Archive for category 手がかり

Date: 5月 13th, 2013
Cate: 手がかり

手がかり(その14)

アナログディスクは、どこまで低い音をカッティングできるかというと、
カッターヘッドがラッカー盤(マスターディスク)にカッティングできるのは8Hzまでフラットに刻める。

この8Hzという値はアナログ式のテープレコーダーよりも、
ずっと低い周波数まで記録できるということを表している。
ダイレクトカッティング以外では一度テープに記録して、ということが行われる。
そこではアナログ時代にはテープスピードが15インチ(38cm)、さらには30インチ(76cm)というものもあった。
テープスピードが速いほど音質的には有利になるわけだが、
こと低域に関してはテープスピードを増すことによって、不利になる面もある。

テープに録音するヘッドには必ずギャップが設けられている。
このギャップがあるからこそ録音、再生が可能になるわけだが、
このギャップがコンターエフェクトという、低域のうねりを生じさせる。
アメリカではヘッドバンプというらしい。

このコンターエフェクトは、テープスピードが上るほど、発生する周波数も上昇していく。
テープスピードが増すことで高域の録音・再生限界は上に移動するわけだが、
テープスピードが増したからといって、低域の再生限界が下に移動するわけではない。

こと低域の録音能力に関しては、テープよりもディスク録音が優っているといえる。
つまりダイレクトカッティング、もしくはデジタル録音をマスターテープとすれば、
アナログディスクは8Hzまでフラットにカッティングできるわけだ。

CD登場以前と記憶しているから、1981年か1980年だったか、
震度計が記録した波形をデジタル処理して音としてカッティングしたアナログディスクが出たこともある。

とにかくカッティング時には8Hzという、そうとうに低い周波数まで記録できる。
だからといって、8Hzまで再生できるというわけではない。

Date: 5月 10th, 2013
Cate: 手がかり

手がかり(デザインに関しては……)

ステレオサウンドの存在を知り、ステレオサウンドを熱心にくり返し読みはじめたころ、
とにかく、いい音への手がかりをステレオサウンドに求めていたように思う。

経験は圧倒的に少ない。
それを少しでも補うためてもあり、いい音とはいったいどういう音なのか、
音を判断するということはどういことなのか、
その手がかりが欲しかった。

欲しかった手がかりは、音に関することだけではなかった。
デザインに関しての手がかりも、ステレオサウンドにあのころの私は求めていた。

私のオーディオの始まりといえる「五味オーディオ教室」には、B&Oのデザインについて書かれている文章があり、
これを読んだ時、とにかくB&Oがどういうデザインなのかを知りたかったのを想い出す。

中学生の視点で、いいデザインということを判断できるとは思っていなかった。
好きなデザインのオーディオ機器はあった、面白いと思うオーディオ機器のデザインはあった。
いいとおもえるデザインのオーディオ機器もいくつかあった。

でも、それがオーディオ機器のデザインとして優れているのかどうかを判断できる「もの」が、
あのころの私にはなかった。
だから、デザインに関しての手がかりも、音への手がかりと同じくらいに欲していた。

ステレオサウンド 43号に瀬川先生の文章がある。
     *
 最近のオーレックスの一連のアンプは、デザイン面でも非常にユニークで意欲的だが、SY77は、内容も含めてかなり本格的に練り上げられた秀作といえる。ただしこの新しいセパレートシリーズでは、プリアンプの方が出来がいい。適当な時間を鳴らしこまないと本領を発揮しにくいタイプだが、それにしてももう少し踏み込みの深い、艶のある音になれば一層完成度が高められると思う。
     *
オーレックスのコントロールアンプSY77について書かれたものだ。
SY77は、中学生ながらいいデザインだな、と感じていた。
とはいっても、断言できるほどのデザインの判断に関するものがなかったから、
この瀬川先生の文章は「やっぱりそうなんだ!」とおもえ、嬉しかったのを憶えている。

