Archive for category スピーカーとのつきあい

Date: 3月 16th, 2025
Cate: スピーカーとのつきあい

FRANCO SERBLIN Ktêma(その7)

スピーカーからの音を聴いているとき、
目の前を人がよぎれば、音は変化して聴こえる。

どんなに音に無頓着な人でも、
目を閉じて聴いていたとしても、
スピーカーと自分との間を誰かか歩いていくわけだから、
音が変化するのは、わかるものだ。

ただスピーカーによって変化量は違ってくる。

Ktêmaは、その変化量が少ない。
音が変化しないわけではないが、極端に変るスピーカーもけっこう数多く存在するなかで、
Ktêmaは変化量の、かなり少ないスピーカーといえる。

エンクロージュアの形からくる効果なのか、独特のユニット配置からくることなのか、
これら二つがうまく作用してのことなのか、
いまのところなんとも言えないし、どういうことをもたらしているのか、
そのこともわからないが、
これからKtêmaを聴く機会がある人は、このことにも関心を払ってほしい。

Date: 2月 9th, 2025
Cate: スピーカーとのつきあい

FRANCO SERBLIN Ktêma(その6)

フランコ・セルブリンのKtêmaは、鳴らすのが難しいスピーカーなのか。
何度も書いているように、インターナショナルオーディオショウでのアーク・ジョイアのブースでは、
一度も感心するような音では鳴っていなかった。

audio wednesdayの常連の方が、
顔馴染の店員がいるオーディオ店で、Ktêmaを聴いたことがある、と話された。

たまたま他の客がいなかったこともあって、じっくり聴くことができたのだが、
鳴ってきた音は、冴えなかったそうだ。

もっといい音で鳴るはず──、と二人でセッティングを変えてみたり、
他にもいろいろ試してみたそうだ。
オーディオ店だから、やろうと思えば、かなりのことができる。

でも、いい音で鳴ることはなかったそうだ。
こういうことがあると、うまく鳴らすのが難しいという評価になっていく。

でも、私はアーク・ジョイアでの音を聴いても、
そうとは思っていなかった。

基本をきちんとおさえていれば、最初からうまいこと鳴ってくれるスピーカーだ、と感じていた。
気難しいスピーカーではないはず、と信じていた。

実際、2月5日のKtêmaは、そうだった。

Date: 2月 6th, 2025
Cate: スピーカーとのつきあい

FRANCO SERBLIN Ktêma(その5)

昨晩のaudio wednesdayで、ようやくフランコ・セルブリンのKtêmaを鳴らせた。
どんな人なのか、全くわからない人が鳴らす音を聴いて、
うん、このスピーカーは……、と断言することは、まず無理だ。

信頼できる人が鳴らした音を聴いての判断、
そして自分の手で鳴らしてみてこそ、そのスピーカーに試されることになる。

試されてこそ、そのスピーカーが自分にとってどういう存在なのかが、
少しずつはっきりしてくるはずだ。

2月と3月、二回鳴らせるわけだから、
今回はアナログディスクで鳴らすことにしたのは、
別項で書いているシルヴィア・シャシュのLPを手に入れたからでもある。

なので一曲目は、シルヴィア・シャシュの「清らかな女神よ」(Casta Diva)をかける。

一曲目はこれになるわけだが、当日は14時半ごろからセッティングにとりかかり、
Ktêmaの開梱、スパイクの取り付け、ベースの上に設置などやっていた。

今回は、ベースにしてもケーブルにしてもどこでも入手できるモノばかり。
高価なモノは、一つも使っていない。

スピーカーケーブルは、オーディオテクニカの平行二芯。1mあたり数百円のモノ。

ベースに設置して結線が終って、まず音出し。
少しでも早く音を聴きたかった(確認したかった)ので、
iPhoneを使って音出し。
しかも細かなスピーカーの位置出しは、まだ。

そんな状態でも、いい感じで、ヘンリック・シェリングのバッハの無伴奏が響いてきた。

Date: 1月 25th, 2025
Cate: スピーカーとのつきあい

FRANCO SERBLIN Ktêma(その4)

