Archive for 3月, 2017

Date: 3月 31st, 2017
Cate: 広告

新製品と広告

いま六本木ヒルズが建っているところに、以前はWAVEがあった。
WAVEの一号店であり、
ビル一棟、すべてWAVEだった。

いちばん上のフロアーがクラシックとジャズの売場だった。
たしか上りのエスカレーターはあったけれど、下りのエスカレーターはなかった。
エレベーターはあったけれど、クラシック売場を後にしたら、
階段で一階まで降りる。

エレベーターを使えば……、と思われるだろうが、
階段で降りる理由があった。

階段の壁面の展示物を見て楽しむためである。
一ヵ月おきぐらいでテーマが変り、展示物が変る。

記憶が朧げなのだが、すべて音楽に関するものだったはずだ。
ゆっくり階段を降りていると、気になるレコードを見つけることもある。
そうすると、そのフロアーで、そのレコードを手にとってみたくなる。

なんともうまい商売だ、と思いつつも、
この階段の展示には、のっかってしまうことが楽しむことである。

黒田先生とWAVEの話になったときに、この階段の展示のことが出た。
黒田先生も同じように、エレベーターを使わずに階段で降りられていた。
そして、おもしろそうなレコードを、そこで見つけると買ってしまう、と。

「うまい商売だとわかっていてもね……」と笑いながら話されていたのを思い出す。

このことを思い出したのは、今週水曜日、
JR中野駅のエスカレーターの壁の広告を見たからだ。

そこの壁に掲示されていた広告は、テクニクスのSL1200GRだった。
木曜日、KK適塾に行く途中、中野駅で乗り換えて写真も撮ってきた。
エスカレーターだから立ち止って撮れなかったけれど、上って下って撮ってきた。

こんなところで、と思わせるところでの、SL1200GRの広告は、十分にインパクトがあった。
中野駅1番線、2番線へのホームへのエスカレーターのところにある。

今日は確かめていないが、まだあるのではないだろうか。

Date: 3月 30th, 2017
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その10)

(その10)を書こうと思いながらも、
他のことを書くことを優先していたら、(その9)から一年半以上経っていた。

この一年半のあいだに、大きく変ったことがある。
「考える人」の休刊が、今年2月15日に発表になった。
4月4日発売の2017年春号で休刊となる。

「考える人」のメールマガジンを読んでいる。
そこに、こうある。
     *
 先日、ばったり顔を合わせた同年代の編集仲間に冷やかされました。「考える人」みたいな雑誌を作ってしまうと、病みつきにならないか? 一度この味を覚えたら、忘れなくなるだろう、というのです。たしかに、そういう面は否定できません。1世紀以上の歴史と伝統を持つ出版社の基盤の上で、高いスキルを持った編集スタッフの力を借りながら、だ一戦の人たちの寄稿を仰ぎ、また創刊以来、単独スポンサーとして支援して下さった株式会社ファーストリテイリングの伴走を得て、思う存分に作ってきた雑誌です。手前みそになりますが、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の日本チームを率いて戦うような醍醐味を満喫できたのは、編集者として大変に恵まれたことだったと思います。この後の「考える人」ロスが心配です。
     *
《病みつきにならないか? 一度この味を覚えたら、忘れなくなるだろう》、
ここだけ抜き出せば、なにか麻薬のことをいっているようにも聞こえる。

「考える人」という雑誌は、そのくらい編集者にとっては、
雑誌の編集者にとっては、これ以上は求められないくらいの環境である。

株式会社ファーストリテイリングの単独スポンサーということのウェイトは、大きい。
大きすぎた、ようにも、いまは思う。

創刊15年で、「考える人」は休刊となる。

Date: 3月 30th, 2017
Cate: audio wednesday

第75回audio wednesdayのお知らせ

4月5日のaudio wednesdayは「結線というテーマ」を予定していたが、
喫茶茶会記のアンプ(マッキントッシュのMA2275)が故障してしまい、
来週の水曜日までには修理が間に合わないであろう、ということで、
いまのところテーマは未定である。

音を出すのかどうかも、だからはっきりしていない。
音を出すにしても、テーマは変るかもしれない。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 3月 30th, 2017
Cate: 川崎和男

KK適塾(五回目)