そして同じオーレックスのチューナーST720についてはこう書かれている。
     *
 物理データや音質面で、この価格のチューナーとしてほんとうに他社と同格あるいは以上かといえばその点は注文もあるが、画一的な表現の国産チューナーの中にあって、ユニークな操作性を大胆な意匠で完成させたところに絶大な拍手を送りたい。こういう製品が、モデルチェンジなしに育つ土壌を大切にしよう。
     *
ここでもオーレックスのデザインについてふれられている。
ステレオサウンド 43号は、私にとっては別冊を含めて四冊目のステレオサウンドであった。
それでも四冊をくり返し読んでいれば、瀬川先生の書かれたものに、何かを感じることはできていた。

この人が、「絶大な拍手を送りたい」と書かれている。

SY77、ST720が、その後の私にとってどういう意味をもつモノになるのかは、
まったく想像できなかった遠い日に得た、
オーディオ機器のデザインに関する、小さいけれど、確実な「手がかり」であった。

Date: 5月 9th, 2013
Cate: 手がかり

手がかり(その13)

そのきっかけとなったのは、RIAAカーヴの改訂だった。

RIAAカーヴは、それまで35Hzから15kHzまでは厳格な規格が定められているが、
それ以下、それ以上の周波数帯については、35Hzから15kHzまでのカーヴの延長であればいいとなっていた。

だからハイ上りのカーヴも実際にあったし、
低域に関してもローカットの周波数に関しては規定はなかった。
メーカーの考え方によって、そうとうに低いところまでフラットに再生するカーヴであったり、
ある周波数からなだらかに減衰するカーヴであったりもした。

新RIAAカーヴにいつ改訂されたのかは正確には憶えていないが、
新RIAAカーヴに関する記事を読んだのは、電波科学だった。
それからしばらくしてステレオサウンド 55号にも、
ダイレクトカッティングで知られるシェフィールドのダグラス・サックスのインタヴュー記事の中でふれられている。

新RIAAカーヴは、録音特性を含めてのものではなく、あくまでも再生特性のみである。
20Hz以下の周波数を減衰させる新RIAAカーヴは、レコードの反りや偏芯、
アナログプレーヤーのワウや低域共振などの悪影響から逃れるためであり、
私の知る範囲ではDBシステムズのDB1は新RIAAカーヴに対応していた。

新RIAAカーヴとそれまでのRIAAカーヴ、
フォノイコライザーのカーヴの設定ということになるわけだが、
実際にどちらが音がいいのかというと、一概には言いにくいところがある。

Date: 5月 7th, 2013
Cate: 手がかり

手がかり(その12)

とにかく私は最初のオーディオの手がかりとして、グラシェラ・スサーナの歌を頼りにした。
そしてグラシェラ・スサーナの歌が情感をこめて歌っている音で鳴れば、
その時はグラシェラ・スサーナの歌だけでなく、バックの楽器もそれらしく響いてくれるようになっている。
そうやって、すこしずつ手がかりを増やしていった。

このことにすこし遅れて考えたことがある。
もうひとつ、別の方向での手がかりとなるものがないのか、ということだった。

例えばスピーカーケーブル。
その理想は存在がない、ということになる。
そういう考えにたてば、スピーカーケーブルをいくつかの長さのものを用意する。
5m、3m、1.5m、1m、50cmというふうに、同じケーブルで数種類の長さによる音の違いを聴く。
このとき長いケーブルよりも短いケーブルの音が理屈としてはいい音になっているわけだ。

オーディオは理屈にあわないことが起ったとしても、
同じスピーカーケーブルで5mと50cmと、このくらい極端に長さが違っていれば、
まず50cmよりも5mのスピーカーケーブルの場合が音がいいということは、まずありえない。
そんな仮定を立ててみた。

この考えでは、例えば信号系に直列にはいるコンデンサーでは、
直結の音(コンデンサーなしの音)を基準として、
それに近い音を出してくれるコンデンサーがいい、ということになる。

