Archive for category ブランド/オーディオ機器

Date: 5月 11th, 2019
Cate: TANNOY

タンノイはいぶし銀か(その6)

いぶし銀のごとき味わい、とか、いぶし銀といえる音などと表現してあるのを見て、
読み手側は、いったいどんな音を想像しているのか。

いぶし銀を言葉で説明してくれといわれて、
こういう音だとすらすら答えられる人は多いのか少ないのか。

普段からいぶし銀という表現を使っている人でも、
わかりやすく説明してくれ、といわれると、どう答えるのか。

「タンノイの音だよ」という答が返ってくるかもしれない。
なんと具体的で、これほど曖昧な答もない。

それでも答える側は、それでわからないのか、と思っているかもしれない。

なかには「うちの音がそうだよ」と答える人もいよう。
いぶし銀がどういう音なのか、わからなければ、うちの音を聴きに来ればいい、
そんなふうにいってくれる人もいるだろう。

聴きに行ったとしよう。
それでわかるのは、「うちの音がそうだよ」と答えた人が考えているいぶし銀の音でしかない。
その音を、十人に聴かせたら、何人がいぶし銀と感じるのかはなんともいえない。
一人もいないかもしれない。

百人くらい聴いたとしたら、数人は「確かにいぶし銀ですね」というかもしれない。
いぶし銀で表現される音に対する共通認識は、そのくらいではないのか。

タンノイの音を、どこかで聴いて、これがいぶし銀といわれる音なのか……? と感じる。
どこかで聴いたタンノイの音は、百人いれば百人とも違うはずだ。

どこかの販売店で聴いたタンノイ、
オーディオショウで聴いたタンノイ、
オーディオマニアのリスニングルームで聴いたタンノイ、
そして自分の部屋で鳴らしたタンノイ、
どこにいぶし銀といえる音はあるのだろうか。

もう、そこから出てきた音を、そうおもうしかないのか。

オーディオマニアが、心の中に抱きつづけている幻想としての「いぶし銀」。
それは時として、おもわぬ美音を生んでいくかもしれない。

Date: 5月 11th, 2019
Cate: TANNOY

タンノイはいぶし銀か(その5)

ステレオサウンド 207号の特集で、
和田博巳氏は、《他の弦楽器は艶やかというよりはいぶし銀のごとき味わい》とされている。
オーディオ的音色としての、ここでの「いぶし銀」と読めるし、
弦楽器の艶やかさがさほど感じられない、
もしくは表立ってこないから「いぶし銀」という表現を使われたのか。

確かにタンノイの、
それもフロントショートホーンをもたないスピーカーは、
最初から艶やかな弦楽器の音が聴ける、とは私も思っていない。

けれど、それはもう昔のことなのかもしれない──、とも思う。
ステレオサウンドを辞めてから、新品のタンノイのスピーカーを聴く機会はほとんどない。
それにステレオサウンドを辞めてから三十年以上が経っているから、
いつまでもタンノイのスピーカーを、昔の印象だけで語れないだろう。

そんなふうに思っているから、
ほんとうにタンノイの新しいArdenは、《いぶし銀のごとき味わい》なのか、と勘ぐりたくなる。

それに別項「真空管アンプの存在(KT88プッシュプルとタンノイ・その1)」で書いたように、
フロントショートホーンのないGRFメモリーから、魅惑的な弦の音を聴いている。

烏の濡れ羽色的艶っぽさではないけれど、それは《いぶし銀のごとき味わい》ではなかった。

結局、タンノイの音色がいぶし銀というのは、思い込み(バイアス)ではないだろうか。
こう書いてしまうと、
そういう思い込みをつくったのはステレオサウンドであり、
オーディオ評論家ではないか、といわれる。

でも、はたしてそうだろうか。
私には、どこからともなくわいてきた、ある種のバイアスのような気がしてならない。

その2)で、
意外にもイギリスのユニットのフレームの仕上げから来ているようである、と指摘した。

視覚的イメージから起きてきた幻想がいぶし銀なのかもしれない。
当時は、海外のオーディオ機器を聴こうと思っても、
そう簡単に聴けるわけではなかった。
それに非常に高価だった時代がある。

