Archive for category 使いこなし

Date: 5月 11th, 2023
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(ステレオゆえの難しさ・その5)

八年前に書いたことを、そのまままるごと公開しておく。
別項「モニタースピーカー論(APM8とAPM6・その12)」で書いていることだ。

山中先生が《ぼくは実はこうした音楽が一番好きなのです》と語られているドビュッシー。
ステレオサウンド 88号の特集「最新コンポーネントにおけるサウンドデザイン24」、
この中に「山中敬三のサウンドデザイン論 そのバックグラウンドをさぐる」がある。
そこで語られていることを思い出していた。
     *
──好きな音楽は?
 わりと広いほうです。若いときから、その時期ごとに、一つのものに傾倒して、それがシフトしていって、結果的にかなり広いジャンルを聴くようになった。
 自分自身でレコードを買うようになったのはジャズ……スイングの後半からモダン・ジャズまでです。ベニー・グッドマンにはじまり、コルトレーンでストップ。
 兄がクレデンザの一番いいやつを持ってて、それでジャズを聴いてしょちゅう怒られました。でもあの音は素晴らしかった。
 クラシックで最初に好きになったのは、フォーレとかドビュッシーとかのフランス音楽だったんです……。
──S/Nをとるのがむずかしい……!
 苦労しましたね。低音を出そうと思ってもS/Nがとれない。フォーレのレクイエムを聴くために壁バッフル作ったり……。
 フランス音楽のあの積み重なりが好きになったんでしょう。
     *
「コンポーネントステレオの世界 ’82」でのESL63の組合せでは、
《こういったドビュッシーなんかの曲で一番難しいのは、
音が空間に漂うように再生するということだろうと思います》といわれている。

フランス音楽の積み重なり、これが漂うように再生されるかどうか。
「漂い」に関しては、88号の特集で菅野先生も語られている。
     *
──鳴らし方のコツのコツは……?
 オーディオマニアは「漂い」という言葉を使わない。「定位」という言葉がガンと存在しているからだ。「漂い」の美しさは生のコンサートで得られるもの……。それを、もうちょっとオーディオマニアにも知ってほしい。これこそ、一番オーディオ機器に欠けている部分ですね。
 最新の機械を「漂い」の方向で鳴らすと、極端にいうと、みんなよく鳴るように思います。最新の機械で「定位」という方向にいくと「漂い」がなくなって、オーディオサウンドになります。
     *
山中先生が自宅のシステムとしてAPM6ではなくESL63を選ばれた大きな理由のひとつが、
この「漂い」だと思う。

読み返してみて、そのとおりだと頷く。
モノーラルからステレオ再生になったからそ可能になったといえる漂いの再現。

茫洋とした音が漂いではない。

Date: 3月 2nd, 2023
Cate: 使いこなし

丁寧な使いこなし(その7)

丁寧な使いこなしの反対を、雑な使いこなしとすれば、
雑な使いこなしとは、どういうことなのだろうか。

使いこなしといわれることは、
つまりオーディオマニアが使いこなしと思ってやっていることは、
人によってそう大きくは違わなかったりする。

ケーブルをかえてみたり、スピーカーの置き場所をかえてみたり、
その他にもいくつもあるけれど、それらのことを言葉にしてみれば、同じといっていい。

それでも丁寧な使いこなしと雑な使いこなしはあるし、
本人は丁寧な使いこなしをしているつもりであっても、
他の人からみれば、なんと雑な使いこなしと見られていることだってある。

雑な使いこなしとは、無駄にしてしまう使いこなしだと考えている。

そんなこと無駄だよ、とか、無駄になってしまった、とか、
無駄ということを口にしてしまう。
けれど考えてみればわかることなのだが、無駄にしているのは、
そのことを口にした本人である。

このことは菅野先生からいわれたことであり、
歳を重ねるごとに、深く実感できることだ。

すべて結びつけていける人は、なにひとつ無駄にしない。
結びつけていけない人こそが、無駄と口にする。

Date: 6月 28th, 2021
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その26)

使いこなしとは、
目の前にオーディオ・コンポーネントから、
少なくとも、その時は最上の音だ、と思えるくらいの音を抽き出すことであって、
ここで書いているようなことを考える必要はない──、
それでもいいと思いながらも、
私自身は、これまで書いてきているように、
オーディオには三つのingがあり、
セッティング(setting)、チューニング(tuning)、エージング(aging)であり、
この三つのingをごっちゃにすることなく、
常にその境界を意識していくことが、いつかは訪れる。

