Archive for category テーマ

Date: 5月 23rd, 2025
Cate: audio wednesday

30年ぶりの「THE DIALOGUE」(その23)

ステレオサウンド 60号に「プロが明かす音づくりの秘訣」の一回目が載っている。
一回目は菅野先生である。
低音について、こう語られている。
     *
菅野 だいたいぼくは、よく締まっているのがいい低音と言われるけれども、必ずしもそうは思わないんです。やはり低音はふくよかなものであるべきだと思うんです。締まっているというのは、結局ブーミーな、混濁する、ピッチのはっきりわからないような低音が多いから、それに対するアンチテーゼとして、締まった低音=いい低音というふうに受けとられているんじゃないかと思うけれども、本来、低音は締まっていたのではいけないんで、やっぱりファットじゃないといけない。ファットでいて明快な低音がほんとうにいい低音じゃないかと思います。
 それはピアノなんかでもそうですね。銅巻線の部分というのは、とにかく膨らんだ、太い音がしなきゃいけない。締まっているというのは言い方をかえれば少しやせているわけですから、たしかに明快です。けれどもほんとうの低音の表情が出てこないと思うんです。
 ほんとうの低音の表情というのは、太くて、丸くて、ファットなものだと思う。それでいて混濁しない。言葉で言えばそういうことなんですけれども、それだけでは言い切れないような、低音の表情に対するぼくの要求があるわけです。
     *
60号は1981年9月発売の号である。

フランコ・セルブリンのKtêmaから鳴ってきたベースの音は、実にこんな感じだった。

こんなことを書くと、Ktêmaで鳴らせば、必ずそういう低音が聴けると思い込む人が絶対にいる。

うまく鳴らせば、というよりもきちんと鳴らせば、聴ける。
だけど勘違いしないでほしい。

きちんと鳴っていないKtêmaで聴いて、これが菅野先生が語られていた低音だ、と思わないでほしい。

Date: 5月 23rd, 2025
Cate: VUメーター

VUメーターのこと(その30)

この項でも以前取り上げているマッキントッシュのMC2300。
管球式のMC3500のトランジスター版、ステレオ版にあたる、このモデルは、
MC3500と同じくメーターとハンドルを持つ。
そしてMC3500とこれまた同じで、シルバーのフロントパネルを持つ。

MC3500もMC2300も同時代のマッキントッシュの他のアンプから見れば、異色な存在でもあった。

MC2300は以前書いているように、MC2500になり、
そのMC2500はブラック仕上げに変更され、MC2600となっていった。

MC2300、MC2500、MC2600、どれもメーターとハンドルを持つ。
しかもメーター、ハンドルの大きさ、仕様は同じのはず。
なのに、この三機種が与える印象、
少なくとも私が受ける印象は小さいとは言えない違いがある。

三機種の中でデザイン的に優れているのはどれか──、ではなく迫力あると感じるのは、MC2300だ。
だからカッコいいと感じているのかといえば、ちょっと違う。

ほぼ左右シンメトリーにメーター、ツマミを配置しているMC2600が、
整っていると感じるが、そのせいだろうが迫力は感じない。
カッコいいとも思えない。

この三機種で、どれがカッコいいと感じるのかといえば、迫力あるMC2300である。

Date: 5月 23rd, 2025
Cate: スピーカーの述懐

スピーカーの述懐(その62)

14年前に、別項「続・ちいさな結論(その1)で書いている。

オーディオは、音楽を聴くための道具、であるとともに、
音楽を聴く「意識」でもある。

スピーカー選びだけでなく、
そのスピーカーをどう鳴らしていくのか、
「意識」を抜きにすることはできないはずだ。

そして「らしく」「らしさ」は、「意識」の顕れだ。

Date: 5月 22nd, 2025
Cate: VUメーター

VUメーターのこと(その29)

こうやって書いていて気づくことが、もう一つある。
SAEのMark 2500もそうなのだが、ある時代のパワーアンプはラックハンドルが付いていた。

Mark 2500は、ラックハンドルとメーター、どちらもついている。

メーターにしてもラックハンドルにしても、音質のことを最優先に考えるならば、ない方がいい。
特にメーターはない方がいい。

ラックハンドルは、その材質、大きさ、重さによって音への影響は変ってくる。

がっしりした金属製のハンドルを外して音を聴いてみると、よくわかる。
ペナペナな、安っぽいハンドルも、外してみると、違う音の変化をする。

重く硬いハンドルも場合、うまい味つけになっていることあって、
外した音は、最初は物足りなさを感じることもある。

メーターもハンドルも、どんなに技術が進んでも、音への影響をゼロにはできない。

それでもだ、カッコいいアンプがあるのも事実。

Date: 5月 21st, 2025
Cate: スピーカーの述懐

スピーカーの述懐(その61)

