自己表現と仏像(その11)
像を想うと書いて、想像である。
誰が考えたのかは知らないけれど、仏の姿を想うことこそ想像である。
像を想うと書いて、想像である。
誰が考えたのかは知らないけれど、仏の姿を想うことこそ想像である。
誰も仏をみたことがないわけで、
仏が人間と同じような姿かたちなのか、それすら誰もわからないのに、
人間の姿かたちに近い仏像が世の中には存在しているし、
そのことに疑問を抱いたとしても、
仏像を仏の姿かたちとして受け止めているのは、
なんともふしぎなこと。
そのうえで、では仏像は何をあらわしているのか。
仏の姿かたちではないことは明白で、
つまるところ仏の心なのだろう、
というところに行き着くのではないだろうか。
仏の「心」だとして、オーディオの場合は、何なのか。
ステレオサウンド 208号の特集「オーディオ評論家の音 評論家による評論家訪問」では、
傅 信幸氏のリスニングルームを黛 健司氏、
宮下 博氏のリスニングルームを傅 信幸氏、
山本浩司氏のリスニングルームを宮下 博氏、
黛 健司氏のリスニングルームを山本浩司氏が訪問している。
227号の特集「待望のニューモデル導入顛末記」に登場しているのは、
傅 信幸、黛 健司、三浦孝仁、山之内正、宮下 博の五氏。
三浦孝仁氏、山之内正氏は、208号には登場していないが、
三浦氏は195号の「オーディオ評論家の音 評論家による評論家訪問」に登場。
和田博巳氏が訪問されている。
ならばだ、黛氏に傅氏の音、
山本氏に黛氏の音、
和田氏に三浦氏の音、
傅氏に宮下氏の音を聴いてもらおうとは、
ステレオサウンド編集部の誰一人として考えなかったのか。
ステレオサウンド 227号の特集は、
「待望のニューモデル導入顛末記」である。
ステレオサウンドのウェブサイトには、こんなふうに紹介されている。
*
特集1は、215号(2020年6月発売)以来、3年ぶりとなるオーディオ製品の導入記です。4名のオーディオ評論家が2022年以降に新しく導入した製品について執筆しています。各評論家による製品選びの基準や、製品との出会いから導入に至るまでの経緯が明らかになると同時に、一人のオーディオファンとしての個人的な情熱やコダワリまで感じられる記事となっています。
*
227号はまだ読んでいないけれど、記事の構成としては215号と同じなはずだ。
《各評論家による製品選びの基準や、製品との出会いから導入に至るまでの経緯》が、
それぞれのオーディオ評論家の書き原稿によって語られているはずだ。
こういう記事を目にするたび毎回思うのは、
なぜ同じやり方をくり返すのかだ。
そしてもうひとつ、オーディオはコンポーネントであり、組合せの世界である。
なぜ記事にも、組合せという考えを持ち込まないのかだ。
ステレオサウンドは、195号(2015年6月発売)と208号(2018年9月発売)の特集で、
「オーディオ評論家の音」をやっている。
オーディオ評論家によるオーディオ評論家のリスニングルーム訪問の記事である。
「待望のニューモデル導入顛末記」と「オーディオ評論家の音」、
この二つの企画を組合せないのか。
二年前の(その8)で、
そして、オーディオマニアは一人ひとり、それぞれの「仏」の姿を再生音であらわしている、
と書いた。
誰も仏をみたことがないのに、仏像が世の中には存在している。
私にとって、終のスピーカーとは、仏像を彫っていくことに近い、
そのためのスピーカーなのかもしれない、とここにきて思うようになってきている。
《熱っぽく》に関することで、思い出すことがある。
東京に来たばかりのころ、1981年ごろのことである。
このころ、ダイナミックオーディオにはトートバッグがあった。
並の大きさのトートバッグではなかった。
プリメインアンプがすんなり入る大きさのトートバッグである。
もちろんアンプ一台分の重量に耐えられるだけのしっかりしたつくりでもあった。
いまでは考えられない光景だろうが、
あのころの若者は、アンプを、このトートバッグに入れて持ち帰っていた。
頻繁に見掛けるわけではなかったけど、
秋葉原で何度か、そうやって持ち帰っている人がいた。
あのころはそれが当り前のように受け止められていた。
けれど、普通のことではないわけで、
そこには熱っぽさがあってことのはずだ。
しかもその熱っぽさは伝染していくのかもしれない。
