Archive for category 試聴/試聴曲/試聴ディスク

Date: 1月 6th, 2018
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

音の聴き方(マンガの読み方・その6)

周辺視野、中心視野、という。
ならば音の聴き方は、周辺聴野、中心聴野か。

マンガの読み方がわからないという人は、
おそらく周辺視野でページ全体を捉えることをしていない(できない)からであろう。

中心視野、つまり部分部分を凝視するような読み方をしていては、
マンガの特性がもつおもしろさ(もっといえば醍醐味)は感じとりにくい。

音の聴き方も、マンガの読み方と基本的には同じだ。
周辺聴野と中心聴野が求められるにも関らず、
比較するということが多いオーディオの世界では、
中心聴野といえる聴き方にとらわれがちになってしまう。

このディスクの、この部分。
そこがどう鳴ってくれるのか。
そして、スピーカーやアンプを交換したとき、
もっとこまかなことではケーブルを交換したとき、
さらにはスピーカーの振りや位置を、ほんのわずかを変えたとき、
それぞれの音の違いを聴き分けようとすると、
中心聴野的聴き方になってしまう。

音は止ってくれない。
つねに変化している。

変化しているものをとらえようとする時、
人はどうしても中心視野、中心聴野となってしまう。

マンガは幸いなことに静止しているからこそ、
周辺視野と中心視野の切り替え、というか、使い分け、
もっといえば両立を、なんとなくマンガを読んできたことで身につけていたのかもしれない。

このことをオーディオマニアとなって、気づいたわけだ。

Date: 12月 19th, 2017
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

誰かに聴かせたい、誰かと聴きたいディスク(その2)

インターナショナルオーディオショウでは、
ふだん聴く機会のあまりないスピーカーやアンプ、それにシステムを聴ける。

そこのブースで、スタッフが鳴らしているディスクを聴くだけよりも、
愛聴盤を持参して、そのディスクで聴いた方が、音の性格はつかみやすい。

聴かせてもらったアンプやスピーカーは高価すぎて購入対象ではなくとも、
愛聴盤が、それだけのシステムであればどれだけの音で鳴ってくれるのか、
という好奇心は、オーディオマニアならば誰もが持っていよう。

だからいちばん聴きたいディスクを持っていく。
けれど、それぞれのブースは貸し切りにできるわけではない。

誰かが必ずいる。
赤の他人の誰かがいるわけだ。

愛聴盤をかけてくれたとして、見知らぬ誰かといっしょに聴く、
もしくは見知らぬ誰かに愛聴盤を聴かせる、ということである。

赤の他人だから、その人たちがどういう音楽を好み、
どういう音楽を聴かないのか──、そんなことはわかりようがない。

わかりようがないから、自分の聴きたいディスクを持っていきかけてもらう──、
ということになるのか。

それでも一定の配慮は必要となる、と私は思う。
愛聴盤の中でも、周りでいっしょに聴いている(聴かされている)人たちが、
少なくともなんらかの関心をもってくれそうなディスクを選択すべき、と思う。

その1)で書いている、
ディスクを持参した人は、あまりにもひとりよがりすぎたのではないだろうか。

そのディスクが、その人にとって愛聴盤であって、
もっともよく音の性格をつかみやすいディスクであったとしても、だ。

Date: 12月 8th, 2017
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

誰かに聴かせたい、誰かと聴きたいディスク(その1)

12月のaudio wednesdayのテーマは、
「誰かに聴かせたい、誰かと聴きたいディスク」だった。

誰かに聴かせたい、誰かと聴きたいディスクというけれど、
その前に自分で聴きたいディスクである。

自分で聴きたくないディスクを、
誰かに聴かせたい、誰かと聴きたいとは、まず思わない。

けれど自分で聴きたいディスクは、
誰かといっしょに聴くことに向いているディスクとは必ずしもいえない。

そういえるディスクとそういえないディスクとがある。

今年のインターナショナルオーディオショウでの、あるブースでのことだった。
そこでは高価なオーディオ機器が鳴っていた。

私がそのブースに入ったとき、それまで鳴らされていたディスクがちょうど終ったところだった。
来場者の一人がスタッフに「このディスクを聴かせてほしい」とCDを手渡していた。

