Archive for category 音の毒

Date: 7月 23rd, 2024
Cate: 音の毒
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音の毒(オイロダインのこと・その4)

ポリーニの実演は、20代前半のころ、一度聴いている。
1986年だったはず。

確かベートーヴェンのピアノ・ソナタを聴いている。
そのぐらいしか、もう憶えていない。
感動しなかったからだろう。

五味先生のように激怒ということだったら、
それはそれで記憶にしっかりと残っているはずだから。

ポリーニをきちんと聴いてきたとは、言わない。
そんな私でも、アバドとのバルトークのピアノ協奏曲第一番は、
初めて聴いた時ももちろん、それから何度となく聴いているが、
聴くたびに、凄いと思う。

極端な言い方になるが、私にとってのポリーニは、
このバルトークの曲のためだけの存在となる。

自分でも不思議に思っている、
なぜ、バルトークの一番だけなのか、と。

答が見つかったわけではないが、
バルトークのピアノ協奏曲第一番は、
ピアノを打楽器として使うという曲に関係してことだろう。
いまは、そう感じている。

ポリーニは、バルトークの第三番は弾いているのだろうか。

Date: 6月 19th, 2024
Cate: 音の毒

音の毒(オイロダインのこと・その3)

音の毒、そんなものまったく不要だし、
そんなもの求めていないし、害だけだろ! という意見もあるだろう。

音の毒といっても、そこに美がなければ、何の意味もない。
よく「毒にも薬にもならない」という。

音でも、そういえることがある。
毒にも薬にもならない音。そんな音があるのも事実だし、
そういう音を好む人、それをいい音と感じる人も、またいる。

毒にも薬にもならない音について、以前、別項でも書いている。
毒にも薬にもならない音もあれば、毒にも薬にもならない音楽(演奏)も、
やはり世の中にはある。ゴマンとあるといってもいいだろう。

結局、どちらにしても大事なのは、美がそこにあるかどうかのはずだ。
毒にも薬にもならない音であっても、
むしろ、そういう音だからこそ、美を感じる人もいることだろうし、
音の毒を求める私でも、ただ単に毒だけの音、美が存在しない毒まみれの音は、
聴くに耐えない音でしかないし、おどろおどろしいだけにしかすぎない。

ここまで書いてきて、ふとポリーニのことを思い出した。
ポリーニの演奏とは、いったいなんだったのか、と最近、ふと考えることがある。

五味先生は、ポリーニのベートーヴェン(旧録音)に激怒されていた。
     *
ポリーニは売れっ子のショパン弾きで、ショパンはまずまずだったし、来日リサイタルで彼の弾いたベートーヴェンをどこかの新聞批評で褒めていたのを読んだ記憶があり、それで買ったものらしいが、聴いて怒髪天を衝くイキドオリを覚えたねえ。近ごろこんなに腹の立った演奏はない。作品一一一は、いうまでもなくベートーヴェン最後のピアノ・ソナタで、もうピアノで語るべきことは語りつくした。ベートーヴェンはそういわんばかりに以後、バガテルのような小品や変奏曲しか書いていない。作品一〇六からこの一一一にいたるソナタ四曲を、バッハの平均律クラヴィーア曲が旧約聖書なら、これはまさに新約聖書だと絶賛した人がいるほどの名品。それをポリーニはまことに気障っぽく、いやらしいソナタにしている。たいがい下手くそな日本人ピアニストの作品一一一も私は聴いてきたが、このポリーニほど精神の堕落した演奏には出合ったことがない。ショパンをいかに無難に弾きこなそうと、断言する、ベートーヴェンをこんなに汚してしまうようではマウリッツォ・ポリーニは、駄目だ。こんなベートーヴェンを褒める批評家がよくいたものだ。
(「いい音いい音楽」より)
     *
私には、五味先生がそこまで激怒される理由が、はっきりとは聴きとれなかった。
それでも十数年前に、ポリーニのバッハの平均律クラヴィーア曲集を聴いて、
音が濁っている、と感じた。

音が濁っている、といっても、オーディオ的な意味、録音が濁っているではない。
ポリーニの平均律クラヴィーア曲集の録音は、2008年9月、2009年2月である。
優秀な録音といえる。

なのにひどく濁っているように感じてしまった。
五味先生の《汚してしまう》とは違うのかもしれないが、
五味先生の激怒の理由は、こういうことなのかもしれない、とも感じていたわけだが、
それではオイロダインでポリーニの弾くベートーヴェンやバッハを聴いてみたら、
いまの私は、どう感じるのだろうか。

Date: 6月 16th, 2024
Cate: 音の毒

音の毒(オイロダインのこと・その2)

