Archive for 7月, 2016

Date: 7月 31st, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その45)

ステレオサウンド 49号には、附録がついていた。
表紙写真傑作集としての1979年のカレンダーだった。
附録がついていて、1600円の定価はそのままだった。

カレンダーのコストがどれだけかかっていたのかはわからないが、
49号の誌面にカラーページが少ない理由のひとつには、このカレンダーがあるはずだ。

ただ、それでも……、と思う。
カレンダーは197号にも附録としてついていた。
197号にカラーページが少なかったということはない。
特集にはカラーページがたっぷりと使われている。
内容はステレオサウンド・グランプリ(つまり賞)である。

49号と197号。
定価も含めて比較してみると面白い。

49号の原田勲氏の編集後記には、賞という文字は登場しない。
     *
 もしもオーディオコンポーネントの高級品がこの世から全く消え去ったら……オーディオファイルにとってそれこそ闇だ。これはオーディオに限らない。どんな趣味であれ、優れた道具の持味はその趣味の感興を高める。そのことから〝趣味は道具につれ、道具は趣味につれ〟と言えなくもない。
 今回選定した〝ステート・オブ・ジ・アート〟の狙いは、オーディオコンポーネントにおける道具の理想のあり方を、実際の製品を通して語ろう、というところにある。無論、現実の製品が理想を実現しているというわけでは決してないが、少なくとも、「ステレオサウンド」誌の考えている、望ましいコンポーネントのありようは提示されているとおもう。
     *
STATE OF THE ARTという日本語には訳しにくい言葉をあえて選んで使ったのは、
当時編集長であった原田勲氏のはずだ。

何度でも書くが、STATE OF THE ART賞が現在のステレオサウンド・グランプリの始まりであり、
名称だけでなく、ずいぶんと変質してしまった、と思ってしまう。

Date: 7月 31st, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その44)

ステレオサウンド 49号だけを見ているぶんには気づかなかったことが、
50号を手にして、49号の特集にはカラーページがなかった、と気づいた。

50号は創刊50号記念特集を謳っていた。
五味先生の「続・五味オーディオ巡礼」で始まり、特集のページに続く。
巻頭座談会として、井上卓也、岡俊雄、菅野沖彦、瀬川冬樹、山中敬三の五氏による
『「ステレオサウンド」誌50号の歩みからオーディオの世界をふりかえる』があり、
岡俊雄、黒田恭一、両氏による『「ステレオサウンド」誌に登場したクラシック名盤を語る』、
「オーディオ一世紀──昨日・今日・明日」(岡俊雄)、
「栄光のコンポーネントに贈るステート・オブ・ジ・アート賞」、
「オーディオ・ファンタジー 2016年オーディオの旅」(長島達夫)があった。

巻頭座談会、「栄光のコンポーネントに贈るステート・オブ・ジ・アート賞」にはカラーページがある。
50号のあとに49号にもどると、
49号には「続・五味オーディオ巡礼」はなく、特集から始まる。
しかもカラーページはない。

カラーページなしの特集は、ステレオサウンドにしては珍しい。
しかも49号の特集は、《第一回STATE OF THE ART賞》と、
これから先も続けていくことをはっきりと示している。

ステレオサウンドにとって初めての「賞」の特集であり、
今後も続けていくことを考えているのだから、
一回目は華々しくカラーページを使い……、と思いがちなのに、
カラーページが巻頭からまったく登場しない。

49号でカラーページがあるのは、「サウンドスペースへの招待」だけという、
記事の内容ではなく、パラパラと手にしたときの印象は、49号はどうしても地味になる。

想像してみてほしい。
いまのステレオサウンド編集部が、それまで賞をやってこなくて、
初めて賞のつく企画を開始するとしたら、大々的にカラーページを使って、
華々しい印象の誌面にするはずである。賞ということを全面的に押しだす。
49号は、なぜか地味な印象を与えるかのような誌面になっている。
つまり賞の企画であることが、STATE OF THE ARTの後にいるかのようにも感じさせる。

Date: 7月 31st, 2016
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(購入後という視点・その6)

ステレオサウンド 64号から始まった「素晴らしき仲間たち」に登場したグループは、
スピーカーを中心としていた。
同じスピーカー、もしくは同じブランドのスピーカーを鳴らしている人たちが集まっていた。

けれどオーディオをながく続けていれば、スピーカーをかえることがある。
同じブランドの最新機種、もしくはフラッグシップモデルにすることもあれば、
違うブランドの、それまで鳴らしていたスピーカーとはまったく趣の異るモノにすることもある。