写真や、ウィンドウに飾られている実物を眺めての憧れが生んだ「いぶし銀」。
これを悪い、とは私はおもわない。
思わないけれど……、
いつまで、そんなふうに語り継いでいくのか──、ともおもう。

Date: 5月 10th, 2019
Cate: 218, MERIDIAN

メリディアン 218を聴いた(その12)

子宮回帰願望うんぬんというのは、
おそらくケイト・ブッシュの一枚目“THE KICK INSIDE”、
二枚目の“Lionheart”までの印象で語られたのではないか、とおもう。

三枚目の“Never for Ever”がもしデビューアルバムだったとしたら、
“THE KICK INSIDE”も“Lionheart”も存在していなかったとしたら、
ケイト・ブッシュが好きな男は子宮回帰願望の強いやつだ、みたいなことは、
おそらく出てこなかった、と思う。

なのにULTRA DACでの“THE DREAMING”を聴いていて、
私は子宮回帰願望について思い出していたし、聴き終ってからは考えてもいた。

“Never for Ever”のジャケットのイラスト。
どんなイラストなのかはここでは説明しないので、
Googleで画像検索してみてほしい。

私が“THE DREAMING”に感じている子宮的世界とは、
“Never for Ever”のジャケット的世界に、
さらに深く入りこんでしまったかのような──、
“THE KICK INSIDE”と“Lionheart”までの子宮回帰願望と、
“THE DREAMING”での子宮回帰願望を同じに感じる人は、そうはいないと思う。

ケイト・ブッシュは“Never for Ever”から、プロデュースも担当し始めた。
ジョン・ケリーと共同であった。
“THE DREAMING”で、ケイト・ブッシュ単独のプロデュースである。

だからなのかもしれない、そう感じてしまうのは。

よくハイエンドオーディオの世界では、
スピーカーの後方に音場が出来上る、といわれる。

私は“THE DREAMING”において、そんな音場の出来方はまったく求めていない。
そんな音場が再現されたところで、子宮回帰願望が満たされるわけがない。

Date: 5月 10th, 2019
Cate: 218, MERIDIAN

メリディアン 218を聴いた(その11)

3月6日のaudio wednesdayで、
マッキントッシュのMCD350で、ケイト・ブッシュの“THE DREAMING”を聴いた。

4月3日のaudio wednesdayでは、メリディアンのULTRA DACで“THE DREAMING”を聴いた。

そして今回(5月1日)のaudio wednesdayで、メリディアンの218で“THE DREAMING”を聴いた。

2108年リマスター盤を三回続けて聴いている。

私にとって圧倒的だったのは、いうまでもないけれど、
ULTRA DACでの“THE DREAMING”の音だった。

次はMCD350での“THE DREAMING”だった。
そして僅差で218での“THE DREAMING”と、あえて順位をつければこうなる。

218での“THE DREAMING”は、MCD350と218を接続するケーブル、
今回は比較的柔らかい(音ではなく実際に手で触れた感触)のケーブルだった。
ここのケーブルを傾向の違うモノにすれば──、ということは次の機会に試してみたい。

私が10代のころ、
ケイト・ブッシュが好きな男は子宮回帰願望の強いやつだ、みたいなことがいわれていた。

誰が言い始めたことなのか、
ほんとうなのかどうかも、どうでもいいことなのだが、
ULTRA DACでの“THE DREAMING”を聴いていて、このことを久しぶりに思い出していた。

たしかにそうかもしれないなぁ、と、
ULTRA DACでの“THE DREAMING”にどっぷり浸かって聴いていると、
否定できない気持になってくる。

といっても、一般にイメージされている子宮とは、まったく違う子宮であり、
それはあくまでも私の勝手な想像によるケイト・ブッシュの“THE DREAMING”的子宮である。

