Archive for category きく

Date: 4月 15th, 2024
Cate: きく

野口晴哉記念音楽室レコード鑑賞会(その12)

5月26日(日曜日)開催の野口晴哉記念音楽室レコード鑑賞会、
その二回目の前売り券は完売とのこと。

10日からの申し込みだったから、五日ほどで完売。
昨年よりも早いペースのはず。

Date: 4月 10th, 2024
Cate: きく

野口晴哉記念音楽室レコード鑑賞会(その11)

昨年の5月28日に開催された野口晴哉記念音楽室レコード鑑賞会、
その二回目の詳細が発表になり、申し込みが始まっている。

一回目同様、 Peatixでチケットを申し込める

今回のレコード当番(選曲者)は三名。
音楽評論家の湯浅 学氏、整体指導者の野口晴胤氏、それに私である。

詳細はPeatixのページをご覧いただきたいが、
湯浅氏が1960年代から70年代のブラックミュージック、
野口氏がオールジャンル、
私はクラシック、それもドイツ音楽のみに絞ってみようと考えている。

今回鳴らすのは、
野口晴哉氏のリスニングルームの壁に組み込まれているシーメンスのオイロダイン。
オイロダインは、つねに私にとって特別なスピーカーである。

終のスピーカーのひとつとして、手元で鳴らしたいスピーカーでもある。
とはいっても、オイロダインを平面バッフルに取りつけて鳴らせるだけの十分な空間を、
オイロダインのために用意できないのであれば──、というおもいもある。

それでもいいのかもしれない、とも思い始めている。
こうやってオイロダインを鳴らすことができる日が、もうじきやってくるのだから。

三年前に、こんなことを書いている。

シーメンスのオイロダインで聴く、ということは、
私にとっては、ドイツの響きを聴きたいからである。

ドイツの響き。
わかりやすいようでいて、決してそうではない。

ドイツの響きときいて、何を連想するかは、みな同じなわけではないはずだ。
ドイツの作曲家を思い出すのか、
ドイツの指揮者なのか、ドイツのピアニストなのか、ドイツのオーケストラなのか、
ドイツのスピーカーなのか、それすら人によって違うだろうし、
ドイツの作曲家と絞っても、誰を思い出すのかは、また人それぞれだろう。

ドイツの響きとは、シーメンスのオイロダインの音。
オイロダインの音こそ、ドイツの響き、
──そう書いたところで、オイロダインの印象も人によって違っているのはわかっている。
オイロダインを聴いたことがない、という人がいまではとても多いことも知っている。

何も伝わらない、といえばそうなのだが、
私にとってドイツの響きといえば、二人の指揮者である。

フルトヴェングラーとエーリヒ・クライバーである。

これを書いた時点では、今回のことが訪れようとはまったく想像できなかった。
とにかく、ドイツの音、ドイツの響き(私の裡にある偏ったものであることは承知している)を、
聴いていただければ、とおもっている。

Date: 4月 7th, 2024
Cate: きく

Listening Practice Friday

全生新舎の野口晋哉さんの新企画。
アルテックのA5C(マンタレーホーン)をメインスピーカーとする音楽鑑賞会、
Listening Practice Friday”が、4月19に始動。

詳細はリンク先をみてください。

Date: 3月 25th, 2024
Cate: きく

音を聴くということ(グルジェフの言葉・その10)

インドの古典「バカヴァッド・ギーター」の一節、
「真の自己にとって浄化された自己は友であるが、浄化されていない自己は敵である」。

この項で触れている「人間は眠っている人形のようなものだ」。
真の自己とは、目覚めた人の自己であり、
眠っている人形のような人のそれは、虚の自己となるのか。

だとすれば、
「虚の自己にとって浄化された自己は敵であり、浄化されていない自己は友である」となるのか。

Date: 2月 26th, 2024
Cate: きく

音を聴くということ(グルジェフの言葉・その9)

