Archive for category スピーカーとのつきあい

Date: 11月 25th, 2025
Cate: スピーカーとのつきあい

BOSE 901がやって来た(その2)

BOSEの901がやって来て、丸四日。

これまで私が見てきた(聴いてきた)901が置かれていた空間で、私の部屋がいちばん狭い。
そんな空間に置かれた901を見て、家庭用スピーカーとして、なかなかいいモノじゃないかと感じている。

別項でも家庭用スピーカーについて書いているところだが、
家庭用スピーカーの、はっきりした定義のようなものはない。

1970年代のJBLは、家庭用スピーカーとスタジオ用(プロ用)とを、はっきり分けていた。

L200、L300といった家庭用モデルには、4331、4333というスタジオモニターが存在していた。
スピーカーユニットに関しても、家庭用(コンシューマー用)とプロ用とに分かれていた。

とはいえ、そこでなんらかのはっきりとした定義が提示されていたとは言えない。

これらのJBLのモデルと同時期のセレッションのDitton 66は、どう見ても(聴いても)、家庭用スピーカーである。
けれど、Ditton 66の銘板には“Studio Monitor”とある。Ditton 66をスタジオモニターとするのか。
当時のセレッションの人たちに、その理由を訊いてみたい。

こうやって具体例を挙げていくことはできるが、挙げればあげるほど、家庭用スピーカーの定義がはっきりしてくるとは言い難い。

それでも901を数日とはいえ、毎日眺めていると、はっきりと家庭用スピーカーと言いたくなる。

大きさも形もいい。
独自の放射パターンを持つ901は、家庭用スピーカーの理想形を目指した一つの実例と言いたくなってくる。

Date: 11月 22nd, 2025
Cate: スピーカーとのつきあい

BOSE 901というスピーカーのこと(その8)

昨年12月のaudio wednesdayでは、BOSEの901の上にエラックのリボン型トゥイーター、4PI PLUS.2を置いて鳴らした。

901単体で鳴らしても、もちろん興味深いスピーカーなのだけども、
井上先生もステレオサウンドでの組合せでやられているように、ウーファーとトゥイーターを足すというのもありだ。

井上先生は901の四段スタックの上に、
ウーファーはエレクトロボイスの30W、トゥイーターはピラミッドのリボン型T1を足しての、
相当に大掛かりなシステムをやられている。

901のスタックは私もやってみたいのだが、すでに901は製造中止だし、
同等のコンディションの901を揃えるとこまでは、正直やる気はない。

でもウーファーとトゥイーターに関しては、手持ちのモノでできる。

トゥイーターはエラックがあるし、ウーファーはサーロジックがある。

ここまでやるとなると、901の設置場所をメインスピーカーの場所とするしかないし、
それは大変だなぁ、と思いつつも、もうひとつ考えているのは、
ジャーマン・フィジックスのTroubadour 40のウーファーとしての試用を考えている。

これで、いい感じの手応えを得られたら、20cm口径のウーファーで、901的スピーカーを作り──、という手がある。

Date: 11月 21st, 2025
Cate: スピーカーとのつきあい

BOSE 901がやって来た(その1)

昨年12月のaudio wednesdayで鳴らしたBOSEの901を、今日、狛江から引き上げてきた。

二十二回続けたaudio wednesdayのために、いくつかのオーディオ機器をずっと置いていた。
それらを狛江でのaudio wednesdayの終了に伴い、今日、引き上げてきたわけだ。

その中に901がある、といっても私が所有しているのではなく、昨秋、ある方から借りているモノだ。

901は、これまで何度か書いてきたようにステレオサウンドの試聴室で、井上先生が鳴らされる音を聴いている。
それ以外の場所で聴いた(鳴らした)のは、昨年12月のaudio wednesdayだけだ。

私の部屋は広くない。901以外のスピーカーもある。そういう環境で、どう鳴ってくれるのか、楽しみだ。

すんなり鳴ってくれるのか、少し苦労することになるのか。鳴らしてみないことには、なんとも言えない。

またオーディオ機器全体のセッティングを変えようとも考えているから、実際に音を出すまでには、少しばかりかかる。

年末年始にゆっくり聴くことになりそうだ。

Date: 5月 24th, 2025
Cate: スピーカーとのつきあい

複数のスピーカーシステムを鳴らすということ(終のスピーカーとの関係)

