Archive for category 音の毒

Date: 8月 11th, 2015
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(荻上チキ・Session-22をきいた)

TBSラジオで月曜から金曜の22時から「荻上チキ・Session-22」が放送されている。

テレビのない生活が長いと、決った時間にテレビやラジオをつけて番組を視聴するという習慣がなくなる。
だから、けっこう聞き逃すことも多いが、できるだけ聞くようにしているラジオ番組のひとつである。

昨夜(8月10日)のテーマは、
荻上チキの『長崎・原爆の日』取材報告 被爆報道のこれから、そして当事者たちが望むこと」だった。
いまは便利な世の中である。
聞き逃してもインターネットがあればポッドキャストでいつでも聞くことができる。

昨夜の「荻上チキ・Session-22」は、ひとりでも多くの人に聞いてもらいたい。
前半の、7歳で長崎で被爆された元長崎放送の記者、船山忠弘氏の話も聞き逃してはならない。
けれど、後半の長崎被災協・被爆二世の会・長崎会長の佐藤直子氏の話。

直子氏のお父様(14歳で被爆されている)の話を聞いたとき、
いままで体験したことのなかった感覚におそわれた。
なんなんだろう……、ととまどうしかなかった。

直子氏のお父様は、弟を被爆で亡くされている。
それだけでなく、自らの手で火葬されている。

この部分を聞いたとき、すぐにはなにかの感覚におそわれたわけではない。
わずかの間をおいて、それはおそってきた。

戦争の悲惨さは親からも断片的に聞いている。
テレビ、映画、小説、マンガなどでも知っている。
長崎原爆資料館にも行っている。

戦争を体験した人の数だけの悲惨なことがあったのはわかってはいたつもりだった。
それでも、佐藤直子氏の話を聞いたあとにおそってきた感覚には、とまどうしかなかった。

Date: 9月 12th, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その14)

A氏の録音に対して強い口調で「毒にも薬にもならない」と私に話された人は、
録音に対して非常に造詣の深い人である。
その人が、あえてA氏の名前を出されたことの意味を、考えてしまう。

「毒にも薬にもならない」存在の優秀録音は、案外増えて来つつあるのではなかろうか。
私は、A氏の録音されるジャンルの音楽をほとんど聴かないから、
そのへんの事情については疎いところがある。

でも、この「毒にも薬にもならない」は、何も録音のことだけにとどまらず、
いまのオーディオの聴かせる音についても、あてはまる。

以前は、ひどい音を出すオーディオ機器があった。
現行製品で、そんなオーディオ機器はもうない、といえるだろう。
まったくなくなったわけでもないだろうが、その割合はずっと少なくなっている。

いまのオーディオ機器は、ある水準にあり、
だからこそ、どの製品を買っても、まず大きな失敗ということはない、ともいえる。
優秀な製品が増えた、ということでもある。

これはけっこうなことである。
あるけれども、そのことと「毒にも薬にもならない」再生音・録音が増えてきたことが、
無関係なこととはどうしても思えない。

なんと表現したらいいのだろうか、
「毒にも薬にもならない」音のことを。

いまのところ思いつくのは、薄っぺらな清潔な音だ。

Date: 9月 5th, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その13)

五、六年前のことだ。
あえて詳細はぼかして書くのは、このことで個人攻撃・否定をしたいわけではないからだ。

ある会話の中で、ある録音エンジニアの名前が出た。
仮にA氏としておく。
「A氏の録音を聴いたことがあるか」ときかれた。

オーディオに関心のある人、録音に関心のある人ならば、
いちどは聞いたことのある名前だった。

A氏の録音の話になった。
そこでの結論は、A氏の録音は「毒にも薬にもならない」ということだった。

そのときからも、そしていまも、A氏の録音は優秀録音という世評を得ている。
音にこだわった録音ということでもある。

たしかに、聴けば、よく録れている、と誰もが感じる。
私もそう感じるし、その時A氏の録音についてきいてきた人(私よりも年上)も、同感だった。

よく録れているから、いわゆるキズのある録音ではないし、ケチのつけられる録音ということでもない。
でも、どこまでも、そこまで止りなのである。
それ以上のもの、それこそsomethingが感じられない。

