毎日書くということ(2024年1月29日)
気づかれている方もいると思うが、
ふたたび毎日書くように決めて一週間。
よほどのことがないかぎり、これからの一年は毎日書いていく。
気づかれている方もいると思うが、
ふたたび毎日書くように決めて一週間。
よほどのことがないかぎり、これからの一年は毎日書いていく。
1月29日に、ある方からのメールが届いた。
「御礼」とサブジェクトにあった。
Mさんという方で、1962年7月生れということなので、同学年ということになる。
Mさんからのメールに、
《まるで、オーディオに詳しい同級生の話を聞いているような感覚で》、
このブログを読んでいた、とあった。
そういう感覚で読まれていたのか──、いいなぁ、とおもってしまった。
そういえば、オーディオに関心をもつ同級生が一人もいなかったわけではないが、
その数少ない同級生とオーディオの話をしたことはほとんどなかった学生時代だった。
オーディオに関心をもっている同級生ではなく、
オーディオに詳しい同級生が身近にいたら──、ついそんなことをおもってしまう。
Mさんはまったく同じ世代にだけに、おそらく読まれてきたものもかなり重なるのだろう。
黒田先生の文章もかなり読まれてきたのだろう。
こう書いてあった。
*
終のスピーカーについての文章にも大変考えさせられることがありました。黒田恭一先生が昔お書きになっておられたように、
「どんな音楽を聴くかではなく、どのように音楽を聴くか」、ということが終のスピーカーの選び方と密接に関わっているように思います。
*
Mさんのメールを読んでいて、嬉しくなっていた。
このブログへのコメントは少ない。そ
facebookでのコメントも同じく少ない。
それでいい、と思っている。
わかってくれる人は必ずいて、そういう人はしっかり読んでくれている。
そんなふうに勝手に思っているわけだが、こうやってMさんからのメール読んでいると、
やっぱりいてくれているんだ、と実感がもてる。
2008年9月3日から書き始めて、今日のこれが12,534本目。
以前から告知しているように、これで毎日の更新は終了となる。
これからは不定期更新となる。
それでも最低週一回は更新するつもりだ。
気が向けば、ほぼ毎日書くかもしれないし、週一で一本しか書かないこともあるだろう。
今年の2月27日の「毎日書くということ(今日決めたこと)」で、
2023年1月29日をもって、audio identity (designing)を終りにする、と書いた。
終りにするつもりだった。
audio identity (designing)を毎日書くということは、
特に大きな負担というわけではないものの、
今日はまだ書いていない、となると、用事を早めに切り上げることもある。
そういうこともあと三ヵ月で終るなぁ、と思っていた今日の夕方、
メールをチェックしたら、Sさんという方からメールが届いていた。
メールのタイトルを見て、まず、えっ? と思った。
思いながら、本文を読むと、私にとって夢のような申し出が書いてあった。
こんなことが本当に起るの?、
それが最初に読んでおもったことだ。
えっ、ほんとうなの? と思いながら、もう一度読み返す。
さらにもう一回読む。
何度読んでも、メールの内容は変らない。
その当り前のことを確かめたかった。
それにしても、どうして? と思いながら読むと、
《いつもaudio identity (designing)を楽しく読んでいますから》
とある。
これを読んで、終りにするわけにはいかない。
そうおもったのだから、
2023年1月29日で、audio identity (designing)の毎日の更新は終る──、
こう変更した。
毎日更新する(書いていく)のはあと三ヵ月ほどで終るが、
2023年1月29日以降は、週一回くらいの頻度で書いていくことにした。
2008年9月3日、最初に書いたのが「言いたいこと」である。
これを書きたいがために、このブログを始めた、といっていい。
もちろん始めた理由はこのこと一つだけではないが、
このことが理由としては最も大きい。
この日から十四年とちょっとが経った。
あと四ヵ月もしないうちに、このブログも終る。
これが12,261本目になる。
「言いたいこと」は「わかってほしいこと」でもあったわけだが、
どれだけ伝わっているのかは、なんともいえない。
こんなことを書かなくてもわかってくれる人もいる。
そういう人と、このブログを始めたことで出会えている。
でも、わかってほしい、と思っていた人は、案外わかってくれていない──、
と感じている。
なんとなく感じているだけではなく、
あぁ、この人は変らないなぁ……、とおもったことが何度かある。
だからといって嘆くこともない。
昔から、そういう人はいたし、いまもいる。
瀬川先生は、辻説法をしたい、といわれていた。
audio identity (designing)は、私なりの辻説法でもあった。
今日は7月29日だから、audio identity (designing)が終る日まであと半年。
新しいブログの名前も考えた。
とはいえ、どんなことを書いていくのかはまだあれこれ考えている。
一度目は2016年だった、
二度目は2019年、
2022年のいま、三度(みたび)、
エリカ・ケートが語ったことを引用したい。
イタリア語を「歌に向く言葉」、
フランス語を「愛を語る言葉」、
ドイツ語を「詩を作る言葉」、
日本語は「人を敬う言葉です」だとエリカ・ケートが浅利慶太氏に語っている。
ソーシャルメディアには、どうしたら、ここまで汚い言葉で人を罵れるのか──、
そう感じてしまうことが、増えてきている。
誰かを批判するのが悪いことだとはいわない。
それでも……、と思う。
小林秀雄が、中原中也のことを書いている。
