Archive for category 瀬川冬樹

Date: 10月 22nd, 2025
Cate: CN191, VITAVOX, 瀬川冬樹

Vitavox CN191と瀬川冬樹(その2)

瀬川先生の文章に魅了され、熱心に読んできた者にとって、
瀬川先生が生きておられたら、スピーカーは何を鳴らされていただろうか、は永遠に答の出ないテーマであり、
早瀬文雄(舘 一男)さんとは、よく話したものだ。

瀬川先生はメインのスピーカーとして、JBLの4341、4343、4345と鳴らされていた。
4345の次は、いったいどのスピーカーにされたのか。

JBLのスピーカーを選ばれたのか。それとも──、楽しいオーディオ談義でもあった。

決定的なコレだ、というスピーカーはなかったけれど、ダリのSkyline 2000は、かなり高い評価をされたはず、と二人で納得したこともある。

それでもSkyline 2000を購入されるのかどうかは、なんとも言えなかった。
反対に、コレはないな、というスピーカーについても話していた。

1990年代のころ、アメリカのハイエンドオーディオを代表するブランド、
具体的に挙げればアヴァロン、ティール、ウィルソン・オーディオは、絶対にない、と、これも二人とも共通していた。

そんなことを話しながらも舘さんに話すことはなかったが、
私はJBLのパラゴンとヴァイタヴォックスのCN191のことも考えていた。

Date: 10月 21st, 2025
Cate: CN191, VITAVOX, 瀬川冬樹

Vitavox CN191と瀬川冬樹(その1)

ステレオサウンド 43号(1977年6月発行)、
特集・「評論家の選ぶ ’77ベストバイ・コンポーネント」で瀬川先生は、ヴァイタヴォックスのCN191について、こう書かれていた。
     *
 いまの私には、これを鳴らす理想的なコーナーを整えるという条件を満たすことができないからあきらめているが、せめていつかは、この豊潤で渋い光沢のある独特の音質をわがものにしてみたいという夢を持っている。いまやこれだけが、現行製品の中で良き時代を残した最後の生き残りなのだから。
     *
CN191のことは、「五味オーディオ教室」を読んでいたから、その存在だけは知っていた。
五味先生のタンノイのオートグラフと双璧をなすスピーカーシステム、
それもアメリカ製ではなく、イギリスのスピーカーシステム。

さらに私がオーディオに興味を持ったころ、オートグラフはタンノイでは製造しておらず、
輸入元のティアックがライセンスを得て日本でエンクロージュアを作っていたのだから、
イギリス・オリジナルのスピーカーユニットとエンクロージュアの組合せによるスピーカーシステムの音を聴けるのは、
もうそれだけで素晴らしい価値あることだと、中学生だった私は思っていた。

ステレオサウンド 47号(1978年6月発行)
特集・「評論家の選ぶ’78ベストバイ・コンポーネント」では、《コーナー型オールホーン唯一の、懐古趣味でなく大切にしたい製品。》と、
瀬川先生は書かれている。

1978年でも、CN191を懐古趣味として見る人はいたわけだ。
ましてそれから五十年近く経っているのだから、
ヴァイタヴォックスという会社すら知らない若い世代にとっては、
懐古趣味どころか化石のような存在なのかもしれない。

スピーカーユニットが何ひとつ見えない。
ウーファーはクリプッシュホーンによって隠れている。
中高域を受け持つドライバーとホーンも、化粧カバーに覆われていて見えない。

CN191は、そういうスピーカーである。

Date: 6月 19th, 2025
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その32)

JBL D44000 Paragon。
死ぬまでに一度鳴らしてみたいスピーカーの筆頭だ。

パラゴンが、私にとっての終のスピーカーとなることはあまりないけれど、
一年間、じっくりと取り組んでみたい、といまでも思う。

パラゴンとともに大きな部屋が欲しいわけではない。
オーディオ専用の空間であれば、六畳間くらいの部屋でもいい。

パラゴンにグッと近づいて聴く。小音量で鳴らしたい。
だから、静かなオーディオ機器を用意したい。
電源トランスも唸らず、空冷用のファンもないアンプで鳴らす。

ローレベルのリニアリティ、S/N比の良さだけでなく、
ローレベルのリアリティの優れたアンプを持ってきたい。

Date: 4月 13th, 2025
Cate: PM510, Rogers, 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(ロジャースPM510・その8)

audio wednesdayを毎月第一水曜日にやる度に思うことがある。
オーディオ業界から離れている私だってやれることを、
どうしてステレオサウンドをはじめとするオーディオ雑誌はやらないのか、だ。

