Archive for category きく

Date: 3月 17th, 2023
Cate: きく

聴けなかったからこそのたのしみ

ステレオサウンド 46号の特集は「世界のモニタースピーカー そのサウンドと特質を探る」、
この試聴テストには、ドイツのK+HのOL10というモデルが登場している。

OL10の試聴記の最後に、瀬川先生はこう書かれている。
《私がもしいま急に録音をとるはめになったら、このOL10を、信頼のおけるモニターとして選ぶかもしれない。》

これを読んで、無性にOL10が聴きたくなった。
といっても、46号は1977年に出ている。
まだ熊本に住んでいるころで、
熊本のオーディオ店でK+Hのスピーカーを扱っているところはなかった。

1981年に東京に出て来たからでも、オーディオ店でK+Hを見かけたことはなかった。
1982年からステレオサウンドで働くようになっても、K+Hのスピーカーを聴く機会は訪れなかった。

もう聴く機会はない、となかはあきらめているけれど、
それでもいいじゃないか、とおもう気持も持っている。

聴けなかったからこそ、
その音の良さを想像する楽しみがあるからだ。

OL10は、瀬川先生が、録音の仕事をするようになったら──、と書かれている。
ここだけで、OL10の音を想像する楽しみは、一段と増したからだ。

こういうひとことが書ける人こそがオーディオ評論家(職能家)である。

Date: 10月 23rd, 2022
Cate: きく

音楽をきく(その6)

マンガ「3月のライオン」の単行本には、
「先崎学のライオン将棋コラム」が載っている。

16巻には「棋士になるのを決めた日」が載っている。
     *
 すんごくリアルなことを書くと、入会する、そして棋士になるまでのパターンはふたつに分かれます。都会育ちの少年か、地方の少年か、です。
 都会に生まれ住むチビッ子天才の場合は、当然ながら家が近く、月二回の奨励会にも通いやすい。師匠だってすでについている、もしくは見つけやすいので、入会しやすい。また都会に住んでいると小学生の大会などが多い。そして、大会に出るということは、必然自分と同じくらいの才能を持った少年と接する機会が多くなり、子供同士も、時には親同士も仲良くなったりして自然とコミュニティが生まれ、この世界へ押し出しやすい環境ができるわけです。
 一方、地方の子はそうはいきません。まず、道場があまりない。これはまあ東京や大阪でも少ないので仕方ないのですが、問題は大会の数が都会とは違い、だから自分と同じレベルの小中学生と真剣勝負がしにくいということです。
 地方の小さな子供大会に出ると、まず優勝、それもぶっちぎりで勝つ。大人の大会に出ても上位に入る──。当然天才だあ、となります。だがここで壁にぶち当たる。
     *
同じだなぁ、と思いながら読んでいた。
東京に生れ、東京で育ち、家族や友人に音楽好きの人が多くいる、という環境、
田舎に生れ、田舎で育ち、家族や友人に音楽好きの人がほとんどいない、という環境。

これは前者が想像する以上に大きな違いである。

一ヵ月ほど前だったか、
ある歌手がストリーミング(サブスクリプション)について批判的なことを、
ソーシャルメディアに厳しい口調で投稿して、少し話題になっていた。

この人の投稿が話題になったときに、
この人は、音楽的にめぐまれた環境に生れ育った人なのか、
そんなことを思っていた。

この人にしても、最初は音楽の聴き手側からのスタートだったはずだ。

TIDALで音楽を聴くようになってから、
クラシックに関して落穂拾い的なことをやっている。
新しい録音を聴くだけでなく、聴いてこなかった古い録音も同じくらい聴いている。

クラシックに関してもそうであるのだから、
クラシック以外の音楽に関しても同じことをやっている。

Date: 9月 20th, 2022
Cate: きく

カセットテープとラジカセ、その音と聴き方(余談・その25)

