Archive for category Wilhelm Backhaus

Date: 4月 25th, 2021
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その19)

facebookでの(その17)へのコメントに、こうあった。

「骨格のある音」と「それ以外の音」、
「EMTの鳴らす音」と「それ以外のプレーヤーの音」とあった。

トーレンスの101 Limitedを使われている方からのコメントである。
いうまでもなく101 LimitedはEMTの930stと同じである。

私も20代のころ、101 Limitedを使っていたから、よくわかる。
別項「EMT 930stのこと(ガラード301との比較)」で、音の構図について触れた。

このことも、骨格のある音と密接に関係している。

そして音の構図の確かさがあってこその、ステージの再現である。

アナログディスク全盛時代には、骨格のある音、音の構図の確かなプレーヤーがあった。
数はそう多くはなかった、というよりも、少なかったけれど、確実に存在していた。

そういう音と接してきた耳とそうでない耳とでは、求める音が違って当然である。
直観的に捉えられる音に違いも生じてくる。

私より若い世代となると、アナログディスクではなく、
CDで音楽を聴き始めたという人が多いであろう。

CDプレーヤーで、骨格のある音、音の構図の確かなモデルもあったけれど、
それはアナログプレーヤーにおける割合よりもさらに小さかった。

ディスクに刻まれている音をあますところなく再現したからといって、
骨格のある音になるとはかぎらないし、
音の構図が確かなものになるともかぎらない。

Date: 4月 23rd, 2021
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その18)

「骨格のある音」、「骨格のしっかりした音」、
こういうことを考えるようになったのは、これもまた「五味オーディオ教室」からである。

「五味オーディオ教室」は、肉体のない音ということから始まっていた。
肉体のある音とは、どういう音なのか。

「五味オーディオ教室」を手に取ったばかりの13歳の私には、よくわからなかった。
ただ、世の中に肉体のある音(肉体の復活を感じさせる音)とそうでない音とがある、
その事実だけである。

肉体の復活は、音像定位がしっかりと再現されていれば、
それがそうなわけではない。

よくいわれる音のボディを感じさせるのも、
必ずしも肉体の復活を感じさせる音ではないはず、と私は受けとっている。

正直なところ、五味先生に訊きたかったことのひとつである。
けれど、五味先生は1980年に亡くなられている。
あえなかった。

だから、考え続けていくしかないわけで、例えば人物画。
ここにも骨格のある人物画と、骨格を感じさせない人物画とがあるように感じている。

どんなに写実性の高い人物画であっても、
その絵が必ずしも骨格のある(感じさせる)とはかぎらない。

ここでの人物画は服を着た人の場合である。

それでいても、骨格の感じられる人物画があるし、そうでないものもある。

Date: 4月 19th, 2021
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その17)

この項の2012年12月に書いている(その12)、(その13)で、
骨格のしっかりした音、骨格のある音という表現を使っている。

わかりやすい表現のようではあるが、
ほんとうにうまく相手に伝わるのかどうかは、はなはだあやしい。

それぞれに「骨格のある音」のイメージは違っているような気がするからだ。
それでは、もっと丁寧に、
骨格のある音と骨格のない音の違いについて説明できればいいのだが、
こういう感覚的な音の表現を、どんなにこまかく描写していっても、
わからない人はわからない、という、それだけのことである。

それでも、今回のTIDALで聴くことができた「最後の演奏会」の音は、
確かに骨格のある音だったし、国内盤(CD)での音は、骨格のない音だった。

もっとも私の再生環境でそうであったというだけのことの可能性もある。
「最後の演奏会」のCDを、国内外の多くのCDプレーヤーで聴いているわけではない。
せいぜい三機種程度でしかない。

なので、あくまでも、その範囲内のことでしかない可能性もある。
けれど、国内盤に対する印象は、そう間違っていない、とも思っている。

TIDALの再生環境は、CDプレーヤー以上の違いがあるのかもしれない。
TIDALで聴いても、骨格のある音に聴こえなかった、と感じる人もいるだろう。
そう書きながらも、私のところでは、TIDALの再生環境は二つある。

一つはMac miniをメリディアンの218る接いで、コーネッタで聴くシステム、
もう一つは、iPhone 12 Pro+FC3でヘッドフォンで聴くシステムだ。
どちらで聴いても同じに感じたのだから、ある程度の普遍性のようなものはある。

