Archive for category 表現する

Date: 10月 10th, 2017
Cate: 表現する

音を表現するということ(間違っている音・その9)

間違っている音を出していた男は、
オーディオの使いこなしに自信をもっている。

何故、彼が自信をもつに至ったかについては書かないが、
その自信は、本当の実力に裏打ちされたものだったのか。

本人はナルシシストであるから、きっと、そう思っているはずだ。
だがオーディオは、その場で、スピーカーから鳴ってくる音だけ、である。
肝心の音が、実力に裏打ちされていなければ、
彼がどんなに使いこなしに自信をもっていようと、
それは自己満足の技術でしかない。

数年前の私だったら、これがオーディオの罠だ、と書くところだが、
結局は本人の未熟さゆえである。

何故未熟なのか。
自己満足の技術しか持たないからである。

何故自己満足の技術から脱することができないのか。
ナルシシストだから──、だけがその理由ではないと思う。

Date: 9月 26th, 2017
Cate: 表現する

音を表現するということ(間違っている音・その8)

間違っている音を出していた男は、はっきりとナルシシストである。

本人にその自覚があるように感じるときもあれば、
そうでないように感じるときもあったから、
本人が自覚していたのかどうかははっきりしないが、
少なくとも私だけでなく、間違っている音を出していた男とつきあいのあった人の多くが、
ナルシシストだといっているから、
私だけのひとりよがりではないのだろう。

別にナルシシストであってもいい。
けれど、それがことオーディオ、音に関係してくると、
どうしても何か言いたくなるのが、私の性格だ。

間違っている音を出していた男は、
「瀬川先生の音を彷彿させる音が出ているから、来ませんか」と私を誘った。
七年前のことだ。

その6)でも書いているように、
彼は瀬川先生に会ったことはない。
あったことがないのだから、瀬川先生の音を聴いてもいない。

にも関らずナルシシストの彼は、
「瀬川先生の音を彷彿させる音が出ているから、来ませんか」と恥ずかしげもなくいう。
そのとき、たいしたナルシシストだ、と思っていた。

もちろん彼の音が、瀬川先生の音を彷彿とさせるなんて、
まったく期待していなかった。
それでも、彼なりの、ナルシシストとしての美意識が反映された音であるならば、
聴いてみたいという好奇心はあった。

けれど、そこで鳴っていたのは、
残念なことに美的ナルシシズムではなく、醜的ナルシシズムとしかいいようのない音だった。

美少年も歳をとる。
皺が増え、皮膚も弛んでくる、
体形も変ってくる、腰まわりには脂肪がついてくるし、
髪の毛だって白髪になったり、抜け毛も増えてこよう。

ナルキッソスはそうなっても、己の姿を水に映してうっとりするのだろうか。
もっともナルキッソスは、その前に死んでいるのだが。

だが現実のナルシシストは、みな老いていく。

Date: 7月 30th, 2017
Cate: 表現する

自己表現と仏像(その6)

十年前に初めて京都に行った。
帰る日の午前中にすこし時間の余裕があったので、東寺に行った。
時間つぶしのつもりだった。

せっかく来たのだから大仏を、と軽い気持だった。
大仏を見たことがなかったわけではないが、
東寺の大仏はそれまでのみてきた大仏の印象とはまるで違ってみえた。
圧倒された。

40すぎて、やっと大仏に興味を持つようになった。
興味をもったからといって、特に詳しいわけではない。
仏像、いいな、とおもう程度になったくらいでしかない。

いま仏像は静かなブームのようだ。
表参道にあるイスムは、繁盛している、ときいている。
友人のAさんも、ここで阿修羅像を買った、といっていた。
仏像のフィギュアも、いまでは珍しくない。
浅草の土産店でも、小さな仏像が売られている。

買いたい、と思うモノもある。
けれど、いまのところ、まだ買っていないのは、
仏像は、自分の手でつくるものではないか、と思うようになってきたからだ。

Date: 2月 5th, 2017
Cate: 表現する

自己表現と仏像(その5)

