Archive for category きく

Date: 7月 14th, 2024
Cate: きく

カセットテープとラジカセ、その音と聴き方(余談・その26)

引越しして約三週間。
以前の部屋では単なるラック(使わない機器の収納)として使っていただけのエレクターのワイヤーシェルフ。

いまの部屋では、このエレクターに、
KEFのModel 303、サンスイのAU-D607、テクニクスのSL01、
ヤマハのK1d、パイオニアのExclusive F3を収めている。

そんなに幅広のラックではないから、
KEFのスピーカーの間隔は、かなり近い。
それにワイヤーシェルフだから、オーディオ機器の置き台としても好ましいとは言えない。

このシステムはメインではないから、
なんとなくラジカセ的に捉えている。

電波の入りは良くないから、ラジオの受信は良好ではない。
でもラジオは聴けるし、カセットテープもレコードも聴ける。なんとなくラジカセじゃないか、そんなふうに思ってみると、
ワイヤーシェルフのままでもいいかな、となる。

エレクターは黒。スピーカーもアナログプレーヤー、カセットデッキ、
プリメインアンプも黒。

チューナーだけ仕上げも製品の格も違うから、
できれば黒のチューナーで統一したい気持もあるが、
チューナーは、やっぱりコレ(Exclusive F3)だ。

エレクターは固定脚だが、キャスターにするのもいいかな、と思うのは、
(その24)でも引用している黒田先生の文章の影響からだ。

Date: 5月 27th, 2024
Cate: きく

野口晴哉記念音楽室レコード鑑賞会(その17)

昨晩(5月26日)の野口晴哉記念音楽室レコード鑑賞会で、
私がかけたディスクをあけておく。

フィッシャー・ディスカウとムーアによるシューベルトの「音楽に寄せて」。
これは日本盤。

クナッパーツブッシュの1951年のバイロイト祝祭劇場での「パルジファル」。
イギリス盤で、オリジナル盤のはず。

ケンプのシューベルトのピアノ・ソナタ第二十一番(日本盤)。

フルトヴェングラー/フィルハーモニーによるベートーヴェンの第九。
1954年の録音で、プライヴェート盤。

グレン・グールドによるブラームスの間奏曲集(日本盤)。

シュヴァルツコップとエドウィン・フィッシャーによるシューベルトの「音楽に寄せて」。
イギリス盤で、オリジナル盤のはず。

クナッパーツブッシュの「パルジファル」では途中でボリュウムを絞った。
ケンプのシューベルトもかける前はそうしようかと思っていたけれど、
第一楽章を最後までかけた。

フルトヴェングラーの第九は四楽章を最後まで。

これで持ち時間の一時間半、ほぼぴったりだった。
レコードはすべて野口晴哉氏のコレクションから選んでいる。

Date: 5月 26th, 2024
Cate: きく

野口晴哉記念音楽室レコード鑑賞会(その16)

2023年5月28日が、野口晴哉記念音楽室レコード鑑賞会の一回目だった。
その時に、定期的に行いたい、という話は聞いていた。

そして今日(5月26日)。一年ぶりの開催。
スピーカーが一回目の時と違うことが大きいといえばそうなのだが、
それでも、音は確実に変っている。

アンプも整備されているし、アナログプレーヤーに関してもすでに書いているように、
トーンアームが3012Rになっているし、カートリッジもEMTである。
なので、音は変っていて(違っていて)当然なのだが、
それでもどれだけの変化なのだろうか、と自問もする。

野口晴哉氏が出された音を聴いていて、しっかりと記憶している人は、
私の周りにいない。

答は出ない自問なのだが、自問し続けていくことだと考えている。

Date: 5月 22nd, 2024
Cate: きく

野口晴哉記念音楽室レコード鑑賞会(その15)

月曜日から三日連続で、野口晴哉記念音楽室に行っていた。
(その14)で書いたように、月曜日の夜おそくに、オイロダインから音が鳴ってきた。

野口晴哉氏が亡くなられたあとも、ときおり鳴らされていたと聞いている。
といっても、鳴らされなくなってかなり経っているのも事実。
どのくらいそうだったのかはわからないが、長いこと鳴らされていなかったことは確か。