(その1)で書いていることを、もう一度。

ゲオルギー・グルジェフがいっていた。

人間は眠っている人形のようなものだ、と。
正確な引用ではないが、意味としてはこういうことだ。

人間の通常の意識の状態は睡眠のようなもので、
人間としてのほとんどの活動はすべて機械的なものである、と。

眠っている人形から、目覚めている人間になるには、
それこそ山のような意志力が必要になり用いなければならない、と。

ずいぶん昔に、グルジェフがそういった意味あいのことをいっていると知った。
どうすればグルジェフがいっている意味での目覚めることができるのか。

オーディオにかぎっていえば、心に近い音を──、ということのはずだ。
耳に近い音をどれだけ懸命に追求しても、
実のところ、それは機械的な活動にすぎない。

Date: 2月 9th, 2024
Cate: きく

野口晴哉記念音楽室レコード鑑賞会(その10)

昨年の5月28日に開催された野口晴哉記念音楽室レコード鑑賞会が、今年も開催される。
5月26日(日曜日)の予定だ。

詳しいことが決定次第、お知らせする。

Date: 2月 1st, 2024
Cate: きく

聴いているという感覚、鳴らしているという感覚

audio wednesdayとaudio wednesday (next decade) で、
音を鳴らして集まった方たちに音を聴いてもらうことをやっていると、
その場での音をもちろん私も聴いているわけだが、
それ以上に鳴らしている、という感覚のほうがずっと強い。

曲を選んでオーディオ機器を操作するだけだから、疲れないだろう、と思われるだろうが、
鳴らしているという感覚が強いせいなのか、
終ってしばらくすると、けっこうな疲労感がある。

やっているからこそ感じることがある。
オーディオショウで、それぞれのブースで鳴らしている人がいるわけだが、
この人たちすべてが鳴らしているという感覚をもっているわけではない、と。

別項「瀬川冬樹というリアル(その3)」で書いた。
そのことをもう一度記しておきたい。

「良い音とは 良いスピーカーとは 良い聴き手とは?」
瀬川先生が、もっとながく生きておられたなら、
こんなテーマで何かを書かれていたのではないか──、
そんなことを(その2)で書いた。

「良い聴き手とは 良い鳴らし手とは?」、
こんなふうなタイトルになったのかもしれないと考えつつも、
「良い鳴らし手とは 良い聴き手とは?」なのか、どちらなのか。

「良い聴き手」が先にくるのか、「良い鳴らし手」が先にくるのか。
どちらでも大差ない、とは思えないのだ。

「良い音とは 良いスピーカーとは?」に続くのであれば、
やはり「良い聴き手とは 良い鳴らし手とは?」なのだろうか。

Date: 1月 25th, 2024
Cate: きく

オイロダインを楽しむ会(その3)

1月20日に行ってきたオーディオ・ノートの試聴室での「オイロダインを楽しむ会」。
私が特に印象に残っているのは、音よりもオーディオ・ノートの社屋の綺麗さである。

とにかくすみずみまで掃除が行き届いている。
塵一つ落ちていない、この表現がぴったりくる。
しかも床も磨かれている。

とにかく感心した。
こういう環境で、オーディオ・ノートの製品は開発されうまれてくるのか、と。

Date: 1月 21st, 2024
Cate: きく

オイロダインを楽しむ会(その2)

昨日、オーディオ・ノートの試聴室で行われた「オイロダインを楽しむ会」に行ってきた。
久しぶりに聴くオイロダインだった。

昨日は雨が降っていて寒かった。
そのせいだろうが、私が行った回は六人だけだった。

オイロダインの音は、なかなか聴く機会がない、と思う。
六人のうち、初めてオイロダインを聴くという人も、きっといたはずだ。

オイロダインが、どう鳴っていたのかについては書かないが、今回ひとつ気づいたことがあった。
これまで数回、オイロダインを聴く機会はあったが、
ライヴ録音を聴いたのは、今回が初めてだった。