フランコ・セルブリンのKtêmaが、いい感じで鳴っているのを、
実をいうと聴いているわけではない。

Ktêmaを聴いたのは、インターナショナルオーディオショウのアーク・ジョイアのブースで、二回ぐらいだ。
はっきり書くが、アーク・ジョイアのブースでは、
どのスピーカーであっても、よく鳴っていると感じたことはない。

いつも冴えない音で鳴っている。
もっと美しい響きを聴かせてくれるであろうに……、と思うばかり。
Ktêmaもそうだ。

もっとよく鳴ってくれる、というよりも、全く鳴っていないに近い。
いつも残念に感じるブースの一つである(ほかのブースでも同じようなところはある)。

にも関わらずKtêmaは、鳴らしてみたいスピーカーである。
鳴ってくれると信じられる何かを感じているからだ。

Date: 1月 15th, 2025
Cate: スピーカーとのつきあい

FRANCO SERBLIN Ktêma(その3)

フランコ・セルブリンは、ソナス・ファベール時代に、
「スピーカーは楽器だ」と語ったことは、よく知られている。

フランコ・セルブリン以前も「スピーカーは楽器だ」という人はいた。

フランコ・セルブリンが最初に言った人ではない。
それでもスピーカー・エンジニアとして、こう語った人は少ない。
フランコ・セルブリン以前にも、スピーカー・エンジニアでそう語っていた人はきっといただろう。

それでもスピーカー・エンジニアとしての世界的な知名度の高さもあって、
フランコ・セルブリンの「スピーカーは楽器だ」は広く知られている。

フランコ・セルブリンはイタリア人だから、イタリア語で語っているわけで、
“I diffusori sono strumenti.”と語ったのかは知らない。

ここで考えたいのは、その真意だ。
フランコ・セルブリンはスピーカーの開発にあたって測定も相当に重視していたことも知られている。

ならばフランコ・セルブリンの「スピーカーは楽器だ」は、
「スピーカーは楽器のように鳴らせ」ではないか。

私はずっとそう思っている。

Date: 1月 14th, 2025
Cate: スピーカーとのつきあい

FRANCO SERBLIN Ktêma(その2)

ソナス・ファベールは、1988年、Electa Amatorで日本に初めて輸入された。

Electa Amatorを初めてみた時は、期待した。
いい音がしそう、である。
多くのオーディオマニアが、Electa Amatorに初めて接した時は、そう思うだろう。

出てきた音は、期待に反した音だった。
悪い音だったから、期待に反したわけではなく、
乾いた音だったからだ。

この「乾いた音」も、決して悪い意味ではない。
いい意味での乾いた音なのだが、私が勝手に期待していたのは、
もう少し潤いのある表情だったからだ。

そんな出合いだったものだから、その後のソナス・ファベールの新作を聴く機会があっても、
心底、いい音だなぁ、と思うことは訪れなかった。

とはいえ、そんなふうに感じていたのは、少数だったのかもしれない。
ソナス・ファベールの評価は高いままだった。

別項で書いているが、私が心底いい音だなぁ、と感じたソナス・ファベールのスピーカーは、
CremonaとCremona auditorだった。

インターナショナルオーディオショウで、ノアのブースで、
VTLのアンプに接がれていたCremonaは、本当にいい音だったし、
私が勝手に求めていた潤いが、その音にはあった。

ソナス・ファベールのスピーカーで良かったのは? と訊かれれば、
Cremonaだ、といまでもそう答える。

例えばStradivari Homage。
立派な音とは私だって思うけれど、
その音はCremonaの延長線上にあるとは感じられなかった。

そんな私は、フランコ・セルブリンのKtêmaを、
まずは真空管アンプで鳴らしたい。

Date: 1月 9th, 2025
Cate: スピーカーとのつきあい

FRANCO SERBLIN Ktêma(その1)