東芝ライフスタイルから、TY-XKR1というラジカセが先日発売になった。

ラジカセといっても、いまではCDラジカセが一般的になり、
カセットテープがついていないモノもある。

TY-XKR1は文字通りのラジカセ(ラジオとカセット)で、
スピーカーは10cm口径のコーン型が一発。モノーラル再生仕様である。

外形寸法はW26.5×H12.3×D10.0cmと、むしろ小型。
私が中学生の頃、使っていたラジカセよりも小さい。

価格は八千円ほど。
ちょっと買ってみようかな、という気持になった。

ここ二年ほど、グラシェラ・スサーナのカセットテープ(ミュージックテープ)を、
十本ほどヤフオク!で落札している。

これらスサーナのテープを、いまTY-XKR1で聴いたら、どんな感じなのだろうか。
TY-XKR1にドルビーはついていない。そうだろう、と思う。

いまドルビー搭載のラジカセ、カセットデッキの新製品はないのだから。
ドルビーなしでも、まったくかまわない。

私が落札したスサーナのミュージッテープのうち、ドルビーなのは一本だけ。
あとはドルビーかかかっていない。

それにTY-XKR1は外部入力端子がついている。
ここに、iPhone+PAW S1の出力を接続して聴いてみるのもいいかも──、
そんなことも想像している。

TY-XKR1の音に期待しているわけではない。
それでも、カセットテープをモノーラルで再生して、いまどう感じるのか。

三年前の7月のaudio wednesdayで、
グッドマンのAXIOM 150でのモノーラル再生を行っている。

ソニーのカセットデッキにマッキントッシュのプリメインアンプ。
モノーラル再生とはいえ、そこそこのシステムでの音だった。

TY-XKR1は、ラジカセ。
比較にならないほど貧弱なシステムといえる。

その音は、三年前の音ともずいぶん違うはず。
四十数年前、ラジカセで聴いていた音と、どれだけ違うのだろうか。

違いを聴きたいのではなく、どう感じるのかの違いを知りたい。

Date: 7月 21st, 2022
Cate: きく

カセットテープとラジカセ、その音と聴き方(余談・その24)

ラジカセで聴きたいなんて、まったく思わない──、
そういうオーディオマニアもいるだろう。

それはそれでいい。
他人の私があれこれいうことではない。
それでも、古くからのステレオサウンドの読者ならば、
47号掲載の黒田先生の「ぼくのベストバイ これまでとはひとあじちがう濃密なきき方ができる」を、
もう一度読みなおしてほしい。

黒田先生は、ここでテクニクスのコンサイス・コンポについて書かれている。
キャスターのついた白い台に、コンサイス・コンポだけでなく、
B&Oのアナログプレーヤー、ビクターの小型スピーカー、S-M3をのせてのシステム。

これでレコードをあれこれきいた五時間について書かれていたのを、
当時、高校生の私は読みながら、いいなぁ、こういうシステム、
大人になったら実現したいなぁ、と思っていた。
     *
 いかなる再生装置できく場合でも、誰もが、そのとききくレコードできける音楽の性格にあわせて、音量を調整する。もしブロックフレーテの音楽を、マーラーのシンフォニーをきくような音量できくような人がいたとすれば、その人の音楽的センスは疑われてもやむをえないだろう。音楽が求める音量がかならずある。それを無視して音楽をきくのはむずかしい。
 ただ、多くの場合、リスニング・ポジションは、一定だ。ということは、スピーカーからききてまでの距離は、常にかわらないということだ。ブロックフレーテの音楽をきくときも、マーラーのシンフォニーをきくときも、音量はかえるが、リスニング・ポジションは、かえない。すくなくともぼくは、かえないできいている。それはそれでいい。
 ところが、キャスターのついた白い台の前ですごした5時間の間、そのときかけるレコードによって、耳からスピーカーまでの距離をさまざまにかえた。もっとも、それは、かえようとしてかえたのではなく、後から気がついたらそれぞれのレコードによって、台を、手前にひきつけたり、むこうにおしやったりしてきいていたのがわかった。むろん、そういうきき方は、普段のきき方と、少なからずちがっている。そのちがいを、言葉にするとすれば、スライドを、スクリーンにうつしてみるのと、ビューアーでみるのとのちがいといえるかもしれない。
 それが可能だったことを、ここで重く考えたいと思う。若い世代の方はご存じないことかもしれぬが、ぼくは、子供のころ、ラジオに耳をこすりつけるようにして、きいた経験がある。そんなに近づかないとしても、ともかくラジオで可能な音量にはおのずと限度があったから、たとえば今のように、スピーカーからかなりはなれたところできくというようなことは、当時はしなかった。いや、したくとも、できなかった。そこで、せいいっぱい耳をそばだてて、その上に、耳を、ラジオの、ごく小さなスピーカーに近づけて、きいた。
 当然、中波だったし、ラジオの性能とてしれたものだったから、いかに耳をすまそうと、ろくでもない音しかきけなかった。にもかかわらず、そこには、というのはラジオとききての間にはということだが、いとも緊密な関係があった──と、思う。そのためにきき方がぎごちなくなるというマイナス面もなきにしもあらずだったが、あの緊密な関係は、それなりに今もあるとしても、性格的に変質したといえなくもない。リスニング・ポジションを一定にして、音量をかえながら、レコードをきく──というのが、今の、一般的なきき方だとすれば、あのラジオのきき方は、もう少しちがっていた。
 そういう、昔のラジオをきいていたときの、ラジオとききてとの間にあった緊密な関係を、キャスターのついた白い台の上にのった再生装置一式のきかせる音は、思いださせた。それは、気持の上で、レコードをきいているというより、本を読んでいるときのものに近かった。
     *
《ブロックフレーテの音楽をきくときも、マーラーのシンフォニーをきくときも、音量はかえるが、リスニング・ポジションは、かえない。》
確かにそうである。