そんな意味も含めての「毒にも薬にもならない」録音だ、という結論になったのだった。

Date: 9月 4th, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その12)

五味先生も「バルトーク」の中で書かれている。

《およそ音楽というものは、それが鳴っている間は、甘美な、或は宗教的荘厳感に満ちた、または優婉で快い情感にひたらせてくれる。少なくとも音楽を聞いている間は慰藉と快楽がある。快楽の性質こそ異なれ、音楽とはそういうものだろう。》

そうだと思う。多くの人がそう思っていることだろう。

なのに聴き手に何かを自白させる──精神的な拷問──ために音楽をかける、
それも自白を要求する者と自白を強要される者とが、ここでは同じである。
こんな理不尽な音楽の聴き方は、本来の音楽の聴き方とはいえない──、
そう思う人のほうが多いだろうけれど、ほんとうにそうだろうか。

自分自身に精神的拷問をかける──、
ここにオーディオを介して音楽を聴く行為の、もうひとつの姿が隠れている。
そのことに気づかず、音楽を聴いて浄化された、などと軽々しく口にはできない。

忘れてしまいたい、目を背けたい、そういったことを己の裡からえぐり出してくる。
それには痛み・苦しみ・気持悪さなどがともなう。

つまり、バルトークの、ジュリアード弦楽四重素団による演奏盤は、
五味先生によって、「毒」でもあったのかもしれない。

こんな音楽との接し方・聴き方は、やりたくなければやらずにすむのがオーディオである。
毒など、強要されてもイヤだ、まして自らすすんで……など、どこか頭のおかしい人のやる行為だ、
世の中の趨勢としては、はっきりとそうだと感じている。

そして増えてきているのが「毒にも薬にもならない」──、
そんなものである。

Date: 9月 2nd, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その11)

映画やドラマでの拷問のシーンは、
たいていがなんらかの情報を得るため、だとか、自白を強要するときに、肉体的苦痛を与えるものとして描かれる。

肉体的苦痛を与えるだけの行為は、拷問とはいわないようである。

拷問がそういうものだとすれば、
音楽をきいての、精神的な拷問とは、聴き手になんらかの自白を強要するものということになる。

何を聴き手に自白させるのか。

Date: 9月 1st, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その10)

自ら進んで拷問を受けようという人はいない。
肉体的な拷問であれ、精神的な拷問であれ、誰も一度体験してみたい、という人はいない。
前から拷問が迫ってきたら、なんとか回避したい、とするのが人間だろう。

なのに、五味先生は「バルトークの全六曲の弦楽四重奏曲を、ジュリアードの演奏盤で私は秘蔵」されていた。
その理由について書かれているし、この項ですでに引用している。

ジュリアードの演奏盤を秘蔵されているけれど、
この演奏盤は五味先生にとって愛聴盤とはいえないものだった、と思う。

愛聴盤であるはずがない。
けれど、秘蔵されている。

キレイなもの、キレイどこのみで世の中が成り立っていて、世の中をわたっていけるのであれば、
ジュリアードの演奏盤を秘蔵しておく必要はない。

けれど世の中にはバルトークの弦楽四重奏曲がすでに存在しており、
ジュリアード弦楽四重奏団による1963年の演奏盤も存在しているということが物語っている、
世の中は、決してそういうものではない、ということを。

だから五味先生はジュリアードの演奏盤を秘蔵されていた。

Date: 8月 25th, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その9)