ヤマハのスピーカーシステムの型番は、NSから始まる。
ナチュラルサウンド(Natural Sound)から来ている。

このナチュラルサウンドを、どう解釈するのか。
人工的な要素、人為的なものをまったく感じさせないのが、ナチュラルサウンドなのだろうか。

ナチュラルサウンドの一つの解釈ではあるが、これが全てではない。
ナチュラルは自然。
この自然をどうするのかで、ナチュラルサウンドは拡がりを持ってくる。

その58)で書いていることも、ナチュラルサウンド
ナチュラルサウンドについて、である。

そのスピーカーらしく、そのブランドらしくなるのもナチュラルサウンドと考えてほしい。

同時に鳴らす人らしい音もまたナチュラルサウンドと言えよう。

Date: 5月 20th, 2025
Cate: High Resolution

TIDALという書店(その39)

Qobuzが日本でサービスを開始して半年以上が経っている。
Qobuzがはじまったのだから、そろそろTIDALも、と思っていたけれど、一向に始まる気配がない。

そうこうしているうちに、今度はTIDALの経営があまり芳しくない、といった話も聞こえてくる。
本当なのかどうかはわからないが、そうかもしれない……、思わないわけではない。

昨晩、ふと思い立って、先ごろ、ストリーミングが解禁になったことがニュースとして取り上げられていたKinki Kidsをroonで検索してみた。

日本でサービスを開始しているQobuzにはなく、
まだのTIDALには、けっこうな枚数のアルバムが聴ける。

これは、いったいどういうことなのか。
そろそろ日本でもサービスが開始されるのか。
それとも始まらないから、Kinki Kidsが聴けるのか。

Date: 5月 20th, 2025
Cate: audio wednesday

30年ぶりの「THE DIALOGUE」(その22)

“THE DIALOGUE”がうまく鳴っている音を聴いていると、
あれこれいろんなことを思ったり、考えたりするのは、
私にとっての“THE DIALOGUE”も、青春の一枚だからだ。

十代のころ、よく聴いたディスクが全て青春の一枚なわけではない。
よく聴いたけれど、青春の一枚と言えないディスクと、
青春の一枚と言い切ってしまえるディスクとの違いは、どこにあるのか、と自分でもよくわかっていない。

それでもひとつ言えるのは、
瀬川先生が、熊本のオーディオ店でJBLの4343で鳴らされた音を聴いているからだ。
もし聴いていなかったら、青春の一枚にはならなかったかもしれない。

Date: 5月 19th, 2025
Cate: JBL, デザイン

JBL フラッグシップモデルの不在(その3)

ミュンヘンでのオーディオショウで発表になったJBLの新シリーズ。
オーディオ関係のウェブサイトが伝えているので、詳細は省くが、
これがJBLのフラッグシップモデルなのか……、と思った人は多いだろう。

来年はJBL創立80周年だから、本当の意味でのフラッグシップモデルは、その時なのかもしれない。

さすがJBL、と言いたくなるモデルが登場するかもしれないし、そうでないかもしれない。
期待はしているけれど、裏切られることも承知している。

今回発表になった新シリーズのスピーカーシステム三機種の写真を見て、菅野先生が書かれてことを思い出していた。
     *
 このわずかのつき合いの間に、私は、このスピーカーを欲しくなっている私自身を発見した。ただ、せっかくの仕上げの高さにもかかわらず、あの〝グランセプター〟のエンブレムはいただけない。前面だけならまだしも、サランをはずした時にはホーンの開口部にまで〝ONKYO〟と貼ってある。このユニークな傑作は誰が見てもオンキョーの製品であることを見誤るはずがない。本当はリアパネルだけで十分だ。エンクロージュアやホーンと看板とをごちゃまぜにしたようなものだ。
 私がこのシステムを買わないとしたら、このセンスの悪いブランドの誇示と、内容からして決して高いとは思わないが、とにかくペアで200万円という大金を用意しなければならないという理由ぐらいしか見つからない。
(ステレオサウンド 72号掲載「興味ある製品を徹底的に掘り下げる」より)
     *
JBLの新シリーズは、ホーン開口部の下側に、新シリーズを誇示するマークが目につく。
品がない、と思った。

これを、いまのJBLの人たちはカッコいいと判断したのだろうか。
だとしたら、80周年記念モデルも音、内容はともかくとして、
デザインに関しては、というよりもセンスが少しばかり不安でもある。