こういう鳴らし方が、“THE DREAMING”の正しい鳴らし方なのかどうかはなんともいえないが、
私にとって“THE DREAMING”は「青春の一枚」であって、
青春の一枚とは、そういうことを含めてのことでもある。

Date: 5月 6th, 2019
Cate: 218, MERIDIAN

メリディアン 218を聴いた(その10)

この項に興味を持って読んでいる方たちがもっとも知りたいのは、
ULTRA DACと較べてどうなのか、だろう。

今回はULTRA DACとの比較試聴ではない。
これから先も、そういうことをやろうとは考えていない。

それでも、これまで三回、
喫茶茶会記でのaudio wednesdayでULTRA DACを聴いている(鳴らしている)。
その記憶を元に語るならば、やはり違う、となる。

そのくらいにULTRA DACと218は違う。
MQA-CDの再生、通常のCDの再生、どちらも違う。

2,500,000円と125,000円という価格の違いを考慮すれば、
違いは小さいともいえる。

それでもいちばん違うと私が感じたのは、
そこで鳴っている空気の量である。

同じ音量で鳴らしているわけだが、
ULTRA DACで鳴らしている時の、空気の量はやはり多い。

多いといっても、喫茶茶会記の空間が拡がるわけでもないし、
空気が物理的に増えるわけではないのだが、
スピーカーが動かす空気の量が違うとしかいいようがない違いが、はっきりとある。

つまり、それはどういうことかといえば、空気の密度感が違う、ということなのかもしれない。
と同時に音の量感とは、そういうことなのか、と合点がいった今回の試聴でもある。

誤解しないでほしいのは、218で鳴らしたときの空気の密度感が低い、というわけではない。
ULTRA DACで鳴らす空気の密度感が高い(濃い)のである。

Date: 5月 6th, 2019
Cate: 218, MERIDIAN

メリディアン 218を聴いた(その9)

218は125,000円だから消費税8%ならば、135,000円になる。
これだけの予算があったとしよう。
オーディオに、これだけの予算がかけられる、としたら、どうするか。

何を買うのか。
人によって答は違う。
一人として同じシステムで聴いているわけではないし、
仮に同じシステムで聴いている人が何人かいたとして、
皆が同じだとは考えられない。

人によって価値観、考え方は違う。
それによって、135,000円という予算が、ポンと与えられたらどうするかも違ってくる。

CDプレーヤーにMCD350クラスのモノを使っている、としよう。
135,000円でラインケーブルを買う、という人もいよう。
長さによるが、10万円を超えるケーブルであれば、
上をみればキリがないとはいえ、かなりのケーブルが手に入る。

電源コードという人もいるだろうし、
その他のアクセサリー類という人もいよう。

どれが正解というわけではない。
私なら、MQA-CDを聴きたい、と考えるから、218を選ぶ。

MQAの音は、長いことアナログディスク再生にこだわってきた人ならば、
絶対になんらかの良さを見出せる、はず。
そう断言できる。

だからMQA-CDの音を聴く度に、
私は菅野先生のことをおもう。

音触という表現をつくられた菅野先生は、
MQA-CDの音をどう表現されるだろうか。

そのことを、こうやって書きながらもおもってしまう。

Date: 5月 6th, 2019
Cate: 218, MERIDIAN

メリディアン 218を聴いた(その8)

その1)で書いているように、
マッキントッシュのMCD350とメリディアンの218は、
ジャンルの違う機器とはいえ、同価格帯の製品とはならない。

私は、安易なCDプレーヤーのセパレート化には、否定的である。
なんでもかんでもセパレートにしてしまえば、音が良くなるわけではない。

今回は、MCD350と218は同じコンセントから電源をとっている。
つまりMCD350単体で音を聴いている時であっても、
218は電源を入れていて、なんらかの影響をMCD350に与えているとみるべきで、
その意味では、
MCD350単体の音、MCD350+218の音を厳密に比較試聴しているとはいえないところがある。

