Archive for category オリジナル

Date: 10月 6th, 2016
Cate: オリジナル

オリジナルとは(愛聴盤とは・その2)

これから先の人生で、
カスリーン・フェリアーの”KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL”の初期盤を、
手にすることがあるかもしれない。
その音を聴いて、「やっぱり初期盤だね」と口走るかもしれない。
高価であっても購入するかもしれない。

そうなっても私にとって愛聴盤なのは、
ディスク番号は414 623-2のCDである。
30年以上、このCDで聴いてきている。

20代後半のある時期、私はすべてのオーディオ機器を手離した。
それでもしんどい時期が続いて、持っていたディスク(LPとCD)も手離した。

カスリーン・フェリアーの”KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL”だけは、
どうしても手離せなかった。

あの時、これだけは手離してだめだと感じていた。
手離さなくてよかった、と思っている。

こうおもうのも、五味先生の影響なのかもしれない。

「フランク《ヴァイオリン・ソナタ》」を読んだことが深く影響していたからなのかもしれない。
     *
 フランクのソナタは、言う迄もなく名曲である。LP初期のころ、フランチェスカッティとカサドジュのこのイ長調のソナタを聴きに、神保町の名曲喫茶へよく私は行った。昭和二十七年の秋だった。当時はLPといえば米盤しかなく、たしか神田のレコード店で一枚三千二百円だったとおもう。月々、八千円に満たぬ収入で私達夫婦は四畳半の間借り生活をしていた。収入は矢来町にある出版社の社外校正で得ていたが、文庫本を例にとれば、一頁を校正して五円八十銭もらえる。岩波文庫の〝星〟ひとつで大体百ページ、源泉徴収を差引けば約五百円である。毎日、平均〝星〟ひとつの文庫本を校正するのは、今と違い旧カナ使いが殆どだから大変な仕事であった。二日で百ページできればいい方だ。そういう収入で、とても三千円ものレコードは買えなかった。当時コーヒー代が一杯五十円である。校正で稼いだお金を持って、私はフランクのソナタを聴きに行った。むろん〝名曲喫茶〟だから他にもいいレコードを聴くことは出来る。併し、そこの喫茶店のお嬢さんがカウンターにいて、こちらの顔を見るとフランクのソナタを掛けてくれたから、幾度か、リクエストしたのだろう。だろうとはあいまいな言い方だが私には記憶にない。併し行けば、とにかくそのソナタを聴くことができたのである。
 翌年の一月末に、私は芥川賞を受けた。オメガの懐中時計に、副賞として五万円もらった。この五万円ではじめて冬用のオーバーを私は買った。妻にはこうもり傘を買ってやった。そうして新宿の中古レコード屋で、フランクのソナタを千七百円で見つけて買うことが出来た。わりあい良いカートリッジで掛けられたレコードだったように思う。ただ、一箇所、プレヤーを斜めに走らせた針の跡があった。疵である。第三楽章に入って間なしで、ここに来るとカチッ、カチッと疵で針が鳴る。その音は、私にはこのレコードを以前掛けていた男の、心の傷あとのようにきこえた。多分、私同様に貧しい男が、何かの事情で、このレコードを手離さねばならなかったのであろう。愛惜しながら売ったのだろう。私の買い値が千七百円なら、おそらく千円前後で手離したに違いない。千円の金に困った男の人生が、そのキズ音から、私には聴こえてくる。その後、無疵のレコードをいろいろ聴いても、第三楽章ベン・モデラートでピアノが重々しい和音を奏した後、ヴァイオリンがあの典雅なレチタティーヴォを弾きはじめると、きまって、架空にカチッ、カチッと疵音が私の耳にきこえてくる。未知ながら一人の男の人生が浮ぶ。
 勿論、こういう聴き方は余計なことで、むしろ危険だ。第一、当時LPを聴くほどの者が、千円程度の金に困るわけがあるまい。疵が付いたから売ったか、余程金の必要に迫られたにせよ、他の何枚かと纏めて売ったにきまっている。しかし、私には千円にも事欠く男の生活が思いやられた。つまりは私自身の人生を、そこに聴いていることになる。こういう血を通わせた聴き方以外に、どんな音楽の鑑賞の仕方があろうか、とその時私は思っていた。最近、復刻盤でティボーとコルトーによる同じフランクのソナタを聴き直した。LPの、フランチェスカッティとカサドジュは名演奏だと思っていたが、ティボーを聴くと、まるで格調の高さが違う。流麗さが違う。フランチェスカッティはティボーに師事したことがあり、高度の技巧と、洗練された抒情性で高く評価されてきたヴァイオリニストだが、芸格に於て、はるかにまだティボーに及ばない、カサドジュも同様だった。他人にだからどの盤を選びますかと問われれば、「そりゃティボーさ」と他所ゆきの顔で答えるだろう。しかし私自身が、二枚のどちらを本当に残すかと訊かれたら、文句なくフランチェスカッティ盤を取る。それがレコードの愛し方というものだろうと思う。忘れもしない、レコード番号=コロムビアML四一七八。——白状するが〝名曲喫茶〟のお嬢さんは美貌だった。彼女の面影はフランチェスカッティ盤に残っている。それへ私の心の傷あとが重なる。二十年前だ。二十年前の、私という無名な文学青年の人生が其処では鳴っているのである。これは、このソナタがフランク六十何歳かの作品であり、親友イザイエの結婚に際し祝いとして贈られた、などということより私にとって大切なものだ。(「オーディオ巡礼」所収)
     *
五味先生が書かれていることに、自分を重ねてのことではない。
18のころに、この文章を読んだ。

