Archive for category 瀬川冬樹

Date: 4月 6th, 2019
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹というリアル(その1)

駅からの帰り道、
「瀬川冬樹というリアル」、
こんなことを思いついた。

なんのきっかけもなしに頭に浮んできた思いつきである。
思いつきではあるものの、たしかにそうだな、と思いつつ歩いていた。

「瀬川冬樹というリアル」。
「虚構世界の狩人」でもあっただけに、
このことばに、ある種の手応えのようなものを感じてもいた。

同時に、「菅野沖彦というリアル」、
「岩崎千明というリアル」……、などについても考えてみた。

思いつくオーディオ評論家の名前のあとに「というリアル」をつけてみる。
しっくり来る人、来ない人がいる。

少なくとも、現在オーディオ評論家を名乗っている人の名前のあとに「というリアル」をつけても、
なんともピンとこない。

ピンとこない理由を考えてみたわけではない。
私にとってピンとくる人こそがオーディオ評論家(職能家)であり、
ピンとこない人はみなオーディオ評論家(商売屋)ということ、
そのことに気づきながら、
最初におもいついた「瀬川冬樹というリアル」というタイトルで、
なにか書けそうな予感だけはある。

Date: 3月 29th, 2019
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その4)

(その3)で引用した五味先生の文章には続きがある。
     *
でも、待て待てと、IIILZのエンクロージァで念のため『パルジファル』を聴き直してみた。前奏曲が鳴り出した途端、恍惚とも称すべき精神状態に私はいたことを告白する。何といういい音であろうか。これこそウィーン・フィルの演奏だ、しかも静謐感をともなった何という音場の拡がり……念のために、第三幕後半、聖杯主語の騎士と衛士と少年たちが神を賛美する感謝の合唱を聴くにいたって、このエンクロージァを褒めた自分が正しかったのう切実に知った。これがクラシック音楽の聴き方である。JBL〝4343〟は二基で百五十万円近くするそうだが、糞くらえ。
     *
五味先生の文章で、ここで終る。
五味先生が褒められているIIILZのエンクロージュアとは、
ステレオサウンドの企画で、井上先生が設計にあたられたコーネッタのことである。

《JBL〝4343〟は二基で百五十万円近くするそうだが、糞くらえ》、
ここだけに注目すれば、結局五味先生はアンチJBLのままか、と早合点しそうになるが、
ほんとうにそうだろうか。

それにやっぱり五味先生と瀬川先生は、JBLを最終的に認めるかそうでないのか、
そこで決定的に違う──、そんなふうに思い込むこともできないわけではない。

けれどほんとうにそうだろうか。
ここで、思い出してほしい瀬川先生の文章は、
ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’80」の巻頭、
「80年代のスピーカー界展望」である。
     *
 現にわたくしも、JBLの♯4343の物凄い能力におどろきながら、しかし、たとえばロジャースのLS3/5Aという、6万円そこそこのコンパクトスピーカーを鳴らしたときの、たとえばヨーロッパのオーケストラの響きの美しさは、JBLなど足もとにも及ばないと思う。JBLにはその能力はない。コンサートホールで体験するあのオーケストラの響きの溶けあい、空間にひろがって消えてゆくまでの余韻のこまやかな美しさ。JBLがそれをならせないわけではないが、しかし、ロジャースをなにげなく鳴らしたときのあの響きの美しさは、JBLを蹴飛ばしたくなるほどの気持を、仮にそれが一瞬とはいえ味わわせることがある。なぜ、あの響きの美しさがJBLには、いや、アメリカの大半のスピーカーから鳴ってこないのか。しかしまた、なぜ、イギリスのスピーカーでは、たとえ最高クラスの製品といえどもJBL♯4343のあの力に満ちた音が鳴らせないのか──。
 その理由は、まだわたくしにはよくわからないが、もうずっと昔からそうだったし、おそらくこれから先もまだ、この事情が変ることはないだろう。それだからこそ、自分自身がどういう音を求め、どういう音を鳴らしたいのか、という方向を見きわめる努力を続ける中で、そのときそのときの要求に見合ったスピーカーを探し求めることが、どうやら永遠の鍵なのではないだろうか。
     *
瀬川先生ですら
《ロジャースをなにげなく鳴らしたときのあの響きの美しさは、JBLを蹴飛ばしたくなるほどの気持》
とまで表現されている。

