自己表現と仏像(その16)
《自分自身の神性の創造》、
このことを念頭において、手塚治虫の「火の鳥」に「鳳凰」編を読んでほしい。
《自分自身の神性の創造》に必要なのは、
名声なのか、ふたつの腕なのか、恵まれた環境なのか。
《自分自身の神性の創造》、
このことを念頭において、手塚治虫の「火の鳥」に「鳳凰」編を読んでほしい。
《自分自身の神性の創造》に必要なのは、
名声なのか、ふたつの腕なのか、恵まれた環境なのか。
別項でも何度も引用しているグレン・グールドのことばを、
ここでも引用することになる。
*
芸術の目的は、神経を昂奮させるアドレナリンを瞬間的に射出させることではなく、むしろ、少しずつ、一生をかけて、わくわくする驚きと落ち着いた静けさの心的状態を構築していくことである。われわれはたったひとりでも聴くことができる。ラジオや蓄音機の働きを借りて、まったく急速に、美的ナルシシズム(わたしはこの言葉をそのもっとも積極的な意味で使っている)の諸要素を評価するようになってきているし、ひとりひとりが深く思いをめぐらせつつ自分自身の神性を創造するという課題に目覚めてもきている。
*
《自分自身の神性の創造》、
仏像へと、私の裡ではつながっているといえる。
野口晴哉氏は、和室の天井に取り付けたタンノイのMonitor Redを、
どのアンプで鳴らされていたのか。
はっきりとした答は、いまのところないのだが、
10月20日の中秋会で、見つけたものがある。
ラックスのSQ38FDの箱があった。
SQ38FDは、野口晴哉氏のリスニングルームの写真には写っていない。
メインのスピーカーを、SQ38FDで鳴らされていたとは考え難い。
とすれば和室のタンノイ用なのか。
モノーラルのシステムだからといって、
モノーラル録音のディスクばかりかけられていたとは思っていない。
おそらくステレオ録音のディスクもかけられていたはずで、
そのためにはモードセレクターが必要になる。
昔のアンプには、たいていついていた。
SQ38FDにも、もちろんついている。
10月23日の夜からQobuzを使っている。
23日の時点でroonではうまく使えなかったけれど、
翌日には使えるようになっていた。
23日からの四日間ほどはQobuzばかり使っていた。
TIDALで聴けないアルバムがどれだけあるのかを探るためでもあった。
そして今日、TIDALとQobuzで、同じアルバムをいくつか比較試聴してみた。
同スペックでの配信であっても、TIDALとQobuzの音の違いはある。
Qobuzばかりを集中して聴いての音の印象は、
TIDALと比較しても変わらず。
どちらをとるかと言われれば、どちらもとる、と答える。
Qobuzで聴いた方が映えるアルバム(というよりも録音)があるのも事実。
ハイレゾという言葉を聴いて思い浮かべるイメージは、
Qobuzの方ではないだろうか。
MQAの音に関してもなのだが、若い時に聴いていた音が、
LPだったのか、CDだったのか、
それにLPだったとしても、MM型カートリッジがメインだったのか、
MC型カートリッジだったのか。
もっと言えば国産カートリッジだったのか、海外製のカートリッジなのか。
軽針圧なのか、そうでないのか。
ダイレクトドライヴのプレーヤーかベルトドライヴ、もしくはアイドラードライヴだったのか。
そういったもろもろのことの違いが、かなり影響していると感じている。
ながいことオーディオという趣味に熱中してきたのであれば、
特別な存在のスピーカーというものが、一つはあるはずだ。
それは世代によっても、どういうオーディオ機器に出合ってきたのか、
さまざまなことが関係しているから、
特別なスピーカーが、みな同じわけではない。
JBLの4343。
1970年代後半におけるオーディオ界のスーパースターだった。
そこでの憧れがあった。
けれど、それだけでなく、
4343は私にとっての「特別なスピーカー」だ。
なぜ特別なのかについて、
すべて書いていくと、どれだけでも書けてしまう。
なぜ特別なのか、
それは瀬川冬樹というひとりのオーディオ評論家と、
私の中では分かち難く結びついているからだ。
瀬川先生がいたからこそ──、そういえる。
今日、ソーシャルメディアを眺めていたら、
roonをやめてAudirvānaに移行する、という投稿があった。
それはそれでいいのだが、roonにケチをつけての移行を、
