Archive for category テーマ

Date: 1月 26th, 2021
Cate:

賞とショウ

春のヘッドフォン祭の中止が発表になった。
オンラインでの開催のみである。

OTOTENがどうするのか、春ごろには発表になるであろう。
OTOTENも中止になっても驚く人はいないであろう。

いまの状況からすれば、今年もオーディオショウの多くは中止になってもおかしくない。
コロナ禍でオーディオショウは、こういう状況である。

けれどオーディオ賞のほうは、昨年の暮も、
恒例行事のように、各オーディオ雑誌で行われた。

ショウと賞。
違うものであっても、どちらも惰性で行われていると感じてしまうところがある。

オーディオショウは、昨年に続き今年も中止が続けば、
再開するにあたっては、これまでの惰性から脱却し始めるかもしれない。
そんなことを期待している。

けれど賞のほうは──、書くまでもないだろう。

Date: 1月 25th, 2021
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これまで(技術の植民地)

昔もいまもそうなのだが、多くのオーディオマニアは、
日本製のスピーカーよりも海外製スピーカーをありがたがる傾向がある。

こんなことを書いている私自身もそうである。
そうであっても、トータルの音ではなく、
これまで日本のオーディオメーカーがスピーカー開発にかけてきた技術力は、
そうとうなものだった、と思っている。

スピーカーユニットの振動板の素材開発にしてもそうだし、
ユニットの構造もさまざまなものが登場してきた。

測定技術においてもそうだった。

いま海外メーカーが、技術的メリットを謳っていることの多くは、
ずっと以前に日本のメーカーが実現していたことだった。

なのに、そんなことをすっぽり忘れてしまっているオーディオマニアがいる。
若い世代のオーディオマニアならば、
そういった日本のスピーカー技術をよく知らないだろうからしかたないが、
私と同世代、上の世代においても、忘れてしまっているのか、
もともと興味がなくて調べることすらしなかったのか、
どちらにしても、その人が好きな海外メーカーのブランド名をあげて、
ここはすごい、といっている。

その技術は、ダイヤトーンがとっくに実現していましたよ、と返しても、
知らない、という。自分の知らないことは事実ではないような顔をする人もいた。

そんな人がえらそうことを若い世代に対して語ったりするのか。
そんなことも思うのだが、そんな人のことは実はどうでもいい。

欧米のオーディオメーカー、特にヨーロッパのメーカーがうまい、と感じるのは、
そんなふうに日本のオーディオメーカーが開発した技術を、
こなれたころになってうまく利用しているところにある。

1970年代から1990年代にかけての日本のオーディオメーカーは、
その意味では海外のオーディオメーカーにとっての技術の植民地といえるのではないか。

Date: 1月 23rd, 2021
Cate: ショウ雑感

2021年ショウ雑感(その7)

(その5)で、
才能ある人が、オーディオ評論家(職能家)を目指して、
この世界に入ってくることがなくなってくる、と思うと書いた。

書きながら、思っていたことがある。
いまのオーディオ業界は、才能ある人を欲しがっていないのではないか、と。

新しい才能、優れた才能の人が現れないか、とか、欲しい、などと口ではいう。
けれど本心は、そうなのだろうか。

オーディオ評論家(職能家)のいない、いまの時代はどんぐりの背比べである。

みんなどんぐりだから、外から見ている人のなかには、
どんぐりだということに気づかないのかもしれない。

そこにオーディオ評論家(職能家)を目指せる、期待できる人が入ってきたとしよう。
その人は、はっきりとどんぐりではない。

どんぐりの集団に、どんぐりではない人(栗)が入ってくれば、
それまでの人たちがどんぐりであったことが、多くの人にばれてしまうことになる。

そうなって困るのは、どんぐりの人たちだ。
いまさらどんぐりから栗へと変ることは無理だろうから。

いまはオーディオショウだけでなく、オーディオ店のイベント、
さらにオーディオ雑誌の読者訪問記事も、コロナ禍でない状態だ。

これは機会の喪失でもある。

Date: 1月 22nd, 2021
Cate: ショウ雑感

2021年ショウ雑感(その6)

今年のオーディオショウがどうなるのかはなんともいえない。
仮にことも昨年に続き、ほぼすべてのオーディオショウが中止になった、としよう。

オーディオ漫談にふれる機会が、ほぼなくなることでもある。
オーディオショウのブースで、オーディオ評論家と呼ばれている人たちが、
一時間ほど話をしたり音楽をかけたりする。

一般的にはこれを講演と呼ぶのだが、とうてい講演とはいえないレベルばかり、と感じている。
プレゼンテーションにもなっていない。
なんと呼んだらいいのか、不明な人たちの時間がある。

