Archive for category 境界線

Date: 9月 1st, 2024
Cate: 境界線, 音楽の理解

どろろのうた

10月のaudio wednesdayのテーマは、現代音楽なのだが、
この現代音楽の定義みたいなものが、わかっているようで、
正直よくわかっていない。

現代音楽とは、で検索すれば、
いろいろ表示されるが、それらを読んだところで、
曖昧に感じているところは曖昧なままである。

1963年生れの私が、最初に聴いた現代音楽はあなんだったのか。
意識してクラシックを聴くようになってからではなく、
何かの機会で耳にした現代音楽は、なんだったのか。

「どろろのうた」かもしれない。
鈴木良武・作詞、冨田勲・作曲、藤田淑子・歌の「どろろのうた」の方である。

モノクロの「どろろ」の主題歌だから、
六歳の時に耳にしている。
冨田勲・作曲なんて知らなかったし、気にもしてなかった。
ただ、変った曲だな、と感じたことだけははっきりしている。

この頃、子供が見ていたてテレビ番組の主題歌とは、
明らかに違っていたことは、六歳であっても感じていた。

「どろろのうた」は、現代音楽といえたのだろうか。

Date: 12月 21st, 2022
Cate: 境界線

感動における境界線(その5)

元気をもらった、という表現がある。
○○のライヴに行って、元気をもらった──、
そんなことを目にすることがわりとある。

○○には、自分の好きな演奏家、歌手の名前をあてはめてもらえばいい。

ここで問いたいのは、○○の音楽ではなく、
元気をもらった、とのところだ。
元気でなくてもいい、勇気をもらったでもいい。

ほんとうに○○の音楽から元気(もしくは勇気)をもらったのだろうか。
元気(勇気)がわいてきた、ではないだろうか。

○○の音楽と、聴いた人の裡にあるなにかとが共鳴しての元気(勇気)がわいてきたり、
化学反応のようなものが起り元気(勇気)がうまれてきたのを、
元気(勇気)をもらった、と受け手側が錯覚しているだけではないのだろうか。

時には、聴き手側のそういう発言を耳にして、
音楽の送り手側の人間もそんなふうに勘違いしたりはしないだろうか。

フルトヴェングラーは、
「感動とは人間の中にではなく、人と人の間にあるものだ」を語っている。

感動とは、そこに存在しているわけではない。
確かなものとして、どこかにある存在でもなく、
うまれてくるもののはずだ。

その意味で、元気(勇気)も同じではないのか。
ここを曖昧にしたままでも音楽は聴ける。
元気になれる、それでいいじゃないか、といわれればそれまでなのだが、
ここを曖昧にしたままではなんなとく釈然としないものが、こちら側に残ってしまう。

Date: 8月 15th, 2021
Cate: 境界線

感動における境界線(その4)

(その1)と(その2)で、
フルトヴェングラーのことば、
「感動とは人間の中にではなく、人と人の間にあるものだ」を引用した。

五味先生が「ビデオ・テープの《カルメン》」が書かれていることが、
このフルトヴェングラーが語っていることと結びつく。
     *
そもそもレコードで音楽を聴くというのは——少なくともクラシックのそれは——単に精神の慰藉であるよりも、精神そのものの集中と凝視によって、美を、忍耐づよく、純粋に感受せんための一種の訓練行為であり、そういう凝視と集中の訓練のうちにおのずと、深い喜びが湧き、美を味わえる、そういう行為だと私は思っている。旋律はスピーカーから鳴っているが、その旋律に美と音楽を付与するのは、あくまで聴く側の創造によることである。極言すれば、作曲はスピーカーがしているがそれを真の音楽とするかどうかは、あくまで聴く者の感受性に関わっている。だからこそスピーカーから鳴ってくるバッハを、一人は難解と退屈に、一人は深い喜びで聴く。同一人の場合でも、十代で感動する曲が三十代ではもう退屈になっている。
     *
フルトヴェングラーがいうところの「人と人」とは、
コンサートホールにおける演奏家と聴き手を指しているはずだ。

