Archive for category 表現する

Date: 6月 11th, 2026
Cate: 表現する

熱っぽく、とは(その6)

1981年春、東京で暮らすようになって、東京ってすごい、と思わせたのは、以前書いている三省堂書店がある。
それから前回書いた東急ハンズ、そしてぴあがある。

ぴあの存在も全く知らなかった。東京には、こういう雑誌が出ているのか、という驚き、とともに、誌面いっぱいの情報(活字)量にも驚いた。

これほど余白の少ない雑誌はあったのだろうか。普通の雑誌ならば空白のところまで、何らかの活字で埋められていた。

編集の仕事を経験した後では、校正も含めて大変だろうなぁ、と思うようになった。

確か二週間に一度出版されていた。いったい編集部には何人のスタッフがいたのだろか。

映画、音楽、美術館、博物館など、東京で開催される、ほぼ全ての情報が一冊にまとまっていたから、さほど関心のない項目(ページ)にも目を通すことで、興味の対象が、わずかではあっても拡がっていく。

あの時代のぴあに載っていたのは、単なる情報だったのか。情報の羅列とは、ふり返っても、そうとは思えないものがあった。

Date: 5月 31st, 2026
Cate: 表現する

熱っぽく、とは(その5)

少し前に、渋谷のハンズの閉店のニュースがあった。
東京には大型書店があることは、田舎に住んでいても知っていたけれど、東急ハンズのことはまったく知らなかったから、
初めて訪れた時は、東京って、凄いな、と驚いたことを思い出す。

あの頃の東急ハンズは、店内に活気があった。平日の昼間に行っても、客がけっこういたと記憶している。

東急ハンズからハンズになり、渋谷店の閉店。一ヵ月ほど前にも渋谷店に行っているが、閑散としているな、
あの頃の活気は、もうないのか、と感じていたところに閉店のニュースだったから、驚きはあったものの、悲しいという感情はわいてこない。

「熱っぽく」が、なんとなく薄まってきているような気もする。

Date: 10月 31st, 2024
Cate: 表現する

自己表現と仏像(その16)

《自分自身の神性の創造》、
このことを念頭において、手塚治虫の「火の鳥」に「鳳凰」編を読んでほしい。

《自分自身の神性の創造》に必要なのは、
名声なのか、ふたつの腕なのか、恵まれた環境なのか。

Date: 10月 30th, 2024
Cate: 表現する

自己表現と仏像(その15)

別項でも何度も引用しているグレン・グールドのことばを、
ここでも引用することになる。
     *
芸術の目的は、神経を昂奮させるアドレナリンを瞬間的に射出させることではなく、むしろ、少しずつ、一生をかけて、わくわくする驚きと落ち着いた静けさの心的状態を構築していくことである。われわれはたったひとりでも聴くことができる。ラジオや蓄音機の働きを借りて、まったく急速に、美的ナルシシズム(わたしはこの言葉をそのもっとも積極的な意味で使っている)の諸要素を評価するようになってきているし、ひとりひとりが深く思いをめぐらせつつ自分自身の神性を創造するという課題に目覚めてもきている。
     *
《自分自身の神性の創造》、
仏像へと、私の裡ではつながっているといえる。

Date: 10月 14th, 2024
Cate: 表現する

自己表現と仏像(その14)

この項のテーマについて深く考えるようになったきっかけとして、
audio wednesdayで音を鳴らすようになったことが、一つある。

四谷三丁目の喫茶茶会記で五年、主にアルテックのスピーカーを鳴らした。
今年になって、場所を狛江で音を鳴らすようになった。

このことと、もう一つ。
iPhoneで音楽をよく聴くようになったことが挙げられる。

iPhoneに指先サイズのD/Aコンバーター兼ヘッドフォンアンプをつけて、
ヘッドフォンで聴く。
そのヘッドフォンも普及クラスのモノ。

リケーブルできるタイプだが、ついてきたケーブルのまま聴いている。
これについては別項で触れているように、
これ以上ミニマルにはできないシステムであり、
私にとってはラジカセ的でもある。

iPhoneによるシステム(というほど大げさなものではない)と、
メインのシステムで音楽を聴く行為における違いは、何なのか。

前者は、私にとって、誰かの手による仏像を鑑賞している、
そんな感じであるし、
メインのシステムで聴く、そしてaudio wednesdayでの音は、
自ら仏像を彫る行為のように、いまは感じている。

