2025年をふりかえって(その3)
2008年9月から書き始めた、このブログ。
書き続けているから出会える人がいる。
今年も何人の方と出会えた。
つい先日(11月10日)も会っていた。
六年ほど前からメールをくださっている方なのだが、なかなか会う機会がなかった。
audio wednesdayに機会をつくって行きたいです、と連絡があったのに、
audio wednesdayが終りになってしまった。
そうやって会える人もいれば、疎遠になっていく人もいる。
それでいい、と思っている。
2008年9月から書き始めた、このブログ。
書き続けているから出会える人がいる。
今年も何人の方と出会えた。
つい先日(11月10日)も会っていた。
六年ほど前からメールをくださっている方なのだが、なかなか会う機会がなかった。
audio wednesdayに機会をつくって行きたいです、と連絡があったのに、
audio wednesdayが終りになってしまった。
そうやって会える人もいれば、疎遠になっていく人もいる。
それでいい、と思っている。
Die Meistersinger von Nürnberg(ニュルンベルクのマイスタージンガー)を初めて聴いたのは、
ワーグナーの前奏曲集だった。いきなり全曲盤を聴いたわけではなかった。
何人かの指揮者で、前奏曲を聴いてからの全曲盤は、EMI録音のカラヤン/ドレスデン・シュターツカペレによる演奏だった。
全曲盤を聴いて、とにかく驚いたのは前奏曲が、前奏曲集で聴いた終り方でなく、
続けて第一幕の冒頭のコラールへと続いていること、そしてそれがたまらなく美しかったことに、驚いた。
だから、その後、いくつかの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を聴いているけど、
ここのところ、前奏曲から第一幕へと繋いでいく美しさが、どうなのか。
初めての全曲盤のカラヤン/ドレスデン・シュターツカペレの美しさが基準となってしまったから、どうしても比較してしまう。
このこともあって、できればステレオ録音で聴きたい。
「ニュルンベルクのマイスタージンガー」全曲盤も全てを聴いているわけではない。
聴いていない録音もある。ショルティ盤は旧録音も新録音も聴いていない。
先日、ショルティ盤を初めて聴いた。旧・新録音、どちらも聴いた。
旧録音(ウィーン・フィルハーモニー)に惹かれた。
ホームシアターに熱心に取り組まれている方のところに行くことが、たまにある。
100インチぐらいのスクリーンを近距離で観るホームシアター。
ニアフィールドホームシアターの世界は、そういうところで体験すると、いいなぁと思う。
家庭で映画を観る、
家庭で音楽ものを観る。
私の場合、クラシックでそれもオペラを観たいと思うわけだが、
その場合、ホームシアター用のスピーカーは、どうなるのか。
予算も時間もたっぷりと余裕があれば二部屋用意して、
一部屋は映画用、もう一部屋は音楽(オペラ)用とすることを夢想するけれど、
そんなことをも実現できたとしても、観たいものによって、二つのホームシアター部屋を行ったり来たりするだろうか。
最初のうちは面白がって、そんなことを楽しむだろうが途中からは、どちらかがメインになっていきそうな気がする。
これは実際にホームシアターに取り組んでいない私の妄想でしかないのだが、
ホームシアターって、いいなと思いながらも、積極的に取り組もうという気にならないのは、どうしてなのか。
今年のインターナショナルオーディオショウは初日の午後だけだったので、回れなかったブースの方が多い。
別項「インターナショナルオーディオショウの音」で取り上げたエソテリックのブースには行けなかった。
それからフランコ・セルブリンのKtêmaの項で触れているアーク・ジョイアのブースも行けなかった。
この二つのブースの今年の音は、どうだったのだろうか。
インターナショナルオーディオショウは三日間の開催なのだが、じっくりそれぞれのブースの音を聴いていこうとすると、
開催期間があと二日長ければ、と思う。
インターナショナルオーディオショウなんて、半日で回れるとか、
それ以上長くいる価値はない、とか、そんなことを言う人は昔からいる。
おそらく今年もいただろう。
そんな人たちは、オーディオショウを楽しもうと思わないのか。