最近の、というか、もう少し前からなのだが、
人気マンガの連載期間が、
私が中学生、高校生だったころとくらべると、かなり長くなってきている。
あのころは単行本も十巻までいかない作品がけっこうあった。
二十巻をこえる作品は、そうとうに長い、という感覚であった。
ところがいまでは五十巻超えの作品はけっこうあるし、
百巻超えの作品も珍しくなってきている。
その理由は、一つではなくて、いろんなことが絡み合ってのことなのだろう。
でも、ここでテーマとしていることと関連していえることは、
背景の描写が緻密になるとともに、
作品の連載期間の長期化があたりまえのこととなってきた──、と。
背景描写が緻密でない作品でも、
たとえば「サザエさん」のように長期の連載、五十巻をこえる単行本という作品はあった。
「サザエさん」は四コマ・マンガなので、同列には比較できないところもあるのはわかっている。
それでも、背景の描写の緻密化と連載の長期化は、無関係とは思えない。
ステレオサウンド 50号の巻頭座談会で、瀬川先生が語られている。
すでに何度か引用しているから、またか、と思われるだろうが、
やはり読んでほしい、と思うのは、
ソーシャルメディアがこれほど普及してきたことも関係している。
*
そういう状況になっているから、もちろんこれからは「ステレオサウンド」だけの問題ではなくて、オーディオ・ジャーナリズム全体の問題ですけれども、これからの試聴テスト、それから新製品紹介といったものは、より詳細な、より深い内容のものにしないと、読者つまりユーザーから、ソッポを向かれることになりかねないと思うんですよ。その意味で、今後の「ステレオサウンド」のテストは、いままでの実績にとどまらず、ますます内容を濃くしていってほしい、そう思います。
オーディオ界は、ここ数年、予想ほどの伸長をみせていません。そのことを、いま業界は深刻に受け止めているわけだけれど、オーディオ・ジャーナリズムの世界にも、そろそろ同じような傾向がみられるのではないかという気がするんです。それだけに、ユーザーにもういちど「ステレオサウンド」を熱っぽく読んでもらうためには、これを機に、われわれを含めて、関係者は考えてみる必要があるのではないでしょうか。
*
《熱っぽく》とある。
《ユーザーにもういちど「ステレオサウンド」を熱っぽく読んでもらうためには、これを機に、われわれを含めて、関係者は考えてみる必要があるのではないでしょうか》
ともある。
熱っぽく読んでもらうには、熱っぽく書くということなのだろうか。
強くそうだ、と思っているわけだが、反面、そうでもない、とも思う。
そして、この《熱っぽく》が難しいのは、
オーディオ、もしくはオーディオ機器について《熱っぽく》語っている(書いている)、
語っている(書いている)本人は、そのつもりなのだが、
それを聞いている(読んでいる)方は、
自分を《熱っぽく》語っている(書いている)だけじゃないか、と受けとっていることもある。
ソーシャルメディアには、オーディオ関係者もいる。
そういう人たちが、自身に関係するオーディオ機器(技術)について、
熱っぽく投稿していることが、けっして少なくない。
どれが、とはいわないが、その中には、
読んでいると、書き手の《熱っぽさ》に白ける、とまでいうと、
少し大袈裟なのだが、しらーっ、としてしまうことがないわけではない。
この人は、何を《熱っぽく》語っているのだろうか──。
つまるところ、自分自身を《熱っぽく》語っているのではないのか。
そんな疑問が少しでもわいてくると、またか、と思ってしまうようになる。
本人には、そんなつもりはまったくないのかもしれない。
そうであっても、受け手が必ずしもそう感じているわけではない。
《熱っぽく》語る人だ、そんなふうに受け止めている人は少なくないのだろう。
でも、私みたいに受け止めている人も、またいるはずだ。
《熱っぽく》は微妙で難しい。
仏像とは、
彫刻や絵画などの造形方式によって表された、信仰の対象としての仏の形像。多く彫像をいう。釈迦仏のみならず諸尊仏の像をもさす。
辞書には、こうある。
仏の像であるわけだが、誰かひとりでも仏の姿を見ているのかといえば、
誰も見てはいない。
これまで誰ひとりとして見たことのない仏の姿を彫っているし描いている。
そうやってつくられた仏像をみて、人は感動する。
いい仏像と思うこともある。