KK適塾五回目の講師は、濱口秀司氏と石黒浩氏。
濱口氏は昨年度のKK塾一回目、石黒氏は三回目の講師をやられている。

このふたりが揃い、川崎先生が加わっての今回のKK適塾だった。
つまらなくなるわけがない。

司会の方がいわれていたように、負けず嫌いの三人である。
濱口氏が刺客といわれた。

教育、特に大学での教育について語られていた時だった。
自ら刺客をつくりだして、その刺客に負けないようにする、と。

きいていて思っていたのは、五味先生の「喪神」である。
何をおもっていたのかまでは書かないが、
もう一度「喪神」を読み返そう、と思っていた。

Date: 3月 29th, 2017
Cate: ディスク/ブック

ヨッフムのベートーヴェン「第九」

日本語版はなくなった月刊PLAYBOYだが、
創刊号からしばらくはオーディオを取り上げていた。
瀬川先生も執筆されていた。

1981年1月号では、『第九』ベスト・レコード研究というタイトルの記事があり、
瀬川先生はオーディオ的な見地から、での選択である。
     *
 数多くの〝名盤〟の中から、まず第1に推したいのは
■ヨッフム指揮/ロンドン交響楽団
 録音は1978年3月。そのせいもあってか、音が実にみずみずしい。各楽器の音色の微妙な色あいが十分に美しくとらえられ、しかもそれらが互いによく溶けあい、奥行きの深さをともなって聴こえてくる。まさに『第九』かくあるべしとでもいいたいレコーディングであり、しかも演奏もまた最上級だ。イギリスEMIの録音は、昔から美しい艶のある音に定評があったが、反面、録音の時期によっては、ややひ弱な音に感じられるときもあった。しかし、このヨッフム盤は、音に充実感とコクがあって、重厚だが決して重く粘ったりしない。それはもちろん、ヨッフムの演奏の、円熟の中にある意外な若々しさに負うところが大きい。
 ヨッフムは以前にもフィリップス・レーベルで同曲を入れている。演奏は69年の録音で、EMI録音とのあいだに約10年のへだたりがあるにしても、録音はむろんのこと演奏自体の出来栄えも、問題なく新盤の方が良い。試聴盤を返却したあと、即日レコード屋に飛んで行って買ってきた。
 録音の良さ、という面からは、次に、
■カラヤン指揮/ベルリン・フィルハーモニー・オーケストラ
 録音は1977年。ヨッフムより少し早い。カラヤン盤は『第九』だけでも数種類出ているが、録音も演奏も、この77年盤が最高といえる。ドイツ・グラモフォンの録音は、本質的に響きがやや硬い。そのことは、EMIやフィリップスの音と比較してみるとよくわかる。しかし、このカラヤン盤に関する限り、音の硬さは最小限にとどめられて、各パートの繊細な動きとその表情の精妙さを、十分によくとらえている。数あるベートーヴェンの交響曲の録音の中でも、やはり上位に置かれるべき録音であろう。ただ、それはオーケストラ・パートに限っての話、であって、第4楽章に入り、テノールの〝おお友よ〟のレシタチーフが始まったとたんに、オーケストラ・パートの音量に比較して、声の音量が、いささかバランスをくずして大きすぎる点に、奇異な感じを抱かされる。
 このレコードは、発売直後に入手して、何度か聴いているにもかかわらず、いまだにこの部分にくると、どうにもなじめない。なぜか4人の独唱者の声をクローズアップしすぎていて、とても不自然だ。合唱に入ってからのコーラスの音量とオーケストラの音量のバランスは、そんなにおかしくないものだから、よけいに独唱パートの音の不自然な拡大が耳につく。その点を除きさえすれば、という条件つき、というのも妙なものだが、やはり録音という面では注目盤、ということになる。
 ところで、これ以外には、中途半端に「新しい」録音よりも、3枚の、少々古い、しかしすばらしいレコードをあげておきたい。それは、
■セル指揮/クリーヴランド交響楽団
■クリュイタンス指揮/ベルリン・フィルハーモニー・オーケストラ
■S=イッセルシュテット指揮/ウィーン・フィルハーモニー・オーケストラ
 いずれも、今日的な繊細、鮮明かつダイナミックなという録音ではなく、少々古めかしく聴こえるが、しかし音楽的なバランスがすばらしく、それぞれに、つい聴きほれさせる。むろん、それは演奏自体のすばらしさでもある。
 これらのレコードを聴いていると、録音の良さとは、必ずしも新しさがすべてでないことが、よくわかる。
 ただ、セル盤とクリュイタンス盤は、一枚におさめてあるため、どちらも、あの陶酔的な第3楽章が、A面とB面に分割されている。
 とくにセル盤の跡切れかたが、やや唐突で、感興をそがれるのは残念である。
 ただし、セル盤もクリュイタンス盤も1300円と格安だ。
     *
オイゲン・ヨッフムの「第九」のことは、ステレオサウンド 57号、
プリメインアンプの総テストでの試聴レコードのところでも書かれている。
     *
ベートーヴェン/交響曲第九番「合唱」──たまたま、某誌でのベートーヴェンの第九聴き比べという企画で発見した名録音レコード。個人的には第九の録音のベスト1としてあげたい素晴らしい録音。音のひろがりと奥行き、そして特に第4楽章のテノールのソロから合唱、そしてオーケストラの盛り上がりにかけての部分は、音のバランスのチェックに最適。しかも、このレコード独特の奥行きの深い、しかもひろがりの豊かなニュアンスというのは、なかなか再生しにくい。
     *
このヨッフムのベートーヴェンがSACで復刻される。
タワーレコードから発売予定である。