スタッフの人も気軽に応じていた。
「音量は?」とスタッフの問いに、「かなり大きめで」との会話が聞こえてきた。

どんな音楽なのかは、音が鳴るまでわからない。
音が鳴ってきた。

なんともいいようのない音楽と音だった。
演奏はプロのミュージシャンとは思えない、
それに録音もプロの仕事とは思えない。

アマチュアのバンドをアマチュアの録音マニアが録ったディスクなのか……、
と思った私は、ディスクを持参した人の顔を見た。
満足そうに聴いているように見えた。

私は、これを最後まで聴くのはタマラン、ということで、すぐに席を立ってブースを出た。
私が立ったのと同じようなタイミングで数人の人が立ち上って出口に向っていた。

この人たちが、私と同じように感じて席を立ったのかはわからない。

Date: 9月 24th, 2017
Cate: 107, KEF, 試聴/試聴曲/試聴ディスク

KEFがやって来た(番外・table B)

KEFのModel 107のtable Bであげられているディスクは、
クラシックに関しては作曲家と作品名、それとレーベルとディスク番号のみ。
少し不親切に思えるだろうが、
Model 107の発売された1986年当時であれば、
それだけでどのディスクか、クラシックを聴いていた人ならばすぐにわかるし、
いまはインターネットがあるから、レーベルとディスク番号を入力して検索すれば、
どのディスクで、誰の演奏なのかは、すぐにわかる。

サン・サーンス:ピアノ協奏曲第二番/ラフマニノフ:パガニーニの主題による狂詩曲
ダヴィドヴィチ、ヤルヴィ/アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
(Philips 410 052)

ブラームス:ピアノ協奏曲第二番
アシュケナージ、ハイティンク/ウィーンフィルハーモニー
(Decca 410 199)

ドビュッシー:前奏曲集
ルヴィエ
(Denon 38C37)

ファリャ:三角帽子
デュトワ/モントリオール交響楽団
(Decca 410 008)

ラフマニノフ:交響的舞曲
アシュケナージ/コンセルトヘボウ管弦楽団
(DECCA 410 124)

カントルーブ:オーヴェルニュの歌
キリ・テ・カナワ
(Decca 410 004)

Mister Heartbreak
ローリー・アンダーソン
(Warner 925 077)

Four
ピーター・ガブリエル
(Charisma 800 091)

Superior sound of Elton John
エルトン・ジョン
(DJM 810 062)

Rickie Lee Jones
リッキー・リー・ジョーンズ
(Warner 256 628)

Body and Soul
ジョー・ジャクソン
(CBS 6500)

The Flat Earth
トーマス・ドルビー
(EMI 85930)

ブラインドフォールドテストとオーディオ評論

別項「ステレオサウンドについて(その38)」で、
ステレオサウンド 48号について、私の中で決着のついていない号、だと書いた。

最近、ようやく決着がついた。
別項「ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(製品か商品か、を書き進める前に)」を書いて、
気づいたことがあるからだ。

ブラインドフォールドテストは、どんなに厳密に行っても、
大がかりであっても、それだけではオーディオ評論にならないからである。

これも以前に書いているが、
私はステレオサウンドはオーディオ評論の本と認識している。
このへんは人によって違ってくるところで、私と同じ人もいれば、
いわゆるお買い物ガイドとして認識している人もいる。

ステレオサウンドをどう捉えるかによって、
ブラインドフォールドテストの記事に、どんな感想を抱くかは変ってくる。

ブラインドフォールドテストは、いうまでもなく、
ただ音を聴いているだけであり、
製品批評とも、実のところいえない段階の試聴テストである。

どれがいい音なのか、ただそれだけを知りたいという人にとっては、
ブラインドフォールドテストこそが、唯一の試聴テストで信頼できるということになっても、
私にとっては、まったく違う。

ブラインドフォールドテストは試聴を行う側のオーディオの力量が、徹底して問われる。
つまりステレオサウンドにおいては、ステレオサウンド編集部の力量が問われるわけで、
試聴者の力量と同等か、それ以上でなければ、厳密な意味でのブラインドフォールドテストは成立しない。
このことに関しては、別項にてもう少し詳しく書く予定でいる。

つまり音質評価としても、場合によってはまったく信用できない結果になってしまう。
ブランドフォールドテストを否定はしない。
正しく、厳密にやれればであるが、これが難しく、
その難しさを理解していない人のほうが、
ブランドフォールドテストこそが……、といっているのが実情といえよう。