こんなことを書くと、どこもまともな音で鳴っていないし、
あんなに人がいる環境で聴いても音の評価はできない、という声が返ってくる。
一方では、音はほんの十秒ほど聴けばわかるから、長居する必要はない、と言う人もいる。
オーディオ評論家の話なんて面白くない、せっかく海外からメーカーの人が来ているのだから、
その人たちの話を聞きたい──、
そういう声があるのは知っている。
ひどい音で鳴っているブースはある。それでも、なんらかの音の片鱗は聴きとれるものだ。
行くだけ無意味無価値と言う人は、自らが無意味無価値にしているだけでしかない。
インターナショナルオーディオショウで聴けたdCSのVarèse
の音は、いろんなことを考えさせるし、
これまで読んできた文章もいくつかが頭に浮かんでくる。
瀬川先生はステレオサウンド 45号のスピーカー特集で、タンノイのArdenについて書かれている。
*
たとえばKEFの105のあとでこれを鳴らすと、全域での音の自然さで105に一歩譲る反面、中低域の腰の強い、音像のしっかりした表現は、タンノイの音を「実」とすればKEFは「虚」とでも口走りたくなるような味の濃さで満足させる。いわゆる誇張のない自然さでなく、作られた自然さ、とでもいうべきなのだろうが、その完成度の高さゆえに音に説得力が生じる。
*
Varèseの音は、おそらく誰が聴いても誇張のない自然と感じるだろう。作られた自然さと感じる人は、いるだろうか。
この瀬川先生のArdenの試聴記を読んで、作られた自然さなんて、そもそもおかしいだろう、と思う人はいると断言してもいい。
でも、私は高校生だった時、すんなり受け入れて読んでいた。
そして、Varèseの音を聴いた後思うのは、美しいのはどちらか、なのか。
そんなの誇張のない自然さに決まっている──。本当にそうだろうか。
Varèseは、完璧に、はっきりと近づきつつある。でも、その音は美しいのか。
完璧に近づいているという意味で、綺麗な音とは思う。それでも、美しい音なのか、という疑問は残る。
インターナショナルオーディオショウという環境で、たった一曲だけしか聴いていないので、ここまでしか書けないが、同時に五味先生の文章も思い出していた。
*
今おもえば、タンノイのほんとうの音を聴き出すまでに私は十年余をついやしている。タンノイの音というのがわるいなら《一つのスピーカーの出す音の美しさ》と言い代えてもよい。
*
美しい音と綺麗な音。
五味先生は、《タンノイのほんとうの音を聴き出すまで》と書かれている。
このことは別項で書いていく。
アマチュア無線をやりたくて、あの頃読んでいた初歩のラジオには、日置のテスターの広告が毎号載っていた。
単なる製品紹介の広告ではなく、ちょっとしたエピソードのような広告だったと記憶している。
毎号楽しく読んでいたし、テスターは必需品だとも思っていたから、
テスターを買うならば、日置のテスターと思っていたのはオーディオに興味を持つようになる少し前だった。
中学生のころだったから、他のテスターのメーカーも知らなかった。日置のテスターならば間違いないはずと思っていた。
実際、私が最初に買ったのは、日置のテスターだった。一番いいテスターは買えなかったけれど、
初歩のラジオの広告を見ていて、これを使いたい、と思ったテスターを、なんとか買ったものだ。
一万円はしなかったけれど、それほど安いモノではなかった。
もちろんデジタルテスターではなく、針が触れるアナログ式テスターである。
サイズも小さくはなかった。
この日置のテスターで、計れるものは計ってみた。抵抗の値だとか、アンプのアース電位とかもだ。
あの頃はテスターはテスターという認識だったけれど、テスターも測定器である。
いま、どうなのだろうか。テスターを持っていないオーディオマニアも、けっこういるのかもしれない。
と、ここまで書いて、日置って、今もあるのだろうか、と検索してみたら、私が想像していた以上に大きな会社だった。
創業1935年と、ウェブサイトにあった。
こういう会社が、あの当時、初歩のラジオに、ああいう広告を出してくれていたのか、とちょっと感謝している。
人工知能は、いい音いい音楽を聴いて感動できるのか。
これから先、どんどん進歩し進化していけば、いい音の聴き分けも可能になっていくことだろう。
