Archive for category 中点

Date: 5月 9th, 2021
Cate: 中点

中点(消失点・その3)

われわれオーディオマニアは、なぜいじるのか。

アンプを替え、プレーヤーを替え、ときにはスピーカーすら替える。
こういった大きなところだけでなく、
ケーブルやアクセサリー類といったこまかなところもかえる。

さらにスピーカーの置き位置もミリ単位で調整していく。
やれることはそこかしこにあって、きりがないほどだ。

こんなことを飽きずに長年やっているのは、いい音を求めているからである。
けれど、それだけだろうか。

何かを探るためにやっているのではないだろうか。

昨晩の(その2)で書いているラジカセ程度の理想のオーディオ機器では、
そんなことはできない。

置いて鳴らすだけで、必ず、いつも同じで、いい音が完璧に鳴ってくるのだから、
そこに聴き手が使い手になる余地はまったく存在しない。

つまり何も探れない。
結果としての「いい音」だけである。

その結果は、必ずしも答ではない。
答としての「いい音」ではないわけだ。

結果も答も、自らの手によってなされたものであるならば、それでいいのだが、
ここでの結果としての「いい音」は、誰かの手によってなされたものであって、
自身の手によってなされた要素は、微塵もないだから、答としての「いい音」ではない。

そして、もうひとつ。
問いとしての「いい音」。

Date: 5月 8th, 2021
Cate: 中点

中点(消失点・その2)

たとえば、こんなことを想像してみる。
ラジカセぐらいの大きさのモノで、
これ一台で、素晴らしい音を鳴らしてくれる。

サイズはラジカセ程度なのに、音の左右への広がりは大きく、
奥行きも見事に再現する。

すべての音をあますところなく、本来あるべき姿で鳴らす。

しかも、このキカイの優れているところは、どんな使い方をしようと、
常に最高の音を鳴らすことちだ。

高価なラックの上に置くことはないし、
ラジカセのように完全な一体型だから、ケーブルも必要としない。
高価なアクセサリーを何ひとつ必要としない。

電源に関しても、高性能なバッテリー搭載で、
AC電源の質に頭を悩ますこともまったくない。

そんな理想のオーディオ機器があったとしよう。

その一方で、現在のカタチのオーディオ機器がある。
プレーヤーがあって、アンプがあって、スピーカーが必要となる。
しかもケーブルも必要で、ほとんどの機種がAC電源を必要とする。

置き方ひとつで、音が変化する。
ケーブルを変えれば、音は変る。
アクセサリーをもってくれば、そのことでも音は変る。

変らないところがないくらいに、どんなこまかなことでも音は変っていく。
音楽を聴くキカイとしては、不完全といえよう。

ラジカセ程度の大きさで、理想のオーディオ機器と、
いまわれわれが使っている、いわば不完全なオーディオ機器で音楽を聴いて、
前者の、理想のオーディオ機器では視えてこない(聴こえてこない)ことがあるはずだ。

前者が聴かせるのは、モノゴトの結果だけであるからだ。

Date: 1月 22nd, 2019
Cate: 中点

中心点と堂々巡り

別項「オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その7)」で、
堂々巡りは悪い面ばかりではない──、と書いた。

同じところを何度も廻っているうちに、その「中心」がはっきりとしてくるからだ。

9年前に書いてる。
いまも基本的にはそう思っているが、
9年も経てば、少しは変ってくる。

堂々巡りには、大きな環と小さな環のふたつが同時に存在する場合がある。
そう考えるようになった。

地球の公転と自転のようなものだ。
もっとも私が描いている堂々巡りの大きな環は、公転といってもいいが、
小さい環は地球の自転というよりも、地球の周りを廻っている月の軌道のように考えている。

もしかすると環は一つではなく、二つでもなく、場合によってはもっと多いのかもしれない。
そこを見極めないと、ほんとうにいつまでも堂々巡りのままだ。

Date: 7月 8th, 2014
Cate: 中点

中点(その14)

別項(オーディオの「介在」こそ)で、
音楽と聴き手とオーディオの位置関係について書いた。

私は、音楽と聴き手を結ぶ線の上にオーディオ機器が介在している、といまも考えている。
知人は三角形を描く。

ということは私にとってのオーディオは、音楽と聴き手(つまり自分)を両極とする線上にある点である。
音楽と聴き手の両方から等しい距離に、その点(オーディオ)が位置していれば、
私にとって、というべきか、音楽と私にとっての中点はオーディオということになる。

とはいうものの、その点(オーディオ)が等しい距離に位置しているのかを、まだ見極めていない。

オーディオは中点となり得るのだろうか。

Date: 11月 23rd, 2011
Cate: 中点

中点(その13)

