マリア・カラスは「古典」になってしまったのか(その4)
4月になってからTIDALで集中的に聴いているのは、
ソプラノ、メゾ・ソプラノ歌手である。
手あたり次第とまではいかないものの、それに近い感じで、
とにかくどこかで名前を目にした歌手を検索しては聴いているところだ。
前々から気になっていたことなのだが、
最近では大手のレコード会社からレコード(録音物)を出しているからといって、
必ずしも実力が伴っているとはいい難い。
ソプラノ、メゾ・ソプラノ歌手でも、そう感じた、というよりも、
ピアニスト、ヴァイオリニストなどもよりも、より強くそう感じた。
なぜ、この歌手が大手のレコード会社からデヴューできているのに、
この歌手はそうでないのか──、そう感じる。
大手のレコード会社から華々しく登場した歌手のほうが、
あきらかに実力不足の感が否めなかったりする。
勘ぐった見方をすれば、その歌手の出身国で売りたいからなのだろう。
そういう売り方(レコードの制作)を否定はしない。
クラシックにおいて、売れるモノがあるからこそ、
売行きは見込めないけれど──、という企画が実現できたりするからだ。
そういった歌手が誰なのかは、はっきりと書かないけれど、
最近のドイツ・グラモフォンは、ややあからさまのように感じている。
今回、集中的に聴いてあらためて、その歌のうまさに凄さを感じるのは、
サビーヌ・ドゥヴィエルだ。
カテリーナ(カタリーナ)・ペルジケ (Katharina Persicke)もいい。
TIDALでは二枚のアルバムしか聴けないが、
どちらを聴いても、どこにも無理を感じさせない歌唱は将来が楽しみである。
他にも何人か注目したい歌手が見つかった。
その人たちについて書きたいのではなく、
ここでのタイトルである、
マリア・カラスは「古典」になってしまったのか、についてである。