今年の1月20日、21日、川崎市にあるオーディオ・ノートの試聴室で、
「オイロダインを楽しむ会」が開催された。

私も行ってきた。
私が行った回は、天気が悪かったせいもあってか、六人だけだった。
クラシックだけでなく、いろんな音楽(レコード)がかけられた。

それらを聴いていて、ある人が、
「オイロダインでこういう音楽を聴けるなんて!!」と興奮気味に語っていた。

どうも、この人はオイロダインは、
クラシックを主に聴くスピーカーという印象を持たれているのだろう。

よく考えてみなくても、オイロダインは劇場用スピーカーであるから、
いろんな音源を鳴らすことを前提としたスピーカーともいえる。

音楽も鳴らせば、それ以外のものを鳴らすわけだ。
映画であれば、セリフや効果音などがある。
むしろ、そこでは音楽は背景になってしまうこともある。

にもかかわらず日本では、オイロダインはクラシックのためのスピーカー、
そんなふうに思い込まれている感じすらある。

このことはオイロダインにとっても、聴き手側にとっても損なことだな、とは思う。
その意味で、オーディオ・ノートの試聴室で、
クラシックに限定することなく、ジャズもロックも、というのはよかった。

それでも別項で、「オイロダインを楽しむ会」について書いているが、
そこではオーディオ・ノートの社屋についての感想だけしか書かなかったのは、
当日のオイロダインの音がひどかったからではなく、でもよかったわけでもなく、
「音の毒」が抜かれてしまっていたように感じたからだ。

オーディオ・ノートの製品は、ずっと以前にカートリッジと昇圧トランスは聴いているが、
アンプに関しては「オイロダインを楽しむ会」で初めてだった。
そのくらい縁がなかったわけで、オーディオ・ノートのアンプがどういう音なのかは、
まったく把握していない、といっていいぐらいだ。

なので毒気を抜かれた音になってしまった原因がどこにあるのかは、
なんともいえない。
それに毒気を抜かれたと感じたのは、私ぐらいだったのかもしれない。

Date: 5月 23rd, 2024
Cate: EMT, TSD15, 音の毒

音の毒(TSD15のこと・その1)

昨晩ひさしぶりに聴いたEMTのTSD15。
カートリッジは、ステレオサウンドで働いていたこともあって、
かなりの数を聴いている。

それでも自分のシステムで使ってきたカートリッジとなると、
十本にも満たないし、そのなかでいちばんながい時間聴いてきたのはTSD15だった。

いまもTSD15は持っている(聴いてはいないけれども)。

TSD15の構造は、いまどきのカートリッジということだけでなく、
私が使っていた時代でも、音質優先とは言い難い点がいくつもあった。

カートリッジ下側のカバーもそうだし、
ヘッドシェルとカートリッジ本体の取りつけに関して、そういえる。

TSD15には、トーレンス・ヴァージョンのMCH-Iがあった。
このMCH-I(正確にはSMEコネクターを採用したMCH-II)では、
下側のカバーを外した音を聴いては、やっぱりこのカバーはないほうがいい──、
そんなふうに感じていたけれど、TSD15となると、ずっとカバーをつけたまま使っていた。

一度は外した音を確認している。
もちろん音は変る。
それでも外したままにはせずに、すぐにつけなおした。

TSD15の針先が変更になったSFLタイプを買ってからも、
一度はカバーを外した音を確認して、結局はつけたままだった。

外した方がよくなるところはある。
けれど、ここでのテーマである音の毒、
そういうものをひっくるめての音として受けとめていたような気がする。

昨年のインターナショナルオーディオショウで、あるメーカーのカートリッジを、
数機種、安価なモデルから高価なモデルへという比較試聴があった。

こういう比較試聴をすると、確かに値段があがっていくごとに、
なるほどと感心する音が鳴ってくる。

ダイアモンド・カンチレバー採用の百万円超のモデルとなると、
さすがだな、と思っていたけれど、ここまで聴いて思っていたのは、
このカートリッジを欲しいのか、である。

Date: 5月 21st, 2024
Cate: 音の毒

音の毒(オイロダインのこと・その1)

音の毒、もしくは毒のある音。
シーメンスのオイロダインを知った時から、ずっと頭のなかに居続けている。

ステレオサウンドの姉妹誌であったサウンドボーイの編集長のOさんは、
シーメンスのオイロダインに惚れ込んでいた人で、鳴らしていた人である。

そのOさんのいっていたことで、いまも憶えている、
そして昨晩、わずかな時間ではあったけれどオイロダインの音を、
野口晴哉記念音楽室で聴いて、思い出していた。

Oさんは、歌舞伎でもある、と。
歌舞伎、つまり女形である。

男性が女性を演じる。
そのことによってうまれてくる毒みたいなものが、オイロダインの音にはある、と。

Date: 8月 11th, 2015
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(荻上チキ・Session-22をきいた)