「無音はあらゆる華麗な音を内蔵している」

五味先生の言葉だ。
これを「五味オーディオ教室」で読んだ。

それ以来、「無音はあらゆる華麗な音を内蔵している」は私にとって、
オーディオについて迷ったとき、これを思い出すようにしている。

五味先生は、バルトークの弦楽四重奏曲を聴かれたからこそ、
この「無音はあらゆる華麗な音を内蔵している」という真理にたどり着かれたのではないのか。

私の勝手な想像でしかないのだが、
あるひとつのきっかけ、出来事でこの「無音はあらゆる華麗な音を内蔵している」にたどり着かれたとは思えない。
いくつかのことから、ここにたどり着かれたのだとおもう。

そのひとつが、ジュリアード弦楽四重奏団によるバルトークの演奏盤での体験だったはずだ。

この項の(その4)で引用したところから、一部くり返す。
     *
バルトークに限って、その音楽が歇んだとき、音のない沈黙というものがどれほど大きな慰藉をもたらすものかを教えてくれた。音楽の鳴っていない方が甘美な、そういう無音をバルトークは教えてくれたのである。他と異なって、すなわちバルトークの音楽はその楽曲の歇んだとき、初めて音楽本来の役割を開始する。人の心をなごめ、しずめ、やわらげ慰撫する。
     *
この体験なくして、どうして「無音はあらゆる華麗な音を内蔵している」にたどり着けるだろうか。

Date: 8月 24th, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その8)

いま聴くことができるバルトークの弦楽四重奏曲のすべてを聴いているわけではない。
自分で購入して聴いてきたもの、友人・知人のところに行ったおりにたまたま聴く機会があったもの、
レコード店にてあれこれ見てまわっているときに、たまたまかけられていたもの、
インターネット・ラジオを聴いていたら、たまたまかけられたなどによって、
いくつかの弦楽四重奏団によるバルトークを聴いてきた。

それらの中には、五味先生がもし聴かれたら、
「バルトークは精神に拷問をかけるために聴く音楽としか思えなかった」、
「気ちがいになっても、バルトークのクヮルテットがあるなら私は音楽を失わずにすみそうだ」
と思われただろうか──、そんなことをつい思ってしまう演奏もある。

そういう弦楽四重奏団によるバルトークが「歇んだとき」、
五味先生は「ホッとした」のだろうか。

どんな弦楽四重奏団による演奏であれ、
バルトークの弦楽四重奏曲が、ほかの作曲家の弦楽四重奏曲に変るわけはない。
五味先生がバルトークの弦楽四重奏曲に感じられた、いくつかのことは、
バルトークの音楽だからであるから、であり、それがジュリアード弦楽四重奏団による演奏盤であったからである。
私は、そう考えている。

Date: 8月 24th, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その7)

1963年当時のジュリアード弦楽四重奏団と録音スタッフがそのまま2013年の現在にいたとしても、
1963年と同じ演奏をするとは思えない。
1981年の録音の方向へと、より洗練したものになるのではなかろうか。

1963年と、ジュリアード弦楽四重奏団がデジタルで三度目の録音としたときとでは、
バルトークの弦楽四重奏曲の聴かれ方も変化している。
レコードも、それほどとはいえないものの数は増えていた。

2013年の現在、バルトークの弦楽四重奏曲はいったい何組出ているのか。
HMVのサイトで検索してみると、けっこうな数があることがわかる。
1963年には現代音楽であったバルトークの弦楽四重奏曲は、
1981年には現代音楽と呼びにくくなっていたし、
2013年の現在では、現代音楽とはすでに呼べなくなっている。

もう「知らしめる」ということは必要ではなくなっている。

そんな時代の移り変りがあるから、
1963年当時のジュリアード弦楽四重奏団と録音スタッフがいまにいたとしても、
1963年と同じ演奏・録音(つまり表現)は行わない。

1963年のジュリアード弦楽四重奏団のバルトークに感じられた気魄は、
まだバルトークの弦楽四重奏曲が現代音楽であったこと、
そして知らしめると役目も担っていたからこその気魄でもあったはず。

そこに時代を、聴き手のわれわれは感じとることができる。
そして、五味先生にとって「バルトークは精神に拷問をかけるために聴く音楽としか思えなかった」ことにも、
それは影響を及ぼしている──。