その人が出している音が、まったく骨格を感じさせない音であれば、
TIDALで「最後の演奏会」を鳴らしたところで、国内盤の音と変らないであろう。

けれど、骨格のある音ということに関心のある人ならば、
そして骨格のある音とない音を違いを、少しでもいいから具体的に聴きたい、
そう思っている人は、TIDALと国内盤(CD)で比較してみてほしい。

Date: 4月 18th, 2021
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その16)

(その15)で触れた、バックハウスのデッカ録音全集。
2019年6月にアナウンスされ、発売は2020年1月だった。

当初は39枚組の予定だったが、実際には38枚組で出ている。
内容に変更はない。
価格もさほど高くない。

2019年の時点では買うつもりだった。
なのに、買っていない。

2019年9月にメリディアンの218を導入して、
e-onkyoで買うことに夢中になっていて、
ころっと忘れていたこと、e-onkyoにけっこうお金を使ってしまったことなどが理由である。

バックハウスのデッカ録音全集で私がいちばん聴きたかったのは、
「最後の演奏会」である。

(その15)で書いているように、
この「最後の演奏会」に関しては、LPもCDも国内盤でしか聴いたことがない。
輸入盤(CD)が欲しくて探したけれど、見つけられなかった。

国内盤の音に特に不満を感じていなければ、
疑問も感じていなければ、輸入盤を欲しい(聴いてみたい)とは思わない。

けれど実際の「最後の演奏会」の国内盤CDの音は、
薄っぺらく、芯がないように感じていた。

ほぼ二年前のことを思い出したように続きを書いているのは、
TIDALで「最後の演奏会」(The Last Concert)を聴いたからだ。

TIDALとCDとでは試聴条件がけっこう違う。
デッカ録音全集は買っていないので、
国内盤と輸入盤という比較にはならないけれど、
やっぱり国内盤の音の印象は、国内盤だからのようだ。

TIDALで聴くバックハウスの「最後の演奏会」の音は、納得がいく。

Date: 7月 11th, 2019
Cate: Wilhelm Backhaus, 五味康祐

ケンプだったのかバックハウスだったのか(補足・7)

今年2月に、バックハウスのベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集がSACDで発売になった。
9月には、ケンプによる全集が、CD八枚組+Blu-Ray Audio(一枚)で出る。

バックハウスはDSDで、ケンプは96kHz/24ビットで、それぞれのベートーヴェンが聴ける。
ケンプはさらにe-onkyoでMQAでも配信されている。

いい時代、面白い時代になってきた。

Date: 6月 14th, 2019
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その15)

今年2月に、バックハウスのベートーヴェンのピアノソナタ全集がSACDで登場することに触れた。
そこでも書いているが、今年はバックハウス没後50年、デッカ創立90年である。

バックハウスのデッカ録音全集(39枚組)が、今回出る。
デッカ録音全集というだけあって、「最後の演奏会」もここには含まれている。

不思議なことに、LPもCDも、輸入盤を手に入れたいと思っていたが、
見たことがない。

国内盤のCDは何度も廉価盤で登場しているにも関らず、だ。
ようやく今回、輸入盤で「最後の演奏会」が聴ける。

輸入盤ということだけでなく、今回新たにリマスタリングを行っているそうだ。
「最後の演奏会」のCDを聴く度に(頻繁に聴いているわけではないが)、
その録音に疑問を抱いてしまう。

「最後の演奏会」なわけだから、当然ライヴ録音である。
そのためなのか、と思うこともあったが、
とかにく今回、やっと自分の耳で確認できるようになる。

Date: 2月 13th, 2019
Cate: Wilhelm Backhaus, ディスク/ブック

バックハウスのベートーヴェン ピアノ・ソナタ全集

バックハウスは、ベートーヴェンのピアノ・ソナタを二回録音している。
4月に二回目の録音が、シングルレイヤーのSACDで出る。
(29番のみ二回目の録音は未了のため、一回目のモノーラル録音が使われている)

今年はバックハウス没後50年、デッカ創立90周年ということでの限定発売のようだ。

バックハウスのベートーヴェンがSACDで聴ける日が来るとは、まったく期待していなかった。
私が20代前半のころ、
ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集はいくつかあった。
バックハウスのがあったし、
グルダ、アシュケナージ、ブレンデル、シュナーベル、ナットなどの全集があった。

