Archive for category フルレンジユニット

Date: 3月 28th, 2020
Cate: フルレンジユニット

シングルボイスコイル型フルレンジユニットのいまにおける魅力(次なるステップは……・その3)

よくできたフルレンジユニット、
それも小口径のフルレンジユニットで、
ヴォーカルものを鳴らすと、いわゆる口の小さな再生が得られやすい。

ヴォーカルの再生において、その口が小さいことは、
よい音への絶対条件のように、昔からいわれ続けてきている。

カバの口みたいに大きさ──、
こういわれたら、ひどい音ということでもある。

高校生のころ、瀬川先生が鳴らしてくれたKEFの105の音は、
見事に口が小さかった。

女性ヴォーカルを、とにかくいい音で聴きたい──、
ということを瀬川先生にいったところ、
そのオーディオ店にあった105を、手際よく調整され「ここで聴いてごらん」といわれた。

バルバラのレコードだった。
バルバラの口が、左右のスピーカーの中央に、ぴたっと定位していた。
薄気味悪いほどで、唇の動きまでわかる、といいたくなるほどだった。

口の小さな再生は、確かに魅力的である。
この105の話は、これまでも何度か書いてきているが、
あえて書かなかったことがある。

それはバルバラの口が、そこに浮んでいた、ということである。
表現をかえれば、バルバラの肉体は、そこには感じられなかった。

おそろしくリアルな口だけが、何もない空間にあらわれて歌っている。
これは、オーディオ再生のひとつの快感ともいえよう。

このことにあえて触れなかったのは、
オーディオ店での、わずか数分の調整での音であるからだ。

「ヴォーカルの口が大きくなるくらいなら、低音はいらない」、
こう言った人がいる。

その人の気持はわからないわけではない。
それでも、低音がすぱっとあきらめてしまったら、
歌手の肉体は再現され難い。

Date: 3月 26th, 2020
Cate: フルレンジユニット

シングルボイスコイル型フルレンジユニットのいまにおける魅力(次なるステップは……・その3)

日本のオーディオマニアは、低音に臆病な人が少なくない、と書いたけれど、
以前からそうだったわけではないことは、
モノーラルの時代からコンクリートホーンに挑戦する人が、
ラジオ技術や無線と実験に、あたりまえのように登場していた。

それからスピーカー自作のムックにも、
コンクリートホーンの人は登場していた。

コンクリートホーンが、低音再生の理想の方法とは思っていないが、
それでもコンクリートホーンは、低音再生の、一つの行き着いた形態であることは確かだ。

コンクリートホーンをハンマーで敲き毀された五味先生ですら、
コンクリートホーンの低音について、こんなことを書かれている。
     *
 どちらかといえばオルガン曲のレコードを私はあまり好まない。レシ鍵盤の音はうまく鳴ってくれるが、グラントルグ鍵盤のあの低域の音量を再生するには、それこそコンクリート・ホーンを俟たねばならずコンクリート・ホーンに今や私は憤りをおぼえる人間だからである。自分でコンクリート・ホーンを造った上で怒るのである。オルガンは、ついにコンクリート・ホーンのよさにかなわない、というそのことに。
 とはいえ、これは事実なので、コンクリート・ホーンから響いてくるオルガンのたっぷりした、風の吹きぬけるような抵抗感や共振のまったくない、澄みとおった音色は、こたえられんものである。私の聴いていたのは無論モノーラル時代だが、ヘンデルのオルガン協奏曲全集をくり返し聴き、伸びやかなその低音にうっとりする快感は格別なものだった。
     *
いまの若い世代の人に、コンクリートホーンといっても、どれだけ伝わるのだろうか。
いまコンクリートホーンに挑戦する人は、どれだけいるのだろうか。

もう二十年ほど前になるが、輸入住宅メーカー、スウェーデンハウスのショールームに、
コンクリートホーンの写真が飾られていたことがある。

コンクリートホーンに憧れ、果敢に挑戦する人たちがいた。
いまもきっといるはずだし、
日本のオーディオマニアの多くが、低音に臆病なわけではない。

なのに、いつのころからか、低音に臆病になってきた人たちが増えてきたのだろうか。

Date: 3月 25th, 2020
Cate: フルレンジユニット

シングルボイスコイル型フルレンジユニットのいまにおける魅力(次なるステップは……・その2)

