思い込みと刷り込み
思い込みは、いわばバイアスだ。
オーディオの世界だけに限っても、思い込みはいたるところにある。
オーディオ雑誌の読み手側にも、思い込みはある。
オーディオ雑誌の作り手側にも、思い込みはある。
思い込みがあるのを自覚しているのかどうか。
やっかいなのは、ここに刷り込みが介入してくるからだ。
思い込みは、いわばバイアスだ。
オーディオの世界だけに限っても、思い込みはいたるところにある。
オーディオ雑誌の読み手側にも、思い込みはある。
オーディオ雑誌の作り手側にも、思い込みはある。
思い込みがあるのを自覚しているのかどうか。
やっかいなのは、ここに刷り込みが介入してくるからだ。
(その2)の最後に、
聴く前の思い込み、バイアスは、
そこで鳴った音がいい音であれば、いつのまにか消えてしまっている、
と書いた。
聴く前の思い込みが、そこで鳴った音で消え去ってからが、
そこで鳴った音、その音を鳴らしたオーディオ機器の音を評価することができる、ともいえる。
そう思いながらも、まったく反対のことも思っている。
昔からいわれ続けているのは、
可能性の高いオーディオ機器、能力が高いオーディオ機器ほど、
ポンと置いて接続しただけでいい音が出ることは、まずない、ということ。
スピーカーは、特にそうである。
優れたスピーカーであればあるほど、そうともいえる。
そういうスピーカーであっても、ポンと置いて……、という例もまた昔からよくいわれている。
だからこそ、使いこなしが大事だ、と何度も多くの人がいい続けてきているわけだ。
ポンと置いて接いで鳴らして、ひどい音が鳴ってきた。
それですぐ(文字通りのすぐ、である)に、そのスピーカーを手放した人も知っている。
そこまで極端でなくとも、しばらく鳴らしてもいい音にならないから、と手放す。
そういう人もいれば、絶対にいい音で成ってくれるはずだ、という思い込みで、
そのスピーカーと正面から取り組む人もいる。
長島先生とジェンセンG610Bとの関係は、まさにそうである。
他人からすれば執念といえるほどの思い込みによって、
そのスピーカーが、他のスピーカーでは絶対に鳴らし得ない音を鳴らすようになる。
強烈なバイアスが、オーディオには必要でもある。
ステレオサウンド 59号に、瀬川先生によるアキュフェーズのM100の記事が載っている。
M100は出力500Wのモノーラルパワーアンプで、
1981年当時、コンシューマー用アンプで500Wの出力をもつのは、
マッキントッシュのMC2500(こちらはステレオ仕様)ぐらいしかなかった。
だから、瀬川先生のM100の記事は、
《500W? へえ、ほんとに出るのかな。500W出した音って、どんな凄い音がするのかな……と、まず思うだろう》
で始まる。
500Wの出力ときいて、聴く前から、誰もが瀬川先生と同じように思ってしまうだろう。
1981年当時はそうだった、といえる。
M100の記事を読み進むに連れて、
58号でのSMEの3012-R Specialと同じようなことを感じていた。
記事の終り近くに、こう書かれている。
*
ともかく、今回の本誌試聴室の場合では、640Wまでを記録した。これ以上の音量は、私にはちょっと耐えられないが、アンプのほうは、もう少し余裕がありそうに思えた。500Wの出力は、十二分に保証されていると判断できた。
しかし、M100の本領は、むしろ、そういうパワーを楽々と出せる力を保持しながら、日常的な、たとえば1W以下というような小出力のところで、十分に質の高い音質を供給するという面にあるのではないかと思われる。
そのことは、試聴を一旦終えたあとからむしろ気づかされた。
というのは、かなり時間をかけてテストしたにもかかわらず、C240+M100(×2)の音は、聴き手を疲れさせるどころか、久々に聴いた質の高い、滑らかな美しい音に、どこか軽い酔い心地に似た快ささえ感じさせるものだから、テストを終えてもすぐにスイッチを切る気持になれずに、そのまま、音量を落として、いろいろなレコードを、ポカンと楽しんでいた。