そう考えている。

さらにこの三つのing、
統合点(combining)と分岐点(dividing)、それに濾過(filtering)、
もうひとつの三つのingが、通奏低音のように、そこに加わる。

Date: 6月 4th, 2021
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その25)

この項を書いていると、以前書いたことをまた書きたくなってくる。

いまから十年ほど前のステレオサウンドに、短期連載で、
ファインチューニングとつけられた記事が載っていた。

その記事の内容そのもののことではなく、
あくまでもタイトルのことである。

チューニングとついている。
けれど、記事の内容は、どこまでもセッティングである。
ファインセッティングというタイトルだったら、わかる。

けれどファインチューニングである。
誰がつけたタイトルなのだろうか。

担当編集者なのか。
一般的にはそうである。

だとしたら、この記事の担当編集者は、
セッティングとチューニングの違いがわかっていない、というよりも、
違いがあるとも思っていないのだろう。

この担当編集者は、井上先生の試聴に立ち合ったことがないのだろうか。
ないのであれば、しかたないかも……、と思わなくもないが、
それでも十年ほど前に、ステレオサウンドに井上先生の試聴に立ち合った人は、
もういなかったのか。
一人ぐらいはいたように思うのだが。

いたとしても、その人も結局はセッティングとチューニングの違いなんて、
考えたことがなかったのだろう。

考えていたとして、ファインチューニングのタイトルに、何の疑問を抱かなかったとしたら、
井上先生の試聴から何も学んでいなかった。

Date: 6月 2nd, 2021
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その24)

先週に引き続き、今日もまた赤塚りえ子さんのところに行っていた。

このブログの最初のころから、
使いこなしとは、セッティング、チューニング、エージングからなっていて、
これらを混同しないようにすべきだ、と書いている。

オーディオには三つのingがあり、くり返しなるが、
セッティング(setting)、チューニング(tuning)、エージング(aging)の三つであり、
この三つのingの割合は、その時によって違ってくる。

いま赤塚さんのところでやっているのは、セッティングである。
チューニングといえることは、あえてやっていない。

先週、ほんのわずかだけチューニングといえることをやったが、
それは私自身の確認のためにやったことであって、ほぼすべてセッティングをやっている。

エージングに関しては、私がタッチすることではない。
赤塚さんのシステムなのだから、
赤塚さんが聴きたい音楽を、聴きたい時間に、聴きたい音量で聴く。
これだけである。

この領域を、他の人にまかせてしまっては、
もう、そのシステムは、その人のものではなくなる、といってもいいだろう。

私にできるのは、セッティングとチューニングであり、
チューニングは、セッティングとエージングがあるレベルまで進んでからとなる。

Date: 12月 24th, 2020
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(余談)

映画「ワンダーウーマン」の主演女優のガル・ガドットは、
映画のなかで、眉間に皺をよせている。
かなり頻繁によせている。

監督が同じでも、皺の似合わない女優がワンダーウーマンを演じていたら、
こんなに夢中になっただろうか。

Date: 12月 24th, 2020
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その23)

その22)を書いたのは3月だった。
そのころは三ヵ月後にコーネッタを手に入れることになろうとは、まったく思っていなかった。

でも、皺のことを書いていた。
皺が似合うスピーカーとそうでないスピーカーがあるような気がする、
と書いている。

このとき、私の頭になかにあったのは、間違いなくタンノイも含まれていたはずだ。
特定のスピーカーを思い浮べていたわけではなかったけれど、
私のなかでは、ヴァイタヴォックスとともにタンノイも、皺の似合うスピーカーである。

ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」のタンノイ号で、
井上先生が菅野先生との対談で、こんなことを語られている。
     *
井上 ただ、いまのHPDはだいぶ柔和になりましたけれども、それだけに妥協を許さないラティチュードの狭さがありますから、安直に使ってすぐに鳴るようなものではない。現実に今日鳴らす場合でも、JBLとかアルテックなどとは全然逆のアプローチをしています。つまり、JBLとかアルテックの場合、いかに増幅段数を減らしクリアーにひずみのないものを出していくかという方向で、不要なものはできるだけカットしてゆく方向です。ところが、今日の試聴ではLNP2Lのトーンコントロールを付け加えましたからね。いろいろなものをどんどん付けて、それである音に近づけていく。
     *
コーネッタを鳴らしていて、そういったところがあるのを感じていた。
なぜそうなるのか、その理由を特定しようとは思っていないけれど、
皺の似合うスピーカーだからなのだろう、と思うところもある。