「オーディオ(音)は自己表現だ」と強く主張する人がいる。
誰か特定の人を指して書いているのではなく、
そう主張する人は意外にも多い。

「オーディオ(音)は自己表現だ」をきくたびに、げんなりする。
昔はそうではなかった。
「オーディオ(音)は自己表現だ」をきいても、げんなりすることはなかった。

それがここ十年くらいか、げんなりするようになってきている。

「音は人なり」といわれている。
「音を人なり」をきいてげんなりするかといえば、そんなことはない。

「オーディオ(音)は自己表現だ」と「音は人なり」。
似ているけれど、同じことをいっているわけではない。

「オーディオ(音)は自己表現だ」にげんなりするのは、
これを口にする人によっては「音は人なりだろ」といいたげなのが感じとれたりするからなのかもしれない。

「オーディオ(音)は自己表現だ」にげんなりすることが増してくるにつれて、
仏像について考えることも増えてきている。

いい音を求めていく行為は、仏像を彫っていく行為に近いような気がしはじめている。

Date: 7月 28th, 2016
Cate: 表現する

音を表現するということ(間違っている音・その7)

ここで書きたいと考えていることは、
二年前に書いた「オーディオマニアとして(グレン・グールドからの課題)」につながっていく。
     *
芸術の目的は、神経を昂奮させるアドレナリンを瞬間的に射出させることではなく、むしろ、少しずつ、一生をかけて、わくわくする驚きと落ち着いた静けさの心的状態を構築していくことである。われわれはたったひとりでも聴くことができる。ラジオや蓄音機の働きを借りて、まったく急速に、美的ナルシシズム(わたしはこの言葉をそのもっとも積極的な意味で使っている)の諸要素を評価するようになってきているし、ひとりひとりが深く思いをめぐらせつつ自分自身の神性を創造するという課題に目覚めてもきている。
     *
このグレン・グールドの文章を引用するのは四回目になるか。
ここにもナルシシズムが出てくる。
しかも美的ナルシシズムとある。

グレン・グールドがナルシシズムの語源を知らないわけがない。
にも関わらず、美的とつけている。

ならば醜的ナルシシズムがあるのか、と考える。
美的ナルシシズムの諸要素、醜的ナルシシズムの諸要素とは、どういったことなのか。

Date: 7月 28th, 2016
Cate: 表現する

音を表現するということ(間違っている音・その6)

その2)の続きにもどろう。

間違っている音を出していた男は、
私に「瀬川先生の音を彷彿させる音が出ているから、来ませんか」と誘った。

間違っている音を出していた男は、瀬川先生と一度も会ったことがない。
東京で暮していて、
あのころ瀬川先生が定期的に来られていたメーカーのショールームにいつでも行ける環境にいながら、
一度も足を運んだことがない男でもある。
そして、一度も会えなかった、と嘆く。

彼は、別項で書いた知人である。
その程度の読み方しかしてこなかった男が、「瀬川先生の音を彷彿させる音」といっていた。

そういう時にかぎって、ひとりよがりな音を出していることが多い人だ。
だからその時もそうなんだろう、と思って出掛けていた。

ひよりよがりな音を、私は間違っている音といっているのではない。
この時の彼の音は、ひとりよがりの音といってすまされるのを逸脱していた。

だから「間違っている音」は、私にとっては二重の意味があるわけだ。

Date: 7月 28th, 2016
Cate: 表現する

音を表現するということ(間違っている音・その5)

バーンスタインのマーラー第五をラウドネス・ウォー的に鳴らしてしまう間違っている音。
これは音量に関係してくることであり、
facebookにも音量に関係するコメントがあった。
そのことについて触れておきたい。

たとえばハープシコードを,いわゆる爆音と表現されるほどの大音量で鳴らしたとする。
これは間違っている音といえるのだろうか。
そうだと答える人もいるし、違うと答える人もいる。

ハープシコードを爆音で鳴らす行為を、日本では下品なこと、とか、教養のないこと、
そんなふうに受け取られる傾向にある。

ハープシコードを爆音で鳴らすのが間違っている音とするならば、
オーケストラを小音量で鳴らすのも間違っている音になるのが、理屈である。

なぜか日本ではひっそりとした小音量で鳴らすのは、教養ある行為として認められる。
おかしなことではないか。
オーディオには、聴き手が音量を自由に設定できる(近所迷惑にならない範囲で)。

