Archive for category 純度

Date: 8月 22nd, 2024
Cate: 純度

純度と熟度(と自恃)

自恃なき純度はない、
自恃なき熟度もない。

Date: 8月 17th, 2024
Cate: 純度

純度と熟度(と覚悟)

音は人なり。
何が違うのか。
センス、才能、キャリアなど、そういうことが絡みあっての「音は人なり」なのか。

上に挙げたことはもちろん関係しているけれど、
結局は、覚悟だと思っている。

ここにおいての「音は人なり」のはずだ。
覚悟が足りない、もしくは最初からないから、
泣き言でしかない言い訳を口にする。

Date: 8月 15th, 2024
Cate: 純度

純度と熟度(と音は人なり)

音は人なり。
時として、残酷である。

酷いとしか言いようのない音、
どこにも音楽の美を感じさせない音、
そういう音が自分のスピーカーから鳴ってきても、
音は人なり、なのだから。

そこで泣き言をいったところで、どうなるというのか。
よけいに惨めになるだけではないのか。

泣き言を言いたければ、
音は人なりとは言わない(思わない)ことだ。

Date: 8月 12th, 2024
Cate: 純度

純度と熟度(と狂気)

1970年代のオーディオを、それも若い時に体験してきた者にとって、
狂気は、あの時代のオーディオを語るキーワードになるだろうし、
狂気を感じさせる音というのに、ある種憧れがあってもおかしくない。

もちろん全員がそうだとはいわないが、
何割かは確実にそうであるはず、と私は思っているし、
だからこそ話が合うということも、もちろんある。

狂気を感じさせる音といっても、それは人によって違ってきて当然でもある。

本人はそう思って出している音が、別の人にとってはなんでもない音であったり、
もしかすると反対の場合もあるだろう。

それでも最近聴いた音で感じたことは、
劣情をむき出しにした音は、狂気を感じさせる音とは、
まったく違うということ。

それは恥ずかしい、愚かしい音でしかないと私は思うけれど、
そういう音を恥ずかしげもなく人に聴かせることができるというなのは、
どこか頭のネジが外れてしまっているわけで、
その意味では、狂気を感じさせる音といえなくもない──、そんな考え方もできるけど、やはり本質的に違う。

Date: 6月 13th, 2024
Cate: 純度

純度と熟度(その4)

処女作には──、ということが昔からいわれ続けている。

たとえばクレル。
クレルのPAM2とKSA100のペアを最初に聴いた時、ほんとうに驚いた。
この時のクレルはごく初期のモノで、フロントパネルの仕上がりが独自のものだった。

トランジスターアンプで、こういう音が出るようになったのか、と驚いた。
そのフロントパネルの仕上げに通ずるところもある質感に、
瀬川先生が、この音を聴かれたなんといわれただろうか、と妄想もしていた。

そのくらいクレルのPAM2とKSA100の音は、
マークレビンソンのLNP2とML2のペアが鳴らす音の世界とは対極にあり、
続いて登場したKSA50、KMA200の音にも魅了された。

クレルのフロントパネルは、金属加工を受け持っていた職人が亡くなったため、
その後、どのように試行錯誤しても同じ質感のパネルは出来上ってこなかった、らしい。

そして、このころからクレルの音は変化していったように記憶している。
KRSシリーズからは、はっきりと変っていった。

どちらが優秀なアンプなのかどうかではなく、あんなにも魅力的だった初期のクレルの音は、
もう聴けないのか──、そんなふうに感じさせる変化でもあった。

クレルを例に挙げたが、クレルだけに限らない。
マークレビンソンのアンプもそうだし、この時代に登場した新興メーカーのアンプの多くに、
そのことはあてはまった。

デビュー作が市場で高い評価を得る。同時にフィードバックもかえってくる。
それまでのフィードバックといえば、自分の周りにいるオーディオ仲間だけだったのが、
国中から、そして世界中から返ってくるようになることで、
ある種の「純度」は失われていくようにも、いまも感じている。