もちろん、だからといって、タンノイのスピーカーを鳴らしていくうえで、
井上先生が語られている方向だけが絶対というわけではない。

いままで皺の似合わないスピーカーばかりを鳴らしてきた人が、
皺の似合うスピーカーを鳴らすことになったら、これも手の一つである、ということだ。

Date: 9月 16th, 2020
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(四季を通じて・その6)

夕刻、友人のAさんから短いメールがあった。
Aさんがスピーカーを買い替えていたのは、会って話すことが多いので知っていた。

一年(春夏秋冬)を通して、
さまざまな音楽を聴いてきた、と書いてあった。

そして、ようやくスピーカーのセッティングを少し変更したところ、
いい感じに鳴ってくれるようになった、ともあった。

スピーカーに限らずだが、特にスピーカーを買い替えた場合には、
オーディオの仲間に聴かせたくなるものだろう。

それに、その人の周りのオーディオマニアも、
早く聴かせてくれ、とせっつくことだろう。

「五味オーディオ教室」に書いてある。
     *
 H氏は、私のオーディオ仲間の一人で、たがいに気心の知れている、にくまれ口のひとつも言い合える仲であり、時にはワイフの知らぬ彼の情事を知っていて、ワイフの前では呆けねばならぬ仲でもあるが、そのH氏が英ヴァイタボックスのクリプッシ・ホーンを購入したときのことだ。
 かねてから私も試聴したいと思っていたものなので、さっそく、聴かせろと言ったがH氏はうんと言わない。まだ調子が出ないからと言う。
 車でいえば新車で、馴らし運転が必要だと言う。
 でも感じはどうかと訊いたら、「ちょっとホーン鳴きが気になるが、まずは期待にそむかぬえェ音じゃ」と言う。ホーン鳴きは、部屋の共振による場合が多いので、馴らし運転には関係あるまい、早く聴かせろと催促したら、それからしばらくしてようやく、聴きに来てもよいと言う。それで訪ねたが期待したほどの音ではなかった。
 ところが、半年ほどして、また聴きに来いと言う。執拗に言う。そこで行って愕いたのである。まったく別物のように響いていた。
     *
ここに書かれて或ることを、どう解釈するかは、人によって微妙なところで違いがあるだろう。
私のなかでも、中学二年のころ読んだときと、
それからくり返しくり返し読むたびに、変化するところもあった。

ここには、四季を通じて鳴らすことの意味も含まれている、と解釈する。

Date: 5月 6th, 2020
Cate: 使いこなし

丁寧な使いこなし(その6)

こまかな使いこなしと丁寧な使いこなしは、
似ているようであって、実のところ、そうとうに違っている。

何度も書いているように、
オーディオは何か(どこか)ひとつ変えて、音は変化する。
その変化量は大きかったり小さかったりして、
極端に小さな場合には、人によっては、音なんて変らないじゃないか──、
そんなふうになったりするであろうが、それでも音は変っている。

ほかの人が見落しがちな、そんなこまかな音の変化に気づくことが、
丁寧な使いこなしにつながっていくとは考えていない。

これも何度か書いていることなのだが、
オーディオマニアは、その場で判断しがちである。

何を変える。その音を聴いて、パッとどちらがいいかを判断できることを、
耳がいい、かっこいいと思いがちな傾向があるが、
オーディオを職業としているのならば、そんなことも必要となってくるが、
自分の音に対して、そのことがもたらすメリットは、そんなにない、ともいえる。

なぜ、人は判断しがちなのだろうか。
判断するよりも大事なことは、そこでの聴き較べの結果を、
どちらがいい悪いではなく、そのまま自分の裡に蓄積していくことである。

それは武道をこころざす人が、
何度も何度も、毎日基本的な型を積み重ねていくのと同じなのかもしれない。

それでもただ漫然とくり返していく人と、
そうでない人との違いは、時間が経てばたつほどにはっきりと開いていく。

蓄積、積み重ねる。
これの意味をわかってのことでなければ、
比較試聴をどれだけ行ったところで、それほど身につかない。

Date: 3月 24th, 2020
Cate: 使いこなし

喫茶茶会記のスピーカーのこと(その20)

