Archive for category スピーカーとのつきあい

Date: 10月 29th, 2023
Cate: スピーカーとのつきあい

Acoustic Research LST

別項「終のスピーカー」で書いているように、
私にとってのジャーマン・フィジックスのDDD型ユニットは、まさに終のスピーカーである。

ジャーマン・フィジックスをよりよく鳴らすこと、
もうそれだけともいえる──、
けれど、やはりオーディオマニアとして、鳴らしてみたいスピーカーはいくつかある。

JBLのパラゴンは、どうしても外せない。
ヴァイタヴォックスも、その陰翳濃い音を自分の音としたい。
シーメンスのオイロダインも、フルトヴェングラーを聴くためだけに欲しい。

そんなふうにいくつかのスピーカーのことが頭に浮ぶ。

こういうスピーカーとは少し違う意味で、気になるスピーカーもやはりある。
そのうちの一つが、ARのLSTである。

LSTには、さほど興味がなかった。
LSTを聴く機会はなかった。

けれどマーク・レヴィンソンがCelloを興し、
スピーカーシステムの第一弾として発表したAmati(アマティ)は、
まさにLSTをマーク・レヴィンソンが復刻したといえるモノだった。

Amatiは、オールCelloのシステムで聴いている。
Celloのアンプには、登場ごとに感心し、驚かされたが、
Amatiに関しては、心が動くことは一度もなかった。

Amatiを含めLSTは、私にとっては、そういう存在でしかなかった。
けれど、なぜかここ一年くらい、少し気になってきている。

LSTのユニット配置は、あれでいいとは考えにくい。
なのに、LSTというよりもLST的なスピーカーはおもしろいのではないのか、
そう考えるようになってきている。

高忠実度再生を目指して、というスピーカーとしてではなく、
もっと大らかな気持でスピーカーというからくりをとらえるならば、
LSTはなかなか興味深い存在といえる。

Date: 3月 2nd, 2023
Cate: スピーカーとのつきあい

スペンドールのBCIIIとアルゲリッチ(その21)

その20)は、2017年11月に書いているから、ずいぶんあいだがあいてしまったが、
書きたいことが変ってしまったということはない。

スペンドールのBCIIIは、生真面目なスピーカーである。
このことは何度も書いてきている。

その生真面目なBCIIIから、どうやって中野英男氏のいわれるところの、
「狂気の如く」、「狂気の再現」といえる音が鳴ってくるのか──、といえば、
それはとことん、その生真面目を追求していった先にある。

それは別項「Mark Levinsonというブランドの特異性」で書いていること、
別冊FM fanに瀬川先生が、マーク・レヴィンソンは、このまま、どこまでも音の純度を追求していくと、
狂ってしまうのではないか──、性質的に同じことのように捉えている。

生真面目ゆえの狂気。
生真面目さの行き着いたさきの狂気。
それが中野英男氏が聴かれた「狂気の如く」、「狂気の再現」といえる音なのだろう。

蛇足だとわかっているが、
生真面目なだけでは、どんなにそのことを突き詰めたところで狂気は鳴ってこないだろう。
スピーカーシステムとしての確とした実力があってこそだ。

Date: 6月 26th, 2022
Cate: スピーカーとのつきあい

ホーン今昔物語(その17)

この項の続きを書いていく上で、
もう一度聴いておきたい、自分の手で鳴らしてみたいと思っているスピーカーがある。
JBLのDD55000である。

1985年に登場している。
ステレオサウンドの試聴室で、何度も聴いている。

当時もユニークなコンセプトのスピーカーだと感じていたけれど、
いまこうやってふり返ってみると、
DD55000はそうとうにユニークなスピーカーシステムであるし、
JBLが四年後のS9500に注ぎ込んだのと同じくらいの意欲を、
DD55000にも投入して改良モデルを出してくれていたら──、
そんなこともつい想像したくなるほど、
いまの私の視点からみて、いま鳴らしてみたいスピーカーの筆頭である。