われわれはオーディオというシステムを介して音楽を聴く。
その場合の「人と人」とは、五味先生が語られていることのはずだ。

感動とは、そこに存在しているわけではない。
確かなものとして、どこかにある存在でもなく、
うまれてくるもののはずだ。

フルトヴェングラーは「人と人の間にあるもの」という。
「間」は、この場合、あいだと読む。

けれど「間」は、あわいとも読む。

感動とは、あわいものなのだろう。

Date: 9月 12th, 2020
Cate: 境界線

感動における境界線(その3)

ずっと以前は、クラシックのコンサートとロック・ポップスのコンサートの違いは、
PAを使うのか使わないのか,ぐらいだったのではないだろうか。

それがいつのころからか、
ロック・ポップスの、非常に人気のある人、グループのコンサートは、
エンターテイメントの追求からなのか、
大型のテーマパークのような印象を受ける。

そういう人たちのライヴをおさめたものが、Netflixで公開されているのをみていると、
私がずっと以前に数回程度行ったことのあるロック・ポップスのコンサートとは、
もうべつもののようである。

こういう、ハリウッドの超大作的規模のコンサートは、
当然数万人という観客を集めなけれはならないだろうし、
コロナ禍以降、どう変化していくのかなんともいえないが、
こういうテーマパーク的、ハリウッドの超大作的コンサートを画面越しに眺めていると、
すごいな、と思う一方で、最後までみるのがしんどく感じることもあったりする。

コンサート会場にいれば、また感じ方は違ってくるのか。
同じ画面越しであっても、本格的なホームシアターでみるのであれば、
最後まですんなりみて楽しめるのか。

そんなことを考えるよりも、そこで感動を受けた、という人はいるはずであって、
でも、そこでの感動は、もしかすると装飾された感動ではないのか、と思ってしまう。

Date: 8月 15th, 2020
Cate: 境界線

境界線(その15)

別項で書いていることを、ひさびさに試そうと考えている。

池田圭氏の「盤塵集」にあったことの追試である。
     *
このところ、アンプの方ではCR結合回路の全盛時代である。結合トランスとかリアクター・チョークなどは、振り返っても見られなくなった。けれども、測定上の周波数特性とかひずみ率などの問題よりも音の味を大切にする者にとっては、Lの魅力は絶大である。
 たとえば、テレコ・アンプのライン出力がCR結合アウトの場合、そこへ試みにLをパラってみると、よく判る。ただ、それだけのことで音は落着き、プロ用のテレコの悠揚迫らざる音になる。
     *
メリディアンの218の出力に、ライントランスの一次側巻線を並列に接続する。
トランスの一般的な使い方ではない。

トランスの二次側巻線から出力を取り出すわけではない。
あくまでも一側側巻線が218の出力に並列になるだけのことだ。

ここで考えているのは、トランスの設置場所である。
これまで、この項で書いてきているように、
例えばメリディアンの218をアンプに接続する場合、
私はアンプまでのラインケーブルを含めて、218の領域と考える。

その場合、トランスは218の出力に近い位置にもってくるべきか、
それとも後続のアンプの入力に近い位置もってくるべきか。

どちらにしても、アンプまでのラインケーブルを218の領域と考えているのだから、
トランスの位置は、218領域内ということになる。

それでも、1.5mほどのラインケーブルのどちら側に持っていったらいいのか。
結果は両方試して音を聴いて判断するしかないのだが、
それでも音を出すためには、最初どちら側に決めて配線する必要がある。

最終的に音で判断するのだから、そんなことで悩まずにまずは音を出せばいいじゃないか──。
たしかにそのとおりである。

それでも性格的に、理屈的にはどちら側なのかを考えてから試してみたい。

Date: 12月 15th, 2019
Cate: 境界線

感動における境界線(その2)

コンサート会場に行き、そこで音楽を聴くのであれば、
それもクラシックのコンサートであれば、
演奏者と聴き手のあいだに、誰かが介在するということはない。

フルトヴェングラーの「感動とは人間の中にではなく、人と人の間にあるものだ」、
音楽においては、この「人と人」とは演奏者と聴き手ということになる。

けれど同じコンサートでも、PAを使っているとなると、話は微妙に違ってこよう。
演奏者と聴き手のあいだには、何人かの人たちが介在することになる。

そこにはマイクロフォンがありミキシングコンソールがあるのだから、
それをコントロールするミキサーの存在があり、
スピーカーからの音を聴き手は聴くわけだから、
ミキサーという人がまず介在する。

