Archive for category 書く

Date: 1月 15th, 2017
Cate: 書く

毎日書くということ(7000本をこえて感じていること)

昨年のうちに7000本目を書いた。
10000本まで書くことを、目標としている。
10000本書いたら、少しは達成感を得られるのだろうか。

ちょうど半分の5000本目は2014年のうちに書いている。
けれど半分まで来た、という実感はなかった。
2015年に6000本目を書いた時も同じだった。

2016年12月に7000本目を書いて、やっと半分まで来た、と感じられた。
数字的には2/3をこえている。
けれど残り1/3を切って、ようやく、あと半分、という感じなのだ。

残り3000本弱で書く内容を、
これまで書いてきた7000本と同じにすること。
つまりそれだけ凝縮した内容にすること。
そのことをどこかで意識しているから、ようやく半分という感じなのだろう。

そうでなければ10000本目に達成感はないのかもしれない。

Date: 12月 31st, 2016
Cate: デザイン, 書く

2016年の最後に

2015年の最後に書いたのは「2015年の最後に」だった。
「2015年の最後に」が6000本目だった。

ちょうど一年が経ち、「2016年の最後に」を書いている。
7004本目である。
7000本目はベートーヴェンの「第九」について書いたものである。

どうにか一年で1000本を書くことができた。
書いている過程で、「2015年の最後に」で書いたことを何度か思い出していた。

どれだけ書けただろうか、とふり返りたくなるが、
明日になれば7005本目を書く。

Date: 12月 30th, 2016
Cate: 書く

毎日書くということ(キーボードで書くということ)

このブログは、インターネットに接続して書くわけだから、
キーボードで入力している。
私の場合、親指シフトキーボードだから、
JISキーボードでのカナ入力、ローマ字入力とは違うタイプミスがある。

読み返すことをせずに公開しているから、
後で気づいて、こっそりタイプミスや変換ミスを直している。
それでもすべてを見直しているわけではないから、
まだまだ残っているはずだ。

昨夜公開した「オプティマムレンジ考(その11)」では変換ミスがあった。
音量が音良になっていたのを、facebookでの指摘があった。

そのコメントには、指摘だけでなく、
音良量、音良幅(レンジ)、というコメントもあった。

音量が音良になった変換ミスは偶然なのだが、
音良は、確かにオプティマムレンジにつながっていくところがあるのを、
コメントを読んで感じていた。

手書きでは起らない変換ミスには、
時々ではあるが、どきっとして、考えさせられることがある。

先日も変換ミスをしたわけではないが、
音場(おんじょうと読むかおんばと読むかについては以前書いている)について、
おんじょうの音場は、音の乗算、つまり音乗といえるかもしれない、と思っていた。

Date: 12月 19th, 2016
Cate: 書く

毎日書くということ(続たがやす)

三年前に「毎日書くということ(たがやす)」を書いた。

三年の間に、どれだけたがやしてきただろうか。
audio sharing例会で音を鳴らしてきたことは、たがやす行為といえるのだろうか。

たがやすは、cultivateである。
cultivateには、
〈才能·品性·習慣などを〉養う、磨く、洗練する、
〈印象を〉築く、創り出す、
という意味もある。

三年前に書いたことの一部を、くり返し書いているのは、
わかる、わかっているつもりの違いは、
その人が持っている情報・知識の量ではなく、
たがやしているか、たがやしていないか、と思うからだ。

Date: 12月 13th, 2016
Cate: 戻っていく感覚, 書く

毎日書くということ(戻っていく感覚・その6)

一ヵ月ほど前、ラジオから山下達郎の「アトムの子」が流れた。
CDは持っていない。
ラジオから、偶然流れてくるのを何度か聴いている。

聴くたびに、思うことがある。
「アトムの子」という曲そのもののことではない。

ここでのアトムとはいうまでもなく、手塚治虫によるキャラクターであるアトムである。
だからこそおもうことがある。

「アトムの子」よりも「ブラック・ジャックの子」といえるだろうか、と。

「ブラック・ジャック」は連載開始の1973年から読んできた。
まだ小学生だった。
ブラック・ジャックに憧れて医者になろうとは思わなかったけれど、
ブラック・ジャックの生き方に、どこか憧れていた。