そのDD55000は、ステレオサウンドの「オーディオの殿堂」で選ばれているのだろうか。

Date: 9月 12th, 2020
Cate: スピーカーとのつきあい

複数のスピーカーシステムを鳴らすということ(その24)

「七色いんこ」の主人公、七色いんこは、代役専門である。
著名な役者(しかも老若男女関係なく)の代役も完璧にこなすほどで、
天才的代役専門の役者という設定。

「七色いんこ」の連載期間は、一年ちょっとだった。
それほど人気を集めていたわけでもなかったのだろう。

それでも「七色いんこ」の三十年後を描いた作品が、
別の作者によって描かれているし、二回舞台にもなっていることが、
検索してみるとわかることから、評価は低くなかったようにも思う。

「七色いんこ」が連載されているころ、
すでにオーディオにどっぷりはまっていた。

それに、そのころはスピーカーを擬人化して捉えることを頻繁にやっていた。
でも、当時は、スピーカーを役者として捉えることはしていなかった。

もしそうしていたら、「七色いんこ」の捉え方も、ずいぶん違ったものになってきただろう。

代役専門の役者という設定が、
いかにも、ある種のスピーカーシステム的だと思うからだ。

あらゆる色づけを排し、高忠実度をめざして開発されていったスピーカーは、
ある意味、代役専門の役者的ではないだろうか。

七色いんこは、代役を、ほぼ完璧にこなす。
それは誰かの演技を、ほぼ完璧にコピーしているから、ともいえる。

Date: 9月 10th, 2020
Cate: スピーカーとのつきあい

複数のスピーカーシステムを鳴らすということ(その23)

スタニスフラフスキー・システムのことを書こう、とは、五年以上前から思っていた。
けれど、スタニスフラフスキー・システムという言葉を正確に思い出せなかった。

「七色いんこ」で、スタニスフラフスキー・システムが登場したエピソードでは、
主人公の七色いんこという代役専門の役者が、自分の演技の限界について悩む、という内容だった。

そこでスタニスフラフスキー・システムのことが語られていた。
当時、そういうのがあるのか、ぐらいの関心だった。

それにそれ以上調べるには、演技関係の書籍に頼るしかない。
インターネットで調べるなんてなかった時代である。

結局、そんなシステムがあるんだ、ぐらいのままで、終っていた。
なので、この項を書いていて、そういえば、と思い出しても、
スタニスフラフスキー・システムの名称が正確に思い出せないままだった。

スタニスフラフスキー・システムにからめて続きを書いていこう、と考えていても、
肝心のスタニスフラフスキー・システムが正確に思い出せないまま数年が経ってしまった。

つい最近、まったく違うことからの偶然で、
スタニスフラフスキー・システムに、ふたたび出合った。

そうだそうだ、スタニスフラフスキー・システムだ、と、
30数年ぶりに、スタニスフラフスキー・システムについて調べることもできた。

調べるといっても、インターネットで検索するぐらいで、
演技の専門書をひもといて、というわけではない。

それでもスタニスフラフスキー・システムについて、概略程度を知るだけでも、
スピーカーという存在は、役者と捉えてもいいという考えは、
案外的を射ているのではないか、と思ったし、
スピーカーシステムには、スピーカーシステムの鳴らし方には、
スタニスフラフスキー・システム的といえるものと、そうでないものがある──、
そう感じるようにもなってきている。

同時に、そのスピーカーの鳴らし手であるオーディオマニアは、
演出家なのか、という考えもできる。

Date: 9月 10th, 2020
Cate: スピーカーとのつきあい

複数のスピーカーシステムを鳴らすということ(その22)

スピーカーシステムを役者として捉える考え、
これが正しいかどうかではなく、そういう考えからスピーカーが鳴る、ということを捉えれば、
スピーカーは、その時にかける音楽に応じて演じている、という見方ができる。

