートバッグではなかった。
プリメインアンプがすんなり入る大きさのトートバッグである。
もちろんアンプ一台分の重量に耐えられるだけのしっかりしたつくりでもあった。
いまでは考えられない光景だろうが、
あのころの若者は、アンプを、このトートバッグに入れて持ち帰っていた。
頻繁に見掛けるわけではなかったけど、
秋葉原で何度か、そうやって持ち帰っている人がいた。
あのころはそれが当り前のように受け止められていた。
けれど、普通のことではないわけで、
そこには熱っぽさがあってことのはずだ。
しかもその熱っぽさは伝染していくのかもしれない。
最近の、というか、もう少し前からなのだが、
人気マンガの連載期間が、
私が中学生、高校生だったころとくらべると、かなり長くなってきている。
あのころは単行本も十巻までいかない作品がけっこうあった。
二十巻をこえる作品は、そうとうに長い、という感覚であった。
ところがいまでは五十巻超えの作品はけっこうあるし、
百巻超えの作品も珍しくなってきている。
その理由は、一つではなくて、いろんなことが絡み合ってのことなのだろう。
でも、ここでテーマとしていることと関連していえることは、
背景の描写が緻密になるとともに、
作品の連載期間の長期化があたりまえのこととなってきた──、と。
背景描写が緻密でない作品でも、
たとえば「サザエさん」のように長期の連載、五十巻をこえる単行本という作品はあった。
「サザエさん」は四コマ・マンガなので、同列には比較できないところもあるのはわかっている。
それでも、背景の描写の緻密化と連載の長期化は、無関係とは思えない。
ステレオサウンド 50号の巻頭座談会で、瀬川先生が語られている。
すでに何度か引用しているから、またか、と思われるだろうが、
やはり読んでほしい、と思うのは、
ソーシャルメディアがこれほど普及してきたことも関係している。
*
そういう状況になっているから、もちろんこれからは「ステレオサウンド」だけの問題ではなくて、オーディオ・ジャーナリズム全体の問題ですけれども、これからの試聴テスト、それから新製品紹介といったものは、より詳細な、より深い内容のものにしないと、読者つまりユーザーから、ソッポを向かれることになりかねないと思うんですよ。その意味で、今後の「ステレオサウンド」のテストは、いままでの実績にとどまらず、ますます内容を濃くしていってほしい、そう思います。
オーディオ界は、ここ数年、予想ほどの伸長をみせていません。そのことを、いま業界は深刻に受け止めているわけだけれど、オーディオ・ジャーナリズムの世界にも、そろそろ同じような傾向がみられるのではないかという気がするんです。それだけに、ユーザーにもういちど「ステレオサウンド」を熱っぽく読んでもらうためには、これを機に、われわれを含めて、関係者は考えてみる必要があるのではないでしょうか。
*
《熱っぽく》とある。
《ユーザーにもういちど「ステレオサウンド」を熱っぽく読んでもらうためには、これを機に、われわれを含めて、関係者は考えてみる必要があるのではないでしょうか》
ともある。
熱っぽく読んでもらうには、熱っぽく書くということなのだろうか。
強くそうだ、と思っているわけだが、反面、そうでもない、とも思う。
そして、この《熱っぽく》が難しいのは、
オーディオ、もしくはオーディオ機器について《熱っぽく》語っている(書いている)、
語っている(書いている)本人は、そのつもりなのだが、
それを聞いている(読んでいる)方は、
自分を《熱っぽく》語っている(書いている)だけじゃないか、と受けとっていることもある。
ソーシャルメディアには、オーディオ関係者もいる。
そういう人たちが、自身に関係するオーディオ機器(技術)について、
熱っぽく投稿していることが、けっして少なくない。
どれが、とはいわないが、その中には、
読んでいると、書き手の《熱っぽさ》に白ける、とまでいうと、
少し大袈裟なのだが、しらーっ、としてしまうことがないわけではない。
この人は、何を《熱っぽく》語っているのだろうか──。
つまるところ、自分自身を《熱っぽく》語っているのではないのか。
そんな疑問が少しでもわいてくると、またか、と思ってしまうようになる。
本人には、そんなつもりはまったくないのかもしれない。
そうであっても、受け手が必ずしもそう感じているわけではない。
《熱っぽく》語る人だ、そんなふうに受け止めている人は少なくないのだろう。
でも、私みたいに受け止めている人も、またいるはずだ。
《熱っぽく》は微妙で難しい。
仏像とは、
彫刻や絵画などの造形方式によって表された、信仰の対象としての仏の形像。多く彫像をいう。釈迦仏のみならず諸尊仏の像をもさす。
辞書には、こうある。
仏の像であるわけだが、誰かひとりでも仏の姿を見ているのかといえば、
誰も見てはいない。
これまで誰ひとりとして見たことのない仏の姿を彫っているし描いている。
そうやってつくられた仏像をみて、人は感動する。
いい仏像と思うこともある。
オーディオマニアが出す音は、どこか仏像のように感じることがある。
原音再生というお題目がある。
けれど、原音を誰ひとりとして、はっきりとわかっている人はいない。
何を原音とするのか。
そのことについても、長いこといわれ続けてきている。
原音とは何か。
そのことをはっきりと定義したところで、
そこでの「原音」すら、誰ひとりとしてわかっていない。
それでも「原音」は、なにがしかのかたちで、それぞれのオーディオマニアの裡にある。
原音は、だから仏像における仏の存在のように思う。
そして、オーディオマニアは一人ひとり、それぞれの「仏」の姿を再生音であらわしている。