アトムのように生きていきたいと思う人もいれば、
私のようにブラック・ジャックのように……、とおもう人もいるだろう。

2008年9月から、このブログを書き始めて、数回「アトムの子」を聴いている。
そのたびに「ブラック・ジャックの子」といえるだけのことを書いているだろうか、と思う。

Date: 11月 4th, 2016
Cate: 書く

毎日書くということ(エリカ・ケートの言葉)

11月のaudio sharing例会で、エリカ・ケートのモーツァルト歌曲集をかけた。
常連のHさんからのメールが、さきほど届いた。
そこには、読売新聞の2009年8月19日の編集手帳からの引用があった。
     *
ドイツのソプラノ歌手エリカ・ケートさんは言語の響きや匂いに敏感であったらしい。歓談の折に語った比較論を「劇団四季」の浅利慶太さんが自著に書き留めている。◆イタリア語を「歌に向く言葉」、フランス語を「愛を語る言葉」、ドイツ語を「詩を作る言葉」と評した。日本語は──浅利さんの問いに彼女は答えたという。「人を敬う言葉です」
     *
浅利慶太氏の「時の光の中で」(文藝春秋)に載っている、とのこと。

私はイタリア語もドイツ語もフランス語もダメである。
英語も苦手である。
日本語だけである。

日本語が「人を敬う言葉」なのだとしたら、
私がここで書いていることは、そこからそう遠くに外れてはいない、と思った。

Date: 10月 22nd, 2016
Cate: 戻っていく感覚, 書く

毎日書くということ(戻っていく感覚・その5)

黒田先生がフルトヴェングラーについて書かれている。
     *
 今ではもう誰も、「英雄」交響曲の冒頭の変ホ長調の主和音を、あなたのように堂々と威厳をもってひびかせるようなことはしなくなりました。クラシック音楽は、あなたがご存命の頃と較べると、よくもわるくも、スマートになりました。だからといって、あなたの演奏が、押し入れの奥からでてきた祖父の背広のような古さを感じさせるか、というと、そうではありません。あなたの残された演奏をきくひとはすべて、単に過ぎた時代をふりかえるだけではなく、時代の忘れ物に気づき、同時に、この頃ではあまり目にすることも耳にすることもなくなった、尊厳とか、あるいは志とかいったことを考えます。
(「音楽への礼状」より)
     *
クラシックの演奏家は、フルトヴェングラーの時代からすればスマートになっている。
テクニックも向上している。
私はクラシックを主に聴いているからクラシックのことで書いているが、
同じことはジャズの世界でもいえるだろうし、他の音楽の世界も同じだと思う。

《あなたの残された演奏をきくひとはすべて、単に過ぎた時代をふりかえるだけではなく、時代の忘れ物に気づき》
と黒田先生は書かれている。

フルトヴェングラーと同じ時代の演奏家の残した録音すべてがそうであるわけではない。
単に過ぎた時代をふりかえるだけの演奏もある。

時代の忘れ物に気づかさせてくれる演奏──、
私がしつこいくらいに五味先生、岩崎先生、瀬川先生のことを書いている理由は、ここにもある。
私自身が時代の忘れ物に気づきたいからである。

オーディオの世界は、いったいどれだけの時代の忘れ物をしてきただろうか。
オーディオ雑誌は、時代の忘れ物を、読み手に気づかせるのも役目のはずだ。

私にとっての「戻っていく感覚」とは、そういうことでもある。

Date: 10月 20th, 2016
Cate: 書く

毎日書くということ(そろそろ考えなければならないこと)

友人たちから「よく毎日書いているね」と言われると、
「三日書かなくなったら孤独死したんだ、と思っていいよ」と答えている。

先月も友人たちとそんな話をしていた。
いまのところ健康に不安はないが、
これから先のことはわからない。
病気にならなくても何かの事故にまきこまれることだってある。

