Date: 7月 18th, 2025
Cate: 世代
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世代とオーディオ(老害、独断と分断・その5)

文春オンラインで公開されている記事を読んだ。
「ルポ 誰が国語力を殺すのか」という記事で、
サブタイトルとして、
「死体を煮て溶かしている」『ごんぎつね』の読めない小学生たち…石井光太が明かす“いま学校で起こっている”国語力崩壊の惨状
と付いている。

読んでほしい。
一部の限られた学校もしくはクラスだけのことではないのがわかる。

オーディオ評論だけに絞ってみても、こういう世代の読者を相手にしていくことになるのか。
だとしたら、どんなオーディオ評論となっていくのか。
かたちを持たない、抽象的な音を言葉で表現し伝えていくことは、どうなっていくのだろうか。

1 Comment

  1. 7月 22nd, 2025
    REPLY))

  2.  児童による「ごんぎつね」の解釈についての一編を読みました。まことに重大なる問題を孕みし事象であると、深く感じ入った次第にございます。
     西暦一九七二年、ジャン・ボードリヤールは其の著『消費社会の神話と構造』において、「近代化の終焉を迎えしポストモダン世界においては、事象は記号化され、やがてはシミュラークルなる模擬的表象へと変容し、記号が記号を生み出すという循環構造が現出する」と論じ、かかるシミュレーション社会の到来を予見致しました。
     服飾の領域に目を転ずれば、市民革命の象徴たるサン・キュロットの衣より、1960年代のフラワームーヴメントに至るまでの衣装が記号化され、不断に再生産され、それが時代の流行として繰り返し顕現するという構造を、エリック・ホブズボウムは『創られた伝統』の中で指摘しております。
     斯くのごとき病理は、ポストモダン社会が根源的に抱える問題、すなわち徒に経済成長の神話を遅延せんとする欲望の副産物ではなかろうかと、拙考ながら思料致します。音響においてもまた、音楽においても例外ではなく、これらもまた記号としての意味を失い、記号のみが自律的に生存し、無意味化の相を呈しているのではありませんでしょうか。
     現代の製品が持つ意匠は、ブランドという記号に依存し、本質を喪失した再生産に過ぎず、人間の創りし虚構世界の末路とも申せましょう。
     この虚構化、すなわちシミュレーション化の淵源を辿るならば、遥か農業革命の時代にまで遡ることが可能にございます。ジョルジュ・バタイユは『エロティシズム』にて、文明とは聖(自然界)と俗(社会)との分離を生じさせ、都市化が虚構の再生産を促進せしむることを既に看破しておりました。
     更に古きを求めれば、仏教の最古の教典とも称される『ダンマパーダ』においても、同様の洞察を見出すことが叶います。
     人類という、エントロピーに抗い、混沌より秩序を構築せんとするこの生物は、あるいは地球にせまる彗星を打ち砕く力を持てるほどの存在になれる。かつてはそのように未来を語った時代もあったはずです。
     AIによるシンギュラリティが囁かれるいま、我々は何を問うべきか、また何に応えるべきか。
     音楽が、人類に示唆を与え得るものであるならば、音響がその伝達の媒介足るものであるならば、今こそ人類は己をいかに定義すべきでしょう。そして音楽は、音響は、人類にいかなる啓示を与えるべきか――その問いを、我々は再び己の内に掲げねばならぬのではないでしょうか。

    1F

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