心に刻みたい言葉(その3)
「神を視ている」
五味先生の「マタイ受難曲」に、「神を視ている」は出てくる。
「神を視ている」
五味先生の「マタイ受難曲」に、「神を視ている」は出てくる。
マンガ「ちはやふる」が今日最終回をむかえた。
十五年の連載だった。
前回「ひたむき(音になる前の「音」)」を書いたのは、2013年。
まだMQAは登場していなかった。
音になる前の「音」。
MQAの良さを感じとっている人ならば、きっと感覚的であっても理解できるはず。
(その4)を憶えておられる方ならば、
〝言葉〟としてのオーディオとは、
音楽を語る〝言葉〟としてのオーディオであることを思い出されるはずだ。
〝言葉〟としてのオーディオは、
音楽の聴き方について語る〝言葉〟としてのオーディオである、とおもうようになってきた。
7月のaudio wednesdayでは、タンノイのコーネッタを鳴らすことは、別項で書いている通り。
四十年前のスピーカーである。
コーナー型エンクロージュアというだけでなく、フロントショートホーンまでついている。
完全な前時代的形態と捉える人も多い、と思っている。
こういうスピーカーを手に入れて喜んでいる。
それだけでなく、audio wednesdayで鳴らして、誰かに聴いてもらおう、ともしている。
目新しいもの好きの人からすれば、なんと後向きのオーディオか、となろう。
このブログでは、あいもかわらず瀬川先生、五味先生、
岩崎先生、菅野先生のことをくり返し書いている。
生きているオーディオ評論家(と呼ばれている人たち)のことを書くことは、
それに比べれば、ずっと少ない。
ここでも、私は後向きだ、と思われていることだろう。
目新しいもの好きの人たちは、後をふり返るな、とか、
過去に縛られてはいけない、とかいう。
そして前を向け、未来を見よ、という。
こんなことを言っているのが好きな人は、
ほんとうに前を向いている、未来をみている、と信じ込んでいるのか、と疑問に思うことがある。
ただ単に自分が向いている方を、前、もしくは未来だと思い込んでいるだけじゃないのか。
前とは未来のことのはず。
未来は、誰にもみえない。
見えるのは、過去だけである。
だからこそ過去と直向きにつきあっていくしかない。
直向きは、あえて書いておくが、ひたむき、とよむ。
真っ正面から過去と直向きになれる人だけが、はっきりと前がわかるはずだ。
己の背中に未来がある。
ただし過去を斜に構えて眺めているだけでは、背中は未来からズレた方向にいってしまう。
(その1)は七年前である。
そのぶん歳をとったわけでもある。
「〝言葉〟としてのオーディオ」を、まだ必要としているのか、
それともそうでなくなりつつあるのか。
それすらも、自分でははっきりとしないところがある。
ただ、オーディオ雑誌からは消えてしまっている、と感じているし、
もういまのオーディオ雑誌は、
私とはまったく違う意味で「〝言葉〟としてのオーディオ」は必要としていないし、
考えてもいないのだろう。
〝言葉〟としてのオーディオを、ちかごろよく考えるようになってきている。
7月の上旬、ある集まりに呼ばれた。
初対面の方がふたり。特にオーディオマニアの集まりではなかった。
そのうちのひとりに、オーディオにのめりこんでいったきっかけをきかれた。
「五味オーディオ教室」だと答えた。
多くのオーディオマニアは、身近にオーディオマニアがいたことがきっかけとなっている。
身近にいる人は家族であったりもしくは親戚、学校や会社の先輩だったりする。
そこで、なんとなくイメージしていたステレオの音とは違うオーディオを聴いて……、
ということがきっかけとなる。
私にはそういうきっかけはなかった。
ただひたすら「五味オーディオ教室」を読んではまた読んで……がきっかけである。
「めずらしいですよね」と、だからいわれた。
私のようなオーディオマニアがどのくらいいるのかはわからないが、少数派ではあろう。
どちらのきっかけがいいのかは、実はどうでもいいことだと思う。
その上で、私は「五味オーディオ教室」がきっかけでよかったと、
近頃ますますそう思うようになってきている。
それは私の中に少しは「〝言葉〟としてのオーディオ」が形成されてきているからかも……、
勝手にそう思うようにしている。
「天の聲」に収録されている「マタイ受難曲」。
五味先生は、こう結ばれている。
*