小音量でのオーケストラは、ガリバーが小人のオーケストラを聴く印象につながっていくのであれば、
大音量でのハープシコードは、巨人の国に迷い込んで彼らを演奏を聴くともいえる。

片方の世界へは想像力が働くのに、もう片方の世界には働かないのだろうか。
菅野先生が以前から指摘されていることなのだが、
映像の世界では、映画館の大きなスクリーンいっぱいに人の顔が映し出される。
けれどそれを実際の人の顔よりも何倍も大きいから不自然であるとか、
表現として間違っているとは思わないのに、これが音の世界になると、人の許容範囲は狭まる。

それが視覚と聴覚の違いだ、といってしまえばそれまでだが、
間違っている音と音量の関係についてはそれぞれが自分がなぜなのか、と考えほしい、と思う。

意外にも受け容れられる音量の範囲が、人それぞれに決っている、
もしくは無意識のうちに決めてしまっているのかもしれない。

音量と再生音について書いていくと、この項が先に進めなくなるのでこのあたりにしておくが、
いずれ項を改めてきちんと書いていくつもりだ(かなり先になりそうだが)。

Date: 7月 28th, 2016
Cate: 表現する

音を表現するということ(間違っている音・その4)

別項「夜の質感(バーンスタインのマーラー第五)」で書いたことを、ひとつの例としてあげておこう。

この人は、バーンスタインのマーラーの交響曲第五番(ドイツ・グラモフォン盤)を鳴らしてもらったら、
「この録音、ラウドネス・ウォーだね」といわれた。

こういうふうに間違った録音の判断をさせてしまう音も、
間違っている音のひとつといえる。

この人は私よりも一世代上の人で、オーディオのキャリアも長いはずだ。
けれどバーンスタインのマーラー第五をラウドネス・ウォー的に聴かせてしまう音、
彼自身のシステムを少しも疑っているところはない。

この人にはそこそこ長いつきあいのあったオーディオ仲間がいた。
彼は、この人の音(システム)の欠点(間違っている音)に気づいていた。
それでさりげなく指摘したそうだ。

それだけが理由ではないようだが、この指摘がひとつのきっかけとなってしまい、
気まずい仲になってしまったようだ。

この人は、この人自身の表現の結果としての音、
それも長い時間をかけてつくり上げてきた(自作スピーカーでもある)システムであるだけに、
その指摘に対しての反応は、理性的というより感情的であったようだ。

この人の反応は理解できないことではないが、
それでも……、と私は思う。
指摘してくれた人も、どうしようかずいぶん迷ったはずだと思う。
いわずにおけば気まずい仲になることはない。
でも、イヤミとかそういったことではなく、
もっと良く鳴らしてほしい、という気持からの指摘であったのではないか。

だが結果としてすれ違いがうまれてしまった。
おそらく、この人はバーンスタインののマーラーをラウドネス・ウォーと感じさせる音で、
これから先もずっとずっと聴いていくのかもしれない。

Date: 7月 28th, 2016
Cate: 表現する

音を表現するということ(間違っている音・その3)

(その2)に対して、facebookにコメントをもらった。

私が間違った音とは表現した音は、
出している本人にとっては真当な音だったのでは……、というものだった。

その1)を書いたのは六年前だから、
読まれた方でも内容を憶えている人の方が少ないはずだし、そう受け取られるのも仕方ない。
(その1)を読まれて、納得された。

(その1)を、このブログを読んでいる人がすべて読み返してくれるとは限らないし、
少し説明を加えておきたいこともある。

オーディオマニアの中には、間違っている音なんて、存在しない。
それはあなたの独善的な判断でしかない、という反論もあろう。

たとえば左右チャンネルを逆にして音を出す。
左チャンネルの音を右チャンネルのスピーカーから出す、というのは、明らかに間違っている。

別項で書いた、あるオーディオのライターの話
片チャンネルだけが逆相で鳴っていたのに気づかなかった、というのも、
そこで鳴っていた音は間違っている。

オーディオには録音・再生の約束事がある。
その基本的な約束事から外れてしまった、これらの音は初歩的な間違っている音である。
凡ミスによる間違えてしまった音である。