しかもくり返すが、ブラインドフォールドテストだけでは、オーディオ評論にはならない。
一工夫も二工夫もしなければ、誌面のうえにオーディオ評論として展開・提示することはできない。
ここでも、編集部の力量が、通常の試聴テスト以上に問われるし求められる。

Date: 12月 8th, 2016
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

音の聴き方(松田聖子の声)

Noise Control/Noise Designという手法(audio sharing例会でのこと)」と関係することなのだが、
松田聖子の声が、わずかなことでよく変化する。

聴いていて、どれが松田聖子の声なのだろうか、と思っていた。
いまの松田聖子の声ではなく、以前の松田聖子の声についてである。

松田聖子の熱心な聴き手でない私は、LPもCDも一枚ももっていない。
つまり自分のシステムで松田聖子の歌(声)を聴いたことがない。

最初に聴いた、そして馴染みがあるといえるのは、
実家のテレビから流れてきた松田聖子の声である。
その音で、なんとなく松田聖子の声はこんなものだろう、という、
すこし高を括ったところがなかったわけではない。

audio sharing例会の常連、Kさんは松田聖子のCDを持参されることが多い。
それで聴く機会が増えた。

昨晩のaudio sharing例会でも松田聖子を聴いた。
ノイズコントロールの手法としていくつか試してみると、よく変る。
テレビで聴いてのイメージに近い声もあれば、これも松田聖子の声なのか、と感じる声もあった。

Kさんのなかには、確固たる松田聖子のイメージがあるのだろう。
あの声がいちばんいい、といわれる。
私は、というと、その声よりも、Kさんがあまりよいと感じていない音の方が、
もしかすると松田聖子の声に近いのかもしれない──、
そんなことを考えていた。

Kさんと私の、松田聖子の声(歌)に関する聴き方の違いは、
どちらの耳がいい悪いといったことではなく、
Kさんは松田聖子の歌(声)を好きであって、私にはそういう感情がまったくない、
というところにある、と考えていた。

昨晩鳴った音で、Kさんがいいと感じた音は、いわばKさんにとって「好い音」だったはずだ。
松田聖子に思い入れのない私は「好い音」ではなく、
「良い音」「善い音」「佳い音」のどれかををさがしていたことの違いが、
出てきた音に対しての評価の違いにつながっていた、と私は思っている。

音の聴き方は決してひとつではない。
聴感上のS/N比が……、音場感が……、音の透明度が……などなど、
そういった音の聴き方にとらわれてしまうより、
松田聖子の歌(声)であるならば、
松田聖子の歌(声)に惹かれる、魅了される、
もっといえば恋するといった聴き方をしたほうがしあわせではないだろうか。

Date: 7月 4th, 2016
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

音の聴き方(マンガの読み方・その5)

その3)に書いているように、
マンガは二ページ、もしくは一ページ全体をまず見ることから、読むことは始まるといえる。

マンガの読み方に長けている人にとって、
本(紙だけでなく電子書籍も含めて)のサイズは大きい方が、
細部もはっきりと読めていいといえるが、
読み慣れていない人、不得手な人にとっては、
長けている人にとって適しているサイズは大きすぎるということになりかねない。

ひと目でパッと見渡せるサイズとして、もっと小さなサイズが適しているからだ。
これは電子書籍になり、そのためのハードウェアの種類があり、
サイズも複数用意されている時代だからこそ、
捉えようによってはマンガにとって、いい時代を迎えている、ともいえる。

まず全体を把握すること。
そのために自分に適したサイズを選び、慣れてくれば大きなサイズへと移行していく。
同時にコマ割りの把握、コマを追っていく順序、
絵とセリフ、それから効果音・擬音などの把握を徐々にこなせるようになっていくものだと思う。

一コマ目から凝視していくような読み方では、マンガは楽しめないのではないだろうか。

音の聴き方も、実はそうである。
そしてマンガの電子書籍のサイズにあたるものは、音の場合は何になるのか。
それを把握して、自分に適したサイズの「音」から始めていくのは、
音の聴き方を訓練していく上で重要なことだと思っている。

ただ凝視するような聴き方だけをしていては、
見えてこない(聴こえてこない)領域(世界)がある。

オーディオは比較することが多い。
そのため細部を凝視する聴き方を、人はまず身につけてしまうことが多い。
でも、そこから一旦離れた聴き方をしなければならない。

Date: 7月 4th, 2016
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

音の聴き方(マンガの読み方・その4)