スピーカーは演じている。
そんなふうに考えることもできな、と、ここ十年くらい、思うようになってきた。

好きな演奏家のレコード(録音)をかける。
スピーカーから、その演奏家の演奏が流れてくる。

それはスクリーンに映し出された俳優の演技を観ているような感覚が、
まったくない、といえるだろうか。

たとえばグレン・グールドのレコード(録音)をかける。
グールドを演じている、としたら、
グールドを演奏を、単なる模倣で終ってしまっている、としか感じられない程度で、
グールドを演じる役者(つまりはスピーカー)がいる。

映画やドラマをみていると、演技はうまいんだけれども、
感情移入ができない、という役者がいる。

私が感情移入できる役者に、ほかの人も感情移入できるのかどうかは知らない。
私が、ここで考えたいのは、なぜそんなふうに感じ方の違いが生じるのか、である。

映画を観るのは好きだが、
観るのが好き、というところで留めている。
それ以上、深く映画について勉強していこう、とは思っていない。

つまり演技のことについては、まったくの素人であり、
知識らしい知識は持っていない、という逃げ道をまずつくっているのだが、
スタニスフラフスキー・システムというのがあるのを知ったのは、
もう30年以上の前のことだ。

手塚治虫の「七色いんこ」のなかで、スタニスフラフスキー・システムのことが出ていた。

Date: 7月 29th, 2018
Cate: スピーカーとのつきあい

ホーン今昔物語(その16)

エレクトロボイスのSentry Vのトゥイーターについて、
岩崎先生が「コンポーネントステレオの世界 ’77」で語られている。
     *
岩崎 そのエレクトロボイスのシステムは、じつはここ何年か、日本では積極的に受け入れられなかったわけで、若干かすんでいたんですが、最近やっと、このセントリーVが入ってきました。これは25センチのバスレフ型の低音と、中高域ユニットにつけられたラジアルホーンをもっています。エレクトロボイスのラジアルホーンというのは、他のメーカーのものとは違っていて、ひじょうに指向特性がいいのです。あまり深いホーンではありませんが、ホーン・ロードがたいへんによくかかっているということで、これはJBLともアルテックともまったく違った新しい理論だと思います。たいへん変った、上下が極端にまるみをもって開いた、あまり大きくないホーンですが、けっこう馬力があって、負荷がひじょうにかかっている感じで鳴ります。
     *
1976年の時点で、定指向性ホーン(Constant-Directivity Horn)という言葉は使われていなかった。
エレクトロボイスの当時の輸入元はテクニカ販売だったが、
Sentry Vの資料に、ホーンについての技術的なことは載っていたんだろうか。

載っていないような気がする。
Sentry Vはステレオサウンド 41号新製品紹介、
44号の特集、スピーカーシステムの総テストでも取り上げられているが、
ホーンについて、その新しさが述べられてはいないからだ。

それでも、Sentry Vのホーンが、新しい理論による設計だと気づく人は必ずいる。
おそらく日本では岩崎先生が、もっとも早く気づかれている。

Date: 12月 6th, 2017
Cate: スピーカーとのつきあい

スペンドールのBCIIIとアルゲリッチ(余談)

スペンドールのBCIIは、菅野先生も購入されていた。
ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界」でも、
1978年度版と1979年度版で組合せをつくられているくらいである。

けれどBCIIIの評価は……、というと、すぐには思い出せなかった。
ステレオサウンドには載っていない、と思う。

レコード芸術・ステレオ別冊の「ステレオのすべて」の1977年度版に、
「海外スピーカーをシリーズで聴く」という企画がある。
菅野先生と瀬川先生による記事だ。
     *
菅野 色っぽいですよ。まあこれでもうひとつ、僕はだいたい大音量だから、ガンと鳴らせるものがほしいとこう思ってBC−IIIを聴いたわけ。そしたらねえ、いやぁ残念ながらその印象がねえ、このBC−IIがそのままスケールが大きくなったということじゃなくて、これはやっぱり重要なものだと思ったのは、同じ形のものも大きくすれば異なった形に見えるというのがあるでしょう。
瀬川 だったらさっきの言い方の方がいいよ。
菅野 ああそうですか。つまり自分の女房にね、もうちょっとグラマーだったらなっていうその要求をね、するのはやはり無理なんだと。
     *
《同じ形のものも大きくすると異なった形に見える》、
たしかにそうなのだろう。
BCIIとBCIIIは少なくとも、そうであろう。