Date: 8月 24th, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その6)

10年以上前のレコード芸術の記事だったと記憶している。
ドイツ・グラモフォンのプロデューサーが語っていたことがある。

著名な演奏家による、いわゆる売れ筋の録音のときに、
同時にあまり知名度のない作曲家や新しい作曲家の作品を録音してカップリングするのは、
より多く売れる録音とひとつとして売ることで、
そのレコード(録音物)の聴き手に、知らしめるためでもある、ということだった。

そういった作曲家の、そういった作品だけを集めた録音では、
マニアックなごく一部の聴き手は買ってくれるだろうがほ、
多くの、そうでもない聴き手の耳に届くことはない。

彼らは音楽のプロフェッショナルである。
プロフェッショナルであるから、音楽を録音してそれを売ることで収入を得ている。
だが、商業的なことだけを考えて、企画をたて録音をしているわけではない。
そこには聴き手への教育的な意味合いもこめられている。

1963年のジュリアード弦楽四重奏団によるバルトークの弦楽四重奏曲の全集にも、
そういう意味合いがこめられている──、そんな気もする。

1963年にバルトークの弦楽四重奏曲がどれだけ一般的な聴き手の耳に届いていたのか、
正直わからない。
この時代のシュワンのカタログでもあれば、
バルトークの弦楽四重奏曲のレコードがどれだけ出ていたのか、それがわかるし、
おおよそのことは想像できるだろうが、この時代のシュワンのようなレコードのカタログ誌はもっていない。

ハンガリー弦楽四重奏曲による1961年の録音とジュリアード弦楽四重奏団のモノーラルの録音くらいしか、
他にどれだけあったのかを、私は知らない。
バルトーク弦楽四重奏団による録音は1966年ごろ、
タートライ弦楽四重奏団は年代がはっきりしないが60年代半ばごろだ。

Date: 8月 23rd, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その5)

五味先生は、つづけてこう書かれている。
     *
 そのくせ、バルトークの全六曲の弦楽四重奏曲を、ジュリアードの演奏盤で私は秘蔵している。不幸にして私が狂人になったとき、私を慰めてくれる音楽はもうこれしかあるまい、と思えるし、気ちがいになっても、バルトークのクヮルテットがあるなら私は音楽を失わずにすみそうだ。狂人に音楽が分るものかどうか、その時になってみなければ分らぬが、モーツァルトとバルトークのものだけは、理解できそうな気がする。
 そういう意味で、私のこれは独断だが、バルトークは現代音楽でモーツァルトに比肩し得る唯一の芸術家だ。アルバン・ベルクもビラ・ロボスもシェーンベルクも、ついに新音楽ではバルトークの亜流にすぎない、そう断言してもよいと思う。
     *
「ジュリアードの演奏盤」としか書かれていない。
ジュリアード弦楽四重奏団は、三度バルトークを録音している。
モノーラル時代、ステレオになり1963年、デジタルになり1981年。
五味先生は1980年に亡くなられているから、
五味先生が秘蔵されていたジュリアードの演奏盤は、
バルトークの弦楽四重奏曲のすごさを、多くの聴き手に思い知らせたという意味でも、
モニュメンタルな録音といえる1963年のもののはずだ。

1963年はちょうど50年前。
私はうまれたばかりだから、当時のことを自分の体験として知っているわけではないが、
本やきくところによると、1963年にはバルトークは「現代音楽」として聴かれていた、ということだ。

バルトークの弦楽四重奏曲の第一番が1908〜1909年、
第二番が1915〜1917年、第三番が1927年、第四番が1928年、第五番が1934年、最後の第六番が1939年。

ジュリアード弦楽四重奏団がステレオ録音したとき、第六番の完成から24年後。
「現代音楽」としてバルトークの音楽が聴かれていた時代がはっきりとあって、
1963年はまだまだそういう時代だったからこそ、
ジュリアード弦楽四重奏団による二組のバルトークの全集を聴きくらべたとき、
音の良さでは1981年の録音が優れている。
けれど、演奏の気魄となると、1963年の録音に圧倒される。