今日、やっとアナログプレーヤーでの音出しだった。
26日当日のラインナップは、
スピーカーシステムがシーメンスのオイロダイン、
パワーアンプがマッキントッシュのMC275、
コントロールアンプがマランツの Model 7、
アナログプレーヤーはガラードの301に、SMEの3012R、
カートリッジはEMTのTSD15である。

トーンアームが3012Rなのことに、疑問を抱く人もいる。
3012Rは野口晴哉氏が亡くなられて四年後に登場しているからだ。

本来ガラードの301のシステムには、SMEの3012SIIが取りつけてある。
ガラードの他に、トーレンスのTD124/IIがあり、こちらもトーンアームは3012SII。
けれど故障したのか、3012Rに交換されていて、
元からついていた3012SIIは3012Rの箱にしまってあった。

ガラードの方の3012SIIも万全とはいえず、3012Rをトーレンスのほうから外してきて交換。
この作業を、今日やってきた。少しばかりの木工作業も。

Model 7とMC275も別項で触れているように、
テクニカルブレーンでのメンテナンスが施されている。

ひさしぶりに3012Rに触れて調整してきた。
ひさしぶりにTSD15の音を聴いた。

グレン・グールドのブラームスの間奏曲集をかけた。
日本盤なのに、艶のある音で鳴ってきた。

Date: 5月 20th, 2024
Cate: きく

野口晴哉記念音楽室レコード鑑賞会(その14)

野口晴哉記念音楽室からの帰りの電車の中で書いているのは、
先ほどまで26日の準備をやっていたため。

野口晴哉記念音楽室のオイロダインから、音が鳴ってきた。
静謐な音で音楽が鳴ってきた。

Date: 5月 16th, 2024
Cate: きく

野口晴哉記念音楽室レコード鑑賞会(その13)

5月26日(日曜日)開催の野口晴哉記念音楽室レコード鑑賞会、
そこで鳴らすのはシーメンスのオイロダイン。

野口晴哉氏がオイロダインを手に入れられたのがいつなのかは知らない。
かなり以前のはずで、五十年は優に超えているはず。

それゆえコンディションが気になるところだが、
非常に程度がよかった。後部にカバーが掛けられていたことが幸いしてのことだが、
ウーファーのコーン紙が非常にきれいである。シミひとつない、と言い切れるほどだ。

コーン紙だけではない、全体にほんとうにコンディションがいい。
このオイロダインを鳴らせるのか。
そうおもうだけでわくわくしてしまう。

前売り券は完売で、当日券の発売もないので、
こんなことを書くのは少し気が引けるのだが、
それでも書いておきたくなるほどのコンディションなのだ。

Date: 4月 15th, 2024
Cate: きく

野口晴哉記念音楽室レコード鑑賞会(その12)

5月26日(日曜日)開催の野口晴哉記念音楽室レコード鑑賞会、
その二回目の前売り券は完売とのこと。

10日からの申し込みだったから、五日ほどで完売。
昨年よりも早いペースのはず。

Date: 4月 10th, 2024
Cate: きく

野口晴哉記念音楽室レコード鑑賞会(その11)

昨年の5月28日に開催された野口晴哉記念音楽室レコード鑑賞会、
その二回目の詳細が発表になり、申し込みが始まっている。

一回目同様、 Peatixでチケットを申し込める

今回のレコード当番(選曲者)は三名。
音楽評論家の湯浅 学氏、整体指導者の野口晴胤氏、それに私である。

詳細はPeatixのページをご覧いただきたいが、
湯浅氏が1960年代から70年代のブラックミュージック、
野口氏がオールジャンル、
私はクラシック、それもドイツ音楽のみに絞ってみようと考えている。