オーディオをやり始めたばかりのころ、こんなことを考えていた時期がある。
そのときは間違っていない、と思っていた。
けれど少しずつ経験を積んでいくと、この考えは必ずしも正しいばかりとはいえないのではないか、
そう思いはじめてきた。

Date: 4月 8th, 2013
Cate: 手がかり

手がかり(その11)

歌は人の声によって歌われる。
声は言葉を歌っている。
けれどつねに言葉のみを歌っているわけではなく、
また聴き手もつねに歌い手による言葉のみを聴いているのではなく、声を聴いている。

声は言葉のみではない。
叫び声、泣き声、笑い声といった、言葉から離れたところにある声がある。

人は生れたばかりの頃は言葉をしゃべれない。
泣き声でもっぱら意思表示をする。
その泣き声を親は聴き分ける。
泣き声という声を聴き分けている。

つまり、このことは泣き声を発している赤ん坊も、
無意識ではあるのだろうが、泣き声を使い分けているからこそ、
そのこの親は泣き声を聴き分けられる、ともいえる。

言葉を必要とせずに、コミュニケーションが成立する。
原始的なコミュニケーションではあるけれど、言葉という具象的なものに頼らずにそれを行っている。

声とのつきあいは、そうやって始まるからこそ、
いまもわれわれは声に対して敏感に反応できるのではないのだろうか。

Date: 4月 4th, 2013
Cate: 手がかり

手がかり(その10)

アン・バートンがアン婆ァトンになってしまうくらいに、
アン・バートンの声が老け込んで鳴ってしまうとき、
バックで演奏されている楽器の音色や鳴り方も、いうまでもなく変ってしまう。

瀬川先生も書かれているように、
アン・バートンの声がアン婆ァトンになってしまったとき、
「ベースはウッドでなくゆるんだゴム・タイヤを殴っている感じ」になり、
「ピアノやドラムスも変に薄っぺらで線が細く、キャラキャラいう」。

アン・バートンがアン婆ァトンに変質してしまうとき、
くり返しておくが、変質はアン・バートンだけにとどまらないということであり、
このことはアン・バートンの声がアン・バートンの本来の声として鳴ってくれれば、
バックのベースやピアノ、ドラムスの音も、
ある程度(かなりともいっていいだろう)それらしく鳴ってくれるということでもある。

これはアン・バートンの声だけにかぎられたことではない。
ほかの歌手についてもいえる。
歌手の声質によっては、アン・バートンがアン婆ァトンになるほど、
極端には老け込まないこともあるにしても、
それでも、人の声の再生はそんなふうに変質してしまいやすい。

変質してしまいやすい、と書いてしまったけれど、
実のところは人の耳は人の声に対して敏感であるため、
わずかな変質も敏感に感じとっているため、変質が容易に聴き取りやすいのかもしれない。

どちらにしても、人の声は、なにひとつ確実なことがなさそうにおもえていた音の判断基準において、
オーディオにとり組みはじめたばかりの若造だった、あの頃の私にとっては、ここから拡げていくことができた。

Date: 3月 31st, 2013
Cate: 手がかり

手がかり(その9)

人の声といっても、
これもまたオーディオ機器によって、少なからず変化を受ける。

この項の(その4)でふれているローズマリー・クルーニーのレコード。
個人的にはローズマリー・クルーニーは、とくに好きな歌手というわけではない。
とはいえステレオサウンドの試聴室でくり返し聴いていると、
スピーカーやアンプなどによって、ローズマリー・クルーニーの年齢が変ったようになることがあるのに気づく。

そのレコードを録音したときの年齢にふさわしい鳴り方のときもあれば、
妙に若返って鳴ることもある。
その若返り方も、いろんな若返り方があり、
いかにもローズマリー・クルーニーの若いときは、こんな感じなんだろうな、と納得できる鳴り方もあれば、
この鳴り方はローズマリー・クルーニーではなくて、どこか別の歌手のように若返ってしまった、ということもある。