ステレオサウンド 207号の特集に登場する49機種のスピーカーシステム。
いま世の中に、この49機種のスピーカーシステムしか選択肢がない、という場合、
私が選ぶのは、フランコ・セルブリンのKtêmaである。

別項「現代スピーカー考(その37)」で、以前、こう書いている。

いまもその想いは、ほとんど変らない。
ステレオサウンド 207号掲載の49機種のスピーカーから選ぶのであれば、
Ktêmaだし、233号のベストバイから選ぶとしても、
Ktêmaは、やはり鳴らしてみたいスピーカーの筆頭格だ。

それにしても233号のベストバイでは、小野寺弘滋氏の星二つだけである。
Ktêmaが登場して十数年。そんな扱いになるのか──、と思う必要はない。
いまだKtêmaの魅力は、少なくとも私の中ではまったく色褪せていない。

Ktêmaを聴いたのは、インターナショナルオーディオショウのブースだけである。
じっくり聴けたとも、きちんと聴けたともいえないぐらいだけど、
Ktêmaはいいなぁ、と思い続けているからこそ、
昨晩のaudio wednesday終了後の、常連のOさんの
「Ktêmaは貸しましょうか」の申し出は、
私にとって嬉しいを超えたものだった。

2月、3月、Ktêmaを鳴らす。

Date: 12月 26th, 2024
Cate: スピーカーとのつきあい

BOSE 901というスピーカーのこと(その6)

BOSEの901 Series Vが見せてくれた情景は、
私だけのものでしかない。

あの日、一緒に聴いていた人の中で、なんらかの情景が浮かんでいた人は、何人いただろうか。

何人かいたとしよう。
だからといって、私と同じ情景を見ていたわけではないだろう。

確認したわけではないが、きっとそのはずだけ。

グラシェラ・スサーナの「人生よ ありがとう」はスタジオ録音だから、
BOSEの901から鳴ってくる音を聞いていて、
何かがうかんできたとしたら、それは録音光景のはずだ。

いわゆるハイ・フィデリティ再生を目指すのでもれば、
録音の光景が浮かんでこそだろう。

そこには私が思い浮かべていた情景は、わたしだけのものであり、そんなものは要らないということになるはずだ。
余計なものでしかないと言えば、そうであり、それでいい。

Date: 12月 11th, 2024
Cate: スピーカーとのつきあい

BOSE 901というスピーカーのこと(その5)

スピーカーであれアンプであれ、
オーディオマニアが、その音をどこかで聴いて、あれこれその音について語る。

オーディオ店であったり、オーディオショウであったり、
オーディオマニアのリスニングルームであったりする。

そうやって聴けた音は、そのオーディオ機器の本来の音なのか、
どの程度で鳴っていたのか──、
そういったことを無視して、あれこれ、どんなに多くを語ったとしても、
私は、ほぼ無意味と受け止めている。

そうでなければBOSEの901の評価はもっともっと高いはずだ。
けれど実際は、901に関心を持っていた人でも、
今回のaudio wednesdayで、初めて聴けました、となる。

このことに関しては、言いたいことけっこうある。
まずオーディオ店、その店員について、言いたいことはある。
それからオーディオ評論家に対しても、
オーディオ雑誌の編集者に対しても、である。

そのことを書いていったら、キリがないほど書けるけれど、
だからと言って、いまさら書いたところで……、というおもいのほうが強い。

そのことは措くとして、今回の901 Series Vの音は美しかった。
こんなに美しくなるのか、と鳴らしている本人が、
少しばかり驚くほどだった。

別項で触れて青木涼子の「Harakiri」も美しかった。
でも、個人的には、「Harakiri」の後にかけた
グラシェラ・スサーナの「人生よ ありがとう」の美しさに、さらに驚いていた。

聴いていて情景が浮かんでいた。
いままでになかった情景だった。
その情景の美しさに、驚いていたのかもしれない。

Date: 12月 6th, 2024
Cate: スピーカーとのつきあい

BOSE 901というスピーカーのこと(その4)