シュナーベルの録音はかなり古い。
ナットの録音は、シュナーベルほど古くはないがモノーラルだった。

ステレオ録音となると、バックハウスによる全集が、
そのころの私には輝いて見えていた。

いつかはバックハウスの全集を……、そう思いつづけていた日がある。
なのに、なぜか買うことはなかった。

もちろんバックハウスのベートーヴェンの後期のソナタに関しては買った。
けれど全集となると、CDではそれほど高価でもなかったにもかかわらず、手が伸びなかった。

今回のSACD全集を逃してしまえば、
バックハウスの演奏でベートーヴェンのソナタをすべて聴くことはなかろう。
今回の最後の機会だとおもっている。

これまで頻繁に聴いてきた、とはいえないが、
それでも20代のころから聴いてきているのが、
バックハウスによるベートーヴェンの後期のソナタである。

それでもひさしく聴いていない。
だからこそおもうところがある。

Date: 9月 21st, 2015
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その14)

バックハウスの「最後の演奏会」と呼ばれるディスクを聴く。
LPで出た。CDが登場し、何度か発売されている。
どちらで聴いてもいい。

とにかくバックハウスの「最後の演奏会」のディスクを聴く。
ここで「聴く」という行為は、いうまでもなくオーディオを介して聴くことになる。
つまりスピーカーからの音を聴くわけだ。

バックハウスの「最後の演奏会」は、そのタイトルが示しているように、
バックハウスの最後の演奏会のライヴ録音である。

ここのところが、このディスクの微妙なところと深く関係してくる。

録音にはスタジオ録音とライヴ録音とがある。
ライヴ録音のすべてが、いわば音楽のドキュメンタリーであるとはいわないまでも、
どこか音楽のドキュメンタリーとしての性格を少なからず内包する。

特にバックハウスの「最後の演奏会」は、その日の音楽だけが収められているわけではない。
バックハウスがベートーヴェンのピアノソナタ第十八番の第三楽章をひいている途中で心臓発作を起す。
そのため演奏は一時中断される。
そして再開される。中断されたところからではなく、プログラムが変更されての再開であり、
そのことをアナウンスする声も、「最後の演奏会」には収められている。

このアナウンスが、
「最後の演奏会」という録音のもつドキュメンタリーとしての性格を濃くしている。

Date: 1月 6th, 2013
Cate: CN191, VITAVOX, Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(続×七・VITAVOXの復活)

二流の音楽家は、芸術性と倫理性の区別をあいまいにしたがる、そんな意味のことを言ったのはたしかマーラーだったと記憶するが、倫理性を物理特性と解釈するなら、この言葉は、オーディオにも当てはまるのではないか、と以前、考えたことがあった。
     *
51号掲載の「続オーディオ巡礼」は、この書き出しではじまる。
結局は「マーラーの言ったことはオーディオには実には該当しない」とされながらも、
次のように続けられている。
     *
下品で、たいへん卑しい音を出すスピーカー、アンプがあるのは事実で、倫理観念に欠けるリスナーほどその辺の音のちがいを聴きわけられずに平然としている。そんな音痴を何人か見ているので、オーディオサウンドには、厳密には物理特性の中に測定の不可能な音楽の倫理的要素も含まれ、音色とは、そういう両者がまざり合って醸し出すものであること、二流の装置やそれを使っているリスナーほどこの点に無関心で、周波数特性の伸び、歪の有無などばかり気にしている。それを指摘したくて、冒頭のマーラーの言葉をかりたのである。
     *
そして、このあとに続くのが、
この項の(続・VITAVOXの復活)で引用した「H氏のクリプッシュ・ホーンを聴いて痛感したのが……」である。

ヴァイタヴォックス復活のニュースを知ったときに、
まず浮んだのは、バックハウスのベートーヴェンを聴いてみたいだった。
ヴァイタヴォックスのCN191でできれば聴きたい。
堅固なコーナーのある部屋にCN191をセットして聴くことができれば、
どんなにか、それは素晴らしい音楽体験になるであろう──、
そんなことをおもっていた。

だからヴァイタヴォックス復活のことを、あえてこの項にて書くことにした。
ヴァイタヴォックスが復活して、バックハウスを聴きたい、
ただそのことだけをさらっと最初は書くつもりだった。