むしろBCIIのスケールを大きくした、といえるスピーカーは、
ロジャースのPM510といえよう。

ステレオサウンド 56号で、瀬川先生は書かれている。
     *
 全体の印象を大掴みにいうと、音の傾向はスペンドールBCIIのようなタイプ。それをグンと格上げして品位とスケールを増した音、と感じられる。BCIIというたとえでまず想像がつくように、このスピーカーは、音をあまり引緊めない。
     *
私は、これだけでPM510をとにかく聴きたい、と思った。
BCIIの品位とスケールを増した音──、
実際に音を聴いて、そのとおりだった。

だからBCIIIへの関心を失っていった、ともいえる。

結局違った形で大きくすることで、同じ形(音)に見えたわけだ。

Date: 11月 24th, 2017
Cate: スピーカーとのつきあい

スペンドールのBCIIIとアルゲリッチ(その20)

スペンドールのBCIIIは、聴いていない。
聴いていないが、岡先生、瀬川先生の文章をくり返し読むことでイメージとしては、
生真面目なスピーカーであることは間違いない、といえる。

その生真面目なBCIIIから、条件がきわめて限定されるとはいえ、
「狂気の如く」、「狂気の再現」といえる音が鳴ってくるのか。

ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’80」で、
瀬川先生がBCIIとBCIIIについて語られている。
     *
瀬川 ぼくはこのふたつのスピーカーは、兄弟でもずいぶん性格がちがっていると思っているんですよ。たとえていえば、BCIIIは長男で、BCIIは次男なんだな(笑い)。BCIIは、次男坊だけにどちらかというとヤンチャで悪戯っ子だけれど、ただいい家庭の子だからチャーミングな音をそなえている。
 一方、BCIIIのほうは、いかにも長男らしくきちんとしていて、真面目で、ただやや神経質なところがある。つまり生真面目な音なんですよ(笑い)。
 ですから、BCIIIの場合、それをどれだけときほぐして鳴らすか、というのが鳴らし方のひとつのコツだろうと思うわけです。ただし、それを十全にやろうとすると、この予算ではムリなのです。つまり、もっと豊かな音が鳴らせる高価なアンプが必要になります。BCIIIは、このスピーカーがもっている能力をはるかに上まわるアンプで鳴らしてやったほうが、その真価がより一層はっきりとでてくるんですね。
     *
ここにも「生真面目」が出てくる。
これがBCIIIの本質なのだろう。

その生真面目な性格を、瀬川先生はときほぐして鳴らす方向が、ひとつのコツだとされている。
たしかにそうなのだろう。

「コンポーネントステレオの世界 ’80」では予算100万円の組合せで、
BCIIIを選ばれ、アンプはQUADの44+405である。

音の肉づきということでは、44+405は線の細さを強調する方向にいくため、
カートリッジにエラックのSTS455Eを選ばれている。
その上で、肉づきのいい方向にもっていくため、BCIIIの置き方と、
44に付属するティルトコントロールをうまく組み合わせながらの調整をされている。

中野英男氏のトリオのKA7300DとEMTの927Dstによる組合せは、
ときほぐす方向とはベクトルが違うはずであり、それゆえにBCIIIから別の魅力、
他では聴けない特質を抽き出した、とはいえるのかもしれない。

Date: 11月 12th, 2017
Cate: スピーカーとのつきあい

スペンドールのBCIIIとアルゲリッチ(その19)