Date: 12月 15th, 2022
Cate: 純度

純度と熟度(とモービル・フィデリティの一件・その7)

ステレオサウンド 225号にも、モービル・フィデリティの、
いわば擬装事件のことは記事になっていない。

この件は今夏にあきらかになっている。
すでに半年が経っている。けれど記事にはなっていないということは、
来年3月発売の226号で記事になる可能性は、かなり低い。

おそらくそのままだんまり、黙殺、無視だと私は思っている。
記事になることを期待していたわけではなかったし、
決して取り上げないだろうと思っていたから、やっぱりか、とおもうだけである。

そしてもうひとつ、別項で書いているショルティの「ニーベルングの指環」。
現時点で「ラインの黄金」と「ワルキューレ」のSACDが発売になっている。
e-onkyoやTIDALではMQAの配信もある。

これまでにエソテリックのSACD、デッカのBlu-Ray Audio盤、
ステレオサウンドのSACD、そして今回のSACDと配信(192kHz、24ビット)。

それぞれにマスターテープから、と謳っているけれど、
ここにきて、それぞれのマスターテープが何を指しているのかが明らかになっている。

この件も記事にしないのだろうか。

それともモービル・フィデリティの件とあわせて、
マスターテープの定義についての徹底した記事を出してくるのだろうか。

Date: 8月 30th, 2022
Cate: 純度

純度と熟度(とモービル・フィデリティの一件・その6)

9月1日に、ステレオサウンド 224号が発売になる。
ステレオサウンドのサイトでは、224号の内容について告知されていないが、
電子書籍を配信しているフジサンのサイトでは、告知されている。

それによると特集は、「一斉試聴で探る最新スピーカー40モデルの魅力」。
そして第二特集が、「[オーディオの殿堂]入りモデル愛用者訪問」。

その他にいくつかの記事が続いて、連載記事である。
224号から、和田博巳氏が復活のようである。

ちなみに表紙はエソテリックのアナログプレーヤーである。

少なくともフジサンのサイトで公開されている224号の内容をみるかぎり、
モービル・フィデリティの記事は、ない。

予想通りというしかない。

Date: 8月 28th, 2022
Cate: 純度

純度と熟度(とモービル・フィデリティの一件・その5)

食品擬装。
今回のモービル・フィデリティの件を知って、
このことも思っていた。

私と同じように、食品擬装のことを思い出した人も少なくないだろう。
根っこは同じなのかもしれない。
そんな気もする。

私が東京に来た頃(ほぼ四十年前)は、食に関する情報はそれほど多くなかった。
美味しい店を取り扱った書籍も少なかった。

それが1980年代半ばごろから増えていったように感じている。
そしてインターネットの普及によって、四十年前とは比較にならないほど、
食に関する情報、美味しい店に関する情報は増えすぎてしまった。

そしていつのころからいわれるようになったのは、
日本人は、情報を食べている、である。

誰が言い始めたのは知らないが、そういわれてもしかたない面もある。
そしてオーディオマニアも情報を聴いている──、
そんなふうにもいわれるようになった。

でも、昭和の時代から、井上先生は「頭で聴くな」といわれていた。
昔から、情報を聴いていたのだろう。

情報を食べている、聴いている。
同時に幻想も食べている(聴いている)のではないだろうか。

この店が美味しい、これが美味しい。
こういった情報は、同じ情報源を見ているのであれば共通している。
その情報をどう捉えるかは人によって違ってこようが、
情報そのものは変らない。

けれど幻想は、人によって違う。

Date: 8月 28th, 2022
Cate: 純度

純度と熟度(とモービル・フィデリティの一件・その4)

モービル・フィデリティがやらかしてしまったことをあげつらうつもりはない。
やってしまったな、
というよりもやらかしてしまったなぁ、という感じで受け止めているだけだ。