Date: 3月 28th, 2019
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その3)

五味先生の4343評。
それが読めたのは、「人間の死にざま」を古書店で見つけたであった。
     *
 JBLのうしろに、タンノイのIIILZをステレオ・サウンド社特製のエンクロージァがあった。設計の行き届いたこのエンクロージァは、IIILZのオリジナルより遙かに音域のゆたかな美音を聴かせることを、以前、拙宅に持ち込まれたのを聴いて私は知っていた。(このことは昨年述べた。)JBLが総じて打楽器──ピアノも一種の打楽器であるせんせんの 再生に卓抜な性能を発揮するのは以前からわかっていることで、但し〝パラゴン〟にせよ〝オリンパス〟にせよ、弦音となると、馬の尻尾ではなく鋼線で弦をこするような、冷たくて即物的な音しか出さない。高域が鳴っているというだけで、松やにの粉が飛ぶあの擦音──何提ものヴァイオリン、ヴィオラが一斉に弓を動かせて響かすあのユニゾンの得も言えぬ多様で微妙な統一美──ハーモニイは、まるで鳴って来ないのである。人声も同様だ、咽チンコに鋼鉄の振動板でも付いているようなソプラノで、寒い時、吐く息が白くなるあの肉声ではない。その点、拙宅の〝オートグラフ〟をはじめてタンノイのスピーカーから出る人声はあたたかく、ユニゾンは何提もの弦楽器の奏でる美しさを聴かせてくれる(チェロがどうかするとコントラバスの胴みたいに響くきらいはあるが)。〝4343〟は、同じJBLでも最近評判のいい製品で、ピアノを聴いた感じも従来の〝パラゴン〟あたりより数等、倍音が抜けきり──妙な言い方だが──いい余韻を響かせていた。それで、一丁、オペラを聴いてやろうか、という気になった。試聴室のレコード棚に倖い『パルジファル』(ショルティ盤)があったので、掛けてもらったわけである。
 大変これがよかったのである。ソプラノも、合唱も咽チンコにハガネの振動板のない、つまり人工的でない自然な声にきこえる。オーケストラも弦音の即物的な冷たさは矢っ張りあるが、高域が歪なく抜けきっているから耳には快い。ナマのウィーン・フィルは、もっと艶っぽいユニゾンを聴かせるゾ、といった拘泥さえしなければ、拙宅で聴くクナッパーツブッシュの『パルジファル』(バイロイト盤)より左右のチャンネル・セパレーションも良く、はるかにいい音である。私は感心した。トランジスター・アンプだから、音が飽和するとき空間に無数の鉄片(微粒子のような)が充満し、楽器の余韻は、空気中を楽器から伝わってきこえるのではなくて、それら微粒子が鋭敏に楽器に感応して音を出す、といったトランジスター特有の欠点──真に静謐な空間を有たぬ不自然さ──を別にすれば、思い切って私もこの装置にかえようかとさか思った程である。
     *
意外だった。
4343のことはそこそこ高く評価されるであろう、とは予想していたが、
ここまで高く評価されていたのか、と驚いた。

この時の組合せは、コントロールアンプがGASのThaedra、パワーアンプがマランツのModel 510、
カートリッジはエンパイアの4000(おそらく4000D/III)だろう)。
ステレオサウンドの試聴室で聴かれている。

アンプが、瀬川先生の好きな組合せだったら……、
カートリッジがエンパイアではなく、ヨーロッパのモノだったら……、
さらに高い評価だったのでは……、とは思うし、
できれば瀬川先生による調整がほどこされた音を聴かれていたら……、
とさらにそう思ってしまうが、
少なくとも4343をJBL嫌いの五味先生は、いいスピーカーだと認められている。