この間も、そんな話が出た。
私がぽっくり逝っても、audio sharingが続いていくようにしておいてほしい、といわれた。

いつそうなってもいいように、
audio sharingを引き継いでくれる人を探しておかなければ──、と考えている。

Date: 10月 20th, 2016
Cate: 戻っていく感覚, 書く

毎日書くということ(戻っていく感覚・その4)

オーディオ、音について書かれる文章は、
瀬川先生の時代よりもいまの方が多い、と感じている。

オーディオ雑誌の数は昔の方が多かった。
けれどいまはインターネットがあるからだ。

量は増えているが、
その多くはパッと流し読みして得られる内容(情報)と、
ゆっくりじっくり読んで得られる内容(情報)とに差がなくなっている。

一度読んだだけで得られる内容(情報)と、
くり返し、それも時間を経てのくり返し読んで得られる内容(情報)とにも差がなくなっている──、
そんなふうに感じている。

そういうものをくり返し読むだろうか。
私は読まない。

残念なことに、いまの時代、そういうものだけが溢れ返っている。
だからよけいに「戻っていく感覚」を強く意識するようになっているのかもしれない。

Date: 10月 20th, 2016
Cate: 戻っていく感覚, 書く

毎日書くということ(戻っていく感覚・その3)

私が書いているものには、瀬川先生、岩崎先生、五味先生の名前がかなり登場している。
これから先書いていくことにも登場していく。

そのためであろう、
私が瀬川先生、岩崎先生、五味先生を絶対視していると思われる人もいる。
絶対視はしていないが、そう思われてもそれでいい、と思っている。

私としては、以前書いていることのくり返しになるが、
松尾芭蕉の《古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ》と
ゲーテの《古人が既に持っていた不充分な真理を探し出して、
それをより以上に進めることは、学問において、極めて功多いものである》、
このふたつの考えが根底にあってのことである。

そのためには検証していかなければならない、と思っている。
それが他人の目にどう映ろうと、ここでのことには関係のないことである。

これも何度も書いているが、
私のオーディオは「五味オーディオ教室」から始まっている。
もう40年経つ。
それでもいまだに新たに気づくことがある。
五味先生の書かれたものだけではない、
岩崎先生、瀬川先生の書かれたものからも、いまでも気づきがある。
いや、むしろいまだからこその気づきなのかもしれない。

それがあるから書いている。
それは、時として私にとっては発見なのである。

Date: 8月 22nd, 2016
Cate: 書く

毎日書くということ(バッハ 無伴奏チェロ組曲)

瀬川冬樹氏のこと(バッハ 無伴奏チェロ組曲)」で、誰の演奏だったのだろう……、について書いた。

そのことを書きながら、同時に考えていたのは、なぜ瀬川先生は書かれなかったのか、だ。
誰の演奏なのかについて書くだけの文字数的余裕は十分にある。
にも関わらず、誰の演奏なのかについての記述はないということは、
あえて書かれなかったのか……、とも考えていた。

だとしたら、それはなぜなのか、を考える。
そうやって考えていくのがおもしろい。

Date: 7月 4th, 2016
Cate: 書く

毎日書くということ(ドキッとさせられたこと)

7月2日の川崎先生のブログには、ドキッとさせられた。
タイトルには、こうあった『「●●とは何か?」、質問形式とその答えは能無しである』。

ブログ本文を読み終えて真っ先にやったことは、
このブログ内の検索である。
「とは何か」で検索をした。

検索結果はすぐに表示されるけれど、
川崎先生のブログを読んでいるときから、どきどきしていた。
結果は、本文中では使っていたけれど、タイトルには使っていなかった。
とりあえずだけれど、ほっとした。

毎日ブログを書くということは、毎日タイトルをつけることである。
同じテーマで書いているものであれば、
同じタイトルで(その1)、(その2)……、とつけていけばいいが、
テーマを変えたりすれば、新たにタイトルをつけなければならない。
同じテーマであっても、多少脱線するときは括弧内を(その1)とかではなく、
何か考えることもある。