なのに、いざ書き始めてみると、書いておきたいことがあふれでてきた。
まだまだ書きたいことはある。でも今回はこのへんにしておこうと思う。
ヴァイタヴォックスのスピーカーの音が聴けるようになれば、また項を改めて書きたい。

世の中には、ヴァイヴォックスなんて時代遅れのスピーカーが、
また出て来た、とおもう人がいるのはわかっている。
私はまったく逆のことをおもっている。

この時代に、よくぞ復活してくれた、と。

ヴァイヴォックスが、これから先どれだけ売れるかを考えたら、そう多くはないであろう。
にも関わらず今井商事がまた取り扱ってくれる。ありがたいことだ。

Date: 1月 5th, 2013
Cate: CN191, VITAVOX, Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(続×六・VITAVOXの復活)

10年とは、
結局、一つのスピーカーの出す音の美しさを聴き出すまでに必要な時間なのかもしれない。
五味先生のいわれたことを、この歳になってなぞっていることを実感している。

五味先生はステレオサウンド 51号で、
「ハーモニーの陰翳とでも言うほかないこの音のニュアンスは、かなり使いこまねば出てこない」
と書かれている。

一つのスピーカーを鳴らすのに10年もかかるなんて、よほど使いこなしの腕が未熟なんだろう、
そんなことを言う人も、きっといるはず。
そういうことではない。

そういうことではない、ということをわかっていない人が、
短ければ数ヵ月、長くても1年程度で、このスピーカーを鳴らしきった、と勘違いしたまま、
次のスピーカーへと目移りし買い替える……。

そういう人は、
愛情をこめて10年鳴らしてきたスピーカーが出す、
ハーモニーの陰翳を聴きとる耳をもつことが生涯できないのかもしれない。

10年、一つのスピーカーで音楽を聴いてくるということは、
そういう耳を、スピーカーとともにつくっていくことなのではないのか。

だから私は、スピーカーを買い替えていくだけの者の耳を、
そういう意味ではまったく信用していない。

Date: 1月 5th, 2013
Cate: CN191, VITAVOX, Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(続×五・VITAVOXの復活)

結局、10年かかるのだとおもう。

ひとつのスピーカーを10年間鳴らし続ける──、
たやすいことのようでもあり、そうでもなかったりする。

スピーカーを頻繁に買い替える人がいる。
たぶん、ずっと以前から、そういう人はある一定数いたのだと思う。
ただ以前は、そういうことが伝わってこなかったから、そうでもないと思われていただけなのかもしれない。

いまはインターネットがあり情報の伝達の速度も速い。
しかも自ら、スピーカーを交換した、と書く人も少なくない。
決して安価ではない(むしろ高価な部類の)のスピーカーを、
短ければわずか数か月で手離す人もいる。

買い替える、その理由がまったく理解できないわけでもない。
ほんとうに10年以上、じっくりとつきあっていけるスピーカーとめぐり合うために買い替えている、
そういう人もいることはわかっている。

でも、いつまでも自分にはもっと理想的なスピーカーがある、と思い続け、
次から次へ、とスピーカーを買い替えていっていては、
いつまでたっても理想と思えるスピーカーとは出合えないのではないだろうか。

本人は能動的な出合いを、ということで買い替えを続けているのかもしれない。
受動的な出合い、受動的なスピーカー選択なんてしたくない──、
それは思い上りなのかもしれない、と、
五味先生とタンノイ・オートグラフ、H氏とヴァイタヴォックスのCN191、
ふたりのスピーカーとの関係をみていくと、そう思えてきてしまう。

Date: 1月 5th, 2013
Cate: CN191, VITAVOX, Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(続々続々・VITAVOXの復活)

つまり五味先生もH氏も、音を聴くこともなく実物を見ることもなく、
それぞれオートグラフとCN191をイギリスから取り寄せられたわけである。

いまとは時代が違うから、と人はいうかもしれない。
でも時代が違うだけであろうか、と私はおもう。

半信半疑であったはず。
五味先生は「わがタンノイ・オートグラフ」に「S氏にすすめられ、半信半疑でとった」と書かれている。

誰だって損はしたくない。
しかもそれが大金であれば、慎重でありたい。
だから、そのスピーカーに関する情報をあれこれ調べて、
オーディオ店で試聴したり、そのスピーカーを鳴らしている人がいれば、そこへ出向いて聴かせてもらう。
さらに、誰かに信頼出来る人に意見を求める人もいることだろう。