このあいだの日曜日、写真家の野上眞宏さんの写真展「ON THE ROAD」に行ってきた。
ギャラリーに着いたとき、入口のところに男性二人が雑談をしていた。

スピーカーについてのことだった。
「ON THE ROAD」には、野上さんのシステムが持ち込まれていた。
SICAのフルレンジユニットの自作スピーカー、メリディアンの218などである。

雑談の二人は、フルレンジユニットの次のステップについて話していた。
「トゥイーターをつけるのはいいけれどね……」
「そうそう、ウーファーをつけたら泥沼だよね」
「ほんとそうだね」

そんな会話だった。

この人たちのオーディオのキャリアがどのくらいなのかは知らない。
でも、そんなことは関係なく、
日本では低音に関して、こういう認識の人たちが、やはりいるということを再確認できた。

ずっと以前から「質の悪い低音ならないほうがいい」とか
「低音を出して苦労するよりも……」とかいう人はいたし、知っている。

日本ではスーパーウーファーがあまり売れない、と聞いている。
スーパートゥイーターはそこそこ売れるのに、
オーディオの醍醐味といえる低音再生のためのスーパーウーファーは芳しくないようで、
あるオーディオ店ではスーパーウーファーの買い取りは行っていない、らしい。

なぜか日本のオーディオマニアは、低音再生に臆病なところがあるようだ。
もちろん日本のオーディオマニアのすべてがそうなのではないことはわかっているが、
それにしても……、といいたくなるのは、
低音に臆病な人が少なくないからだ。

ちなみに野上さんは自宅ではエンテックのウーファーを使われている。

Date: 10月 12th, 2019
Cate: フルレンジユニット

シングルボイスコイル型フルレンジユニットのいまにおける魅力(再読したい)

(その18)まで書いてきて、
ここで再読してほしい、と思うのが、
瀬川先生がステレオサウンド 5号、
「スピーカーシステムの選び方 まとめ方」の冒頭に書かれていることだ。
     *
 N−氏の広壮なリスニングルームでの体験からお話しよう。
 その日わたくしたちは、ボザークB−4000“Symphony No.1”をマルチアンプでドライブしているN氏の装置を囲んで、位相を変えたりレベル合わせをし直したり、カートリッジを交換したりして、他愛のない議論に興じていた。そのうち、誰かが、ボザークの中音だけをフルレンジで鳴らしてみないかと発案した。ご承知かもしれないが、“Symphony No.1”の中音というのはB−800という8インチ(20センチ型)のシングルコーン・スピーカーで、元来はフル・レインジ用として設計されたユニットである。
 その音が鳴ったとき、わたくしは思わずあっと息を飲んだ。突然、リスニングルームの中から一切の雑音が消えてしまったかのように、それは実にひっそりと控えめで、しかし充足した響きであった。まるで部屋の空気が一変したような、清々しい音であった。わたくしたちは一瞬驚いて顔を見合わせ、そこではじめて、音の悪夢から目ざめたように、ローラ・ボベスコとジャック・ジャンティのヘンデルのソナタに、しばし聴き入ったのであった。
 考えようによっては、それは、大型のウーファーから再生されながら耳にはそれと感じられないモーターのごく低い回転音やハムの類が、また、トゥイーターから再生されていたスクラッチやテープ・ヒスなどの雑音がそれぞれ消えて、だから静かな音になったのだと、説明がつかないことはないだろう。また、もしも音域のもっと広いオーケストラや現代音楽のレコードをかけたとしたら、シングルコーンでは我慢ができない音だと反論されるかもしれない。しかし、そのときの音は、そんなもっともらしい説明では納得のゆかないほど、清々しく美しかった。
 この美しさはなんだろうとわたくしは考える。2ウェイ、3ウェイとスピーカーシステムの構成を大きくしたとき、なんとなく騒々しい感じがつきまとう気がするのは、レンジが広がれば雑音まで一緒に聴こえてくるからだというような単純な理由だけなのだろうか。シングルコーン一発のあの音が、初々しいとでも言いたいほど素朴で飾り気のないあの音が、音楽がありありとそこにあるという実在感のようなものがなぜ多くの大型スピーカーシステムからは消えてしまうのだろうか。あの素朴さをなんとか損わずに、音のレンジやスケールを拡大できないものだろうか……。これが、いまのわたくしの大型スピーカーに対する基本的な姿勢である。
     *
ボザークの8インチ口径のフルレンジ一発が、
瀬川先生に提示した音の世界こそ、
シングルボイスコイルのフルレンジユニットの、昔から変らぬ魅力である。