MCD350単体で聴いた方がいいんじゃないか、と、
これまでの聴いてきた記憶と照らし合せ、そう思うところもある。

とはいえ、あれこれやったあとの218で、もう一度かけたブリテンのモーツァルトは、
もう鈍くはなかった。

このへんになると、どちらがいいというよりも、
かけるディスクに応じて、どちらから出力をとるのかを選択すればいいと思う。

つまりカートリッジをかえるように、
D/Aコンバーター部をかえて聴けばいい。

そしてMCD350に218を追加することで、MQA-CDの再生が可能になる。
このことのメリットは、はっきりと大きかった。

これまで書いてきているように、私はMQA-CDの音は、ULTRA DACでしか聴いてこなかった。
MQA-CDに感じた良さは、218でも感じられるのか、
感じられるとして、どこまでのレベルなのか。

期待もあり、不安もあった。
最初にかけたMQA-CDは、グラシェラ・スサーナである。

前奏が鳴ってきた瞬間に、MQA-CDだな、と思ったし、
スサーナの歌が始まると、やっぱりMQA-CDはいい、
それも人の声がほんとうにいい、と改めて認識していた。

よくいわれるように、空気が変る──、
まさにそういう感じになる。
つまり聴き惚れる。

Date: 5月 5th, 2019
Cate: 218, MERIDIAN

メリディアン 218を聴いた(その7)

218の天板に重しを載せるかのせないか。
載せるにしても、どんな材質で、どのくらいの重さのモノにするかによっても、
音は、当然だが変ってくる。

今回は、とりあえず喫茶茶会記にあった重しになりそうなものを使ったまでのことで、
今回の重しが最適とは思っていない。

重しは、結局最後まで載せたままで聴いている。
けれど、かけるディスクによっては載せない方がいいときだってあるし、
置き台と脚との関係性でも、そのへんは違ってくるから、
こうしたほうがいい、という絶対的なことにはならないし、
そんなことは書けないものである。

実際、重しの最後のほうで少し変えてみた。
そこでかけたディスクには、位置を変えたほうがよかった。

218を接いで、脚を何もつけずに鳴らした状態の音からすると、
最後の方で鳴っていた音は、どちらも218の音ではあっても、
違うといえば、違う音になっている。

これらのことをやっていくことで音は必ず変化する。
その変化量とどの方向への変化なのかを聴きながら、
それでも変化しないところも必ずある。

音を聴くということは、音を探っていくということでもあり、
音を探っていくということは、今回やったこともその一例である。

今回は重しを載せたけれど、
個人的に218を聴くのであれば、私は載せない。
載せずに、脚の位置をもうちょっとだけ細かく詰めていく。

音が好ましい方向に変化していくとしても、
天板に重しというのは、好まない。

それでも今回やったのは、音を探っていくためである。

Date: 5月 5th, 2019
Cate: 218, MERIDIAN

メリディアン 218を聴いた(その6)

メリディアンの218には、脚、電源コード、重しの他にも、もうひとつやっている。
そのもうひとつでの音の変化が、私が予想していた以上に大きかった。

変化量が大きく表れた理由の一つには、
重しを載せていたことも関係してのことだろうと考えた。

だとすれば、と次に考えたのは脚の取り付け位置である。
そう考えたのは、ステレオサウンドにいたころ、
井上先生の試聴で、
スピーカーシステムの下にダイヤトーンのDK5000を使ってチューニングをやってきたからである。

DK5000はカナダ産のカエデを使った、一辺約10cmの角材である。
DS5000用として発売されたが、ステレオサウンドの試聴室ではJBLの4344に常時使っていた。

DK5000による四点支持、三点支持だけでなく、
それぞれのDK5000をどの程度スピーカーシステムの底板に接触させるか、
それによる音の変化、そしてスピーカーシステムの天板の状況との関係性、
それらの経験があったからこそ、218でもまったく同じに捉えたわけだ。