オーディオマニアが出す音は、どこか仏像のように感じることがある。
原音再生というお題目がある。
けれど、原音を誰ひとりとして、はっきりとわかっている人はいない。
何を原音とするのか。
そのことについても、長いこといわれ続けてきている。
原音とは何か。
そのことをはっきりと定義したところで、
そこでの「原音」すら、誰ひとりとしてわかっていない。
それでも「原音」は、なにがしかのかたちで、それぞれのオーディオマニアの裡にある。
原音は、だから仏像における仏の存在のように思う。
そして、オーディオマニアは一人ひとり、それぞれの「仏」の姿を再生音であらわしている。
(その10)で、正確な音、精確な音について、ほんの少しだけふれた。
正確な音も精確な音、
どちらも(せいかく)な音である。
ここにもう一つ、(せいかく)な音を加えるとすれば、
誠確な音だと考えている。
もちろん当て字だ。
けれど「五味オーディオ教室」で、EMTの930stについての文章を読んでから、
誠実な音ということは、つねにあった。
*
いわゆるレンジ(周波数特性)ののびている意味では、シュアーV15のニュータイプやエンパイアははるかに秀逸で、EMTの内蔵イクォライザーの場合は、RIAA、NABともフラットだそうだが、その高音域、低音とも周波数特性は劣化したように感じられ、セパレーションもシュアーに及ばない。そのシュアーで、たとえばコーラスのレコードをかけると三十人の合唱が、EMTでは五十人にきこえるのである。
私の家のスピーカー・エンクロージァやアンプのせいもあろうかとは思うが、とにかく同じアンプ、同じスピーカーで鳴らしても人数は増す。フラットというのは、ディスクの溝に刻まれたどんな音も斉しなみに再生するのを意味するのだろうが、レンジはのびていないのだ。近ごろオーディオ批評家の言う意味ではハイ・ファイ的でないし、ダイナミック・レンジもシュアーのニュータイプに及ばない。したがって最新録音の、オーディオ・マニア向けレコードをかけたおもしろさはシュアーに劣る。
そのかわり、どんな古い録音のレコードもそこに刻まれた音は、驚嘆すべき誠実さで鳴らす、「音楽として」「美しく」である。あまりそれがあざやかなのでチクオンキ的と私は言ったのだが、つまりは、「音楽として美しく」鳴らすのこそは、オーディオの唯一無二のあり方ではなかったか? そう反省して、あらためてEMTに私は感心した。
極言すれば、レンジなどくそくらえ!
*
この文章を読んだ時から、アナログプレーヤーは930stしかない──、
中学二年のときに思ってしまったし、使ってもいた。
昨晩、audio wednesdayで、コーネッタを鳴らした。
メリディアンの218D/Aコンバーター兼プリアンプとして使っての音を聴いていると、
五味先生の、この文章を思い出す。
だから誠確な音なのだ。
テレビの音。
オーディオマニア的には褒め言葉ではない。
それでも、テレビの音とは、ひどいのかといえば、そうではない、と、
ブラウン管時代のテレビで育った世代のなかに、そう思う人もいよう。
五味先生の書かれたものから、テレビの音に関するところを引用しておく。
*
だが、重ねて私は言うが、たとえばテレビのピアノ・リサイタルを視聴して、演奏がわからなかったと諸君はいうだろうか? テレビが出す音域などたかが知れている。少なくとも本誌を購読する程の諸君なら、テレビの音響部品よりは高忠実度の装置で聴いているだろう。むろんテレビはスピーカーも小型だし、ステレオのようにボリュームをあげる必要もない。却ってだから聴きやすい、という利点はある。しかし私の経験で言うが、テレビの音からでさえ弾かれているピアノが、スタンウェイかヤマハかはピアノが画面に映らなくったって分る。耳がいいからだと言ってくれた人がいるが、そうではない。ヤマハとスタンウェイでは低音のひびき方がまったく違う。音の深さが違う。馴れれば容易にきき分けられる。じつは、それほどヤマハの低音はまだまだだと言えるが、問題にしているのは再生音だ。つまりテレビ程度のスピーカーやアンプでさえ、ピアノの違いは出るのである。
(「芥川賞の時計」より)
いまから七年前、ミュンヘン・オリンピックが開催されたとき、その実況が宇宙中継によりNHKテレビで放送された。その時のテレビから聴こえる音声、とりわけオリンピック・スタジアムの拡声器から流れるアナウンサーの声の明瞭度の良さに舌を巻いた記憶がある。このことは当時われわれオーディオ仲間のあいだで話題となったが、それ以後のオリンピックの実況放送では、ついぞ聴くことのできぬすぐれた音質だった。