そんななかで、柳沢功力氏と傅 信幸氏の時間は、オーディオ漫談といえる。
揶揄する意図はまったくなく、
柳沢功力氏と傅 信幸氏は、なかなかのオーディオ漫談家である。

私は長岡鉄男氏もオーディオ漫談家だった、と思っている。

オーディオ評論は瀬川先生から始まった、瀬川先生が始めた、といえる。
オーディオ漫談に関しては、長岡鉄男氏から始まった、長岡鉄男氏が始めた、といえる。

長岡鉄男氏は、このことに自覚的だったのではないだろうか。
そんな気がしてならない。

オーディオ評論家と呼ばれている人は、いまではけっこういる。
それぞれのオーディオ雑誌にそれぞれの人たちがいて、ウェブマガジンに書いている人も数えれば、
どれだけいるのか。もうどうでもいいことのように感じている。

オーディオ評論家(職能家)ではなく、
オーディオ評論家と呼ばれている人たちの数は、私にはどうでもいい。

とにかく何人いるのかわからない。
そのなかで、柳沢功力氏と傅 信幸氏はオーディオ漫談家であり、
オーディオショウにオーディオ漫談家は必要な存在だと思っている。

Date: 1月 21st, 2021
Cate: サイズ, 冗長性

サイズ考(その72)

ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’79」の巻頭、
瀬川先生の「’78コンポーネント界の動向をふりかえって」のなかに、こうある。
     *
 35ミリカメラの一眼レフの流れをみても、最初はサブ機的なイメージでとらえられていたものが、数年のあいだに技術を競い合っていまや主流として、プロ用としても十分に信頼に応えている。オーディオもまた、こうした道を追って、小型が主流になるのだろうか? 必ずしもそうとは言いきれないと思う。
 たしかに、ICやLSIの技術によって、電子回路はおそろしく小型化できる。パーツ自体もこれに歩調を合わせて小型化の方向をとっている。けれど、オーディオをアナログ信号として扱うかぎり、針の先でも描けないようなミクロの回路を通すことは、やはり音質の向上にはならないだろう。プリント基板にエッチングされた回路では電流容量が不足して音質を劣化する、とされ、エッチング層を厚くするくふうをしたり、基板の上に銅線を手でハンダづけする手間をかけて、音質の向上をはかっている現状では、アンプの小型化は、やはり限度があるだろう。オーディオがディジタル信号として扱われる時代がくれば、手のひらに乗るアンプも不可能ではなくなるだろうが……。
     *
この時代、国産アンプは、プリント基板の箔の厚みを増したことを謳ったモノが登場していた。
銅箔の厚みが増せば、電気抵抗もわずかとはいえ低くなる。
それによる音への変化ももちろんあるが、
プリント基板の振動(共振)という点でも違っていたであろう。

銅箔の薄いプリント基板と厚いプリント基板。
指で弾いてみると音は違っていたはずだ。

この数年後に、
ラジオ技術で富田嘉和氏が、2SK30一本(一段増幅)のラインアンプを発表された。
オーディオクラフトから製品化されているPL1000である。

発表後、部品についての記述があった。
抵抗を通常のW数よりもずっと大きなモノにすることによる音の変化の大きさを記されていた。
数十Wといった、かなり大型の抵抗まで試されていた、と記憶している。

通常の抵抗は1/2Wか1/4Wである。
抵抗のW数によって抵抗の精度はかわりない、といえる。

何が変るのか、といえば、富田嘉和氏によれば温度係数ということだった。

Date: 1月 21st, 2021
Cate: 「うつ・」

うつ・し、うつ・す(その14)

オーディオでの選択は、いわば昂進といえるところがある。
そればかりではないこともわかっていても、そういいたくなる。

オーディオ機器の選択にしても、そうだ。
そうやって構築されたシステムは、自身のなにかを映し出している。

昂進と無縁で、オーディオをやってきた人はいないように思っている。

Date: 1月 20th, 2021
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(ふたつの絵から考える・その10)

マリア・カラスの歌う「清らかな女神よ」が、
マリア・カラスの自画像という結論をもってしまった私にとって、
スピーカーを選ぶということは、
そして、選んだスピーカーをどう鳴らすかということは、
このことに深く関ってくる。

少なくともマリア・カラスによる「清らかな女神よ」が、
マリア・カラスの自画像とはまったくンか辞させないスピーカーを選ぶことは、
この先絶対にない、といえる。

そのスピーカーがどれだけこまかな音を再現しようと、
優れた物理特性を誇っていようと、
オーディオ雑誌においてオーディオ評論家全員が絶賛していようと、
ソーシャルメディアにおいてオーディオマニアが最高のスピーカーと騒いでいようと、
欲しい、とは思わない。