ステレオサウンドを辞めてから、BOSEの901を聴く機会はまったくなかった。

BOSEの901は、オーディオマニアならば、大抵の人が知っているはず。
にも関わらず聴いたことのある人はの割合は、かなり低い。

オーディオ店で見たことはある、という人、
鳴っているというだけの状態ならば、聴いてはいるけども……、という人、
オーディオ雑誌で見ただけ、という人は、多い。

すでに製造中止になっているとはいえ、901はロングセラーモデルである。
なのに聴いている人は、本当に少ない。

そういう私だって、ステレオサウンドで働いていたから、
901を聴けたわけで、そうでなかったら、見たことはあるけれども……、となっていたはず。

聴いてみたかったスピーカーだけれど──、
901は残念なことに、その代表格ともいえた。

私が幸運だったのは、ステレオサウンドで聴くことができただけでなく、
井上先生が鳴らされた901の音を聴いていることだ。

その音を聴いてなければ、
今回のaudio wednesdayで鳴らそうとは思わなかっただろう。

Date: 9月 28th, 2024
Cate: スピーカーとのつきあい

BOSE 901というスピーカーのこと(その3)

《いわばシグナル・トランスデューサーの概念に対してアコースティック・トランスデューサーの概念で作られたものなのだ。》

スイングジャーナル 1977年7月号のSJ選定新製品で、
菅野先生が901 Series IIIについて、そう書かれている。

シグナル・トランスデューサーの概念、
アコースティック・トランスデューサーの概念、
いまでは、というよりも、いまもなのだが、
世の中の大半のスピーカーシステムは、シグナル・トランスデューサーの概念によるモノであり、
アコースティック・トランスデューサーの概念によるモノは、
どれだけあるだろうか。

BOSEの901は、その型番が示すように9基のユニットからなるスピーカーシステム。
101MMは、フルレンジ型ユニットが1基のみだから、型番は101である。

901と101の共通点は使用ユニットだ。
どちらも口径11.5cmのフルレンジ型で、基本的には同じといえる。

101MMではインピーダンスは8Ω、
901のユニットは9基すべて直列接続の状態で、一般的な8Ωにするため、
個々のユニットのインピーダンスは0.9Ωとなっている。

901では9基のユニットを、前面に1基、後面に8基と、
比率的に1:8になるように配置されている。

901は間接音重視のため、間接放射型のスピーカーとして受け止めている人もけっこういる。
本当にそうだろうか。

間接放射型のスピーカーシステムは、以前から数はそれほど多くはないものの、
いくつかあったし、いまも製品としてある。

だからといって、それら間接放射型スピーカーすべてを、
アコースティック・トランスデューサーの概念によるモノとして括っていいのか。
901と同じと捉えていいのか。

ここのところが曖昧のまま、901は市場から姿を消してしまった。

Date: 9月 27th, 2024
Cate: スピーカーとのつきあい

BOSE 901というスピーカーのこと(その2)

昨日の昼に入った飲食店でも、BOSEの101MMが鳴っていた。
101MMは2010年ごろに製造中止になっている。
発売は1982年ごろだから、かなりのロングラン《ロングセラー》でもある。
BOSEの定番モデルであったわけだ。

昨日、久しぶりに耳にした101MMの音は良かった。
飲食店のスピーカーが何なのか、常に気にしているわけではない。
いい感じで鳴っているな、と感じた時は、どのスピーカーなのかを確認する程度なのだが、
昨日の音は、そんな感じだった。

たぶん店主の好きな音楽をかけているんだろう、と思ったのは、
少しBGMとしては音量が大きめだったから。

一昨日に901 Series Vを運んで、昨日101MMが鳴っていた飲食店にたまたま入った。
それだけのことだけど、早く901 Series Vの音を聴きたくなっている。

101MMの音は、どこかで耳にしているはず。
そのくらい売れていたスピーカーであり、
BOSEの名を広めたモデルでもある。

けれどBOSEのフラッグシップモデルは、901である。
なのに901がどんなスピーカーなのかは知っているけど、
聴いたことはないし、関心もない──、
なんともったいないことか、と私は思っているし、
そのおもいは少しずつ大きくなってきてもいる。