この項のタイトルは、「音を表現するということ」だ。
ここでの間違っている音とは、表現の結果としての間違っている音である。

Date: 7月 28th, 2016
Cate: 表現する

音を表現するということ(間違っている音・その2)

間違っている音を出していた男は、
間違っている音に惚れ込んでいた(少なくともその時はそうだった)、
酔いしれていた、といいかえてもいい。

間違っている音を出していた男のつきあいは長かった。
言いたいことをいってきた間柄だったし、率直な意見を聞かせてほしい、ともいわれた。
だから、おかしい音、間違っている音だ、と答えた。

これが間違っている音を出していた男のプライドをひどく傷つけたようだ。
間違っている音を出していた男とのつきあいはそれっきりになってしまった。

間違っている音に酔いしれていた、と私は感じた。
つまり間違っている音を出していた男に、ナルシシズムを感じた、といえるのか。

ナルシシズムは、ギリシャ神話に由来した言葉だ。
ナルキッソスは、水に映るわが姿に恋して死す。

ナルキッソスは美少年である。
ここで重要なことだ。
ナルキッソスの美貌と間違っている音は、美しさにおいてまったく違うもの。

少なくともナルシシズムが成り立つためには、ナルキッソスのような美貌がなければならない。
ナルキッソスの美貌に匹敵するほどの美しい音でなければならないとすると、
間違っている音は美しい音とはいえない。

その間違っている音を聴いて、うっとりする。
これはナルシシズムとはいえないはずだ。

ナルシシズムに必要なことが欠如しているのだから。
そうなると間違った音を出していた男が醸し出していたのは、なんといったらいいのか。

Date: 7月 7th, 2016
Cate: audio wednesday, 表現する

夜の質感(バーンスタインのマーラー第五)

バーンスタインのマーラーの交響曲第五番のCDを手に入れた日のことは、
以前別項で書いている。

昼休みに行ったWAVEに、ちょうど入荷したばかりだった。
その日は、午後から長島先生の試聴があった。

試聴が始まる前に、長島先生に聴いてもらった。
一楽章を最後まで聴かれた。

このとき同席していた編集者が「チンドンヤみたい」と呟いた。

インバルの第五を好んでいく彼にとっては、
バーンスタインの第五は、そう聴こえてしまうのか、と思ったことがあった。

この日から十数年経ったころ、
ある人のお宅で、このディスクをかけてもらったことがある。
かけ終って「この録音、ラウドネス・ウォーだね」といわれた。

ちょうどラウドネス・ウォーが、日本のオーディオ雑誌で取り上げられるようになった時期でもあった。
確かに、その人のシステムでは、バーンスタインのマーラーは、芳しくなかった。

この音を聴いたら、あの日、「チンドンヤみたい」といった彼は、
「ほら、やっぱり!」といったであろう。
そういう音のマーラーしか鳴ってなかった。

その人は、あまりマーラーを聴かないのかもしれない。
その人の音には、バーンスタインのマーラーは向いていなかったのかもしれない。

にしても、「この録音、ラウドネス・ウォーだね」はトンチンカンな反応でしかない。
その人のシステムは、ひどく聴感上のS/N比の悪い音である。
特に機械的共振による聴感上のS/N比の悪化がかなり気になる自作のスピーカーだった。

そういうスピーカーだから、オーケストラが総奏で鳴っていると、
聴感上のS/N比が、まったく確保されていない悪さが、ストレートに出てしまう。

ここで疑うべきはどこなのか。
その人はバーンスタインのマーラーの録音だと決めつけていた。

8月3日のaudio sharing例会では、少なくともそんな低レベルの音は出さない。
今日(7月7日)は、マーラーが生まれた日だ。

Date: 5月 20th, 2016
Cate: 表現する

夜の質感(Heart of Darkness)

「地獄の黙示録」は、公開当時、ものすごく話題になっていた映画だった。
あれこれいわれていた映画だった。
あまりにいわれすぎていて、それだけで観たような気になったわけではないが、
なんとなく観る気が失せていっていた。

