Archive for category Wilhelm Backhaus

Date: 9月 21st, 2015
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その14)

バックハウスの「最後の演奏会」と呼ばれるディスクを聴く。
LPで出た。CDが登場し、何度か発売されている。
どちらで聴いてもいい。

とにかくバックハウスの「最後の演奏会」のディスクを聴く。
ここで「聴く」という行為は、いうまでもなくオーディオを介して聴くことになる。
つまりスピーカーからの音を聴くわけだ。

バックハウスの「最後の演奏会」は、そのタイトルが示しているように、
バックハウスの最後の演奏会のライヴ録音である。

ここのところが、このディスクの微妙なところと深く関係してくる。

録音にはスタジオ録音とライヴ録音とがある。
ライヴ録音のすべてが、いわば音楽のドキュメンタリーであるとはいわないまでも、
どこか音楽のドキュメンタリーとしての性格を少なからず内包する。

特にバックハウスの「最後の演奏会」は、その日の音楽だけが収められているわけではない。
バックハウスがベートーヴェンのピアノソナタ第十八番の第三楽章をひいている途中で心臓発作を起す。
そのため演奏は一時中断される。
そして再開される。中淡去れたところからではなく、プログラムが変更されての再開であり、
そのことをアナウンスする声も、「最後の演奏会」には収められている。

このアナウンスが、
「最後の演奏会」という録音のもつドキュメンタリーとしての性格を濃くしている。

Date: 1月 6th, 2013
Cate: CN191, VITAVOX, Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(続×七・VITAVOXの復活)

二流の音楽家は、芸術性と倫理性の区別をあいまいにしたがる、そんな意味のことを言ったのはたしかマーラーだったと記憶するが、倫理性を物理特性と解釈するなら、この言葉は、オーディオにも当てはまるのではないか、と以前、考えたことがあった。
     *
51号掲載の「続オーディオ巡礼」は、この書き出しではじまる。
結局は「マーラーの言ったことはオーディオには実には該当しない」とされながらも、
次のように続けられている。
     *
下品で、たいへん卑しい音を出すスピーカー、アンプがあるのは事実で、倫理観念に欠けるリスナーほどその辺の音のちがいを聴きわけられずに平然としている。そんな音痴を何人か見ているので、オーディオサウンドには、厳密には物理特性の中に測定の不可能な音楽の倫理的要素も含まれ、音色とは、そういう両者がまざり合って醸し出すものであること、二流の装置やそれを使っているリスナーほどこの点に無関心で、周波数特性の伸び、歪の有無などばかり気にしている。それを指摘したくて、冒頭のマーラーの言葉をかりたのである。
     *
そして、このあとに続くのが、
この項の(続・VITAVOXの復活)で引用した「H氏のクリプッシュ・ホーンを聴いて痛感したのが……」である。

ヴァイタヴォックス復活のニュースを知ったときに、
まず浮んだのは、バックハウスのベートーヴェンを聴いてみたいだった。
ヴァイタヴォックスのCN191でできれば聴きたい。
堅固なコーナーのある部屋にCN191をセットして聴くことができれば、
どんなにか、それは素晴らしい音楽体験になるであろう──、
そんなことをおもっていた。

だからヴァイタヴォックス復活のことを、あえてこの項にて書くことにした。
ヴァイタヴォックスが復活して、バックハウスを聴きたい、
ただそのことだけをさらっと最初は書くつもりだった。

なのに、いざ書き始めてみると、書いておきたいことがあふれでてきた。
まだまだ書きたいことはある。でも今回はこのへんにしておこうと思う。
ヴァイタヴォックスのスピーカーの音が聴けるようになれば、また項を改めて書きたい。

世の中には、ヴァイヴォックスなんて時代遅れのスピーカーが、
また出て来た、とおもう人がいるのはわかっている。
私はまったく逆のことをおもっている。

この時代に、よくぞ復活してくれた、と。

ヴァイヴォックスが、これから先どれだけ売れるかを考えたら、そう多くはないであろう。
にも関わらず今井商事がまた取り扱ってくれる。ありがたいことだ。

Date: 1月 5th, 2013
Cate: CN191, VITAVOX, Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(続×六・VITAVOXの復活)

10年とは、
結局、一つのスピーカーの出す音の美しさを聴き出すまでに必要な時間なのかもしれない。
五味先生のいわれたことを、この歳になってなぞっていることを実感している。