複数のスピーカーシステムを鳴らすオーディオマニアは、けっこう多い。
スペースの余裕、経済的な余裕が十分にあるのならば、
オーディオマニアならば、一組のスピーカーシステムだけでいい、という人はわずかではないだろうか。

終のスピーカーを決め鳴らしている私だって、スピーカーを置ける部屋がいくつもあり、
アンプやCDプレーヤーも複数台所有していたら、
あのスピーカーも欲しい(鳴らしてみたい)と思っているモノは、もちろんいくつもある。

それでも思うのは、私が二人いたとして、
一人は終のスピーカーということを考え、そのスピーカーを手に入れ鳴らしている自分と、
終のスピーカーなんてことはまったく考えずに、
欲しいスピーカーを手に入れて鳴らす自分とは、
その鳴らし方、スピーカーとのつきあいは違ってくるであろう。

終のスピーカーということをまったく考えなくても、
その人にはその人なりのメインのスピーカーがあったとしても、
それが終のスピーカーではない以上、違ってきて当然のはずだ。

そして、終のスピーカーがあったとしても、それが必ずしもメインのスピーカーという位置づけになるわけではないことも見えてくる。

Date: 5月 14th, 2025
Cate: スピーカーとのつきあい

BOSE 901というスピーカーのこと(その7)

ステレオサウンド 82号に、菅野先生の「ボーズ訪問記」が載っている。
この項の(その3)で、
《いわばシグナル・トランスデューサーの概念に対してアコースティック・トランスデューサーの概念で作られたものなのだ。》

スイングジャーナル 1977年7月号のSJ選定新製品で、
菅野先生が901 Series IIIについて書かれたことを引用している。

アコースティック・トランスデューサーを、どう考えるか。
ここにつながることが、「ボーズ訪問記」にある。
     *
 私は良い音にとって三つの要素が重要だと考えています。まずバランス。各周波数帯のエネルギーバランスが重要です。次にコンサートホールの空間的アスペクト。各方向からどれだけのエネルギーがやってくるかということですね。コンサートホールではほぼ全方向から音が飛んできますから。それに時間差です。たとえばオーケストラを聴いているとすると、いろんな方向に反射して200ミリから500ミリ秒の遅れが出ます。今いるこの小さな部屋なら20〜50ミリ秒ぐらいでしょう。これらをスペクトラム(Spectrum)、スペーシャル(Spacial)及びテンポラル(Temporal)と呼んでいます。こういったことはホールの重要な要素ですが家庭では実感できません。規模が小さすぎるからです。けれども我々はどれだけナマの音楽に近づけるかということはできます。たとえばスピーカーのバランスや指向性をよくすることはできますが、時間差を与えることはできません。この三要素を家庭でどこまで再現できるかが、ナマの音にどれだけ近づけるかということです。周波数のエネルギーバランス、音のリスナーに届く方向という二点はかなり現代の技術です可能なことですが、テンポラル、つまり時間差の面ではいかんとも難しい問題があります。ディジタルを使った遅延装置等が開発されていますが、これとて所詮スピーカーを通した部屋の特性に限定されてしまうのです。物理的に不可能な点がここにあります。したがってもしここに絶対のナマの音というものがあれば、我々は限りなく、自その点に近づいてもそこには到達出来ないという事です。
 もし絶対のナマの音がと言いましたが、これも確たるものとは限定できない。人間の感性は動きますからね。
     *
ボーズ博士の発言だ。
ステレオサウンド 82号は、1987年春に出ている。
この時は、まだ編集部にいたけれど、この記事への反応は薄かったように思っていた。
どれだけの読者が、この「ボーズ訪問記」を熱心に読んでくれたかは、なんとも言えない。

だから、引用したところを読んでなんらかの関心を持ったならば、ぜひ全文を読んでほしい。

Date: 5月 11th, 2025
Cate: スピーカーとのつきあい

FRANCO SERBLIN Ktêma(その8)

2月のaudio wednesdayからフランコ・セルブリンのKtêmaを鳴らしている。
2月はアナログディスクで、
3月はメリディアンのUltra DACとの組合せでMQA-CD、
4月も3月と同じくUltra DACでMQA-CDに、エラックのリボン型トゥイーター、4PI PLUS.2を足した。
5月は、4月とほぼ同じだが、エラックへの配線を変え、位置も変えている。