そうなったら、その人は属していたグループから離れていくのだろうか。
オーディオ仲間であっても、鳴らしているスピーカーという共通項がなくればそうなるのか。

「素晴らしき仲間たち」のグループは楽しそうだと感じながらも、
一方ではそんなことを思ってもいた。

「素晴らしき仲間たち」を担当していたのは、Nさんだった。
Nさんから聞いたところによると、いくつかのグループは解消してしまったそうだ。
どのグループだったのか聞いているけれど、ここではそのことに触れる必要はないし、
他のグループもその後どうなったのかはわからない。

あるグループがバラバラになってしまった理由は、
誰かがスピーカーを買い換えたから、というものではなかった。
ステレオサウンドに出たことだった、と聞いた。

それまでグループ内のバランスがうまくとれていたのが、
ステレオサウンドで記事になったことで崩れてしまったそうだ。

そうやって崩れてしまったバランスは、違うバランスをとることはできないのだろうか。
「素晴らしき仲間たち」の、この話を聞いたのはハタチぐらいのときだった。

そのころはそれ以上深く考えることはしなかったが、
購入後ということを考えるようになって、そういえば……、と思い出した次第だ。

Date: 7月 30th, 2016
Cate: イコライザー

私的イコライザー考(音の純度とピュアリストアプローチ・その10)

オーディオ機器で、イコライザーと付くモノは、
グラフィックイコライザー、パラメトリックイコライザー、フォノイコライザーなどがある。

イコライザー (Equalizer)とは、イコール(equal)から来ている。
イコール、すなわち等しいこと、同じもの、という意味であり、
イコライザーとは本来そういう目的のためのものだから、イコライザー (Equalizer)なのである。

フォノイコライザーを考えてみてほしい。
こまかな説明は省くが、アナログディスクでは信号処理をせずにそのままカッティングすれば、
低域になるほど大振幅の溝になってしまい、溝のピッチを大きくすることになる。
そうなればアナログディスクの収録時間はそうとうに短くなってしまう。

それに低域のそういう大振幅をカートリッジはトレースできない。
結果カッティング時に録音イコライザーをかけて、可聴帯域においては振幅が同じになるように、
低域にいくにしたがってレベルを下げる。

再生時にはその逆のイコライザーカーヴ(低域を上昇させ、高域を減衰させる)によって、
元の録音状態と同じにする(イコールにする)から、
イコライザー(イコライゼーション)なのである。

ところがグラフィックイコライザーやパラメトリックイコライザーの普及とともに、
イコライゼーションは広汎な意味を持たせれるようになってしまった。

マーク・レヴィンソンがチェロ創立時に発表したオーディオパレット。
簡単にいってしまえば6バンドのパラメトリックイコライザーなのだが、
マーク・レヴィンソンは、オーディオパレットのことをミュージックレストアラーと呼んでいた。

おそらくマーク・レヴィンソンのイコライゼーションに対する感覚は、
言葉本来の意味のイコライズ(等比)がしっかりとあったのかもしれない。
そうでなければレストアラーとはいわないはずだ。

Date: 7月 30th, 2016
Cate: audio wednesday

第67回audio sharing例会のお知らせ(Heart of Darkness)

8月のaudio sharing例会は、3日(水曜日)です。

岡先生が著書「マイクログルーヴからデジタルへ」の上巻で書かれている。
     *
 ぼくの手許に古いLPがまだかなりあり、いまでも年に何度かひっぱり出して聴いている二十五年来の愛聴盤というのがある。その最たるものが、キャスリン・フェリア/ワルター/ウィーンPOのマーラーの《亡き子を偲ぶ歌》(米コロムビアML2187)だ。このレコードは改めていうまでもない名盤なのだが、第一曲のおわりで鳴るグロッケンシュピールの音をはじめて聴いたときの胸のときめきを、いまでもこのレコードをかけるたびに思いだす。LPになってから打楽器の音はSP時代と次元を異にするリアリスティックな再生が行えるようになったのだが、こんなに心にしみとおるような透明なただずまいで聴かれたグロッケンシュピールのピアニシモの響きには、「LPのよさだなあ」と感じさせられたものだった。
     *
フェリアー/ワルターの《亡き子を偲ぶ歌》。
私にとっても愛聴盤なのだが、8月3日当日、これ(CD)をかけるかどうかは迷っている。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 7月 29th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