「狂気の如く」、「狂気の再現」と、
中野英男氏の文章にある。

1970年代のオーディオのキーワードは、
実のところ、「狂気」だと私はずっと感じてきている。
私だけではない、30年以上のつきあいのあるKさん。

私より少し年上で、10代のころJBLを鳴らしてきたKさんも、
同じように感じている。

JBLの4343、4350には、確かに狂気がある。
4344、4355になって、その狂気は薄れたように感じる。

マークレビンソンのアンプ、
JC2、LNP2、ML2、ML6あたりまでは、マーク・レヴィンソンの狂気があるし、
GAS、そしてSUMOのアンプには、ジェームズ・ボンジョルノの、
レヴィンソンとは違う狂気があって、それは音として顕れていた。

これだけではない、他にもいくつも挙げていくことができる。
けれどスペンドールのBCIIIは、私の頭の中では狂気と結びつくことはなかった。
音を聴いていないということもそうだが、BCIIの音からしても、
当時のイギリスのBBCモニターの流れを汲むスピーカーの音からしても、
そこに狂気がひそんでいる、とは考えにくかった。

けれど中野英男氏は、非常に限られた条件下とはいえるが、
「狂気の如く」「狂気の再現」とまで書かれている。

BCIIIも1970年代のオーディオである。
BCIIのまとめ方のうまさからすると、
BCIIIはやや気難しさをもつようにも感じるまとめ方のようにも感じるが、
それゆえに狂気につながっていくのだろうか。

Date: 11月 10th, 2017
Cate: スピーカーとのつきあい

スペンドールのBCIIIとアルゲリッチ(書いていて気づいたこと)

(その19)を書こうとしていて、気づいたことがある。
岡先生と瀬川先生のBCIIIの評価というか、
使いこなし(おもにスタンドに関すること)に関係することで、思い出したことがある。

岡先生は長身だ、ということだ。
ステレオサウンドで働くようになって、
岡先生と初めて会った時に、背が高い、と少し驚いた。

瀬川先生と岡先生の身長差はどのぐらいなのだろうか。
ふたりが立って並んでいる写真は、ステレオサウンド 60号に、
小さいけれど載っているとはいえ、身長差を正確に測れるわけではない。

瀬川先生は、熊本のオーディオ店に何度も来られていた。
背が高い、という印象はなかった。

身長差があまりなかったとしても、
椅子に坐る姿勢でも、耳の高さは変ってくる。
前のめりになって聴くのであれば、耳の位置は低くなる。

スピーカーの高さは、床との関係もあるが、
耳との関係も大きい。

昔のオーディオ雑誌には、
マルチウェイのスピーカーシステムであれば、
トゥイーターの位置と耳の位置を合わせた方がいい、と書かれていた。

これがウソだとまではいわないが、
あまり信じない方がいい。
ユニット構成とクロスオーバー周波数との関係で、
バランスのいいポジションは変ってくるし、
たとえば598の3ウェイシステムであれば、
30cmコーン型ウーファーで、スコーカー、トゥイーターがドーム型、
しかもクロスオーバー周波数も各社ともそう大きくは違っていなかった。

専用スタンドがある場合に、それを使い、
用意されていなければ、そのころはいくつかのメーカーからスタンドが発売されていて、
それを使って聴く。
スタンドの高さもそう大きく違うわけではない。

あるレベルまで調整を追い込んだうえで、頭を上下させて音を聴く。
バランスがもっともいいのは、トゥイーターの高さではなく、もっと下にある。
すべての3ウェイ・ブックシェルフ型がそうだというわけではないが、
たいていはウーファーとスコーカーのあいだあたりに耳をもってきたほうがいい。

スピーカーユニットの数が多くなり、縦に配置されていれば、
垂直方向の指向特性は水平方向に比べて、問題が生じやすい。
それもあって耳の高さを変えていくだけで、音のバランスの変化の大きさは、
ユニットの数に比例傾向にある、ともいえる。

