中点(その15)
(その12)と(その13)で、レコード(録音物)は中点だと書いた。
レコードの送り手(録音側)とレコードの受け手(再生側)の中点であり、
レコードの送り手にとってレコード(録音物)は最終点であって、
レコードの受け手にとっては出発点であるからだ。
同じことをオーディオ機器について考えると、
アンプにしてもスピーカーにしても、レコードと同じく中点といえる。
ここで書いたいのはそのことではなく、オーディオ雑誌、オーディオ評論は中点といえるのか、である。
(その12)と(その13)で、レコード(録音物)は中点だと書いた。
レコードの送り手(録音側)とレコードの受け手(再生側)の中点であり、
レコードの送り手にとってレコード(録音物)は最終点であって、
レコードの受け手にとっては出発点であるからだ。
同じことをオーディオ機器について考えると、
アンプにしてもスピーカーにしても、レコードと同じく中点といえる。
ここで書いたいのはそのことではなく、オーディオ雑誌、オーディオ評論は中点といえるのか、である。
われわれオーディオマニアは、なぜいじるのか。
アンプを替え、プレーヤーを替え、ときにはスピーカーすら替える。
こういった大きなところだけでなく、
ケーブルやアクセサリー類といったこまかなところもかえる。
さらにスピーカーの置き位置もミリ単位で調整していく。
やれることはそこかしこにあって、きりがないほどだ。
こんなことを飽きずに長年やっているのは、いい音を求めているからである。
けれど、それだけだろうか。
何かを探るためにやっているのではないだろうか。
昨晩の(その2)で書いているラジカセ程度の理想のオーディオ機器では、
そんなことはできない。
置いて鳴らすだけで、必ず、いつも同じで、いい音が完璧に鳴ってくるのだから、
そこに聴き手が使い手になる余地はまったく存在しない。
つまり何も探れない。
結果としての「いい音」だけである。
その結果は、必ずしも答ではない。
答としての「いい音」ではないわけだ。
結果も答も、自らの手によってなされたものであるならば、それでいいのだが、
ここでの結果としての「いい音」は、誰かの手によってなされたものであって、
自身の手によってなされた要素は、微塵もないだから、答としての「いい音」ではない。
そして、もうひとつ。
問いとしての「いい音」。
たとえば、こんなことを想像してみる。
ラジカセぐらいの大きさのモノで、
これ一台で、素晴らしい音を鳴らしてくれる。
サイズはラジカセ程度なのに、音の左右への広がりは大きく、
奥行きも見事に再現する。
すべての音をあますところなく、本来あるべき姿で鳴らす。
しかも、このキカイの優れているところは、どんな使い方をしようと、
常に最高の音を鳴らすことちだ。
高価なラックの上に置くことはないし、
ラジカセのように完全な一体型だから、ケーブルも必要としない。
高価なアクセサリーを何ひとつ必要としない。
電源に関しても、高性能なバッテリー搭載で、
AC電源の質に頭を悩ますこともまったくない。
そんな理想のオーディオ機器があったとしよう。
その一方で、現在のカタチのオーディオ機器がある。
プレーヤーがあって、アンプがあって、スピーカーが必要となる。
しかもケーブルも必要で、ほとんどの機種がAC電源を必要とする。
置き方ひとつで、音が変化する。
ケーブルを変えれば、音は変る。
アクセサリーをもってくれば、そのことでも音は変る。
変らないところがないくらいに、どんなこまかなことでも音は変っていく。
音楽を聴くキカイとしては、不完全といえよう。
ラジカセ程度の大きさで、理想のオーディオ機器と、
いまわれわれが使っている、いわば不完全なオーディオ機器で音楽を聴いて、
前者の、理想のオーディオ機器では視えてこない(聴こえてこない)ことがあるはずだ。
前者が聴かせるのは、モノゴトの結果だけであるからだ。
別項「オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その7)」で、
堂々巡りは悪い面ばかりではない──、と書いた。
