感動における境界線(その1)
「MQAのこと、MQA-CDのこと(その3)」に、
facebookでコメントがあった。
そこには、人が録音したものに感動するのに、何になのか……、とあった。
感動する、なのか、
感動できる、なのか。
ここも、どちらなのか、はっきりといえないところがある。
感動する曲もあればそうでもない曲もある。
感動する曲であっても、いつ聴いても感動するとは限らないし、
常に同じ感動があるとも限らない。
感動の正体がわからずに、感動している。
そして、それをなんとか言葉で表現しようとする。
フルトヴェングラーは、
「感動とは人間の中にではなく、人と人の間にあるものだ」と語っている。
おそらく、これは真理なのだろう。
とすれば、人と人。
片方の人は、聴き手である私である。
これは、もうはっきりしすぎている。
では、もう片方の人は、いったい誰なのか。
演奏者を誰もが思い浮べる。
けれど、録音物を介して音楽を聴く聴き手にとっては、
演奏者だけが、もう片方の人ではない。
ここで、音楽の送り手側と受け手側という考え方をしていけば、
感動がある人と人のあいだは、
音楽の送り手側と受け手側のあいだ、ということになる。
こう考えると、複雑になっていく。
送り手側には、いったいどれだけの人が関っているのか。
受け手側にしてもそうだ。
単に受け手とは、聴き手の私一人だけではない。
送り手側と受け手側のあいだのどこに境界線を引くのかによって、
受け手側は、再生するオーディオ機器を含めてのことになってくる。