あえてソーシャルメディアに書いて何になるのか、と思う。
移行したい人は黙ってすればいいのに、なぜ公の場で一方を腐してまで、をするのか。
私はroon、Audirvāna、両方使えばいいじゃないかと考える方だ。
ストリーミングサービスも、TIDALがいい、とか、
いやQobuzがいい、とか、
なにかと白黒つけたがる人がいる。
日本人に多いのか思っていたけれど、
ソーシャルメディアを眺めていると、どうもそうではなさそう。
これらを使うにあたっての料金が相当に高価であれば、
どちらがいいか、いいと判断した方だけに絞るのもありだが、
サービス内容からすれば、むしろ安価と感じるのだから、
両方使えばいいのに──と思う。
両方使うのは優柔不断でカッコ悪いことと、こういう人たちは考えるのか。
TIDALになくてQobuzにあったアルバム、
“The Art of the Producer (Early Years 1948-1955)”。
196kHz、24ビットで配信されている、このアルバムは、
ジョン・カルショーがプロデュースした録音が収められている。
このアルバムには、カスリーン・ファリアーのイギリス民謡が収められている。
ファリアーの歌が196kHz、24ビットで聴ける。
さほど期待はしてなかったけれど、
ここで聴くことがかなったファリアーの歌は、
Qobuzにしてよかった、と思えるほどだ。
Qobuzには、MQAはない、と思い込んでいた。
e-onkyoからMQAが消えたのも、Qobuzの運営会社に買収されたからなのだから、
まったく期待していなかった。
ところが、ホフ・アンサンブルの二曲がMQAである。
2Lレーベルだから、他の2Lレーベルのアルバムは? と思って見ると、
やはりMQAである。
他のレーベルでは、見つけられていないけれど、
わずかとはいえ、QobuzでもMQAが聴けるのは、嬉しい。
ようやく昨日(10月23日)から、Qobuzのサービスが始まった。
さっそく使っている。
これでTIDAL、Apple Music、Qobuz、
三つのストリーミングを利用していることになる。
重複している曲(アルバム)は多い。
それでもTIDALで聴けなかったアルバムが、Qobuzにあった。
ものすごい数、あるわけではない。
わずかといっていいけれど、それでも聴きたいアルバムがあれば、
どれもしばらく使うことになる。
一年くらい経てば、どれかを使わなくなるかもしれないが、
いまのところ、三つとも使うのは、
audio wednesdayをやっていることも関係している。
時々リクエストを受け付けるのだけども、
TIDALだけだと、応えられないことがままある。
三つあれば、もうちょっとリクエストに応えられるはず。
Facebookを眺めていると、いろんな広告の他に、
Threadsも表示される。
これも一種の広告で、Threadsを使わせようと、
Threadsにおける誰かの投稿を、一部だけ表示する。
続きを読みたければ、Threadsを使いましょう、というもの。
でも、これまで続きを読みたいと思わせる投稿は、一度も表示されなかった。
なのでThreadsを使うことはなかった。
昨夜もThreadsの投稿が表示された。
いままでの投稿と違って、私にも関係のある投稿だった。
10月20日の中秋会に参加された方の投稿だった。
そうなると投稿の一部だけでなく、すべて読みたい。
Threadsをインストールした。
こんなふうに感じて聴いてくれていたのか、とひとり嬉しくなった。
窒化ガリウムのACアダプターについて、音が悪いと否定的な人もいる。
その人たちが間違っているとは言わないが、
その人たちは、どんな窒化ガリウム(GaN)のACアダプターを、
どう使って、どのくらい使っての、そういう評価なのか、という疑問は残る。
今回、野口晴哉氏のウェスターン・エレクトリックの594A用として選択したのは、
私がroon rock用に使っているモノの出力電圧違いのモノ。
これよりももっといいモノがあるかも知れないが、
だからといってGaNのACアダプターを手当り次第試すわけはいかない。
少なくとも、今回使ったモノは、悪くはないという感触は得ている。
GaNのACアダプターは、594Aに接いだばかりの音は、
悪い評価をしている人たちが指摘するところがある。
そのことは自分で使っているから、最初からわかっていたことで、