五味先生はステレオサウンド 51号で、
「ハーモニーの陰翳とでも言うほかないこの音のニュアンスは、かなり使いこまねば出てこない」
と書かれている。

一つのスピーカーを鳴らすのに10年もかかるなんて、よほど使いこなしの腕が未熟なんだろう、
そんなことを言う人も、きっといるはず。
そういうことではない。

そういうことではない、ということをわかっていない人が、
短ければ数ヵ月、長くても1年程度で、このスピーカーを鳴らしきった」と勘違いしたまま、
次のスピーカーへと目移りし買い替える……。

そういう人は、
愛情をこめて10年鳴らしてきたスピーカーが出す、
ハーモニーの陰翳を聴きとる耳をもつことが生涯できないのかもしれない。

10年、一つのスピーカーで音楽を聴いてくるということは、
そういう耳を、スピーカーとともにつくっていくことなのではないのか。

だから私は、スピーカーを買い替えていくだけの者の耳を、
そういう意味ではまったく信用していない。

Date: 1月 5th, 2013
Cate: CN191, VITAVOX, Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(続×五・VITAVOXの復活)

結局、10年かかるのだとおもう。

ひとつのスピーカーを10年間鳴らし続ける──、
たやすいことのようでもあり、そうでもなかったりする。

スピーカーを頻繁に買い替える人がいる。
たぶん、ずっと以前から、そういう人はある一定数いたのだと思う。
ただ以前は、そういうことが伝わってこなかったから、そうでもないと思われていただけなのかもしれない。

いまはインターネットがあり情報の伝達の速度も速い。
しかも自ら、スピーカーを交換した、と書く人も少なくない。
決して安価ではない(むしろ高価な部類の)のスピーカーを、
短ければわずか数か月で手離す人もいる。

買い替える、その理由がまったく理解できないわけでもない。
ほんとうに10年以上、じっくりとつきあっていけるスピーカーとめぐり合うために買い替えている、
そういう人もいることはわかっている。

でも、いつまでも自分にはもっと理想的なスピーカーがある、と思い続け、
次から次へ、とスピーカーを買い替えていっていては、
いつまでたっても理想と思えるスピーカーとは出合えないのではないだろうか。

本人は能動的な出合いを、ということで買い替えを続けているのかもしれない。
受動的な出合い、受動的なスピーカー選択なんてしたくない──、
それは思い上りなのかもしれない、と、
五味先生とタンノイ・オートグラフ、H氏とヴァイタヴォックスのCN191、
ふたりのスピーカーとの関係をみていくと、そう思えてきてしまう。

Date: 1月 5th, 2013
Cate: CN191, VITAVOX, Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(続々続々・VITAVOXの復活)

つまり五味先生もH氏も、音を聴くこともなく実物を見ることもなく、
それぞれオートグラフとCN191をイギリスから取り寄せられたわけである。

いまとは時代が違うから、と人はいうかもしれない。
でも時代が違うだけであろうか、と私はおもう。

半信半疑であったはず。
五味先生は「わがタンノイ・オートグラフ」に「S氏にすすめられ、半信半疑でとった」と書かれている。

誰だって損はしたくない。
しかもそれが大金であれば、慎重でありたい。
だから、そのスピーカーに関する情報をあれこれ調べて、
オーディオ店で試聴したり、そのスピーカーを鳴らしている人がいれば、そこへ出向いて聴かせてもらう。
さらに、誰かに信頼出来る人に意見を求める人もいることだろう。

実物を見ず(音も聴かず)、ほとんど情報らしき情報も得られぬまま、
1963年当時で165ポンド(輸入して邦貨で約40万円)という買物をするのは、賭けであろう。

H氏がCN191を取り寄せられたのがいつなのかはっきりとしないが、
ステレオサウンド 51号に五味先生は「十年前」と書かれている。
51号は1979年に出た号だから、1969年あたりのことになる。

