快感か幸福か(その3)
最愛の人と仲睦まじく暮らしていても、
暖かい家族にめぐまれていても、
道を示してくれる師と呼べる人がいても、
忌憚なき意見を言ってくれる友人の存在があったとしても、
人はやはり、究極的には孤独(ひとり)である。
サミシイ……と嘆いて何になろう。
音楽を愛し、オーディオと真剣に向き合ってきたのなら、
なぜ、嘆く前に、愛聴盤に耳を傾けないのか。
孤独だからこそ、音楽の大切さを実感する、有難さが身に沁みる。
これを幸福と呼ばずして何を幸福というのだろうか。
最愛の人と仲睦まじく暮らしていても、
暖かい家族にめぐまれていても、
道を示してくれる師と呼べる人がいても、
忌憚なき意見を言ってくれる友人の存在があったとしても、
人はやはり、究極的には孤独(ひとり)である。
サミシイ……と嘆いて何になろう。
音楽を愛し、オーディオと真剣に向き合ってきたのなら、
なぜ、嘆く前に、愛聴盤に耳を傾けないのか。
孤独だからこそ、音楽の大切さを実感する、有難さが身に沁みる。
これを幸福と呼ばずして何を幸福というのだろうか。
20代のころ、音の表現として、
感心できる音、
感激できる音、
感動できる音、があると思ってきた。
30代のころ、感動の先にもうひとつあると思ってきた。
40になって、気づいた。
感謝できる音、があることに。
感心と感激は、快感の域、
感動、感謝が幸福の域、と言い切る。
瀬川先生の鳴らされていた音を聴くことは、もうできない。
けれど、瀬川先生の愛聴盤を聴くことは、その音をイメージするきっかけになるだろう。
廃盤になっていたものも、CDで復刻されている。
ヨッフムのレクイエムも出ている。
※
そのせいだろうか、もう何年も前たった一度だが、夢の中でとびきり美しいレクイエムを聴いたことがある。どこかの教会の聖堂の下で、柱の陰からミサに列席していた。「キリエ」からそれは異常な美しさに満ちていて、そのうちに私は、こんな美しい演奏ってあるだろうか、こんなに浄化された音楽があっていいのだろうかという気持になり、泪がとめどなく流れ始めたが、やがてラクリモサの終りで目がさめて、恥ずかしい話だが枕がぐっしょり濡れていた。現実の演奏で、あんなに美しい音はついに聴けないが、しかし夢の中でミサに参列したのは、おそらく、ウィーンの聖シュテファン教会でのミサの実況を収めたヨッフム盤の影響ではないかと、いまにして思う。一九五五年十二月二日の録音だからステレオではないが、モーツァルトを追悼してのミサであるだけにそれは厳粛をきわめ、冒頭の鐘の音からすでに身の凍るような思いのするすごいレコードだ。カラヤンとは別の意味で大切にしているレコードである(独アルヒーフARC3048/49)。
※
はじまりの鐘の音が収録されていないCDも出ているが、
ここはやはり鐘の音が収録されているほうで聴きたい。
グラモフォンから発売されている。
エリカ・ケートの歌曲集も昨年、CDになった。
※
エリカ・ケートというソプラノを私はとても好きで、中でもキング/セブン・シーズから出て、いまは廃盤になったドイツ・リート集を大切にしている。決してスケールの大きさや身ぶりや容姿の美しさで評判になる人ではなく、しかし近ごろ話題のエリー・アメリンクよりも洗練されている。清潔で、畑中良輔氏の評を借りれば、チラリと見せる色っぽさが何とも言えない魅惑である。どういうわけかドイツのオイロディスク原盤でもカタログから落ちてしまってこれ一枚しか手もとになく、もうすりきれてジャリジャリして、それでもときおりくりかえして聴く。彼女のレコードは、その後オイロディスク盤で何枚か入手したが、それでもこの一枚が抜群のできだと思う。
※
瀬川先生が書かれたものを読み返したり、
当時のステレオサウンドの試聴レコードのリストを参考にされれば、
どんなレコードを好んで聴かれていたかが、すこしだけだろうが、伝わってくる。
まだ手もとに届いていないが、バルバラのSACDも購入した。
バルバラの声が、SACDではどう響くのか、瀬川先生が聴かれたらなんと言われるか、
そんなことを想像して届くのを待つのも、じつに楽しい。
audio sharing で公開しているEMTの930stに関するユーザー鼎談は、
サウンドステージ誌の1992年秋号に掲載されたものである。
登場人物は、清滝錬一郎、久和亮平、吉田秋生の3氏。
この記事を audio sharing で公開しているため、
私がこの中の一人だと思われた方もいるかもしれない。