「アルゲリッチ 私こそ、音楽!」

2014年に映画「アルゲリッチ 私こそ、音楽!」が公開された。
DVDも発売されていて、今年になってやっと観た。

オーディオマニアを揶揄するのに、絶対音感がないのに……、というのがある。
そう多くみかけるわけではないが、これまでに数度目にしたことがあるし、耳にしたこともある。
菅野先生が提唱されたレコード演奏、レコード演奏家が広まるにつれて、
演奏、演奏家とついているのに、絶対音感もないのか。
それでよく演奏(演奏家)といえるな──、そういう声も見たことがある。

演奏家にとって絶対音感は絶対必要なことなのだろうか。
そう問えば、オーディオマニア、レコード演奏を揶揄する演奏家は、
絶対に必要というであろう。

マルタ・アルゲリッチは、ピアニスト(ピアノ演奏家)だ。
「アルゲリッチ 私こそ、音楽!」で、アルゲリッチは絶対音感を持っていないを知った。

Date: 7月 29th, 2016
Cate: 「うつ・」

うつ・し、うつ・す(その8)

《大切な想い出を音で記憶できる幸せがオーディオ愛好家にはある》

ステレオサウンド 61号の編集後記に、そうある。
原田勲氏の編集後記からの引用だ。
そう61号の編集後記である。

原田勲氏と瀬川先生は同じ年のはずだ。
私はまだ18だった。
《大切な想い出を音で記憶できる幸せがオーディオ愛好家にはある》
といえるだけの経験はないまま、読んでいた。

40をすぎたころから、
《大切な想い出を音で記憶できる幸せがオーディオ愛好家にはある》に首肯けるようになった。

大切な想い出を音で記憶できる、ということは、
音に何かを反映するということなのか。
映しているのから、時間の中を移すことができるのか。

それとも内包しているのか。
内(うち)の古形は[うつ]で、[空(うつ)]の意なのだから、
音は空(うつ)だから、大切な想い出(憶い出)を時間を経ても移せるのか。

Date: 7月 29th, 2016
Cate: audio wednesday

第67回audio sharing例会のお知らせ(Heart of Darkness)

8月のaudio sharing例会は、3日(水曜日)です。

今日未明(2時ごろ)、ふと空を見あげたら三日月がでていた。
かなり細くなっていて、もうすぐ新月なんだなぁ、と思っていた。
来週の水曜日は「新月に聴くマーラー」である。

関東地方も梅雨明け。
猛暑まではいかないけれど暑い。
おそらく来週の水曜日も同じくらい暑い日になりそうだ。

そんな日に窓のない空間に男が集まってマーラーを聴く、というのは、
マーラーにもオーディオにも関心のない人にどう映ることだろう。

今回はJBLの2405をつないで3ウェイにする。
ネットワークを含めた接続方法も、まだ試していないことをやる予定である。
ぶっつけ本番の要素が強い。
どういう音を響かせてくれるか、予想のつくところとつかないところがある。

あえてそんなふうにして自分のオーディオの力量を試している。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 7月 28th, 2016
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その32)

私がいたころのステレオサウンドは、598のスピーカーに対して、肯定的とはいえなかった。
そのことはいまでも間違っていなかったと思うが、それだけではだめだったという反省が、いまはある。

598のスピーカーの新製品が出れば、試聴室で鳴らす。
そこで鳴らすのは、当時リファレンス機器として使っていたアキュフェーズのセパレートアンプ、
CDプレーヤーはソニーであったりアキュフェーズであったりしたが、
アンプにしてもCDプレーヤーにしても、スピーカー単体の価格の軽く十倍以上するモノばかり。

新製品紹介の記事は、その製品のお披露目の場であるわけだから、
可能な限り良く鳴らした状態で、ということがあった。
これはいまでも間違っていない、と思う。

だがこれだけでは定期刊行物のオーディオ雑誌としては、不十分である。
598のスピーカーに肯定的でなかったステレオサウンドだから、
実際に598のスピーカーがユーザーのところにおさまったとき、
どう鳴らされているのかを取材しておくべきだった、と、この項を書きながら反省している。

ステレオサウンド試聴室と598のスピーカーのユーザーのリスニングルームとでは、
ずいぶん条件は違っているはず。
アンプもCDプレーヤーも、セッティング、チューニングのレベルも、それから鳴らす音量も違う。

当時の598のスピーカーを選んだ人たちが、どういう理由で選んだのか、
それすらも知らなかったし、知ろうともしなかった。

別のオーディオ雑誌(別冊FM fanなど)にまかせておけばいい、という空気があった。
いま考えているのは、なぜそういう空気がうまれたのか、を含めて、
どうするのが正しい編集だったのか、である。