《「そりゃティボーさ」と他所ゆきの顔で答えるだろう。》
この一節が、そのときから心に残っている。

世間でいわれる名盤と自分にとっての愛聴盤とは違う、ということを教わっていた。

《それがレコードの愛し方というものだろうと思う。》
そうだと思う。

Date: 10月 5th, 2016
Cate: オリジナル

オリジナルとは(愛聴盤とは・その1)

愛聴盤とは、きわめて個人的なモノというより、コトだと思っている。

愛聴盤は、必ずしも世間で名盤といわれているのと同じではない。
あるレコードとであう。
その日から、いまに到るまで、短くない時間、傍らにそのレコードがあり、
決して頻繁にではなくとも、なにかことあるごとに聴いてきたレコードが、
誰にでもあるはずだし、それこそが愛聴盤のはずだ。

私にとっての愛聴盤の一枚は、カスリーン・フェリアーのバッハ/ヘンデルのアリア集だ。
私は、このディスクをCDで知った。
輸入盤だから、”KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL”で、
ディスク番号は414 623-2である。

輸入されたばかりのころ買った。
1985年のことだ。
まだまだCDの音には未熟なところが残っていた。
それでも、このCDからの音に耳(心)を奪われた。

LPも欲しくなった。もっといい音で聴きたいというおもいがあったからだ。
期待して聴いた。CDの方がフェリアーの声がよかった。
どちらが心にしみてくるかといえば、CDだったのが意外だった。

このことがあった数年後、レコード芸術にイギリスのレコード店の広告が目に留った。
いわゆる初期盤、オリジナル盤を扱うレコード店である。

当時はインターネットはない。郵便でのやりとりだった。
リストが送られてくる。欲しいモノにチェックして返送する。
在庫があれば購入できるし、入金の案内がまた郵便で届く。
入金すれば、しばらくしてレコードが届く。

そうやってLPを買っていた。
ここでフェリアーのLP(初期盤)を探したかというと、しなかった。
初期盤であれば、CDよりもいい音で聴けるであろうとは思いつつも、
このときすでに”KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL”は、私の愛聴盤になっていたからである。

Date: 8月 17th, 2016
Cate: オリジナル

オリジナルとは(SAEの場合)