同じところを何度も廻っているうちに、その「中心」がはっきりとしてくるからだ。
9年前に書いてる。
いまも基本的にはそう思っているが、
9年も経てば、少しは変ってくる。
堂々巡りには、大きな環と小さな環のふたつが同時に存在する場合がある。
そう考えるようになった。
地球の公転と自転のようなものだ。
もっとも私が描いている堂々巡りの大きな環は、公転といってもいいが、
小さい環は地球の自転というよりも、地球の周りを廻っている月の軌道のように考えている。
もしかすると環は一つではなく、二つでもなく、場合によってはもっと多いのかもしれない。
そこを見極めないと、ほんとうにいつまでも堂々巡りのままだ。
別項(オーディオの「介在」こそ)で、
音楽と聴き手とオーディオの位置関係について書いた。
私は、音楽と聴き手を結ぶ線の上にオーディオ機器が介在している、といまも考えている。
知人は三角形を描く。
ということは私にとってのオーディオは、音楽と聴き手(つまり自分)を両極とする線上にある点である。
音楽と聴き手の両方から等しい距離に、その点(オーディオ)が位置していれば、
私にとって、というべきか、音楽と私にとっての中点はオーディオということになる。
とはいうものの、その点(オーディオ)が等しい距離に位置しているのかを、まだ見極めていない。
オーディオは中点となり得るのだろうか。
レコードが中点であるのは、アナログディスクにしろCDにしろ、
ある形態をもっているからだ、ともいえる。
いまインターネットを通じての配信が増えてきている。
以前は圧縮音源のみだったのが、CDと同じサンプリング周波数、ビット数での配信もはじまり、
さらにはハイビット・ハイサンプリングでの配信、DSDでの配信も登場してきた。
ドイツ・グラモフォン(デッカ)も、以前は320kbpsのMP3だったのが、
FLACファイル(16ビット、44.1kHz)での配信もはじめている。
しかもMP3の価格とFLACの価格差は、意外と小さい。
それにTrack Detailsをみると、最下段にFormatという項目があり、
デジタル録音のものは、サンプリング周波数とビット数が表示されている。
多くは44.1kHzの16ビットだが、なかには24ビットのものもあるし、ハイサンプリングのものもある。
これを提示しているということは、将来、マスターのフォーマットそのままでの配信が行われるのかもしれない、
と勝手に期待しているわけだが、いつになるのかはなんともいえないが、やらない理由は特にないと思う。
レコード会社が、このようにいくつかのフォーマットで音楽を販売している、という事実は、
レコード(録音物)が、これから先も中点でありつづけるのか、とも思えてくる。
レコード(パッケージがなくなってしまうから、あえて録音物とする)が、
レコードの送り手側にとって最終点、レコードの受け手にとって出発点ということも、
これから微妙に変化してくるかもしれない。
つまりレコードの送り手にとってレコードが最終点だったのは、
レコードの受け手の再生環境に対して、いわば注文をつけることはできないからでもある。
それが同じレコード(録音物)をいくつかのフォーマットで提供しはじめたということは、
レコードの受け手の再生環境に合わせることの、最初のとっかかりとなっている、ともいえよう。
学生のときに読んだように記憶しているから、もう30年ほど前のことになるが、
黒田先生が、レコードについて、レコードの送り手側にとっては最終点であり、
レコードの受け手(聴き手)にとっては出発点になる、
とそういったことを書かれていた。
読んだとき「なるほど、たしかにそうだ」と感心した記憶が強く残っている。
レコードは最終点でもあり、出発点でもある。
どちら側からみるかによって変ってくる。
いまこのことを思い出したのは、
どちら側から見るかによってレコードは最終点になったり出発点になる。
けれどもレコードそのものにおさめられている音楽は変りはしない。
レコードそのものの位置づけは変っても、レコードそのものは変らない。
ということは、レコードは音楽の送り手側と音楽の受け手側の中点であるわけだ。
そのレコードは回転することで、意味をなす。
