Archive for category 書く

Date: 10月 16th, 2018
Cate: 書く

毎日書くということ(続・モチベーションの維持)

毎日書く、と自分で決めた。
書かなかったからといって、誰かに怒られたりするわけではない。
罰金を払うわけでもない。

一年ほど前に、毎日書くのにモチベーションは必要ない、と書いた。
そのとおりであって、書くのを億劫に感じることはあっても、
モチベーションを必要としているわけではない。

それでも、こういう日も書くのか、と思ったことがある。
2011年3月11日と2018年10月15日の二回である。

まったく関係のないことを書くくらいならば(その方が楽であっても)、
書かない方がいい、とおもっている。

つらいから、悲しいから、とか、そんなことを自分への言い訳として、
何も書かない、という選択をする者もいるだろうが、
そんな情けない選択をするくらいならば、もう書かない方がいい。

というより、もう書くのをやめるべきだ(と私はおもう)。

菅野先生の訃報をきいて、菅野先生からいわれたことを思い出していた。
「宮﨑、頼むぞ、オーディオ界を良くしてくれ」、
そういわれて十年ほどが経つ。

そのことで何ひとつ報告できることはなかった。

Date: 8月 3rd, 2018
Cate: 書く

毎日書くということ(文字だけというわがまま)

以前(といっても九年前)に書いているけれど、
先日も「どうして写真や図をいれないのか」と訊かれたので、もう一度書いておこう。

ブログを始めるあたって決めていたのは、毎日書くことと、
一万本、書くということ。

毎日書くというのは、たとえ一本であっても、日によっては大変だったりする。
いまでこそiPhoneがあるから、外出先からでもブログを書ける。
電車の中で書いたことも何度かあるし、
そんなところで書いていたの? といわれそうな場所でもある。

そういうときは、写真や図をいれるようにしておけば、
もう少し楽になるかも……、とそんなふうに思うことだってある。

でも一万本は、文字だけで行こう、と決めたことだから、それを守っているだけ。
内容によっては写真や図があれば、どんなに楽だろう、と思ったことは何度もある。

写真、図があれば、読む側にとってわかりやすくなるというのはわかっている。
それでも、文字だけにこだわりたいのは、私のわがままである。

Date: 4月 7th, 2018
Cate: 書く

毎日書くということ(答えではなく……・その4)

デザイン(design)は、そのまま日本語に訳されることなくとけ込んで使われている。
無理に訳す必要はないのではないか、と藤崎圭一郎氏はいわれた。
私もそう思う。

けれど、デザイナー(designer)を、どう日本語に訳すのか。
これは考えていかなければならないと思うし、
デザイナーをどう訳すのかを考えることが、
なんらかの答につながっていくように感じている。

Date: 3月 31st, 2018
Cate: 書く

毎日書くということ(答えではなく……・その3)

3月30日のKK適塾で、
最後に司会者の方が川崎先生と藤崎圭一郎氏に質問された。

司会者が質問してもいい。
けれど、その質問に対する川崎先生の発言に対するリアクションには、
えっ!? と思ってしまった。

デザイン(design)は日本語に訳されることなく、そのまま使われている。
そのことについての質問だった。
中国では、こう訳されている、と川崎先生がいわれた。

川崎先生のブログを読んでいる人ならば、そのことは知っていて当然のことだ。
なのに初めて聞いた(知った)といったリアクションでもあった。

この司会者は、川崎先生の書かれたものを、あまり読んでいない人なんだな、と感じた。
もちろんすべてを読んでいたとしても、すべてを記憶しているわけではない。
けれど、自らが質問することに関することは、しっかりと憶えているものだろう。

問いは怖い、とあらためて実感した。
問いは自らをさらけ出す。

Date: 2月 23rd, 2018
Cate: 書く

毎日書くということ(答えではなく……・その2)

六年前に「毎日書くということ(答えではなく……)」を書いた。

究極の問い、最終的な問いを求めて、こうやって毎日書いているのかもしれない、ということを書いた。

この問いこそが、表現の源なのだろう。

Date: 1月 2nd, 2018
Cate: 書く

毎日書くということ(そのあいまに)

菅野先生が50代のころにきいた話がある。
原稿書きに、どうにもいき詰ったときは、洗車する、と。
一心不乱に、洗車に専念して、愛車がピカピカに仕上がると、
不思議と原稿書きが、さきほどのいき詰りがウソのようにはかどる、ということだった。

大晦日と今日は、JBLの075を磨いていた。
預かりものの075だから、一度バラして、というわけにはいかない。
馬蹄型のフランジのついた古い075だから、
ホーンを外すには赤く封印されているのを取り除く必要がある。