私が興味があるのは、問題のモービル・フィデリティのアナログディスクの音である。

レコーディング事情に詳しい人の話によると、
海外の録音エンジニアは、デジタル録音しても、
マスタリングの過程で一度アナログに変換しなおして、アナログ処理。
そして再びデジタルに変換して、ということが特殊な事例ではなく、
当り前のこととして行われている、ということだった。

デジタルだからデジタルですべて完結しなければならない。
アナログだからアナログですべて完結しなければならない。

オーディオマニア側からすれば、そうしてくれたほうが変換作業が少なくなるわけだから、
音質の劣化は少ないと捉えがちだし、より純度が高いアプローチだとも思いがちだ。

純度を最優先すれば、確かにそうである。
けれど音の良さというのは、純度だけで決定されるわけではない。
ここでのタイトルでもある熟度も、また重要なことだ。

結局、純度と熟度の兼合い、バランスではないだろうか。
今回のモービル・フィデリティの件は、
音源制作過程における純度と熟度について考える一つのきっかけではあるはずだ。

Date: 8月 27th, 2022
Cate: 純度

純度と熟度(とモービル・フィデリティの一件・その3)

その1)へのコメントがfacebookであった。

それによるとモビール・フィデリティが疑われたことの発端は、
マイケル・ジャクソンの「スリラー」のアナログディスクを、
四万枚プレスするという発表である、とのこと。

モービル・フィデリティは、その方のコメントにもあるように、
アナログ録音のマスターテープをレコード会社から借りてきて、限定で復刻、
しかも高品質を保つために少量生産が特徴だったのに、
「スリラー」に関しては、発売枚数の桁が違う。

アナログディスクの場合、
いうまでもなくラッカー盤をカッティングすることから始まる。

モービル・フィデリティは、
このカッティング時にマスターテープを使用することが売りだったはず。

一回ラッカー盤をカッティングすれば、何万枚でもプレスできるのであれば、
今回のようなことは起らなかった。

実際はそうではない。
ラッカー盤をもとにスタンパーを作り、アナログディスクはプレスされていく。
このスタンパーが無限に同品質でプレスができれば、カッティングは一回で済む。

けれどプレスの度にスタンパーの形状もわずかずつではあるが変化していく。

つまり、何万枚とプレスするのであれば、カッティングも一回で済むわけがない。
モービル・フィデリティが「スリラー」の四万枚のために、
何回カッティングを行ったかはわからないが、
カッティングの回数の分だけマスターテープを再生するということを、
そのマスターテープの所有者であるレコード会社が許可するのか。

このあたり、レコード会社とモービル・フィデリティのあいだでどういう契約になっているのか。
部外者には知りようもないことだが、
何度でも再生してもいいよ、とレコード会社がいうとはとうてい思えない。

ならば、ということで、マスターテープのコピーをモービル・フィデリティは、
DSDに変換したのか。
それともレコード会社がDSDに変換したものを使用したのか。

Date: 8月 25th, 2022
Cate: 純度

純度と熟度(とモービル・フィデリティの一件・その2)

(その1)の続きとして考えていたことの前に、ちょっとだけ。
今回のモービル・フィデリティの件を、オーディオ雑誌は記事にするのだろうか。

9月になればステレオサウンド 224号が出る。
モービル・フィデリティの件は7月には明らかになっている。
オーディオ雑誌の編集者が知りませんでした──では通用しない。

編集部は一人ではないのだし、
オーディオ関係者から情報が流れてきたことだろう。

モービル・フィデリティに特に関心を持っていない私でも、
7月には、この件を知っていた。

記事にする時間の余裕は十分にあった。
時間がなかった、といういいわけは通用しない。

記事にするのかしないのか。
していたとして、どういう内容になっているのか。

ステレオサウンドが、これまでモービル・フィデリティを取り上げていないのであれば、
今回の件を記事にしないのもありかな、とは思うが、
そうではない。

オーディオにおけるジャーナリズム(リーダーとマネージャー、それに組織・その4)」で、
リーダーが絶対にやってはいけないこと。
だんまり、黙殺、無視だと私は思っている。
と書いた。