2チャンネルのステレオは、モノーラル再生を水平(左右)方向に拡大している。
その2チャンネルのステレオがうまく鳴ったときに、われわれは奥行き感といったものも感じられる。
けれど2チャンネルのステレオは、あくまでも水平方向への拡大であるから、
完全な立体音源とはいえない。
完全な立体音源であるための理屈では、水平方向も左右だけでなく前後への拡大が最低でも必要となり、
さらには垂直方向への拡大も求められる。
にも関わらず、左右のスピーカーシステムの中央に歌手が定位すれば、
その歌手のボディの厚みさえ感じられることすらある。
これは考えれば不思議なことでもある。
なぜそう聴こえるのか、感じるのか。
もっといえばそう感じられる録音もあれば、そう感じられない録音もあるし、
そう感じられる録音のディスクをかけたとしても、そう感じられる音もあれば、そう感じられない音がある。
この違いは、なぜ起るのか。
なにに関係していることなのだろうか。
左右のスピーカーシステムあいだに架空の透明のキャンバス(もしくはスクリーン)が存在しているとすれば、
それは消失点(vanishing point)の有無なのだろうか……。
そんなことを考えている。
音に関するあらゆる表現の、その反対語を考えていくことで、
己の中点が浮び上ってくるのではないか、と前回書いた。
音を表現するものの数だけ、中点の数もあって、
そうやって浮び上ってくる中点は重なり合うものもあるだろうし、そうでないものもあるはず。
そしてそれらの中点を俯瞰し、ときに結んでいくことで、
無意識のうちに求めている音が浮び上ってくる、のかもしれない。
「美しい音」の反対となることばは、なんであろうか。
人によって答は変ってくるだろう。
「汚い音」という人もいるだろうし、「悪い音」とか「雑な音」、
「醜い音」(どんな音なのだろうか)といった答が返ってきそうだ。
正解は……、というつもりはさらさらない。
ただ、私は「美しい音」の反対語は「貧しい音」だと答える。
そのあとで、「美しい音」と「貧しい音」の中点について考えてみる。
「醜い音」と考えた人は「美しい音」と「醜い音」の中点を、
「汚い音」と答えた人は「美しい音」と「汚い音」の中点を、それぞれなんであるのか考えてみるといいと思う。
音に関するあらゆる表現で、その反対語を考えてみると、おのずと己の中点が浮び上ってきはしないか。
自己肯定の音(けっしてよい意味ばかりでなく、どちらかといえばネガティヴな意味をこめて)、
自己否定の音(ネガティヴな意味でばかり使うのでもない)、
このふたつの音があるのかもしれない。
自己肯定の音と自己否定の音と、まったく関係のないところにも点があれば、
自己肯定の音と自己否定の音のあいだにある点もあるだろう。
前者は中点にはなりえない、後者は中点になりえる。
「神は細部に宿る」という。
オーディオにおける「細部」とはどこなのか、なんなのか。
オーディオにおいては「神は沈黙に宿る」ではなかろうか。
音楽における「細部」とはどこなのか、なんなのか。
音楽においては「神は音と音のしじまに宿る」。そう感じている。
ベートーヴェンの後期の作品においては、おそらく間違っていないだろう。
沈黙、しじまこそ、音における「細部」なのかもしれない。
そして、この「細部」が、もしかすると「中点」なのかもしれない。
フルトヴェングラーのいう「具象化における精神的な中点」とはいわないが、
そこに通じていくもののような気がしてならない。
芸術家の課題──まず第一に展開、すなわち具象化。
第二に表現における統括。それは前進でも後進でもなく、具象化における精神的な中点である。
*
フルトヴェングラーが1948年に語ったことばで、「音楽ノート」に載っている。
抜き書きしたものではなく、これだけで、前後の文章はない。とくに難しい単語が使われているわけではない。
けれど、フルトヴェングラーの真意を汲みとろうとすると、ひっかかってしまう。
そして、堂々巡りしてしまう。
疑問をもつこと以上に心がけておきたいのは、
腑に落ちる、腑に落ちないといった身体的感覚を、体得しておくということ。