それこそスマートフォンで音を捉えて、音の良否だけではなく、
どういうところがダメなのか、それを解消するにはどういう手があるのか。
そういったことまで提案してくる日が、いつの日かあるだろう。
そこまでのレベルに到った時、人工知能は、人と同じようにいい音いい音楽に感動できるのか。
どんなに進歩進化しても無理という考えが一般的かもしれない。
けれど、本当にそうなのか──、とも思う。
フルトヴェングラーは、
「感動とは人間の中にではなく、人と人の間にあるものだ」を語っている。
感動とは、そこに存在しているわけではない。
確かなものとして、どこかにある存在でもなく、
うまれてくるもののはずだ。
音楽の場合、演奏家と聴き手の間にあるものであり、
人工知能が感動するいい音いい音楽とは、人が感動するのとはまるで違うのかもしれない。
同じ音楽、演奏を同じ場で聴いても、聴いた人皆が感動するわけではない。
私が深く感動した音楽を聴いても、退屈だと感じる人もいるし、その反対のことだってある。
それに同じく感動したと複数の人が言っても、その感動が同じだとは誰にもわからない。
人工知能が感動するいい音いい音楽が、私が聴いても感動するのか、それとも全く違うのか。
どちらであったとしても、そういう音、音楽は聴いてみたい。
一年をふりかえると、今年もけっこうイヤなことがあったと思っても、
今年もいいアルバムが聴けたな、とそのことをおもい返すと、
結局は、今年もいい一年だったな、となる。
audio wednesdayが年に数回単発ならば、再開できる可能性が出てきた。
スペース的には大勢は入らない(そんなに大勢が集まることはない)けれど、音量の制約はない。
詳細は何ひとつ決まっていないけれど、来年になれば不定期ではあるが再開できそう。
器材の制約はあるが、その中でやっていくのも、個人的には楽しく感じている。
2020年は11月8日から、
2021年は11月1日から、
2022年は11月10日から、
2023年は11月1日から、
2024年は11月2日から、それぞれこの項を書き始めている。
今年は今日(11月2日)から。
昨年の(その4)で書いたことを、コピーしておく。
オーディオのプロフェッショナルとは、どういうことなのか。
今年は、そのことについて、いつも以上に考えさせられることが、
いくつか重なった。
結局、オーディオ業界にいて、お金を稼いでいれば、
その人はオーディオのプロフェッショナルということになる──。
もちろん、そういうレベルの低い人ばかりではないことはわかっている。
それでも、オーディオのプロフェッショナルを自称している人の中には、
そういうレベルの人が、決して少なくないことを、
今年は目の当たりにすることが何回かあった。
おそらく、ではなく、きっと来年も、そういう人を目の当たりにするであろう。
以上のことを書いているけど、今年も残念なことに同じだった。
オーディオのプロフェッショナルを自称している人の中には、オーディオの商売屋としてのプロフェッショナルがいる。
仕事なのだから、オーディオで稼いでいっているわけで、全ての人を、オーディオの商売屋と見ているわけではないし、
そんな人は少数だと感じていても、
オーディオの商売屋としてのプロフェッショナルは、目立つ。
そんな人は昔からいたのだろうか。
残念なことに、そんなことを感じさせられた一年であった。
今日は、大阪のホームシアターの専門家のMさんに誘われて、オフ会に参加していた。
主宰のCさんは、フランコ・セルブリンのKtêmaを鳴らした時、Mさんと一緒にaudio wednesdayに来てくださった。
ソナス・ファベールのGuarneriを鳴らされている。久しぶりに聴くGuarneri。
いいスピーカーだなぁ、と思う。
Ktêmaとともに、やはりフランコ・セルブリンのスピーカーだと実感できる。
現在のソナス・ファベールのスピーカーと比較して、どちらがいいなどとは言わないが、
佇まいに自然とあらわれる個性は、Guarneriの方だなと好感が持てる。
フランコ・セルブリンがいた時代のソナス・ファベールとその後のソナス・ファベール。
その変化は起こって当然であり、そのままであったとしたら、そちらの方が問題である。
そう思いながらも、オーディオの核は、やはりスピーカーシステムであり、例えば今年のインターナショナルオーディオショウでの今井商事のブース。
