Archive for 1月, 2021

Date: 1月 31st, 2021
Cate: 老い

老いとオーディオ(オーディオ機器の場合・その1)

オーディオ機器は工業製品である。
工業製品は、遅かれ早かれいつかは製造中止になる。

これは工業製品の一つの死である。

製造中止になったからといって、
誰も使わなくなるわけではない。
愛着をもって使ってくれる人がいるかぎりは、
そのオーディオ機器は、別の死を迎えているわけではない。

でも、それもいつかは終る日が来る。
ずっと同じ人が使い続けたとしても、その人が亡くなってしまえば、
そこで終る。
もくしはその人が、新しいオーディオ機器を買い替えるために売りに出したら──、
これも一つの死である。

どこかに売られる。
おもにオーディオ店に下取りに出されることだろう。
そこで誰かの目(耳)に留り、その人のもとへ行くことができれば、
復活したといえる。

けれどなかにはなかなか売れずに残ってしまう場合もある。
投げ売りに近い状態での値が付けられて、ぞんざいな扱いを受けるかもしれない。
これも一つの死である。

ずっと誰かのもとで使い続けられていても、
工業製品であるから、いつかは故障する。
故障しても修理ができることもあれば、
長く使っている製品であればあるほど、修理が難しくなることもある。

修理不可能となってしまった工業製品。
これも一つの死である。

工業製品には、こんなふうにいくつもの死があるといっていいだろう。

発売当時、高い評価を得ていたスピーカーであっても、
いつかは忘れられてしまうことが多い。
評価は高くても売れないことも決して少なくない。

そういう製品はかなりの安値で中古店の店頭に並ぶことがある。
多くの人がふり返られない。

けれど、そういうスピーカーを、ふと思い出す人がいたりする。
出逢ったりする。
転売ヤーといわれている買われてしまうのではなく、
そのスピーカーのよさを、きちんと理解している人のところにいくことによって、
そのスピーカーは救われた、といってもいいだろう。

相手は機械である。
そんなふうにすっぱりと割り切ってしまえるのならば、
ずいぶんとラクになるだろうけど、
そうなれる人もいればそうでない人もいる。

私に、いくつかの好きなスピーカーがある。
人気のあったスピーカーばかりではなく、そうでないスピーカーでも、
いまでも好きなモノがある。

そういうスピーカーの一つが、あるオーディオ店に中古として並んでいる。
私は行ったことのない店である。

そこで古い友人が、そのスピーカーの音を聴いて驚いたようだ。
人気のない製品だから、程度のよさにもかかわらず安価である。

また決心していないみたいだが、
きっと友人のところにゆくであろう。

安いから、というだけで、
そのスピーカーを買ってしまう人もいると思う。
それでも、その人がそのスピーカーの良さに気づいて、
オーディオのおもしろさにめざめてくれればそれはそれでいいことだが、
そんなことは実際のところ、そうそう起るとは思っていない。

友人のところに、そのスピーカーがいってくれれば、
工業製品の死から、しばらくは逃れられよう。

Date: 1月 30th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Children of Sanchez(その6)

JBLの4343は1976年に、
チャック・マンジョーネの「サンチェスの子供たち」は1978年に出ているから、
同時代のスピーカーとディスク(録音)である。

誰が言い出したのかははっきりとしないが、
この時代、マサカリ低音という表現があった。

4343で鳴らす「サンチェスの子供たち」のドラムスの音は、
まさにマサカリ低音であった。

切れ味のよい低音というだけではない。
かみそりのような切れ味もあれば、
包丁のような切れ味もある。

さらには日本刀、鉞(マサカリ)のような切れ味もある。
鉞を持ったことはないが、重量がしっかりとあることはわかる。

そんな重量物による切れ味の低音と、
軽量級のモノによる切れ味の低音とは、同じではない。

こういう低音は、当時でもJBLのスタジオモニターの独壇場といえた。
「サンチェスの子供たち」のCDは、以前喫茶茶会記でのaudio wednesdayでも鳴らした。
悪くはなかったのだが、
私のなかには、4343でのマサカリ低音が残ってしまっているから、
あと少し、あと少し、とどうしても思ってしまっていた。