それだけでなくKtêmaの位置も変えてみた。
2月から4月の三回は、少しばかり位置を変えていたものの、それは設置している者にしかわからないほどの違い。

今回はいつもよりも左右の間隔を、約1mほど広げてみた。
なので4mほど左右のスピーカーは離れての設置になり、それに伴い、いつもよりも内振りにした。

音を鳴らし始めたのは16時過ぎで、
このまま音を聴きながらアンプやD/Aコンバーターがあたたまるのを待っていた。

18時過ぎたころに、スピーカーの振りを変えてみる。さらに内振りにする。

部屋を縦長で使っていてはとうていできない置き方であり、
前々から、ここまで広げてみたいとは思っていた。

結果は、というと、もう少し詰めていく必要はあるけれど、
これからも基本、この位置を定位置としていく。

Date: 3月 16th, 2025
Cate: スピーカーとのつきあい

FRANCO SERBLIN Ktêma(その7)

スピーカーからの音を聴いているとき、
目の前を人がよぎれば、音は変化して聴こえる。

どんなに音に無頓着な人でも、
目を閉じて聴いていたとしても、
スピーカーと自分との間を誰かか歩いていくわけだから、
音が変化するのは、わかるものだ。

ただスピーカーによって変化量は違ってくる。

Ktêmaは、その変化量が少ない。
音が変化しないわけではないが、極端に変るスピーカーもけっこう数多く存在するなかで、
Ktêmaは変化量の、かなり少ないスピーカーといえる。

エンクロージュアの形からくる効果なのか、独特のユニット配置からくることなのか、
これら二つがうまく作用してのことなのか、
いまのところなんとも言えないし、どういうことをもたらしているのか、
そのこともわからないが、
これからKtêmaを聴く機会がある人は、このことにも関心を払ってほしい。

Date: 2月 9th, 2025
Cate: スピーカーとのつきあい

FRANCO SERBLIN Ktêma(その6)

フランコ・セルブリンのKtêmaは、鳴らすのが難しいスピーカーなのか。
何度も書いているように、インターナショナルオーディオショウでのアーク・ジョイアのブースでは、
一度も感心するような音では鳴っていなかった。

audio wednesdayの常連の方が、
顔馴染の店員がいるオーディオ店で、Ktêmaを聴いたことがある、と話された。

たまたま他の客がいなかったこともあって、じっくり聴くことができたのだが、
鳴ってきた音は、冴えなかったそうだ。

もっといい音で鳴るはず──、と二人でセッティングを変えてみたり、
他にもいろいろ試してみたそうだ。
オーディオ店だから、やろうと思えば、かなりのことができる。

でも、いい音で鳴ることはなかったそうだ。
こういうことがあると、うまく鳴らすのが難しいという評価になっていく。

でも、私はアーク・ジョイアでの音を聴いても、
そうとは思っていなかった。

基本をきちんとおさえていれば、最初からうまいこと鳴ってくれるスピーカーだ、と感じていた。
気難しいスピーカーではないはず、と信じていた。

実際、2月5日のKtêmaは、そうだった。

Date: 2月 6th, 2025
Cate: スピーカーとのつきあい

FRANCO SERBLIN Ktêma(その5)

昨晩のaudio wednesdayで、ようやくフランコ・セルブリンのKtêmaを鳴らせた。
どんな人なのか、全くわからない人が鳴らす音を聴いて、
うん、このスピーカーは……、と断言することは、まず無理だ。

信頼できる人が鳴らした音を聴いての判断、
そして自分の手で鳴らしてみてこそ、そのスピーカーに試されることになる。

試されてこそ、そのスピーカーが自分にとってどういう存在なのかが、
少しずつはっきりしてくるはずだ。

2月と3月、二回鳴らせるわけだから、
今回はアナログディスクで鳴らすことにしたのは、
別項で書いているシルヴィア・シャシュのLPを手に入れたからでもある。

なので一曲目は、シルヴィア・シャシュの「清らかな女神よ」(Casta Diva)をかける。

一曲目はこれになるわけだが、当日は14時半ごろからセッティングにとりかかり、
Ktêmaの開梱、スパイクの取り付け、ベースの上に設置などやっていた。

今回は、ベースにしてもケーブルにしてもどこでも入手できるモノばかり。
高価なモノは、一つも使っていない。

スピーカーケーブルは、オーディオテクニカの平行二芯。1mあたり数百円のモノ。

ベースに設置して結線が終って、まず音出し。
少しでも早く音を聴きたかった(確認したかった)ので、
iPhoneを使って音出し。
しかも細かなスピーカーの位置出しは、まだ。

