Archive for category Maria Callas

Date: 12月 5th, 2022
Cate: Maria Callas

マリア・カラスは「古典」になってしまったのか(その5)

マリア・カラスは1923年12月2日に生れている。
来年は、マリア・カラス生誕百年にあたる。

2027年には没後五十年になる。

それたけの月日が経っているのだから、
マリア・カラスは「古典」になってしまった、のかもしれないが、
マリア・カラスは「古典」にされてしまっているのかもしれない、とも思うことがある。

黒田先生が、ステレオサウンド 54号の特集の座談会で、
《たとえば、シルヴィア・シャシュが、コベントガーデンで「トスカ」を歌うとすると、おそらく客席にはカラスの「トスカ」も聴いている人がいるわけで、シャシュもそれを知っていると思うのです。聴く方はカラスと比べるぞという顔をしているだろうし、シャシュもカラスに負けるかと歌うでしょう。その結果、シャシュは大きく成長すると思うのです。》
と語られている。

この時代、マリア・カラスは「古典」ではなかった。
54号は1980年3月に出ている。
マリア・カラスが亡くなって、二年半ほどだから、それも当然なのだろうが、
いまの時代、シルヴィア・シャシュのような歌手がいるだろうか。

そして客席にいる聴き手も、マリア・カラスと比べるぞ、という顏をすることはないのではないか。

そんなことを考えていると、
黒田先生が書かれたもうひとつのことを思い出す。
《多くのひとは、大輪の花をいさぎよく愛でる道より、その花が大輪であることを妬む道を選びがちです。あなたも、不幸にして、妬まれるに値する大輪の花でした》、
「音楽への礼状」からの引用だ。

Date: 4月 15th, 2022
Cate: Maria Callas

マリア・カラスは「古典」になってしまったのか(その4)

4月になってからTIDALで集中的に聴いているのは、
ソプラノ、メゾ・ソプラノ歌手である。

手あたり次第とまではいかないものの、それに近い感じで、
とにかくどこかで名前を目にした歌手を検索しては聴いているところだ。

前々から気になっていたことなのだが、
最近では大手のレコード会社からレコード(録音物)を出しているからといって、
必ずしも実力が伴っているとはいい難い。

ソプラノ、メゾ・ソプラノ歌手でも、そう感じた、というよりも、
ピアニスト、ヴァイオリニストなどもよりも、より強くそう感じた。

なぜ、この歌手が大手のレコード会社からデヴューできているのに、
この歌手はそうでないのか──、そう感じる。

大手のレコード会社から華々しく登場した歌手のほうが、
あきらかに実力不足の感が否めなかったりする。

勘ぐった見方をすれば、その歌手の出身国で売りたいからなのだろう。
そういう売り方(レコードの制作)を否定はしない。

クラシックにおいて、売れるモノがあるからこそ、
売行きは見込めないけれど──、という企画が実現できたりするからだ。

そういった歌手が誰なのかは、はっきりと書かないけれど、
最近のドイツ・グラモフォンは、ややあからさまのように感じている。

今回、集中的に聴いてあらためて、その歌のうまさに凄さを感じるのは、
サビーヌ・ドゥヴィエルだ。

カテリーナ(カタリーナ)・ペルジケ (Katharina Persicke)もいい。
TIDALでは二枚のアルバムしか聴けないが、
どちらを聴いても、どこにも無理を感じさせない歌唱は将来が楽しみである。

他にも何人か注目したい歌手が見つかった。
その人たちについて書きたいのではなく、
ここでのタイトルである、
マリア・カラスは「古典」になってしまったのか、についてである。

Date: 2月 19th, 2022
Cate: Maria Callas

マリア・カラスは「古典」になってしまったのか(その3)

いろいろな人で、ある歌を聴く。
そのあとで、マリア・カラスで同じ歌を聴く。

マリア・カラスだけを聴いていれば……、という考えはしたくない。
それでも、誰かの歌のあとでマリア・カラスによる歌を聴くと、
ついそんなことを口走ってしまいたくなる。

先日もそうだった。
カラヤンによる「カルメン」を聴いていた。
アグネス・バルツァがカルメンを歌っている。

これだけを聴いていれば、バルツァのカルメンは素晴らしい、と心底思う。
なのに、カラスでも聴いてみよう、と思ってしまうと、もうだめだ。

なぜ、こんなにも存在感が違うのだろうか。
歌のテクニックということでは、いまではマリア・カラスよりも達者な歌手は少なくない。

カラスの歌は、生身の女性が歌っているという感じが、とにかく強い。
《お人形さんの可憐さにとどまった》歌では、決してない。

録音はカラスの方が古い。
なのに、カラスによってうたわれる歌は、色鮮やかだ。

むしろ新しい録音の、新しい歌手による歌のほうが、色褪て聴こえたりもする。

Date: 1月 12th, 2019
Cate: Maria Callas

マリア・カラスとD731(その3)