224号に、モービル・フィデリティの記事はあるのだろうか。

Date: 8月 23rd, 2022
Cate: 純度

純度と熟度(とモービル・フィデリティの一件・その1)

7月の終りごろに、ソーシャルメディアで、
モービル・フィデリティが製作の過程でデジタル音源を使用していたことが明らかになっていた。

モービル・フィデリティ側もそのことを認めている。
8月に入るとワシントン・ポストがこのことを記事にしていた。

さらに今日、集団訴訟を起される、とニュースがあった。

モービル・フィデリティは、アナログ音源のマスターテープから、
丁寧な作業でアナログディスクをつくることを売りにしていた。

なのにその音源にDSDを使っていた。
2011年からDSD音源を使っていた、とのこと。

モービル・フィデリティは、いまではアナログディスクだけではなく、
CD、SACDも売っている。
商売の手を広げすぎたために起った、といえるのかもしれないが、
私が思うのは、最終的にいい音に仕上がるのであれば、
完全なアナログ処理にこだわることもないのでは──、である。

以前、別項で書いているが、
CDが登場してしばらくして、ブルーノ・ワルターのアナログディスクが再発になった。
LPなのに、デジタルリマスターされていた。

CDが登場したころ、AAD、ADD、DDDと表記があった。
説明の必要はないと思うが、
AADはアナログ録音、アナログマスタリング、デジタルディスク(CDのこと)、
ADDはアナログ録音、デジタルマスタリング、デジタルディスク、
DDDはデジタル録音、デジタルマスタリング、デジタルディスクである。

ワルターのLPは、ADAになる。
アナログ録音、デジタルマスタリング、アナログディスクだからだ。

モービル・フィデリティと違って、
CBSソニーは、デジタルマスタリングを公表していた。
むしろ、それを売りにしていた。

私も半分ほど興味本位で数枚買って聴いた。
これが意外にも、いい音で鳴ってくれた。

このADAのLPが、ワルターのディスクのなかで、
いちばん音がいい、というのではない。
当時の私のシステムでかけて、いい音で鳴ってくれた、という事実である。

Date: 4月 7th, 2022
Cate: 純度

オーディオマニアとしての「純度」(続・カザルスを聴いておもうこと)

2020年10月に、
オーディオマニアとしての「純度」(カザルスを聴いておもうこと)」で、
燃焼こそ純度だ、と書いている。

2020年10月の時点では、カザルスのベートーヴェンの交響曲を、MQAでは聴けなかった。
TIDALでMQA Studioで聴けるようになったのは、2021年秋からだ。

カザルス指揮によるベートーヴェンの交響曲第七番は、最初LPで聴いた。
CBSソニーのLPで、だから国内盤である。

マスターサウンドを謳っていた。
その音は、というと、決していいとはいえなかったけれど、
カザルスの燃焼するさまは、きちんと伝わってきた。

でも聴いていると、もっといい音のはず、と思う。
しばらくしてドイツ盤を買って聴いた。

音の艶、弦の響きなど、日本盤とはさすがに違う、と感じたものの、
カザルスの燃焼度ということでは不満が残った。
これならば日本盤のほうをとる。

CDになって、日本盤、アメリカ盤を聴いた。

カザルスのベートーヴェンの交響曲は、優秀録音とはいえない。
それはわかっているのだが、もっとどうにかなるのではないのか──、
そんなおもいがずっとついてまわっていた。

それでも聴けば、その凄さに圧倒されるのだから、
充分な音といえば、そういえなくもない。

それでも欲はある。
MQA Studio(44.1kHz)で聴けるカザルスの第七番は、
燃焼こそ純度だ、とそういえる音で鳴ってくれる。

その美しさが聴きとれる。

Date: 6月 4th, 2021
Cate: 純度

オーディオマニアとしての「純度」(その18)