今回鳴らすのは、
野口晴哉氏のリスニングルームの壁に組み込まれているシーメンスのオイロダイン。
オイロダインは、つねに私にとって特別なスピーカーである。

終のスピーカーのひとつとして、手元で鳴らしたいスピーカーでもある。
とはいっても、オイロダインを平面バッフルに取りつけて鳴らせるだけの十分な空間を、
オイロダインのために用意できないのであれば──、というおもいもある。

それでもいいのかもしれない、とも思い始めている。
こうやってオイロダインを鳴らすことができる日が、もうじきやってくるのだから。

三年前に、こんなことを書いている。

シーメンスのオイロダインで聴く、ということは、
私にとっては、ドイツの響きを聴きたいからである。

ドイツの響き。
わかりやすいようでいて、決してそうではない。

ドイツの響きときいて、何を連想するかは、みな同じなわけではないはずだ。
ドイツの作曲家を思い出すのか、
ドイツの指揮者なのか、ドイツのピアニストなのか、ドイツのオーケストラなのか、
ドイツのスピーカーなのか、それすら人によって違うだろうし、
ドイツの作曲家と絞っても、誰を思い出すのかは、また人それぞれだろう。

ドイツの響きとは、シーメンスのオイロダインの音。
オイロダインの音こそ、ドイツの響き、
──そう書いたところで、オイロダインの印象も人によって違っているのはわかっている。
オイロダインを聴いたことがない、という人がいまではとても多いことも知っている。

何も伝わらない、といえばそうなのだが、
私にとってドイツの響きといえば、二人の指揮者である。

フルトヴェングラーとエーリヒ・クライバーである。

これを書いた時点では、今回のことが訪れようとはまったく想像できなかった。
とにかく、ドイツの音、ドイツの響き(私の裡にある偏ったものであることは承知している)を、
聴いていただければ、とおもっている。

Date: 4月 7th, 2024
Cate: きく

Listening Practice Friday

全生新舎の野口晋哉さんの新企画。
アルテックのA5C(マンタレーホーン)をメインスピーカーとする音楽鑑賞会、
Listening Practice Friday”が、4月19に始動。

詳細はリンク先をみてください。

Date: 3月 25th, 2024
Cate: きく

音を聴くということ(グルジェフの言葉・その10)

インドの古典「バカヴァッド・ギーター」の一節、
「真の自己にとって浄化された自己は友であるが、浄化されていない自己は敵である」。

この項で触れている「人間は眠っている人形のようなものだ」。
真の自己とは、目覚めた人の自己であり、
眠っている人形のような人のそれは、虚の自己となるのか。

だとすれば、
「虚の自己にとって浄化された自己は敵であり、浄化されていない自己は友である」となるのか。

Date: 2月 26th, 2024
Cate: きく

音を聴くということ(グルジェフの言葉・その9)

(その1)で書いていることを、もう一度。

ゲオルギー・グルジェフがいっていた。

人間は眠っている人形のようなものだ、と。
正確な引用ではないが、意味としてはこういうことだ。

人間の通常の意識の状態は睡眠のようなもので、
人間としてのほとんどの活動はすべて機械的なものである、と。

眠っている人形から、目覚めている人間になるには、
それこそ山のような意志力が必要になり用いなければならない、と。

ずいぶん昔に、グルジェフがそういった意味あいのことをいっていると知った。
どうすればグルジェフがいっている意味での目覚めることができるのか。

オーディオにかぎっていえば、心に近い音を──、ということのはずだ。
耳に近い音をどれだけ懸命に追求しても、
実のところ、それは機械的な活動にすぎない。

Date: 2月 9th, 2024
Cate: きく

野口晴哉記念音楽室レコード鑑賞会(その10)

昨年の5月28日に開催された野口晴哉記念音楽室レコード鑑賞会が、今年も開催される。
5月26日(日曜日)の予定だ。

詳しいことが決定次第、お知らせする。

Date: 2月 1st, 2024
Cate: きく

聴いているという感覚、鳴らしているという感覚

audio wednesdayとaudio wednesday (next decade) で、
音を鳴らして集まった方たちに音を聴いてもらうことをやっていると、
その場での音をもちろん私も聴いているわけだが、
それ以上に鳴らしている、という感覚のほうがずっと強い。