3月のaudio wednesdayでいっしょに聴いていたHさんも、
この日のカラスの「カルメン」の鳴り方はよかった、と感じられていたようだった。

Hさんは、ULTRA DACでのマリア・カラスも聴かれている。

まだまだだ、と思うところはけっこうある。
それでもULTRA DACと218の価格、
2,500,000円と125,000円、
ULTRA DACは218の二十台分である。

これだけの違いがあるのだから、
ULTRA DACでは通常のCD、218ではMQA Studioというハンディキャップをつけている。

それでも……、というところがあるのも事実だ。
けれど、別の意味で、それでも! といいたくなる音が、この日は聴けた。

218といっても、手を加えた218なのだから、
その自慢をしたいのではなく、ここでいいたいのは、
何もしないで、ただひたすら鳴らして聴くことの重要さである。

ひどい音が鳴ってきたからといって、
それをその場しのぎでごまかすようなことをしていたら、
もしくは、そのひどい音でなんとか聴けるようなソースばかりを鳴らしていたら、
この日のように、短時間での大きな変化は無理であろう。

とはいっても、いいかげんなセッティングではダメである。
きちんとしたセッティングがなされていれば、
鳴らすことの大切さがわかるはずである。

何かをすることだけが使いこなしではない。

Date: 3月 23rd, 2020
Cate: 使いこなし

喫茶茶会記のスピーカーのこと(その19)

3月のaudio wednesdayで最初にかけたのは、
コンドラシンとアルゲリッチによるチャイコフスキーのピアノ協奏曲だった。

コンドラシンによる「シェエラザード」とのカップリングのSACDだ。
各機器の結線が終った段階で、
すぐにでも音を鳴らしたかったので、まず「シェエラザード」をかけた。
鳴らしながら、スピーカーのガタとり、位置の微調整などをやって、
チャイコフスキーにを鳴らした。

「シェエラザード」もよい鳴り方とはいえなかったけれど、
チャイコフスキーは、さらにひどく感じた。

そのがさつな音から、二時間弱。
途中でメリディアンの218を使うようになったけれど、それ以外はなにもしなかった。
とにかく、鳴ってくる音の変化を聴いていただけだった。

それでもオーディオのおもしろいところは、
そうやって鳴らしたあとで、(その18)で書いているように、
MCD350からiPhoneにかえて、レネー・ゼルウィガーによる“Over The Rainbow”を鳴らしてみると、
最初の音からは想像できないほど、まともになっている。

もちろん2月のaudio wednesdayの音にはまだまだではあるけれど、
こういう変化が音に現れてくるなら、音楽が、その魅力を伝える鳴り方へと変っていく。

いくつか鳴らした後に、マリア・カラスの「カルメン」をかけた。
MQA Studio、96kHz、24ビットでの音は、まだまだ不備のある音ではあっても、
聴き惚れるくらいにまで変っていた。

何度も書いているように、
マリア・カラスの「カルメン」に関しては、
ULTRA DACで、通常のCDをshortフィルターで再生した音が、
私にとっての、喫茶茶会記での音のひとつの基準になっている。

その音に、218でどこまで迫れるかも、私にとって挑戦である。

Date: 3月 18th, 2020
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その22)

誰だったのかは忘れてしまっているが、
外国の著名な女優だったかもしれない、
「長い時間をかけて、やっと手に入れた皺」──、
そんなことを読んだ記憶がある。

エージングとは、そういうことではないだろうか。
スピーカーのエージングということが、むかしむかしからいわれ続けてきている。

エージングとは、いったいどういうことなのか。
人それぞれ違ってくることだろうが、
私には、皺を刻んでいくことのような気がするし、
それだけでなく、皺が似合うスピーカーとそうでないスピーカーとが、
大きく分ければ、そうであるような気がする。

どのスピーカーが、皺が似合うのか。
これも人によって多少は違ってこよう。

これまで、この項で書いてきている例でのスピーカーは、
私からすれば、もっもと皺が似合うスピーカーのひとつである。

アンチエージングということで、
皺を完全に拒否する生き方もある。

そういう生き方もあるだろうし、
そういう音のスピーカー、
つまり皺がまったく似合わない、
いつまで経っても似合いそうにない音のスピーカーもある、といえる。

どちらのタイプのスピーカーを選択するかで、
スピーカーのエージングとはどういうことなのか、
そのことに対する考え方は大きく違ってくるはずだ。

Date: 3月 6th, 2020
Cate: 使いこなし

喫茶茶会記のスピーカーのこと(その18)