スピーカーシステムのエンクロージュアも、
アンプやD/Aコンバーターのシャーシー、どちらも箱である、六面体である。
六つの面は完全に独立しているわけではない。

天板の振動を抑えようとすると、対面の底板の振動が増える。
振動というエネルギーをどこかでロスさせないかぎり、
片方の面をしっかりとした造りにすれば、どこか弱い面にしわ寄せがいく。

218の天板に重しを載せても、それで天板の制振ができるわけではない。
だから脚の取り付け位置を、脚の直径分内側に寄せた。

たったこれだけでも音は変化する。
その変化の仕方は、スピーカーシステムにおけるDK5000のそれとほぼ同じ傾向を示す。

Date: 5月 4th, 2019
Cate: 218, MERIDIAN

メリディアン 218を聴いた(その5)

メリディアンの218につけた脚は、
別項「聴感上のS/N比と聴感上のfレンジ(アンプの脚)」で、
マッキントッシュのMA7900、MCD350につけたモノと基本的に同じである。

違うのは大きさだけで、もっとも大きく重量のあるMA7900には大きめのモノを、
MCD350にはそのしたのサイズ、218にはさらにしたのサイズにした。

この脚を、最初はゴム脚を貼り付ける位置に取り付けた。
問題なく取り外しができるように、それ用の両面テープを使った。

ここでの変化も小さからぬものだった。

218の重量は先に書いたように500gである。
この軽さからわかるようにシャーシーに、厚い金属板を使っているわけではない。
とはいえサイズも小さいゆえ、シャーシーの強度が不足している感じはない。

でもオーディオマニアの性(さが)として、
天板の上に重しを置いてみたくなる。

喫茶茶会記には、タオック製の金属の円柱状のモノがある。
218よりも手にとると重い。
とりあえず、これを218の上に、布を介して置く。

こんなふうに約二時間、218で音を聴いていた。
21時ごろに、別項「Hallelujah」で紹介したジェフ・バックリィによる“Hallelujah”をかける。

いい感じで鳴っていた。
最後まで聴き終って、
「今日は、これ(ジェフ・バックリィによる“Hallelujah”)で終りにしてもいい感じですね」
という声があった。

私も同感だった。
締めの一曲がうまく鳴ってくれれば、気持ちよく終れる。
ジェフ・バックリィによる“Hallelujah”は、そのくらいうまく鳴ってくれた。

Date: 5月 2nd, 2019
Cate: 218, MERIDIAN

メリディアン 218を聴いた(その4)

第100回audio wednesdayのお知らせ(メリディアン 218を聴く)」で書いているように、
ブリテンのモーツァルトの交響曲第25番のディスクから始めた。

ステレオサウンドから出ているSACDとCDを、マッキントッシュのMCD350で聴く。
それからデッカ盤“BRITTEN THE PERFORMER”からの一枚で、同じモーツァルトを聴く。

そしてMCD350とメリディアンの218を接続して聴く。
218は電源は一時間ほどいれてあったが、信号は通していなかった。
なので動的なウォーミングアップは鳴らしながら、ということになる。

それでもMCD350単体の音とは、ずいぶん傾向が違う。
この段階で、どちらの音がいいとか悪いとか判断するのは早すぎるし、
今回の試聴は、どちらがいいとか悪いとか、そういうことを決めるためのものではない。

それでも、どちらが好きかというのは、もちろんあり、だ。
常連のHさんは、218を通した、それもデッカ盤の弦の音が好きだ、といわれる。

どの音が好きかは人によって違ってこようが、
私には、どの音もブリテンのモーツァルトにしては鈍いし重い、と感じられた。

なので動的ウォーミングアップが終るのも待ちながらも、
218の置き方を変えてみることにした。

最初はゴム脚をつけずにそのまま置いていた。
ゴム脚が箱に入っているのに気づいたのは、終了してからだった。
なのでどうしたかというと、これも事前に用意していたモノを使った。

ゴム脚がついていないことは知っていた。
ゴム脚のかわりになるモノは、世の中にけっこうある。
見かけが立派なモノ、かなり高価なモノなど、いろいろあるけれど、
大仰な脚は、218にはそぐわない。