ドイツの音響機器が優秀なのは、ミュンヘン・オリンピック・スタジアムに限らない。ドイツの各地を私が旅行したおり、どんな田舎でもパブリックな場所での音響設備のゆき届いた配慮には驚いたものである。日本国内での公共施設に見られる拡声装置の音質の悪さとは雲泥の差だ。パブリック・アドレスの音質の良否は、つまりはその国の文化水準を計る尺度になるという恐さを、我々は知っておかねばならない。
(「続オーディオ巡礼(二)」より)
*
五味先生がどんなテレビで視聴されていたのかはしらないが、
「続オーディオ巡礼(二)は、1979年の話だ。
たぶんそのテレビについていたのは、フルレンジのスピーカーだろう。
そんなスピーカーでも、わかることがあるわけだ。
印象というのは、常に上書きされていってしまう面があるから、
この時代のテレビの音を聴いていた世代であっても、
テレビの音の印象は、そのあとに聴いたテレビの音によって上書きされていても当然だろう。
(その4)へのコメントが、facebookにあった。
そこには、非の打ち所のない音であったとしても、
その音から生きた演奏が聴こえてこなければ、テレビの音と大差ないのでは?
ということだった。
ちょっと考え込んでしまった。
コメントにあったような音、つまり精度が高くても、
オーディオマニアがチェック項目とするすべての要素で、
ほぼ満点といえる音。
そうであったとしても、生きた演奏に聴こえてこなければ、
私は、そこに何ら価値を認めないし、意味もないことだと思う。
けれど、そこでテレビの音と大差ないのでは? となると、考え込むわけだ。
以前書いているように、テレビのあった生活よりもない生活のほうが、二倍くらい長い。
つまり私にとってのテレビの音とは、どうしても昔のテレビの音のことなのだ。
いまの、薄型のテレビのなかには、ひどく音の悪いモノがあるのは、
実際に聴いて知っている。
最近は少しはまともになった、という話も聞いている。
それでも、最近のテレビの音とは、こういうもの、というイメージが、ほぼないといっていい。
わかっていても、テレビの音=以前の、ようするにブラウン管時代のテレビの音である。
しかも私が小学校に入るか入らないころ、わが家のテレビは真空管式だった。
それがトランジスターになり、カラーになり、モノーラルからステレオになった。
そこまでが、私にとってのテレビである。
つまり、これらのテレビについていたスピーカーは、
10cmから16cm前後のフルレンジユニットであり、
いまの薄型テレビとは違い、スピーカーのキャビティは、ずっと確保されていた。
確かにナロウレンジの音である。
Netflixやamazon Prime Videoで、そんな昔のテレビが公開されているのを見て感じるのは、
こんなにもナロウレンジの音だったのか、である。
スピーカーユニットの特性が、という話ではなく、
元の録音そのものがナロウレンジであることに気づく。
なのでコメントされた方のいわれるテレビの音のイメージと、
私がもつテレビの音のイメージがずいぶん違っているはずだ。
なので、あくまでも、そんな古いテレビの音のイメージだけでいえば、
ナロウレンジであったけれど、活き活きとした音とまではいわないまでも、
十分に生きた演奏は聴こえてきていたのではないだろうか。
コメントにあった、生きた演奏が聴こえてこなければ……は、
ここでのテーマよりも、別項のテーマに関係してくることでもある。
ここでのアパッチとは、アメリカインディアンの部族名である。
「死の舞踏」がアパッチの踊りでは困るわけだが、
それでも実演であっても、どれだけ「死の舞踏」たりえているのかは、
当時でも疑問に感じていた。
けれどレコードを疑っていては、オーディオはできない。
それに「死の舞踏」を、バーンスタインのマーラーの録音から、
つまり旧録音から五味先生は感じとられていた、ということだ。
少なくとも五味先生のリスニングルームでは、
《悪魔が演奏するようにここは響いて》いるわけだ。
だからこそアパッチの踊りでは困る、とされている。
でも、いま読み返して、アパッチの踊りならば、まだいいほうじゃないか、と思っている。
(その2)で書いた人のリスニングルームでは、