機材も人もそろっているわけだから、
私がやっているよりも、ずっと多くのことができるわけだし、協力してくれるメーカーや輸入元は、ほぼすべてと言ってもいいはず。

ステレオサウンド編集部が、こういうことを定期的にやりたいと、
メーカーや輸入元に声をかければ、断るところはないと思う。
特に準備期間はなくとも、すぐに始められるはずだけ。
けれど、やらない。
もったいないな、とも思う。

こんなことを、audio wednesdayをやりながら毎回思うし、
瀬川先生だったら、どんなふうにやられただろうか、も考えてしまう。

JBLの4343を鳴らしてから思い始めたことがある。
ロジャースのPM510を鳴らしてみたい、と。

Date: 2月 21st, 2025
Cate: PM510, Rogers, 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(ロジャースPM510・その7)

(その6)で、瀬川先生にとって、
JBLの4343は冒険、ロジャースのPM510は旅行と書いた。

瀬川先生が、「コンポーネントステレオの世界 ’80」の巻頭に書かれていることが、このことに私の中では関係している。
     *
 現にわたくしも、JBLの♯4343の物凄い能力におどろきながら、しかし、たとえばロジャースのLS3/5Aという、6万円そこそこのコンパクトスピーカーを鳴らしたときの、たとえばヨーロッパのオーケストラの響きの美しさは、JBLなど足もとにも及ばないと思う。JBLにはその能力はない。コンサートホールで体験するあのオーケストラの響きの溶けあい、空間にひろがって消えてゆくまでの余韻のこまやかな美しさ。JBLがそれをならせないわけではないが、しかし、ロジャースをなにげなく鳴らしたときのあの響きの美しさは、JBLを蹴飛ばしたくなるほどの気持を、仮にそれが一瞬とはいえ味わわせることがある。なぜ、あの響きの美しさがJBLには、いや、アメリカの大半のスピーカーから鳴ってこないのか。しかしまた、なぜ、イギリスのスピーカーでは、たとえ最高クラスの製品といえどもJBL♯4343のあの力に満ちた音が鳴らせないのか──。
     *
《JBL♯4343のあの力に満ちた音》、
ここがとても重要になってくる。
このことがあっての1月のaudio wednesdayでは4343でライヴ録音のみをかけたわけだ。

Date: 1月 10th, 2025
Cate: 瀬川冬樹

90回目の1月10日

今日(1月10日)は、瀬川先生の誕生日。
生きておられたら九十歳。

九十歳の瀬川先生は、想像できない。

私の手元には、活字にならなかった書きかけの原稿、
原稿書きのためのプロット、
新しいオーディオ雑誌の企画書の下書き、
アンプやツマミのスケッチ、
それからなで肩だったためオーダーされたコート、
それからテクニクスのSB-F01がある。

SB-F01を、どう使われていたのか。
まったくわからない。
ごく小音量で聴かれていたのか。

SB-F01を、数年ぶりに鳴らしている。
SB-F01には入力端子が二つある。
一つはヘッドフォン端子用、もう一つはスピーカー端子用で、
アンプのスピーカー端子とSB-F01のスピーカー端子用を接続した方が良さそうに思えるが、
スピーカー端子用には68Ωのセメント抵抗が直列に入る。
ユニットの保護のためである。

音のよいヘッドフォン端子をもつアンプがあれば、
こちらの方がいい結果は得やすい。

今日、どうやったかといえば、
アキュフェーズのDC330のライン出力を、SB-F01のヘッドフォン端子と接いでいる。

かけられる曲は限られる。
ひっそりと鳴っている。

Date: 11月 5th, 2024
Cate: 瀬川冬樹

虚構を継ぐ者(その6)

映画「八犬伝」を観てきた。

映画後半で、渡辺崋山が滝沢馬琴に語るシーンがある。
オーディオにそのまま当てはまることが語られる。

深く感じるものがあるはずだ。

Date: 3月 17th, 2023
Cate: 瀬川冬樹

虚構を継ぐ者(その5)

虚構を継ぐ者は、
誰かに、それを託せる人でもあるわけだ。

Date: 12月 1st, 2022
Cate: 瀬川冬樹

AXIOM 80について書いておきたい(その22)

岩崎先生は書かれている。
     *
アドリブを重視するジャズにおいて、一瞬一瞬の情報量という点で、ジャズほど情報量の多いものはない。一瞬の波形そのものが音楽性を意味し、その一瞬をくまなく再現することこそが、ジャズの再生の決め手となってくる。
     *
これを何度も暗記するほどに読んでいるから、
ジャーマン・フィジックスのTroubadour 40(もしくは80)が、
岩崎先生にとっての21世紀のD130といえるのではないだろうか、とおもってしまう。

Date: 11月 24th, 2022
Cate: 瀬川冬樹

AXIOM 80について書いておきたい(その21)

その20)に、
ジャーマン・フィジックスのDDD型ユニットは、
菅野先生にとっての21世紀の375+537-500にあたり、
瀬川先生にとっての21世紀のAXIOM 80といえる。そう確信している、
と書いた。