「いい音」について考えていくうえでも、聴いておきたい一枚だ。

Date: 3月 29th, 2017
Cate: ディスク/ブック

「楷書の絶唱 柳兼子伝」

品切れで重版未定の本だけど、紹介しておきたいのが「楷書の絶唱 柳兼子伝」。

長らく絶版だったのだか2009年に新装復刊されている。
楷書の絶唱、いいことばだ。

Date: 3月 28th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その33)

598のスピーカーの重量が増していったのは、
それもバランスを崩してまで増していったのには、
長岡鉄男氏の影響があったためだ、と私は受けとめている。

長岡鉄男氏は、ある時期から重量を量られていた。
そのこと自体には、長岡鉄男氏なりの考えが背景にあったためだろうが、
このことが598のスピーカーの重量化をエスカレートさせていったのは間違いない。

いま、1980年代の598のスピーカーのことを書いていて、
やはり気になるのは、長岡鉄男氏が、当時をふり返って何か書かれているのだろうか、である。

私は長岡鉄男氏の文章は、ほとんどといって読んでいない。
本も持っていない。

大きな図書館に行き、昔のFM誌、オーディオ雑誌を丹念に調べていけばいいこなのだが、
どこかめんどうだなと思う気持が強かった。

すこし前に、長岡鉄男氏の文章の一部をコピーして送ってくださった方がいた。
1993年に音楽之友社から出た「長岡鉄男の日本オーディオ史 1950〜82」掲載の一文である。
     *
 80年代に入って59800円のハイCP機が続々登場、世にいう「598戦争」である。当初20kgぐらいからスタートした598スピーカーはやがて重量競争に入り、最終的には鉛や人造石まで入って35kgに達した。鉛や人造石といってもコストはユニット一本ぐらいかかってしまうのでコストアップは免れない。ウーファーも30cmからスタートして、30・5cm、31cm、31・5cm、32cm、33cmと少しずつ大型化、また素材競争で高剛性化が進んだため、こーんの思い大口径ウーファーをドライブするには144φ×20mmもの大型マグネットが必要になり、これを支えるフレームは10mm厚、15mm厚、20mm厚と強力になり、正気の沙汰とは思えない無茶苦茶な競争になった。十万円のものを六万円で売るような激安合戦、新宿のカメラ屋なみである。これで音がよければいうことはなしだが、大口径化、高剛性化でバランスを失い、低音不足、ハイ上がりの硬質な音になってしまった。容積からすると25cmウーファー向きのキャビネットに30cm以上のウーファーを取付けたので理論的にも低音は出にくいのである。コスト面では完全な赤字、音質面ではユーザーの好みから離れ、87年を頂点に多くのメーカーは598スピーカーから手を引く。終わってみれば勝者なき戦いだったのだ。僕はビクターSX−511(¥59800)のユニットを使って大型フロアタイプを作ったことがあるが、ユニットだけ買っても六万円はする程の豪華なものだった。
     *
見出しには、熾烈な「598」戦争、とある。
書き写していて、意外な感じがした。

598のスピーカーのアンバランスさを、指摘されていることにだ。
1980年代後半の598のスピーカーのアンバランスぶりは,すごかった(というよりひどかった)。

確かに当時の598のスピーカーにかけられたコストは、もっと上のランクと同等だった。
その意味ではハイコストパフォーマンスとはいえるのかもしれないが、
オーディオ機器は、スピーカーに限らず、音である。