TBSラジオで月曜から金曜の22時から「荻上チキ・Session-22」が放送されている。

テレビのない生活が長いと、決った時間にテレビやラジオをつけて番組を視聴するという習慣がなくなる。
だから、けっこう聞き逃すことも多いが、できるだけ聞くようにしているラジオ番組のひとつである。

昨夜(8月10日)のテーマは、
荻上チキの『長崎・原爆の日』取材報告 被爆報道のこれから、そして当事者たちが望むこと」だった。
いまは便利な世の中である。
聞き逃してもインターネットがあればポッドキャストでいつでも聞くことができる。

昨夜の「荻上チキ・Session-22」は、ひとりでも多くの人に聞いてもらいたい。
前半の、7歳で長崎で被爆された元長崎放送の記者、船山忠弘氏の話も聞き逃してはならない。
けれど、後半の長崎被災協・被爆二世の会・長崎会長の佐藤直子氏の話。

直子氏のお父様(14歳で被爆されている)の話を聞いたとき、
いままで体験したことのなかった感覚におそわれた。
なんなんだろう……、ととまどうしかなかった。

直子氏のお父様は、弟を被爆で亡くされている。
それだけでなく、自らの手で火葬されている。

この部分を聞いたとき、すぐにはなにかの感覚におそわれたわけではない。
わずかの間をおいて、それはおそってきた。

戦争の悲惨さは親からも断片的に聞いている。
テレビ、映画、小説、マンガなどでも知っている。
長崎原爆資料館にも行っている。

戦争を体験した人の数だけの悲惨なことがあったのはわかってはいたつもりだった。
それでも、佐藤直子氏の話を聞いたあとにおそってきた感覚には、とまどうしかなかった。

Date: 9月 12th, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その14)

A氏の録音に対して強い口調で「毒にも薬にもならない」と私に話された人は、
録音に対して非常に造詣の深い人である。
その人が、あえてA氏の名前を出されたことの意味を、考えてしまう。

「毒にも薬にもならない」存在の優秀録音は、案外増えて来つつあるのではなかろうか。
私は、A氏の録音されるジャンルの音楽をほとんど聴かないから、
そのへんの事情については疎いところがある。

でも、この「毒にも薬にもならない」は、何も録音のことだけにとどまらず、
いまのオーディオの聴かせる音についても、あてはまる。

以前は、ひどい音を出すオーディオ機器があった。
現行製品で、そんなオーディオ機器はもうない、といえるだろう。
まったくなくなったわけでもないだろうが、その割合はずっと少なくなっている。

いまのオーディオ機器は、ある水準にあり、
だからこそ、どの製品を買っても、まず大きな失敗ということはない、ともいえる。
優秀な製品が増えた、ということでもある。

これはけっこうなことである。
あるけれども、そのことと「毒にも薬にもならない」再生音・録音が増えてきたことが、
無関係なこととはどうしても思えない。

なんと表現したらいいのだろうか、
「毒にも薬にもならない」音のことを。

いまのところ思いつくのは、薄っぺらな清潔な音だ。

Date: 9月 5th, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その13)

五、六年前のことだ。
あえて詳細はぼかして書くのは、このことで個人攻撃・否定をしたいわけではないからだ。

ある会話の中で、ある録音エンジニアの名前が出た。
仮にA氏としておく。
「A氏の録音を聴いたことがあるか」ときかれた。

オーディオに関心のある人、録音に関心のある人ならば、
いちどは聞いたことのある名前だった。

A氏の録音の話になった。
そこでの結論は、A氏の録音は「毒にも薬にもならない」ということだった。

そのときからも、そしていまも、A氏の録音は優秀録音という世評を得ている。
音にこだわった録音ということでもある。

たしかに、聴けば、よく録れている、と誰もが感じる。
私もそう感じるし、その時A氏の録音についてきいてきた人(私よりも年上)も、同感だった。

よく録れているから、いわゆるキズのある録音ではないし、ケチのつけられる録音ということでもない。
でも、どこまでも、そこまで止りなのである。
それ以上のもの、それこそsomethingが感じられない。

そんな意味も含めての「毒にも薬にもならない」録音だ、という結論になったのだった。

Date: 9月 4th, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その12)