聴いていて、五味先生の「オーディオ巡礼」を思い出していた。
     *
森氏は次にもう一枚、クナッパーツブッシュのバイロイト録音の〝パルシファル〟をかけてくれたが、もう私は陶然と聴き惚れるばかりだった。クナッパーツブッシュのワグナーは、フルトヴェングラーとともにワグネリアンには最高のものというのが定説だが、クナッパーツブッシュ最晩年の録音によるこのフィリップス盤はまことに厄介なレコードで、じつのところ拙宅でも余りうまく鳴ってくれない。空前絶後の演奏なのはわかるが、時々、マイクセッティングがわるいとしか思えぬ鳴り方をする個所がある。
 しかるに森家の〝オイロダイン〟は、実況録音盤の人の咳払いや衣ずれの音などがバッフルの手前から奥にさざ波のようにひろがり、ひめやかなそんなざわめきの彼方に〝聖餐の動機〟が湧いてくる。好むと否とに関わりなくワグナー畢生の楽劇——バイロイトの舞台が、仄暗い照明で眼前に彷彿する。
     *
クナッパーツブッシュがかけられたわけではないが、数枚のライヴ録音がかけられた。
ライヴ録音ならではのざわめきが、その盤におさめられている音楽を引き立てていたように感じられた。

このことは、小さいけれどひとつの発見のようにも感じていた。

それがたまたまだったのか、ほんとうにそうなのか。
それは自分で鳴らしてみないことには断言できないことでもあるが、
そう遠くないうちに、確かめられる日も来よう。

Date: 12月 5th, 2023
Cate: きく

オイロダインを楽しむ会(その1)

2024年1月20日と21日、川崎市にあるオーディオ・ノートの試聴室で、
オイロダインを楽しむ会」が開催される。

シーメンスのオイロダイン以外は、オーディオ・ノートの製品となる。
オーディオ・ノートの製品の音に関心がある人もいれば、
私のようにオイロダインの音が、
しかも2m×2mの平面バッフルに取りつけられた音を聴くことに関心を持つ人いるはず。

オイロダインというスピーカーに関心をもつ人がどれだけいるのか。
なんともいえない。
多いようにも思えるし、少ないようにも思える。

古いスピーカーである。

いまどのオーディオ評論家のあいだでは、「スピーカーの存在感がなくなる」が、
最大の讚辞のようになっている。
少なくとも私はそう感じている。

オイロダインを聴いて、それが十全な音で鳴っていたとしても、
「スピーカーの存在がなくなる」と感じる人はいるのかいないのか。

いないとはいえない。いるとも思えるからだ。
どうしても、そうおもうのかについては別項で書いていく。

とにかくオイロダインを平面バッフルに装着した状態の音が聴ける。

Date: 10月 13th, 2023
Cate: きく

感覚の逸脱のブレーキ(その9)

別項で「アクティヴ型スピーカーシステム考」を書いているが、
よくできたアクティヴ型スピーカーも、
優れたヘッドフォンと同じように、感覚の逸脱のブレーキといえよう。

Date: 7月 3rd, 2023
Cate: きく

クレデンザをきいて(その2)

クレデンザの誕生は1925年。
ほぼ百年前のこと。

オーディオテクニカのウェブサイトによると、
クレデンザは67,000台ほど作られた、らしい。

日本で当時の価格は、家一軒分ときいているから、
海外ではそこまで高価ではなかったにしろ、67,000台という数字には、驚く。

今回聴いたゼンマイ式のクレデンザのシリアルナンバーは、1,000番未満である。
初期のクレデンザなのだろう。
オーディオテクニカ所蔵のクレデンザは40,000番台とのこと。

クレデンザの音を聴いたのは、そう多くないが、
実物を見る機会は、それよりも多かった。

今回、はじめて気づいたのは、二枚扉のクレデンザということだった。
私のなかでの印象は、四枚扉のクレデンザである。
中央二枚の大きい扉、
その他に両端にSP盤を収納するための狭い扉がついているタイプである。

二枚扉のクレデンザにも、SP盤の収納スペースはあるが、
扉は二枚になったことで大きくなり、扉を開いた姿は、けっこう違って見える。

こんなクレデンザがあったのか、と検索してみると、確かに存在している。

そして、同じゼンマイ式のクレデンザでも製造時期によって、
けっこう仕様が違っていたこともわかった。

そういうクレデンザから鳴ってくる音を聴いていた。

Date: 6月 21st, 2023
Cate: きく

クレデンザをきいて(その1)

昨日、映画を二本観ていた。
「スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース」と「ザ・フラッシュ」だ。