《音の悪夢から目ざめたよう》、
《清々しく美しかった》、
《初々しいとでも言いたいほど素朴で飾り気のないあの音》、
《音楽がありありとそこにあるという実在感のようなもの》、
素晴らしい、というより、大事なことではないか。

Date: 1月 25th, 2019
Cate: フルレンジユニット

シングルボイスコイル型フルレンジユニットのいまにおける魅力(その18)

オーディオではいくつかのモノを並列接続して使う。

アンプは出力素子を、大出力確保のために並列接続する。
トランジスターにしても真空管にしても、一組よりも二組使用の方がパワーは倍にとれる。
さらに出力を増したければ、素子数を三組、四組……と増やしていく。

トランジスターにしても真空管にしても、
素子としての物理的な大きさをもつため、
並列接続の数が増えれば、その物理的大きさがもたらす制約も大きくなってくる。

1990年代、トランジスターアンプの出力段のトランジスターを並列接続しない、
そのことを謳った製品がいくつか登場した。

音の反応が早い、とか、音のにじみが少ない、とか、そんな評価を受けていた。

頭で考えても一組よりも二組、二組よりも三組……、と並列接続の数が増えていけば、
この世には完全な素子など存在しないのだから、弊害として音のにじみが生じてくるのは、
想像しやすいことである。

確かに一組よりは二組のほうが、そうであろう。
ただ、そこから先はどうなのだろうか、という疑問もある。

なんとなくなのだが、二組よりも三組の並列接続が音がいいような気もする。

検証したわけではない。
直観として、並列接続の数は素数がいいような気がするだけだ。

2も素数である。
けれど2は偶数である。
素数で奇数。そして小さな数となると3である。

これも検証したわけではないが、
スピーカーユニットの複数使用にもあてはまるのかもしれない。

そんな考えからの、ユニットの三角形配置(三発配置)でもある。

Date: 8月 6th, 2018
Cate: フルレンジユニット

大口径フルレンジユニットの音(その16)

グッドマンの12インチのフルレンジといえば、
五味先生がタンノイの前に鳴らされていたのもそうだった──、
と7月のaudio wednesdayで、AXIOM 402の音を聴いていて思い出していた。

五味先生はグッドマンについて、
《私の場合、最初に愛情をもってそばに置いたのは、グッドマンの12吋だった》
と、「オーディオ人生(4)」(ステレオサウンド 24号)に書かれている。

このころの五味先生は《グッドマンでうまく鳴るような、そういうレコードしか買わなかった》とある。
グッドマンの12吋でうまく鳴り、忘れ難いレコードとして、
《ヘンデルの〝コンチェルト・グロッソ〟第八番(ハ短調)であり、ヴィヴァルディの〝ヴィオラ・ダ・モーレ〟だった。どちらも英デッカ10吋盤で、ヴィヴァルディの方はS氏所蔵のものを借りて聴いた》、
この二枚をまず挙げられている。