スペンドールのBCIIIは4ウェイである。
垂直方向の指向特性はステレオサウンド 44号と46号に載っている。
BCIIの垂直方向の指向特性は45号に載っている。
ふたつのグラフを比較すると、BCIIIは多少問題がある、といえる。

なにしろBCIIIを聴いていないのではっきりいえないが、
耳の高さが変るだけで、音のバランスは変りやすい、はずだ。

瀬川先生は「コンポーネントステレオの世界 ’79」で、
専用スタンドよりも10cmぐらい下げた状態のほうがよかった、といわれている。

岡先生と瀬川先生の身長差、
特に聴いているときの耳の高さの違いは、10cmぐらいだったのかもしれない。
だとすれば、スタンドに関する疑問が解消する。

Date: 11月 9th, 2017
Cate: スピーカーとのつきあい

スペンドールのBCIIIとアルゲリッチ(その18)

中野英男氏は、927Dstのイコライザーアンプについても書かれている。
     *
 ところで、これまでの話は未だ前座に過ぎない。たまたま瀬川、松見の両先生が来られたのを機会に、我が家のEMTのトーン・アームを新型の997型に替えようということになった。アームを交換した結果、再生音の質が一段と向上したことは言うまでもない。そのあと、瀬川さんが「中野さん、このプレーヤーにはイクォライザーが内蔵されているでしょう。それを通してアンブのAUXから再生するととてもいいんですよ」と言い出したのである。
 私のEMTは前にも書いた通り十年も前に買ったものだ。その頃のアンプ、特にトランジスター・アンプの技術水準を考えて私は慄然とした。いかに瀬川さんのお言葉とは申せ、これだけは従えない、と思った。ところが同席した役員のひとりと、トーン・アームの交換を手伝ってくれた技術開発部の中村課長が「やってみましょうや、会長。ものは試しということがあります」としきりに言う。実はEMTのイクォライザーは購入した当時、半年余り使用したが、どうも性能が思わしくないので取り除き、アームから他のプリアンプに直結していたという経緯がある。当時のライン・アップはマランツのモデル7と9B、或いはマッキントッシュのC22とMC275、スピーカーにはJBLのパラゴンとボザークのB410を使っていたような気がする。ソリッドステート・アンプ黎明期における名器ソニーのTA1120の出現する前後の話である。その時は、我が社の技術担当重役や若手のエンジニア、その他うるさがたの諸氏が立ち会って下した結論に基づいてイクォライザーをカット・アウトしたのであり、勿論私もその結果に納得していた。
 永いこと使わなかったイクォライザーをカムバックさせるのは大仕事であった。瀬川さんと中村君は汗を拭きながらラグ板の銹落しまでしなけれぱならなかった。十年間ターン・テーブルの下にほっておかれたにも拘わらずEMTのイクォライザーは生きていた。そして、そこから出た音を聴いた瞬間、その場に居あわせた人々の間に深い沈黙が支配したのである。
 小林秀雄の言葉に「その芸術から受ける、なんともいいようのない、どう表現していいかわからないものを感じ、感動する。そして沈黙する」という一節がある。本当の美しさ、本物の感動は人を沈黙させる。沈黙せずに済まされるような、それが言葉で表現できるようなものであれぱ、美と呼ぶに値しないであろう。あの瞬間、私の居間を支配した静けさはまさしく本当の美しさに対する沈黙であった。音楽だけが流れている。そして、それを取り巻く異様なまでの静寂。
(「さらにまたEMTについて」より)
     *
なのでBCIIIとKA7300Dとの組合せでも、間違いなく内蔵のイコライザーアンプの出力を、
KA7300DのAUX入力に接続されているはずだ。

「音楽、オーディオ、人びと」を読めば、中野英男氏が、
スピーカーにしてもアンプにしても、一組ではなく、いくつもあることがわかる。
KA7300Dの何倍、それ以上の価格のアンプもいくつもあるなかでKA7300Dを試されていて、
しかも他の、どんなに高級なアンプでも聴かせることのなかったアルゲリッチの「狂気」を、
その音に感じられている。