しかもきちんとしたオーディオで聴く場合には、
そのオーディオが置かれている部屋(リスニングルーム)に行く必要もともなう。

ラジオ、ラジカセはそうではない。
簡単に持ち運びできるモノだ。

47号の黒田先生の文章を読んで、そのことに気づかされたし、
いまこうやってラジカセについて書いていると、やはり、そのことがすぐに浮んでくる。

Date: 7月 20th, 2022
Cate: きく

カセットテープとラジカセ、その音と聴き方(余談・その23)

友人のAさんから、ソニーのラジカセ(一万円を切る価格)を買った、という連絡があった。
朝とか深夜、オーディオのシステムの電源を入れるのも億劫と感じるときに、
ラジカセがあると満足だ、ということだった。

Aさんもオーディオマニアだから、ラジカセの音をいいとは思ってはいないけれど、
十分満足している、というのはよくわかる。

私も同じような感じだからだ。
ラジカセはいまは持っていないけれど、
昨晩書いた「シンプルであるために(iPhoneとミニマルなシステム・その3)」、
そこでのiPhone+PAW S1、それにヘッドフォンのシステムは、
私にとってラジカセといえるものだ。

カセットテープこそ聴けないが、
iPhoneにインターネット・ラジオのアプリをインストールすればラジオが聴けるし、
TIDALやその他のストリーミングを使えば、好きな時間に好きな音楽を聴ける。
もちろんCDをリッピングしてiPhoneにコピーしておくことで、CDも聴ける。
しかもMQAで聴ける。

とにかくなにがいちばんいいかというと、電源を入れるというか、
iPhoneをスリープを解除するだけで、すぐに聴きたい音楽を聴ける。

本格的なオーディオのシステムでも、電源を入れれば、音はすぐに出てくる。
けれどそれだけで本領発揮とはいえない。
電源を入れ、音楽を鳴らしているウォームアップの時間をある程度要してからが、
そのシステムの音といえる。

その過程における音の変化を確かめるのもオーディオマニアだから、
関心もあるし、そういうものだと割り切っている面もある。
とはいえ、そういうことにまったくわずらわされることなく、
すっと音楽を聴きたい時がある。

そのための、なんらかのシステムが常にあってほしい。

Date: 6月 5th, 2022
Cate: きく

音楽をきく(その5)