ステレオサウンドについて(その59)」で、SAEの輸入元変更について書いた。

SAEのパワーアンプMark 2600に関しては、
RFエンタープライゼス輸入のモノと三洋電機貿易輸入のモノとがある。

私は迷わずRFエンタープライゼス輸入のMark 2600を選ぶが、
世の中にはオリジナルでなければ絶対にダメだ、という人たちがいる。
その人たちは、どちらを選ぶだろうか。

ここでのMark 2600のオリジナルとは何を指すのか。
SAEはアメリカの会社だから、アメリカで売られているMark 2600とまったく同じモノであり、
SAEが日本に出荷したモノということになる。

RFエンタープライゼスでは、届いたMark 2600に手を加えていた。
私はそのことを改良と受けとめているが、
オリジナル至上主義者は、オリジナルに手を加えている、と憤慨するかもしれない。

Rfエンタープライゼスが勝手にやっていたことではないだろう。
SAEの承認を得てやっていたことだろう。
それでもオリジナルに手を加えていることは事実である。

RFエンタープライゼス輸入のモノと三洋電機貿易輸入のモノとを比較試聴したことはない。
どれだけの音の差があるのかははっきりとしないが、
少なくともある程度の音の差があるのは間違いない。

おそらくRFエンタープライゼスのMark 2600の方が音はいい、と思う。
だから私は、オリジナルではなくなっていてもRFエンタープライゼス輸入を迷わずとるが、
オリジナル至上主義者は、ここでは迷わず三洋電機貿易輸入を選んでもらいたい。

でもオリジナル至上主義者の何人かはいうだろう。
聴いて音が良ければ、RFエンタープライゼス輸入をとる、と。

オリジナル至上主義者の人たち何人かと話して気づいたのは、
彼らがオリジナルに執拗にこだわるのは市場価値とか商品価値を重視しているからでもある。

つまり手放すときに、どれだけ高く売れるか。
そのためだけにオリジナルであることにこだわっている人がいるのは事実である。

ということは、そういう人にとっては三洋電機貿易輸入のMark 2600は、
中古市場での価格は、RFエンタープライゼスのMark 2600よりも低いはずだから、
RFエンタープライゼスのMark 2600がオリジナルということになるのか。

Date: 8月 15th, 2016
Cate: オリジナル, デザイン

コピー技術としてのオーディオ、コピー芸術としてのオーディオ(その6)

別項「2405の力量」でのことが、ここに関係してくる。

スピーカーの接続、アンプのセッティングが終り、どんな音が鳴ってくるか。
毎日触れている自分のシステムではなく、セッティングから始めるこういう音出しでは、
緊張とは違うが、少しどきどきに近いものがある。
あまりにもひどい音が鳴ってきたとしたら、残り時間はそうないわけで、
どうするのかを考え行動しなければならないことも関係してくる。

でもいまのところそんなことはない。
「新月に聴くマーラー」では、確認のために最初に鳴らしたのは、
レイ・ブラウンとオスカー・ピーターソンの”This One’s for Blanton!”から、
一曲目の”Do Nothin’ Till You Hear From Me”である。
出だしのピアノが鳴ってきた。

私の中にある、このディスクのピアノのイメージは、
長島先生が鳴らされていた音である。
同じ音が出てきたとはいわないが、
長島先生が、このディスクで出そうとされていた方向と同じではあった、といえる。

つづいてバド・パウエルの”The Scene Changes: The Amazing Bud Powell (Vol. 5)”から、
“Cleopatra’s Dream”を、さらにボリュウムを上げて鳴らした。

扉はもちろん閉めていたけれど、隣の喫茶室にも音は漏れていた。
しばらくしたら店主の福地さんが扉を開けてきいてきた。
「これ、バド・パウエルの演奏とは違いますよね」