その頃になると、もう、パワーディスプレイの存在もほとんど気にならなくなっている。500Wに挑戦する気も、もうなくなっている。ただ、自分の気にいった音量で、レコードを楽しむ気分になっている。
そうしてみて気がついたことは、このアンプが、0・001Wの最小レンジでもときどきローレベルの表示がスケールアウトするほどの小さな出力で聴き続けてなお、数ある内外のパワーアンプの中でも、十分に印象に残るだけの上質な美しい魅力ある音質を持っている、ということだった。夜更けてどことなくひっそりした気配の漂いはじめた試聴室の中で、M100は実にひっそりと美しい音を聴かせた。まるで、さっきの640Wのあの音の伸びがウソだったように。しかも、この試聴室は都心にあって、実際にはビルの外の自動車の騒音が、かすかに部屋に聴こえてくるような環境であるにもかかわらず、あの夜の音が、妙にひっそりとした印象で耳の底で鳴っている。
*
アキュフェーズのM100は、瀬川先生が中目黒のマンションで4345を鳴らされたアンプである。
聴く前の思い込み、バイアスは、
そこで鳴った音がいい音であれば、いつのまにか消えてしまっている。
CDが登場したころ、よく耳にしたことがある。
LPはジャケットがまずCDよりも大きい。
そのジャケットから内袋に入ったディスクを手稲に取り出す。
さらに内袋から、丁寧にディスクを取り出す。
指紋や手の脂がディスクにつかないように、ディスクの縁とレーベルでディスクを支える。
それからターンテーブルにディスクを置く際も、
レーベルにヒゲ(センタースピンドルの先端でこすった跡)がつかないように、である。
レコードのクリーニング、カートリッジ針先のクリーニングを経て、
ようやくカートリッジをディスクに降ろす。
とうぜん、この作業も慎重に、である。
CDは、というと、片手でケースを開けることもできるし、片手で持ち、
CDプレーヤーのトレイに置く際も、LPのように神経質になることはない。
クリーニングも基本しない。
取り扱いは、ずっと気楽にできる。
そのことをよし、と捉える人もいれば、
LPをかけるときの、一種の儀式的な行為が必要なくなったから、
聴く前の気構えのようなものがなくなってしまった──、
そんなことがよくいわれていた。
LPをかけるときの一種の儀式、
これもバイアスのひとつであり、
バイアスを必要とする聴き手がいる、ということである。
(その1)を書いて約一年半。
(その2)を書く前に、ふと思いついたことがでてきた。
ステレオサウンド 58号での、瀬川先生によるSMEの3012-R Specialの記事である。
*
ホンネを吐けば、試聴の始まる直前までは、心のどこかに、「いまさらSMEなんて」とでもいった気持が、ほんの少しでもなかったといえば嘘になる。近ごろオーディオクラフトにすっかり入れ込んでしまっているものだから、このアームの音が鳴るまでは、それほど過大な期待はしていなかった。それで、組み合わせるターンテーブルには、とりあえず本誌の試聴室に置いてあったマイクロの新型SX8000+HS80にとりつけた。
たまたま、このアームの試聴は、別項でご報告したように、JBLの新型モニター♯4345の試聴の直後に行なった。試聴のシステム及び結果については、400ページを併せてご参照頂きたいが、プレーヤーシステムはエクスクルーシヴP3を使っていた。そのままの状態で、プレーヤーだけを、P3から、この、マイクロSX8000+SMEに代えた。カートリッジは、まず、オルトフォンMC30を使った。
音が鳴った瞬間の我々一同の顔つきといったらなかった。この欄担当のS君、野次馬として覗きにきていたM君、それに私、三人が、ものをいわずにまず唖然として互いの顔を見合わせた。あまりにも良い音が鳴ってきたからである。