となると「人と人」とは、この場合、どう変化するのか。
演奏者と聴き手のあいだに、うっすらとミキサーがいる。
演奏者とミキサーは、いわば送り手側、聴き手は受け手側なのははっきりしている。

それでもミキサーは、聴き手でもある。
聴き手という送り側でもある。

こう捉えると、レコード(録音物)で音楽を聴く場合と似ている、
というか、同じだということに気づく。

Date: 10月 17th, 2019
Cate: 境界線

境界線(その14)

その13)で、ネットワークの設置位置を、
スピーカー側からアンプ側へと移動したことによる境界線の変化、
つまりどこまでがパワーアンプの領域で、
どこからがスピーカーシステムの領域なのかについて触れた。

(その13)は、2018年5月に書いている。
この時までは、喫茶茶会記のスピーカーのネットワークはコイズミ無線製だった。
つまり一般的な並列型ネットワークを使っていた上での、
設置位置の違いで、境界線(アンプ、スピーカー、それぞれの領域)についてだった。

その後、喫茶茶会記のネットワークは、私が作った直列型に変った。
設置位置は、コイズミ無線製と同じで、アンプのすぐ側である。

ならば境界線に変化はない、と考えられなくもない。
けれど直列型ネットワークは、その名称が示すように、
帯域ごとのスピーカーユニットを直列に接続する。

つまりウーファーとトゥイーターが直列に接続されたかっこうになる。
こうなると境界線は、並列型ネットワークからさらに曖昧になってくる。

(その13)では、
ネットワークを含めて、ネットワークからユニットまでのケーブルまでが、
パワーアンプの領域と考える、とした。

並列型ネットワークであれば、いまもその点に関しては同じである。
けれど直列型ネットワークとなると、どうなるのか。

同じようにユニットまでのケーブルまでがアンプの領域としよう。
すると、トゥイーターとウーファーを直列接続する一本のワイヤーをどう捉えるか。

Date: 6月 1st, 2019
Cate: 境界線

感動における境界線(その1)

「MQAのこと、MQA-CDのこと(その3)」に、
facebookでコメントがあった。

そこには、人が録音したものに感動するのに、何になのか……、とあった。

感動する、なのか、
感動できる、なのか。

ここも、どちらなのか、はっきりといえないところがある。

感動する曲もあればそうでもない曲もある。
感動する曲であっても、いつ聴いても感動するとは限らないし、
常に同じ感動があるとも限らない。

感動の正体がわからずに、感動している。
そして、それをなんとか言葉で表現しようとする。

フルトヴェングラーは、
「感動とは人間の中にではなく、人と人の間にあるものだ」と語っている。

おそらく、これは真理なのだろう。
とすれば、人と人。
片方の人は、聴き手である私である。

これは、もうはっきりしすぎている。
では、もう片方の人は、いったい誰なのか。

演奏者を誰もが思い浮べる。
けれど、録音物を介して音楽を聴く聴き手にとっては、
演奏者だけが、もう片方の人ではない。

ここで、音楽の送り手側と受け手側という考え方をしていけば、
感動がある人と人のあいだは、
音楽の送り手側と受け手側のあいだ、ということになる。

こう考えると、複雑になっていく。
送り手側には、いったいどれだけの人が関っているのか。
受け手側にしてもそうだ。

単に受け手とは、聴き手の私一人だけではない。
送り手側と受け手側のあいだのどこに境界線を引くのかによって、
受け手側は、再生するオーディオ機器を含めてのことになってくる。

Date: 5月 2nd, 2018
Cate: 境界線

境界線(その13)

毎月第一水曜日に四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記で、
audio wednesdayをやっている。

昨年、スピーカーのネットワークを改造した。
喫茶茶会記で使われているネットワークは、
コイズミ無線の製品で、800Hzのクロスオーバー周波数という仕様。

改造前まではスピーカーエンクロージュアのすぐ後に置かれていた。
改造後は、アンプ(マッキントッシュのMA7900)の真後ろに置いている。

配置場所の変更理由は、改造によって、アースの共通インピーダンスを極力排除したためで、
ネットワークからアンプへのアース線の数が通常の配線よりも増えている。

この部分を長くしてしまうと、
まずスピーカーケーブルの引き回しがそうとうにめんどうになる。
しかもスピーカーケーブルにかかる費用も増えてしまう。
それに複数になったアース線は、無意味に長くしたくない。