きかれた私は、ちょっと考え込んだ。
何をきかれているのかがつかめなかったからだ。

誰が聴いても、バド・パウエルの演奏だから、
ジャズの熱心な聴き手でない私が、仮に喫茶室にいたとしても、
漏れ聴こえてくる音で、バド・パウエルとわかる。

彼がそう訊いてきたのは、バド・パウエルのディスクとは思えない音で鳴ってきたから、だった。
誰か、いまのジャズの演奏者が、バド・パウエルそっくりに演奏して、
それを最新録音で捉えたものだと思った、という。

Date: 8月 13th, 2016
Cate: オリジナル, デザイン

コピー技術としてのオーディオ、コピー芸術としてのオーディオ(その5)

伝言ゲーム,つまりコピー技術としてはアナログよりもデジタルが圧倒的に有利である。
けれど、ここでのタイトルは
「コピー技術としてのオーディオ、コピー芸術としてのオーディオ」としている。

だからデジタルとアナログの関係について考えていく必要がある。

デジタル(digital)とアナログ(analog)の関係性は、
デザイン(design)とアート(art)の関係性に近い、似ているのではないか、と、
この項を書き始めたころから思いはじめていた。

そう思うようになったきっかけはたいしたことではない。
どちらもDとAだからである。
偶然の一致ととらえることもできるし、そう考える人の方が多数であろう。

でもデジタル(digital)とアナログ(analog)もDとA、
デザイン(design)とアート(art)もDとA、
単なる偶然だといいきかせようとしても、無関係とは思えなかった。

8月13日の川崎先生のブログ『アッサンブラージュの進化を原点・コラージュから』を読んで、
単なる偶然とは、ますます思えなくなってきた。

Date: 8月 13th, 2016
Cate: オリジナル, デザイン

コピー技術としてのオーディオ、コピー芸術としてのオーディオ(その4)

デジタルの伝言ゲームであれば、
途中にあるメディアの種類がなんであれ、そこで使う機器がなんであれ、
オリジナルのデータと最終的にコピーされるデータは一致する。
それぞれのメディア、ハードウェアに不具合がなければ、データの欠落は生じない。

ハードディスクにオリジナルのデータがあったとする。
それを別のハードディスクにコピーする。次はDVD-Rにコピーする。
その次はSSDに、さらには昔懐しい光磁気ディスクに、そしてまたハードディスク……。
そんなふうにさまざまなメディアを使ったとしても、処理にかかる時間に変化は生じても、
データそのものに欠落は生じない。

つまりコピーに使われる介在する機械の特有の特性・特徴によって、
データが欠落するということはない。

もちろん再生する段階になれば、
それぞれの機械、メディア特有の特性・特徴によって音は変ってくるけれど、
ここではあくまでもコピーしていくことだけに話を絞っている。

アナログの場合はどうだろうか。
100回の、コピーに使用する機械をすべて同じモノを用意したとする。
たとえばカセットテープだとしよう。
同じカセットテープ、カセットデッキを用意する。交互に使って100回のコピーをする。

その場合、テープ、デッキに固有する特性・特徴がそれだけ最終的なコピーに大きく影響する。
苦手とするところが同じになるわけだから、そうなってしまう。

ではカセットテープ(デッキ)、オープンリールテープ(デッキ)、アナログディスク(プレーヤー)、
これらを複数台用意してのコピーはどうだろうか。
アナログディスクに関してはカッターレーサー(ヘッド)も用意することになる。
しかもそれぞれに違う機種を用意する。

そうなるとそれぞれの機器に固有する特性・特徴は一致するわけではないから、
コピーの順序を変えたりすることによっても、最終的な結果に違いが生じてくる。

それぞれの録音・再生の方式に固有する特性・特徴が違うためである。
もっといえば一台のテープデッキの中でも、録音した時点でなんらかの変質が生じ、
それを再生する時点でもなんらかの変質がまた生じている。

デジタルの伝言ゲームでは、途中で再生というプロセスはない。
録音は記録というプロセスであり、
記録したデータを読みだしてそのまま次の機器(メディア)へ伝送していく。