「サンチェスの子供たち序曲」に関しては、
二枚組のCDだけでなく、ベスト盤「The Best of Chuck Mangione」でも聴ける。

二枚組のCDの音に大きな不満はなかったけれど、されど満足もしていなかったから、
ベスト盤の音(リマスタリングされている)には期待した。

こちらも悪くはなかった。
でも私にとってのリファレンスがそういうことだから、
この程度止りか、と思ってしまった。

だからこそMQAで聴きたい、と思い続けてきた。

Date: 1月 30th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Children of Sanchez(その4・追補)

まだ別の方からコメントがあり、
香港のMQAでも「サンチェスの子供たち」はMQA(96kHz)とのこと。

1月29日の時点ではMQAは配信されていない、とのコメントがあった。
1月30日には配信されているわけだ。

時間差があるのだろうか。
「サンチェスの子供たち」は、アメリカでも香港でもMQAで聴けるようだが、
この件で検索してわかったのは、
香港ではMQAで配信されていないアルバムがいくつかあることだ。

なぜ、このようなことがあるのか、その理由はよくわかっていない。

Date: 1月 30th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Children of Sanchez(その5)

チャック・マンジョーネの「サンチェスの子供たち」は名盤なのだろうか。
今回、別の方のコメントで知ったのだが、
東欧のある国で、いま大人気だ、ということ。
あるDJがラジオでかけたことで広まったそうである。

嬉しいな、と思うのだが、
「サンチェスの子供たち」のCDを手に入れたとき、
音楽好きの知人に貸したことがある。

音楽のジャンルに特に偏見のない人だったけれど、
「これ、なんですか?」といわれたことがある。

まったくピンとこなかったそうだ。
そうなのかもしれない。

それでもいい。
私にとって「サンチェスの子供たち」は何年か周期でものすごく聴きたくなる存在だ。
時間があれば、二枚組を頭から聴くことは減ったが、どちらかのディスクは聴く。
時間がなければ、とにかく「サンチェスの子供たち序曲」は聴く。

一曲だが、14分ほどある曲だ。
私にとって「サンチェスの子供たち序曲」は、
4343で聴いた音が分ち難く結びついている。

熊本のオーディオ店で瀬川先生が鳴らされた音が、いまもはっきりと耳に残っている。
とにかく、その音が、私にとって「サンチェスの子供たち序曲」のリファレンス(基準)である。

Date: 1月 30th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Children of Sanchez(その4)

「サンチェスの子供たち」のことで、facebookへのコメントがあり、
わかったことがある。

TIDALは、すでに書いているように日本でのサービスは開始されていない。
けれど日本からでも契約することはできる。

日本からのアクセスそのままでは無理なので、
VPNソフトを使ってアクセスすることになる。

その際、どこの国からアクセスすることにするか。
香港からにすると、TIDALの一ヵ月あたりの料金は、
アメリカからにした場合よりも安くなる。

私も最初、香港からにして、と考えていたが、
なぜだか私が使ったVPNでは香港が使えなかった。
それでアメリカにしてわけだが、これが結果的によかった。

「サンチェスの子供たち」は、TIDALでもMQAで聴ける。
けれど香港からにして契約した人によると、
44.1kHz、16ビットでの配信はあるけれど、MQAはない、ということだった。

気になって調べてみると、
44.1kHz、16ビットでのラインナップには違いはなさそうである。
といっても細かくチェックしたわけではない。

けれどMQAになると国によって違うことははっきりとした。
アメリカがMQAのラインナップがいちばん充実しているのかどうかは、
いまのところなんともいえない。

とにかく香港ということで契約していたら、
いまでも「サンチェスの子供たち」のMQAはまだなのか、
と首を長くすることになっていたはず。

Date: 1月 29th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Children of Sanchez(その3)