Date: 3月 28th, 2019
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その2)

オーディオマニアとしての私の核は五味先生の文章によって、
そして骨格は瀬川先生の文章によってつくられた、としみじみおもう。

そんな私にとって、ここでのタイトル「カラヤンと4343と日本人」は最も書きたいことであり、
なかなか書きづらいテーマでもある。

熱心にステレオサウンドを読んでいたころ、
五味先生は4343をどう聴かれるのか、そのことが非常に知りたかった。

ステレオサウンド 47号から始まった「続・五味オーディオ巡礼」では、
南口重治氏の4350Aの音を、最終的に認められている。
     *
 プリはテクニクスA2、パワーアンプの高域はSAEからテクニクスA1にかえられていたが、それだけでこうも音は変わるのか? 信じ難い程のそれはスケールの大きな、しかもディテールでどんな弱音ももやつかせぬ、澄みとおって音色に重厚さのある凄い迫力のソノリティに一変していた。私は感嘆し降参した。
 ずいぶんこれまで、いろいろオーディオ愛好家の音を聴いてきたが、心底、参ったと思ったことはない。どこのオートグラフも拙宅のように鳴ったためしはない。併しテクニクスA1とスレッショールド800で鳴らされたJBL4350のフルメンバーのオケの迫力、気味わるい程な大音量を秘めたピアニシモはついに我が家で聞くことのかなわぬスリリングな迫真力を有っていた。ショルティ盤でマーラーの〝復活〟、アンセルメがスイスロマンドを振ったサンサーンスの第三番をつづけて聴いたが、とりわけ後者の、低音をブーストせず朗々とひびくオルガンペダルの重低音には、もう脱帽するほかはなかった。こんなオルガンはコンクリート・ホーンの高城重躬邸でも耳にしたことがない。
 小編成のチャンバー・オーケストラなら、あらためて聴きなおしたゴールド・タンノイのオートグラフでも遜色ないホール感とアンサンブルの美はきかせてくれる。だが大編成のそれもフォルテッシモでは、オートグラフの音など混変調をもったオモチャの合奏である。それほど、迫力がちがう。
     *
47号の「続・五味オーディオ巡礼」には、4343のことも少しばかり触れられている。
     *
 JBLでこれまで、私が感心して聴いたのは唯一度ロスアンジェルスの米人宅で、4343をマークレビンソンLNPと、SAEで駆動させたものだった。でもロスと日本では空気の湿度がちがう。西洋館と瓦葺きでは壁面の硬度がちがう。天井の高さが違う。4343より、4350は一ランク上のエンクロージァなのはわかっているが、さきの南口邸で「唾棄すべき」音と聴いた時もマークレビンソンで、低域はスレッショールド、高域はSAEを使用されていた。それが良くなったと言われるのである。南口さんの聴覚は信頼に値するが、正直、半信半疑で私は南口邸を訪ねた。そうして瞠目した。
     *
ここでの組合せのこまかなことはないが、
SAEのパワーアンプは、おそらくMark 2500なのだろう。
だとすれば、ここでの組合せは瀬川先生の組合せそのものといっていい。

組合せだけで音が決まるわけでないことはいうまでもない。
それでも、当時のマッキントッシュのアンプで駆動させた音と、
LNP2とMark 2500での音とは、大きく違う。
方向性が違う。

その方向性が、瀬川先生と同じであるところの組合せを、
五味先生は《感心して聴いた》とされている。

47号を何度も何度読み返した。
読み返すほど、五味先生が4343をどう評価されていたのかを知りたくなった。

Date: 3月 21st, 2019
Cate: 瀬川冬樹

AXIOM 80について書いておきたい(その17)