実物を見ず(音も聴かず)、ほとんど情報らしき情報も得られぬまま、
1963年当時で165ポンド(輸入して邦貨で約40万円)という買物をするのは、賭けであろう。

H氏がCN191を取り寄せられたのがいつなのかはっきりとしないが、
ステレオサウンド 51号に五味先生は「十年前」と書かれている。
51号は1979年に出た号だから、1969年あたりのことになる。

10年──、
「わがタンノイ・オートグラフ」で、こう書かれている。
     *
今おもえば、タンノイのほんとうの音を聴き出すまでに私は十余年をついやしている。タンノイの音というのがわるいなら《一つのスピーカーの出す音の美しさ》と言い代えてもよい。
     *
ステレオサウンド 51号の「続オーディオ巡礼」でも書かれている。
     *
「十年かかりましたよ」
と本人は言う。そうだろうとおもう。
     *
わずか二行の、わずかな文字数だから、さらっと読んでしまいがちだが、
「十年かかりましたよ」への、五味先生の「そうだろうとおもう」は、
五味先生とH(原田勲)氏の間柄があっての「そうだろうとおもう」であり、
ステレオサウンド 51号を読んだとき(まだ16歳だった)にはそれほど感じることのできなかった「重さ」を、
いま、こうして書くために読み返して感じている。

「そうだろうとおもう」と言ってくれる人がいるH氏も、
「そうだろうとおもう」と言える相手がいる五味先生も、
仕合せなオーディオの人生だったようにおもえてならない。

Date: 1月 4th, 2013
Cate: CN191, VITAVOX, Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(続々続・VITAVOXの復活)

五味先生にとってタンノイのスピーカーとのつきあいは、オートグラフから始まっているわけでないことは、
「西方の音」「天の聲」「オーディオ巡礼」の読者であれば、ここでくり返す必要のないことである。

1952年の秋に、五味先生はS氏宅で、
フランチェスカッティの、ベートーヴェンの『ロマンス』を聴かれたことから始まっている。
モノーラル時代の話で、まだ芥川賞をうけられる以前のことでもある。
最初のタンノイを手にされたのは芥川賞から3年経った1956年、
帰国するアメリカ人から譲り受けられたタンノイである。

このタンノイについては、
「当時街で売っている和製の『タンノイ指定箱』とずさんさにおいて異ならない」もので、
S氏邸とは比較にならないひどい音、と書かれている。

そのあとにコンクリートホーンの中域のみにタンノイを使われている時期もあった。
そして1963年渡欧の機会に恵まれた五味先生は、スイス人のオーディオマニアからHiFi year Bookをもらわれた。
そこにオートグラフとCN191が、165ポンドという、
「ミスプリントではないかと思った」この高価なスピーカーシステムを、
S氏の
「英国でミスプリントとは考えられない。百六十五ポンドに間違いないと思う。そんなに高価なら、よほどいいものに違いない。取ってみたらどうだ。かんぺきなタンノイの音を日本ではまだ誰も聴いた者はないんじゃないか」
に決意されたわけだ。

もしS氏がタンノイを使われていなかったら、
五味先生とタンノイとの、ながいつきあいもなかったのかもしれない。
もしかするとHiFi year Bookを見て、
オートグラフではなくCN191を選択された可能性だって考えられなくもない。

仮にそうなっていたとしたら、H氏はCN191ではなくオートグラフを選択されていた、とも思う。
そういう意味合いのことをきいているから、そういえる。

そういえば、五味先生もステレオサウンド 47号の「続オーディオ巡礼」の最後に、こう書かれている。
     *
二十年余、お互いに音をくらべ合って来た間柄であるが、こうなればオーディオ仲間も一種の碁敵(がたき)のようなものか。呵々。
(47号の「続オーディオ巡礼」登場されているのは奈良の南口重治氏)
     *
一種の碁敵でもあるわけだから、相手がどんなにいい音を出していて、
その音に聴き惚れて、自分の音として出したいと思っても、
だからといって同じスピーカーシステムは選ばない、という矜恃に近いものがあるからだ。