10年──、
「わがタンノイ・オートグラフ」で、こう書かれている。
     *
今おもえば、タンノイのほんとうの音を聴き出すまでに私は十余年をついやしている。タンノイの音というのがわるいなら《一つのスピーカーの出す音の美しさ》と言い代えてもよい。
     *
ステレオサウンド 51号の「続オーディオ巡礼」でも書かれている。
     *
「十年かかりましたよ」
と本人は言う。そうだろうとおもう。
     *
わずか二行の、わずかな文字数だから、さらっと読んでしまいがちだが、
「十年かかりましたよ」への、五味先生の「そうだろうとおもう」は、
五味先生とH(原田勲)氏の間柄があっての「そうだろうとおもう」であり、
ステレオサウンド 51号を読んだとき(まだ16歳だった)にはそれほど感じることのできなかった「重さ」を、
いま、こうして書くために読み返して感じている。

「そうだろうとおもう」と言ってくれる人がいるH氏も、
「そうだろうとおもう」と言える相手がいる五味先生も、
仕合せなオーディオの人生だったようにおもえてならない。

Date: 1月 4th, 2013
Cate: CN191, VITAVOX, Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(続々続・VITAVOXの復活)

五味先生にとってタンノイのスピーカーとのつきあいは、オートグラフから始まっているわけでないことは、
「西方の音」「天の聲」「オーディオ巡礼」の読者であれば、ここでくり返す必要のないことである。

1952年の秋に、五味先生はS氏宅で、
フランチェスカッティの、ベートーヴェンの『ロマンス』を聴かれたことから始まっている。
モノーラル時代の話で、まだ芥川賞をうけられる以前のことでもある。
最初のタンノイを手にされたのは芥川賞から3年経った1956年、
帰国するアメリカ人から譲り受けられたタンノイである。

このタンノイについては、
「当時街で売っている和製の『タンノイ指定箱』とずさんさにおいて異ならない」もので、
S氏邸とは比較にならないひどい音、と書かれている。

そのあとにコンクリートホーンの中域のみにタンノイを使われている時期もあった。
そして1963年渡欧の機会に恵まれた五味先生は、スイス人のオーディオマニアからHiFi year Bookをもらわれた。
そこにオートグラフとCN191が、165ポンドという、
「ミスプリントではないかと思った」この高価なスピーカーシステムを、
S氏の
「英国でミスプリントとは考えられない。百六十五ポンドに間違いないと思う。そんなに高価なら、よほどいいものに違いない。取ってみたらどうだ。かんぺきなタンノイの音を日本ではまだ誰も聴いた者はないんじゃないか」
に決意されたわけだ。

もしS氏がタンノイを使われていなかったら、
五味先生とタンノイとの、ながいつきあいもなかったのかもしれない。
もしかするとHiFi year Bookを見て、
オートグラフではなくCN191を選択された可能性だって考えられなくもない。

仮にそうなっていたとしたら、H氏はCN191ではなくオートグラフを選択されていた、とも思う。
そういう意味合いのことをきいているから、そういえる。

そういえば、五味先生もステレオサウンド 47号の「続オーディオ巡礼」の最後に、こう書かれている。
     *
二十年余、お互いに音をくらべ合って来た間柄であるが、こうなればオーディオ仲間も一種の碁敵(がたき)のようなものか。呵々。
(47号の「続オーディオ巡礼」登場されているのは奈良の南口重治氏)
     *
一種の碁敵でもあるわけだから、相手がどんなにいい音を出していて、
その音に聴き惚れて、自分の音として出したいと思っても、
だからといって同じスピーカーシステムは選ばない、という矜恃に近いものがあるからだ。

五味先生はオートグラフを選ばれた。
それも先に選ばれた。
ならばH氏は、CN191となる。

H氏のオーディオマニアとしての矜恃があったからこそ、
ヴァイタヴォックスのCN191は日本に紹介され、作り続けられたともいえる。

Date: 1月 3rd, 2013
Cate: CN191, VITAVOX, Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(続々・VITAVOXの復活)

ステレオサウンド別冊として1979年に出た「続コンポーネントステレオのすすめ」のなかで、
ヴァイタヴォックスのCN191はこう紹介されている。
     *
ヴァイタヴォックスというメーカーを、最近のイギリスの若い世代はもはや知らないとさえ、いわれる。実際、この〝クリプッシュホーン〟の名で呼ばれるCN191という大型スピーカーは、こんにち、その製品のほとんどが、日本からの注文で作り続けられている。いまから十年近く前、もはや製造中止の噂の流れていたこのスピーカーを、日本のある愛好家が注文で取り寄せた一組がきっかけを作って、その独特の魅力が口伝えのように広まって、いまなお注文してから一年近く待たされるという状態が続いている。
(瀬川先生の文章である)
     *
日本のある愛好家こそがH氏(原田勲氏)である。
横浜港に着いたCN191を、輸入元の今井商事に持ち込むことなく、
そのまま原田氏の自宅へ運びこまれた、という話を、原田氏ご本人からきいている。