「音楽、オーディオ、人びと」は1982年に買って読んでいる。
もう35年前になる。

アルゲリッチは、そのあいだにさまざまなディスクを聴いてきている。
システムもいくつもの音で聴いてきている。

それでもまだアルゲリッチの「狂気」を、私はまだ聴けずにいる。

Date: 11月 9th, 2017
Cate: スピーカーとのつきあい

スペンドールのBCIIIとアルゲリッチ(その17)

その3)にトリオの創業者の中野英男氏の文章を引用した。

「音楽、オーディオ、人びと」で、アルゲリッチについてかかれた文章がある。
『「狂気」の音楽とその再現』である。
     *
 アルヘリッチのリサイタルは、今回の旅の収穫のひとつであった。しかし、彼女の音楽の個々なるものに、私はこれ以上立ち入ろうとは思わない。素人の演奏評など、彼女にとって、或いは読者にとって、どれだけの意味があろう。
 私が書きたいことはふたつある。その一は、彼女の演奏する「音楽」そのものに対する疑問、第二は、その音楽を再現するオーディオ機器に関しての感想である。私はアルヘリッチの演奏に驚倒はしたが感動はしなかった。バルトーク、ラヴェル、ショパン、シューマン、モーツァルト──全ての演奏に共通して欠落している高貴さ──。かつて、五味康祐氏が『芸術新潮』誌上に於て、彼女の演奏に気品が欠けている点を指摘されたことがあった。レコードで聴く限り、私は五味先生の意見に一〇〇%賛成ではなかったし、今でも、彼女のショパン・コンクール優勝記念演奏会に於けるライヴ・レコーディング──ショパンの〝ピアノ協奏曲第一番〟の演奏などは例外と称して差支えないのではないか、と思っている。だが、彼女の実演は残念ながら一刀斎先生の鋭い魂の感度を証明する結果に終った。あれだけのブームの中で、冷静に彼女の本質を見据え、臆すことなく正論を吐かれた五味先生の心眼の確かさに兜を脱がざるをえない心境である。
 問題はレコードと、再生装置にもある。私の経験する限り、彼女の演奏、特にそのショパンほど装置の如何によって異なる音楽を聴かせるレコードも少ない。
 一例をあげよう。プレリュード作品二十八の第一六曲、この変ロ短調プレスト・コン・フォコ、僅か五十九秒の音楽を彼女は狂気の如く、おそらくは誰よりも速く弾き去る。この部分に関する限り、私はアルヘリッチの演奏を誰よりも、コルトーよりも、ポリーニのそれよりも、好む。
 私は「狂気の如く」と書いた。だが、彼女の狂気を表現するスピーカーは、私の知る限りにおいて、スペンドールのBCIII以外にない。このスピーカーを、EMT、KA−7300Dの組合せで駆動したときにだけアルヘリッチの「狂気」は再現される。BCIIでも、KEFでも、セレッションでも、全く違う。甘さを帯びた、角のとれた音楽になってしまうのである。このレコード(ドイツ・グラモフォン輸入盤)を手にして以来、私は永い間、いずれが真実のアルヘリッチであろうか、と迷い続けて来た。BCIIIの彼女に問題ありとすれば、その演奏にやや高貴の色彩が加わりすぎる、という点であろう。しかし、放心のうちに人生を送り、白い鍵盤に指を触れた瞬間だけ我に返るという若い女性の心を痛切なまでに表現できないままで、再生装置の品質を云々することは愚かである。
     *
BCIIIに、プリメインアンプのKA7300D。
KA7300Dは、1977年に登場、価格は78,000円である。
当時としては中級クラスのプリメインアンプである。