寝る前に、e-onkyoのサイトにアクセスして、
新譜をチェックするのはすっかり日課になってしまっている。

昨晩というか、正確には1月29日に日付が変ってすぐにアクセスした。
なにかの期待があったわけではなかった。

今年になってからの新譜に、個人的に、おっ、と思うタイトルはまだ出ていなかった。
今日もそうかな、と思っていた。

まずクラシックのニューリリースを見る。
それから邦楽、ロック/ポップス,ジャズの順に見ていくことが多い。

ジャズのところ。
iPhoneで見ることがほとんどで、
iPhoneのディスプレイには3タイトルと4タイトル目の端っこが少しだけ表示される。
横にスクロールさせていくことで、続けて見れる。

そこに見慣れたジャケットであり、
MQAで聴きたいと思っていたジャケットがちらっと見えた。

今年初めての、e-onkyoでの、おっ、であった。
かなり大きなおっ、でもあった。

チャック・マンジョーネの“Children of Sanchez(サンチェスの子供たち)”である。
MQA(96kHz、24ビット)もある。

やっと出た(来た)。

午前0時すぎに見たときには、リリース日は確かに1月29日になっていた。
私にとって、嬉しい誕生日プレゼントといえる。

なのに今日さきほど確認のためみたら、
なぜか1月24日に変更されていた。

どちらにしてもいい。
とにかく「サンチェスの子供たち」がMQAで聴けるようになったのだから。

Date: 1月 29th, 2021
Cate: 老い

老いとオーディオ(と私、そして今日)

1980年4月1日、私は17歳だった。
五味先生が58歳で亡くなられた。

「五味オーディオ教室」からスタートした私にとって、
58歳の五味先生はとても大人のようにおもえていたし、
自分がいつかは58歳になるなんて、まだ想像すらできなかった。

このころの私が考えていたのは、
オーディオの世界で、ということだけだった。

それから四十一年。
今日、五味先生の享年と同じ58になった。

私にとって60歳になることよりも、58歳のほうが重く感じられる。
五味先生と同じ歳になってしまったけれど……、というおもいがある。

五味先生は「私の好きな演奏家たち」に、書かれている。
     *
 近頃私は、自分の死期を想うことが多いためか、長生きする才能というものは断乎としてあると考えるようになった。早世はごく稀な天才を除いて、たったそれだけの才能だ。勿論いたずらに馬齢のみ重ね、才能の涸渇しているのもわきまえず勿体ぶる連中はどこの社会にもいるだろう。ほっとけばいい。長生きしなければ成し遂げられぬ仕事が此の世にはあることを、この歳になって私は覚っている。それは又、愚者の多すぎる世間へのもっとも痛快な勝利でありアイロニーでもあることを。生きねばならない。私のように才能乏しいものは猶更、生きのびねばならない。そう思う。
     *
長生きする才能だけは、五味先生よりももっていそうである。

Date: 1月 28th, 2021
Cate: オーディオ入門

オーディオ入門・考(続・問と聞のあいだに)

入門の門(もんがまえ)に口がつくと問、耳がつくと聞になる。

ここでの口と耳はひとりの人物の口と耳ではないはず。
ある人の口から問いが発せられる。
それを別の誰かの耳が受けとめる(聞く)。

ならば問と聞のあいだにあるのは、音である。
門(もんがまえ)と音で、闇になる。

問・闇・聞なのか。

上記のことを六年前に書いている。
いま読み返していた。

聞が音楽のききてとすれば、
問は音楽を発しているのだから、演奏家でもあり、
オーディオの世界に限定すれば、スピーカーとなるのか。

問がスピーカーだとすれば、闇はオーディオの音ということになる。
問が演奏家ならば、闇はオーディオという録音と再生の系となる。

闇は、やみである。

「五味オーディオ教室」に《音の歇んだ沈黙》とあった。
音の歇(や)んだ沈黙、である。

(やみ)は、止みでもある。
ならば歇み、でもあるのか。

闇は《音の歇んだ沈黙》なのだろうか。

Date: 1月 28th, 2021
Cate: TANNOY

タンノイはいぶし銀か(その12)