五味先生も「バルトーク」の中で書かれている。

《およそ音楽というものは、それが鳴っている間は、甘美な、或は宗教的荘厳感に満ちた、または優婉で快い情感にひたらせてくれる。少なくとも音楽を聞いている間は慰藉と快楽がある。快楽の性質こそ異なれ、音楽とはそういうものだろう。》

そうだと思う。多くの人がそう思っていることだろう。

なのに聴き手に何かを自白させる──精神的な拷問──ために音楽をかける、
それも自白を要求する者と自白を強要される者とが、ここでは同じである。
こんな理不尽な音楽の聴き方は、本来の音楽の聴き方とはいえない──、
そう思う人のほうが多いだろうけれど、ほんとうにそうだろうか。

自分自身に精神的拷問をかける──、
ここにオーディオを介して音楽を聴く行為の、もうひとつの姿が隠れている。
そのことに気づかず、音楽を聴いて浄化された、などと軽々しく口にはできない。

忘れてしまいたい、目を背けたい、そういったことを己の裡からえぐり出してくる。
それには痛み・苦しみ・気持悪さなどがともなう。

つまり、バルトークの、ジュリアード弦楽四重素団による演奏盤は、
五味先生によって、「毒」でもあったのかもしれない。

こんな音楽との接し方・聴き方は、やりたくなければやらずにすむのがオーディオである。
毒など、強要されてもイヤだ、まして自らすすんで……など、どこか頭のおかしい人のやる行為だ、
世の中の趨勢としては、はっきりとそうだと感じている。

そして増えてきているのが「毒にも薬にもならない」──、
そんなものである。

Date: 9月 2nd, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その11)

映画やドラマでの拷問のシーンは、
たいていがなんらかの情報を得るため、だとか、自白を強要するときに、肉体的苦痛を与えるものとして描かれる。

肉体的苦痛を与えるだけの行為は、拷問とはいわないようである。

拷問がそういうものだとすれば、
音楽をきいての、精神的な拷問とは、聴き手になんらかの自白を強要するものということになる。

何を聴き手に自白させるのか。

Date: 9月 1st, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その10)

自ら進んで拷問を受けようという人はいない。
肉体的な拷問であれ、精神的な拷問であれ、誰も一度体験してみたい、という人はいない。
前から拷問が迫ってきたら、なんとか回避したい、とするのが人間だろう。

なのに、五味先生は「バルトークの全六曲の弦楽四重奏曲を、ジュリアードの演奏盤で私は秘蔵」されていた。
その理由について書かれているし、この項ですでに引用している。

ジュリアードの演奏盤を秘蔵されているけれど、
この演奏盤は五味先生にとって愛聴盤とはいえないものだった、と思う。

愛聴盤であるはずがない。
けれど、秘蔵されている。

キレイなもの、キレイどこのみで世の中が成り立っていて、世の中をわたっていけるのであれば、
ジュリアードの演奏盤を秘蔵しておく必要はない。

けれど世の中にはバルトークの弦楽四重奏曲がすでに存在しており、
ジュリアード弦楽四重奏団による1963年の演奏盤も存在しているということが物語っている、
世の中は、決してそういうものではない、ということを。

だから五味先生はジュリアードの演奏盤を秘蔵されていた。

Date: 8月 25th, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その9)

「無音はあらゆる華麗な音を内蔵している」

五味先生の言葉だ。
これを「五味オーディオ教室」で読んだ。

それ以来、「無音はあらゆる華麗な音を内蔵している」は私にとって、
オーディオについて迷ったとき、これを思い出すようにしている。

五味先生は、バルトークの弦楽四重奏曲を聴かれたからこそ、
この「無音はあらゆる華麗な音を内蔵している」という真理にたどり着かれたのではないのか。

私の勝手な想像でしかないのだが、
あるひとつのきっかけ、出来事でこの「無音はあらゆる華麗な音を内蔵している」にたどり着かれたとは思えない。
いくつかのことから、ここにたどり着かれたのだとおもう。

そのひとつが、ジュリアード弦楽四重奏団によるバルトークの演奏盤での体験だったはずだ。

この項の(その4)で引用したところから、一部くり返す。
     *
バルトークに限って、その音楽が歇んだとき、音のない沈黙というものがどれほど大きな慰藉をもたらすものかを教えてくれた。音楽の鳴っていない方が甘美な、そういう無音をバルトークは教えてくれたのである。他と異なって、すなわちバルトークの音楽はその楽曲の歇んだとき、初めて音楽本来の役割を開始する。人の心をなごめ、しずめ、やわらげ慰撫する。
     *
この体験なくして、どうして「無音はあらゆる華麗な音を内蔵している」にたどり着けるだろうか。

Date: 8月 24th, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その8)