AXIOM 80には毒がある、と(その16)でも書いているし、
他でも何度か書いている。

別項「ちいさな結論(「音は人なり」とは)」では、毒をもって毒を制すことについて書いた。

オーディオ機器ひとつひとつに、それぞれの毒がある。
聴き手にも、その人なり毒がある。

それ以外の毒もある。
いくつもの毒がある。

それらから目を背けるのもいい。
けれど、毒をもって毒を制す、
そうやって得られる美こそが、音は人なり、である──、
そう書いている。

毒から目を背けるオーディオマニアが、いまは大半なのでは……、とそう感じることが増えつつある。
だからこそ、毒を持たない(きわめて少ないと感じられる)スピーカーが、高評価を得る。

長島先生がジェンセンのG610Bからの最初の音を「怪鳥の叫び」と表現されたが、
もう、この「怪鳥の叫び」が本当に意味するところを理解できるオーディオマニアは少数かもしれない。

それが技術の進歩がもたらす時代の変化(音の変化)というぐらいのことは理解できないわけではない。

けれど、そういったスピーカーで、(その15)で書いた「我にかえる」ことにつながっていくだろうか、という疑問が私のなかにはある。
しかもそれが強くなってきている。

Date: 8月 24th, 2018
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その30)

ステレオサウンド 59号で《まして、鳴らし込んだ音の良さ、欲しいなあ》と、
瀬川先生が吐露するような書き方をされていた。

瀬川先生がJBLのパラゴンを自分のモノとされていたら、
どんな組合せで、どんな音で鳴らされただろうか。

リスニングルームがどうであったかによっても音量は変ってくるのはわかっている。
音量を気にせずに鳴らされる環境であっても、
瀬川先生はパラゴンを鳴らされる時、じつにひっそりした音量だったのではないか、と思う。

LS3/5Aが鳴らす世界を、ガリバーが小人の国のオーケストラを聴いている、と表現されたように。

パラゴンとLS3/5Aとでは、スピーカーシステムとしての規模がまるで違う。
搭載されているユニットを比較しても明らかである。

それでもパラゴンにぐっと近づいての、ひっそりした音量で聴く──。
椅子に坐ってであれば、斜め上から小人のオーケストラを眺めるような感じで、
床にじかに坐ってならば、小人のオーケストラのステージに顎を乗せて向き合う感じで。

そんな聴き方をされた、と思う。
だからアンプは精緻な音を出してくれなければならない。

そういえば瀬川先生はパラゴンの組合せとして、
マークレビンソンのLNP2とスレッショルドの800Aというのが、
「コンポーネントステレオのすすめ・改訂版」にあったのを思い出す。

Date: 8月 23rd, 2018
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代(その10)

1978年の終り近くに「オーディオ彷徨」が出た。
ステレオサウンド 49号に黒田先生による書評が載っている。

そこに、こう書いてある。
     *
 目次の前に、「愛聴盤リスト」がのっています。これは、この本を編集を担当した細谷信二さんに個人的にたのんで、のせてもらったものです。岩崎さんの書き残されたものを読みたいと思うんなら、岩崎さんがどんなレコードを日頃おききになっていたのかを知りたいにちがいないと考えたからです。かくいうぼく自身が、それを知りたいと思いました。ですから、まずそれを、じっくりながめました。
     *
五年前に「良い音とは 良いスピーカーとは?」が出た。
いまも書店に並んでいたりする。
一年ほど前に手にとって奥付をみたら、三刷とあった。
売れているのだろう。

けれど、「良い音とは 良いスピーカーとは?」には瀬川先生の「愛聴盤リスト」は載ってない。

Date: 8月 7th, 2018
Cate: 瀬川冬樹

8月7日

体感気温が40度を超える日が続いていた。
今日は過しやすかった。
今日は8月7日である。

ステレオサウンド 61号に岡先生が書かれている。
     *
 八月七日、本誌第六十号のアメリカ・スピーカー特集のヒアリングの二日目、その日の夕刻から急にくたびれた様子が目立っていた彼の夕食も満足にできないという痛痛しい様子に、早く寝た方がいいよと思わずいってしまった。翌朝、彼は必死の気力をふりしぼって病院にかけつけ、そのまま入院した。それから、一進一退の病状が次第に悪化して、ちょうど三ヵ月目に亡くなった。
     *
37年前の8月7日はどうだったのだろうか。
こんなには暑くなかったはずだ。