昨晩のブログを書き終って、
五味先生の「いい音いい音楽」の数本を読み返していた。

「むかしのカラヤンは素晴らしかった」の冒頭に、こう書いてある。
     *
 カラヤンは低俗だと前回評したら、抗議の投書がかなりきたので、なぜ低俗かを説明しておく。芝居を例にとると、舞台に登場する人物の科白およびその生きざまはすべて脚本に規制され、すぐれた劇は、舞台で役者の登場をまたずとも脚本を読んだだけで、いい芝居だとわかるものだし、ストーリーのどのあたりで芝居はドラマティックになり、劇が高揚するかも、脚本でわかる。ところが、下手な役者にかぎって、ストーリーの高揚したドラマティックな場面にくると大見得を切り、どうだとばかりに力演する。つまり低級な演技である。すぐれた役者は、そういう場面ではむしろ芝居をおさえ、さりげなく演じるから燻銀のように演技は光り、ドラマの感動も深い。
     *
ここに「燻銀」が出てくる。
演技についての「燻銀」ではあるのだが、
大見得を切らない表現で音楽を聴かせるということでは、
確かにタンノイ(同軸型ユニットを搭載したタンノイに限定)は、いぶし銀といえる。

けれど日本のオーディオマニアのあいだでの「タンノイはいぶし銀」は、
音色に関連してのことだけのように感じられ、
つい「タンノイはいぶし銀か」というテーマを書いているわけだ。

Date: 1月 27th, 2021
Cate: 所有と存在, 欲する

「芋粥」再読(その6)

未開封のCDボックスが溜っていく……。

クラシックのCDボックスの安さは、
つい買っておこう、と思ってしまうほどで、
これを書いている私も、さすがに未開封のCDボックスはないが、
CDボックスすべてのディスクを聴いているのもあれば、そうでないボックスものもある。

CDボックスが、こんなに安価で入手できる以前から、
封も切らずにそのまま、ということはあった。

五味先生にもある。
     *
 書籍に〝ツンドク〟というのがある。全集もののように、申し込めばいやでも届けられるのではなく、ふらりと入った書店で読んでみようと買った本を、そのまま、読まず積んでおく謂だが、私くらいの歳になると、買ったレコードも帰宅後すぐ聴かず、レコード棚に置いたまま忘れることがある。まさか〝ツンレコ〟ともいうまいが、似たようなものだ。最近、そういうレコードが二十枚ちかくあるのに気がつき、あらためて聴いてみて無性に腹の立ったのが、ポリーニのベートーヴェンのソナタ(作品一一一)だった。
     *
「いい音いい音楽」に収められている「他人の褒め言葉うのみにするな」からの引用だ。
1970年代終りごろで、五味先生でも20枚ほど聴かずのレコードが溜まっていた。

クラシックのCDボックスは、20枚以上のものもけっこう出ている。
50枚を超えるものも少なくない。

五味先生のころから四十年。
あとで聴こう、時間がゆっくりとれたら聴こう、などと思っていたら、
聴かずのディスクは数十枚単位で増えていくばかりだ。

ここで考えたいのは、聴かずのCDボックスが増えていく一方の人は、
TIDALを利用するだろうか、である。

CDボックスを買ったり、中古店にまめに通い、コレクションに足りないものを探す。
そういう人でTIDALを利用していない、というのはどのくらいの割合なのだろうか。

日本では正式にサービス開始になっていないが、
Googleで検索すればどうすればいいのかはすぐにわかるし、
それにかかる労力はわずかでしかない。

しかもTIDALは44.1kHz、16ビットで聴ける。
CD未満の音というわけではない。
それにMQAでの配信もかなり積極的に行っている。

TIDALに手をのばさない理由があるだろうか。

Date: 1月 26th, 2021
Cate:

賞とショウ

春のヘッドフォン祭の中止が発表になった。
オンラインでの開催のみである。

OTOTENがどうするのか、春ごろには発表になるであろう。
OTOTENも中止になっても驚く人はいないであろう。

いまの状況からすれば、今年もオーディオショウの多くは中止になってもおかしくない。
コロナ禍でオーディオショウは、こういう状況である。

けれどオーディオ賞のほうは、昨年の暮も、
恒例行事のように、各オーディオ雑誌で行われた。

ショウと賞。
違うものであっても、どちらも惰性で行われていると感じてしまうところがある。

オーディオショウは、昨年に続き今年も中止が続けば、
再開するにあたっては、これまでの惰性から脱却し始めるかもしれない。
そんなことを期待している。

けれど賞のほうは──、書くまでもないだろう。

Date: 1月 25th, 2021
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これまで(技術の植民地)

昔もいまもそうなのだが、多くのオーディオマニアは、
日本製のスピーカーよりも海外製スピーカーをありがたがる傾向がある。

こんなことを書いている私自身もそうである。
そうであっても、トータルの音ではなく、
これまで日本のオーディオメーカーがスピーカー開発にかけてきた技術力は、
そうとうなものだった、と思っている。

スピーカーユニットの振動板の素材開発にしてもそうだし、
ユニットの構造もさまざまなものが登場してきた。

測定技術においてもそうだった。

いま海外メーカーが、技術的メリットを謳っていることの多くは、
ずっと以前に日本のメーカーが実現していたことだった。

なのに、そんなことをすっぽり忘れてしまっているオーディオマニアがいる。
若い世代のオーディオマニアならば、
そういった日本のスピーカー技術をよく知らないだろうからしかたないが、
私と同世代、上の世代においても、忘れてしまっているのか、
もともと興味がなくて調べることすらしなかったのか、
どちらにしても、その人が好きな海外メーカーのブランド名をあげて、
ここはすごい、といっている。

その技術は、ダイヤトーンがとっくに実現していましたよ、と返しても、
知らない、という。自分の知らないことは事実ではないような顔をする人もいた。

そんな人がえらそうことを若い世代に対して語ったりするのか。
そんなことも思うのだが、そんな人のことは実はどうでもいい。

欧米のオーディオメーカー、特にヨーロッパのメーカーがうまい、と感じるのは、
そんなふうに日本のオーディオメーカーが開発した技術を、
こなれたころになってうまく利用しているところにある。

1970年代から1990年代にかけての日本のオーディオメーカーは、
その意味では海外のオーディオメーカーにとっての技術の植民地といえるのではないか。

Date: 1月 24th, 2021
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その11)

(その10)から半年。
タンノイのコーネッタは喫茶茶会記で六回鳴らしている。
なのに、コーネッタでブルックナーをかけてはいない。

コーネッタは、ブルックナーをどう鳴らすのか。
興味がないわけではない。
それでも、ブルックナーの交響曲よりもコーネッタでとにかく聴きたい曲があった。
それらを優先して聴いた(鳴らした)ので、ブルックナーはまだである。

(その9)で、五味先生は、山中先生の鳴らすアルテックを聴いて、
《さすがはアルテック》と感心されている。
ブルックナーの音楽にまじっている水を、見事に酒にしてしまう響き、だからだ。

さすがはアルテックなのだが、
アルテックということはもちろん無視できないが、
山中先生が鳴らされているアルテックだから、ということも大きい。

山中先生の音は何度か聴いている。
けれどブルックナーは聴いたことがない。
アルテックも聴いたことがない。

JBLはどうなのか。
4343はどうなのか。

4343は、ブルックナーの音楽にまじっている水を、どう鳴らすのか。
アルテックのように見事に酒にしてしまうのか、
それともタンノイのように水は水っ気のまま出してくるのか。