肝心の音までもがアンバランスで、ハイCP機といえるだろうか。

Date: 3月 27th, 2017
Cate: 戻っていく感覚

もうひとつの20年「マンガのDNA」と「3月のライオン」(その3)

マンガ家の原画を見たことが数回ある。
すべてのマンガ家の原画を見たいとは思っていないし、
原画を見たいと思うのは、わずかなマンガ家である。

「3月のライオン」の原画も見たいと思う。

この原画という言葉に相当するのが、
オーディオの世界では原音になるわけだが、
画と音とでは、違う。

原音の「音」に相当するのは、原画ではなく「線」のはずだ。
つまり原音と原線であり、
原画に相当するのは原音ではないことに気づく。

となると原画に相当するのは、オーディオの世界ではなんといったらいいのか。
音ではなく響きか。
そうだとすれば原響なのか。

個々の楽器の音像なのだろうか。
だとすれば原像となるのか。

結局は「場」なのか、とも思う。
ならば原場になるのか。

どれもしっくりこない。
いったい何と呼べばいいのだろうか。

Date: 3月 26th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(中古オーディオ店の存在・その2)

現行製品を扱うオーディオ店も楽しいが、
中古オーディオを扱うオーディオ店には、別の楽しさがある。

それは人によって少し違ってくるかもしれないが、
中古オーディオ店には、かなり古いモノから、
オーディオが日本でブームだったころのモノ、
比較的新しい製品など、年代の幅は、
その時々の品揃えによって変化するとはいえ、かなり広い、といえよう。

この広さこそが、現行製品を扱うオーディオ店にはない楽しさにつながっている。
今回、ハードオフの吉祥寺店を取り上げたのは、そのことを実感したからだ。

東京にも中古オーディオを扱う店舗は他にもある。
そこを取り上げずに、ハードオフについて書いているのは、
ハードオフ吉祥寺の店舗は、1フロアーだということもある。

階がわかれていないことの楽しさを感じていた。
この規模で、1フロアーだけで実現した中古オーディオ店は、
過去にはあっただろうか。

中古オーディオ店は、同世代のオーディオマニア同士で行っても楽しいし、
世代の違う者同士で行っても楽しい。

同世代であっても、憧れていたオーディオ機器は同じモノもあれば、そうでないモノもある。
この人は、これに憧れていたのか、と思い掛けない一面を知るきっかけになることだってあろう。

世代が違えば、相手が年上ならば、実際のオーディオ機器を前にしてこその話が聞けるだろうし、
若い人が相手であれば、世代が違っても共通することが意外にあることに気づかされるかもしれない。

中古オーディオ店はひとりで行くのもいいが、
親しいオーディオ仲間同士で行くのも楽しい。

いままで中古オーディオを扱っているオーディオ店には何度も行っているが、
こういうことを思ったことは初めてだった。

Date: 3月 26th, 2017
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(ブームだからこそ・その6)

ステレオサウンド 40号の音楽欄に、
「キングの《ステレオ・ラボラトリー》クラシック篇を聴く」という記事がある。

キングレコードのプロデューサー(当時)の高和元彦氏、
キングレコードの録音部長(当時)の菊田俊雄氏、
それに井上先生の鼎談で構成されている。

レコード制作者側の発言として、こうある。
     *
菊田 2万ヘルツ以上の音というのは、耳には聴こえないわけですから、カッティングの場合は、ふつうは、2万でフィルターを入れるんです。2万以上あるとレコードの盤面でひじょうに高いハーモニックスが入ってくるわけで、当然カッティングされる波がギザギザになってきますから、摩耗の点で問題が出てきます。そこで、2万5千ヘルツぐらいまでフィルターをいれずにカッティングすることは、あまりやりたくないわけです。今回も、最初は摩耗という点で上の方をカットしたりしてみたんですが、そうすると可聴周波数外でありながら、フィルターを入れるために可聴周波数内の音色が変化してくるんですね。これはまずいということで2万5千ぐらいまではそのまま伸ばしてカッティングしてみましたら、ひじょうにバランスがよく、音色的にもきれいに聴こえるようになりました。
 それから聴感上の迫力といいますかパンチといいますか、そういう点は、カッティング・レベルを十分にとることである程度は補なうことが出来るようです。さっき高和がいいましたように、高いほうが伸びるとどうしても音が薄くなるというか、柔らかくなるんです。とくに歪みなどをとればとるほどパンチがなくなります。だからポピュラーなどでは、わざと高いほうを入れないことがあるんですね。とくにブラスの音などは、そのほうが前に出てくるんです。今回の場合は、そうしたことが出来ないわけで、それだけ苦労しましたね。
     *
キングのステレオ・ラボラトリーは、
いわゆるオーディオマニアを対象としたLPだった。