以前は11月7日に、おもうことがあった。
ここ数年は、8月7日に、おもうことがあるようになっている。

Date: 8月 1st, 2018
Cate: 瀬川冬樹

AXIOM 80について書いておきたい(その16)

AXIOM 80には毒がある、と書いてきている。
その毒はどこから来ているのか。

ひとつには独自の構造から来ているとも書いている。
AXIOM 80は通常のエッジではないし、通常のダンパーではない。
それの実現のために、独自の構造、
つまりフレームの同軸構造ともいえる形態をもつ。

メインフレームから三本のアームが伸び、サブフレームを支えている。
このサブフレームからはベークライトのカンチレバーが外周を向って伸び、
メインコーンの外周三点を支持している。

AXIOM 80の写真を見るたびに、
このユニットほど、どちらを上にしてバッフルに取り付けるかによる音の変化は大きい、と思う。
そんなのはユニット背面のAXIOM 80のロゴで決めればいい、悩むことではない、
そんなふうに割り切れればいいのだが、オーディオはそんなものじゃない。

独自のフレームとカンチレバー。
この部分の面積は意外にあるし、この部分からの不要輻射こそ毒のうちのひとつであり、
同じ構造を気現在の技術で現在の素材でつくるとなると、
サブフレーム、三本のアームの形状は断面が四角ではなく、違う形状になるはずだ。

少なくともコーンからの音の邪魔にならないように設計しなおされる。

でも、それだけでは根本的な解決にはいたらない。
AXIOM 80の現代版は、フレームの同軸構造を内側から外側へと反転させる。
サブフレームはメインフレームよりも小さいのを、メインフレームよりも大きくして、
メインフレームの外側に位置するようにしてしまう。

そのためユニット全体の口径は振動板の大きさからすれば、ひとまわり大きくなるが、
そうすればカンチレバーもメインフレーム外側にもってくることができ、
バッフルに取り付けた正面は、一般的なダブルコーンである。

サブフレームとカンチレバーは、バッフルに取り付けた際に、
バッフルに隠れるし、この部分からの不要輻射はバッフルが抑える。

Date: 7月 11th, 2018
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その1)

昨年12月に別項で、このタイトル「カラヤンと4343と日本人」で書き始めたい、とした。
タイトル先行で、どんなことを書くのかはその時点ではほとんど考えてなかった。
半年経っても、そこは変らない。

でも何にも書いていかないと、書こうと決めたことすら忘れがちになるので、
思いついたことから書き始める。

五味先生と瀬川先生は、本質的に近い、と私は感じている。
それでもカラヤンに対する評価は、違っていた。

五味先生のカラヤン嫌いはよく知られていた。
瀬川先生はカラヤンをよく聴かれていた。

ここがスタートである。
カラヤンといえば、黒田先生が浮ぶ。
音楽之友社から「カラヤン・カタログ303」を出されている。

瀬川先生も黒田先生もJBLの4343を鳴らされていた。
この二人は、朝日新聞が出していたレコードジャケットサイズのオーディオムック「世界のステレオ」で、
カラヤンのベートーヴェンの交響曲全集の録音について対談されている。

JBLの4343という、フロアー型の4ウェイ、しかもペアで100万円を超えるスピーカーシステムが、
驚くほど売れたのは日本であり、
カラヤンのレコード(録音物)の売行きでも、おそらく日本が一番なのではないか。

こう書いてしまうと、日本人はブランドに弱いから、としたり顔で、
わかったようなことをいう人がいる。
そんな単純なことだろうか。

ステレオサウンドに書かれていた人では、岡先生もカラヤンを高く評価されていた。
1970年代、岡先生はARのスピーカーを鳴らされていた。

岡俊雄、黒田恭一、瀬川冬樹。
この三人の名前を並べると、ステレオサウンド別冊「コンポーネントの世界」での鼎談である。
「オーディオシステムにおける音の音楽的意味あいをさぐる」である。

