Archive for category 楷書/草書
楷書か草書か(その10)
「ボヘミアン・ラプソディ」のクライマックスは、
1985年のライヴエイドの再現である。
実際のライヴエイドがどうだったのかは見たことがないけれど、
「ボヘミアン・ラプソディ」を観ていると、見事としかいようがない。
それは決してトレースではない。
(その9)で指摘したようなトレースではないから、
ここにきて「ボヘミアン・ラプソディ」のカタルシスがとてつもないものに仕上がっている。
クイーンのヒットした曲は、ある程度は知っている(聴いている)程度で、
一枚もクイーンのLP、CDを持っていない私(にわかファンですらない)でも、
グッと胸にくるものがあった。
ライヴエイドのシーンで、涙する中高年のファンが多い、と聞いているが、
若いころにクイーンに夢中になっていた時期があったならば……、
そんなふうに思わせるほどだ。
けれど、再現度がどれほど完璧といえるレベルにあったとしても、
フレディ・マーキュリー役のラミ・マレックが、実際のライヴエイドの映像を見、記憶し、
フレディ・マーキュリーの動きをトレースしただけでは、
それがどんなに完璧なトレースであったとしても、
1985年のライヴエイドの再現とはとうていなりえない。
トレースは、どこまでいってもトレースでしかない。
トレースの域から脱したところでのラミ・マレックのフレディ・マーキュリーだからこその感動であり、
ここで涙する人が大勢いるのだろう。
楷書か草書か(その9)
最初はドアの上の方だけだったのが、
いまでは、最新の山手線の車輌は、かなりの数の液晶ディスプレイがついている。
手にはスマートフォンという液晶ディスプレイ、
スマートフォンから視線を外すと、今度は車輌内の液晶ディスプレイ、という、
液晶ディスプレイに囲まれつつあるわけで、
電車に乗っていると、どうしても目に入ってくる。
数年前になるが、あるスーパーのコマーシャルが頻繁に液晶ディスプレイに映し出されていた。
中学生か、もしかすると小学高学年なのか、
そのくらいの年ごろの少年少女が踊っているコマーシャルだった。
このコマーシャルをみるたびに感じていたのは、
これは踊りなのだろうか、だった。
たしかに若くて体も柔らかくて軽いだろうから、よく動く。
ヘタなわけではない。
けれど、みているとうんざりしてくる。
踊りに、どうしても見えないからだ。
液晶ディスプレイに映し出されているのは、
振付師によって考え出された振り付けを、そのままトレースしているだけにしか見えないからだ。
振付師の考えた振り付けをみたわけではない。
それが踊りなのか、それとも振り付けでしかかないのかまでは、
コマーシャルだけを見ているのだからわからない。
けれど単なる振り付けであっても、それを踊りにするのがダンサーであり、
ダンサーである以上、年齢は関係ない。
どんなにテクニックがあっても、手本となる動きをただ単にトレースしているだけのレベルでは、
踊りに限らず、書であっても絵画であっても、オーディオであっても、
摸作ともならないし、まして贋作とはとうてい呼べない。
楷書か草書か(その8)
オーディオにおける臨書について考えていると、
摸作か贋作か、ということを考える。
臨書で、手本そっくりに書けたとしよう。
書いた本人にしか、どちらが手本なのかがわからぬほどの出来であっても、
それは摸作である。
その摸作を、何もいわずに、あたかも本物として誰かに売ってしまえば、
その時点で贋作となる──、
そんなことを考えていた。
書いた本人ではなく、誰かがこっそり売ってしまうこともあろう。
書いた本人にとっては摸作でも、
そうやって売られてしまえば贋作となるわけだ。
いま別項「日本のオーディオ、これから(韓国、中国は……)」で、
クレル、FMアコースティックス、ダールジール、QUADなどのクローンアンプのことについて書いている。
これらは摸作なのか、それとも贋作なのか。
1980年代に出回っていたクレルの偽物は、中身がスカスカで、
儲けだけを狙ったモノだけに、はっきりと贋作(しかも程度の悪い)である。
では、今回の暮れるのKSA50のクローン製品は、贋作なのか。
偽物は、本物と謳う。
けれど、今回のKSA50はそうではない。
それにオリジナルのKSA50は三十年以上も前に製造中止になっている。
そのことはオーディオマニアならば知っているわけで、
そうなると今回のKSA50は摸作のまま、商品となっているのか。
こんなことを考えていると、もう一度贋作について考えることになる。
1980年代の、誰でも偽物と見破れる程度ではなく、
オリジナルのKSA50の音を聴いたことのある人をも、
KSA50の音だ、と騙せてしまえるほどのKSA50そっくりのアンプがあったとしよう。