ずいぶん人の道に私は背いて生きた。ろくなことはしなかった。妻を幾度も裏切った。その度に、おのれの才能をも裏切ることしか私はしなかったようにおもう。仕方があるまい。女に惚れたから妻を男は裏切るものでもない。決断がにぶったから結果的にそうなることだってある。むろんこんな愚行は涜神にもなるまいし、あくまで愚行だが、そのために女が自殺したら、これはもう神との問題にならないか。自分と神との。「神は死んだ」と言われだして何年たつか知らないが、もともと、キリスト教的神観念などわれわれは持たないのだから、死にようもない。だが神はいる。「神話に見放されたおかしな神々」を本気で楽劇に登場させた音楽家だっているのだ。夏の盛りに、わざわざバイロイトまでその神を観に往く人がいるあいだは、神は存在する。シュヴァイツァー博士の弾くバッハをむかし、レコードで聴いたとき僭越ながらこいつは偽善者の演奏だと私は思い、以来、シュヴァイツァーを私は信用しないが、でも、神はいるのである。
この正月、NHKのFMで『マタイ受難曲』の放送があった。それを機に、カール・リヒターのアルヒーヴ盤と、クレンペラーのを聴きなおし、丸二日かかった。ことしのお正月は何もせず『マタイ受難曲』と対合って過ごしたようなしだいになるが、聴いていて、今の日本のソリストたちで果して『マタイ』が演奏できるのだろうか、と考えた。出来やしない。これほどの曲を碌に演奏もできず、アップライトのピアノばかりが家庭に売りこまれてゆくとは、何と奇妙な国にぼくらはいるんだろう。指揮者だってそうだ、洟たれ小僧がアメリカで常任指揮者になったといってピアノを買う手合いは、大騒ぎしているらしいが『マタイ受難曲』は彼には振れまい。心ある人は欧米にだっているに違いないので、そういう人に受難曲やミサ曲を振れようのない指揮者は何とうつるだろう。悲しいことだ。でも背伸びしてどうなるものでもない。さいわい、われわれはレコードで世界的にもっともすぐれた福音史家の声で、聖書の言葉を今は聞くことが出来、キリストの神性を敬虔な指揮と演奏で享受することができる。その意味では、世界のあらゆる——神を異にする——民族がキリスト教に近づき、死んだどころか、神は甦りの時代に入ったともいえる。リルケをフルトヴェングラーが評した言葉に、リルケは高度に詩的な人間で、いくつかのすばらしい詩を書いた、しかし真の芸術家であれば意識せず、また意識してはならぬ数多のことを知りすぎてしまったというのがある。真意は、これだけの言葉からは窺い得ないが、どうでもいいことを現代人は知りすぎてしまった、キリスト教的神について言葉を費しすぎてしまった、そんな意味にとれないだろうか。もしそうなら、今は西欧人よりわれわれの方が神性を素直に享受しやすい時代になっている、ともいえるだろう。宣教師の言葉ではなく純度の最も高い——それこそ至高の——音楽で、ぼくらは洗礼されるのだから。私の叔父は牧師で、娘はカトリックの学校で成長した。だが讃美歌も碌に知らぬこちらの方が、マタイやヨハネの受難曲を聴こうともしないでいる叔父や娘より、断言する、神を視ている。カール・バルトは、信仰は誰もが持てるものではない、聖霊の働きかけに与った人のみが神をではなく信仰を持てるのだと教えているが、同時に、いかに多くの神学者が神を語ってその神性を喪ってきたかも、テオロギーの歴史を繙いて私は知っている。今、われわれは神をもつことができる。レコードの普及のおかげで。そうでなくて、どうして『マタイ受難曲』を人を聴いたといえるのか。
*
ずいぶん前に読んだ。
それから何度も読み返した。
このところは何度か引用した。
ぼんやりとだが、教会と信仰は別である、と最初に感じた。
読み返し、何度か引用し、少しずつそうだと確信できるようになってきた。
オーディスト(audist)という言葉ではなく、
オーディスト(聴覚障害者差別主義者)を生み出したのは、教会という、人が作ったシステムである。
五味先生の、この文章を読んでも何も感じない輩は、オーディストと名乗ればいいし、使えばいい。
Google 翻訳で audist を日本語にすると、聴覚障害者差別主義者と出る。
私はこれまでオーディスト(audist)を、聴覚障碍者を差別する人、団体、と書いてきた。
意味は同じであるからで、あえて聴覚障害者差別主義者とは書かなかった。
「聴覚障碍者を差別する人、団体」と「聴覚障害者差別主義者」とでは、
目にしたときの印象が違うからである。
意味を知っていても、Google 翻訳で聴覚障害者差別主義者と表示されると、どきっとする。
そして考えたいのは、どうしてオーディスト(audist)という言葉が出てきて、使われるようになったかだ。
facebookを通じて、あるページを知った。
一関ベイシーの菅原正二氏のインタヴュー記事である。
聞き手は一関きらり氏。
この記事にこうある。
*
一関 いやいや。一関市のアピール不足ですよね。実は私が住んでいる東京の日野市に国宝の高幡不動尊がありまして、新選組の土方歳三の菩提寺なんですが、その土方歳三を讃える石碑の選文が大槻三賢人の一人、大槻磐渓なんですよ。こういった事も、一関市がもっとアピールしていけば、面白いと思うんですがね。
菅原 ううん、日野市・・・。
一関 誰かお知り合いでも?