当時の広告には、
レコード技術の限界に挑戦!!、
最高水準レコードは最高の再生音を生み出します、
音の極限を征服した特別製レコード、
などのコピーが並んでいた。

そういうレコードであるからカッティング時に高域をカットしていないが、
通常のレコードでは、菊田氏が述べられているように高域をカットしている。

Date: 3月 26th, 2017
Cate: James Bongiorno

GASとSUMO、GODZiLLAとTHE POWER(その13)

アンプ(amplifier)は増幅器。
入力された信号を増幅して出力する電子機器である。

ふだん何気なく増幅という言葉を使っているけれど、
増幅とは、幅を増す、と書く。

何の幅なのか、といえば周波数レンジ、ダイナミックレンジ、
このふたつの幅ということになろう。

けれどどんな高性能なアンプであっても、
入力された信号の周波数レンジを拡大するようなことはしない。
ダイナミックレンジに関しても同じだ。

ダイナミックレンジが60dBの信号が入力されたとして、
出力には70dB、もしくは80dBのダイナミックレンジの信号が現れるわけではない。

60dBのダイナミックレンジの信号は、そのままダイナミックレンジ60dBのまま、
電圧、もしくは電力が増えて出力される。

その意味で考えれば、増幅という言葉は、
正確にアンプの動作を言い表しているとはいえないところがある。

だがこれは理屈であって、アンプの中には、
特にパワーアンプにおいては、明らかにダイナミックレンジが増したように、
スピーカーを鳴らしてくれるモノがある。

これも正確にいえば、
他の多くのアンプがダイナミックレンジを狭めたようにスピーカーを鳴らすから、
対比として、いくつかのアンプはダイナミックレンジがそのまま再現されているであろうに、
ダイナミックレンジが増したように、
つまり幅が増した(増す)、という意味での増幅器がある。

なにもダイナミックレンジだけではない。
周波数レンジをも狭めたように聴かせるアンプがある。
そういうアンプからすれば、そのままの周波数レンジで鳴らすアンプは、
周波数レンジも幅を増したかのように思えないわけではない。

私がジェームズ・ボンジョルノのアンプに惚れている理由のひとつである。

Date: 3月 25th, 2017
Cate: 輸入商社/代理店

輸入商社なのか輸入代理店なのか(OPPOと逸品館のこと・その8)

黒田先生の「ついにききつくせず」は、いま読み返してもらいたい、と思う。
読むたびに、そうおもう。

ききこむについて、こうも書かれている。
     *
 しかし、ききこむという言葉が、もともとかなりの危険を含んでいるということは、やはりいっておかねばならない。つまりそれは、たかがつもりの言葉でしかないからだ。フルトヴェングラーのブルックナーをとことんききこんだけれどね——といっても、それはただ当人がそう思いこんでいるだけのことでしかない。にもかかわらず、ききこんだと言葉にしてしまった時、その音楽を充分にききつくしたと錯覚してしまいかねない。それが危険だ。さらにいえば、ききこむという言葉には、ききての、ききてとしての思いあがりが、感じとれる。どういう思いあがりかといえば、海の水を両手でくみあげきれるとたかをくくっている思いあがりだ。
 いかにききてとしての自分ががんばったところで、結局はききつくせるものではないと思う、つまりあきらめではない、今きいている音楽に対しての深い尊敬の念がないかぎり、音楽とのかかわり方は、ひどく浅薄なものになりかねない。ききこむなどという言葉を安易につかう人の発言は、おしなべて、ひどく底の浅いものであることが多い。
     *
「ききこむ」にしても「誠意」にしても、たかが言葉じゃないか、と思う人もいよう。
でも「ききこむ」にしうても「誠意」にしても、
言葉にしてしまった時、言葉にしてしまった当人を錯覚へ誘い込む。

ほんとうに危険である。
気をつけていないと、危険であることにすら気づかない。

こうやって毎日ブログを書いていて気をつけなければ、と思っているのは、そのことである。

Date: 3月 24th, 2017
Cate: 輸入商社/代理店

輸入商社なのか輸入代理店なのか(OPPOと逸品館のこと・その7)

誠意とは、自らいうことだろうか。
誠意をもって(あるオーディオ機器を)鳴らしました、
誠意をもって(あるオーディオ機器を)評価しました、
──そんなふうに自分でいってしまう人がいるのか。