反対に老け込む鳴り方もある。
声に艶がなくなり、潤いもなくなってしまう。
そういえば、瀬川先生が「ふりかえってみると、ぼくは輸入盤ばかり買ってきた」のなかで、
アン・バートンの日本盤と輸入盤(オランダ盤)の音に違いについて書かれている。
     *
 そうしてアン・バートンにのめり込んでいるのを知って友人が、オランダCBSのオリジナル盤を探してきてくれた。クラシックではマメにカタログをめくったり注文したりする私が、ポピュラーのレコードになると途端に無精になる。友人がオリジナル盤を探してくれなかったら、私はアン・バートンのほんとうの良さを聴けずに過ごしたかもしれない。
 この違いを何と書いたらいいんだろうか。オランダ盤に針を下ろして、聴き馴れたはずの彼女の声が流れ始めた一瞬、これが同じレコード? と耳を疑った。これがアン・バートンなら、いままで聴いていたのはアン婆ァトンじゃないか――。われながらくだらない駄洒落を思いついたものだが、本気でそう言いたいくらい、声の張りと艶が違う。片方はいかにも老け込んだような、疲れて乾いた声に聴こえる。バックのヴァン・ダイク・トリオの演奏も、ベースはウッドでなくゆるんだゴム・タイヤを殴っている感じだし、ピアノやドラムスも変に薄っぺらで線が細く、キャラキャラいう。そのくせどこか古ぼけたような、それとも、演奏者と聴き手のあいだに幕が一枚下りているかのような、鮮度の落ちた音がする。
     *
アン・バートンがアン婆ァトンになってしまうのと同じように、
ローズマリー・クルーニーも、そんなふうに老け込んでしまうことがある。

Date: 1月 24th, 2013
Cate: 手がかり

手がかり(その8)

オーディオ機器はそれぞれ具象的な存在であっても、
それらの集合体から出てくるのは具象的な存在ではない音である。

音には目に見える形はない(だからといってかたちがないわけではない)。
抽象的であるからこそ、捨象も要求されるわけだが、
このことについては別項「ハイ・フィデリティ再考(原音→げんおん→減音)」でふれているところだ。
だから、ここではふれないが、音楽もまた抽象のものである。

けれど、音楽には歌がある。
歌は言葉によってうたわれる。
歌は、それも母国語(つまり日本語)でうたわれる歌は、
音楽の中における具象ともいえる。

だから、歌(私にとってはグラシェラ・スサーナによる日本語の歌)が、
最初の重要な、音の判断基準となっていった。

これがもし、クナッパーツブッシュの「パルジファル」のLPを、
このLPの存在を知ったばかりの15歳のころに買っていたとしたら、どうなっていたであろうか。

背伸びしたい年ごろである。
クナッパーツブッシュの「パルジファル」を聴いて、
なにもわからずに「これがバイロイトの音なのか」などと思っていたかもしれない。

Date: 1月 14th, 2013
Cate: 手がかり

手がかり(その7)

オーディオの経験を積んできたから、
グラシェラ・スサーナの歌を最初の手がかりとしたことは間違っていなかったし、
むしろ、そのことがもたらしてくれたものが確実なステップとなっていった、と明言できるのだが、
オーディオをやり始めたときは、迷いに近いものがあったし、
それこそ若者特有の背伸びしたい(そうみせたい)気持もあって、
グラシェラ・スサーナの歌よりもクラシックやジャズが上位にあって、
そういう音楽で音を判断していかなければならないのではないか、と思わないではなかった。