電車に乗っていると、スマートフォンでマンガを読んでいる人が増えていることに気づく。
20年くらい前だろうか、マンガが文庫本でけっこうなタイトル数が出ていた時期がある。

文庫本だから、本のサイズは、いわゆるマンガの単行本よりも小さくなる。
単行本は、そのマンガが最初に掲載された週刊誌、月刊誌よりも小さい。
スマートフォンは文庫本よりも、さらに小さいわけだから、
掲載誌のサイズからすれば、ずいぶんと小さくなったものだ、となる。

しかも紙の本は開いて読むから、見開き(二ページ)表示だが、
スマートフォンでは一ページ表示が基本となる(見開き表示も可能だが)。
そう考えれば、かなり小さい。

そういう環境で、自分の描いたマンガを読んでほしくないというマンガ家はいる。
わからないわけではないが、だからといって電子書籍化されたマンガを、
ここにあてはめてしまい、マンガは紙の本で、という意見はどうかと思う。

スマートフォンは確かに小さいがズームは可能だし、ズームして読むのは邪道ならば、
もっと大きなタブレットもあるし、パソコンの、もっとサイズの大きなディスプレイで読むことができ、
そうなれば電子書籍のマンガも見開き表示が基本となる。

こんなことを書いているのは、電子書籍化は、マンガのひとつの理想かもしれないからだ。
紙の本は、必ず湾曲している。
マンガが印刷されている紙がフラットであることはまずない。
手に取って読んでも、本の上に置いていても湾曲している。
文庫本も単行本も掲載誌も、である。

マンガ家が描いている紙はフラットである。
マンガが電子書籍になって、初めて読み手側もフラットで接することができるようになった。
このメリットは、マンガにとって大きいと思うし、
電子書籍化にあたって、小説とマンガとの違いにもなってくる。

そして電子書籍化されたことで、読み手側がサイズを選択できるようになった。
これまでは出版社側が提供するサイズしかなかったのが、
ハードウェアさえ揃えれば、自分に適したサイズを選択できる。

このことは、特にマンガの読み方に慣れていない人にとって大きなメリットのはずだ。

Date: 12月 30th, 2015
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

総テストという試聴のこと(黒田恭一氏の文章より)

どうもオーディオマニアの中には、
試聴というものを簡単なこと、楽なことと捉えている人がいるように感じることがある。

ステレオサウンド 36号の特集は「スピーカーシステムのすべて」だ。
このころのステレオサウンドには試聴後記があった。
36号にも「スピーカーシステムの試聴を終えて」がある。

井上卓也、上杉佳郎、岡俊雄、黒田恭一、菅野沖彦、瀬川冬樹の六氏が試聴後記を書かれている。
36号には、この他に黒田先生の「約70──尋常ならざる数のスピーカーをきくということ」がある。
     *
 一週間の間、来る日も来る日も、他の仕事や勉強を全部ストップして、ほぼ70機種のスピーカーを、きいた。正直なところ、つかれた。一日の試聴が終った後は、タクシーにのって、行先をいうのがせいいっぱいだった。家にかえっても、口をきく気力さえないようなありさまだった。
 その試聴だけが原因ではないだろうが、最終日の試聴が終った後、ひどい悪寒がして、ついに医者のせわになるはめになり、しばらくねこんでしまった。しかしだからといってむろん、スピーカーの試聴をしたことを後悔しているわけではない。そんなに沢山のスピーカーを、それもさまざまな面で条件のそろった状態できけるチャンスなんて、ぼくにはほとんどないことだから、試聴の間はつかれも忘れて、むきになってきいた。
     *
36号は1975年のステレオサウンドだから、1938年生れの黒田先生は37歳。
働き盛りの年齢であっても、試聴はそれだけたいへんな作業である。

だから、試聴を安易に考えないでもらいたいし、
いまオーディオ評論家と呼ばれている人たち全員が、こういう聴き方をしているわけではない。

2015年ショウ雑感(その6)