Date: 9月 30th, 2024
Cate: 表現する

自己表現と仏像(その13)

自尊心を満たすためだけのオーディオであるならば、
それは確かに「自己表現」といえよう。
そして、そんなオーディオは、自分のためだけのオーディオともいえる。

オーディオは音楽を聴くため、
つまりは自分のためのものであることはそうなのだが、
自分のためだけのものなのか、と問いたい。

誰かのためなのか。
これも、はっきりそうとは言えない。

自分のため、誰かのため、その狭間にあるのだろうか──、思いつつも、なぜ仏像なのかに、もう一度還ることになる。

Date: 9月 15th, 2024
Cate: 表現する

自己表現と仏像(その12)

オーディオは自己表現だ、と、
恥ずかしげもなく堂々と言う人を何人も知っている。

勝手に思っていればいい──、
私はそう思いながらも、
「オーディオは自己表現だ」、
さらには「自己表現だから──」と主張する人は、
手塚治虫の「火の鳥」、「鳳凰」編を読んでいないのだろうな、
と思うようになってきた。

Date: 7月 24th, 2024
Cate: 表現する

自己表現と仏像(その11)

像を想うと書いて、想像である。
誰が考えたのかは知らないけれど、仏の姿を想うことこそ想像である。

Date: 7月 16th, 2024
Cate: 表現する

自己表現と仏像(その10)

誰も仏をみたことがないわけで、
仏が人間と同じような姿かたちなのか、それすら誰もわからないのに、
人間の姿かたちに近い仏像が世の中には存在しているし、
そのことに疑問を抱いたとしても、
仏像を仏の姿かたちとして受け止めているのは、
なんともふしぎなこと。

そのうえで、では仏像は何をあらわしているのか。
仏の姿かたちではないことは明白で、
つまるところ仏の心なのだろう、
というところに行き着くのではないだろうか。

仏の「心」だとして、オーディオの場合は、何なのか。

Date: 6月 16th, 2023
Cate: 表現する

熱っぽく、とは(その4)

ステレオサウンド 208号の特集「オーディオ評論家の音 評論家による評論家訪問」では、
傅 信幸氏のリスニングルームを黛 健司氏、
宮下 博氏のリスニングルームを傅 信幸氏、
山本浩司氏のリスニングルームを宮下 博氏、
黛 健司氏のリスニングルームを山本浩司氏が訪問している。

227号の特集「待望のニューモデル導入顛末記」に登場しているのは、
傅 信幸、黛 健司、三浦孝仁、山之内正、宮下 博の五氏。

三浦孝仁氏、山之内正氏は、208号には登場していないが、
三浦氏は195号の「オーディオ評論家の音 評論家による評論家訪問」に登場。
和田博巳氏が訪問されている。

ならばだ、黛氏に傅氏の音、
山本氏に黛氏の音、
和田氏に三浦氏の音、
傅氏に宮下氏の音を聴いてもらおうとは、
ステレオサウンド編集部の誰一人として考えなかったのか。

Date: 6月 6th, 2023
Cate: 表現する

熱っぽく、とは(その3)

ステレオサウンド 227号の特集は、
「待望のニューモデル導入顛末記」である。

ステレオサウンドのウェブサイトには、こんなふうに紹介されている。
     *
特集1は、215号(2020年6月発売)以来、3年ぶりとなるオーディオ製品の導入記です。4名のオーディオ評論家が2022年以降に新しく導入した製品について執筆しています。各評論家による製品選びの基準や、製品との出会いから導入に至るまでの経緯が明らかになると同時に、一人のオーディオファンとしての個人的な情熱やコダワリまで感じられる記事となっています。
     *
227号はまだ読んでいないけれど、記事の構成としては215号と同じなはずだ。
《各評論家による製品選びの基準や、製品との出会いから導入に至るまでの経緯》が、
それぞれのオーディオ評論家の書き原稿によって語られているはずだ。