Date: 8月 22nd, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その4)

小学校の時の、そんな体験を彷彿させたのが、
五味先生の「西方の音」を読んでいたときだった。
長崎原爆資料館を訪れてから、約十年が過ぎていた。

「バルトーク」という一篇があった。
長くなるが引用しておく。中途半端に省略したくなかった。
     *
 もともとバルトークの音楽は私のもっとも忌避する芸術であった。彼の弦楽四重奏曲を、はじめて聞いた時の驚きを私は忘れない。かんたんに申すなら、バルトークは私を気違いにさせたいのか、と思った。そうでなくても何か一本、常人とはスジの狂った神経が自分にあるのを感じている。私は、常に正常でありたいし、こういう言い方が許されるなら目立たず平凡に一生を終えたいとどんなにつとめてきたかしれぬ。それでも最も自分らしくのびのび振舞えたと思えたとき、私の言動は常軌を逸し、人もそう言う。後で私もそう思う、だが常に、後でだ。
 そんな常軌を逸し、すじの違った何かをバルトークはことさら私の内部で拡大し、踏みはずせ踏みはずせと嗾ける。ふみはずせばどうなるか、防御本能で私は知っている。俺は破滅したくないのだ、平凡人でいたいのだ……私は心で叫んで抵抗し、脂汗で皮膚がぬめってくるような感じに、なんども汗を拭いた。そんな音楽である。バルトークは周知の通りその作品があまり急進的なため、不評を蒙り、一時は創作のペンを折らねばならなかった。しかし彼はそういう精神的孤立の中で最も自分らしい音楽を書いた、それが第二弦楽四重奏曲だ。当時彼は三十五歳だった。
 またそれからの二十年間、彼の充実した時期にその心の内奥を語りつづけたのが全六曲のクヮルテットであり、時に無調的、半音階的、不協和的作風(第四番)を経てヨーロッパを離れる六番にいたるまで、これら六つの弦楽四重奏曲には、つまり巨匠バルトークの個性のすべてが出ている。彼は晩年、貧乏のどん底でアメリカに死んでいったが、悲境のその死を一群のクヮルテットのしらべの中から予感するのは、さほど困難ではない。——などと、もっともらしい音楽解説は実はどうでもよいことだ。
 とにかく、私はバルトークの弦楽四重奏曲を——はじめに第二番、つぎに四番、六番と——ついにそのどれ一つ、終章まで聴くに耐えられなんだ。
「やめてくれ」
 私は心中に叫び、それが歇んだときホッとした。およそ音楽というものは、それが鳴っている間は、甘美な、或は宗教的荘厳感に満ちた、または優婉で快い情感にひたらせてくれる。少なくとも音楽を聞いている間は慰藉と快楽がある。快楽の性質こそ異なれ、音楽とはそういうものだろう。ところが、バルトークに限って、その音楽が歇んだとき、音のない沈黙というものがどれほど大きな慰藉をもたらすものかを教えてくれた。音楽の鳴っていない方が甘美な、そういう無音をバルトークは教えてくれたのである。他と異なって、すなわちバルトークの音楽はその楽曲の歇んだとき、初めて音楽本来の役割を開始する。人の心をなごめ、しずめ、やわらげ慰撫する。私には、バルトークは精神に拷問をかけるために聴く音楽としか思えなかった。言いかえれば、バルトークの弦楽四重奏曲を終章まで平然と聴けるのは、よほど、強靭な神経の持ち主に限るだろう。人はどうでもよい、私にはそうとしか思えないのである。
     *
「それが歇んだときホッとした」とある。
ここで、小学低学年のころの映画のこと、
小学五年での長崎原爆資料館のことを思い出すことになった。

Date: 8月 21st, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その3)