こういう試聴方法で何が聴きとれるのか。
五味先生の「五味オーディオ教室」にも書いてある。
     *
 音の味わい方は、食道楽の人が言う〝味覚〟とたいへん似ているように、思う。
 佳い味つけというのは、お吸物(澄まし)の場合なら、ほとんどが具の味をだしに生かしてあり、一流の腕のいい板前ほど塩加減でしか味つけをしない。したがって、たいへん淡白な味だが、その淡白さの中に得も言えぬ滋味がある。でもこれを、辛くて粗雑な味の味噌汁を飲んだあとで口にすると、もう滋味は消え、何かとても水っぽい味加減に感じるものだ。
 腕のいい板前はだから、他の料理が何であるかも加味して、吸物の味をつけるという。淡白で、しかもたいへん上品な味加減のその素晴らしさは、粗悪な味のあとでは賞味できないものだから。
 人間の舌はそれほど曖昧——というより、他の味つけの影響をとどめやすいものなので、利き酒を咽喉に通さず、一口ふくんでは吐き出す理由もここにあろう。
 ヒアリング・テストも同じだ。よほど耳の熟練した人でも、AのスピーカーからBのスピーカーに変わった瞬間に聴き分けているのは、じつは音質の差(もしくは音クセ)なので、そのスピーカー・エンクロージァがもつ独自な音色の優秀性(また劣性)は、BからAにふたたび戻されたときには、もう聴き分け難いものとなるのがしばしばである。
     *
私がオーディオに興味を持ち始めた1976年の時点で、
すでに瞬時切り替え試聴の問題点は指摘されていた。

それでも……、と反論する人がいると思う。
いるからこそ、今回のオーディオ・ホームシアター展(音展)での、あのやり方が行われたのだろう。

Aの音とBの音の違いが聴きとれれば、何の問題もないじゃないか、という人がいるだろう。
だが、このやり方で聴きとれるのはAの音とBの音の違いではなく、あくまでも差である。

くり返すがA-Bの音という差、B-Aの音という差であり、
違いではなく差であるからこそ、A-Bの音とB-Aの音は、人間の感覚として同じになることはない。

味覚では、この話は通用するのだが、
なぜか聴覚となると、私の耳はそうではない、といいはる人がいて、通じない場合もある。

違いと差は決して同じではない。
そして試聴(特に比較試聴)では、
何が聴きたいのか、何を聴こうとしているのか、何を聴いているのか、
これらのことを曖昧にしたままでは、何を聴いているのかがわからなくなってしまう。

それできちんとしたデモ、プレゼンテーションができるわけがないし、
ましてスピーカーの開発は……、である。

2015年ショウ雑感(その5)

瀬川先生が「コンポーネントステレオのすすめ」の中で、
この瞬時切り替え試聴の注意点について書かれている。
     *
 たくさんのスピーカーが積み上げられ、スイッチで瞬時に切換比較できるようになっている。がそこには大別して三つの問題点がある。
 第一、スピーカーの能率がそれぞれ違う。アンプのボリュウムをそのままにして切換比較すると、能率の高いスピーカーは大きな音で鳴り、能率の低いスピーカーは小さな音になってしまう。馴れない人は、大きな音が即、良い音、のように錯覚しやすい。スピーカーを切換えるたびに、同じような音量に聴こえるよう、アンプのボリュウムを調整しなおすこと。
 第二、AからB、BからCと切換えて聴くと、その前に鳴っていた音が次の音を比較する尺度になってしまう。いままで鳴っていた音が、次の音を聴く耳を曇らせてしまう。この影響をできるだけ避けるため、A→B→Cと切換えたら、こんどはB→A→C、次はC→B→A、B→C→A……と順序を変えながら比較すること。もしも少し馴れてきたら、切換比較をやめて、あるレコードをAで聴いたらそこで一旦やめて、Bのスピーカーで同じ部分を改めて反復する。そして、音色の違いを比較しようとせずに、どちらがレコードをより楽しく、音楽の姿を生き生きとよみがえらせるか、という点に注意して聴く。
 第三、スピーカーの置かれてある場所によって、同じスピーカーでも鳴り方が変る。下段は概して低音が重くなり、音がこもり気味になる。冗談は低音が軽くなり、音のスケール感が失われがち。中段が大体いちばん無難、というように、本当に比較するなら、抜き出して同じ場所に置きかえなくてはわからないが、それが無理なら、一ヵ所に坐って聴かずに、鳴っている二つのスピーカーの中央に自分の頭を移動させる。めんどうくさがらずに、立ったりしゃがんだりして聴く。あるべくスピーカーのそばに近づいて聴いてみる。別の店で、同じスピーカーの置き場所が違うと音がどう変るか聴いてみるのも参考になる。
     *
今回のオーディオ・ホームシアター展(音展)での、
そのブースではふたつのスピーカーシステムの音量はほぼ同じに感じられるようになっていた。
なので、ここでは第一の問題点について取り上げる必要はない。