えもいわれぬ良い雰囲気が漂いはじめる。テストしている、という気分は、あっという間に忘れ去ってゆく。音のひと粒ひと粒が、生きて、聴き手をグンととらえる。といっても、よくある鮮度鮮度したような、いかにも音の粒立ちがいいぞ、とこけおどかすような、あるいは、いかにも音がたくさん、そして前に出てくるぞ、式のきょうび流行りのおしつけがましい下品な音は正反対。キャラキャラと安っぽい音ではなく、しっとり落ちついて、音の支えがしっかりしていて、十分に腰の坐った、案外太い感じの、といって決して図太いのではなく音の実在感の豊かな、混然と溶け合いながら音のひとつひとつの姿が確かに、悠然と姿を現わしてくる、という印象の音がする。しかも、国産のアーム一般のイメージに対して、出てくる音が何となくバタくさいというのは、アンプやスピーカーならわからないでもないが、アームでそういう差が出るのは、どういう理由なのだろうか。むろん、ステンレスまがいの音など少しもしないし、弦楽器の木質の音が確かに聴こえる。ボウイングが手にとるように、ありありと見えてくるようだ。ヴァイオリンの音が、JBLでもこんなに良く鳴るのか、と驚かされる。ということは、JBLにそういう可能性があったということにもなる。
S君の提案で、カートリッジを代えてみる。デンオンDL303。あの音が細くなりすぎずほどよい肉付きで鳴ってくる。それならと、こんどはオルトフォンSPUをとりつける。MC30とDL303は、オーディオクラフトのAS4PLヘッドシェルにとりつけてあった。SPUは、オリジナルのGシェルだ。我々一同は、もう十分に楽しくなって、すっかり興に乗っている。次から次と、ほとんど無差別に、誰かがレコードを探し出しては私に渡す。クラシック、ジャズ、フュージョン、録音の新旧にかかわりなく……。
どのレコードも、実にうまいこと鳴ってくれる。嬉しくなってくる。酒の出てこないのが口惜しいくらい、テストという雰囲気ではなくなっている。ペギー・リーとジョージ・シアリングの1959年のライヴ(ビューティ・アンド・ザ・ビート)が、こんなにたっぷりと、豊かに鳴るのがふしぎに思われてくる。レコードの途中で思わず私が「おい、これがレヴィンソンのアンプの音だと思えるか!」と叫ぶ。レヴィンソンといい、JBLといい、こんなに暖かく豊かでリッチな面を持っていたことを、SMEとマイクロの組合せが教えてくれたことになる。
*
試聴を始める前にはあった「いまさらSMEなんて」という気持。
それを、出てきた音がきれいさっぱり吹き飛ばしている。
さらに、JBLの4345、マークレビンソンのアンプについての、ある種の思い込みまでも、
吹き飛ばしている。
ほんとうに優れたオーディオ機器は、ブラインドフォールドテストでなくとも、
思い込みを聴き手から排除してくれるものだ、ということを、
この文章を読んで、当時感じていた。
だから無理して、3012-R Specialを買ったのだ。
クラシックのコンサートを聴きに行くとする。
つまりどこかのホールに行くわけだ。
オーケストラを聴けるホールであれば、いわゆる大ホールと呼ばれる大きさをもつ。
開場の時間が来てホールのロビーに入る。
この時点で、日常の空間とは大きく違う空間に来たことを肌で感じる。
そしてホールに入り、自分の席を目指して歩く。
ここでもすでに着席している観客のざわめきが、
大ホールというただ広いだけでなく、響きのたっぷりした空間でのざわめきなのだから、
これからオーケストラを聴くんだ、という気持は少しずつ昂ぶっていく。
クラシックのオーケストラのコンサートでは、
演奏が始まる前に楽器のチューニングがステージ上で行われる。
これを聴いていると、ますます気持は昂ぶることになる。
そして会場が暗くなり、対照的にステージが映えるかっこうになり、
指揮者が登場する。
拍手が起る。
そして指揮者が指揮棒を……。
最初の音が鳴り出すまでに、われわれはさまざまなバイアスを受けている。
そのバイアスはホールのある建物に入ったときから、少しずつ大きくなっていく。
このバイアスが、これから演奏される音楽の聴き手の感覚にどれだけ影響を与えているかは、
そんなことは測定できないものであろうが、かなりのもののはずだ。
そして、これらのバイアスから完全にフリーでいられる聴き手はいない、と思う。
むしろコンサートホールに出かけて音楽を聴くという行為は、
このバイアスを全面的に受け容れて楽しむ行為のはずだ。