少なくとも私が親しくしているオーディオ好きの友人には、そんな人はいない。

相手に誠意を要求してくる人はどうだろうか。
自社取り扱い製品を、誠意をもって聴いてほしい、
誠意をもって売ってほしい、
──そんなふうに相手に要求することなのだろうか。

誠意という言葉そのものが悪いわけではない。
だけど一度言葉として発してしまうと、薄っぺらな印象をまとってしまうように感じる。

そんなことを数日考えていて思い出したのは、
黒田先生が「ついにききつくせず」で書かれていた《ききこむ》についてである。
     *
 最近、ききこむという言葉がつかわれることの多いのを、お気づきだろうか。きくといえばたりるところを、ききこむという人が、すくなくない。なんとなくわざとらしい言葉で、好きになれないから、自分では使わないが、あのレコードをかなりききこんだんだけれどね──といったように、使う。ききこまれるのは、主にレコードのようだ。あのコンサートをかなりききこんだんだけれどね──とは、あまりいわない。
 ききこむとは、くりかえしきいて、さらに深くその音楽を理解しようとすることのようだ。そのこと自体、むろんわるいことではない。ただ、わざわざそういった大仰ないい方をしなくとも、それはこれまでに、誰もがしてきたことではないかという気持になる。それをことさらもっともらしく、敢えてききこむなどといわなければ納得できないところに、もしかするとそのききてのきき方の軽薄さがあるのではないかとかんぐってしまう。そういう、ききこむなどという言葉をつかう人は、普段はただ聞いているだけで、ろくに聴くことなどないのかもしれず、たまに聴いたりするもので、ことあらためてききこむなどといいたがるのではないか。
     *
《きくといえばたりるところを、ききこむという》、
ここでのわざとらしさと同じ感じを受けてしまうのが、
自分で「誠意をもって……」といってしまうことである。

Date: 3月 24th, 2017
Cate: 新製品

新製品(TANNOY Legacy Series・その10)

今回のタンノイのLegacy Series、
その中でもEatonに、私は強く関心をよせているけれど、
音を聴く前から、ひとつ不満なのはユニットのフレームの形状である。

15インチ、12インチと共通のフレーム形状になっている。
つまり円である。

1976年登場のABCシリーズのEaton、
つまりタンノイの10インチ口径の同軸型ユニットのフレームの形状を知っている、
もっといえば馴染んでいる者にとっては、なにかいいたくなってしまう。

10インチの同軸型ユニットのフレームは、これじゃダメなんだ。
写真を見ては、心でそうつぶやいている。

ステレオサウンド 40号掲載のタンノイの広告。
そこには、こうある。
《私は、私の全才能をこのスピーカーで世に問うつもりだ。》

《私》とは、ジャック・ハウ(Jack Howe)である。
といっても、当時の私は、ジャック・ハウについて何も知らなかった。

いまもそんなに知っているとはいえない。
インターネットで調べられるくらいのことしか知らない。

広告には《イギリス王立工業デザイナー会員。国際的なデザイナーとして有名である。》、
そしてジャック・ハウの横顔のイラストがあるだけだった。

由緒正しい人がデザインしたのか、
そのころの私は、そのぐらいの認識しかなかった。

Date: 3月 24th, 2017
Cate: 録音

PCM-D100の登場(その7)

世の中に自作マニアと呼ばれる人たちがいる。
オーディオの世界にいる。

本職を別に持ちながら、趣味としての自作マニアは昔いる。
その腕前は、なぜ本職にしないのだろうか、と思ってしまうほどの人もいる。

2013年9月、ソニーからPCM-D100が登場したのを機に、
この項を書き始めた。

書き始めて気づいたのは、録音もオーディオの世界における自作であるということだ。

自作にはアンプの自作、スピーカーの自作、
中にはアナログプレイヤー、トーンアーム、さらにカートリッジの自作などがある。
どれもハードウェアである。

無線と実験でDCアンプシリーズの記事を発表し続けられている金田明彦氏は、
マイクロフォンアンプもDCアンプ化し、ある時期から録音も手がけられるようになった。

そのころの無線と実験は熱心に読んでいた。
けれど、金田氏の行動を、プログラムソースの自作という視点で捉えることはできなかった。

なぜ、そう捉えられなかったのか、いま思うと不思議なのだが、そうだった。
それから30年ほど経ち、PCM-D100が登場して、やっとそう捉えられるようになった。