Date: 7月 28th, 2016
Cate: 表現する

音を表現するということ(間違っている音・その7)

ここで書きたいと考えていることは、
二年前に書いた「オーディオマニアとして(グレン・グールドからの課題)」につながっていく。
     *
芸術の目的は、神経を昂奮させるアドレナリンを瞬間的に射出させることではなく、むしろ、少しずつ、一生をかけて、わくわくする驚きと落ち着いた静けさの心的状態を構築していくことである。われわれはたったひとりでも聴くことができる。ラジオや蓄音機の働きを借りて、まったく急速に、美的ナルシシズム(わたしはこの言葉をそのもっとも積極的な意味で使っている)の諸要素を評価するようになってきているし、ひとりひとりが深く思いをめぐらせつつ自分自身の神性を創造するという課題に目覚めてもきている。
     *
このグレン・グールドの文章を引用するのは四回目になるか。
ここにもナルシシズムが出てくる。
しかも美的ナルシシズムとある。

グレン・グールドがナルシシズムの語源を知らないわけがない。
にも関わらず、美的とつけている。

ならば醜的ナルシシズムがあるのか、と考える。
美的ナルシシズムの諸要素、醜的ナルシシズムの諸要素とは、どういったことなのか。

Date: 7月 28th, 2016
Cate: 表現する

音を表現するということ(間違っている音・その6)

その2)の続きにもどろう。

間違っている音を出していた男は、
私に「瀬川先生の音を彷彿させる音が出ているから、来ませんか」と誘った。

間違っている音を出していた男は、瀬川先生と一度も会ったことがない。
東京で暮していて、
あのころ瀬川先生が定期的に来られていたメーカーのショールームにいつでも行ける環境にいながら、
一度も足を運んだことがない男でもある。
そして、一度も会えなかった、と嘆く。

彼は、別項で書いた知人である。
その程度の読み方しかしてこなかった男が、「瀬川先生の音を彷彿させる音」といっていた。

そういう時にかぎって、ひとりよがりな音を出していることが多い人だ。
だからその時もそうなんだろう、と思って出掛けていた。

ひよりよがりな音を、私は間違っている音といっているのではない。
この時の彼の音は、ひとりよがりの音といってすまされるのを逸脱していた。

だから「間違っている音」は、私にとっては二重の意味があるわけだ。

Date: 7月 28th, 2016
Cate: 表現する

音を表現するということ(間違っている音・その5)

バーンスタインのマーラー第五をラウドネス・ウォー的に鳴らしてしまう間違っている音。
これは音量に関係してくることであり、
facebookにも音量に関係するコメントがあった。
そのことについて触れておきたい。

たとえばハープシコードを,いわゆる爆音と表現されるほどの大音量で鳴らしたとする。
これは間違っている音といえるのだろうか。
そうだと答える人もいるし、違うと答える人もいる。

ハープシコードを爆音で鳴らす行為を、日本では下品なこと、とか、教養のないこと、
そんなふうに受け取られる傾向にある。

ハープシコードを爆音で鳴らすのが間違っている音とするならば、
オーケストラを小音量で鳴らすのも間違っている音になるのが、理屈である。

なぜか日本ではひっそりとした小音量で鳴らすのは、教養ある行為として認められる。
おかしなことではないか。
オーディオには、聴き手が音量を自由に設定できる(近所迷惑にならない範囲で)。

小音量でのオーケストラは、ガリバーが小人のオーケストラを聴く印象につながっていくのであれば、
大音量でのハープシコードは、巨人の国に迷い込んで彼らを演奏を聴くともいえる。

片方の世界へは想像力が働くのに、もう片方の世界には働かないのだろうか。
菅野先生が以前から指摘されていることなのだが、
映像の世界では、映画館の大きなスクリーンいっぱいに人の顔が映し出される。
けれどそれを実際の人の顔よりも何倍も大きいから不自然であるとか、
表現として間違っているとは思わないのに、これが音の世界になると、人の許容範囲は狭まる。

それが視覚と聴覚の違いだ、といってしまえばそれまでだが、
間違っている音と音量の関係についてはそれぞれが自分がなぜなのか、と考えほしい、と思う。

意外にも受け容れられる音量の範囲が、人それぞれに決っている、
もしくは無意識のうちに決めてしまっているのかもしれない。

音量と再生音について書いていくと、この項が先に進めなくなるのでこのあたりにしておくが、
いずれ項を改めてきちんと書いていくつもりだ(かなり先になりそうだが)。

Date: 7月 28th, 2016
Cate: 表現する

音を表現するということ(間違っている音・その4)