中央の砲弾状のイコライザーも、075の背面の銘板を剥さなければ、
取付ボルトが露出しない。

自分の075だったら、ためらわず封印も取り去って、銘板も剥して、
徹底的にやるけれど、預かりものだけに、そこまではできない。

それでも磨ける範囲を磨いていると、菅野先生の洗車の話を思い出していた。

おそらく一度も磨かれていないであろう075だけに、
完全に磨きあげた、というところには到っていない。
暇をみて、ちょいちょいと磨いていこうと思っている。

そういえば、磨くのが趣味というオーディオマニアがいる。
彼が鳴らしているスピーカーは、いわゆる往年の名器と呼ばれているモノ。
おそろしくコンディションのよいモノと、見た人はそう思うだろう。

でも入手した時は、そうでもなかったそうだ。
彼は磨いた。

どのくらいの期間かかったのはきかなかったが、
おそらくいまでも磨いているのだと思う。
その輝きがある。

Date: 12月 31st, 2017
Cate: 書く

毎日書くということ(自覚してきたこと)

毎日書くことによって、自分の中ではっきりとしてきることがいくつもある。
そのひとつが、物分りのいい人ぶっているオーディオマニアが、
大嫌いだということだ。

そういう人にかぎって、いい音はないんだよ、とかいう。
好きな音、嫌いな音があるだけだ、と、わかりきったようなことをいう。

そういう人は正しい音、間違っている音もない、という。

そういう人にとって、オーディオも音楽も嗜好品なのだ、と気づく。
嗜好品として楽しんでいるのであれば、好き嫌いだけの世界に留まっていればいい。

Date: 12月 30th, 2017
Cate: 書く

毎日書くということ(8000本をこえて感じていること)

三日前に8000本目を書いた。
10000本書くことを目標としている。
ここに来て、ようやくゴールが見え始めてきたかな、という感じがしている。

この調子でいけば、2019年12月には10000本目を書き終える。
ここ二三年、なにかのひょうしに考えているのは、
大病にかかり余命何ヵ月といわれたら、
黙々とブログを書きためよう、ということだ。

毎日の更新とともに書きためていく。
書きためた分は予約投稿にしておく。
そうすれば、くたばったとしても自動的にブログは更新されていく。
読んでいる人は、誰も私がくたばっていることは知らないままだ。
そんなことを望む気持が、どこかにある。

先日のKK適塾で、久坂部羊氏がいわれた。
癌は、ある意味、しあわせな病気である、と。

余命が宣告される。
その時はショックをうけるだろうが、冷静になれば、
その日までの計画をたてられ、やりたいことをやれるし、身の回りの整理もやれる。

突然死を迎えることになったら、そんなことはできない。
ブログを書きためておくこともできない。

同じことを考える人がいるんだな、とおもい聞いていた。
8000本目が近づいたいたときにきいた話だけに、よけいそう思った。

Date: 11月 14th, 2017
Cate: 戻っていく感覚, 書く

毎日書くということ(戻っていく感覚・その7)

人間のこころの機能を無視して、人間の機能を単に生理的・物理的な動物のようにとらえる過った態度からは、魅力どころかまともなオーディオ製品すら生まれない。
     *
瀬川先生がステレオサウンド 31号の特集で書かれている文章からの引用だ。
31号は1974年夏号。

31号は、ステレオサウンド時代に読んでいる。
その時(ハタチぐらい)には、ここに出てくる「人間のこころの機能」の重さに気づかなかった。

いまやっと気づく。
「人間のこころの機能」、
このことを無視したところに、オーディオの科学も存在しない。

こうやって毎日書いているから、気づけた「人間のこころの機能」である。

Date: 8月 21st, 2017
Cate: 書く

毎日書くということ(漢字のこと)

親指シフトキーボードでのかな入力で、ほとんどの文を書いている。
当然、漢字に変換するかどうかを判断しながら、
また迷いながら選択していく。
時に辞書で漢字そのものの成り立ちを調べることもある。

そうやって書いている。
感じるのは、漢字は電子部品でいえば、ひとつのモジュールである。
OPアンプともいえよう。

そこにかな、カタカナ、アルファベットなどが加わる。
さながら、これらは抵抗、コンデンサー、コイルなどの電子部品のようにも感じることもある。

時に、ある種の回路図を考えているのか、と錯覚しそうになる、と書いてしまうと、
ややおおげさかとも思うが、それでもどこかそういう要素があるようになってきつつある。

Date: 8月 21st, 2017
Cate: 書く

毎日書くということ(モチベーションの維持)

三人くらいだったか、きかれたことがある。
どうやってモチベーションを保っているのか──、と。

毎日書くためのモチベーション。
このことをきいてきた人は、
毎日書くためにはモチベーションが必要と思っているのであろう。

書き始めのころはモチベーションも保てるだろうが、
二、三年と毎日書いていけばモチベーションの維持は難しい。
そう考えるのは当り前と思う。

個人サイト、ブログなどでオーディオのことを書き始めた人は、どのくらいいるのだろうか。
かなりの数のはずだ。

私が目にしたのは、おそらくその一割くらいかもしれない。
書き始めたころは毎日、もしくはかなり頻繁に更新していた人であっても、
三年ほど経つと更新頻度ががくっと落ちる、というのを目にしている。