メリディアンの218に電源スイッチはない。
なので私はずっと通電したままで使っている。

電源を切るのは手を加えるときぐらいだ。

audio wednesdayの前日の夜に準備をする。
218もその時バッグに収める。23時ごろには電源を切るわけだ。

audio esdnesday当日は早ければ18時ごろには電源をいれる。
それでも本来の音が鳴ってきたな、と感じるのは、その二時間後ぐらいである。

今回は電源を入れたのが21時過ぎだった。
ほぼ丸一日電源を入れていない状態だった。

つまり218本来の音が鳴ってくるのは、その二時間後、
23時過ぎくらい、ということになる。
こればかりはどうにかできることではない。

鳴らしながら待つしかない。
だから22時30分ごろは、ようやく鳴り始めてきたな、という状態でもある。

やっとここで、編成の小さな、しっとりした感じが重要となる曲をかける。
それまでかけてきた曲とは、音量もぐんと小さくなる。

こういった曲が、なんとか鳴ってくれれば、まずまずということになる。
そして、この時点で、MCD350からiPhoneに変更した。

鳴らしたのは、映画「JUDY」(邦題:ジュディ 虹の彼方に)で、
主演のレネー・ゼルウィガーによる“Over The Rainbow”である。

MQAで、44.1kHz、24ビットである。

Date: 3月 6th, 2020
Cate: 使いこなし

喫茶茶会記のスピーカーのこと(その17)

今回のaudio wednesdayでは、SACDをけっこう持ってきた。
個人的にも、どんなふうに鳴ってくれるのか興味津々なところもあった。

でも、その期待は一瞬にして打ち砕かれた。
せっかくのSACDであっても、メリディアンの218を使えば、
DSD再生ではなく44.1kHz、16ビットの通常のCD再生となる。

スペック的には、音質的にも不利になる。
それでも218の音を聴いてみよう、と思うしかなかった。

218を通す以前かけていたSACDのCD層を鳴らす。
残念なこと、というべきなのかもしもないが、
218での音の方がよかった。

いくら手を加えた218とはいえ、
元のプログラムソースがSACDとCDとでは、
誰が考えてもSACDのほうが良く鳴ってくれる、と思う。
私だってそうだ。

またそうでなくては困る。
なのに、この日の結果は違っていた。

こうなるとMCD350の調子がどこかおかしかったのかもしれないが、
それを突き止める時間はなかった。

218で聴こう、と決めた。
何も知らずに訪れた人が聴いたら、ひどい音と感じただろう。
それでも、そのがさつな音に耐えていくしかない。

こういう時、時間の余裕がたっぷりとあれば、
やさしいソフトから徐々に鳴らしていく、というやり方もあるが、
そんな悠長なことはやってられない。

それでも218の良さは伝わってくる鳴り方はしていた。
結局、どうにか聴ける音になってきたと感じたのは22時30分ごろだった。

そのくらいかかると、218にした時点で予想できていた。

Date: 3月 6th, 2020
Cate: 使いこなし

喫茶茶会記のスピーカーのこと(その16)

audio wednesdayは毎月第一水曜日だから、
次回までは四週間もしくは五週間あることになる。

そのあいだは、誰かによって鳴らされていたり、
スピーカーを鳴らす必要のない人、
つまり喫茶茶会記のスペースを音楽、オーディオ以外に利用している人たちにとっては、
邪魔な存在になったりする。

今回は四週間ぶりになる。
しかも3月のaudio wednesdayは、どうしてもさけられない用事があって、
喫茶茶会記への到着がいつもより二時間以上遅くなってしまった。

音が鳴り始めたのは20時過ぎていた。
鳴ってきた音は、ひどかった。

この四週間のうちに、どれだけひどい扱いを受けてきたのか、
それともがさつな鳴らし方をされてきたのか、
そんなことを想像してしまうほど、がさつな音しか鳴ってこなかった。

時間の余裕があれば、あれこれやれるが、今回は違った。
もうただただ鳴らしていくしかない。

繊細さ、みずみずしさ、艶、そういった要素が皆無の、
野放図な音だった。
だから、がさつな音と表現したくなる。

2月のaudio wednesdayでの音は、いったいどこか消えてしまったのか。
そういいたくなるほどだった。
しかもSACDで、そういう鳴り方だった。

今回は遅くなったこともあって、
メリディアンの218は設置しなかった。
マッキントッシュのMCD350で、いい音がしたら、
そのまま行こうかな、と考えていただけに、
出てきた音のがさつな音の度合の大きさに、結局218を取り出すことにした。