これらの理由で、スピーカー側からアンプ側に移動したわけだが、
そうなってくる、これまで書いてきた、それぞれの領域という面ではどうなるのか。

スピーカー側にネットワークがある場合は、
スピーカーの入力端子まで、つまりスピーカーケーブルを含めてが、
パワーアンプの領域だと定義した。

だが、ネットワークがアンプの真後ろにあって、アースの共通インピーダンスをなくすようにすれば、
どう捉えるのか。
これまで通り、スピーカーまでと考えれば、
アンプの真後ろにあるネットワークへの配線(10数cmほど)までが、
パワーアンプの領域であって、ネットワークの基板以降、
つまりネットワークからスピーカーユニットまでのケーブル(数mになる)は、
スピーカー側の領域となるのか、といえば、
ここではネットワークを含めて、ネットワークからユニットまでのケーブルまでが、
パワーアンプの領域と考える。

Date: 6月 19th, 2016
Cate: 境界線, 録音

録音評(その4)

銀座に行くこと(そこで買物をすること)と輸入盤を買うことは、
当時の私にはしっかり結びついていることだった。

銀座は東京にしかないし、
当時、私が住んでいた田舎では輸入盤のLPはほとんどなかった、といえるからだ。

LP(アナログディスク)を買うならば輸入盤。
これは東京に出てくる前から、そう決めていた。
クラシックならば、絶対に輸入盤。
輸入盤が廃盤になっていて、それがどうしても聴きたいディスクであるときは、
しかたなく日本盤を買っていたけれど、
そうやって買ったものでも、輸入盤をみかけたら買いなおしていた。

これは刷り込みのようなものだった。
五味先生の文章、瀬川先生の文章によって、
クラシック(他の音楽もそうだけれど)は、特に輸入盤と決めていた。

それは音がいいから、だった。
もっといえば、音の品位が輸入盤にはあって、日本盤にはなかったり、低かったりするからだ。

輸入盤と日本盤の音の違いは、もっとある。
それに場合によっては、輸入盤よりもいい日本盤があることも知っているけれど、
総じていえば、輸入盤の方がいい。

その輸入盤の音の良さは、いわゆる録音がいい、というのとはすこし違う。
録音そのものは輸入盤も日本盤も、基本は同じだ。
もちろん日本に来るカッティングマスターは、
マスターテープのコピーであり、そのコピーがぞんざいであったり、
丁寧にコピーされていたとしても、まったく劣化がないわけではない。

それに送られてきたテープの再生環境、カッティング環境がまったく同じというわけでもない。
海外にカッティングしメタルマザーを輸入してプレスのみ日本で行ったとしても、
レコードの材質のわずかな違いやプレスのノウハウなどによっても、音は違ってくる。

そうであっても大元の録音は、輸入盤も日本盤も同一であり、
そこから先のプロセスに違いがあっての、音の違いである。

Date: 6月 17th, 2016
Cate: 境界線

境界線(その12)

コントロールアンプとパッシヴ型フェーダーとを、
同じに捉える、同じに位置づける人もいようが、
境界線について考えれば考えるほど、
コントロールアンプとパッシヴ型フェーダーをそうは考えられない。

その10)で、コントロールアンプの領域について書いた。
私が考えるコントロールアンプの領域は、
コントロールアンプに接続されるケーブルすべてを含めて、である。

同時にフェーダーに関しては、減衰量をもつ(自由に可変できる)ケーブルとして考えられるわけだから、
ケーブル+フェーダー+ケーブルという、ひと括りの存在として考えられる。

そう考えた場合、CDプレーヤーとパワーアンプ間にフェーダーがあるとすれば、
CDプレーヤーとパワーアンプ間のケーブル+フェーダー+ケーブルは、
CDプレーヤーに属するものであり、それはCDプレーヤーの領域と考える。

ここでコントロールアンプがオーディオの系にある場合とそうでない場合の境界線が違ってくる。
話を簡単にするためにプログラムソースとしてCDプレーヤーのみを想定する。