面倒に感じることがないわけではない。
ぴったりくるタイトルが考えつけばいいのだが、そうでないときもある。
安易につけようと思えば、そうできる。

ブログの日々のタイトルを気にしている人がどれだけいるのかははっきりしない。
書き手ほど読み手は気にしていないのかもしれない、と思う反面、
読み手の方がしっかりと読んでいるはず、とも思う。

気を抜くわけにはいかない。

Date: 6月 20th, 2016
Cate: 書く

毎日書くということ(How High The Moon)

1992年に公開された映画「スニーカーズ」。
ロバート・レッドフォードが主演している。
公開当時、映画館で観たきり、いままでもう一度観ることはなかった。

でも、なぜか気になっていた。
数年ごとに、ふっと気になる映画。
でも、なぜ気になるのかが自分でもよくわかっていない映画だった。

それでもDVDを買ったり借りたりしてまで観よう、という気にはならなかった。
その程度の気にかかりではあるともいえる。

ほっといてもよかったのだが、改めて「スニーカーズ」を観た。
あるシーンで、ここかも、と思っていた。
これが気になっていたのかも……。

なぜなのかが自分でもわかっていないのだから、
これだったのか、という確信は持てないのだが、
そのシーンで登場した四脚の「How High The Moon」に気づいて、納得できた。

毎日書くということにも、同じところがある。
なんとなくき気になっているところ、
ややもするとどこかに置き忘れてしまいそうな、そんな些細と、その時は思えることを、
どこかで確認して、はっきりとさせるからだ。

Date: 6月 1st, 2016
Cate: 戻っていく感覚, 書く

毎日書くということ(戻っていく感覚・その2)

毎日書いている。
六千本以上書いている。
そのうちのかなりの数、これまでのことを振り返ってのことである。

だから、あいつは過去のことしか書かない、過去にとらわれ過ぎている、
そんなふうに感じている(読んでいる)方がいるのも知っている。

そう思いたい人はそう思ってくれていい。
つい先日の瀬川先生のことを書いた。
これまでにかなりの数、書いてきている。
まだまだこれから先も書いていくし、書きたいことはまだまだある。

瀬川先生のことだけではない。
そうやって書いていくのは、私にとって大切なことをきちんとしまっていく行為のような気がする。

誰にでも大切なことはある。
長く生きていれば、それだけ増えていくはずである。

けれど、その大切なことを、
もう使わないから、とか、古くなったから、
でも捨てるのはしのびない、と理由でダンボールに詰め込んでしまう。

そういうことをいつのまにしてはないないだろうか。
しまうにしても、きちんとしまっておく。
そのために書いている。
そう感じることがある。

Date: 12月 31st, 2015
Cate: デザイン, 書く

2015年の最後に

これが6000本目になる。
予定では、早ければ11月中に、遅くても12月上旬には6000本目を書いているはずだったが、
ここまでずれ込んでしまった。

四年後の2020年の暮れには10000本目を書き終えて、
このブログにも大きな区切りが来る。

あと4000本。
どれだけのことを書いていけるだろうか……、
そんなことは実は考えていない。

考えているのは、デザインとデコレーションの違いと文章との関係について、である。
音について語る際に、気をつけなければならないのは、
ややもするとデコレーションな文章に傾くことだ。

これまでにデザインとデコレーションの違いについて、私なりに書いてきた。
これからも書いていく。

書きながら、デザインとデコレーションの違いについて考えている。
そして、それについて書く文集が、デコレーションなものになっていては……、と思う。

オーディオ雑誌を開けば、安っぽいデコレーションな文章がそこかしこにある。
デザインとデコレーションの違い・区別がわかっていない文章が溢れている。

デコレーションの技だけに長けた文章を、高く評価する人も少なくない。
そういう書く技だけを磨いてきた人を、私はどうしてもオーディオ評論家とは呼べない。

評論とは何か、論とは何か。
文章そのものがデザインともっともっと結びつかなくて、どうしてオーディオ評論といえるだろうか。

2016年から2020年までの四年間の4000本のうち、
何本、デザインといえるものを書けるだろうか。