アナログの伝言ゲームでは録音し再生するというプロセスを経る。

こう考えていくと、
ますます無機物(デジタル、客観)であり、有機物(アナログ、主観)と思えてくる。

Date: 1月 1st, 2016
Cate: オリジナル, デザイン

コピー技術としてのオーディオ、コピー芸術としてのオーディオ(その3)

デジタルはどうだろうか。
パソコンの中にあるデータをコピーし続けたとする。

外付けのハードディスクにコピーしたとする。
そのハードディスクから別のハードディスクにコピーする。
これを何度もくり返す。

アナログと同じように百回行ったとする。
百回目のコピーとなったハードディスクに記録されているデータと、
パソコンの中のデータ(つまりオリジナル)とを比較して、
データとして違っているところがあるだろうか。

どんなに大きなデータであっても、どれだけコピーをくり返そうと、
データは同じである。そっくりにコピーされている。
だからコピーといえる。

アナログの場合はコピーしていけば、確実に何かが劣化していく。
そうなるとコピーとはいわずに、ダビングといったほうがいい。

デジタルであるなら、伝言ゲームであいだにどれだけ多くの人が介在していても、
最初の人が発した情報は、最後の人にまで正確に伝わっていく。

この伝言ゲームで考えたいのは、
アナログの場合、介在する機械の特有の特性・特徴によって、
インプットとアウトプットにおける変質の具合が影響を受けることである。

Date: 12月 29th, 2015
Cate: オリジナル, デザイン

コピー技術としてのオーディオ、コピー芸術としてのオーディオ(その2)

別項で、無機物(デジタル、客観)であり、有機物(アナログ、主観)である、と書いた。

何を書いているのだろうか、と思われたかもしれない。

無機物(デジタル)であり、有機物(アナログ)である、なら、わかるけれど、
なぜ、無機物のところに客観、有機物のところに主観が加わっているのか、と。

コピーについて考えてみる。
アナログの場合、テープを例にとってみる。
録音テープ、録画テープ、どちらでもいい。

オリジナルのテープがある。
それをダビングする(コピーする)。
コピーしたものをさらにコピーする。
これを何度もくり返す。

オリジナルのテープの音質、画質よりも、
一回目のコピーの音質、画質は誰の目(耳)にもはっきりと違いがわかる。

コピーを二回、三回……と何回も続けていった音質、画質を、
オリジナルと比較してみるとどうだろうか。

ダビングに使用する器材のクォリティ、テープのクォリティによって多少結果は違ってきても、
オリジナルからは大きな劣化であり、
仮に百回もコピーをくり返したものならば、何が映っているのかわからないくらいになっても不思議ではない。

これは多くの人を集めての伝言ゲームに似ている、というか、そっくりではないか、と思う。

Date: 10月 23rd, 2015
Cate: オリジナル, 挑発

スピーカーは鳴らし手を挑発するのか(オリジナルとは・その2)

昨晩、JBLのハーツフィールドの外観だけをコピーしたスピーカーを作ろうと考えていた人のことを書いた。
私は、はっきりいって、こういうことは否定する。

だが一方で違う考え方ができる。
ハーツフィールドの外観だけそっくりのスピーカーを作ろうとしていた彼は、
少なくともオリジナルのハーツフィールドを手に入れて、
それに手を加えようとしていたわけではない。

その意味で、彼のことをオリジナル尊重者だとみることもできるし、
そう見る人もいると思う。

むしろ、私のように購入したオーディオ機器に手を加える者は、
オリジナルを尊重していない、けしからんやつだという見方もできる。

彼は彼なりにハーツフィールドを尊重しての考えだったのだろうか。
私には、どう考えてもそうは思えない。

私がオーディオに興味を持ち始めた1970年代後半は、
電波新聞社からオーディオという月刊誌が出ていた。
このオーディオ誌の別冊として、自作スピーカーのムックが何冊か出ていた。