第三のスピーカーの置かれている場所による音の違い。
これは厳密には試聴のたびにスピーカーを移動して、という作業をする必要がある。
ステレオサウンドの試聴室ではそうやっていた。
だが、今回のケースはいわばオーディオショウという場であり、
限られた時間でのデモということを考慮すると、しかたないという面もある。
だから、この問題点についても、とやかくいわない。

問題としたいのは、第二のことである。
今回は比較対象となるスピーカーシステムは二組だから、AとBということになる。
10秒ごとのスピーカーの瞬時切り替えということは、
A、B、A、B……となるわけで、そこで聴いているのは
Aの音、Bの音というよりも、A-Bの音、B-Aの音である。

A-Bは、前に鳴ったAの音とBの音の差であり、
B-Aは、前に鳴ったBの音とAの音の差である。

AとBは交互に鳴っているわけだから、A-Bの音とB-Aの音は同じじゃないか、と考える人もいよう。
だが人間の感覚として、A-Bの音とB-Aの音は同じではない。

A-Bの音とB-Aの音が同じだと考えているから、
そのブースでは10秒ごとの瞬時切り替えを行っていたのではないのか。

2015年ショウ雑感(その4)

そのブースに入ると、正面のディスプレイに、どういうプログラムで試聴を行うかが表示してあった。
そこで鳴らされるソースは鑑賞曲と試聴曲とにわけられていて、交互にかけられていた。

鑑賞曲ではそのメーカーのスピーカーシステムだけで鳴らされる。
試聴曲で他社製のスピーカーシステムとの比較ができるというわけである。

このやり方は問題はない。
問題があるのは、試聴曲の鳴らし方だった。
10秒ごとに自社製と他社製のスピーカーシステムを切り替える。
曲を再生しながらである。

いわゆる瞬時切り替えによる試聴である。
それも切り替えて、曲の頭に戻るのではなく、
一曲を流したままでの瞬時切り替えを、このブースではやっていた。

この試聴は、ずっと昔、オーディオ販売店でみられたやり方だ。
多くの販売店にはスピーカーが壁一面に積み上げられていて、
アンプも棚に何台も収納されていた。

これらはすべて切り替えスイッチに接続されていて、
ボタンを押すだけで、希望するスピーカー、アンプに切り替えられる。
いまでもこのシステムを使っているところはある。

どんなモノでもそうだが、問題はどう使うかである。
ボタンひとつで切り替えできるからといって、
曲を流したままにして、ボタンを押してAB比較をやる。

これが昔々のやり方だった。
このやり方は、ずいぶんとまずいもので、
当時からこの比較試聴に対しては、心ある人たちが問題視していた。
そして、いつしかそういう比較試聴はなくなっていった。

なくなってずいぶん経つ。
それをやっているメーカーがある。

このことに驚いたわけである。
少なくとも彼らは、自社製と他社製のスピーカーの音の違い(優劣)を、
来場者にはっきりと示したい、と考え、
もっとも有効なやり方として、今回の方法をとったのだろう。

ということは、彼らはそのスピーカーシステムの開発においても、
同じ聴き方をしているということにもつながっていく。

2015年ショウ雑感(その3)

去年のオーディオ・ホームシアター展(音展)で驚いたのはNHKの8Kのデモだった。
今年もNHKは8Kをやっていた。
今年は8Kのロゴの下に”SUPER Hi-VISION”とあった。

8KがSUPER Hi-VISIONなら、次に登場するであろう16KまではSUPER Hi-VISIONのままで、
その次の32Kまでいくと”ULTRA Hi-VISION”となるのかなと思いながら、8Kのデモを観ていた。

去年の驚きがあるから、今年はそれほど驚いたわけではなく、じっくりとみていた。
やっぱり8Kはいいな、と思う。
来年には試験放送がはじまり、2020年までには本格的普及を目指すということだった。