菅原 日野市に山口孝というオーディオ評論家をやってた強者がいたんですよ。ここにも、しょっちゅう来てたんです。本も結構、出してますよ。ただ、介護していたおふくろさんが亡くなって、断筆したんですよ。
一関 それほど、ショックだったんですかねえ。
菅原 すごい、とんがった妥協のない男だったからねえ。なあなあという部分が一切ない男だったから、折れやすいんだよね。たぶん・・・。
一関 何か、お仕事はされてるんですよね。
菅原 ううん、一人で座禅でも組んで音楽でも聴いてるんじゃないかなあ。
一関 いやあ、すごいですね。
菅原 聞き方が半端じゃないのよ。音楽と面と向かって、座禅でも組むような感じで聴いてますからね。
*
もとのページでは色によって発言者を区別してあったけれど、
それではわかりにくいので、発言の頭にそれぞれの名前を入れているだけで、
あとはそのまま引用した。
これを読んで、どう感じ、何を思い、何を考えたかは、あえて書かない。
読まれた方がそれぞれに感じ、思い、考えれば、いいことである。
まだまだ書きたいことはある。
書くほどに書いておきたいことが出てくる。
でも、いったんこのへんにしておく。
(その16)に書いているように、山口孝氏がどう思われているのか、感じられているのかを知った上で、
書きたいからだ。
なので、町田秀夫氏には再度お願いしたい。
山口孝氏がどう思われているのかを確認していただきたい。
でも、これだけは書いておく。
町田秀夫氏は、こう書かれている。
*
宮﨑氏が編集部に連絡した時点で、すべてが終わってしまったのだ。ステレオサウンド誌からは山口氏の記事が消え、また別の出版社は山口氏の新刊本の準備を終えていたにも関わらず、この騒動を契機に出版を取り止めている。
*
私が原田勲氏に連絡したのは、すでに書いたように2012年8月である。
私の見落しでなければ、山口孝氏は179号(2011年6月発売)に書かれた後は、
183号(2012年6月発売)まで、なにひとつ記事は書かれていなかった。
私がオーディストの件で連絡したから、山口孝氏の記事が消えてしまったわけではない可能性もある。
それとも184号から連載がはじまる予定があったのだろうか。
それが、私が連絡したために消えてしまったのだろうか。
そのへんのはっきりしたことは、私にはわからない。
ステレオサウンドは、誰のためのものか。
そう問われれば、読者のためのもの、とも答えるし、
クライアント(オーディオメーカー、輸入商社)のためのもの、とも、
筆者のためのもの、とも答える。
けれど、ステレオサウンドは誰のもの。
そう問われれば、原田勲氏の本だと即座に答える。
私は、このオーディストの件も含めて、
ステレオサウンドに対して批判的なことを書いている。
私が書いているものを読んで、
遠慮も配慮もないやつだな、と思われる人がいても不思議ではない。
それでもあえていうが、侵してはならない領域があるのはわかっている。
「オーディスト」はその領域に入りこんでくる。
私はステレオサウンド(原田勲氏の本)には、感謝している。
ステレオサウンドが、原田勲氏以外の人によって創刊されていたら、
まったく別のオーディオ雑誌になっていたし、私のオーディオ人生も違ったものになっていたかもしれない。
原田勲氏の五味先生に対するおもいがあったからこそ、ステレオサウンドはステレオサウンドたりえていた。
今日町田秀夫氏は、こう書かれている。
*
五味氏は補聴器を用いていたが、自らを「聴覚障碍者」だとは考えていなかっただろうし、むしろ卓越した聴取能力を誇っていた。音を聴き取ることは、耳の能力だけでは語れないことは、以前から申し上げているとおりだ。
*
これを読んで、がっかりした。
町田秀夫氏は五味先生の書かれたものを読まれていないのだ、とはっきりとわかったからだ。
こんなふうに書くと、読んでいると反論が来るだろう。
でも、ほんとうに読まれているのだろうか。
字面を追いかけただけの読むではなく、
五味先生の「西方の音」「天の聲」「オーディオ巡礼」をほんとうの意味で読まれたのか。
読んでいる人ならば、《自らを「聴覚障碍者」だとは考えていなかっただろう》とは間違っても書けない。
その後に続くことは、私も同感であるが、この部分に関しては、
町田秀夫氏にがっかりした、ひどくがっかりした。
なぜ、読まずにこんなことを書かれるのか、と。
読んでいなければ書かなければいいだけなのに……。
何度も出てくる。