この鼎談は、瀬川冬樹著作集「良い音とは 良いスピーカーとは?」で読める。

Date: 2月 20th, 2018
Cate: ワーグナー, 瀬川冬樹

ワグナーとオーディオ(ワーグナーと瀬川冬樹)

ワーグナーの音楽と、瀬川先生が好まれて聴かれていた音楽とは、
少々印象が一致しない面があるようにも感じていた。

ワーグナーと瀬川先生ということで、
私が真っ先に思い出すのは、ステレオサウンド 38号の、黒田先生のこの文章だ。
     *
 普段、親しくおつきあいいただいていることに甘えてというべきでしょうか、そのきかせていただいたさわやかな音に満足しながら、もっとワイルドな音楽を求めるお気持はありませんか? などと申しあげてしまいました。そして瀬川さんは、ワーグナーのオペラ「さまよえるオランダ人」の合唱曲をきかせてくださいましたが、それをかけて下さりながら、瀬川さんは、このようにおっしゃいました──さらに大きな音が隣近所を心配しないでだせるようなところにいれば、こういう大音量できいてはえるような音楽を好きになるのかもしれない。
 たしかに、そういうことは、いえるような気がします。日本でこれほど多くの人にバロック音楽がきかれるようになった要因のひとつに、日本での、決してかんばしいとはいいがたい住宅環境があるというのが、ぼくの持論ですから、おっしゃることは、よくわかります。音に対しての、あるいは音楽に対しての好みは、環境によって左右されるということは、充分にありうることでしょう。ただ、どうなんでしょう。もし瀬川さんが、たとえばワーグナーの音楽の、うねるような響きをどうしてもききたいとお考えになっているとしたら、おすまいを、今のところではなく、すでにもう大音量を自由に出せるところにさだめられていたということはいえないでしょうか。
     *
ここにワーグナーが出てくる、「さまよえるオランダ人」も出てくる。
そして《それをかけて下さりながら、瀬川さんは、このようにおっしゃいました──さらに大きな音が隣近所を心配しないでだせるようなところにいれば、こういう大音量できいてはえるような音楽を好きになるのかもしれない》
と瀬川先生がいわれた──、
ここを読んでいたから、ワーグナーの音楽と瀬川先生の好まれる音楽が結びつきにくかった。

ついさっきまでKさんと電話で話していた。
彼によると、瀬川先生はNHK FMで放送されているバイロイトをエアチェックして聴かれていた、とのこと。

当時ラックスのショールームで定期的に行われていたなかでも、
常連の方とワーグナーについて熱心に語られていた、という話も聞いた。

聞いていて、意外だな、というおもいと、やっぱり、というおもいとが交錯していた。

瀬川先生は世田谷に建てられたリスニングルームでは、ワーグナーを聴かれていたのだろうか。

Date: 12月 17th, 2017
Cate: 瀬川冬樹

確信していること(その28)

ステレオサウンドで働くようになって、
ウェスターン・エレクトリックの真空管の音にふれる機会があったし、
特別なことでもなくなってきていた。

ウェスターン・エレクトリックの300Bよりも、
シーメンスのEdに魅力を感じていた私でも、音を聴けばウェスターン・エレクトリックの300Bだった。

オーディオのベテランほど、ウェスターン・エレクトリックの真空管を高く評価していた。
サウンドボーイの編集長のOさんも、そのひとりだった。

Oさんが話してくれた。

ウェスターン・エレクトリックの真空管の音は、ボケている。
トランジスターアンプのほうが、音の輪郭はボケずに鮮明である。
けれど、ウェスターン・エレクトリックの音は、芯がきちんとあるし、
そこはボケていない。
トランジスターアンプの音とは正反対である、と。

マイク野上さんの、ライカのレンズの話とまったく同じことだ。

ライカで撮った写真にシャープネスをかけると同じことを、
ウェスターン・エレクトリックの真空管のアンプに対してはできないが、
パソコンでのシャープネスという処理を、音の世界では耳(聴き手の頭)で行っているとしたら……。