もう16年経ったから言ってもいいだろう。
3人とも私である。誰一人として実在しない。
私の中にある、いくつかのものを脹らませて、930stについて語った次第だ。
瀬川イズムの吉田氏、SUMOのThe Powerを愛用する久和氏、シーメンスのスピーカーの清滝氏──。
私自身も930stを使っていた。
正確にはトーレンス・ヴァージョンの101 Limited、シリアルナンバー102で、
最初に入ってきた2台のうちの1台。
シリアルナンバー101がいい、と言ったけど、「これは売らない」と言われ、102になった。
101 Limitedのシリアルナンバーは101から始まっている。
シリアルナンバー101と102は、トーンアーム929のパイプが黒色塗装。
その後、927Dstに買い替えのため手放した。
シーメンスのスピーカーも使っていた。
清滝氏と同じオイロフォンと言いたいところだが、コアキシャル・ユニットだ。
これを、ステレオサウンドの弟誌サウンドボーイが取材用に製作した平面バッフル、
ウェスターンの平面バッフルを模したもので、米松の1.8m×0.9mの大きさ。
これを6畳間にいれていたこともある。
エッグミラーのアッテネーターも使っていた。
SUMOのアンプは、The Powerではなく、The Goldを愛用していた。
瀬川先生が、熊本のイベントで、トーレンスのリファレンスのときに使用されていたのがThe Goldだったことも、
このアンプを選択したことにつながっているのかもしれない。
これらの断片から生れたのが、930stのユーザー鼎談で、
第二弾、第三弾として、4343篇、300B篇も考えていたが、諸般の都合で1回だけで終了となった。
数年前から感じていることだが、
ある年齢に達しないと出せない音、世界があきらかにある。
菅野先生の音を聴くたびに、その思いは強くなる。
菅野先生と同じだけのオーディオの才能、センス、耳、
そして同じオーディオ機器と同じリスニングルーム環境を持った人が、もしこの世の中にもうひとりいたとしても、
同じくらいの人生を送ってこなければ無理なのではないか……、
類稀なセンスや感性、才能を持っていても、
それだけではどうしても到達できない 音の世界(レベル)がある。
孔子の論語が頭に浮ぶ。
子曰く、
吾れ十有五にして学に志ざす。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳従う。
七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。
1932年生れの菅野先生は、今日、76歳になられた。
「七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。 」、
まさにそのとおりである。
愛聴盤が、思い描いた通りの音で鳴ったとき、
それ以上の音で鳴ったときに感じているのはなんなのか。
ずっと欲しかったオーディオ機器を、やっとの思いで手に入れたときの感じもそうだ。
快感なのか幸福感なのか。
音の変化は快感をもたらす。でも、快感は一時的なものにしかすぎない。持続しない。
快感を追い求めつづけるのは否定はしない。快感の積み重ねが幸福につながるのかもしれない。
けれど、つねに変化を──、機器の入れ換え、ケーブルをあれこれ試してみたり、
インシュレーターを挿んだり重ねたり、やろうと思えば、際限なく行なえる。
いい音の追求は、必ずしも幸福を得ることにつながっているのではない、という気持がどこかにある。
快感に、一時期とことん溺れてみるのは、経験しておいたほうがいいかもしれない。
けれど、いつまで経っても快感の追及だけだとしたら、虚しいではないか。
「芸術の目的は、神経を昂奮させるアドレナリンを瞬間的に射出させることではなく、
むしろ、少しずつ、一生をかけて、
わくわくする驚きと落ち着いた静けさの心的状態を構築していくことである。
われわれはたったひとりでも聴くことができる。
ラジオや蓄音機の働きを借りて、まったく急速に、
美的ナルシシズム(わたしはこの言葉をそのもっとも積極的な意味で使っている)の
諸要素を評価するようになってきているし、
ひとりひとりが深く思いをめぐらせつつ
自分自身の神性を創造するという課題に目覚めてもきている」。
グレン・グールドの言葉である。
グールドについて語られるとき、よく引用されるから読まれた方も少なくないだろう。