ローザ・ポンセルのCDは、ナクソスから数枚出ている。
「椿姫」もナクソスから、である。

ポンセルの「椿姫」は、ジャケットにBroadcast on 5th January, 1935と記されているように、
放送用に録音されたもので、
再生してみればわかるようにいきなり音楽から始まるのではなく、コメンタリーから始まる。

録音年代からすると、それほど音は悪くはないし、
鑑賞にたえるだけの音質ではある。

それでも、セラフィンの
「私の長い生涯に、三人の奇蹟に出会った──カルーソー、ポンセルそしてルッフォだ。この三人を除くと、あとは数人の素晴らしい歌手がいた、というにとどまる」、
アーネスト・ニューマンがカラスのコヴェント・ガーデンへのデビューの際に評した
「彼女は素晴らしい。だが、ポンセルではない」、
これらにすなおに首肯けたかというと、決してそうではなかった。

ずっと以前きいたときよりも印象はよくなっていたけれど、
それでも……、とやっぱり感じてしまうのは、ポンセルの実演に接していないからなのか。

残されている録音を聴くことしかできない聴き手にとって、
ローザ・ポンセルのすごさは感じとり難いとしかいいようがない。

1月のaudio wednesdayに19時前に来られた方は二人。
二人とも、ポンセルの歌にすごさは感じられてなかった。

ローザ・ポンセルの「椿姫」の二枚組のCDは、昨秋ディスクユニオンで買ったものだ。
新品で定価は500円となっていた。

レジに持っていくと、店員がちょっと待ってください、という。
なにかな、と思っていたら、何かのセールのようで、100円になっていた。
一枚あたり50円。
だからそれだけの価値しかない、とはいわないし、思っていない。

それでも……、ともう一度くりかえしてしまうが、
私は、おそらく死ぬまでローザ・ポンセルのすごさはわからないのかもしれない。

ローザ・ポンセルの「椿姫」を最後までかけはしなかった。
19時になったので、マリア・カラスの「椿姫」をかけた。

Date: 1月 11th, 2019
Cate: Maria Callas

マリア・カラスとD731(その2)

《カラス至上のレコードは、彼女の最初の〈トスカ〉である。ほぼ二十五年経った今も、イタリア歌劇のレコード史上いぜんとしてユニークな存在を保っている。》

ウォルター・レッグは「レコードうら・おもて」でそう書いている。

カラスは、ヴィクトル・ザ・サバータ/ミラノ・スカラ座と1953年に、
その後、ステレオ時代に入ってからプレートル/パリ音楽院管弦楽団と1964年に録音している。

いまはどうなのか知らないが、1980年代までは、「トスカ」の名盤といえば、
カラスの、この二組のトスカがまず挙げられていた。

CD化されたのは、デ・サバータとのモノーラル盤のほうが先立った。
このこともウォルター・レッグのことばを裏づけていよう。

「トスカ」もかけようと考えていた。
けれど、四時間もカラスばかりかけていたにも関らず、
「トスカ」からは「歌に生き、愛に生き」だけしかかけなかった。

19時からの始まりで、最初にかけたのは「椿姫」。
EMI録音のサンティーニ/RAI交響楽団とによるものは、
カラスひとりだけ素晴らしくても……、とおもわざるをえない。

黒田先生が、以前どこかで書かれていたが、
「椿姫」のヴィオレッタの理想は、絶頂期のマリア・カラスであろうが、
それでもカラスのEMI盤は、名盤とは思えない。

なのに最初に、その「椿姫」をかけたのは、
19時の直前までかけていたのが、ローザ・ポンセルの「椿姫」だったからである。

Date: 1月 6th, 2019
Cate: Maria Callas

マリア・カラスは「古典」になってしまったのか(その2)