たとえば小型で、比較的安価なスピーカーに、
非常に高価で立派なスタンドを組み合わせて、
スピーカーケーブルも同じく高価なモノに交換して、
とても良くなった、と自慢気に語る人がオーディオマニアには少なからずいる。

そういう楽しさはわかっている。
けれど、ここ(audio wednesday)ではやろうとはまったく思っていない。
来てくれた人の参考にならないからだ。

あくまでもバランスのとれた範囲で、
同じことをやろうとした人が再現できる範囲のことに限っている。

Date: 5月 2nd, 2019
Cate: 218, MERIDIAN

メリディアン 218を聴いた(その3)

少し前にtwitterに、メリディアンの218の電源のコネクターは特殊だから、
付属の電源コードを使うしかなくて、
電源コードをあれこれ迷わずに済むから気に入っている、みたいなことが書いてあるのを見かけた。

メガネプラグは、秋葉原に行けば買えるし、インターネットの通信販売でも買える。
では3Pのメガネプラグはどうかというと、プラグ単体は見付けられなかった。

けれど「メガネプラグ 3p」で検索すれば、
メガネプラグの3Pと2Pの変換アダプターはすぐに見つかった。
ヨドバシに売っている。

こんな小さなモノをたった一つだけ送ってもらうのもなんだかなぁ、と思い、
電車の中でスマートフォンから店頭受取で注文した。
30分後には容易できます、という返事。

電車に乗っていたのが10分、
吉祥寺で途中下車して少し時間を潰していたら、
ほぼ30分後に商品を取り置きしている、というメールが来た。
便利な世の中である。

今回はこの変換アダプターを使って、電源コードを自作のモノに途中で交換している。
この電源コードは3月のaudio wednesdayで作っていったモノと同じケーブルを使っている。
プラグと長さが違うだけである。

電源コードの交換による音の違いは、来ている方みなが確認している。
ハイレス・ミュージックの鈴木さんも確認されている。
なので最後まで、自作の電源コードで聴いている。

この電源コードによる音の変化もそうだが、
置き方(218にはゴム脚が最初はついていない)などによる音の変化が、
はっきりと出ることからいえるのは、素姓のいい製品であるということだ。

素姓のあまりよくない製品、
それから厚化粧を施したかのような音づくりの製品の場合、
こういったことに対する音の変化が、どこか鈍かったりする。

218にはそういうところがなかった。

Date: 5月 2nd, 2019
Cate: 218, MERIDIAN

メリディアン 218を聴いた(その2)

メリディアンの218の詳細は、輸入元ハイレス・ミュージックのページを参照していただきたい。
そこには、“Zone controller – Digital Pre Amplifier”とある。
D/A converterではない。

218が、いわゆるD/Aコンバーターとして開発されたわけではないことは、
リアパネルをみればはっきりする。

アナログ入力があるし、デジタル出力も備えている。
LANケーブルによるデジタル入力はある、
Meridian SpeakerLink(入出力)もあるが、
現在のD/Aコンバーターに標準装備といえるUSB入力はない。

フロントパネルはインジケーターが六つあるだけで、
電源を含めて、スイッチは一つもない。

コンシューマー用機器として開発されたわけではない。
218の底板には、ネジ穴が四つある。
これはラックマウントするためのもので、脚と呼べるものはない。
付属品として薄いゴム脚がついている。

電源コードは着脱式だが、一般的なコネクターではなく、
俗称メガネプラグ、それも一般的な2Pではなく3P型である。
これはミッキーマウスと呼ばれている。

このタイプのプラグを採用したのは、リアパネルのスペースが限られているためであろう。
218のリアパネルは入出力端子などが隙間なく配置されている。

オーディオマニアの感覚では、アナログ入力端子をつけるくらいなら、
USB端子をつけてくれ、と思ってしまうが、
218は、2018年に登場していながらそうでないことは、
くり返しになるが、コンシューマー用のD/Aコンバーターとして開発されたモデルではないからだ。