そしてモーツァルトのピアノ協奏曲についても触れられている。
     *
 ピアノの音は、人声とともにスピーカー・エンクロージァの性能を知る上では最も直截に答の出るもので、残念ながらグッドマンではピアノの低音が思わしくなかった。でも他にスピーカーが無いのだから鳴り方に不満があるからとピアノ曲を聴かぬわけにはいかない。
 K四六六はクララ・ハスキルの演奏で、ハスキルの弾くモーツァルトなら無条件で一度は聴いてみようというのが私の考えで、同じ女流ピアニストでもリリー・クラウスとは大分、違うと思っている。K四六六は、戦前、シュナーベルの弾いたのがあり、ベートーヴェン弾きの彼が、ベートーヴェン自身のこの曲に寄せたカデンツァをなぞっていたかどうか、当時中学生の私にそれの分るわけはなく、兎に角、第一楽章冒頭のあの低弦音による異様に暗い出だしばかりは、一度耳にしたら忘れ難くて、モーツァルトにもこんな暗い音楽があるのかと、当時おもっていた。スタンダールの言う「モーツァルトの音楽の基底にあるものは、”tristesse”(かなしみ)だ」などと知る年頃でもなかったのである。何にせよ、モーツァルトのピアノ協奏曲にK四六六のあることだけは、でも、おぼえていて、S氏宅でハスキルの演奏を聴かされたとき、K四六六は彼女のものを買おうと思ったのを忘れない。
 グッドマンの音は、かさねて言うが所詮グランド・ピアノのそれではなく、果して、ハスキルの演奏を再現していてくれたかどうか、今では覚束ない。しかしこの曲が、貧乏つづきで次第に生活の苦しかったモーツァルトの、いわば苦境時代に成ったことを解説で知り、やはりそうかと思った。
 モーツァルトはもうぼくらの手の届かぬ大天才と私は思っていたし、事実それに違いはないのだが、幾多の彼の名作をLPのおかげで聴けるようになって、あまりな多作に私は疑問をいだき始めていたのだ。「モーツァルトは天才でいる暇さえなかった、〝天才〟に追いまくられた彼は速記者にすぎない。だからこそ、あれだけの作品をあの年齢で残せたのだ。そうとでも思わねば、大天才がこんな悲痛な奏べをうむわけがない」と。音楽青年めいたドグマにきまっているが、ハスキルの弾く小ロンドふうな第二楽章(ロマンツェ)を聴いていると、そんなモーツァルト像が私の前に浮んで来た。私は天才ではないし、文章の大変遅い、遅筆な小説家だが《早すぎるモーツァルト》のこの tristesse に不思議な勇気を教えられたことを忘れない。
 グッドマン時代はつまり、レコードを聴くことがすべて小説家たる私の在り方に関わっていたわけになる。こういう聴き方は、今から想えば他愛のない、むしろ滑稽なものだが、音楽は、メタフィジカルなジャンルに属する芸術——もしくはそのような何かであり、時にそれは倫理学書をひもとくに似た心の粛正と、感銘を与えてくれる、とそのころ私は考えていた。事実そして多くのものを音楽から得た。それだけに、単なる好き心でグレード・アップを企画したことはないし、スピーカーの音色ひとつにも時に歓喜し、時に絶望して今日のオートグラフにたどり着いたのである。怪我の功名だったのか。
     *
また一度、audio wednesdayで、グッドマンの12インチを鳴らしてみよう。

Date: 7月 13th, 2018
Cate: フルレンジユニット

大口径フルレンジユニットの音(その15)

(その14)へのfacebookでのコメントに、
オリジナルでなければ、それほど後ろ髪をひかれることもないのでは……、とあった。

オリジナルでないから、グッドマンのAXIOM 301や401を見つけてこようとは、
さほど強く思わなかった。

いまになって後悔しているのは、
現行製品の30cmダブルコーンのフルレンジをあれこれ試していくのに、
なかなか都合のいいエンクロージュアだったかも……、と思っているからである。

SICAのダブルコーンもいいし、
友人のOさんが購入したBeymaのそれもいい。

特にBeymaのスペックを見ると、
いまどき、よくこんな性格のユニットを製造しているな、と感心するくらいのモノ。
インピーダンスカーヴだけでも、そのことはわかる。
かといって、古いまま造っているわけでもない。

コイズミ無線で購入できるモノには、ドイツ製のユニットもある。
コイズミ無線が取り扱っていないメーカーのなかにも、
30cmダブルコーンのフルレンジは、そんなに多くはないだろうが、あるような気がする。

中古にまで目を向ければ、使いたい(鳴らしてみたい)ユニットは、いくつかある。
それらのユニットを、どれか手に入れたとして、
じゃ、箱はどうするのか? となる。

平面バッフルもいいけれど、箱もいい。

いま同じ箱(シャーウッド型のエンクロージュア)で、
同程度のしっかりとした造りのモノを、当時と同じ価格で手に入れられるとはあまり思えない。

それに現実問題として、いまの部屋では、スペース的にちょっと無理がある。
そんなことがわかっていての、少々の後悔なのである。

Date: 7月 12th, 2018
Cate: フルレンジユニット

大口径フルレンジユニットの音(その14)