私が10代のころ、レコード(LP)は高かった。
当り前のことだが、本は買えば読むための機器は必要としない。

レコードは違う。
それを再生する装置が必要となる。

それに本は図書館という存在があった。
学校にもあったし、市立の図書館もある。

東京だと図書館にレコードもあるけれど、
私の田舎ではなかった、と記憶している。

レコードと接する機会が田舎と都会とでは、そうとうに違う。
レコードはそうであっても、FMがあるだろう、といわれそうだが、
FMの民放が増えてきたのは、もう少しあとのことで、私が田舎にいたころは、NHKのみだった。
FMの民放は、隣りの福岡にはあったけれど、その電波は届かず、である。

とにかく、いろんな音楽を聴きたい、と思ったところで、かなわなかった。
私だけのことではないはずだ。
私と同世代、そして田舎暮しの人は同じだったのではないだろうか。

それでも家族に音楽好き、そうとうな音楽好きがいれば、少しは変ってこよう。
けれど、そんな人は私の周りにはいなかった。

東京に来て知ったのは、音楽に関してひじょうに恵まれた環境にいた人が、
少なからずいる、ということだった。

とにかく聴ける環境が違いすぎていた。
音楽評論家になる(なった)という人たちは、
10代のころに、どれだけ多くの音楽を聴いていたかは、とても重要なこととなっている。

だからといって、自分の環境を嘆きたいのではなく、
いまの時代は、もうそうではなくなっている、といいたいだけである。

TIDALをはじめ、ストリーミングで世界中の音楽が満遍なく聴ける。
それこそスマートフォンとイヤフォンがあれば、鑑賞にたえる音で聴ける。

Date: 6月 5th, 2022
Cate: きく

音楽をきく(その4)

私が生れた田舎は、さほど人口も多くない。
それでも当時は書店は何軒もあった。
いま思い出してみると、少なくとも六軒はあった。
すべて個人経営の書店である。

いま住んでいるところは書店の数が減ってきている。
人口は私の田舎よりも多いにも関わらずだ。

昔は、そのくらいあたりまえのように身近に書店がいくつもあった。
それでも田舎の書店は大きいわけではなかった。

その田舎からバスで一時間、熊本市内には大きな書店があった。
数ヵ月に一度、その書店に行くのが楽しみだった。

往復のバス代だけで二千円ほどかかるから、
読みたい本がすべて買えるわけではなかった。
書籍代よりもバス代のほうが高いのだから。

東京で暮すようになって、まず行ったのは三省堂書店だった。
ウワサには聞いていた。
実際に行ってみて、こんなに大きいのか、とその規模に驚いたものだ。

熊本市内の大きな書店よりもはるかに大きい。
しかも新宿には紀伊國屋書店もある。
東京のすごさを感じていたものだが、
それでもレコード店に関しては、三省堂書店、紀伊國屋書店に匹敵する規模のところは、
東京といえどまだなかった。

六本木にWAVEができるまでは、なかった、といっていいだろう。
秋葉原には石丸電気のレコード専門のビルがあったけれど、
それでも三省堂書店、紀伊國屋書店の規模かといえば、そうとはいえなかった。

私の田舎では、レコード店は少なかった。
書店は私が住んでいる時代に新しい店が二軒できたけれど、
レコード店はそうではなかった。

そういう環境で18まで育った。
東京に来て、それからステレオサウンドで働くようになって、
10代のうちに聴けた音楽の量に関して、同世代であっても、
田舎暮しと都会暮しではそうとうな差があったし、
さらにまわりに音楽好きな人たちがいる、という環境の人とは、
その差がさらに広がる。

Date: 5月 15th, 2022
Cate: きく

音楽をきく(その3)

「どうでもいいことがどうでもよくはなくて、しかしどうでもよくはないものがなくても音楽はきける」、
これは「ステレオのすべて ’77」掲載の黒田先生の文章のタイトルである。

黒田先生自身によるタイトルなのか、編集者によるものなのか、
そこは判然としないが、私は黒田先生がつけられたのではないだろうか、と勝手に思っている。

ここには二枚のディスクが登場する。
一枚はフルトヴェングラーのベートーヴェンのレコードである。
もう一枚はシンガーズ・アンリミテッドのレコードである。

これらのレコードをきいている男は同じではなく、二人である。
フルトヴェングラーのレコードをきいている男は、
倉庫のようなところで、裸電球の下でフルトヴェングラーのベートーヴェンをきいている。