1977年秋、ステレオサウンドから別冊として「HIGH-TECHNIC SERIES-1」が出た。
マルチアンプのまる一冊特集した本である。

この本におさめられている瀬川先生の文章のある一節を読んで、なくなった。
     *
 EMTのプレーヤー、マーク・レビンソンとSAEのアンプ、それにパラゴンという組合せで音楽を楽しんでいる知人がある。この人はクラシックを聴かない。歌謡曲とポップスが大半を占める。
 はじめのころ、クラシックをかけてみるとこの装置はとてもひどいバランスで鳴った。むろんポップスでもかなりくせの強い音がした。しかし彼はここ二年あまりのあいだ、あの重いパラゴンを数ミリ刻みで前後に動かし、仰角を調整し、トゥイーターのレベルコントロールをまるでこわれものを扱うようなデリケートさで調整し、スピーカーコードを変え、アンプやプレーヤーをこまかく調整しこみ……ともかくありとあらゆる最新のコントロールを加えて、いまや、最新のDGG(ドイツ・グラモフォン)のクラシックさえも、絶妙の響きで鳴らしてわたくしを驚かせた。この調整のあいだじゅう、彼の使ったテストレコードは、ポップスと歌謡曲だけだ。小椋佳が、グラシェラ・スサーナが、山口百恵が松尾和子が、越路吹雪が、いかに情感をこめて唱うか、バックの伴奏との音の溶け合いや遠近差や立体感が、いかに自然に響くかを、あきれるほどの根気で聴き分け、調整し、それらのレコードから人の心を打つような音楽を抽き出すと共に、その状態のままで突然クラシックのレコードをかけても少しもおかしくないどころか、思わず聴き惚れるほどの美しいバランスで鳴るのだ。
     *
グラシェラ・スサーナという固有名詞が出ているのも嬉しかったのだが、
それ以上に、日本語の歌で調整しても、それが「人の心を打つような音楽」として鳴ってくれるのならば、
最新のクラシックの録音も美しいバランスで鳴る、瀬川先生が聴き惚れるほどの音で響いてくれる──、
グラシェラ・スサーナの歌を、私にとっての最初の手がかりとしても、なんら問題がないどころか、
結局、ジャンルに関係なく、素晴らしい音楽がその素晴らしさに見合った音で鳴らなければ、
他のジャンルの音楽を鳴らしたとしても、聴き惚れるような音は出ない。

もちろん瀬川先生の知人の、パラゴンを鳴らされている方ように、
オーディオに関心をもち始めて1年ちょっとの私が同じ聴き方ができるわけがない。
けれど、ひとつだけできることがあった。
「いかに情感をこめて唱うか」──、
このことに関しては間違えようがない。

だから、グラシェラ・スサーナの歌がいかに情感がこめられて鳴ってくれるか、が、
私にとって、最初の重要な判断基準となっていた。

Date: 12月 14th, 2012
Cate: 手がかり

手がかり(その6)

上杉先生は、沢たまきの「ベッドで煙草を吸わないで」を、
試聴レコードとして使われていたことは、よく知られている。

といっても私がいたときにはすでに、このレコードは使われていなかったし、
私がステレオサウンドを読みはじめたときにもすでに使われていなかったけれど、
それでも何かで読んで、私も知っていたくらいであるから、そうとうに知られている話である。

池田圭氏の美空ひばり、上杉先生の沢たまきの「ベッドで煙草を吸わないで」、
柳沢功力氏のローズマリー・クルーニー、私のグラシェラ・スサーナ、
これらは(私の勝手な想像ではあるが)、すべて共通している、それぞれの人にとってのそれぞれの歌手である。

前回、この項で引用した瀬川先生の文章を、もう一度思い出してほしい。

そこには、「この音のここは違う、と欠点を指摘できる耳」を作ることについて書かれている。
そのためには「理屈の先に立たない幼少のころ」に、
「頭でなく身体が音楽や音を憶え込むまで徹底的に音楽を叩き込んでしまう」ことを説かれている。