今井商事としては一度会社に持ち帰りチェックをした上で納品するつもりだったのだが、
イギリスからの空気もCN191とともに届いているからこそ、
そのイギリスの空気ごと、できるだけ損なわずにリスニングルームに一刻も早く運びたかった、
というのが、その理由である。

だからといって、最初からいい音で鳴ってくれたわけではないことは、
ステレオサウンド 51号掲載の「続オーディオ巡礼」を読まれた方ならば知っていよう。
     *
もっともH氏に言わせると一朝一夕でこの音になったのではないらしい。
「十年かかりましたよ」
と本人は言う。そうだろうとおもう。
H氏はクリプッシュホーンを最初に日本へ取りよせた人だろうとおもうが、十年前、かなり彼とは親しい付き合いなので、取り寄せたと聞いて早速わたしは聴きに行った。しかし期待に反し、音像が貧弱で、中音域にホーンのいわゆる《音啼き》があり、拙宅のオートグラフと聴き比べると定位もぼけ、とうてい推奨するようなスピーカーではなかった。
     *
五味先生がタンノイのオートグラフを取り寄せられるきっかけをなったイギリスのHiFi year Book(1963年)に、
CN191はオートグラフと同じ165ポンドで出ている。

Date: 1月 3rd, 2013
Cate: CN191, VITAVOX, Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(続・VITAVOXの復活)

ヴァイタヴォックスの名を知ったのは、これもまた私の場合、「五味オーディオ教室」であった。
     *
H氏は、私のオーディオ仲間の一人で、たがいに気心の知れている、にくまれ口のひとつも言い合える仲であり、時にはワイフの知らぬ彼の情事を知っていて、ワイフの前では呆けねばならぬ仲でもあるが、そのH氏が英ヴァイタボックスのクリプッシ・ホーンを購入したときのことだ。
     *
五味先生は、この文章に続けて、スピーカーの馴らしについて書かれている。
そして、次のように結ばれている。
     *
しかし、〝音〟のクロウトでない、〝音楽〟を楽しもうとしている私たちにとって、スピーカーが鳴っているのか、スピーカーが空気を鳴らしているのか、言いかえれば、スピーカーが音を出しているのか、音を響かせているのか、を気にするのは、むしろ当然のことだと思うのである。
     *
このときから、オートグラフほどではないにしても、ヴァイタヴォックスの名は気になっていたものの、
ヴァイタヴォックスのスピーカーを聴く機会には、当時はまったく縁がなかった。

そのヴァイタヴォックスのスピーカーが、
それも五味先生が「五味オーディオ教室」に書かれたH氏とともにステレオサウンドに登場したのが、
51号掲載の「続・オーディオ巡礼」においてである。

こう書かれていた。
     *
H氏のクリプッシュ・ホーンを聴いて痛感したのが、この、測定不可能な音楽の倫理性がじつに見事に鳴っていることだった。こればかりは凡百のスピーカーエンクロージァでは聴かれぬ音の格調の高さで、久しぶりに私は興奮し且つ感動した。
     *
H氏は、ステレオサウンドを創刊された原田勲氏である。

Date: 1月 3rd, 2013
Cate: VITAVOX, Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(VITAVOXの復活)

ヴァイタヴォックスのスピーカーが、また輸入されることになったのを昨夜知った。
以前の輸入元だった今井商事のサイトに、ヴァイタヴォックスのページができている。

そこには「再びお届け出来るようになりました」とあるから、
日本への輸入がある時期とまっていたのか、
それともヴァイタヴォックスがHi-Fi用のスピーカーから徹底していたのか、
もしかするとヴァイタヴォックスという会社そのものになにかあったのか、
そのへんの詳しいことはいまのところわからない。

けれど1990年代の後半以降、いつしかヴァイタヴォックスの名前を聞くことはなくなったし、
インターネットが普及して今井商事のサイトができたときには、
すでにヴァイタヴォックスの名前はなかったように記憶している。