結局、スピーカー選びとは、それまでどういう音楽をどう聴いてきたかである。
マリア・カラスは、私だって聴いてきた──、という人であっても、
私と同じ聴き方、同じような聴き方をしてきたのかどうか。

マリア・カラスの歌う「清らかな女神よ」が、
マリア・カラスの自画像という聴き方をするほうが少数派なのかもしれない。

多くの人はそんな聴き方はしないのかもしれない。

ハイ・フィデリティとは、音楽に誠実であることだ。
ならば選ぶべきモノはおのずとさだまってくる。

そして、さだまる、ということはさだめへとつながっているようにもおもう。

Date: 1月 20th, 2021
Cate: ディスク/ブック

ヒトの耳 機械の耳

東京電機大学出版局から1月30日に、
ヒトの耳 機械の耳」が出版される。

まだ発売前なので、こんな感じだった、ということは書けない。
けれど、リンク先の内容紹介、目次を眺めていると、かなり興味深い。

安い本ではないし、
買って最後まで読んだからといって、すべてを理解できるわけではないだろうが、
買っておくべき本ように感じている。

Date: 1月 19th, 2021
Cate: ディスク/ブック

ふくろうの叫び

パトリシア・ハイスミスの「ふくろうの叫び」を読んだのは、
三十年前のことだ。
ちょうど文庫として登場したばかりで、そのころ無職に近い状態だったこともあって、
一気に読んでしまった。

読み終ったのは日付がとっくに変っていた。
最後のところで、思わず声を出してしまった。
それほどのめり込んで読んでいた。

それからはパトリシア・ハイスミスの新刊が出れば必ず買って読んでいた。
最初に読んだ作品が「ふくろうの叫び」ということもあるだろうが、
傑作だと、いまも思っている。

「ふくろうの叫び」だけでなく、他のハイスミスの作品もまとめて貸した。
返ってきた。けれど、また別の人に貸した。今度は戻ってこなかった。

いま古本でしか入手できない。

急にパトリシア・ハイスミス、「ふくろうの叫び」を思い出したのは、
今年がハイスミス生誕100年であるからだ。

1921年1月19日が、ハイスミスの誕生日。
五味先生も、今年生誕100年。

Date: 1月 19th, 2021
Cate: ヘッドフォン

ヘッドフォン考(その9)

イエクリン・フロートのヘッドフォン、Model 1について、
瀬川先生がステレオサウンド別冊「HiFiヘッドフォンのすべて」で書かれている。
     *
 かける、というより頭に乗せる、という感じで、発音体は耳たぶからわずかだか離れている完全なオープンタイプだ。頭に乗せたところは、まるでヴァイキングの兜のようで、まわりの人たちがゲラゲラ笑い出す。しかしここから聴こえてくる音の良さにはすっかり参ってしまった。ことにクラシック全般に亙って、スピーカーからはおよそ聴くことのできない、コンサートをほうふつさせる音の自然さ、弦や木管の艶めいた倍音の妖しいまでの生々しさ。声帯の湿りを感じさせるような声のなめらかさ。そして、オーケストラのトゥッティで、ついこのあいだ聴いたカラヤン/ベルリン・フィルの演奏をありありと思い浮べさせるプレゼンスの見事なこと……。おもしろいことにこの基本的なバランスと音色は、ベイヤーDT440の延長線上にあるともいえる。ただ、パーカッションを多用するポップス系には、腰の弱さがやや不満。しかし欲しくなる音だ。
     *
瀬川先生はModel 1を、試聴が終るとともに買い求められている。
《頭に乗せたところは、まるでヴァイキングの兜のようで、まわりの人たちがゲラゲラ笑い出す》、
そんな形のヘッドフォンであっても、
工業デザイナーを目指されたことがあるにもかかわらず、Model 1を自分のモノとされている。

トリオのコントロールアンプL07Cのデザインをボロクソに貶された瀬川先生が、である。
頭にのせた姿は鏡を見なければ、自分には見えない。
音を聴いている時も、ヘッドフォンは目に入ってこない。

だからなのだろうか。
カッコいいと思えるヘッドフォンが欲しい、という気持はある。
誰にだってあるだろう。

それでもヘッドフォンで音楽を聴いている時は、
かけ心地は気になることはあっても、ヘッドフォンは目に入ってこないから、
音がイエクリン・フロートのように、ほんとうに美しければ、忘れてしまえる。