レコードが中点であるのは、アナログディスクにしろCDにしろ、
ある形態をもっているからだ、ともいえる。

いまインターネットを通じての配信が増えてきている。
以前は圧縮音源のみだったのが、CDと同じサンプリング周波数、ビット数での配信もはじまり、
さらにはハイビット・ハイサンプリングでの配信、DSDでの配信も登場してきた。
ドイツ・グラモフォン(デッカ)も、以前は320kbpsのMP3だったのが、
FLACファイル(16ビット、44.1kHz)での配信もはじめている。
しかもMP3の価格とFLACの価格差は、意外と小さい。

それにTrack Detailsをみると、最下段にFormatという項目があり、
デジタル録音のものは、サンプリング周波数とビット数が表示されている。
多くは44.1kHzの16ビットだが、なかには24ビットのものもあるし、ハイサンプリングのものもある。

これを提示しているということは、将来、マスターのフォーマットそのままでの配信が行われるのかもしれない、
と勝手に期待しているわけだが、いつになるのかはなんともいえないが、やらない理由は特にないと思う。

レコード会社が、このようにいくつかのフォーマットで音楽を販売している、という事実は、
レコード(録音物)が、これから先も中点でありつづけるのか、とも思えてくる。

レコード(パッケージがなくなってしまうから、あえて録音物とする)が、
レコードの送り手側にとって最終点、レコードの受け手にとって出発点ということも、
これから微妙に変化してくるかもしれない。

つまりレコードの送り手にとってレコードが最終点だったのは、
レコードの受け手の再生環境に対して、いわば注文をつけることはできないからでもある。

それが同じレコード(録音物)をいくつかのフォーマットで提供しはじめたということは、
レコードの受け手の再生環境に合わせることの、最初のとっかかりとなっている、ともいえよう。

Date: 11月 22nd, 2011
Cate: 中点

中点(その12)

学生のときに読んだように記憶しているから、もう30年ほど前のことになるが、
黒田先生が、レコードについて、レコードの送り手側にとっては最終点であり、
レコードの受け手(聴き手)にとっては出発点になる、
とそういったことを書かれていた。

読んだとき「なるほど、たしかにそうだ」と感心した記憶が強く残っている。
レコードは最終点でもあり、出発点でもある。
どちら側からみるかによって変ってくる。

いまこのことを思い出したのは、
どちら側から見るかによってレコードは最終点になったり出発点になる。
けれどもレコードそのものにおさめられている音楽は変りはしない。
レコードそのものの位置づけは変っても、レコードそのものは変らない。
ということは、レコードは音楽の送り手側と音楽の受け手側の中点であるわけだ。

そのレコードは回転することで、意味をなす。

Date: 11月 1st, 2011
Cate: 中点

中点(消失点・その1)

2チャンネルのステレオは、モノーラル再生を水平(左右)方向に拡大している。
その2チャンネルのステレオがうまく鳴ったときに、われわれは奥行き感といったものも感じられる。

けれど2チャンネルのステレオは、あくまでも水平方向への拡大であるから、
完全な立体音源とはいえない。

完全な立体音源であるための理屈では、水平方向も左右だけでなく前後への拡大が最低でも必要となり、
さらには垂直方向への拡大も求められる。
にも関わらず、左右のスピーカーシステムの中央に歌手が定位すれば、
その歌手のボディの厚みさえ感じられることすらある。

これは考えれば不思議なことでもある。
なぜそう聴こえるのか、感じるのか。
もっといえばそう感じられる録音もあれば、そう感じられない録音もあるし、
そう感じられる録音のディスクをかけたとしても、そう感じられる音もあれば、そう感じられない音がある。

この違いは、なぜ起るのか。
なにに関係していることなのだろうか。

左右のスピーカーシステムあいだに架空の透明のキャンバス(もしくはスクリーン)が存在しているとすれば、
それは消失点(vanishing point)の有無なのだろうか……。
そんなことを考えている。

Date: 8月 1st, 2011
Cate: 中点

中点(その11)

音に関するあらゆる表現の、その反対語を考えていくことで、
己の中点が浮び上ってくるのではないか、と前回書いた。

音を表現するものの数だけ、中点の数もあって、
そうやって浮び上ってくる中点は重なり合うものもあるだろうし、そうでないものもあるはず。
そしてそれらの中点を俯瞰し、ときに結んでいくことで、
無意識のうちに求めている音が浮び上ってくる、のかもしれない。

Date: 8月 7th, 2010
Cate: 中点

中点(その10)