これは売る売らないに関係なく、贋作といえるのではないのか。
楷書か草書か(その7)
音である以上、手本となる音は消えてしまう。
見たい(聴きたい)ときに、すぐそこにあるわけではない。
オーディオの臨書は、そこが決定的に難しい。
それでも、なんとか臨書的なことはできないものか。
システム全体となると、
もう一度、その音を聴くには、同じ人にセッティングしてもらうか、
その人のレベルに肩を並べるくらいまで腕をあげるか、である。
けれど、もう少し範囲を狭くしたらどうだろうか。
たとえばグラフィックイコライザーである。
同じモデルを二台用意する。
一台を、きちんとした実力のある人に調整してもらう。
どの帯域をどれだけ動かしたのかは、
フロントパネルをブラインドフォールドしてしまう。
そのうえで、もう一台のグラフィックイコライザーを自分でいじって、
同じ音になるように調整していく。
これだともう一度、手本となる音を聴きたければ、
ブラインドフォールドしたグラフィックイコライザーを接続すれば、すぐに聴ける。
その音を確認したら、また自分での調整に戻る。
これを何度もくり返していけば、そうとうに実力、
つまり聴く力は身につくはずだ。
それでも、グラフィックイコライザーをきちんと調整できる人は、
ほんとうに少ない。
腕が自信がある──、
そんなことを豪語している人であっても、
ただ自分の好きな音に、音のバランスを無視して仕上げていたりする。
そういう調整がされたグラフィックイコライザーは、臨書における手本にはならない。
楷書か草書か(その6)
書における手本は、オーディオの世界ではないのか。
誰かの音は、それが優れている音であれば手本にはなる。
けれど臨書での手本とは少し違う。
臨書を手本となる書を見て書く。
けれどオーディオでは、それは無理である。
たとえばまったく同じ造りで同じ音響特性の部屋が二つある。
そしてどちらにも同じシステムが用意されている。
一つの部屋のシステムは、きちんと調整されていて見事な音が出ている。
その音を聴きながら、隣の同一の部屋、同一のシステムを、
一からセッティングしてチューニングして同じ音にもっていく。
オーディオに臨書があるとすれば、こういうことになるだろう。
けれどこんなことほぼ実現できない。
実現できたとしても、それはほんの一握りの人のものになってしまうだろう。
それでは、と、誰かに自分のシステムを一からセッティング、チューニングしてもらう。
その人の力量がほんものならば、同じシステムか、と思うほどの音が鳴ってくる。
その音をじっくりと聴く。
そしてシステムをバラす。
各オーディオ機器の接続を外し、
システム全体をいったん部屋から出す。
そして、文字通り一からセッティングすることから始める。
そこで、どこまでさっきまで鳴っていた音を再現できるか。
これが現実的な、オーディオの臨書的なことだろう。
簡単なことのように思われるかもしれないが、
調整してくれた人との力量に差があればあるほど、
同じにセッティングしたつもりでも、同じではなくて、
音も同じようには鳴ってくれない。
そこでもう一度、手本の音を、と思っても、
もうそれはなくなってしまっている。
楷書か草書か(その5)
書道の世界には、臨書というのがある。
手本となる書を見て、そのとおりに書くことである。
書の世界に詳しいわけではない。
それでも、「書の甲子園」といわれている国際高校生選抜書展があることくらいは知っているし、
そのレベルが、そうとうに高いことくらいは知っている。
私が通っていた高校には書道部はなかった(はず)。
書道部のレベルが、どのくらいなのかも当時は知らなかった。
いまごろになって知って、その高さに驚いている。
とともに、オーディオのレベルは……、とつい思ってしまう。
書の世界とオーディオの世界は、同一に語れない点がいくつもあるのは知っている。
それでも……、とどうしてもおもう。
なぜ、これほどまでに違うのか。
その理由は多岐にわたっていて、いくつもあげられるが、
そのひとつは臨書にあたるものが、オーディオにはない、といえるからだ。
楷書か草書か(その4)
その人の書く字と音(演奏)との関係で思い出すのは、
黒田先生の、カルロ・マリア・ジュリーニについて書かれた文章がまずある。
マガジンハウスから出ていた「音楽への礼状」に、この文章はおさめられている。
ジュリーニが、マーラーの交響曲第九番をシカゴ交響楽団と録音した1977年から五年後の1982年に、
ジュリーニはロサンゼルス・フィルハーモニーとともに来日公演を行っている。
この時黒田先生はジュリーニにインタヴューされ、マーラーの九番のスコアにサインをもらわれている。
*