これまでは閑散としていた。人が入ってきても、すぐに出ていく人の方が多かったのに、今年は違っていた。
核となるスピーカーシステムとしてヴァイタヴォックスのCN191があったからだ。
そのスピーカーの存在に共感できる。そういうスピーカーと出逢えた人は幸せのはずだ。
今日、Cさんのところに集まったのは五人。六人で15時ごろから21時くらいまで、あれこれ話していた。
初対面の方が三人。そんなこと関係なく楽しかった。
Guarneriで聴く(観る)ホームシアターも、いいなと思っていた。
オリビア・ニュートン=ジョンの“Warm And Tender”は、三十五年ほど前のアルバム。
ステレオサウンド 94号掲載の黒田先生の「ぼくのディスク日記」でとりあげられていたので、知ってはいた。
いたけれど、聴いていたわけではなかった。
機会があれば──、いつか、聴くこともあるだろう、という気持だったから、
いつのまにか、その存在すら忘れかけようとしていた。
昨晩、「ぼくのディスク日記」を読み返した。
*
〝美しい星と子供たちに〟と副題のついた「ウォーム・アンド・テンダー/オリビア・ニュートン・ジョン」(日本フォノグラム/マーキュリー・PPD9001)は、自然破壊阻止を願ってさまざまな活動をしているオリビア・ニュートン・ジョンが、その思いをこめてつくったディスクである。ここで、オリビア・ニュートン・ジョンは、モーツァルトやブラームスの子守歌、それに「星に願いを」や「虹のかなたに」、あるいは「きらきら星」といったような、まさに「ウォーム・アンド・テンダー」な歌を「ウォーム・アンド・テンダー」にうたっている。オリビア・ニュートン・ジョンも、すでに3歳半のお子さんのお母さんであるが、声はあいかわらず少女のように可愛らしい。
このようなアルバムは、ともすると歌い手の側の思いがなまなかたちで示されがちで、考えには賛成なんだけれど、と逃げ腰にならなくもない。しかし、このオリビア・ニュートン・ジョンの「ウォーム・アンド・テンダー」には、そういう臭みがない。おそらく、オリビア・ニュートン・ジョンの人柄によるのであろうし、自然保護を願うオリビア・ニュートン・ジョンの気持がまっすぐなためであろう。
*
いまの時代、ストリーミングがある。
黒田先生の文章を読んで、聴きたいと思ってすぐに聴ける。
“Warm And Tender”が発売された時、私は29歳だった。その時、聴いていたら、どう感じただろうか、とそんなことも考えていた。
いいアルバムだ。
昨晩、お知らせしたように狛江でのaudio wednesdayは、10月を持って終了となった。
昨日、そう決めたわけだが、結果として10月のaudio wednesdayが終夜となって良かった、と思っている。
カラヤンとベルリンフィルハーモニーによるワーグナーの「パルジファル」を全曲鳴らすことができたからだ。
終りにふさわしい会となったなぁ、とひとり納得している。
11月に、ヴァイタヴォックスのCN191が鳴らせると楽しみにしていましたが、詳細を書きたくない事情により、前回(10月)で終了となりました。
いい場所が見つかれば、いつの日か再開するつもりでいます。
いまどきのスピーカーの出力音圧レベルがあたりまえになっている人は、
スピーカーの変換効率はどのくらいなのか、わかっているのだろうか。
スピーカーの変換効率は、相当に低い。
93dB/W/mで1%の変換効率でしかない。
いまでは90dB以上のスピーカーは高能率と言われたりするが、93dBといえば、JBLの4343がそうだった。
15インチ口径のウーファー、10インチ口径のミッドバス、ホーン型のミッドハイとトゥイーターという構成で、
フロアー型だった4343は、ブックシェルフ型並の出力音圧レベルと言われたりした。
四十年ほど前は93dB/W/mは高能率ではなかった。
変換効率が1%ということは、アンプからの信号の99%は音に変換されず熱になっている。
その熱が音に影響しないのであれば、こんなことを書いてはいない。
アコースティックエナジーのAE2のエキスパンドされたかのような音を思い出すと、4343でも音の伸びをあるレベルから抑えられていたのだろう。
熱対策を十分に行っているスピーカー、つまりAE2の音の伸びこそ、本来の鳴り方なのかもしれない。