これは絶対の確信なのだが、同時に考えていることがひとつある。
岩崎先生にとっては、どうなのだろうか、だ。

岩崎先生もAXIOM 80を鳴らされていた一人だ。
岩崎先生は、AXIOM 80からJBLのD130へ、の人だ。

岩崎先生にとっての21世紀のD130といえるのか。
DDD型ユニットはスタックしていける。

Troubadour 40を上下にスタックしたかっこうのTroubadour 80があった。
Troubadour 80ならば、
岩崎先生にとっての21世紀のD130といえるのか──、
そんなことを考えている。

Date: 11月 11th, 2022
Cate: 瀬川冬樹

AXIOM 80について書いておきたい(その20)

別項「瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その10)」で、
ジャーマン・フィジックスのDDD型ユニットは、
瀬川先生にとっての21世紀のAXIOM 80となったことだろう、と書いた。

いまもそのおもいはまったく変らない。
間違いなく瀬川先生は、
ジャーマン・フィジックスのDDD型ユニット中心のスピーカーを選択されたはず。

このことは、菅野先生と話したことがある。

菅野先生がジャーマン・フィジックスのTrobadour 40を導入されたとき、
たしか2005年5月だった。このときの昂奮はいまもおぼえている。
そして「瀬川先生が生きておられたら、これ(Trobadour 40)にされてたでしょうね」、
自然と言葉にしてしまった。

菅野先生も
「ぼくもそう思う。オーム(瀬川先生の本名、大村からきているニックネーム)もこれにしているよ」
と力強い言葉が返ってきた。

私だけが感じた(思った)のではなく、菅野先生も同じおもいだったことが、とてもうれしかった。
なので、すこしそのことを菅野先生と話していた。

ジャーマン・フィジックスのDDD型ユニットは、
菅野先生にとっての21世紀の375+537-500にあたり、
瀬川先生にとっての21世紀のAXIOM 80といえる。そう確信している。

Date: 11月 7th, 2022
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹を想う

月を見ていた。

8日もすれば満月になる月が、新宿駅のビルの上に浮んでいたのを、信号待ちをしていたとき、
ぼんやり眺めていた。まわりに星は見えず、月だけがあった。
そして想った。

昨年2月2日、瀬川先生の墓参のとき、位牌をみせていただいた。
戒名に「紫音」とはいっていた。

最初は「弧月」とはいっていた、ときいた。

だからというわけでもないが、ふと、あの月は、瀬川冬樹だと想った。

東京の夜は明るい。夜の闇は、表面的にはなくなってしまったかのようだ。
「闇」「暗」という文字には、「音」が含まれている。
だからというわけではないが、オーディオで音楽を聴くという行為、音と向き合う行為には、
どこか、暗闇に何かを求め、何かをさがし旅立つ感覚に通じるものがあるように思う。

どこかしら夜の闇にひとりで踏み出すようなところがあるといえないだろうか。
闇の中に、気配を感じとる行為にも似ているかもしれない。

完全な闇では、一歩を踏み出せない。
月明かりがあれば、踏み出せる。足をとめず歩いていける。
月が、往く道を、ほのかとはいえ照らしてくれれば、歩いていける。

夜の闇を歩いていく者には、昼間の太陽ではなく、月こそ頼りである。
夜の闇を歩かない者には、月は関係ない。

だから、あの月を、瀬川冬樹だと想った。
そして、ときに月は美しい。
     *
2009年9月25日に、こう書いている
読み返して、この日の月をおもいだしていた。
たしかに美しかった。ほんとうに美しく、私の目にはみえた。
だから、こんなことをおもっていた。

今日は11月7日だ。

Date: 10月 31st, 2022
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(45真空管アンプ・その2)

その1)で書いている45を使ったラインアンプ。
一年前は、こういうアンプもおもしろいかも、ぐらいだったけれど、
終のスピーカーがやって来ることになって、真面目に考えるようになってきた。

45単段のラインアンプである。
あくまでもラインアンプで、ライントランスを使って600Ω出力。
なので出力は大きい必要はない。

となるとプレート電圧を低めにしてバイアスも浅めに。
そうすればコントロールアンプとパワーアンプ間に挿入する使い方になる。

アンプというよりもバッファー(インピーダンス変換)である。
45の音を附加するためのモノである。
     *
暗中模索が続き、アンプは次第に姿を変えて、ついにUX45のシングルになって落着いた。NF(負饋還)アンプ全盛の時代に、電源には定電圧放電管という古めかしいアンプを作ったのだから、やれ時代錯誤だの懐古趣味だのと、おせっかいな人たちからはさんざんにけなされたが、あんなに柔らかで繊細で、ふっくらと澄明なAXIOM80の音を、わたしは他に知らない。この頃の音はいまでも友人達の語り草になっている。あれがAXIOM80のほんとうの音だと、私は信じている。
     *
瀬川先生に倣って、定電圧放電管を使おうか、とも考えている。