そしてライカのレンズのボケとは、グラデーションをきちんと捉えている、ということのはず。
だからこそ情報量が多いのではないのか。

「音楽・オーディオ・人びと」の巻頭の瀬川先生撮影の写真、
元の写真をスキャンしてシャープネスをかけたら、どう仕上がるのか。

Date: 12月 17th, 2017
Cate: 瀬川冬樹

確信していること(その27)

サプリーム No.144で、岡先生が書かれている。
     *
 最近、トリオの前会長中野英男さんの「音楽・オーディオ・人びと」という、とてもおもしろい本が出たが、その莞島にのっている中野さんの写真は瀬川冬樹撮影となっている。中野さんの懇望をきいて、最初の手術で退院してやや元気を恢復したばかりの瀬川さんは、しばらくライカを手にしていないから、シャッターの感触をとりもどしたいので、しばらく時間がほしいといい、実際にトレーニングをやったそうである。しかし、むかしのような感触がもどらぬままに撮影しなければならぬことになり、御当人は不本意な出来ばえだといっていたという。仕事についていいかげんなことのできない、またそれを自分に許せなかった瀬川さんらしいエピソードだったと改めておもうのである。
     *
瀬川先生撮影の写真は、もちろん見ている。
岡先生の、この文章を読む前に見ている。

不思議な感じがしたのを憶えている。
瀬川先生にとっては不本意な出来ばえだっただろうが、
それでも、たった一枚の写真であっても、そこから感じられることがあったのも事実だ。

文章も写真も、どちらも視覚情報であっても、伝えてくるものは同じではない。

なんとなくではあっても、瀬川先生が求められていた音は、
こういう音だったんだな、と納得できるものを感じていた。

ライカのレンジは、ボケ味が特長だと、以前からいわれている。
実際にライカのカメラとレンズを使ったことのない私は、
そういうものなんだ、という程度の認識であった。

日本のレンズのほうが、全体的にシャープだということもきいてはいる。

ライカのレンズと日本の優秀なレンズ、
どちらがカメラのレンズとして優れているのかは、私には判断できないが、
先日、マイク野上さんからきいた話は、ひじょうに興味深かった。

ライカのレンズで撮った写真を、Photoshopなどのアプリケーションでシャープネスをかけると、
ものすごく鮮明な写真に仕上がる、とのこと。
その情報量の多さにも、驚くそうだ。

そしてライカのレンズで撮った写真には、芯がある、と。
まったく同じことを、30数年前にきいている。

Date: 12月 7th, 2017
Cate: 瀬川冬樹

確信していること(その26)

音楽之友社から1976年末に出た「ステレオのすべて」に、
黒田恭一、菅野沖彦、瀬川冬樹、三氏による記事
「リアリティまたはリアリスティックとプレゼンスの世界から いま音楽は装置に何を望むか」。

この鼎談は、瀬川先生の音について考えていく上で読んでおきたい記事であり、
同時に菅野先生の音について考える上でも読んでおきたい。

しかもこの年の春に出ているステレオサウンド 38号の、
いわば続きといえる内容だけに、
38号の特集「オーディオ評論家──そのサウンドとサウンドロジィ」の後に読むべき記事である。
     *
菅野 僕は瀬川さんといつもよく話すことなんだけど、瀬川さんもJBLが好きで、僕もJBLが好きで、何年か前に瀬川さんのところへ行ってJBLを聴かせていただいた時にものすごくすばらしい音だと思った。だけどそこで聴いた音はね、僕からするとまったく今我々の申し上げたプレゼンスの傾向としてすはらしい音だと思ってしびれたわけです。それで僕が鳴らしているJBLというのは今度は今いったリアルの傾向で鳴らしているわけですね。それでよくお互いに同じスピーカーを使ってまあ鳴らし方がちがうなというふうに言っているわけで、つまりこれは鳴らし方にも今製品で言ったけどね、鳴らし方にもそういう差が出てくるというね、そこまで含められてくるでしょうね。
黒田 それで今回のこの企画のことを話された時に、菅野さんのそのリアリスティックで聴くっていう話しを聞いて、僕はやっぱり以前その聴かせていただいた音がピンときている。なるほどあれはリアリスティックという言葉を好んで使いそうな男の音だと、それで瀬川さんはプレゼンスだと。全くそうだと。それはその両者がそういう言葉を頻繁にお使いになるのは当然だと僕は思ったんです。で、ただその煮つめていけばどっかで同じになっちゃうことなんで、それを何かここではっきりさせようというのがどうもその編集部の意図らしいんです。
     *
リアリスティックとプレゼンス。