けれど、ヘッドフォンをファッション・アイテムのひとつとして捉えている人は、
そうはいかないはずだ。

どんなに音がよくても、イエクリン・フロートのようなヘッドフォンは、
絶対にイヤだ、ということになるはずだ。

誰かにみられることを意識してのヘッドフォン選びと、
音楽を聴く時は一人きりで、誰にも見られることはないのだから、という選び方。
いまはどちらもある。

「HiFiヘッドフォンのすべて」が出たころは、そうではなかった。

Date: 1月 19th, 2021
Cate: 終のスピーカー

無人島に流されることに……(その10・補足)

五味先生が、「オーディオ愛好家の五条件」で、こう書かれている。
     *
 むかしとちがい、今なら、出費さえ厭わねば最高級のパーツを取り揃えるのは容易である。金に糸目をつけず、そうした一流品を取り揃えて応接間に飾りつけ、悦に入っている男を現に私は知っている。だが何と、その豪奢な応接間に鳴っている音の空々しさよ。彼のレコード・コレクションの貧弱さよ。
 枚数だけは千枚ちかく揃えているが、これはという名盤がない。第一、どんな演奏をよしとするかを彼自身は聴き分けることが出来ない。レコード評で「名演」とあればヤミクモに買い揃えているだけである。ハイドンのクワルテット全八十二曲を彼を持っている、交響曲百四曲のうち、当時録音されていた七十余曲を揃えて彼は得意だった。私が〝受難〟をきかせてくれと言うと、「熱情? ベートーヴェンのか? ハイドンにそんな曲があるのか?」と反問する。そういう人である。ハイドンとモーツァルトの関係が第四十九番のこのシンフォニーで解明されるかも知れないなどとは、夢、彼は考えもしないらしい。
     *
ハイドンの交響曲第49番は、La passioneであり、受難である。
なのに、「音痴のためのレコード鑑賞法」では、「情熱」(交響曲四九番)となっている。

「音痴のためのレコード鑑賞法」を入力したのは三十年近く前のことだ。
その時も気になっていた。
五味先生が、間違えるはずはない、と。

今回、引用する際も、やはり気になった。
「情熱」を「受難」と訂正しておこうか、とも考えたが、
引用なので、そのまま「情熱」とした。

ここを読まれている方のなかには、気づかれる人もいると思っていた。
気づいても、何もいわない人もいるし、コメントかメールしてくる人もいるはず。

そう思いながら公開した。
昨晩、ある方からメールがあった。
タイトルには、「ハイドンの交響曲四九番について」とあった。

情熱と受難についての指摘だろう、と思いつつ読んでみると、果たしてそうだった。
その方は、「オーディオ愛好家の五条件」のくだりも記憶されていた。

「オーディオ愛好家の五条件」を読んでいない人でも、
クラシックを聴いている人ならば、「情熱」ではないことに気づく。

気づいた方からのメール、
しかも五味先生の文章をしっかりと読まれている方からのメールは、
もらって嬉しいものである。

「音痴のためのレコード鑑賞法」がおさぬられている「いい音いい音楽」は、
読売新聞社から出ている。

五味先生が受難を情念とされるはずはない、と信じているので、
編集者のミスなのだろう、と私は思っている。

Date: 1月 18th, 2021
Cate: ショウ雑感

2021年ショウ雑感(その5)

そうやってオーディオ評論家になった人は、
オーディオ評論家(職能家)を目指していたのではないはずだ。

その人が目指していたのは、オーディオ評論家(商売屋)のはずだ。
だから、その人が誰なのか知っているし、
その出版社がどこなのかは知っているが、固有名詞をここで明かしたりはしない。

けれど、ここでこのことを書いているのは、
その出版社は、その人に続く人に対しても同じ手段をとるかもしれないからだ。

そんなことがまかりとおる業界になってしまうと、
才能ある人が、オーディオ評論家(職能家)を目指して、
この世界に入ってくることがなくなってくる、と思うからだ。

以前別項で書いてるように、これからは専業のオーディオ評論家、
それもオーディオ評論家(職能家)が必要だ。
実力勝負の世界のはずなのに、実際は違っている。

これをいまのうちに是正しておかないことには、
どんどんオーディオの世界は悪くなっていくようにおもえてくる。

自分が生きているうちだけ稼げればいい──、
そんなふうに思っている輩ばかりになってしまっては、困る。

Date: 1月 18th, 2021
Cate: ショウ雑感

2021年ショウ雑感(その4)