Date: 10月 30th, 2022
Cate: PM510, Rogers, 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(ロジャースPM510・その6)

JBLの4343とロジャースのPM510。
同時代のスピーカーシステムであっても、その音はずいぶん違うし、
音楽の聴き方も違ってくるといえる。

4343とPM510は、瀬川先生が愛されたスピーカーだ。
4341とLS5/1Aとしてもいいのだが、
私にとっては4343とPM510である。

別項「ステレオサウンドについて(その88)」でも引用している、
瀬川先生の未発表原稿の冒頭に、こう書いてある。
     *
 いまもしも、目前にJBLの4343Bと、ロジャースのPM510とを並べられて、どちらか一方だけ選べ、とせまられたら、いったいどうするだろうか。もちろん、そのどちらも持っていないと仮定して。
 少なくとも私だったら、大いに迷う。いや、それが高価なスピーカーだからという意味ではない。たとえばJBLなら4301Bでも、そしてロジャースならLS3/5Aであっても、そのどちらか一方をあきらめるなど、とうてい思いもつかないことだ。それは、この二つのスピーカーの鳴らす音楽の世界が、非常に対照的であり、しかも、そのどちらの世界もが、私にとって、欠くことのできないものであるからだ。
     *
私も4343とPM510に憧れてきた。
PM510を選んだ。

私も大いに迷った。
PM510にしたのは、価格のことも大きく関係しているし、
このころすでにステレオサウンドで働くようになっていたから、
JBLは試聴室で日常的に聴ける、ということももちろん関係している。

だから自分でも、なぜ、この二つのスピーカーに対して迷うのか、と考える。
まだはっきりとした結論は出ていないが、それでもこうおもっている。

冒険(4343)と旅行(PM510)なんだ、と。
このことが、JBLで音楽を聴いている人は、ロマンティストなんだ、ということにもつながっている。

Date: 9月 18th, 2022
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹というリアル(その9)

ステレオサウンド 59号掲載の、
瀬川先生によるアキュフェーズM100の新製品紹介の文章。

この文章が、読んだ時から、ずーっと心のどこかにひっかかっているような気がしていた。
アキュフェーズのM100に、当時、すごく関心を寄せていたわけではない。
自分でも不思議に思いながらも、
ひっかかっているような気がしていた、という感じだったので、
あまり、というか、ほとんどそのことについてそれ以上考えることはしなかった。

最近になって、ああそうだ、と気づいた。
     *
 そのことは、試聴を一旦終えたあとからむしろ気づかされた。
 というのは、かなり時間をかけてテストしたにもかかわらず、C240+M100(×2)の音は、聴き手を疲れさせるどころか、久々に聴いた質の高い、滑らかな美しい音に、どこか軽い酔い心地に似た快ささえ感じさせるものだから、テストを終えてもすぐにスイッチを切る気持になれずに、そのまま、音量を落として、いろいろなレコードを、ポカンと楽しんでいた。
 その頃になると、もう、パワーディスプレイの存在もほとんど気にならなくなっている。500Wに挑戦する気も、もうなくなっている。ただ、自分の気にいった音量で、レコードを楽しむ気分になっている。
 そうしてみて気がついたことは、このアンプが、0・001Wの最小レンジでもときどきローレベルの表示がスケールアウトするほどの小さな出力で聴き続けてなお、数ある内外のパワーアンプの中でも、十分に印象に残るだけの上質な美しい魅力ある音質を持っている、ということだった。夜更けてどことなくひっそりした気配の漂いはじめた試聴室の中で、M100は実にひっそりと美しい音を聴かせた。まるで、さっきの640Wのあの音の伸びがウソだったように。しかも、この試聴室は都心にあって、実際にはビルの外の自動車の騒音が、かすかに部屋に聴こえてくるような環境であるにもかかわらず、あの夜の音が、妙にひっそりとした印象で耳の底で鳴っている。
     *
瀬川先生の文章の終りのほうである。
ここのところが、ずーっと私の心のどこかにあった。

ここのところを読んで、どう思うのかは、人それぞれでしかない。
私は私の読み方をするだけで、
ここのところを読んでいると、
瀬川先生は独りでM100を聴かれているのか──、
そんなことを感じてしまうから、私の心のどこかにひっかかっていたのだろう。

そんなことはない。
ステレオサウンドの試聴室での試聴なのだから、
瀬川先生の隣には編集者が最低でも一人か二人はいるはずだ。

なのに、何度読み返しても、私には瀬川先生が独りで聴かれていくように感じてしまう。