アンプの純度といえば、それは音の透明感ということになるだろう。
純度の高い音のアンプ、
そんな表現を見て、ほとんどの人が、透明度の高い音をおもい浮べるはず。

オーディオマニアとしての純度は、
そういう透明度ではない、と私は思いつつ、この項を書いている。

別項で書いている透明と澄明の違いにも似ている。
アンプの音の透明度は、まさしく透明であり、
オーディオマニアとしての純度とは、透明ではなく澄明である。

透明度の高さとは、そこから夾雑物、不純物を徹底して取り除いた結果としての透明度である。
澄明は、そういうことではない。

《フルトヴェングラーは矛盾した性格の持ち主だった。彼は名誉心があり嫉妬心も強く、高尚でみえっぱり、卑怯者で英雄、強くて弱くて、子供であり博識の男、また非常にドイツ的であり、一方で世界人でもあった。音楽においてのみ、彼は首尾一貫し、円満で調和がとれ、非凡であった》と冷徹な観察をしているのは、フルトヴェングラーのもとでベルリン・フィルの首席チェロ奏者をつとめたことのあるグレゴール・ピアティゴルスキーである(『チェロとわたし』白水社刊より)。

澄明とは、ピアティゴルスキーが語っていることである。
相反するもの、矛盾するもの、清も濁も、
そういったものが円満で調和がとれてこその澄明である。

音楽の聴き方は人それぞれだから、そんなことはない、という人もいるだろうが、
透明な音ではマーラーの音楽は、鳴ってこない。

マーラーに限らない、ベートーヴェンの音楽もワーグナーの音楽も、
そしてモーツァルトの音楽も、澄明な音だからこそ鳴ってくる。

オーディオマニアとしての純度とは、そういうもののはずだ。

Date: 5月 23rd, 2021
Cate: 純度

オーディオマニアとしての「純度」(その17)

ステレオサウンド 52号の巻頭に、瀬川先生が、こう書かれている。
     *
 新型のプリアンプML6Lは、ことしの3月、レビンソンが発表のため来日した際、わたくしの家に持ってきて三日ほど借りて聴くことができたが、LNP2Lの最新型と比較してもなお、歴然と差の聴きとれるいっそう透明な音質に魅了された。ついさっき、LNP(初期の製品)を聴いてはじめてJBLの音が曇っていると感じたことを書いたが、このあいだまで比較の対象のなかったLNPの音の透明感さえ、ML6のあとで聴くと曇って聴こえるのだから、アンプの音というものはおそろしい。もうこれ以上透明な音などありえないのではないかと思っているのに、それ以上の音を聴いてみると、いままで信じていた音にまだ上のあることがわかる。それ以上の音を聴いてみてはじめて、いままで聴いていた音の性格がもうひとつよく理解できた気持になる。これがアンプの音のおもしろいところだと思う。
     *
オーディオマニアとしての「純度」も、アンプの透明度と同じなのかもしれない。

オーディオマニアとしての「純度」を高めてきた──、
そう信じている人でも、なにかのきっかけでもっと上の「純度」があることを知るかもしれない。

アンプの場合、それ以上の透明度をもつアンプを聴くことで、そのことがわかる。
けれど、オーディオマニアとして「純度」ともなると、アンプの比較のようにはいかない。

《それ以上の音を聴いてみてはじめて、いままで聴いていた音の性格がもうひとつよく理解できた気持になる》、
これはそのとおりである。

いままでの聴いてきた音とのつきあいは長い。
長いからこそ、すべてを知り尽くしている、と聴き手をそう思い込ませるかもしれない。

でも現実には、それよりも一つ先の段階へと進んで、
やっと一つ前の段階の音を理解できるところがあるのがオーディオだ。

ならば、オーディオマニアとして、一つ先の段階へと進んでこそ、
一つ前の段階となる「純度」を理解できることになる。

ここのところがアンプと違い、微妙なところである。