シンガーズ・アンリミテッドのレコードをきいている男は、
高級マンションの一室で、調度品も周到に選ばれていて、
そういう環境で、シンガーズ・アンリミテッドの歌をきいている。

黒田先生は《音楽の呼ぶ部屋がある》とも書かれている。
そして、こうまとめられている。
     *
 要するに、お気に召すまま──だとは思う。みんなすきかってにやればそれでいい。倉庫のようなところでシンガーズ・アンリミテッドをきこうと、気取った猫足の椅子にふんぞりかえってフルトヴェングラーをきこうと、誰もなにもいわない。しかし、無言のうちに、そこでひびいた音楽が、そのききてを裁いているということを、忘れるべきではないだろう。
     *
黒田先生が、この文章を書かれた時よりも、
いまは実にさまざまなところで音楽がきける時代だ。
スマートフォンとイヤフォンがあれば、それこそトイレの個室でも音楽をきける。

そういう時代だから、
「どうでもいいことがどうでもよくはなくて、しかしどうでもよくはないものがなくても音楽はきける」、
このタイトルをじっくりと読み返してほしい。

Date: 4月 19th, 2022
Cate: きく

カセットテープとラジカセ、その音と聴き方(余談・その22)

十数年前だったか、中学のころ使っていたラジカセの型番を調べようとしたことがある。
その時は、検索ワードを変えてみたりしても、求める結果に行き着けなかった。

それがいまや昔のラジカセが小さなブームになっていることもあってか、
すんなりわかった。

内部写真も見つかった。
使っていたとき、内部を見たことはなかった。
今回、インターネットで見つけた写真をみて、
スピーカーユニットがアルニコマグネットだったことを知る。

ダイヤトーンのP610のような磁気回路のフルレンジユニットで、
ダブルコーン仕様である。

さっきまでフェライトマグネットのシングルコーンのフルレンジだと思い込んでいた。
コバルトの世界的不足で、JBL、アルテック、タンノイなどが、
アルニコマグネットからフェライトに移行したのは、この数年後である。

このラジカセで、グラシェラ・スサーナのミュージックテープを聴いていた。

Date: 1月 9th, 2022
Cate: きく

感覚の逸脱のブレーキ(その8)

別項「B&W 800シリーズとオーディオ評論家」を書きながら、
この項のテーマを思い出していた。

B&Wの800シリーズのスピーカーシステムは、
感覚の逸脱のブレーキなのか、
それともアクセルなのか。

もしかすると、そのどちらでもなく自動運転のようなものなのか。

Date: 5月 4th, 2021
Cate: きく

試聴と視聴と……(その3)

瀬川先生が書かれている。
     *
スピーカーから出る「音」は、多くの場合「音楽」だ。その音楽の鳴り方の変化を聴き分ける、ということは、屁理屈を言うようだが「音」そのものの鳴り方の聴き分けではなくその音で構成されている「音楽」の鳴り方がどう変化したか、を聴き分けることだ。
(「マルチスピーカー・マルチアンプのすすめ──あなたはマルチアンプに向くか向かないか──」より)
     *
これで五回目の引用だ。

何をいまさら──、という人もいよう。
けれど、人は大事なことから忘れていくものである。

この大事なことを忘れたまま、
(しちょう)に、試聴、視聴、はたまた為聴をあてめはるのかを考えたところで、
なにになろうか。

Date: 3月 15th, 2020
Cate: きく

音を聴くということ(グルジェフの言葉・その8)

入魂の音、
それも全神経を傾注したの結果による音ではなく、
魂のこめられた音という意味での、入魂の音というのはあるのだろうか。

ありますよ、といってくる人がいる。
入魂の意味を説明したうえでも、ありますよ、といってくる人がいる。

音に魂が込められるのか──、
そのことを問いたいのではない。
その前の段階のことを問いたい。

音に魂を込める。
その魂は、どこから持ってくるのか。

そう問えば、自分の中からだ、という答が返ってくるはずだ。

人は生きているから、どこかに魂はあるといえる。
けれど、問いたいのは、あなたの魂は目覚めているのか、だ。

睡ったままの魂を、どうやって音に込めるのか。

なぜオーディオをやってきたのか。
ここまで情熱を注いできたのか。

結局、自分の魂を目覚めさせよう、としてきたのだと、
ここにきておもうようになった。

Date: 3月 2nd, 2020
Cate: きく

音を聴くということ(グルジェフの言葉・その7)