ヴァイタヴォックスは1931年創立の、歴史の長いメーカーではあっても、
イギリス本国でもその著名度はそう高くはなかったようだ。

瀬川先生によるステレオサウンド 49号掲載のヴァイタヴォックスのCN191の文章の冒頭には、
次のようなことが書かれている。
     *
つい最近、面白い話を耳にした。ロンドン市内のある場所で、イギリスのオーディオ関係者が数人集まっている席上、ひとりの日本人がヴァイタヴォックスの名を口にしたところが、皆が首をかしげて、あい、そんなメーカーがあったか? と考え込んだ、というのである。しばらくして誰かが、そうだPA用のスピーカーを作っていた古い会社じゃなかったか? と言い出して、そうだそうだということになった──。どうも誇張されているような気がしてならないが、しかし興味深い話だ。
     *
ステレオサウンド 49号は1978年に発行されている。
つまり上の話が事実であるなら、1970年代の終りには、
イギリスのオーディオ関係者でも忘れかけられていたヴァイタヴォックスではあるけれど、
ことに日本においては注文して届くまで1年近く待たされるという状態が続いていたスピーカーでもあった。

Date: 12月 16th, 2012
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その13)

骨格のしっかりした音、骨格のある音がうまく説明できないのであれば、
骨格のばらばらな音、骨格のない音をその対比としてうまく説明できればいいのだが、
これもまた難しい……、と、書きあぐねていたら、
別項「ちいさな結論(その3)」にて引用した丸山健二氏の「新・作庭記」が、
まさにそうだということに、さきほど気づいた。

こういう文章は書けない。
いつか書ける日が、ただ一回でもいいから来てほしいのだが……。

ここで、もういちど丸山氏の文章を引用しておく。
     *
ひとたび真の文化や芸術から離れてしまった心は、虚栄の空間を果てしなくさまようことになり、結実の方向へ突き進むことはけっしてなく、常にそれらしい雰囲気のみで集結し、作品に接する者たちの汚れきった魂を優しさを装って肯定してくれるという、その場限りの癒しの効果はあっても、明日を力強く、前向きに、おのれの力を頼みにして行きようと決意させてくれるために腐った性根をきれいに浄化し、本物のエネルギーを注入してくれるということは絶対にない。
     *
「ひとたび真の文化や芸術から離れてしまった心」を「ひとたび真の文化や芸術から離れてしまった音」とすれば、
それこそが骨格のばらばらちなってしまった音であり、骨格のない音でもある。

そして、そういう音を出すスピーカーこそが、
私が幾度となく、しつこく書いている「欠陥」スピーカーの音でもある。

Date: 12月 10th, 2012
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その12)

何百回、音について書かれた文章を読もうとも、実際に一回でも音を聴けば、
それによって多くのことが得られる──、
こういったことが昔からいわれ続けてきている。

オーディオにはそういう面が、たしかにある。
だが、ここで聴く音とは、どういう音でもいいわけではない。
すくなくとも音について書いた本人が、ある責任を持って鳴らした音に関して、
音を聴くことによってわかることがある、そのことは私も否定はしない。

だから五味先生がオートグラフをについて、瀬川先生が4343について書かれた文章を読んで、
まったく別のひとが鳴らすオートグラフや4343、
オーディオ販売店でのオートグラフや4343を聴いても、
わかることもある反面、誤解してしまう危険性もまた大きい。

聴けばわかる──、
これはひじょうに危険なことでもある。

まずどんな音を聴くのか、が重要となる。
そして、同じくらいに、それ以上に聴いた人が問題となる。

ここで私が「骨格のしっかり音」について書いていることを、
例えば私が「骨格のしっかりした音」と感じ思っている、その音を聴いても、
まったく理解してくれない人がいることも、また事実である。

これは、音の「大きさ」を表しているのではないだろうか。
念のため書いておくが、ここでの音の「大きさ」は、音量の大きさではない。

だからこそ「音は言をもとめ、言は音をすすめる」のではないだろうか。
オーディオ評論家は、そのためにいるのではないだろうか。

Date: 12月 5th, 2012
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その11)

書きながら、骨格のしっかりした音を説明することの難しさを感じている。
わかってくれる人が少なからずいる。
その人たちは、すぐに納得してくれている。

その一方で、骨格のしっかりした音がどういうものなのかまったくイメージできない人もいても不思議ではない。
私が勝手に推測するに、いまの時代は後者の人のほうが圧倒的に多いのではないだろうか……、
そんな気がしてならない。