オーディオマニアとして、音楽愛好家として、
そして女性を愛する男として、聴覚に障碍のあることを悩まれていた、苦しまれていたことを、
「西方の音」「天の聲」「オーディオ巡礼」を読んだ人ならば知っている。
五味先生が独白されているのを、知っている。
私は五味先生には会えなかった。
文章のうえだけで知っているだけだ。
原田勲氏は違う。
五味先生のそういう姿を、傍らで見ておられたはずだ。
だから、私はオーディストの件で、原田勲氏にメールしたのだ。
五味先生の文章に、何度もなみだをこぼした者として。
そして、ステレオサウンドの存在に感謝している者として。
オーディストに関する今回のことは、議論にはならないと私は思っているし、
町田秀夫氏は山口孝氏、私は五味先生のところから発言している。
私はニュートラルな立場から書いているわけではない。
そして私は町田秀夫氏が書かれていることも、
町田秀夫氏がニュートラルな立場から書かれているものとは思っていない。
私はこれでいいと思っている(町田秀夫氏がどう思われているのかわからないが)。
今日、町田秀夫氏は「幻聴日記」で、
私がオーディストの件で、ステレオサウンド編集部に連絡した、と書かれている。
私はステレオサウンド編集部には、連絡していない。
町田秀夫氏は、こんな簡単な事実確認をなぜされないのだろうか。
ステレオサウンド編集部に問い合せられるか、私にメールされればきちんと答える。
なにひとつ確認されずに、そう書かれている。
オーディストの件で、ステレオサウンド編集部に連絡しても、私は無意味だと考えた。
オーディストが載ったのは、ステレオサウンド 179号。
2011年3月11日のあと、最初に出たステレオサウンドであり、
特集は、それまでの特集記事とは当然違う内容のものだった。
そこにオーディストはあらわれた。
なぜ、よりもよって、この号に「オーディスト」を、何の説明もなしに載せてしまったのか、
とオーディストの意味を知って、そう思った。
そういう編集部に対して、オーディストの件でメールしても、無視されるだけだと思った。
それに私はステレオサウンド編集部の方たちのメールアドレスをまったく知らない。
だから出しようもなかった。
私が、オーディストの件でメールを出したのは、ステレオサウンドの原田勲会長である。
この違いは、町田秀夫氏にとっては些細な違いかもしれないが、
私にとっては大きな違いであり、だから原田勲氏宛にメールを出した。
メールの内容は、オーディストの意味について書いただけの、ごく短いものである。
出したのは179号の約一年後の2012年8月である。
結局、また書くことになってしまった。
(その12)に書いているようにしばらく、この件については黙っているつもりでいた。
けれど、町田秀夫氏が、ご自身の「幻聴日記」にまた書かれているので、また書くことにした。
おそらくこれから書くことを読まれて、町田秀夫氏はまだ明日、何か書かれるかもしれない。
そうなると私もまた明日書くことになるだろう。
そうなったらとことん書いていこうと思っているが、
これだけは町田秀夫氏にお願いして確認してほしいことがある。
それは山口孝氏は、こういうことになるのを望まれているのか、
それとももう書かないでほしい、と思われているのか、である。
私は山口孝氏とは面識がない。
だから町田秀夫氏にお願いするしかない。
それから、これも先に書いておくが、山口孝氏が私に直接、
この項で書いていることは私(山口孝氏)への人格攻撃だといわれれば、
直接お会いして謝罪しよう。
そして、その時に、山口孝氏から直にオーディストについての考えをききたい。
これはくり返すが、町田秀夫氏にお願いするしかない。
これもくり返しになるが、私自身は、山口孝氏を糾弾しているつもりはまったくない。
けれど、知らず知らずのうちに人を傷つけていることはある。
これは理屈ではなく、今回の件では山口孝氏がそう感じられていたら、謝罪するが、
それでも町田秀夫氏が書かれていることに納得したわけではない。
これだけははっきりしておく。
オーディストという言葉に対して、(宮﨑は)過剰反応している──、
そう思う人がいる一方で、私がここで書いていることに全面的ではなくとも同意される人もいるし、
そんなことどうでもいいじゃないか、という人もいる。
それでいいと、私は思っている。
今回のことで改めて思ったのは、オーディストという言葉に対する、それぞれの反応が顕にするものである。