「音を少しずつ悪くしていったとき、あ、この音はここが変だ、ここが悪いと、とはっきり指摘」する、
これは音を良くしていったときに気づくことよりも難しい。

なぜなのか。
結局、音を聴く人の中に、はっきりとした音を判断する手がかりがないためだと思う。

私にとってグラシェラ・スサーナは、いわば最初の「手がかり」でもあった。
はっりきとした手応えのある「手がかり」であったからこそ、
このグラシェラ・スサーナという手がかりをもとに、次の手がかりを自分の中につくっていき、
グラシェラ・スサーナという手がかりを、次の段階では足がかりにして、
次の手がかりに手をかけて上に登っていけたように、いまは思っている。

Date: 12月 11th, 2012
Cate: 手がかり

手がかり(その5)

われわれオーディオマニアの大先輩のひとりである池田圭氏は、美空ひばりを聴け、といわれていた。
このことは瀬川先生が「聴感だけを頼りに……」(虚構世界の狩人・所収)が書かれている。
     *
「きみ、美空ひばりを聴きたまえ。難しい音楽ばかり聴いていたって音はわからないよ。美空ひばりを聴いた方が、ずっと音のよしあしがよくわかるよ」
 当時の私には、美空ひばりは鳥肌の立つほど嫌いな存在で、音楽の方はバロック以前と現代と、若さのポーズもあってひねったところばかり聴いていた時期だから歌謡曲そのものさえバカにしていて、池田圭氏の言われる真意が汲みとれなかった。池田氏は若いころ、外国の文学や音楽に深く親しんだ方である。その氏が言われる日本の歌謡曲説が、私にもどうやら、いまごろわかりかけてきたようだ。別に歌謡曲でなくたってかまわない。要は、人それぞれ、最も深く理解できる、身体で理解できる音楽を、スピーカーから鳴る音の良否の判断や音の調整の素材にしなくては、結局、本ものの良い音が出せないことを言いたいので、むろんそれがクラシックであってもロックやフォークであっても、ソウルやジャズであってもハワイアンやウエスタンであっても、一向にさしつかえないわけだ。わからない音楽を一所けんめい鳴らして耳を傾けたところで、音のよしあしなどわかりっこない。
     *
音楽は、すこしばかりの背伸びをしながら聴いていくことで、
音楽の世界はひろがり、音楽の奥深さを知っていくこともある。
背伸びしてきく聴くことを最初から放棄してしまっていては、
世の中には、ひとりの人間が生涯をすべてを音楽を聴くことのみに費やしても、
聴き尽くせぬほど多くの音楽が生まれてきている。

どんな音楽好きといわれる人でも、これまで生れてきた音楽の一割も聴けていないのかもしれない。
それだけ多種多様な音楽があるからこそ、聴き手は背伸びして聴くことがあるし、それが求められることもある。

けれど音の良し悪しを判断するときに背伸びしていたら、足下が覚束なくなる。
そんな状態で確かな音の判断ができるわけがない。

ここでも、自分の音の世界を拡充していくために背伸びしていくことは当然必要である。
でも、それは音の良し悪しを判断することとは異ることだ。

瀬川先生の「聴感だけを頼りに……」から、もうすこし引用しておきたい。
     *
 良い音を聴き分けるにはどうしたらいいか、と質問されたとき、私は、良い音を探す努力をする前にまず、これは音楽の音とは違う、この音は違うという、そう言えるような訓練をすることをすすめる。ある水準以上の良い音を再生して聴かせると、誰でもまず、その音の良いということは容易にわかる。その良さをどこまで深く味わえるかは別として、まず良いということがわかる。ところが反対に、音を少しずつ悪くしていったとき、あ、この音はここが変だ、ここが悪い、とはっきり指摘できる人が案外少ない。この音のここは違う、と欠点を指摘できる耳を作るには、少なくともある一時期だけでも、できれば理屈の先に立たない幼少のころ、頭でなく身体が音楽や音を憶え込むまで徹底的に音楽を叩き込んでしまう方がいい。成人して頭が先に音を聴くようになってからでは、理屈抜きに良い音を身体に染み込ませるには相当の努力が要るのではないかと思う。
     *
大切なことを書かれている。
このことを忘れてしまっている人、気づいていない人が残念なことに少なくない──、
私は最近そう感じることが多くなってきた。