Date: 5月 18th, 2025
Cate: 映画

サブスタンス

映画「サブスタンス」を観てきた。
私は好きな映画なのだけど、苦手、耐えられないという人も少なからずいるだろう、という映画である。

この映画の中で、母体、分身というセルフが出てくる。
母体と分身のバランスが重要だ、というセルフも出てくる。
この母体と分身のバランスを崩してしまって──なのだが、
観ながら思っていたのは、オーディオのことだった。

「音は人なり」も何度も何度も書いてきているし、言ってもいる。
鳴らす人が母体で、音は分身といえる。
その上で、母体と分身のバランスが重要になるのか。
そんなことをなんとなく考えながら観ていた。

オーディオにおいてバランスは、確かに大事であるが、
ここでのバランスは、母体と分身のバランスのことではない。

それでも母体と分身のバランスもまた、オーディオでは大事なバランスのはず。

映画を観ていない人には伝わりにくいのはわかっているが、
なぜバランスが崩れていったのか、その結果の悍ましさ、
オーディオマニアとして観ていて、この時代に観ていると、
おもうことが少なからず出てくる。

Date: 5月 17th, 2025
Cate: アナログディスク再生

Westrex 10Aのこと(その6)

昔から高音質を謳ったアナログディスクは、いろんなレーベルから発売されていた。
もちろんいまも発売されているわけで、半速カッティングを誇らしげに謳っているところもある。

この半速カッティングだが、私は昔から懐疑的である。
それはアナログをエネルギー伝達、デジタルを信号伝達と捉えているからだ。

もちろんアナログディスクを信号伝達メディアとして捉える考えもあっていいし、
その考えに立てば、半速カッティングは有効な手段となるわけだが、
エネルギー伝達メディアとしてアナログディスクを考えているのであれば、
半速カッティングには、どうしても疑問符がついてまわる。

1980年代、山中先生も半速カッティングには否定的だった。
それだけでなく、倍速カッティングの音を聴いてみたい、とも言われていた。

何をバカなことを──、と思う人もいるし、私のように山道する人もいる。
私も倍速カッティングが可能ならば、その音はぜひとも聴いてみたい。

くり返すが、アナログディスクをエネルギー伝達メディアとして捉えているからの倍速カッティングである。

Date: 5月 16th, 2025
Cate: アナログディスク再生

Westrex 10Aのこと(その5)

昔から言われているのは、
カートリッジにおいてハイコンプライアンスの方が、
レコードからピックアップする情報量が多い、ということだ。

あるカートリッジの改良版が出た。
以前のモデルよりもハイコンプライアンスになっている。
そういう場合、たいていの評価に、以前のモデルよりも情報量が増えた、とあったりする。

いまもそうだと言える。
ハイコンプライアンスになると情報量が増え、それは良いこととしての評価だし、
そう受け止められてもいる。

でも、本当にハイコンプライアンスになるのは、いいことなのだろうか。
この疑問は、昔から持っている。

十年ほど前にも書いているように、
デジタルは信号伝達、
アナログはエネルギー伝達と考えている。

これは私の考え方、受け止め方であって、
アナログディスクを信号伝達メディアとして再生すること、
そういうアプローチの人がいることに、何か言いたいわけではないし、
そういう考えに立つならば、カートリッジはハイコンプライアンスなのも理解できる。

理解はしても、アナログディスクをエネルギー伝達メディアとして受け止めている私は、
ハイコンプライアンスのカートリッジよりも、
ローコンプライアンスのカートリッジに惹かれる。

ウェストレックスの10Aを聴くと、まさにアナログディスクはエネルギー伝達メディアだと、強く思い込める。

Date: 5月 15th, 2025
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

試聴と視聴と……(その4)

昨晩、菅野先生の「ボーズ訪問記」からの引用のために、
ステレオサウンド 82号をひさしぶりに開いた。

引用が終り、パラパラページをめくっていた。
黒田先生の「ぼくのディスク日記」がある。

スイスのレーベル、イェックリンについて書かれている。 そこにも(しちょう)が出てくる。
ここでは、嗜聴である。

「ぼくのディスク日記」は私が担当していた。
だから、当時、こういう嗜聴もあるな、と思っていたことを思い出した。

Date: 5月 14th, 2025
Cate: スピーカーとのつきあい

BOSE 901というスピーカーのこと(その7)

ステレオサウンド 82号に、菅野先生の「ボーズ訪問記」が載っている。
この項の(その3)で、
《いわばシグナル・トランスデューサーの概念に対してアコースティック・トランスデューサーの概念で作られたものなのだ。》