もっと短い人だって少なくない。
頻繁にオーディオ機器を購入している人であれば、
書くためのネタに困ることはていが、
そうそうオーディオ機器をポンポンと買える(替える)わけでもてい。

中には、頻繁に更新するためにオーディオ機器を購入しているのか、と思える人がいる。
その人を滑稽とはいわない。
私にはマネできないことだから。

毎日、こうやって書いている。
何も特別なこととは思っていない。
だから書くためのモチベーションは必要ない、といえるし、
書き続けるためにはモチベーションから切り離す必要があるとも考える。

日々の営みとして、書いている。
そこまでもっていくのにもモチベーションは要らない。

Date: 8月 19th, 2017
Cate: 書く

毎日書くということ(続・引用することの意味)

音の聴き方には、微分的な聴き方と積分的な聴き方とがあり、
女性はどちらかというと積分的であり、男性、それもオーディオマニアは微分的である──、
けっこう以前からまことしやかにいわれている。

完全同意はしないものの、確かにそういう傾向はあるな、とは感じている。
オーディオマニア全員が微分的な聴き方をしていて、
積分的な聴き方をしていない、とはいわないが、
微分的な聴き方に終始している人が、いるのははっきりとした事実といえよう。

微分的な聴き方と積分的な聴き方。
どちらも求められるわけだが、
美を求めていくのであれば、積分的な聴き方は絶対に求められる。

前回書いたことと、結局は同じことを書いているだけで、表現を変えただけともいえる。
積分的な聴き方の判断を形づくっているものを、こうやって確認している。

くり返し読むだけではなく、こうやって引用し書いていくことで確認している。
インターネットで公開するしないは別として、
書いていくことで、その人にとっての発見が必ずあるはずだ。

Date: 8月 15th, 2017
Cate: 書く

毎日書くということ(引用することの意味)

私が、ここで引用する文章のほとんどは、昔の文章ばかりといっていい。
最近のオーディオ雑誌に載っている文章を引用することは、ほとんどない。

昔の文章、それもかなり以前の文章を引用することもある。
今日も40年前の、伊藤先生の文章を引用していた。

このブログを読まれている人で、20代、10代の人は少数だろう。
30代の人だって、どのくらいいるのだろうか。

この世代の人たちにとっては、生れる前に書かれた文章ということになる。
どれだけの人が、古い文章に興味をもつのかはわからない。

またか、と思う人もいるのはわかっている。
あいつは、古いことにしか興味がないのか、と思われていることだろう。
それはそれでいい。
人によって受け取り方は違うのだから。

毎日書いていて、最近になって感じているのは、
私にとって、毎日書くという行為は、ひとつの確認作業である、と。
特に、私が影響を強く受けた人の文章を引用するときは、そうである。

私自身の音の判断を形づくっているのは何なのか、
それを確認していることは確かだ。

その確認作業に、古いも新しいもない、と考えている。

音は好き嫌いなのだから、感性だよ、と自信たっぷりにいえる人は、
そういう聴き方をしていればいい。
私はそれがイヤなだけだ。

聴くために、判断のために、こうやって書いている。

Date: 1月 15th, 2017
Cate: 書く

毎日書くということ(7000本をこえて感じていること)

昨年のうちに7000本目を書いた。
10000本まで書くことを、目標としている。
10000本書いたら、少しは達成感を得られるのだろうか。

ちょうど半分の5000本目は2014年のうちに書いている。
けれど半分まで来た、という実感はなかった。
2015年に6000本目を書いた時も同じだった。

2016年12月に7000本目を書いて、やっと半分まで来た、と感じられた。
数字的には2/3をこえている。
けれど残り1/3を切って、ようやく、あと半分、という感じなのだ。

残り3000本弱で書く内容を、
これまで書いてきた7000本と同じにすること。
つまりそれだけ凝縮した内容にすること。
そのことをどこかで意識しているから、ようやく半分という感じなのだろう。

そうでなければ10000本目に達成感はないのかもしれない。

Date: 12月 31st, 2016
Cate: 1年の終りに……, デザイン, 書く

2016年の最後に

2015年の最後に書いたのは「2015年の最後に」だった。
「2015年の最後に」が6000本目だった。

ちょうど一年が経ち、「2016年の最後に」を書いている。
7004本目である。
7000本目はベートーヴェンの「第九」について書いたものである。

どうにか一年で1000本を書くことができた。
書いている過程で、「2015年の最後に」で書いたことを何度か思い出していた。

どれだけ書けただろうか、とふり返りたくなるが、
明日になれば7005本目を書く。