続きを書く予定は最初はなかったけれど、
そういえば「レコード・トライアングル」にカラスの章があったことを思い出した。

黒田先生は、マリア・カラスの章に「声だけで女をみせる:マリア・カラス」とつけられている。
     *
 いまふりかえってみて気がつくのはカラスのレコードを全曲盤にしろ、アリア集のレコードにしろ、たのしみのためだけにきいたとはいえないということである。そのときはなるほどたのしみのためにきいたのかもしれなかったが、結果としてさまざまなことを勉強したにちがいなかった。なにを勉強したのかといえば、オペラとはなにか?──ということであった。オペラとは音楽であり同時にドラマでもあるとういことを、カラスのうたうノルマやルチアの〈トロヴァトーレ〉のレオノーラをきいてわかった。
 そのことを別の面から教えてくれたのがトスカニーニであった。なるほどオペラとはこういうものであったのか──といった感じで、トスカニーニによってオペラに対しての目をひらかれた。はじめてカラスの〈ノルマ〉をきいた当時のぼくはききてとして、完全にトスカニーニの影響下にあった。
 そういうかたよったきき方をあらためるのに、カラスのレコードはまことに有効であった。
 あれこれさまざまなカラスのレコードをきいているうちに見えてくるものがあった。レコードが与えてくれるのはたしかに聴覚的なよろこびだけである。いかに目を凝らしてもなにも見えない。レコードでできるのはきくことだけのはずである。ところがカラスのレコードをきいていたら、悲しむノルマの表情が、怒るノルマの頬のひきつりが、見えてきた。それをも演技というべきかどうか。カラスによってうたわれた場合には、ノルマなり、ルチアなり、レオノーラなり、つまりひとりの女を、音だけで実感することができた。
 それはむろん信じがたいことであった。しかしそれは信じざるをえない事実でもあった。
 カラスのレコードをきくということは、そこでカラスが受けもっている役柄を、ひとりの生きた人間として実感することであった。オペラのヒロインには、中期のヴェルディ以後の作品でのものならともかく、その描き方に少なからずステロ・タイプなところがある。そういう役柄は、うたわれ方によってはお人形さんの域を出ない。しかしそのことをもともと知っていたわけではなかった。
 ルチアにしろ、〈夢遊病の女〉のアミーナにしろ、〈清教徒〉のエルヴィーラにしろ、幸か不幸かまずカラスのうたったレコードできいた。そういう役柄がひとつ間違うとお人形さんになってしまうということを、後で別のソプラノがうたったものをきいて知った。たとえば、カラスのうたったアミーナとタリアヴィーニがエルヴィーノをうたったチェトラの全曲盤でのリナ・パリウギのアミーナとでは、なんと違っていたことか。カラスのアミーナには人間の体温が感じられたが、パリウギのアミーナは美しくはあったがお人形さんの可憐さにとどまった。
 さまざまなレコードをきいたり、実際に舞台で上演されたものに接したりしているうちに、やはり人並みにオペラのたのしみ方のこつをおぼえてきた。その結果、ますますカラスのオペラ歌手としての尋常でなさがわかってきた。
(中略)
 オペラを好きになりはじめた頃からずっと、マリア・カラスはもっとも気になるオペラ歌手であった。はじめはなんと変わった声であろうと思い、この人がうたうとなんでこんなに生々しいのであろうと考え、つまりカラスは大きな疑問符であった。その大きな疑問符にいざなわれて、オペラの森に分け入ったのかもしれなかった。
 ぼくはカラスの熱烈なファンであったろうか?──と自問してみて、気づくことがある。かならずしも熱烈なファンではなかったかもしれない。しかしカラスによって、より一層オペラをたのしめるようになったということはいえそうである。マリア・カラスは、ぼくにとって、オペラの先生であった。カラスによっていかに多くのことを教えられたか数えあげることさえできない。
 しかしカラスの他界によってカラス学級が閉鎖したわけではない。決して充分とはいえないが、それでもかなりの数のレコードが残っている。これからもオペラとはなんであろう? という、相変わらず解けない疑問をかかえて、カラスのレコードをききつづけていくにちがいない。
     *
黒田先生の文章を読んで、
マリア・カラスは、また違う意味での「古典」でもある、と思っているところだ。

Date: 1月 5th, 2019
Cate: Maria Callas

マリア・カラスは「古典」になってしまったのか(その1)

“′Classic′ – a book which people praise and don’t read.”
マーク・トウェインの、古典について語ったことばだ。
日本語に訳する必要はないだろう。

メリディアン ULTRA DACで、マリア・カラスを聴いた(その4)」で、
オーディオショウでマリア・カラスを聴いた記憶がない、と書いた。

なぜだろうなぁ、と考えても、答が見つかったわけではない。
けれど、マリア・カラスはいまや古典なのかもしれない。

誰もが賞讃するけれど、だれも聴かないのかもしれない。

Date: 1月 3rd, 2019
Cate: Maria Callas

マリア・カラスとD731(その1)

マリア・カラスのCDだけを聴く四時間だった。
集中してマリア・カラスを聴いたことは、いままでやってこなかった。

昨晩のaudio wednesdayに来てくれた人たちが楽しんでくれたのかどうかはきかなかったが、
私自身は楽しかった。

退屈するかも……、と少しは思っていた。
でも杞憂だった。

今回、セッティングでいままで試してこなかったことをやった。
実験的なことなため、すぐ元にもどせるようにと、
見た目は少し手抜きのところがあった。

その効果はあったので、次回以降できちんと仕上げる予定ではあるが、
そんなことをやっても、昨晩のaudio wednesdayには、
メリディアンのULTRA DACがないんだなぁ……、と胸の裡でつぶやいていた。

CDプレーヤーはスチューダーのD731。
前回、トランスポートとした使っている。
ULTRA DACの存在があるかないかの違いである。

大きな音の違いがあるのは、音を出す前からわかっていた。
それでも前回、D731単体の音出しからULTRA DACと組み合わせての音との違いよりも、
今回のULTRA DAC不在の音の違いが、ずっとずっと大きく感じられた。

四週間すぎてなお、これほど違いを感じるのか……、とも思っていた。

マリア・カラスの「カルメン」ももちろんかけた。
「ノルマ」から「Casta Diva」もかけた。

そして後悔していた。
前回、ULTRA DACがあったときに「Casta Diva」を聴かなかったことを。