どちらもハリウッドの大作で、CGを多用した作品。
どちらもIMAX Laserの劇場で観た。

こうい作品をIMAXで観るたびに、
この映画の上映、一回あたりの使用電気量はいったいいくらなのだろうか、と思う。

スクリーンに映し出されるディテールの明瞭度、
それに音。
そうとうな電気量なのだから、入場料金が高くなるのもしょうがない、と思う。

それにこれら二本の作品は上映だけに多くの電気を必要とするわけではなく、
制作においても、そうとうな電気を消費している。

とにかくそうやってできあがった作品を、二本観た次の日、
つまり今日、アクースティック蓄音器の王様といわれるクレデンザを聴いてきた。

それも二箇所で聴いてきた。

一箇所目のクレデンザはゼンマイ式、
二箇所目のクレデンザはモーター式。

ゼンマイ式のクレデンザは、電気をまったく必要としない。
モーター式のクレデンザはディスクの回転のための電気は必要とするものの、
音を出す仕組み(構造)には、まったく電気は使われていない。

音は電気信号に変換されることなく鳴ってくる。

Date: 6月 2nd, 2023
Cate: きく

野口晴哉記念音楽室レコード鑑賞会(その9)

スピーカーはスピーカーの音を聴いている──。

以前、別項で、そう書いた。
スピーカーはスピーカーの音を聴くなんて、なんと非科学的な、
という人もいるのはわかっている。

あくまでも感覚的なことなのだが、それでもそうおもってしまうことが、
オーディオをながく続けていると、そういう結論めいたことに行き着くことがある。

そんなこと、一度もない、という人もいるし、
私と同じように、そう感じている人もいる。

どちらが正しいとか間違っているとか、
上とか下とか、そういう問題ではなくて、
同じオーディオを趣味としている、といっている者であっても、
そのくらいの違いがある、という事実でしかない。

5月28日の夜、野口晴哉記念音楽室レコード鑑賞会に集まった数人と飲んでいた。
あれこれ話して駅で別れた。
私一人、反対方向の電車に乗る。

一人になって、(その8)で書いたことをおもっていた。
カザルスのバッハの無伴奏の音について、である。

なぜ、カザルスのバッハが、それまでの三枚とまるで違う鳴り方だったのか。
その理由について考えていると、
結局のところ、スピーカーはスピーカーの音を聴いている、という結論にたどりつく。

そんな非科学的なことが結論か──、といわれれば、
そうかもしれませんね、というしかないが、
スピーカーはスピーカーの音を聴いている、としか説明のしようのないことが、
現実にはあることはかわりようがない。

Date: 5月 29th, 2023
Cate: きく

野口晴哉記念音楽室レコード鑑賞会(その8)

昨日(5月28日)は、野口晴哉記念音楽室レコード鑑賞会に行ってきた。
朝日新聞社発行の「世界のステレオ」に載っていた写真そのままの音楽室だった。

機器の配置は、少しばかり違っていたけれど、全体の雰囲気はそのままだった。

音はどうだったのか、というと、細かいことをあれこれ書こうとはまったく思っていない。
野口晴哉氏は1976年に亡くなられていて、
その後、野口晴哉氏のシステムは鳴らされていなかったようだから、
当時の音がそっくり聴けるとは、まったく期待していなかった。

(その1)で書いているように、片鱗でも聴けるのであれば、それでいい──、
行く前からそうおもっていた。

その片鱗は聴けたのか。
野口晴哉氏が鳴らされていた音を聴いたことのある人は、私の周りにはいない。
五味先生のオーディオ巡礼を読み返して、想像するしかない。

正直なことをいうと、あきらかな整備不足の音だった。
調整が不足している以前の、
特にアナログプレーヤーを含めての周辺の整備不足による音のアラがひどかった、といえる。

一枚目、二枚目、三枚目のディスクまでは、片鱗すら聴けないのかもしれない──、
そうおもいつつ聴いていた。

四枚目のディスクは、カザルスのバッハの無伴奏だった。
このカザルスは、前の三枚とはあきらかに鳴り方が違っていた。

この日来ていた友人数人に感想を聴いても、カザルスから音が変った、といっていた。

カザルスは野口晴哉氏が最も好んで聴かれていた、ときいている。
そのことが如実に、その音から伝わってくる、そんな感じの鳴り方だった。

「片鱗」をしっかりと聴けた、そう思えた一枚だった。
この一枚が聴けただけで、満足といえばたしかに満足していた。