十年以上前になるが、グッドマンのシャーウッド型と呼ばれるエンクロージュアを手に入れた。
立方体に近い形状で、リアバッフルにグッドマンならではのARUがついていて、
フロントバッフルは傾斜しているエンクロージュアである。

オリジナルではなかった。
国産箱だったけれど、そうとうにしっかりと作られたモノだった。

ユニットは30cm口径が取り付けられるようになっていた。
古いモノだから、くたびれていると感じるところもあったが、
そのころ、こんなエンクロージュアをほしがる人もいないようで、格安だった。
とりあえず買っておこうかな、そんな気持だった。

30cm口径のウーファーを入れて、マルチウェイにしようか、とも考えたし、
30cm口径のフルレンジを入れてのシステムもいいなぁ、と考えていた。

グッドマンのユニットが、中古で出たらそれにしようか、とか、
現行製品の30cm口径のフルレンジを取り付けようか、とか、
そんなことを考えるのが楽しいことは、オーディオマニアならば分ってくれよう。

引っ越しのときも捨てずにいた。
けれど、スピーカーが増えて、どうにもならなくなり、粗大ごみとして処分した。
そのときはそれほどもったいない、とは感じなかった。
もちろんまだ持っていたかったけれども。

いまごろになって急に、やっぱり捨てなければよかった、と後悔している。

Date: 7月 12th, 2018
Cate: フルレンジユニット

大口径フルレンジユニットの音(その13)

(その12)で、友人のOさんが、秋葉原に行く、ということを書いている。
コイズミ無線で、Beymaの30cm口径のダブルコーンの12GA50を購入。
さっそく今日聴いています、という連絡があった。

ダブルコーンのフルレンジユニットの周波数特性は、
グラフをみると中高域がアバレ気味で、中高域のクセが強いのでは? と、
つい思いがちになる。

そういう傾向のダブルコーンのフルレンジがあるのも確かだ。
けれど30cm口径ともなれば、中低域の量感もきちんとある。
バランス的に、小口径の、同じ傾向のダブルコーンのフルレンジよりも、
案外気にならないのではないか、と思っている。

Beymaの12GA50の音は、懸念されるようなクセはない、とOさんから連絡があった。
そうだろう、と思う。

12GA50は、こんな値段で大丈夫なの? と思いたくなるような価格設定だ。
一本約一万五千円。

ふつう、この価格の、この口径だとフレームはプレス製だと思いがちだが、
アルミダイキャストである。

振動系、磁気回路が同じでも、
フレームが違えば、聴感上のS/N比が違ってくる。
聴感上のS/N比は聴感上のfレンジにも関係してくることは、
以前書いている通りだ。

Oさんは、このブログを読み、12GA50を購入されている。
つまりOさんにとって、このブログは、
別項「黒田恭一氏のこと(「黒恭の感動道場」より)」に出てくる「口コミ」となったわけだ。

Date: 7月 11th, 2018
Cate: フルレンジユニット
1 msg

大口径フルレンジユニットの音(その12)

(その11)で終りにするつもりでいたが、
友人のOさん(私より10くらい若い)が、この項を読んでくれて、
30cm口径のダブルコーンのフルレンジに興味を持った、という連絡があった。

しかも今日これから秋葉原に行き、購入してくる、とのこと。

audio wednesdayに来てくれたブラジル音楽好きのHさんも、
メールで、7月の会はおもしろかった、と伝えてくれた。

Kさんは、いつも鳴らしているアルテックよりも、ずっと好ましい、
これからも、これ(AXIOM 402)で行きましょう、といっていた。

AXIOM 402を聴いて、何か感じるものは人それぞれあったはずだ。

AXIOM 402の背面にある周波数特性の範囲。
40Hzから11,000Hz。
40×11000=44,000である。
ほぼ40万の法則にあう。

AXIOM 401は30Hzから12,000Hzで、こちらは36万。
どちらも40万に近い値になる。

数値での周波数特性は、表記の仕方によって違ってくるから、
ユニットの背面の数値をそのまま鵜呑みにしているわけではないが、
それでも、と思うところはある。

小口径のフルレンジであれば、高域にはのびていくが、
低域方向は逆に苦しくなる。

シングルボイスコイルのフルレンジユニットで、
40万の法則的といえるのは、30cm口径のダブルコーンかもしれない。

Date: 7月 7th, 2018
Cate: フルレンジユニット

大口径フルレンジユニットの音(その11)