アドレナリンの瞬間的な射出を快感、
一生かけて、わくわくする驚きと落着いた静けさの心的状態を幸福として受けとめると、
グールドがコンサートをドロップアウトしたことが理解できそうでもあるし、
オーディオで音楽を聴くことが幸福の追求であるとも思えてくる。
瀬川先生は、レコードをターンテーブルに置かれた後、
必ず人さし指と中指で、レーベルのところをちょんと、軽く押えられる。
ターンテーブルに密着させるためではなく、
レコードに「今日もいい音(音楽)を聴かせてくれよ」という呼びかけのような印象を、
その行為を見ていて、私はそう感じた。
これを見たその日からさっそくマネしはじめた。
その他にも、カートリッジをレコードに降ろすとき、
右手の小指はプレーヤーのキャビネットに置き、
右手の動きを安定させる。
カートリッジの針がレコードの盤面に近づいたらヘッドシェルの指掛けから、指を素早く離す。
針がレコードに触れるまで持っていると、レコードを逆に傷つけてしまうからだ。
しかも、瀬川先生はレコードのかけ替えの時、ターンテーブルはつねにまわされたままだった。
すっとレコードを乗せて、すっと取られる。ためらっていると、レコードは傷つく。
これももちろんマネした。
ずっとマネしていると、いつか日かサマになる。
ステレオサウンドにいたとき、取材の試聴の時、つねにターンテーブルはまわしっぱなし。
一度もレコードを、そのせいで傷つけたことはない。
21歳ぐらいのときか、西日暮里にあった伊藤(喜多男)先生の仕事場に伺ったとき言われたのが、
「アンプを自作するのなら、一時間自炊をしなさい」であり、肝に銘じてきた。
その一年ほど前に、
伊藤先生がつくられたウェスターン・エレクトリックの349Aプッシュプルアンプを聴いて、
当時使っていたロジャースのPM510に組み合せるのは、「このアンプだ」と思っていた時期であり、
自分でそっくりの349Aアンプをつくろうと思っていることを話したら、上の言葉をいただいた。
つまり人間の感覚のなかで、聴覚は、味覚に比べると目覚めるのが遅い。
味の好き嫌い、おいしい、まずいを判断できるようになる時期と比べると、
聴覚のその時期は人によって異るけど、たいていはかなり遅い。
目覚めの早い味覚、言い変えれば、つきあいの長い自分の味覚を、
自分のつくったもので満足させられない男が、
つきあいの比較的短い聴覚を満足させられるアンプをつくれるわけがないだろう、ということだ。
味覚も聴覚も視覚も、完全に独立しているわけでもない、と。
それにどんなに忙しくても一時間くらいはつくれるはずだし、
一時間の手間をかければ、そこそこの料理はつくれるものだ。
同時に、料理をつくる時間を捻出できない男に、
アンプを作る時間はつくれないだろう、と。
設計をする時間、パーツを買いに行く時間、選ぶ時間、アンプのレイアウトを考える時間、
そしてシャーシの加工をする時間、ハンダ付けの時間……、
それらの時間は料理に必要な時間よりも多くかかる。
納得できる。
一時間自炊はアンプの自作だけに限らない。
アンプやスピーカーを選択し、セッティングし、調整して、いい音を出すことにも、ぴたりあてはまる。
井上先生がよく言われていたのは
「レコードは神様だ、だから疑ってはいけない」。
なかには録音を疑いたくなるようなひどいディスクもあるけれど、
少なくとも愛聴盤、自分が大事にしているディスクに関して、
疑うようなことはしてはいけない、と私も思う。
「このレコードにこんなに音が入っていたのか」ではなく、
「このレコードって、こんなにいい録音だったのか」と思ったことが何度かあるだろう。
己の未熟さを、少なくともレコードのせいにはしたくない。
オーディオに冗長性は必要だろうし、実際に冗長性はある。
録音の過程も器材も、再生機器も、どれひとつ完璧なものは存在しない。
だからこそ冗長性が必要であり、
実際に冗長性(といまのところ私が考えているもの)のおかげで、
家庭で、素晴らしい音楽を再生することが可能になっている。
冗長性が無駄になっては意味がないし、
無駄になる時代は、まだまだ来そうにないだろう。
冗長性が不要になるとき、オーディオは趣味として終るのだろうか。
最近ではデジタルディレイのおかげで、
スーパー(サブ)ウーファーをメインスピーカーよりもかなり前に出している例を見かける。
これでも良さそうな感じだが、実際に聴くと、よろしくない。
耳だけで聴いている低音ならば、それでも良しだろうが、