オーディオ雑誌の編集者が会社を辞めて、オーディオ評論家となる。
これまでにもけっこうあったことだろう。

会社を辞めた編集者は、オーディオメーカー、輸入元など、
オーディオ関係のところに挨拶に行くであろう。

昔は、それが当り前だった。

時代は変ってきた、と感じたのは、
ある編集者が退職してオーディオ評論家になったときの話を聞いたからだ。

その編集者がやめたとき、その会社のトップが、
オーディオ関係各所に、
○○が独立してオーディオ評論家になるから、よろしく頼む──、
そういった内容の文書を送り付けていた。

話を聞いただけでなく、その文書も見せてもらったことがある。
間接的な圧力といえる。

こんな内容のものが届いたら、
その人に対しての態度は決まってしまう。

その人を悪し様に扱ったら、
その人がいた会社のオーディオ雑誌での扱いがどうなるか……、
そんなふうに捉える人がいてもおかしくない。

後ろ盾、それも強力な後ろ盾を武器にオーディオ評論家になる。
時代が時代だから、仕方ない、と考えることもできなくはない。
オーディオが吸いたいしている時代に、オーディオ評論家になる、という人がいたら、
会社でバックアップしましょう、ということなのだろう。

それに未確認なのだが、最初のうちは、
その出版社がある程度の収入を保証する、ということでもあったらしい。

俄には信じ難いが、あり得るのかもしれない。
けれど、そんなことをやろうものなら、必ず、どこからはその件は漏れてしまう。
漏れたことは、誰かの耳に入り、拡がっていく。

しかもソーシャルメディアがこれほど普及した時代では、悪手でしかない。

Date: 1月 17th, 2021
Cate: ショウ雑感

2021年ショウ雑感(その3)

オーディオショウでは、出展社のブースで、
オーディオ評論家が一時間ほど担当することが、当り前になっている。

ここ数年、オーディオ評論家に頼らずに、自社のスタッフだけで行っている会社も増えてきたが、
それでもオーディオ評論家を使うところは、まだ多い。

オーディオ評論家にとっても、オーディオショウは稼ぎ時である。
あちこちのブースから呼ばれているオーディオ評論家は、
いちおうは売れっ子ということなのだろう。
客が呼べるオーディオ評論家ということなのだろう。

そういう人は、一日いくつものブース(出展社)をまわる。
それたけ実入りが増える。

オーディオショウが昨年のようにほとんど行われないということは、
その分、収入が減る、ということである。

オーディオショウだけがなくなったわけではない。
オーディオ店に呼ばれることも、そうとうに減っているはずだ。

人が集まるところに呼ばれなくなる、
そういう機会がもとからなくなってしまっている。

昨年、オーディオマニアの友人と、
「オーディオ評論家も大変な一年だったね」という話をした。

今年もそうなりそうな気配が濃い。

オーディオ評論家は、いわば自由業と呼ばれる職種だ。
こういう状況がこれからも続いたり、
数年後に再び起ったりするのであれば、
オーディオ評論家を目指す人は、どれだけ現れるだろうか。

オーディオ雑誌の編集者から、オーディオ評論家に転身する人も、
予定を変更したり、あきらめたりしているのかもしれない。

Date: 1月 17th, 2021
Cate: 終のスピーカー

無人島に流されることに……(その10)

五味先生が、「音痴のためのレコード鑑賞法」で、こんなことを書かれている。
     *
 ハイドン(一七三二—一八〇九)もバッハにおとらず沢山の作品がある。ことに交響曲と弦楽四重奏曲はモーツァルト、ベートーヴェンなどに多くの教化を与えたもので、秀作も多い。だが、初心者には交響曲を聴くことをすすめる。一般には「軍隊」や「時計」「驚愕」「玩具」など標題つきのものが知られているが、もし私が、百五曲のハイドンの交響曲で何をえらぶかと問われれば、躊躇なく「情熱」(交響曲四九番)と第九五番のシンフォニー(ハ短調)を挙げるだろう。この二曲には、ハイドンの長所がすべて出ているからで、初心者にも分りやすい。
「ハイドンは朝きく音楽だ」
 と言った人があるほど、出勤前などの、爽快な朝の気分にまことにふさわしい音楽である。そしてあえて言えば、ハイドンは男性の聴く音楽である。
     *
無人島に流されることになったら、ハイドンに関しては、
私は交響曲も弦楽四重奏もいらない。
グレン・グールドのハイドンがあればいい。

「ハイドンは朝きく音楽だ」はそのとおりだ、と思う。
けれど、ここでの「朝」は毎日訪れる朝だけでなく、
別の意味の「朝」もあるように、入院している時に感じていた。

退院間近になって、治り始めていることを実感できるようになったときに、
グレン・グールドのハイドンを口ずさんでいた、ということが、そうなのだろう。