死の床で、もう一度食べたいものがあるとしたら、
私は長崎原爆資料館を見た後に食べた、あのアイスかもしれない。

そのくらい、あの時のアイスの味は忘れ難いものになった。

あの時のまったく同じアイスが、いま目の前にあって食べたとしてもおいしいと感じても、
あくまでも、数ある食べ物の中のひとつとしておいしいと感じるだけだと思う。

それでも、こんなことを思い、書いているのは、あの時のアイスの味だけが、
直前まで見ていた長崎原爆資料館にいて、
それまでの十年間でいちども味わったことのない、いいようのない気持をどうにかしてくれたからだ。

小学低学年のときに観た映画、
このときは暗い映画館の中から(昔の映画館はほんとうに暗かった)、
明るい外に出た時に、ほっとした(できた)。

長崎原爆資料館のときには、外に出たくらいではそうはならなかった。
このときたしか十歳だった。
そんな子供は、なんとか、すこしでもはやくほっとしたかった。
そのとき目の前で売っていたのがアイスだった。

アイスはおいしかった。
ひとつ食べて、もうひとつ買った。それも食べ終るとまたひとつ買った。

なにか対比を求めていたのかもしれない。
映画館の暗さと外の明るさ──、
映画のときはこの対比でなんとかほっとできた。

けれど長崎原爆資料館のときは、外の明るさだけではどうにもならなかった。
子供心に、あのときのアイスは対比として存在であることがわかっていたのだろうか。

Date: 8月 20th, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その2)

私が長崎原爆資料館に行ったのは、もう40年ほど前のこと。
そのときの建物は新しくはなかった。
どちらかといえば位漢字のする建物だった記憶がある。
少なくとも近代的な明るい印象の建物ではなかった。

そんな資料館の中に展示されているものをひとつずつ見てまわった。
できれば見たくない、と思っていたような気もする。
でも、すべてをきちんと見なければ、と小学生ながらに思ってもいた。

いくつかはひどく記憶に残って、
しばらくはそのイメージが頭から消し去ることができなかった。

修学旅行は小学五年のときだった。
ぺちゃくちゃしゃべりながら行動をしがちの年ごろだったけれど、皆無口だった。
妙に静かだった。

心の中では、どういう言葉を発していたのかはわからない。
でも皆黙っていた。
湿気がまとわりつくような感じも記憶に残っている。

長崎原爆資料館の外に出たら、
自転車で小さな屋台をひいて、アイスを売っている人がいた。
長崎名物の氷のつぶがはいったアイスだ。

このアイスを食べて、ほっとした、というか、やっとほっとできた。

Date: 8月 20th, 2013
Cate: 音の毒
1 msg

「はだしのゲン」(その1)

私が生れ育った田舎町にも昔は映画館があった。
中学生になったころにはもうなくなっていた。

古い、ボロい映画館だった。
いわゆる名画座で、二本立て、三本立てで上映されていた。
話題の映画はバスに一時間ちょっと揺られたところにある映画館に行く。

地元の、そんな映画館で観ていたのは、学校推薦の映画であったりした。
何本か観ているのだが、ほとんど記憶には残っていない。
でも、一本だけ強烈に記憶に残っている映画がある。

タイトルはもう憶えていない。
ストーリーもうろ覚えだ。
なのにいまも憶えているのは、観ていて気持悪くなった映画だったからだ。

第二次大戦の、どこかの島での話だった。
終戦近いころの話だったはず。
極限状態に追い込まれた日本兵が描かれていた。

そんな映画を、小学校低学年の時に観ている。
吐きそうになる寸前の、気持悪くなるシーンもあった。
いま思うと、よくこういう映画が学校推薦になったな、と思わなくもない。

映画が終り、外に出た時にほっとしたことも、強烈に憶えている。
昼間の太陽の光が、こんなにも人の気持を一瞬にして変えてくれるものだと感じたのは、
その数年後、小学校の修学旅行で行った長崎原爆資料館を見終り、館の外に出た時も同じだった。