BeymaSICAからも、
30cm口径のダブルコーンフルレンジユニットは、いまも発売されている。

Beymaはスペイン、SICAはイタリアのメーカーである。
両社から出ていたのは以前から知っていた。
けれど特に関心はなかった。
AXIOM 402を聴く以前だったからだ。

いまは積極的に聴いてみたい、と思っているし、
ヨーロッパのスピーカーユニットのメーカーのラインナップに、
大口径のダブルコーンのフルレンジユニットがいまも残っている理由も掴めた、と思っている。

Beyma、SICAのダブルコーンのフルレンジユニットは、そう高いモノではない。
普及クラスのスピーカーユニットである。
数百万円もするハイエンドオーディオのスピーカーシステムに搭載されるユニットとは、
お世辞にもいえない。

そういう世界とは別のところで、家庭で音楽を聴くことを目的として、
いまも製造されているスピーカーユニットではないのか──、
私はAXIOM 402を聴いて、そう考えるようになった。

多くを求める人には向かない。
多くの情報量を求める人には向かない。

けれど”Less is more”という。
そういう聴き方があることを、AXIOM 402の音は提示している。

Date: 7月 7th, 2018
Cate: フルレンジユニット

大口径フルレンジユニットの音(その10)

アンプがなんであれ、シングルボイスコイルのフルレンジユニットのよさ、
ここではロクハン(16cm)以上の口径のフルレンジとしておくが、
中低域の魅力にあると感じている。

あくまでも優れたフルレンジということに限るのだが、
この中低域の良さ、魅力は、口径が16cmから20cm、20cmから30cmと、
口径が大きくなるとともに、豊かになってくるように、
今回AXIOM 402を聴いていて感じていた。

そこに(その5)で書いた量感の豊かさを感じるし、
そこにこそ大口径フルレンジの音の美がある、ともいえる。

量感と書いてしまうと、誤解されてしまうようなところがある。
クラシック音楽を長く聴いてきた聴き手と、
そうでない聴き手とでは、この量感に対するイメージは、そうとうに違っているように感じる。

量より質。
そんなことがいわれる。

オーディオの世界では、昔から音量で音質をごまかしている、
そんなこともいわれている。

そんなことが関係してなのか、量感という言葉に対して、
いい印象を抱いていない人が少なからずいる。

けれど量感も音を表現する言葉であり、
音の美に関係してくる音の要素である。

なのに、いつのころからか忘れられつつある。
特に、今回のように中低域の豊かな量感ともいおうものなら、
私が、そこでイメージしている音と、まるで真逆の音をイメージする人がいるのは、
昔から知っているし、いまもけっこういるようだ。

そういう人が、AXIOM 402の音を聴いたら、ひどい評価を下すだろう。
そこまででなくとも、ゆるい音とか、いうかもしれない。

Date: 7月 6th, 2018
Cate: フルレンジユニット

大口径フルレンジユニットの音(その9)

グッドマンのAXIOM 402を鳴らすパワーアンプとして、
まっさきに考えたのがPASSのAleph 3だった。

audio wednesdayの常連のKさんのラインナップに、このアンプがあるのは知っていた。
他にもいくつかのアンプがあるのは知っていたけれど、
ここではAleph 3以外の選択肢は、私の頭のなかにはなかった。

Alephシリーズのパワーアンプは、
設計者のネルソン・パス独自の考えによる回路だということは知られている。

ここで、そのことを詳しく説明するつもりはない。
それに、その理論がほんとうなのかどうかも、なかなか判断しにくい。
それでも信念をもって設計されたアンプである。

通常のプッシュプル回路が上下対称なのに、
Alephシリーズの回路は上下非対称で、
プラス方向の出力がマイナス側よりもわずかに高い、という。

そのことがどう音に影響するのか、正確にわかるものではない。
ただコーン型スピーカーを真横からみればわかるように、前後対称に、
均等の力がかかっている(必要)とは考えにくい。