ステレオサウンド50号から連載が始まった瀬川先生のリスニングルームの記事。
そのタイトルは「ひろがり溶けあう響きを求めて」であり、
これらのことを抜きにして、たんなる音のバランスだけで、
瀬川先生の音を、活字(誌面)から読みとろうとしても、無駄というよりも、
知人のように間違った方向にいくことだってある。

4年前に「4343とB310(もうひとつの4ウェイ構想・その14)」を書いたことを、もう一度書いておく。

それでは瀬川先生の音のバランスの特長は、どこにあるのかといえば、
それは、基音(ファンダメンタル)と倍音(ハーモニクス)とのバランスにある、と推断する。

これを理解できずに、瀬川先生の出されていた「音」を、周波数スペクトラム的な観点から、や、
使用されていたオーディオ機器への観点から追い求めても、まったく似ても似つかぬ(ただの)音になってしまう。

残念なのは、基音と倍音のバランスの観点(感覚)から、
実際に瀬川先生の「音」を聴かれた人の、瀬川先生の「音」について語られているのが、ない、ということだ。

Date: 12月 1st, 2017
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

生命線上の「島」

週刊新潮 1980年4月17日号の特集2は、五味先生のことだった。
そこに、こうある。
     *
 帰国後、八月に東京逓信病院に入院。二週間にわたる検査の後、千鶴子夫人は担当医師の口から、夫が肺ガンであることを告げられた。
 むろん、この時、本人にはそのことは伏せられ、「肺にカビが生える病気です」と説明することにした。肺真菌症も同様の症状を呈するからである。
 もっとも、かねてから、手相の生命線上に円形の「島」が現われるときはガンにかかる運命にあり、これからガンは予知できるのだ、といっていた当人は、自分の掌を見つめて「ガンの相が出ている」とはいっていた。
 しかし、やはり事が自分自身の問題となると、そう頭から自分の予知能力を信じることは出来なかったらしい。
 九月に手術。十一月に退院。そして、友人たちが全快祝いの宴を開いてくれたが、その二次会の席から、〝全快〟した本人が顔色を変えて帰ってきた。友人の一人であったさる医師が、酔っぱらったあげく、「お前はガンだったんだぞ」と口をすべらしてしまったのである。
「どうなんだ」
 と奥さんを問いつめる。
「冗談じゃありませんよ。なんなら今から先生に確かめてみましょうか」
 奥さんがこう開きなおると、
「いらんことをするな」
 と、プイと横を向いてしまった。
 もともと、入院していた当時からも、見舞に訪れる知人には「肺にカビが生えた」と説明しながら、「ガンらしいと思うんだがな」といって、相手の表情をうかがい、さぐりを入れる、というようなことを繰り返していた。この観相の達人にして、やはり、正面から宣告を受けるのは恐ろしく、さりとて不安で不安でたまらない、という毎日だったのだろう。
     *
五味先生の手相の本は、私も持っていた。
生命線上に円形の「島」ができると……、というところは憶えている。
自分の掌をすぐさま見て、ほっとしたものだった。

週刊新潮の、この記事を六年前に読んで、やはり「島」が現れるのか、と思ったし、
瀬川先生の掌はどうだったのたろう、とおもった。

「島」が現れていたのか、
瀬川先生は五味先生の「西方の音」、「天の聲」などは読まれていても、
手相の本は読まれていなかったのか……、
おもったところで、どうなるわけでもないのはわかっていても、
どうしてもおもってしまう。