「美しい音」の反対となることばは、なんであろうか。
人によって答は変ってくるだろう。

「汚い音」という人もいるだろうし、「悪い音」とか「雑な音」、
「醜い音」(どんな音なのだろうか)といった答が返ってきそうだ。

正解は……、というつもりはさらさらない。
ただ、私は「美しい音」の反対語は「貧しい音」だと答える。

そのあとで、「美しい音」と「貧しい音」の中点について考えてみる。

「醜い音」と考えた人は「美しい音」と「醜い音」の中点を、
「汚い音」と答えた人は「美しい音」と「汚い音」の中点を、それぞれなんであるのか考えてみるといいと思う。

音に関するあらゆる表現で、その反対語を考えてみると、おのずと己の中点が浮び上ってきはしないか。

Date: 7月 16th, 2010
Cate: 中点

中点(その9)

自己肯定の音(けっしてよい意味ばかりでなく、どちらかといえばネガティヴな意味をこめて)、
自己否定の音(ネガティヴな意味でばかり使うのでもない)、
このふたつの音があるのかもしれない。

自己肯定の音と自己否定の音と、まったく関係のないところにも点があれば、
自己肯定の音と自己否定の音のあいだにある点もあるだろう。

前者は中点にはなりえない、後者は中点になりえる。

Date: 6月 28th, 2010
Cate: 中点

中点(その8)

「神は細部に宿る」という。

オーディオにおける「細部」とはどこなのか、なんなのか。
オーディオにおいては「神は沈黙に宿る」ではなかろうか。

音楽における「細部」とはどこなのか、なんなのか。
音楽においては「神は音と音のしじまに宿る」。そう感じている。
ベートーヴェンの後期の作品においては、おそらく間違っていないだろう。

沈黙、しじまこそ、音における「細部」なのかもしれない。
そして、この「細部」が、もしかすると「中点」なのかもしれない。
フルトヴェングラーのいう「具象化における精神的な中点」とはいわないが、
そこに通じていくもののような気がしてならない。

Date: 6月 27th, 2010
Cate: 中点

中点(その7)

今日、あるスピーカーシステムを聴いてきた。
このスピーカーシステム(ANO)については、Twitter でいくつかつぶやいた。

返信へのつぶやきも書きながら、ふと思ったのは、なにかを感じさせるスピーカーシステムには、
どこかしらに「中点」があるのかもしれない、ということ。

構造的な中点、もしくは造形的な中点……、
まだ漠然と感じている段階だけれども、
「中点」をもつもの、もたないもの、感じさせるもの、感じさせないもの、
という具合に、はっきりとあるといえる気がする。

Date: 6月 25th, 2010
Cate: 中点

中点(その6)

芸術家の課題──まず第一に展開、すなわち具象化。
第二に表現における統括。それは前進でも後進でもなく、具象化における精神的な中点である。
     *
フルトヴェングラーが1948年に語ったことばで、「音楽ノート」に載っている。
抜き書きしたものではなく、これだけで、前後の文章はない。とくに難しい単語が使われているわけではない。
けれど、フルトヴェングラーの真意を汲みとろうとすると、ひっかかってしまう。
そして、堂々巡りしてしまう。

Date: 11月 21st, 2009
Cate: 中点

中点(その5)

疑問をもつこと以上に心がけておきたいのは、
腑に落ちる、腑に落ちないといった身体的感覚を、体得しておくということ。

Date: 11月 20th, 2009
Cate: 中点

中点(その4)

早瀬さんが、SOUNDFRAILのトップページに書いてくれている。
     *
リンクしているaudio identity (designing) を読んでいると、オーディオについてのベーシックにして高度な理論について、とにかく徹底して自分の頭で考えるということの大切さを教えられる。電気的な知識がまったく無い人にはちょっと難しい部分もあるのだが、オーディオが好き、という以上あるていどのお勉強は必要だと思う。
audio identity (designing) 主宰者の宮崎さんは、とにかく既成の事実、完成された技術についても疑いの眼差しをもって検証し考え抜くという人。時には製品をバラバラに分解して観察し、何故、という視線をキープしながら本質にせまろうとする。その熱意には並々ならぬものがある、と思う。

名だたる自動車メーカーはライバルメーカーのクルマを徹底的に分解して、ネジ一本に到るまでコスト計算していくという。
いい音を達成するために、とりあえず自分の限界に挑みつつ考えるという態度は必須のものと思われる。
     *
たしかに、つねに疑問をもつように心がけている。
それは、技術に対してだけではない(すこしイヤな人間性なのかもしれない)。
疑問をもつからこそ見えてくることがあるし、発想も湧いてくる。
と書くと、ここで書いたこととすこし矛盾するのではないか、との声もあるだろう。

とことん信じるところと、つねに疑うところがある。
そう心がけているともいえるし、直感に従っているまで、ともいえる。

どちらか片方だけでは、中点が存在しなくなるから、無意識、意識的にそうしているのかもしれない。