コントロールアンプがあれば、つまりオーディオの系における中心として捉えれば、
境界線はCDプレーヤーとコントロールアンプ間、コントロールアンプとパワーアンプ間、
パワーアンプとスピーカー間との三つにあると考える。

これがパッシヴ型フェーダーとなると、CDプレーヤーとパワーアンプ間、
パワーアンプとスピーカー間の二つになってしまう。

それだけでなく(その10)を読んでいただきたいのだが、
パッシヴ型フェーダーでは、
フェーダーを含めてパワーアンプに接続されるケーブルまでがCDプレーヤーの領域である。

コントロールアンプの場合は、CDプレーヤーとコントロールアンプ間のケーブルは、
コントロールアンプの領域と考えているわけだから、
境界線の数だけでなく、その位置もコントロールアンプとパッシヴ型フェーダーとでは違ってくる。

Date: 5月 21st, 2015
Cate: 境界線

境界線(余談・続々続々シュアーV15 TypeIIIのこと)

「続コンポーネントステレオのすすめ」で、シュアーのV15シリーズについて書かれている。
     *
 ところでシュアーだ。表看板のV15シリーズは、タイプIVまで改良されて、改良のたびにいろいろと話題を呼ぶ。ひとつ前のタイプIIIは、日本でもかなりの愛好家が持っているし、若いファンのあこがれにもなったベストセラーだ。けれど、私はタイプIIまでのシュアーが好きで、タイプIII以後は敬遠している。まあ参考としては持っているが。
 V15の最初のモデルは、いま聴き直してみても素晴らしい。とくにピアノのタッチの、鍵盤の重量感がわかるような芯の強い輝きのある音。ルービンシュタインのステレオ以後の録音にはことによく合う。そう、カートリッジのルービンシュタインと言いたいほど、V15は好きだ。
 タイプIIになって、もっとサラッとくせのない音になった。ちょうどオルトフォンがSPUからMCに変った印象に似ている。その意味ではタイプIIでない最初の音のほうが、個性的だが魅力もあった。けれどタイプIIは、トレースの安定性とバランスの良い格調高い音質が、当時はズバ抜けた存在で、最も安心して常用できるカートリッジひとつだった。
 タイプII以前のシュアーが、最高の性能と音の品位を追求していたのに対して、タイプIII以後のシュアーの音は、逆に大衆路線に変更された。そこが、私のシュアー離れの大きな原因だ。これは私の想像だが、タイプIIIは、その時点でのコンポーネントステレオ・パーツの、ごく一般的な水準にぴたりとピントを合わせて計画されたにちがいないと思う。実際、たいていのコンポーネントステレオにV15/IIIをとりつけると、とたんに解像力の良い、格段に優れた音を聴かせる。一般評価が高まったのもとうぜんだ。
 だがおもしろいことがわかってくる。タイプIIIは、再生装置のグレイドがある水準を越えて上ってくるにつれて、次第に平凡な音に聴こえてくる。再生装置が極めて品位の高い音質に仕上がってくると、もはやタイプIIIの音の品のなさはどうしようもなくなってくる。
     *
V15 TypeIII以降はTypeVまでじっくり聴いている。
TypeIIと最初のオリジナルモデルは聴いていない。

瀬川先生の、この文章を読むと、最初のV15を無性に聴いてみたくなる。
「カートリッジのルービンシュタイン」、これだけでそう思えてくる。
そして、これだけでV15の音が想像できる。

V15でルービンシュタインのレコードを鳴らしてみたくなる。

この文章を読んでわかるのは、
シュアーのV15の歴史の中にも境界線があったことがわかる。

Date: 7月 26th, 2013
Cate: 境界線, 録音

録音評(その3)

ステレオサウンドがある六本木にWAVEができるまでは、
レコードの購入といえば、銀座だった。
コリドー街にあったハルモニアでよく買っていた。
それから山野楽器にもよく行った。