先日発売になったオーディオアクセサリー 176号は、
音元出版のサイトによれば《編集部入魂の1冊》だそうだ。

入魂の音、という表現はしばしばみかける。
自分自身の音について「入魂の音」と表現する人もいるし、
誰かの音について「入魂の音」という人もいる。

入魂とは、辞書(大辞林)には、
 ある事に全神経を傾注すること、
 ある物に魂を入れること、
とある。

オーディオアクセサリーの場合は、「ある事に全神経を傾注すること」の方だろう。
入魂の音の場合はどうだろうか。

使う人によって微妙に違ってくるのだろうが、
私は、「ある物に魂を入れること」の方で使われているように感じている。

つまり音に魂を入れること、である。

「五味オーディオ教室」が、私のオーディオの核になっている。
だから、ここでくり返し書いているように、
オーディオにおける肉体の復活を信じているし、めざしてもいる。

音による肉体の復活。
実際には、そう錯覚しているだけなのだろうが、
それでもそう感じることがあるのも事実だ。

それでも、肉体の復活と感じられる音こそが入魂の音とは思っていない。
細部にまで神経のいきとどいた素晴らしい音で鳴っていたとしたら、
そこでの入魂の音は、「ある事に全神経を傾注すること」の結果による音であって、
「ある物に魂を入れること」ではない。

Date: 11月 14th, 2019
Cate: きく

試聴と視聴と……(その2)

その1)の最後に、
試聴は、為聴なのか、と書いた。

最近では、(しちょう)は思聴でもある、と思うようになってきた。

Date: 8月 4th, 2019
Cate: きく

カセットテープとラジカセ、その音と聴き方(余談・その21)

TC800GLと同時代のヤマハの製品は、
プリメインアンプのCA2000をみればわかるように、
そのジャンルの製品として、必要される機能はできるかぎり搭載しようとコンセプトがある。

CA2000は、その後に登場したA1とは違う。
メーターも搭載しているし、トーンコントロールはどちらもあるが、
A1にはターンオーバー周波数切替えはない。
フィルターはA1はローカットのみ、CA2000はハイカットも持つ。

PHONO入力もCA2000は、負荷抵抗の三段切替が可能。
テープモニターは、A1は一系統、CA2000は二系統、
モードセレクターも、A1は二点、CA2000は五点。
ミューティングはA1はなし、CA2000は-20dBである。

そしてCA2000はパワー段のA級/B級動作の切替えもできる。

CA2000にこれ以上の機能を搭載しようとすれば、
フロントパネルの面積がもっと必要になるほどに、
使い手が望む機能は、ほぼ備えている、といえる。

それはコントロールアンプのCIにもいえる。
そしてパワーアンプのBIもそうである。

CIはフロントパネルを視れば、それがどれだけ多機能なコントロールアンプなのかは、
誰の目にも明らかなのに対し、BIはちょっと違う。
別売のコントロールユニットUC-Iを取り付けていないBIは、
シンプルなパワーアンプにしかみえない。

けれどリアパネルをみると、スピーカー端子が五組ある。
これを活かすにはUC-Iが必要となる。

UC-Iを装備したBIは、五系統のスピーカー端子が使えるようになるだけでなく、
それぞれにレベルコントロールが可能にもなる。

そこまでの機能を必要とする使い手がどれだけいるのかといえば、そうはいなかっただろう。
それでも、この時代のヤマハは、それだけ機能を搭載した。

CA2000の機能、CIの機能もそうであろう。
すべての使い手が、すべての機能を使いこなしている、必要とするとは限らないが、
メーカーの都合で、使い手に不自由はさせない──、
そういうコンセプトが感じられる。

それはカセットデッキのTC800GLにもいえる。
だから据置型としても可搬型としても使えるカセットデッキなのである。