いま聴くことができるバルトークの弦楽四重奏曲のすべてを聴いているわけではない。
自分で購入して聴いてきたもの、友人・知人のところに行ったおりにたまたま聴く機会があったもの、
レコード店にてあれこれ見てまわっているときに、たまたまかけられていたもの、
インターネット・ラジオを聴いていたら、たまたまかけられたなどによって、
いくつかの弦楽四重奏団によるバルトークを聴いてきた。

それらの中には、五味先生がもし聴かれたら、
「バルトークは精神に拷問をかけるために聴く音楽としか思えなかった」、
「気ちがいになっても、バルトークのクヮルテットがあるなら私は音楽を失わずにすみそうだ」
と思われただろうか──、そんなことをつい思ってしまう演奏もある。

そういう弦楽四重奏団によるバルトークが「歇んだとき」、
五味先生は「ホッとした」のだろうか。

どんな弦楽四重奏団による演奏であれ、
バルトークの弦楽四重奏曲が、ほかの作曲家の弦楽四重奏曲に変るわけはない。
五味先生がバルトークの弦楽四重奏曲に感じられた、いくつかのことは、
バルトークの音楽だからであるから、であり、それがジュリアード弦楽四重奏団による演奏盤であったからである。
私は、そう考えている。

Date: 8月 24th, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その7)

1963年当時のジュリアード弦楽四重奏団と録音スタッフがそのまま2013年の現在にいたとしても、
1963年と同じ演奏をするとは思えない。
1981年の録音の方向へと、より洗練したものになるのではなかろうか。

1963年と、ジュリアード弦楽四重奏団がデジタルで三度目の録音としたときとでは、
バルトークの弦楽四重奏曲の聴かれ方も変化している。
レコードも、それほどとはいえないものの数は増えていた。

2013年の現在、バルトークの弦楽四重奏曲はいったい何組出ているのか。
HMVのサイトで検索してみると、けっこうな数があることがわかる。
1963年には現代音楽であったバルトークの弦楽四重奏曲は、
1981年には現代音楽と呼びにくくなっていたし、
2013年の現在では、現代音楽とはすでに呼べなくなっている。

もう「知らしめる」ということは必要ではなくなっている。

そんな時代の移り変りがあるから、
1963年当時のジュリアード弦楽四重奏団と録音スタッフがいまにいたとしても、
1963年と同じ演奏・録音(つまり表現)は行わない。

1963年のジュリアード弦楽四重奏団のバルトークに感じられた気魄は、
まだバルトークの弦楽四重奏曲が現代音楽であったこと、
そして知らしめると役目も担っていたからこその気魄でもあったはず。

そこに時代を、聴き手のわれわれは感じとることができる。
そして、五味先生にとって「バルトークは精神に拷問をかけるために聴く音楽としか思えなかった」ことにも、
それは影響を及ぼしている──。

Date: 8月 24th, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その6)

10年以上前のレコード芸術の記事だったと記憶している。
ドイツ・グラモフォンのプロデューサーが語っていたことがある。

著名な演奏家による、いわゆる売れ筋の録音のときに、
同時にあまり知名度のない作曲家や新しい作曲家の作品を録音してカップリングするのは、
より多く売れる録音とひとつとして売ることで、
そのレコード(録音物)の聴き手に、知らしめるためでもある、ということだった。

そういった作曲家の、そういった作品だけを集めた録音では、
マニアックなごく一部の聴き手は買ってくれるだろうがほ、
多くの、そうでもない聴き手の耳に届くことはない。

彼らは音楽のプロフェッショナルである。
プロフェッショナルであるから、音楽を録音してそれを売ることで収入を得ている。
だが、商業的なことだけを考えて、企画をたて録音をしているわけではない。
そこには聴き手への教育的な意味合いもこめられている。

1963年のジュリアード弦楽四重奏団によるバルトークの弦楽四重奏曲の全集にも、
そういう意味合いがこめられている──、そんな気もする。

1963年にバルトークの弦楽四重奏曲がどれだけ一般的な聴き手の耳に届いていたのか、
正直わからない。
この時代のシュワンのカタログでもあれば、
バルトークの弦楽四重奏曲のレコードがどれだけ出ていたのか、それがわかるし、
おおよそのことは想像できるだろうが、この時代のシュワンのようなレコードのカタログ誌はもっていない。

ハンガリー弦楽四重奏曲による1961年の録音とジュリアード弦楽四重奏団のモノーラルの録音くらいしか、
他にどれだけあったのかを、私は知らない。
バルトーク弦楽四重奏団による録音は1966年ごろ、
タートライ弦楽四重奏団は年代がはっきりしないが60年代半ばごろだ。