田舎に住んでいたころ、まわりにあったのは国内盤のLPばかりだった。
輸入盤にお目にかかることはまずなかった。

そんなことがあったからだと自分では思っている、
東京に住むようになり、輸入盤のLPを買うという行為は、
どこか晴れがましい感じがあった。

東京生れ、東京育ちの人の銀座に対する感覚と、
田舎育ちの銀座に対する感覚はずいぶん違うのではなかろうか。

いまの若い人にはそういう違いはないかもしれない。
でも、私のころ(少なくとも私)にはあった。

東京の中でも、銀座は、やはり特別なところだった。
その特別なところにあるレコード店で、それまでの田舎では買えなかった輸入盤を、
それこそお金さえあれば、いくらでも買うことができる。
お金がなくとも、ただ見ているだけ、触れるだけでも、
国内盤のLPのときとは何か違うものを感じていた。

そんな私も、六本木に、大資本によるWAVEができてからは、
銀座にレコードを買いに行くことがめっきり少なくなった。

Date: 1月 24th, 2013
Cate: 境界線, 録音

録音評(その2)

再生音の芸術性は、それ自体きわめてあいまいな性質のもので、何がいったい芸術的かを的確に言いきるのはむつかしい。しかし、たとえばSP時代のティボーやパハマン、カペー弦楽四重奏団の演奏を、きわめて芸術性の高いものと評するのは、昨今の驚異的なエレクトロニクスの進歩の耳に馴れた吾人が、そう間違っていないことを彼らの復刻盤は証してくれるし、レコード芸術にあっては、畢竟、トーンクォリティは演奏にまだ従属するのを教えてくれる。
     *
これは五味先生が、ステレオサウンド 51号掲載の「続オーディオ巡礼」に書かれていることである。
たしかに「トーンクォリティは演奏にまだ従属」している。

従属しているからこそ、クラシックのCDでは、いまだ復刻盤が新譜のように発売され、店頭に並ぶ。
昨年末、ふたつのレコード店のクラシックCDの売上げがウェヴサイトにて公表された。
ひとつはHMV、もうひとつは山野楽器銀座店である。

どちらもクラシックのCDの売上げなのに、そこに並ぶタイトルは重なっていない。
HMVに関しては、ブリュッヘン/18世紀オーケストラにベートーヴェンの新録をのぞけば、
他はすべて復刻盤、
もしくはいまだCD化されていなかった音源(バーンスタイン/イスラエルフィルハーモニーのマーラーの九番)、
山野楽器では日本人演奏家のCDが目立つし、多くが新録音の新譜である。

山野楽器の売上げは銀座店のみであり、
HMVの売上げはオンライン通販のものである。
つまり片方は銀座という街に来る人による売上げであり、
他方は日本全国の人による売上げ、といえよう。

Date: 10月 7th, 2012
Cate: 境界線, 録音

録音評(その1)

「北」という漢字は、右と左の、ふたりの人が背けた状態の、
人をあらわす字が線対称に描かれている──、
ということは川崎先生の講演をきいたことのある方ならば耳にされているはず。

「北」がそうであるように、「化」も人をあらわす字が線対称的に描かれた文字である。
左の「亻」も右の「匕」も、そうである。

「花」という漢字は、艹(くさかんむり)に化ける、と書く。
ならば、「音」に化ける、と書く漢字もあっていいのではないか、と思う。

花が咲く、茎や枝の色とくらべると、花の色は鮮かな色彩をもつ。
音楽も、豊富な色彩をもつ、音が化けることによって。

花と、茎や枝の色は違う。
けれどあくまで花は、枝や茎の延長に咲いている。
ここからここまでが茎(枝)で、ここから先が花、という境界線は、
実はあるようにみえて、はっきりとその境界線を確かめようと目を近づけるほどに、
境界線は曖昧になってくる。

音と音楽の境界線も、あるようでいてはっきりとはしていない。

よくこんなことが、昔からいわれているし、いまもいわれている。
「このディスクは録音はいいけれど演奏がねぇ……」
「このディスクは演奏はいいけれど録音がもうひとつだねぇ……」
そんなことを口にする。
私だって、時にはそんなことをいう。

昔からレコード評には、演奏評と録音評がある。
オーディオ雑誌、レコード雑誌に載る演奏評、録音評は、たいてい別のひとが担当している。
演奏評は音楽評論家、録音評はオーディオ評論家というぐあいにだ。

ただ、これもおかしなはなしであって、
菅野先生はかなり以前から、そのことを指摘されていた。