スイングジャーナル 1977年7月号のSJ選定新製品で、
菅野先生が901 Series IIIについて書かれたことを引用している。

アコースティック・トランスデューサーを、どう考えるか。
ここにつながることが、「ボーズ訪問記」にある。
     *
 私は良い音にとって三つの要素が重要だと考えています。まずバランス。各周波数帯のエネルギーバランスが重要です。次にコンサートホールの空間的アスペクト。各方向からどれだけのエネルギーがやってくるかということですね。コンサートホールではほぼ全方向から音が飛んできますから。それに時間差です。たとえばオーケストラを聴いているとすると、いろんな方向に反射して200ミリから500ミリ秒の遅れが出ます。今いるこの小さな部屋なら20〜50ミリ秒ぐらいでしょう。これらをスペクトラム(Spectrum)、スペーシャル(Spacial)及びテンポラル(Temporal)と呼んでいます。こういったことはホールの重要な要素ですが家庭では実感できません。規模が小さすぎるからです。けれども我々はどれだけナマの音楽に近づけるかということはできます。たとえばスピーカーのバランスや指向性をよくすることはできますが、時間差を与えることはできません。この三要素を家庭でどこまで再現できるかが、ナマの音にどれだけ近づけるかということです。周波数のエネルギーバランス、音のリスナーに届く方向という二点はかなり現代の技術です可能なことですが、テンポラル、つまり時間差の面ではいかんとも難しい問題があります。ディジタルを使った遅延装置等が開発されていますが、これとて所詮スピーカーを通した部屋の特性に限定されてしまうのです。物理的に不可能な点がここにあります。したがってもしここに絶対のナマの音というものがあれば、我々は限りなく、自その点に近づいてもそこには到達出来ないという事です。
 もし絶対のナマの音がと言いましたが、これも確たるものとは限定できない。人間の感性は動きますからね。
     *
ボーズ博士の発言だ。
ステレオサウンド 82号は、1987年春に出ている。
この時は、まだ編集部にいたけれど、この記事への反応は薄かったように思っていた。
どれだけの読者が、この「ボーズ訪問記」を熱心に読んでくれたかは、なんとも言えない。

だから、引用したところを読んでなんらかの関心を持ったならば、ぜひ全文を読んでほしい。

Date: 5月 13th, 2025
Cate: audio wednesday

30年ぶりの「THE DIALOGUE」(その21)

フランコ・セルブリンのKtêmaで、“THE DIALOGUE”の見事な鳴り方を聴いて、
そのパワーリニアリティの優秀さに驚き、感心するとともに、
ホーン型スピーカーのローレベルにおけるリアリティということも考えていた。

リアリティであって、ローレベルにおけるリニアリティではない。
ホーン型スピーカーならばなんでもいいというわけではなく、
優れたコンプレッションドライバーによるホーン型スピーカーということになるが、
ホーン型ならではのローレベルでのリアリティは、
現代のダイレクトラジエーター型のスピーカーからは、まだまだ得られないではないのか。

そしてもうひとつ思うことがある。
ここで書いているローレベルのリアリティとは、
スピーカーによる演出に近いのではないか、ということであり、
このローレベルのリアリティは、ホーン型スピーカーのそれとは違う、もうひとつがある、ということ。

伝統的なBBCモニタースピーカーにも、ホーン型とは違うローレベルのリアリティがある。

そこに私は惹かれているように、今回Ktêmaでの“THE DIALOGUE”を聴いての気づきだ。

Date: 5月 13th, 2025
Cate: VUメーター

VUメーターのこと(その28)

この項を書いていると、カッコいいアンプについて考えようになってきている。

音がいいアンプとか優秀なアンプとか、完璧なアンプ、りそのアンプ、
そういったことではなく、
パッと見て、カッコいいと思えるアンプのことである。

だからといって、出てくる音がとんでもなくひどかったら、
カッコいいとは思わないわけで、音も大事なのだけど、
それよりもカッコいいかどうか、それにはメーターの存在が、
けっこう大きく関係しているように感じている。

SAEのMark 2500。
ここ数年、毎日、その顔(フロントパネル)を見ていると、
Mark 2500は、私にとってカッコいいアンプの、かなり上位に来るな、と思う。

SAEにはMark 2400というモデルもあった。
ほとんどMark 2500と同じ顔つきといえる。
違いは、メーターの感度切替用のプッシュスイッチがないだけなのだが、
たったこれだけでも印象はずいぶん違ってくる。

Mark 2500はカッコいいと思うのに、Mark 2400をそう思ったことは一度もない。

写真を見る度に、残念だな、わずかな違いなのに、全体の印象はこれほど変るのか──、
そんなことを思ってしまう。

ということはカッコいいアンプとメーターは、あまり関係がないんではないか、
そういうことになるわけだが、それでもカッコいいアンプとメーターは、そう単純なことではないとも思う。