別項「夜の質感(バーンスタインのマーラー第五)」で書いたことを、ひとつの例としてあげておこう。

この人は、バーンスタインのマーラーの交響曲第五番(ドイツ・グラモフォン盤)を鳴らしてもらったら、
「この録音、ラウドネス・ウォーだね」といわれた。

こういうふうに間違った録音の判断をさせてしまう音も、
間違っている音のひとつといえる。

この人は私よりも一世代上の人で、オーディオのキャリアも長いはずだ。
けれどバーンスタインのマーラー第五をラウドネス・ウォー的に聴かせてしまう音、
彼自身のシステムを少しも疑っているところはない。

この人にはそこそこ長いつきあいのあったオーディオ仲間がいた。
彼は、この人の音(システム)の欠点(間違っている音)に気づいていた。
それでさりげなく指摘したそうだ。

それだけが理由ではないようだが、この指摘がひとつのきっかけとなってしまい、
気まずい仲になってしまったようだ。

この人は、この人自身の表現の結果としての音、
それも長い時間をかけてつくり上げてきた(自作スピーカーでもある)システムであるだけに、
その指摘に対しての反応は、理性的というより感情的であったようだ。

この人の反応は理解できないことではないが、
それでも……、と私は思う。
指摘してくれた人も、どうしようかずいぶん迷ったはずだと思う。
いわずにおけば気まずい仲になることはない。
でも、イヤミとかそういったことではなく、
もっと良く鳴らしてほしい、という気持からの指摘であったのではないか。

だが結果としてすれ違いがうまれてしまった。
おそらく、この人はバーンスタインののマーラーをラウドネス・ウォーと感じさせる音で、
これから先もずっとずっと聴いていくのかもしれない。

Date: 7月 28th, 2016
Cate: 表現する

音を表現するということ(間違っている音・その3)

(その2)に対して、facebookにコメントをもらった。

私が間違った音とは表現した音は、
出している本人にとっては真当な音だったのでは……、というものだった。

その1)を書いたのは六年前だから、
読まれた方でも内容を憶えている人の方が少ないはずだし、そう受け取られるのも仕方ない。
(その1)を読まれて、納得された。

(その1)を、このブログを読んでいる人がすべて読み返してくれるとは限らないし、
少し説明を加えておきたいこともある。

オーディオマニアの中には、間違っている音なんて、存在しない。
それはあなたの独善的な判断でしかない、という反論もあろう。

たとえば左右チャンネルを逆にして音を出す。
左チャンネルの音を右チャンネルのスピーカーから出す、というのは、明らかに間違っている。

別項で書いた、あるオーディオのライターの話
片チャンネルだけが逆相で鳴っていたのに気づかなかった、というのも、
そこで鳴っていた音は間違っている。

オーディオには録音・再生の約束事がある。
その基本的な約束事から外れてしまった、これらの音は初歩的な間違っている音である。
凡ミスによる間違えてしまった音である。

この項のタイトルは、「音を表現するということ」だ。
ここでの間違っている音とは、表現の結果としての間違っている音である。

Date: 7月 28th, 2016
Cate: 表現する

音を表現するということ(間違っている音・その2)

間違っている音を出していた男は、
間違っている音に惚れ込んでいた(少なくともその時はそうだった)、
酔いしれていた、といいかえてもいい。

間違っている音を出していた男のつきあいは長かった。
言いたいことをいってきた間柄だったし、率直な意見を聞かせてほしい、ともいわれた。
だから、おかしい音、間違っている音だ、と答えた。

これが間違っている音を出していた男のプライドをひどく傷つけたようだ。
間違っている音を出していた男とのつきあいはそれっきりになってしまった。

間違っている音に酔いしれていた、と私は感じた。
つまり間違っている音を出していた男に、ナルシシズムを感じた、といえるのか。

ナルシシズムは、ギリシャ神話に由来した言葉だ。
ナルキッソスは、水に映るわが姿に恋して死す。

ナルキッソスは美少年である。
ここで重要なことだ。
ナルキッソスの美貌と間違っている音は、美しさにおいてまったく違うもの。

少なくともナルシシズムが成り立つためには、ナルキッソスのような美貌がなければならない。
ナルキッソスの美貌に匹敵するほどの美しい音でなければならないとすると、
間違っている音は美しい音とはいえない。

その間違っている音を聴いて、うっとりする。
これはナルシシズムとはいえないはずだ。

ナルシシズムに必要なことが欠如しているのだから。
そうなると間違った音を出していた男が醸し出していたのは、なんといったらいいのか。