アナログプレーヤーのEMTはカートリッジのTSD15のことではないし、
930stのことでもない。
927Dstのことである。

1977年ごろまでは927Dstは250万円だったが、
約一年後には350万円になっていた。
価格的にそうとうにアンバランスな組合せだが、
アルゲリッチの「狂気」が再現される、とある。

Date: 11月 9th, 2017
Cate: スピーカーとのつきあい

スペンドールのBCIIIとアルゲリッチ(その16)

岡先生と瀬川先生の組合せの記事を読むかぎりでは、
BCIIIは、それほどアンプを選ぶようには思えない。

瀬川先生は予算の都合でサンスイのB2000にされているが、
予算があれば、もう少し上のクラス、
具体的にはラックスの5M20シリーズ、トリオのL07MII、オンキョーのIntegra M507を挙げられている。

おそらくコントロールアンプにC240を選ばれているから、
予算の制約がなければ同じアキュフェーズのP400にされたかもしれない。

とはいえ記事中では、
スタンドのこと、BCIIIのセッティングに関することに気をつけるようにくり返されている。

岡先生も、アンプ選びが難しいとは語られていない。
ヤマハのC2aとB3の組合せ以外に、
ラックスのLX38、パイオニアのExclusive M4は、
パワーが小さいこともあってか、
《レコードの音が完全に鳴りきっていないような》もどかしさを感じるとあるが、
100Wクラスのアンプであれば、十分というふうにも読める。

実際のところはどうなのだろうか。

facebookには、アンプ選びが重要なのかも……、とあったし、
中低域あたりにくぐもった印象があった、と聴いたことのある人のコメントがあった。

くぐもったという点に関しては、
元がBBCモニターということからしても、
使いこなし、セッティングの未熟さからくるものと思う。

アンプに関しては……、どうなのだろうか。

Date: 11月 9th, 2017
Cate: スピーカーとのつきあい

スペンドールのBCIIIとアルゲリッチ(その15)

岡先生はBCIIIの組合せについて、
《第一級のレストランへ行って、そこのシェフのおすすめ料理を食べいている、といったところがある》
といわれ、
UREIの813の組合せは、
《たとえばリード線をかえるとこんなふうに音が変わるぞとか、そういったことの好きなファン向き》、
パイオニアのCS955の組合せは、
《自分の部屋で毎日いじってみたいなという意欲をそそられる》とされている。

瀬川先生は、違う。
     *
このBCIIIは、なかなか難しいところのあるスピーカーなんてす。イギリスのスピーカーのなかでも、KEF105に似た、真面目型とか謹厳型といいたいところがあって、響きを豊かに鳴らすというよりも、音を引き締めるタイプのスピーカーなんです。
 そして、やや神経質な面があって、置き方などでも高さが5センチ上下するだけで、もうバランスがかわってくる、といったデリケートなところがあります。そのへんをよく知ったうえで、使いこなしをきちんとやらないと十分に生きてきません。
     *
だから岡先生はBCIIIのスタンドをそのまま使われて、
スタンドの価格も組合せ合計に含まれている。

瀬川先生はステレオサウンド 44号の試聴記でも書かれているように、
専用スタンドを使われていない。組合せ合計にもスタンドの価格は含まれていない。

高さが5cm上下するだけでバランスが変ってくるし、
専用スタンドの高さより10cmぐらい下げた状態のほうが、
ステレオサウンドの試聴室ではよかった、ともいわれている。

いうまでもなく岡先生も瀬川先生もステレオサウンドの試聴室で聴かれている。
試聴中の写真をみると、ふたりとも部屋の長辺の壁側にスピーカーを設置されている。

それでもスタンドのことひとつにしても、岡先生と瀬川先生は反対のことをいわれている。
BCIIIの音は聴いていないだけに、
BCIIIの岡先生と瀬川先生の組合せの違いだけでなく、
そこでの鳴らせ方の違い、ここのところをもっと知りたいと思っても、
「コンポーネントステレオの世界 ’79」には、それ以上のことは載っていない。