その展開の速さに今年は驚いていた。

今年のオーディオ・ホームシアター展(音展)で驚いたのは、
どこかのメーカーの製品の音ではなく、あるブースの比較試聴のやり方だった。

そこではスピーカーのデモが行われていた。
そのメーカーのスピーカーの他に、
ほぼ同サイズの他社製のスピーカー(世評の高い者)を並べての比較試聴である。

こういうデモをやるということは、それだけ自信があるということであり、
そのこと自体はとやかくいうことではない。

ただ、その比較試聴のやり方に驚いてしまった。
いまどき、こんな比較試聴をやるのか、
だとしたら、このスピーカーの開発過程における試聴でも、
彼らはそういう試聴をやっているのではないか──、
そう思って驚いていた。

それは昔々の比較試聴のやり方だった。

Date: 7月 11th, 2015
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

ブラインドフォールドテスト(ステレオサウンド 50号より)

創刊50号記念の特集として、
ステレオサウンド 50号の巻頭には、
井上卓也、岡俊雄、菅野沖彦、瀬川冬樹、山中敬三の五氏による座談会が載っている。

ステレオサウンドでは10号ではじめてブラインドフォールドテストを行っている。
試聴室の三面の壁にブックシェルフ型スピーカーを50機種積み上げて、
スピーカーの前にはカーテン、さらにカーテンが透けてスピーカーが見えないように、
部屋は真っ暗にしてテスターのところだけに照明が当るようにしている。

しかもスピーカー配置は毎日変えられている。

このブラインドフォールドテストを、なぜステレオサウンドは行ったのか、
その理由について瀬川先生が語られている。
     *
瀬川 この第10号で、ブラインド・テストを行なったというのは、ぼくは原田編集長の叛骨精神のあらわれだと思っています。これはいまだからいってもいいと思うんだけど、「ステレオサウンド」が、さっき山中さんがいわれたように、国内製品と海外製品を同じ土俵で評価したことが、結果的にいうと、当時のオーディオ界全体の風潮から見ると、「ステレオサウンド」がやっていることが海外製品偏重に見えてしまったんですね。それが一つ。
 それからもう一つは、これもさっき話にでたように、製品の評価にフィーリングというか感性の面を大切にしたために、逆になにか先入観をもってテストにのぞんでいる雑誌だという、一般的な評価がたってしまったわけです。
 この二つのことに反発して、それならブラインド・テストをしてみよう、ということになったのでしょう。そして、その結果、いちおうの成果を収めたんですね。そこで「ステレオサウンド」は引きつづいて、第12号でカートリッジのブラインド・テストを行なうわけですが、以後はきっぱりとやめてしまったわけです。
     *
瀬川先生が二つ目の理由として挙げられていることは、当時の雑誌の評価の仕方が関係している。
このことについても、ステレオサウンド 50号から瀬川先生の発言を引用しておこう。
     *
瀬川 つまり、それ以前のレコード雑誌あるいは技術系の雑誌があつかったオーディオ欄での、そういった形の製品の取り上げ方というのは、主に技術畑のひとが聴いて、耳を測定器のようにはたらかせて、歪みがどうであるとか、低音・高音のバランスがどうであるとか、そういうことだけをチェックしていたのです。「ステレオサウンド」のテストリポートで、はじめて音楽がどう聴こえるかという問題が、そこに入りこんできたわけであり、同時に、製品がもつフィーリングまでも含めて評価するようになったんですね。
     *
これはステレオサウンド 3号のアンプの総テストのことが話題になったときの発言である。
3号は1967年に出ている。

Date: 7月 7th, 2015
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

ブラインドフォールドテスト(続・音の尺度)

音を聴くということは、音に反応するということでもある。
そこで鳴っている音に反応するからこそ、聴き手は尺度を、ほぼ無意識に切り替える。

音の尺度(聴き方の尺度)を切り替えない、
そういうものではないし、常に一定だ、という人は、
切り替わっていることに気づいていないのか、
もしほんとうに尺度がまったく切り替わっていないのであれば、
その人は音に反応していないのではないか。

反応しない、ということは、音、音楽を聴いているといえるのだろうか。
反応するからこそ、「耳」は経験を積める。
経験を積むことで、以前は聴き取れなかった音の違いを聴き取れるようになっていく。

長いことオーディオをやってきたから、その人の「耳」が経験を積んでいるとはいえない。