Date: 9月 26th, 2024
Cate: スピーカーとのつきあい

BOSE 901というスピーカーのこと(その1)

BOSEの901は、ずっとロングランを続けていたモデルだった。
最初の901は1968年に登場している。
その後、何度も改良が加えられてきた。

私がオーディオに興味を持ち始めたころは、Series IIIになっていた。
ステレオサウンドで働くようになって初めて901の音を聴いた。
すでにSeries IVになっていた。

最初の901、その次の901、これらを聴いている人はどのくらいいるのだろうか。
おそらくごくわずかな気がする。

そのころのBOSEの輸入元はラックスだった。
当時のBOSEの日本での広告を見ると、
901という独特なスピーカーを、いかに理解してもらうか、
そのことが伝わってくる。

輸入元がかわってからも、そのことは同じだったと言える。
手法は違っていても、901は決してキワモノのスピーカーではないことを訴えようとしていた。

それでもSeries IIIになってからの901を聴いている人もまた少ないように感じている。

1980年代中頃からだったか、
カフェバーとスタイルの店が数多くできてきた。
このカフェバーでよく使われていたのが、BOSEの101MMだった。
型番末尾のMMは、Music Monitorの頭文字。

この店もあの店も、スピーカーは101MMという時代が確かにあった。

Date: 9月 2nd, 2024
Cate: スピーカーとのつきあい

Acoustic Research LST(その4)

マーク・レヴィンソンは、Amatiの出来にどの程度満足していたのか。
あの時点ですでに製造中止になってけっこう経っているLSTを、
あえて復刻したのだから、オリジナルのLSTになんらかの思い入れがあったと思われる。

マーク・レヴィンソンが手がけたスピーカーシステムは、
マークレビンソン時代にHQDシステムがある。

QUADのESLのダブルスタックを中心として、
ハートレーのウーファーとデッカのリボン型トゥイーターを組み合わせた、
かなり大がかりなシステムである。

ESLは横から見ると弓状に配置されていた。
HQDシステム登場の少し前に、
スイングジャーナルで長島先生がトリプルスタックをやられていた。

この時の音は、本当に凄かった、と、長島先生だけでなく、山中先生からも聞いている。
相当に凄かったのだろう。

このトリプルスタックとHQDシステムのダブルスタックは、
その配置からもわかるように狙いの違いがある。

長島先生のトリプルスタックは集中、
HQDシステムのダブルスタックは拡散といっていい。

どちらが優れているかは、どういう音を再現したいかによってわかれる。

おそらくだがマーク・レヴィンソンがトリプルスタックをやったとしても、
長島先生のトリプルスタックとは、その配置は違ったはずだ。

Date: 9月 1st, 2024
Cate: スピーカーとのつきあい

Acoustic Research LST(その3)

いまではシミュレーションソフトを使うことで、
自作スピーカーでの失敗は、かなり減っていることだろう。

私がオーディオに興味を持ち始めた1970年代後半とは、
自作スピーカーのレベルはかなり違ってきている。
なのに、私が作ろうとしているやり方は、
ずっと以前のやり方に近いもので、うまくいくかもしれないし、
全くひどいシロモノにしかならないかもしれない。

メインのスピーカーシステムはすでにある。
その上でのスピーカー作りである。
スピーカーというからくりを楽しみたいがためのモノといえる。

ARのLSTの同じ形状のエンクロージュア。
そこにフィリップスのとエレクトロボイスのユニットを、
縦一列にフロントバッフルに、
そしてトゥイーターを斜めの角度をつけた側面に、
しかもトゥイーターは一つではなく、
複数使用、さらにはソフトドーム型とAMT型とを一緒に、
そんなバカなことを考えている。

なので全体の音色の統一感は得られないだろう。
そういうことは求めていない。
結果としてうまくまとまらないスピーカーとなっても、
そこまでの過程が楽しければそれでいいし、
私一人が楽しめれば、それでいい。