Date: 12月 11th, 2012
Cate: 手がかり

手がかり(その4)

最近は使われていないようだが、
柳沢功力氏はステレオサウンドの試聴にローズマリー・クルーニーのディスクをよく使われていた。

ローズマリー・クルーニーのディスクは、私がステレオサウンドにいたころから試聴用に使われている。
LPでもCDになっても使われている。
柳沢氏だけでなく、菅野先生も使われていた。

試聴用のディスクといえば、その時代の最新録音でもっとも音のよいディスクが使われる、
そう思われている方もいるようである。
そういう人からすると、ローズマリー・クルーニーのディスクを、
長いこと試聴用として使うことは理解できないことのようでもある。

数年前のことになるが、インターネットのある掲示板のところで、
柳沢氏がローズマリー・クルーニーのディスクを試聴に使われることに否定的な意見が書きこまれていた。
それに同意する人もいた。

ローズマリー・クルーニーを聴いて、何がわかるの?
これが、そういう人たちの主張するところである。

インターネットで、特に匿名の掲示板となると、
どんな人が書きこんでいるのかはまったくわからないことのほうが多い。
若い人かと思っていたら、ずっとあとになって年輩の人だったり、
その逆だったすることもある。
それに掲示板では過激なことを発言することで知られていた人は、
実生活では控え目で口数の少ないおとなしい人だということを耳にしたことがある。

だからローズマリー・クルーニーのディスクを使うなんて……的な書込みをする人が、
若い人なのか、年配の人なのか、それすらわからない。
それでもひとついえることがある。

おそらく、こういう人たちは、なんの手がかりももたずに聴いている人だ、ということだ。
そして、こうもいえると思っている。
この人たちは、この項の(その1)の冒頭で引用した黒田先生の文章に登場する人と同じである、と。

Date: 12月 11th, 2012
Cate: 手がかり

手がかり(その3)

中学生の時、自分の意思で聴きに行きたいと思い、
小遣いをためてはじめてチケットを買って行ったのも、グラシェラ・スサーナのコンサートだった。

それからグラシェラ・スサーナがテレビに出るのを見逃さないように、
新聞のテレビ欄で音楽番組は必ずチェックしていたし、
2時間ドラマの主題歌をグラシェラ・スサーナが歌ったときも、聴き逃していない。

そういえば瀬川先生が熊本のオーディオ販売店に定期的に来られてとき、
一度グラシェラ・スサーナの「アドロ・サバの女王」のレコードを試聴用として持参されたことがあった。
たしかアンプの聴きくらべの時だったはず。

スサーナのレコードをかけられる前に、こういうところが変化しやすい、という話をされた。

こんなふうにグラシェラ・スサーナを、10代のとき聴いていた。
そしていつしかグラシェラ・スサーナの歌(声)が、
私のなかでオーディオ機器の音を判別するうえでの「手がかり」となっていることに気がついた。

そして、これが最初の手がかりでもある。

Date: 12月 9th, 2012
Cate: 手がかり

手がかり(その2)

中学・高校時代、振り返ってみると、
もっとも長く聴いていたのは、グラシェラ・スサーナのレコードだったかもしれない。

クラシックも聴いていたし、ケイト・ブッシュの歌にも衝撃を受けていた。
テレビから流れてくる音楽とはまったく異質の、そして私にとっては新しい音楽を聴きはじめたころ、
それでもクラシックを聴いた後には、グラシェラ・スサーナのレコードを、
どれか一曲でも、スサーナの歌を聴くことが多かった。

クラシックのレコードは、
これは五味先生と瀬川先生の影響なのだが、どうしても輸入盤で手に入れたい、と思っていた。
少ない小遣いとアルバイトで得た、そう多くはない収入で買うのであるから、
買いなおす必要のないように、国内盤ではなく輸入盤にしたかった。