曲を選んでオーディオ機器を操作するだけだから、疲れないだろう、と思われるだろうが、
鳴らしているという感覚が強いせいなのか、
終ってしばらくすると、けっこうな疲労感がある。

やっているからこそ感じることがある。
オーディオショウで、それぞれのブースで鳴らしている人がいるわけだが、
この人たちすべてが鳴らしているという感覚をもっているわけではない、と。

別項「瀬川冬樹というリアル(その3)」で書いた。
そのことをもう一度記しておきたい。

「良い音とは 良いスピーカーとは 良い聴き手とは?」
瀬川先生が、もっとながく生きておられたなら、
こんなテーマで何かを書かれていたのではないか──、
そんなことを(その2)で書いた。

「良い聴き手とは 良い鳴らし手とは?」、
こんなふうなタイトルになったのかもしれないと考えつつも、
「良い鳴らし手とは 良い聴き手とは?」なのか、どちらなのか。

「良い聴き手」が先にくるのか、「良い鳴らし手」が先にくるのか。
どちらでも大差ない、とは思えないのだ。

「良い音とは 良いスピーカーとは?」に続くのであれば、
やはり「良い聴き手とは 良い鳴らし手とは?」なのだろうか。

Date: 1月 25th, 2024
Cate: きく

オイロダインを楽しむ会(その3)

1月20日に行ってきたオーディオ・ノートの試聴室での「オイロダインを楽しむ会」。
私が特に印象に残っているのは、音よりもオーディオ・ノートの社屋の綺麗さである。

とにかくすみずみまで掃除が行き届いている。
塵一つ落ちていない、この表現がぴったりくる。
しかも床も磨かれている。

とにかく感心した。
こういう環境で、オーディオ・ノートの製品は開発されうまれてくるのか、と。

Date: 1月 21st, 2024
Cate: きく

オイロダインを楽しむ会(その2)

昨日、オーディオ・ノートの試聴室で行われた「オイロダインを楽しむ会」に行ってきた。
久しぶりに聴くオイロダインだった。

昨日は雨が降っていて寒かった。
そのせいだろうが、私が行った回は六人だけだった。

オイロダインの音は、なかなか聴く機会がない、と思う。
六人のうち、初めてオイロダインを聴くという人も、きっといたはずだ。

オイロダインが、どう鳴っていたのかについては書かないが、今回ひとつ気づいたことがあった。
これまで数回、オイロダインを聴く機会はあったが、
ライヴ録音を聴いたのは、今回が初めてだった。

聴いていて、五味先生の「オーディオ巡礼」を思い出していた。
     *
森氏は次にもう一枚、クナッパーツブッシュのバイロイト録音の〝パルシファル〟をかけてくれたが、もう私は陶然と聴き惚れるばかりだった。クナッパーツブッシュのワグナーは、フルトヴェングラーとともにワグネリアンには最高のものというのが定説だが、クナッパーツブッシュ最晩年の録音によるこのフィリップス盤はまことに厄介なレコードで、じつのところ拙宅でも余りうまく鳴ってくれない。空前絶後の演奏なのはわかるが、時々、マイクセッティングがわるいとしか思えぬ鳴り方をする個所がある。
 しかるに森家の〝オイロダイン〟は、実況録音盤の人の咳払いや衣ずれの音などがバッフルの手前から奥にさざ波のようにひろがり、ひめやかなそんなざわめきの彼方に〝聖餐の動機〟が湧いてくる。好むと否とに関わりなくワグナー畢生の楽劇——バイロイトの舞台が、仄暗い照明で眼前に彷彿する。
     *
クナッパーツブッシュがかけられたわけではないが、数枚のライヴ録音がかけられた。
ライヴ録音ならではのざわめきが、その盤におさめられている音楽を引き立てていたように感じられた。

このことは、小さいけれどひとつの発見のようにも感じていた。

それがたまたまだったのか、ほんとうにそうなのか。
それは自分で鳴らしてみないことには断言できないことでもあるが、
そう遠くないうちに、確かめられる日も来よう。