五味先生はオートグラフを選ばれた。
それも先に選ばれた。
ならばH氏は、CN191となる。

H氏のオーディオマニアとしての矜恃があったからこそ、
ヴァイタヴォックスのCN191は日本に紹介され、作り続けられたともいえる。

Date: 1月 3rd, 2013
Cate: CN191, VITAVOX, Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(続々・VITAVOXの復活)

ステレオサウンド別冊として1979年に出た「続コンポーネントステレオのすすめ」のなかで、
ヴァイタヴォックスのCN191はこう紹介されている。
     *
ヴァイタヴォックスというメーカーを、最近のイギリスの若い世代はもはや知らないとさえ、いわれる。実際、この〝クリプッシュホーン〟の名で呼ばれるCN191という大型スピーカーは、こんにち、その製品のほとんどが、日本からの注文で作り続けられている。いまから十年近く前、もはや製造中止の噂の流れていたこのスピーカーを、日本のある愛好家が注文で取り寄せた一組がきっかけを作って、その独特の魅力が口伝えのように広まって、いまなお注文してから一年近く待たされるという状態が続いている。
(瀬川先生の文章である)
     *
日本のある愛好家こそがH氏(原田勲氏)である。
横浜港に着いたCN191を、輸入元の今井商事に持ち込むことなく、
そのまま原田氏の自宅へ運びこまれた、という話を、原田氏ご本人からきいている。

今井商事としては一度会社に持ち帰りチェックをした上で納品するつもりだったのだが、
イギリスからの空気もCN191とともに届いているからこそ、
そのイギリスの空気ごと、できるだけ損なわずにリスニングルームに一刻も早く運びたかった、
というのが、その理由である。

だからといって、最初からいい音で鳴ってくれたわけではないことは、
ステレオサウンド 51号掲載の「続オーディオ巡礼」を読まれた方ならば知っていよう。
     *
もっともH氏に言わせると一朝一夕でこの音になったのではないらしい。
「十年かかりましたよ」
と本人は言う。そうだろうとおもう。
H氏はクリプッシュホーンを最初に日本へ取りよせた人だろうとおもうが、十年前、かなり彼とは親しい付き合いなので、取り寄せたと聞いて早速わたしは聴きに行った。しかし期待に反し、音像が貧弱で、中音域にホーンのいわゆる《音啼き》があり、拙宅のオートグラフと聴き比べると定位もぼけ、とうてい推奨するようなスピーカーではなかった。
     *
五味先生がタンノイのオートグラフを取り寄せられるきっかけをなったイギリスのHiFi year Book(1963年)に、
CN191はオートグラフと同じ165ポンドで出ている。

Date: 1月 3rd, 2013
Cate: CN191, VITAVOX, Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(続・VITAVOXの復活)

ヴァイタヴォックスの名を知ったのは、これもまた私の場合、「五味オーディオ教室」であった。
     *
H氏は、私のオーディオ仲間の一人で、たがいに気心の知れている、にくまれ口のひとつも言い合える仲であり、時にはワイフの知らぬ彼の情事を知っていて、ワイフの前では呆けねばならぬ仲でもあるが、そのH氏が英ヴァイタボックスのクリプッシ・ホーンを購入したときのことだ。
     *
五味先生は、この文章に続けて、スピーカーの馴らしについて書かれている。
そして、次のように結ばれている。
     *
しかし、〝音〟のクロウトでない、〝音楽〟を楽しもうとしている私たちにとって、スピーカーが鳴っているのか、スピーカーが空気を鳴らしているのか、言いかえれば、スピーカーが音を出しているのか、音を響かせているのか、を気にするのは、むしろ当然のことだと思うのである。
     *
このときから、オートグラフほどではないにしても、ヴァイタヴォックスの名は気になっていたものの、
ヴァイタヴォックスのスピーカーを聴く機会には、当時はまったく縁がなかった。

そのヴァイタヴォックスのスピーカーが、
それも五味先生が「五味オーディオ教室」に書かれたH氏とともにステレオサウンドに登場したのが、
51号掲載の「続・オーディオ巡礼」においてである。

こう書かれていた。
     *
H氏のクリプッシュ・ホーンを聴いて痛感したのが、この、測定不可能な音楽の倫理性がじつに見事に鳴っていることだった。こればかりは凡百のスピーカーエンクロージァでは聴かれぬ音の格調の高さで、久しぶりに私は興奮し且つ感動した。
     *
H氏は、ステレオサウンドを創刊された原田勲氏である。