バーンスタインの第五(新録音)が、
どう聴いてもウィーンフィルハーモニーが演奏しているとは思えないし、
それこそチンドンヤのように鳴っているだけである。
響いてもくれない。
別項「五極管シングルアンプ製作は初心者向きなのか」で、
《他人(ヒト)とは違うのボク。》と書いた。
確かにオーディオの自作の理由、大義名分はこれである。
けれど、出てくる音までが、極端に《他人(ヒト)とは違うのボク。》になってしまうと、
バーンスタインのマーラーの第五がチンドンヤ的に成り果ててしまう。
そこで、何を疑うのか。
自作スピーカーで聴いている、その人は、スピーカーの出来に自信をもっている。
それは悪いことではない。
けれど、バーンスタインのマーラーを「ラウドネス・ウォーだね」といってしまったのは、
明らかに自身のスピーカーではなく、
本来疑うべきではないレコード(録音)を疑ったことになる。
書いていくことで思い出すことが次々と出てくることがある。
今回も「五味オーディオ教室」にあったことを思い出した。
*
最近、私は再生装置がもたらす音楽に、大変懐疑的になった。これまでずいぶん装置を改良するのに無駄金をつかい、時にはベソをかきながらつかい、そのたびによくなったと思ってきた。事実よくなっているらしい。人さまのどんな装置を聴かされても、うらやましいとはもう思わないし、第一、音がよかったためしがない。私ごとき音キチにこれは大変なことで、要するに、わが家の再生音は家庭でぼくらが望み得るもっとも良質な音のひとつを響かせているからだろう。
が、装置のグレード・アップが、果たしてレコードの《音楽》そのものをグレード・アップしているか。いい演奏、いい録音、いい再生装置——これらは家庭で音楽を鑑賞するわれわれに重要な三条件だと、そう単純に私は考えてきたが、どうやら違う。
いい演奏者といい録音、これはまあレコード会社にまかせるしかないが、どういう装置を選択するかで、究極のところ、演奏と録音をも選んでいる──その人の音楽的教養(カルショーの言う審美眼)は、再生装置を見ればうかがえると、私は思ってきた。しかし間違っていたようである。
芦屋の上杉佳郎氏(アンプ製作者)を訪ねて、マーラーの交響曲〝第四番〟(バーンスタイン指揮)を聴いたことがある。マーラーの場合、第二楽章に独奏ヴァイオリンのパートがある。マーラーはこれを「死神の演奏で」と指示している。つまり悪魔が演奏するようにここは響いてくれねばならない。上杉邸のKLHは、どちらかというと、JBL同様、弦がシャリつく感じに鳴る傾向があり、したがって弦よりピアノを聴くに適したスピーカーらしいが、それにしても、この独奏ヴァイオリンはひどいものだった。マーラーは「死の舞踏」をここでは意図している。それがアパッチの踊りでは困るのである。レコード鑑賞する上で、これは一番大事なことだ。
*
「五味オーディオ教室」を最初に読んだのは、13歳のとき。
マーラーの交響曲も何ひとつ聴いていなかった。
バーンスタインの名前は知っていても、
バーンスタインの演奏も何ひとつ聴いていなかった。
なので、そういうこともあるのか……、と思いつつ読んでいた。
「死の舞踏」がアパッチの踊りに変じてしまうのか。
そして、この時は、KLHがどういうスピーカーなのかも知らなかった。
上杉先生が鳴らされていたKLHは、屏風状のコンデンサー型スピーカーであることを知ったのは、
「五味オーディオ教室」から、そう経たずに手にした「コンポーネントステレオの世界 ’77」、
その巻末にリスニングルームがいくつか紹介されていた。
そこにKLHのスピーカーが写っていた。
といっても、上杉先生の部屋ではない。
それでもKLHがどういうスピーカーなのか、
少なくとも見た目だけはわかったし、
そのころには、ヴォーカルや弦の再生には、コンデンサー型が向くようなことは、
何かで読んでいた。
だから、「五味オーディオ教室」を何度目かの読み返しのときには、
それでも「死の舞踏」がパッチの踊りに変じてしまう、その理由について考えていた。
それにだが、
レコードから《悪魔が演奏するようにここは響いてくれ》るような音が鳴ってくるのか。
そういう音を鳴らすことそのものが、そうとうに難しいことなのではないのか。
そんなことを「五味オーディオ教室」をくり返し読むたびに考えていた。
ひたすら想像するしかなかったころのことだ。