あのとき、マーラーの第九交響曲のスコアとともに、ぼくは、一本の万年筆をたずさえていきました。書くことを仕事にしている男にとって、自分に馴染んだ万年筆は、他人にさわられたくないものです。そのような万年筆のうちの一本に、AURORAというイタリアの万年筆がありました。その万年筆は、ずいぶん前に、ミラノの、あなたもご存知でしょう、サン・バビラ広場の角にある筆記用具だけ売っている店で買ったものでした。そのAURORAは、当時、ようやく馴染みかけて使いやすくなっているところでした。でも、あなたはイタリアの方ですから、それでぼくはAURORAでサインをしていただこうと、思いました。
おそらく、お名前と、それに、せいぜい、その日の日づけ程度を書いて下さるのであろう、と漠然と考えていました。ところが、あなたは、ぼくの名前から書きはじめ、お心のこもったことばまでそえて下さいました。しかし、それにしても、あなたは、字を、なんとゆっくりお書きになるのでしょう。ぼくはあなたが字をお書きになるときのあまりの遅さにも驚きましたが、あなたの力をこめた書きぶりにも驚かないではいられませんでした。スコアの表紙ですから、それなりに薄くはない紙であるにもかかわらず、あなたがあまり力をこめてお書きになったために、反対側からでも字が読めるほどです。
時間をたっぷりかけ、一字一字力をこめてサインをして下さっているあなたを目のあたりにしながら、ぼくは、ああ、こういう方ならではの、あのような演奏なんだ、と思いました。
*
ジュリーニが、ゆっくりと書くのは、さもありなんと、ジュリーニの演奏を聴いたことのある人ならば思うだろう。
黒田先生の文章で興味深いのは、力をこめた書きぶりである。
スコアの表紙の裏側からでも字が読めるほどの力のこめぐあいである。
ゆっくりと、力をこめる。
こういう音でジュリーニの演奏は聴くべきである。
楷書か草書か(その3)
楷書か草書かということではないが、
オーディオ機器の聴かせる音も、文字に関することで区分け、というか、いい表すことができるところもある。
つくり手の手書き文字を思わせる音を聴かせるモノもあれば、
活字的な音(その中で、書体によってまた分れてくる)もある。
たとえばピーター・ウォーカーがいたころのQUADのアンプの音は、
ピーター・ウォーカーによる手書きの文字のようなところがあったように、いま思う。
その手書きの文字にも楷書、草書的な違いがあるし、
それだけではなく文字を書く速さの違いもあるように感じている。
達筆でサラサラサラッと流れるように書かれていく文字もあれば、
ゆっくりゆっくり確かめるように丁寧に書かれていく文字もある。
筆圧の違いもある。
パソコンが普及してネットも普及して、手書きの文字を見る機会がぐんと少なくなっているからか、
たまに手書きの文字を読むと、こんなことを思ってしまう。
楷書か草書か(その2)
楷書か草書かで言えば、カラヤンのスタジオ録音は楷書であろう。
70年代の録音を聴くと、そう感じる。
楷書、草書のふたつだけで区分けすることの無理があるのはわかっている上で、
5月発売になった、最後の来日公演のライヴ録音のなかのブラームスの交響曲第1番は、
楷書なのかと、自問する。考えこんでしまう。
楷書か草書か(その1)
アバドのマーラーは、私にとっては、1980年前後にシカゴ響との旧録のほうが、
そのなかでも交響曲第1番は、ひときわ印象ぶかいものとなっている。
1982年夏にステレオサウンド別冊として出た「サウンドコニサー(Sound Connoisseur)」の取材で、
アバドによる第1番をはじめて聴いたとき、
第1楽章出だしの緊張感、カッコウの鳴き声の象徴といわれているクラリネットが鳴りはじめるまでの、
ピーンと張りつめた、すこしひんやりした朝の清々しい空気の描写に、
息がつまりそうな感じに陥ったのを、はっきりとおぼえている。
ステレオサウンドにはいってまだ数ヶ月。
長時間の、しかも数日続く試聴にまだなれていなくて、
さらに、たとえば4344の試聴にしても、4343との比較、
アンプも3通りほど用意してという内容だっただけに、
試聴室の雰囲気も緊張感がみなぎっていて、そこにアバドの演奏で、ぐったりになったものだ。
いったい、何度聴いたのだろう……。
だからというわけではないが、じつは随分長い間、アバドの1番は聴いてこなかった。
なのに去年暮、ふと聴きたくなってあらためてCDを購入した。
82年から25年の間に、いくつかの第1番を聴いた。
バーンスタインの再録ももちろん聴いている。
ひさしぶりのアバドの演奏を聴いて感じたのは、
「このころのアバドは楷書で、バーンスタインは草書」ということ。
こういう区分けはあまりやらないほうがいいのはわかっていても、
楷書か草書かで、自分の好きな演奏家や音を照らし合わせてみるのはおもしろい。