ふりかえってみると、4343でブルックナーを聴いたことがない。
4343の後継機、4344では数回聴いているが、印象は薄い。

4344で聴いたブルックナーは、やっぱり長いと感じていた。
ということは、ブルックナーの音楽にまじっている水を、
4344は酒にはしなかったのだろう。

ここで聴いてみたい、と思うのは、ヴァイタヴォックスである。
ヴァイタヴォックスは、ブルックナーの音楽にまじっている水をどう鳴らすのか。
すんなりと見事に酒にしてしまうのではないだろうか。

Date: 1月 23rd, 2021
Cate: ショウ雑感

2021年ショウ雑感(その7)

(その5)で、
才能ある人が、オーディオ評論家(職能家)を目指して、
この世界に入ってくることがなくなってくる、と思うと書いた。

書きながら、思っていたことがある。
いまのオーディオ業界は、才能ある人を欲しがっていないのではないか、と。

新しい才能、優れた才能の人が現れないか、とか、欲しい、などと口ではいう。
けれど本心は、そうなのだろうか。

オーディオ評論家(職能家)のいない、いまの時代はどんぐりの背比べである。

みんなどんぐりだから、外から見ている人のなかには、
どんぐりだということに気づかないのかもしれない。

そこにオーディオ評論家(職能家)を目指せる、期待できる人が入ってきたとしよう。
その人は、はっきりとどんぐりではない。

どんぐりの集団に、どんぐりではない人(栗)が入ってくれば、
それまでの人たちがどんぐりであったことが、多くの人にばれてしまうことになる。

そうなって困るのは、どんぐりの人たちだ。
いまさらどんぐりから栗へと変ることは無理だろうから。

いまはオーディオショウだけでなく、オーディオ店のイベント、
さらにオーディオ雑誌の読者訪問記事も、コロナ禍でない状態だ。

これは機会の喪失でもある。

Date: 1月 22nd, 2021
Cate: ショウ雑感

2021年ショウ雑感(その6)

今年のオーディオショウがどうなるのかはなんともいえない。
仮にことも昨年に続き、ほぼすべてのオーディオショウが中止になった、としよう。

オーディオ漫談にふれる機会が、ほぼなくなることでもある。
オーディオショウのブースで、オーディオ評論家と呼ばれている人たちが、
一時間ほど話をしたり音楽をかけたりする。

一般的にはこれを講演と呼ぶのだが、とうてい講演とはいえないレベルばかり、と感じている。
プレゼンテーションにもなっていない。
なんと呼んだらいいのか、不明な人たちの時間がある。

そんななかで、柳沢功力氏と傅 信幸氏の時間は、オーディオ漫談といえる。
揶揄する意図はまったくなく、
柳沢功力氏と傅 信幸氏は、なかなかのオーディオ漫談家である。

私は長岡鉄男氏もオーディオ漫談家だった、と思っている。

オーディオ評論は瀬川先生から始まった、瀬川先生が始めた、といえる。
オーディオ漫談に関しては、長岡鉄男氏から始まった、長岡鉄男氏が始めた、といえる。

長岡鉄男氏は、このことに自覚的だったのではないだろうか。
そんな気がしてならない。

オーディオ評論家と呼ばれている人は、いまではけっこういる。
それぞれのオーディオ雑誌にそれぞれの人たちがいて、ウェブマガジンに書いている人も数えれば、
どれだけいるのか。もうどうでもいいことのように感じている。

オーディオ評論家(職能家)ではなく、
オーディオ評論家と呼ばれている人たちの数は、私にはどうでもいい。

とにかく何人いるのかわからない。
そのなかで、柳沢功力氏と傅 信幸氏はオーディオ漫談家であり、
オーディオショウにオーディオ漫談家は必要な存在だと思っている。