けれど、私の住んでいた田舎町にはレコード店はあっても、
輸入盤のクラシックのレコードまでは取り扱っていなかった。
輸入盤のレコードを買うには、バスに乗って約1時間、
熊本市内のレコード店に行かなければ買えなかった。

往復のバス代で輸入盤の安いものだと、もう少しで買えそうな金額になる。
頻繁に出かけて買いに行く、ということはできない。
そして、東京のように品揃いが豊富というわけではない。
聴きたいレコードが、輸入盤で必ず店頭に並んでいるわけでもなかった。

そんな時代にレコードを買って、聴いていた。

そんな事情もあって、グラシェラ・スサーナのレコードは圧倒的に揃えやすかったから、
順調にコレクションは増えていった。

クナッパーツブッシュの「パルジファル」を輸入盤で聴きたい、と思っていた高校生のころは私は、
グラシェラ・スサーナを聴いていた。

Date: 12月 6th, 2012
Cate: 手がかり

手がかり(その1)

オーディオでは、出てきた音をどう判断するかもひじょうに重要である。

そこで思い出すのが、黒田先生が「ないものねだり」(聴こえるものの彼方へ・所収)で書かれていたことだ。
     *
 思いだしたのは、こういうことだ。あるバイロイト録音のワーグナーのレコードをきいた後で、その男は、こういった、さすが最新録音だけあってバイロイトサウンドがうまくとられていますね。そういわれて、はたと困ってしまった。ミュンヘンやウィーンのオペラハウスの音なら知らぬわけではないが、残念ながら(そして恥しいことに)、バイロイトには行ったことがない。だから相槌をうつことができなかった。いかに話のなりゆきとはいえ、うそをつくことはできない。やむなく、相手の期待を裏切る申しわけなさを感じながら、いや、ぼくはバイロイトに行ったことがないんですよ、と思いきっていった。その話題をきっかけにして、自分の知らないバイロイトサウンドなるものについて、その男にはなしてもらおうと思ったからだった。さすが云々というからには、当然その男にバイロイトサウンドに対しての充分な説明が可能と思った。しかし、おどろくべきことに、その男は、あっけらかんとした表情で、いや、ぼくもバイロイトは知らないんですが、といった。思いだしたはなしというのは、ただそれだけのことなのだけれど。
     *
黒田先生がこの文章を書かれたのは1974年、私はまだそのころはステレオサウンドも知らなかった。
オーディオという趣味があることも知らなかったし、黒田先生の存在も知らなかった。
この文章を読んだのは、ステレオサウンドから「聴こえるものの彼方へ」が出てからだから、
もうすこし先、1978年のことであり、ステレオサウンドを読みはじめていたし、
自分のステレオを持つことも出来ていた。

読んで、まず、どきっ、とした。
1978年ではまだ15歳、そうそう好きなレコード、聴きたいレコードを自由に買うことなんてできなかった。
オペラのレコードはまだ何も持っていなかった。
ワーグナーのレコードを買いたい、聴きたい、という欲求はもっていても、
まだ手が出せなかった。

クナッパーツブッシュの「パルジファル」が特に聴きたかったワーグナーの楽劇だった。
もっともそのころ聴いたとしても、退屈だったろう、と思うのだが。

クナッパーツブッシュの「パルジファル」のLPを買うことができたのは、
ステレオサウンドで働くようになってからだから、「ないものねだり」を読んでから、さらに数年が経っていた。

「パルジファル」が私にとって、
バイロイト祝祭劇場でステレオ録音されたいくつものレコードで初めて聴いたものだった。

フルトヴェングラーのベートーヴェンの「第九」は聴いていたけれど、
これはモノーラル録音で決して状態もいいとはいえない。

結果として「パルジファル」を黒田先生の文章を読んだ後に聴いて、よかった、と思っている。