とはいえ、今回のaudio wednesdayでは、Zone Controllerとしての218ではなく、
D/Aコンバーターとしての218として聴いている。
それでも19時から聴き始めて、23時までの四時間は楽しかった。

Zone Controllerとしての218については、
別の機会にじっくり聴いてみたい。

Date: 5月 2nd, 2019
Cate: 218, MERIDIAN

メリディアン 218を聴いた(その1)

昨晩(令和元年初日)のaudio wednesdayで、メリディアンの218を聴いた。
昨秋に発表になった218は、125,000円と、
ULTRA DACの2,500,000円からすればかなり安価なモデルである。

価格的には2,500,000円と125,000円で、二十分の一、
重量は16kと500gで、三十二分の一である。

500gという重さは、長岡鉄男氏ならば、どう評価されるだろうか──、
そんな余計なことを想像してしまうほど、軽く、小さいのが218である。

喫茶茶会記では、マッキントッシュのMCD350を常時使っている。
MCD350は、600,000円(価格はいずれも税抜き)のプレーヤーである。

一体型のCDプレーヤーのD/Aコンバーター部が、価格においてどれだけ占めているのか。
乱暴で単純な考えとして、トランスポートとD/Aコンバーターで二分しているとすれば、
MCD350のD/Aコンバーター部は300,000円といえる。

300,000円のMCD350のD/Aコンバーター部と、
125,000円のD/Aコンバーターであるメリディアンの218。
ここでも218は三分の一である。

MCD350に218を接するということに、
疑問をもつ人がいても、だから不思議ではない。

ULTRA DACを聴いて、ベタボレしている私であっても、そう思ってしまう。
価格だけで製品のグレードが決ってしまうわけではないというものの、
やはり占める割合は大きい。

結果はどうだったのか。
昨晩のことについて書き始めると長くなりそうだから、
ここで結果だけを書いておく。

昨晩のaudio wednesdayは楽しかった。
つまりMCD350に218を追加することは、価値がある、という私の判断だし、
218が加わることで、MQA再生という機能が加わることになる。

Date: 4月 7th, 2019
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACと青春の一枚(その6)

(その5)に、facebookで二人の方からコメントがあった。

「DEBUT AGAIN」での大滝詠一の歌(声)を聴いて、
私はlongでの音が、大滝詠一の声に近いと感じたように、
コメントをくだっさた方は、shortでの声に、
これが大滝詠一の声じゃないか、と感じ、懐しくてグッと来た、とあった。

懐しく、とあるように、ずっと大滝詠一の歌を聴き続けてきた人と、
ほとんどといっていいほど聴いてこなかった私とでは、違ってきて当然であろう。

そこで鳴っている音楽に対しての心象風景が、一人ひとりみな違う。
同じところがあったとしても、こまかなところでは一人ひとりみな違う。
根本的なところで、大きな違いがあることだってままある。

そういう人たちが何人か集まって、毎月第一水曜日に音(音楽)を聴いている。
音楽は独りで聴くものだ、と思っている私でも、
月一回、こうやって聴くのは、毎回楽しみにしている。

今回はULTRA DACを聴くのに夢中で、
audio wednesdayの途中で、来られた方たちと話すことはあまりなかった。
19時から23時半ごろまでの四時間以上聴いていても、そうである。

だからこそ、facebookでのコメントがあると、
そのへんのことが少しは知ることができて、興味深い。

shortでの音にグッと来た人も、longでの音が、
作品としてはしっくりときた、と書かれてもいた。

そうだろう、と思う。
人には、その音楽の聴き手としての歴史がある。
その歴史が、グッと来た人と私とではかなり違う。

これまで大滝詠一のアルバムは何枚か聴いている。
けれど、どれも誰かのリスニングルームにおいて、である私は、
「DEBUT AGAIN」が初めて買った大滝詠一のアルバムである。

大滝詠一の音楽に対して、聴き手のとしての歴史が浅すぎる私には、
懐しくてグッと来た、という感情はもとよりない。