そんな状態でも、いい感じで、ヘンリック・シェリングのバッハの無伴奏が響いてきた。

Date: 1月 25th, 2025
Cate: スピーカーとのつきあい

FRANCO SERBLIN Ktêma(その4)

フランコ・セルブリンのKtêmaが、いい感じで鳴っているのを、
実をいうと聴いているわけではない。

Ktêmaを聴いたのは、インターナショナルオーディオショウのアーク・ジョイアのブースで、二回ぐらいだ。
はっきり書くが、アーク・ジョイアのブースでは、
どのスピーカーであっても、よく鳴っていると感じたことはない。

いつも冴えない音で鳴っている。
もっと美しい響きを聴かせてくれるであろうに……、と思うばかり。
Ktêmaもそうだ。

もっとよく鳴ってくれる、というよりも、全く鳴っていないに近い。
いつも残念に感じるブースの一つである(ほかのブースでも同じようなところはある)。

にも関わらずKtêmaは、鳴らしてみたいスピーカーである。
鳴ってくれると信じられる何かを感じているからだ。

Date: 1月 15th, 2025
Cate: スピーカーとのつきあい

FRANCO SERBLIN Ktêma(その3)

フランコ・セルブリンは、ソナス・ファベール時代に、
「スピーカーは楽器だ」と語ったことは、よく知られている。

フランコ・セルブリン以前も「スピーカーは楽器だ」という人はいた。

フランコ・セルブリンが最初に言った人ではない。
それでもスピーカー・エンジニアとして、こう語った人は少ない。
フランコ・セルブリン以前にも、スピーカー・エンジニアでそう語っていた人はきっといただろう。

それでもスピーカー・エンジニアとしての世界的な知名度の高さもあって、
フランコ・セルブリンの「スピーカーは楽器だ」は広く知られている。

フランコ・セルブリンはイタリア人だから、イタリア語で語っているわけで、
“I diffusori sono strumenti.”と語ったのかは知らない。

ここで考えたいのは、その真意だ。
フランコ・セルブリンはスピーカーの開発にあたって測定も相当に重視していたことも知られている。

ならばフランコ・セルブリンの「スピーカーは楽器だ」は、
「スピーカーは楽器のように鳴らせ」ではないか。

私はずっとそう思っている。

Date: 1月 14th, 2025
Cate: スピーカーとのつきあい

FRANCO SERBLIN Ktêma(その2)

ソナス・ファベールは、1988年、Electa Amatorで日本に初めて輸入された。

Electa Amatorを初めてみた時は、期待した。
いい音がしそう、である。
多くのオーディオマニアが、Electa Amatorに初めて接した時は、そう思うだろう。

出てきた音は、期待に反した音だった。
悪い音だったから、期待に反したわけではなく、
乾いた音だったからだ。

この「乾いた音」も、決して悪い意味ではない。
いい意味での乾いた音なのだが、私が勝手に期待していたのは、
もう少し潤いのある表情だったからだ。

そんな出合いだったものだから、その後のソナス・ファベールの新作を聴く機会があっても、
心底、いい音だなぁ、と思うことは訪れなかった。

とはいえ、そんなふうに感じていたのは、少数だったのかもしれない。
ソナス・ファベールの評価は高いままだった。

別項で書いているが、私が心底いい音だなぁ、と感じたソナス・ファベールのスピーカーは、
CremonaとCremona auditorだった。

インターナショナルオーディオショウで、ノアのブースで、
VTLのアンプに接がれていたCremonaは、本当にいい音だったし、
私が勝手に求めていた潤いが、その音にはあった。