そう思ってしまうのは、いま高い評価を得ているスピーカーシステムを聴いても、
私の耳には、それらのスピーカーシステムの音が、骨格のしっかりしたものとは思えないからである。

しっかりしたものと思えない、という表現よりも、
骨格を感じさせない音、意識させない音、といってほうがいい。

骨格を感じさせるのがいい音なのか、それとも感じさせない(意識させない)音がいいのか、
私にとっては、聴く音楽、聴く演奏家が骨格のしっかりしたものを要求しているように感じることもあって、
骨格のしっかりした音が、そうでない音よりも、いいと判断してしまう。

けれど聴く音楽が異り、
聴く音楽は私と同じクラシックが中心でも、聴く演奏家が大きく異るのであれば、
骨格のしっかりした音を求めない人もいるだろうし、
聴く音楽も聴く演奏家も私と同じでも、
これまで聴いてきた音が、骨格のない音ばかりであったとするならば、
もしかすると、その人は、再生される音のうちに骨格を感じとることができるのだろうか。

さらに思うのは、いまのオーディオ評論家を名乗っている人たちのなかに、
骨格のしっかりした音を求めている人、
求めていなくとも骨格のしっかりした音をきちんと聴き分けている人がいるだろうか。
そんなこともつい思ってしまう。

もう骨格のしっかりした音は、旧い世代の人間が求める音の要素かもしれない、
と思っていたところに、私よりもずっと若いジャズ好きの人は、
骨格のしっかりした音という表現にうなずいてくれている。

ということは世代はあまり関係のないことのようだ。
やはり聴く音楽、聴いてきた音が影響を与えているともいえるし、
そういう音楽を、そういう音を求めてきたのは、やはりその人自身であるわけだから、
ここでも「音は人なり」ということに行き着いてしまう。

そして、もうひとつ思い出すのは、この項の(その1)で引用した岡先生の文章のなかのフレーズである。
「演奏家が解釈や技巧をふりかざしてきき手を説得しようという姿勢はまったく見られない。」

骨格のしっかりした音とは、そういう音なのだ、といいたくなる一方で、
骨格のない音、骨格のいいかげんな音は、
解釈や技巧をふりかざしてきき手を説得しようとする音なのかもしれない、と。

Date: 12月 1st, 2012
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その10)

関節があるから、人の身体は身体として機能している。
関節がまったくなかったら、大きな骨がただひとつだけあって、
それがたとえ人間の骨格と同じ形をしていようと、関節がなければ人形と同じことになる。

関節は骨と骨を結合させている。

私はまだないけれど、身体のどこかの関節がはずれてしまうと、
たとえば肩が脱臼すると腕はだらりとなってしまう。
関節によって結合しているから、人はあらゆる動きを行える。

関節があってもそれが機能としているから骨格が成り立っているし、
身体も機能しているわけである。

骨があり関節があり、骨格はある。

骨格のしっかりした音、
スピーカーの骨格とはなにか、について考えていて、次に浮んできたのが関節である。

音に骨格がなければ、音は軟体動物のようになってしまう。
骨格があっても関節がなければ、あっても関節として機能(可動)していなければ、
人の身体は動けなくなるように、音もただそこにあるだけとなってしまう──、
骨格のしっかりした音をうまく表現できないから、
逆に骨格のない音、骨格のくずれてしまった音はどういうものかを考えてみた。

やはり関節が重要なキーワードに思えてくる。

関節は人の身体に無数にあるわけではない。
腕にしても肩にあり、肘にあり、手首にあり、指にもある。
だが、肩と肘の間に、肘と手首の間に関節があるわけではない。
それに関節には可動領域がある。
360度、どの方向にも自由自在に動かせるわけではない。方向と範囲がある。

そのため人間にはできない動きが生じる。
関節があるために動きが制限される。

スピーカーはあらゆる音楽を鳴らせるものであってほしい、
とすれば、スピーカーに骨格なんて存在しない方がいい、という考えもできる。
軟体動物のようにどんな動きでも、どんなポーズでもできるのほうが、
骨格のある、骨格のしっかりしたスピーカーよりも、音の自由度は広い──、
果して、そういえるのだろうか。