公開当時は17歳。他に観たい映画があった。
結局「地獄の黙示録」を観たのは東京に来てからだった。

レーザーディスクでだったと記憶している。
映画館で観たのは2001年の特別完全版だった。

「地獄の黙示録」の原題は”Apocalypse Now”、
原作となったのはジョゼフ・コンラッドの小説「闇の奥」ということは、知識として知っていただけだった。

「闇の奥」は読んでいない。だから「闇の奥」の原題が”Heart of Darkness”だということを知ったのは、
それほど昔のことではない。

“Heart of Darkness”が「闇の奥」ということは、
“Heart”は、そういうふうに訳せるのか──、このことが新鮮に感じていた。

新月に聴くマーラー」のことを考えていて、
“Heart of Darkness”のことを思い出していた。

Date: 1月 7th, 2016
Cate: 表現する

「含羞 -我が友中原中也-」

以前、曽根富美子氏の「含羞(はじらひ)-我が友中原中也-」について書いた。
長らく絶版のままだった。
ほんとうに長い間絶版だった。

今日、偶然にも、書店で「含羞(はじらひ)-我が友中原中也-」が平積みされているのに気づいた。
復刊ドットコムから、ようやく復刊されての復活である。

「含羞(はじらひ)-我が友中原中也-」はマンガである。
もうそれだけで読むに値しないと思う人がいるのはわかっている。

音楽はジャンルに関係なくなんでも聴きます──、
そんなことをいっている人が、本に関しては、いわゆる純文学のみで、
それ以外の文学、ましてマンガとなると、どんなに薦めても読もうとしなかった人を知っている。

そういう人は、「含羞(はじらひ)-我が友中原中也-」を読むことはない。
でも、表現する、ということに少しでも関心のある人ならば、
「含羞(はじらひ)-我が友中原中也-」は手にとってほしい。

Date: 10月 8th, 2015
Cate: 表現する

音を書くということ

オーディオ評論の難しさのひとつに、
音を言葉で表現することがある。

音を言葉で完全に表現することが仮にできたとしても、
それでオーディオ評論として成立するわけではないのだが、
それでも音を、文字でどう表現するのかのは、大きな課題である。

音を言葉で表現できるのか、できるとしてもどこまで可能なのか。
結論を書けば、音そのものを言葉にすることは不可能だと、私は思っている。

それでは、音を言葉にするということは、いったいどういうことなのか。
昨夜、ふと思いついたことがある。
思いついただけで、だから書いている。

音を書くということは、
音のしずくを言葉のしずくで表現する、ということだと思った。

音のしずく、言葉のしずくは沈く(水に映って見える)へとつながっているのではないだろうか。

Date: 7月 8th, 2015
Cate: 表現する

夜の質感(その11)

夜の質感とか、マーラーの闇とか書いているけれど、
そう感じるのは、録音されたものをオーディオを介して聴いてのことである。

バーンスタインのマーラーの実演は一度だけ聴いている。
1985年、イスラエルフィルハーモニーと来日したときに、NHKホールで交響曲第九番を聴いている。

30年前のことだ。
すごい演奏だったことは、いまも憶えているが、
聴いていて、夜の質感とかマーラーの闇とか、そんなことを考えていたわけではなかった。
そういう記憶がない。

ただすごい演奏という印象と感動が残っているだけである。
いまの私が、あの時のNHKホールでのバーンスタインのマーラーの九番を聴いたら、
感じ方が違っている、拡がっているのかもしれないが、
30年前と同じようにワーッという感動だけなのかもしれない。

クラシックの演奏会はたいていは夜七時からである。
バーンスタイン/イスラエルフィルハーモニーのときもそうだった。
演奏会では、あたりまえのことだが自分で聴きたい時間を選べるわけではない。
日時が決められている。

明るいうちに行われるクラシックの演奏会もある。
あるけれど、明るいうちからの演奏会でマーラーの交響曲が行われることがあるのだろうか。

オーディオを介して聴く場合には、そうとは限らない。
朝からマーラーを聴けるし、真っ昼間のマーラーもある。
夜のマーラーもあれば、丑三つ時に聴くマーラーもある。

どの時間帯に聴こうとマーラーの交響曲はマーラーの作品であって、ハイドンの作品になることはない。