ソナス・ファベールのスピーカーで良かったのは? と訊かれれば、
Cremonaだ、といまでもそう答える。

例えばStradivari Homage。
立派な音とは私だって思うけれど、
その音はCremonaの延長線上にあるとは感じられなかった。

そんな私は、フランコ・セルブリンのKtêmaを、
まずは真空管アンプで鳴らしたい。

Date: 1月 9th, 2025
Cate: スピーカーとのつきあい

FRANCO SERBLIN Ktêma(その1)

ステレオサウンド 207号の特集に登場する49機種のスピーカーシステム。
いま世の中に、この49機種のスピーカーシステムしか選択肢がない、という場合、
私が選ぶのは、フランコ・セルブリンのKtêmaである。

別項「現代スピーカー考(その37)」で、以前、こう書いている。

いまもその想いは、ほとんど変らない。
ステレオサウンド 207号掲載の49機種のスピーカーから選ぶのであれば、
Ktêmaだし、233号のベストバイから選ぶとしても、
Ktêmaは、やはり鳴らしてみたいスピーカーの筆頭格だ。

それにしても233号のベストバイでは、小野寺弘滋氏の星二つだけである。
Ktêmaが登場して十数年。そんな扱いになるのか──、と思う必要はない。
いまだKtêmaの魅力は、少なくとも私の中ではまったく色褪せていない。

Ktêmaを聴いたのは、インターナショナルオーディオショウのブースだけである。
じっくり聴けたとも、きちんと聴けたともいえないぐらいだけど、
Ktêmaはいいなぁ、と思い続けているからこそ、
昨晩のaudio wednesday終了後の、常連のOさんの
「Ktêmaは貸しましょうか」の申し出は、
私にとって嬉しいを超えたものだった。

2月、3月、Ktêmaを鳴らす。

Date: 12月 26th, 2024
Cate: スピーカーとのつきあい

BOSE 901というスピーカーのこと(その6)

BOSEの901 Series Vが見せてくれた情景は、
私だけのものでしかない。

あの日、一緒に聴いていた人の中で、なんらかの情景が浮かんでいた人は、何人いただろうか。

何人かいたとしよう。
だからといって、私と同じ情景を見ていたわけではないだろう。

確認したわけではないが、きっとそのはずだけ。

グラシェラ・スサーナの「人生よ ありがとう」はスタジオ録音だから、
BOSEの901から鳴ってくる音を聞いていて、
何かがうかんできたとしたら、それは録音光景のはずだ。

いわゆるハイ・フィデリティ再生を目指すのでもれば、
録音の光景が浮かんでこそだろう。

そこには私が思い浮かべていた情景は、わたしだけのものであり、そんなものは要らないということになるはずだ。
余計なものでしかないと言えば、そうであり、それでいい。

Date: 12月 11th, 2024
Cate: スピーカーとのつきあい

BOSE 901というスピーカーのこと(その5)

スピーカーであれアンプであれ、
オーディオマニアが、その音をどこかで聴いて、あれこれその音について語る。

オーディオ店であったり、オーディオショウであったり、
オーディオマニアのリスニングルームであったりする。

そうやって聴けた音は、そのオーディオ機器の本来の音なのか、
どの程度で鳴っていたのか──、
そういったことを無視して、あれこれ、どんなに多くを語ったとしても、
私は、ほぼ無意味と受け止めている。

そうでなければBOSEの901の評価はもっともっと高いはずだ。
けれど実際は、901に関心を持っていた人でも、
今回のaudio wednesdayで、初めて聴けました、となる。

このことに関しては、言いたいことけっこうある。
まずオーディオ店、その店員について、言いたいことはある。
それからオーディオ評論家に対しても、
オーディオ雑誌の編集者に対しても、である。

そのことを書いていったら、キリがないほど書けるけれど、
だからと言って、いまさら書いたところで……、というおもいのほうが強い。

そのことは措くとして、今回の901 Series Vの音は美しかった。
こんなに美しくなるのか、と鳴らしている本人が、
少しばかり驚くほどだった。

別項で触れて青木涼子の「Harakiri」も美しかった。
でも、個人的には、「Harakiri」の後にかけた
グラシェラ・スサーナの「人生よ ありがとう」の美しさに、さらに驚いていた。

聴いていて情景が浮かんでいた。
いままでになかった情景だった。
その情景の美しさに、驚いていたのかもしれない。