スピーカーを自作するために必要な知識、実際の製作例の他に、
自作マニアの紹介のページもあった。

ここに登場する人たちは、JBLのパラゴンやハーツフィールドを自作するような人たちだった。
オリンパスの、あの七宝格子をコピーして自作のスピーカーに取りつける人もいた。

この電波新聞社のムック以外にも、
当時は、アマチュアとは思えない木工技術をもっているオーディオマニアが、
タンノイのオートグラフやその他のスピーカー・エンクロージュアをコピーしていた。

そんな人たちの中には木工を仕事とする人もいたようだが、
世の中にはすごい人がいるものだと、中学生の私は感心していた。

この人たちは、ハーツフィールドの外観だけをコピーしようとした彼とは違っていた。
この人たちの木工技術があれば、彼が計画していたスピーカーをつくることは造作も無いことだろう。
複雑な内部構造は無視して、外観だけをそっくりに作ればいいのだから。

けれど、この人たちの中に、そんなコピーともいえないコピーを作る人はいなかった。
少なくとも当時のオーディオ雑誌に登場する人の中にはいなかった。

Date: 10月 22nd, 2015
Cate: オリジナル, 挑発

スピーカーは鳴らし手を挑発するのか(オリジナルとは・その1)

ハーツフィールドのことを書いていて思い出した人がいる。
彼もまたハーツフィールドを欲しい、といっていたひとりだし、
彼の財力があれば、程度のいいハーツフィールドを手に入れることはそう無理なことではなかった。

けれど、彼はハーツフィールドを買おうとはしなかった。
彼の求める音の方向とハーツフィールドは違っていた。

折曲げ低音ホーンの音を彼は毛嫌いしていた。
生理的にだめだったのかもしれない。
だから彼はハーツフィールドそっくりのエンクロージュアをどこかに作らせる、という。
ただし内部構造はホーン型ではなく、一般的なエンクロージュアとして、である。

ウーファーは左右の開口部に配置する。
ハーツフィールドの寸法からいって15インチ口径のウーファーを開口部のところにおさめるのは無理がある。
だからここにおさまる範囲の中口径のウーファーを数発左右に配置する。
そこそこの数のウーファーが取りつけられる。

中高域はJBLのホーンとドライバーを使う。
これで見た目はハーツフィールド、
出てくる音はハーツフィールドは違う、彼好みの音ということになる。

そんなことを熱心に話してくる。
やんわりとやめたほうがいい、といっても、
彼は、うまくいく、ハーツフィールド(の外観)がほしい、と熱っぽく語っていた……。

なんなんだろうなぁ……、と思っていた。
彼はこういう人だったのか、と。

Date: 9月 4th, 2015
Cate: オリジナル, デザイン

コピー技術としてのオーディオ、コピー芸術としてのオーディオ(その1)

佐野研二郎氏の著書「伝わらなければデザインじゃない」が、
無期限の発売延期になったというニュースが昨日あった。

延期になった理由は私にはどうでもいい。
このことが考えさせたのは、今回の騒動の元となった2020年東京オリンピックのエンブレムは、
それでは何なのか、である。

「伝わらなければデザインじゃない」は発売延期になったのだから、
もう手にすることはないだろう。
どんなことが書かれているのかもわからない。

だから、あくまでも本のタイトル「伝わらなければデザインじゃない」に絞って考えても、
あのエンブレムはデザインではない、ということになる。

使用中止の理由として、国民の理解が得られなかった、とあったのだから、
つまりは「伝わっていない」からである。

もちろん人によって(デザイナーによって)、
ごく少数の人たち(たとえそれが仲間内であっても)伝われば、デザインである、という考えをあるはず。
それはそれでいい。

ここではあくまでも佐野研二郎氏の「伝わらなければデザインじゃない」ということである。
少なくとも佐野研二郎氏にとって、あのエンブレムはデザインではない、ということになる。
制作していた時点ではデザインであったのか。
それが発表され、理解が得られない(伝わらない)ことで、デザインでなくなったのか。