特にダブルコーンは、シングルコーンのユニットよりも、
振動板が前に動くときと後に動くときのエネルギーの差は大きいのではないか。

ならばダブルコーンのフルレンジに、Alephのような出力傾向をもつアンプは、
理屈としても合うのではないか──、
実をいうと、最初はそんなことまったく考えてなかった。
すべて後付けである。

ただなんとなくAleph 3がよさそうだ、と思っただけであり、
結果としてうまくいったから、そんなことを考えて書いたみた。

Date: 7月 6th, 2018
Cate: フルレンジユニット

大口径フルレンジユニットの音(その8)

なぜヨーロッパのフルレンジユニットは、こんなにも大口径なのか。
この疑問に拍車をかけた(といっては少し大袈裟なのだが)、
グッドマン、フィリップス、リチャードアレンの当時のウーファーの口径である。

グッドマンのAUDUIM 200は25cm口径、
フィリップスのAD8060/W8は20cm口径、
リチャードアレンだけが、25cm、30cm、38cm口径があった。

これはあくまでも当時日本に輸入されていたユニットということであって、
もしかすると輸入されていなかったウーファーがあったのかもしれないし、
それらには大口径のユニットもあったかもしれない。

そのころステレオサウンドが出していたHI-FI STEREO GUIDEが、当時の情報源だった。
ここにあげたユニットは、HI-FI STEREO GUIDE掲載のものである。

ウーファーよりもフルレンジユニットのほうが大きい。
その理由もよくわからなかった。

聴く機会がなかったことに、こういうことも加わって、
なんとなく大口径のシングルボイスコイルのフルレンジへの関心は、遠のいていった。

今回、喫茶茶会記にAXIOM 402が来なかったなら、
このままずっとそうだったであろう。
今回聴けたことは、私にとって小さくない収穫があった。

アンプに、あえて真空管を選ばなかったのも功を奏したかもしれない。
たとえばラックスのSQ38FD/IIが用意できたとして、
そこでの音にどう反応しただろうか。

音は確かに鳴らしてみないとわからない。
今回の30cmという口径の大きさに、少々のバイアスがかかっていた。
それでも鳴ってきた音を聴いて、それはなくなった。

そういうことがあるのはわかっていても、
今回のアンプの選択は、われながらよかった、と自画自賛している。

Date: 7月 6th, 2018
Cate: フルレンジユニット

大口径フルレンジユニットの音(その7)

フルレンジユニットというのは、バランスである。
一発のユニットで、低音域も高音域も十全にカバーすることはまず無理である。

低音を出そうとして口径を大きくすれば、高域に無理を生じるし、
反対に口径を小さくしていけば、低域に無理が生じる。

ほどほどよい口径(バランス)というのは、
いわゆるロクハン(6インチ半、16cm口径)か20cm口径ということになる。

そういう感覚が当時は強かったから、
30cm口径のフルレンジ、たとえそれがダブルコーンであっても、
ヨーロッパのスピーカーらしい高域の繊細さは、なんだか望めないのではないか、
そんな気がしていた。

あのころ、これらのフルレンジユニットを聴く機会はまったくなかった。
実際に聴く機会があれば、その印象は変ってきただろうが、
ダイヤトーンのP610、フォステクスのFE103は聴く機会はあったのに対し、
ヨーロッパのフルレンジユニットは、実物を見る機会すらなかった。

その1)にfacebookにコメントがあった。
その方が中高時代に通っていた学校の音楽室には、
グッドマンのAXIOM 301をおさめたスピーカーシステムがあった、とのこと。

AXIOM 301も、30cm口径のダブルコーンのフルレンジユニットである。
なんともうらやましくなる音楽室があったんだな、と思う。

AXIOM 301でクラシック音楽を、中高時代に触れた世代と、
たとえば、1980年代の598のスピーカーが据えつけられていた学校もあったであろう、
そういう音楽室でクラシック音楽にふれた世代とでは、
音楽に対する感性、音に関する感性、響きに関する感性、そして量感に関する感性、
そういったところにずいぶんな違いが生じるのではないのか。