体感する低音となると、あきらかに違和感を感じる。
どんなにデジタルディレイで時間差を調整したとしても、
メインスピーカーとスーパーウーファーの距離差が大きいと、
スーパーウーファーがかなり手前にある場合、
すぐ近くで鳴っていると体が感じてしまう。
体感する低音となると、左右チャンネル共通のスーパーウーファーならば、センターに置くしかない。
仮想音源と実音源をよく理解したい。
1月にサブウーファーを導入した。
サーロジックのSPD-SW1600である。
ご存じのように、アナログ信号をデジタル信号に変換して、DSPによってカットオフ周波数の変更、
急峻なハイカット、タイムディレイなどをコントロールしている。
デジタル信号処理そのもの、その可能性にはすごく期待しているが、
いまのところは、まだ完全には信用していない面もあるというが本心だ。
タイムディレイにしても、音質変化がゼロとは思えないし、思っていない。
どういう処理で行なうかによっても、音は違ってくるだろうし、
タイムディレイだけでもこんな感じだと、他の信号処理が洗練されていくのは、
ハードウェアの進歩とともにソフトウェアの進歩と洗練も必要になるだろうから、
もうすこし先のことになるだろうし、<実際に製品が積極的に市場に出ることによって、その時間は短縮される。
CDプレーヤーが登場したときに、その音に触れて、
「発売を1年くらい遅らしてでもいいから、もう少しいい音に仕上げてから出してほしかった」
という声があったが、
実際に市場に出て、ユーザーの声がフィードバックされることにより、進歩はあきらかに早くなる。
そういう気持ちにどこかにあるためか、いまサブウーファーを考えると、
ユニットは二発にして、一発はいっさいの処理を行なわないストレートな信号を入力、
もう一発には、デジタル信号処理でもいいしアナログのイコライザーを使用してもいいが、
とにかく部屋の特性を含めて、補正した信号を入力する。
つまりパワーアンプは、それぞれのユニットごとに必要になる。
同時に、それぞれのウーファーのレベルは別個に調整できるようにして、
角度も独立して変えられるようにしたい。
そしてサブウーファーという言い方ではやめたい。かわりにユニバーサルウーファーと呼びたい。
ユニバーサルウーファーという名にふさわしいモノは、
どういうかたちなのかを考えていきたい。
いま、オーディオファイルとして語るべきこと──
これだけはつねに忘れず、書いていこうと思っている。
さっき、ふと思いたって検索してみたら、
通信販売のみで、グラシェラ・スサーナのCD5枚組が、7月に発売されているのを見つけた。
「アドロ」「サバの女王」など、これまで何回もCD化された曲ももちろん含まれているが、
やっとCD化された曲も多く、ためらうことなく購入した。
昨年5月、20年以上ぶりで、グラシェラ・スサーナのコンサートに行った。
最初にグラシェラ・スサーナの歌を聴いたのが、中学2年の秋で、
翌年、はじめてコンサートにも行った。
フルトヴェングラーよりもグールドよりも、ケイト・ブッシュよりも長く聴いている。
去年のコンサート時、スサーナは54歳、私がはじめて聴いた時は24歳、
30年の歳月とともに体重も増えて、髪の毛の色もずいぶんかわって、
むかしのかわいらしさは、どこに行ってしまったんだろう……
と失礼なことを思いながら聴いていた私の耳に届いていたのは、
30年前とほとんど変わらぬ歌であった。
変わらぬから、安心して聴ける、懐かしい、ではなく、新鮮だった。
目まぐるしい変化のなかでは、
変わらぬことの新鮮さ、変わらないからこそ新鮮、ということを、
グラシェラ・スサーナの歌は教えてくれた。
「異相の木」は、黒田(恭一)先生が、
ステレオサウンドに以前連載されていた「さらに聴きとるもののとの対話を」のなかで、
ヴァンゲリスを取りあげられたときにつけられたタイトルである。
おのれのレコードコレクションを庭に例えて、
そのなかに、他のコレクションとは毛色の違うレコードが存在する。
それを異相の木と表現されていたように記憶している。
この号の編集後記で、KEN氏は、
自分にとっての異相の木は八代亜紀の「雨の慕情」だ、と書いている。
異相の木は、人それぞれだろう。自分にとっての異相の木があるのかないのか。
その異相の木は、ずっと異相の木のままなのかどうか。
そして異相の木は、レコードコレクションだけではない。
オーディオ機器にもあてはまるだろう。