私には、どうしてもそうは思えない。
骨格のあるほうが、音楽を聴く上では自由度がある、と感じているし、
その点が、自分の音にもってこれるスピーカーとそうでないスピーカーとにわけることにもなっていく。

Date: 11月 26th, 2012
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その9)

この項を書き始めて考え続けているのは(ずーっと考えているわけでもないけれど)、
骨格のしっかりした音を、具体的に説明するにはどうしたらいいのか、ということ。

バックハウスのベートーヴェンを愛聴盤とされている人ならば、
なんとなくかもしれないが、私がいいたいことをわかってくださっている、そんな気もする。

でもいまバックハウスのベートーヴェンを愛聴盤としている人は、そう多くないだろう。
それにクラシックを聴く人ばかりとは限らない。
バックハウスのベートーヴェンをまったく聴いたこともない人も少なくないと思う。

そしてスピーカーに関しても、現在市販されているモノで、
骨格のしっかりした音までは求めないものの、
すくなくとも、その音を聴いたときに、音の骨格を意識させるスピーカー、
骨格をいう表現を思いつかせる音のスピーカーでもいいのだが、
はたしてあるのだろうか。

そういう時代にあって、そういう音楽、そういう音しか聴いたことのない人に、
骨格のしっかりした音を説明するのは、どうしたらいいのか、正直わからない。

そういえば、瀬川先生が、読者から「品位のある音というのがわからない」と相談された、という話がある。
そういうものか、と思うし、そうなんだ、とも思う。

どんな音楽を聴いてきたのか、どんなスピーカーを聴いてきたのかによっても、
理解できない(しにくい)音が確かにある。
この問題は、それでは品位のある音を聴かせたり、骨格のしっかりした音を聴かせればすむことじゃないか、
と思われるかもしれない。

けれど人はみなスピーカーから出てきているすべての音を聴き取っているわけではないし、
感じとっているわけでもない。

音の品位に、音の骨格に対する感知能力が聴き手側になければ、
そこで品位の高い音が鳴っていても、骨格のしっかりした音が鳴っていても、理解されることは難しい。

それでも言葉で説明していくとなると、どうしたらいいのか。
骨格のしっかりした音──、とはどういう音なのか。

ひとつ浮んできたことがある。
骨格は文字通り骨から構成されている。
だが骨がただひとつあるだけでは骨格とはなりえない。
骨格には関節がある。

Date: 11月 23rd, 2012
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その8)

バックハウスは、もういない。
バックハウス的といえるピアニストも、いま誰かいるかと考えても、すぐには思い浮ばない。

バックハウスのピアノ演奏がすべてではないし、
時代によって新しいピアニストが登場してくる。

同じピアニストはひとりもいないのだから、それは当然すぎることであり、
時代によって録音技術も変化・進歩していく。
演奏スタイルも、すくなくとも録音される演奏においては、
録音技術の変化・進歩とはまったく無関係でいることは無理なのかもしれない。

一度録音された演奏は、ずっと残っていく。
バックハウスの演奏も残っていくし、その他のピアニストの演奏も残っていく。
同じ演奏は、だから時代が求めていない、ともいえるのかもしれない。

時代はくり返す、ともいわれる。
だから、またバックハウス的なピアニストが登場するのかもしれない。
私は登場しないように思っている。

人がいちどに聴ける演奏は、ひとつだけである。
バックハウスのベートーヴェンを聴きながら、別の誰かのピアニストの演奏でバッハを聴く、ということは、
ただ鳴らしておくだけなら可能でも、実際にはできない。

人の時間は限られていて、録音されていくものは増えていく。
個人のコレクションも増えていく。

新しいものが登場していく陰で、注目されなくなるものも出てくる。
スピーカーの音も同じである。

技術が変化・進歩していくことで、それまでのスピーカーでは出し得なかった音が聴けるようになってきている。
だからといって、それまで聴けていた音がすべて出た上で、新しい音がそこに築かれているわけではない。
残念なことに、技術がまだまだ未完成・未熟なこともあり、何かを得れば何かを失っていく。

失うものが少なく、得るものが多ければ、それは進歩と呼ばれるのだろうが、
わずかでも失われるもののなかに、その人にとって大切なものが含まれていれば、
いくら得るものが多かろうと、それは進歩とはいえなくなる。

バックハウスの「最後の演奏会」は私に、
失われていく音、忘れられていく音がある、ということを考えさせる。