「伝わらなければデザインじゃない」であるのなら、
2020年東京オリンピック・エンブレムは何なのか。

デコレーションでないことは確かである。
アートということになるのか。

佐野研二郎氏の肩書きはアートディレクターのようだから、いわゆる「アート」なのかもしれない……、
と思いつつも、エンブレムはあくまでもデザインとしての依頼のはずだから……、となる。

佐野研二郎氏の「伝わらなければデザインじゃない」という著書の存在がなければ、
デザインと呼べた。けれど、発売延期になったとはいえ、その存在はあるわけだから、
佐野研二郎氏にとって、あのエンブレムはデザインではないわけで、
デザインではないエンブレムの正体不明さだけが残る。

私のなかには残っている。
そして考えるのは、やはりオーディオのことだ。
オーディオは、コピー技術・コピー芸術といえる。

アナログからデジタルになり、コピー技術、コピー精度は飛躍的に向上している。
だから、どうしても今回の騒動はオーディオと無関係なこととは思えないのだ。

Date: 6月 28th, 2015
Cate: オリジナル

オリジナルとは(モディファイという行為・その4)

CDプレーヤーのヘッドフォン端子への配線を取り外すのは可逆的ではあるが、
これも誰がやっても必ず可逆的であるかというと、決してそうとはいえない。

ヘッドフォン端子への配線を取り外すことで音が変化するのは、
CDプレーヤーの筐体内には、さまざまな高周波ノイズが飛び交っている。

井上先生はデジタル機器では、ひとつひとつのIC(LSI)が小さな放送局だといわれていた。
消費電力の大きいLSIは、出力の大きな放送局ともいえるわけで、
それだけ不要輻射も大きくなると考えていい。

つまりCDプレーヤーは自家中毒を起しているとも考えられる。
自分が輻射しているノイズに影響を受けているわけだから。

そんな不要輻射を、ヘッドフォン端子への配線がアンテナとなって拾ってしまいう。
ヘッドフォン端子への配線を取り外すことは、CDプレーヤー内部のアンテナ、
それももっとも長いアンテナをなくすことにつながる。

ヘッドフォン端子への配線が最少限の長さであれば、
取り外した後無造作に元に戻したとしても、
元の状態と配線の引き回しの仕方が大きく変化することはない。

けれどある程度余裕のある長さであれば、
元と同じ引き回しの状態に戻さなければ(戻せなければ)、可逆的とはいえなくなる。

可逆的な非可逆的かは、既製品に手を加える人によって、その境界が変動するものであり、
絶対的な可逆的な、既製品への手の加えるという行為はそう多くはない。

Date: 6月 14th, 2015
Cate: オリジナル

オリジナルとは(モディファイという行為・その3)

国産CDプレーヤーのヘッドフォン端子への配線を外すことは簡単なことであり、
しかも簡単に元に戻せる。

既製品に手を加える場合に、
この「元に戻せる」かが重要なポイントとなる。

元に戻せるのを可逆的、そうでないのを不可逆的ともいう。

既製品に手を加えることを認めない人は、
可逆的であろうと不可逆的であろうとダメということになり、
可逆的であれば手を加えることは認めるという人もいる。

例にあげたCDプレーヤーのヘッドフォン端子への配線は可逆的である。
では誰にでもすすめられるかといえば、必ずしもそうではない。

少なくともCDプレーヤーの天板をとって中を見て、
すぐにどの配線が目的の配線なのかがわかる人であれば何の問題も心配もないけれど、
そうでない人、
つまり実際に指さして、これがその配線だよ、と教える必要がある人には、
可逆的なことであっても、やはりすすめてはならない、と私は考えている。

そして可逆的に見えても、実際には必ずしも可逆的ではないこともある。
たとえば天板を固定しているネジの締付けトルクでそうである。

井上先生から聞いた話では、
ハーマンカードンのCitation XX(パワーアンプ)が、
ネジの締付けトルクを製造時に管理した最初のオーディオ機器ということである。