しばらく使っていくことで、かなり収まっていくことも体験していた。
今回、594Aの電源として使って、
ノイズ対策を施し、さらにアンカーのポータブル電源と組み合わせることで、
かなりのポテンシャルがあることを、再確認できた。
この組合せによる電源のクォリティがひどいものだったら、
日曜日(10月20日)、多くの人が594Aの音に聴き入ることはなかったはず。
そのことだけは、はっきりといえる。
いつのころからか、オーディオ界のブラック・ジャックになりたい──、
そう思うようになっていた。
オーディオ業界からは嫌われても構わない、
ブラック・ジャックのようになれるのならば──。
昨夜、野口晴哉記念音楽室 中秋会での、
ウェスターン・エレクトリックの594Aの音を聴いていて、少しはそうなれたなぁ、とひとり思っていた。
今日(10月20日)は、野口晴哉音楽室 中秋会。
ウェスターン・エレクトリックの594Aを中心としたシステムで鳴らしている。
594Aの電源は、すでに書いている通り、
窒化ガリウムのスイッチング電源を使っている。
重厚長大の594Aに軽薄短小といえるスイチッング電源の組合せ。
ノイズ対策をいくつか施しての音は、なかなかのものだ。
そして今回は、アンカーのポータブル電源の521も組み合わせている。
Powerhouse 90では容量が足りないため、長時間の使用は無理。
その点、521は余裕がある。
しかも充電しながらの使用も可能。
とはいえ充電用のACアダプターを外すと、音は少なからず変化する。
とにかく今日の音は、アンカーの521あっての音ともいえる。
これを読んで、アンカーの521と窒化ガリウムのスイチッング電源を組み合わせてみようと、
思う人もいるかもしれない。
ノイズ対策を自分できちんとやれる人ならば、試してみてほしい。
映画「ボルテスVレガシー」を観てきた。
日本のロボット・アニメーション「ボルテスV」が、
フィリピンで実写化されることを知ったのは、
四年ほど前、ソーシャルメディアだった。
さっそく友人のAさんに伝えた。
彼は私よりも熱心に見ていたようで、
私以上に完成を楽しみにしていた。
けれどコロナ禍によって撮影できない日々が続き、
その後の情報も一年に一回程度になっていた。
このままポシャってしまうのか……、そんなふうに思ったこともあった。
昨年から本格的に情報が伝わってくるようになった。
映画ではなく連続ドラマであること、
日本での公開は未定ということ、などだ。
10月18日、ようやく公開された。
日本向けに編集された映画であり、
ドラマの一話と二話目にあたる内容とのこと。
一本の映画としての出来は、それほど高いわけではない。
それでもコンピューターグラフィックによる戦闘シーンは、
映画館で、それも東京近郊で一番大きなスクリーンで上映されるところで観ると、
見応えがずっしりとある。
観ながら「シン・仮面ライダー」、「シン・ウルトラマン」と、どう違うのか、
そんなことを考えていた。
「ボルテスVレガシー」も、「シン・仮面ライダー」、「シン・ウルトラマン」も、
作り手側の思い入れが強くあってのものだ。
けれど、その思い入れに微妙なズレがあったように、
「ボルテスVレガシー」を観て思った。
Aさんも観たかっただろうな……、と思った、
Aさんに感想を送ろうとも思ったが、
Aさんはもう観ることができないし、感想を読むこともできない。
励磁型スピーカーは聴いたことはあっても、
自分で鳴らしたことはなかった。
電源の違いによる音の変化を聴いているが、
それも自分でやったわけではない。
励磁型スピーカーの音は、きちんとした電源を用意できれば、
確かに凄い──、けれど電源による音の変化を聴いていると、
ボイルコイルとフィールド用コイルが近いことの弊害は、
意外と大きいのではないだろうか。
励磁型スピーカーの電源は、AC 100Vを整流、平滑して作られるDCなわけで、
AC電源のループの影響は、アンプよりも大きいのかもしれない──、
そういう疑問をずっと持っていた。
とはいえ自分で実験して試す機会はなかった。
励磁型スピーカーをバッテリー駆動した音は聴いたことがない。
その音を聴いていれば、上記の疑問への答のきっかけは掴めただろう。
こんなことを長いこと考えていたから、
今回、アンカーのPowerHouse 90と窒化ガリウムのスイチッング電源を組み合わせてみた。