こういう記事を目にするたび毎回思うのは、
なぜ同じやり方をくり返すのかだ。

そしてもうひとつ、オーディオはコンポーネントであり、組合せの世界である。
なぜ記事にも、組合せという考えを持ち込まないのかだ。

ステレオサウンドは、195号(2015年6月発売)と208号(2018年9月発売)の特集で、
「オーディオ評論家の音」をやっている。
オーディオ評論家によるオーディオ評論家のリスニングルーム訪問の記事である。

「待望のニューモデル導入顛末記」と「オーディオ評論家の音」、
この二つの企画を組合せないのか。

Date: 11月 30th, 2022
Cate: 表現する

自己表現と仏像(その9)

二年前の(その8)で、
そして、オーディオマニアは一人ひとり、それぞれの「仏」の姿を再生音であらわしている、
と書いた。

誰も仏をみたことがないのに、仏像が世の中には存在している。
私にとって、終のスピーカーとは、仏像を彫っていくことに近い、
そのためのスピーカーなのかもしれない、とここにきて思うようになってきている。

Date: 8月 18th, 2022
Cate: 表現する

熱っぽく、とは(その2)

《熱っぽく》に関することで、思い出すことがある。
東京に来たばかりのころ、1981年ごろのことである。

このころ、ダイナミックオーディオにはトートバッグがあった。
並の大きさのトートバッグではなかった。
プリメインアンプがすんなり入る大きさのトートバッグである。

もちろんアンプ一台分の重量に耐えられるだけのしっかりしたつくりでもあった。
いまでは考えられない光景だろうが、
あのころの若者は、アンプを、このトートバッグに入れて持ち帰っていた。

頻繁に見掛けるわけではなかったけど、
秋葉原で何度か、そうやって持ち帰っている人がいた。

あのころはそれが当り前のように受け止められていた。
けれど、普通のことではないわけで、
そこには熱っぽさがあってことのはずだ。

しかもその熱っぽさは伝染していくのかもしれない。

Date: 12月 16th, 2021
Cate: 表現する

オーディオ背景論(その5)

最近の、というか、もう少し前からなのだが、
人気マンガの連載期間が、
私が中学生、高校生だったころとくらべると、かなり長くなってきている。

あのころは単行本も十巻までいかない作品がけっこうあった。
二十巻をこえる作品は、そうとうに長い、という感覚であった。

ところがいまでは五十巻超えの作品はけっこうあるし、
百巻超えの作品も珍しくなってきている。

その理由は、一つではなくて、いろんなことが絡み合ってのことなのだろう。
でも、ここでテーマとしていることと関連していえることは、
背景の描写が緻密になるとともに、
作品の連載期間の長期化があたりまえのこととなってきた──、と。

背景描写が緻密でない作品でも、
たとえば「サザエさん」のように長期の連載、五十巻をこえる単行本という作品はあった。
「サザエさん」は四コマ・マンガなので、同列には比較できないところもあるのはわかっている。

それでも、背景の描写の緻密化と連載の長期化は、無関係とは思えない。

Date: 9月 18th, 2021
Cate: 表現する

熱っぽく、とは(補足)

「熱っぽく」を公開して、
「オーディオにおけるジャーナリズム(特別編)」を思い出す人が、
いったいどれだけいるだろうか。
一人もいないだろう──、そんなことを思っていた。

「オーディオにおけるジャーナリズム(特別編)」は、
2010年1月1日に公開した。

その1)で触れているように、瀬川先生による
新しいオーディオ雑誌創刊のための企画書の下書きである。
おそらく1977年に書かれたものと思われる。

今回のことを書いていて、(その3)の内容を思い出していた。
今日、あらためて読みなおした。