そのことを知らない人がCitation XXの天板を取る。ネジを緩める。
中にまったく手を加えずに天板を閉じる。ネジを締める。
この時、ネジの締め方がゆるかったり、強かったりすれば、
取り外す前の天板の振動モードにわずかとはいえ違いが生じる。

締付けトルクのことがわかっている人が天板をとって閉じる行為は可逆的であっても、
そうでない人の行為は不可逆的となる。

Date: 6月 7th, 2015
Cate: オリジナル

オリジナルとは(モディファイという行為・その2)

CDプレーヤーが登場して一年ほど経ったころだったろうか、
井上先生が試聴中にあることを指示された。
実際にやってみると、こんなことでこれだけ音が変化するのか、と驚くほどだった。

いまでは多くの人が「聴感上のS/N比」という。
けれど、この人はほんとうに聴感上のS/N比が良くなった音がわかっているのだろうか、
そう思ってしまうことがないわけではない。

聴感上のS/N比が良くなった具体的な音を知らないまま、
なんとなくの想像で「聴感上のS/N比が……」を使っているような気もする。

この時の井上先生の指示による音の変化は、
はっきりと聴感上のS/N比が良くなった例である。

何をやったかというと、CDプレーヤーの天板をとり、
フロントパネルにあるヘッドフォン端子へのケーブルを引き抜いただけである。

この頃の国産のCDプレーヤーの大半は、
ヘッドフォン端子への配線はどこも同じようなものだった。
アナログ出力回路からフロントパネルのヘッドフォン端子まで、
プリント基板の上をケーブルを這わせていた。

このケーブルの両端はコネクターになっているからハンダゴテを使わずに抜き差しできる。
このケーブルを抜いて、また天板を取り付けての試聴だった。
ヘッドフォン端子へのケーブルがあるかないか、
たったこれだけの違いなのに、出て来た音の変化は少なからぬものがあった。

プリント基板のパターンにヘッドフォン端子への配線が描かれているモデルでは、
同じことはできないけれど、当時の国産CDプレーヤーはけっこうそういうモノが多かった。

Date: 6月 6th, 2015
Cate: オリジナル

オリジナルとは(モディファイという行為・その1)

オリジナルとは(続・独り言)」を二日前に書いた。
facebookに、40件以上のコメントがあった(私の分も含んでいる)。

こんなにコメントがつくとは思っていなかった。
コメントに返事をしながら、マーク・レヴィンソン以外の具体例も思い出していた。
そこで、既製品に手を加える行為について、改めて書いてみようと思い立った。

まずはっきりしたいのは、私は既製品に手を加えることがある。
以前書いたように、かなり徹底して手を加えたこともある。

スチューダーのCDプレーヤーA727を手を加えるときは、
47万円という価格もあって、下準備的なことをかなりやった。

A727と同じピックアップメカニズム、デジタルフィルター、D/Aコンバーターを使用している製品を用意した。
このCDプレーヤーで思いつくかぎり、手を加えてみた。
そこで得られたものをA727にフィードバックした。

ただしA727のモディファイには、いっさいハンダゴテは使っていない。

他にも手を加えたモノはいくつかある。
簡単な例ではトーレンスのアナログプレーヤー101 Limited。
このプレーヤーはEMTの930stのトーレンス版であることから、
つまりはコンシューマー用として使われることを前提に、
内蔵イコライザーアンプのインピーダンス整合のために、
出力端子の裏側に小さな抵抗が取り付けてある。

私の場合、受け側のアンプでインピーダンス整合をやるので、
この抵抗は取り外してしまった。

この抵抗はトーレンスによる930stのモディファイでもあり、
この抵抗を取り外した私の行為もモディファイである。
つまりモディファイをなくすためのモディファイともいえる。

私は既製品に手を加える。
だからといって、誰かにそのことをすすめることはしない。