《彼はどこにも逃げない、理智にも、心理にも、感覚にも。》
どこにも逃げない、理智にも、心理にも、感覚にも。
そうなのだ、来年はじめる新しいブログでは、そうありたい。
どこにも逃げない、理智にも、心理にも、感覚にも。
オーディオについて書くのは難しいようでいて、
逃げ道が、そこらにある、と感じている。
理智に逃げる、
心理に逃げる、
感覚に逃げる。
逃げられるからこそ書いてこれた、とも言えるのだから、
どこにも逃げずに書いていくというのは、しんどいだろうなぁ、とは思っている。
十年以上、毎日こうやってオーディオ、音楽、音について書いている。
毎日、オーディオ、音楽、音について考えている、ともいえる。
「五味オーディオ教室」と13歳のときに出逢ってからというもの、
オーディオ、音楽、音について考えなかった日はなかった、といえる。
けれどここに来て、考えているのか──、と思うようになってきた。
つまり考えているのではなく、考えさせられているのでは──、
そんなふうに感じることが出てきたからだ。
このブログを終りにすると決めてから、
これまでどれだけたがやしてきたのだろうか、とふと考える。
同時に、新しいブログを始めるということは、
たがやすという視点ではどういうことなのだろうか、とも考える。
たがやすは、cultivateである。
cultivateには、
〈才能·品性·習慣などを〉養う、磨く、洗練する、
〈印象を〉築く、創り出す、
という意味もある。
(その1)、(その2)で書いたことをまたくり返している。
audio identity (designing)を始めるときには、たがやす、という考えはなかった。
五年ほど書いてきて、たがやすということに気づいた。
新しいブログは、最初から、そのことを意識してのスタートとなる。
2023年1月29日で、audio identity (designing)は終りにして、
また新しいブログを始めるのならば、
audio identity (designing)のまま続ければ、いいのではないか──。
そう思われるのはわかっている。
でも、audio identity (designing)を終りにするのは、
audio identity (designing)がオーディオのブログだから、である。
ここにきて、オーディオのブログがほんとうにやりたかったことなのか、
そう思うようになってきた。
ほんとうにつくりたかったのは、
オーディオのようなブログであり、
もっといえばオーディオそのもののブログである。
世の中に、さまざまなオーディオ雑誌があったし、いまもある。
けれど、それは、どれもオーディオの雑誌でしかない。
そのなかで、どれが面白いとか、面白くないとか、
昔と比べてどうとか、そういうことでしかない。
オーディオの雑誌が目指すべきところは、
オーディオのような雑誌、オーディオそのものといえる雑誌だ、
と私は考えるようになってきた。
五味先生、岩崎先生、瀬川先生が、
あと十年か二十年、活躍されていれば、
ステレオサウンドは、オーディオのような雑誌に近づけたかもしれない。
オーディオのようなブログに挑戦したくなった。
それがaudio identity (designing)を終りにする理由である。
終りにしたから、
新しいブログにしたからといって、
オーディオのようなブログにできるかどうかはなんともいえない。
でも、気持を切り替えるためにも、
オーディオのブログであるaudio identity (designing)は終りにする。
このことは、2023年1月29日に書くつもりでいた。
けれど、昨晩の「毎日書くということ(今日決めたこと)」へのTadanoさんのコメントを読んで、
今日書くことにした。
2023年1月29日で、audio identity (designing)は終る。
このことで喜ぶ人もいると思っている。
そういう人がいる一方でTadanoさんのような人もいてくれるわけだ。
Tadanoさんは、「オーディオ文化」と、今回のコメントで書かれている。
私もオーディオは文化だと確信しているが、
オーディオマニア全員がそう思っているわけではないことは知っている。
オーディオマニアだけではなく、
オーディオを仕事としている人の中にも、そういう人はいる。
オーディオを文化として捉えていない人には、
オーディオについて書く資格がない、とは思っていないが、
そういう人が、オーディオ雑誌の賞の選考委員だったりする。
ステレオサウンド・グランプリの選考委員にもいる。
それだけではない。
「オーディオは商売だ」というオーディオ評論家(商売屋)がいる。
「オーディオは仕事だ」というのであれば、まだ理解できなくはないが、
「オーディオは商売だ」と、とあるオーディオショウで、
少なからぬ人がいる前で、そんなことを言ってしまう。
口が滑っただけではないか──。
そうかもしれないが、この人は、商売としてやっているからこそ、
つい本音が出てしまったと私は思っている。
この人も、ステレオサウンド・グランプリの選考委員の一人である。
オーディオは文化だ、と思う人もいれば、こういう人たちもいる。
別に嘆きたいわけではない。
おそらく昔から、そういう人たちはいたはずだ。
オーディオを仕事にしてしまった人にとって、
「オーディオは文化だ」はきれいごと、戯れ言となってしまうのかもしれない。
2023年1月29日で、audio identity (designing)は終る。
このことは昨日決めたわけだが、同時に新しいブログを始めるのを決めている。
決めていないのは、ブログのタイトルである。
今日の昼すぎ、ある音楽を聴いていて、思った。
あと11ヵ月ほどで、60歳になる。
来年の誕生日で、書くことを終りにしよう、と決めた。
2008年9月に始めた。45歳のときに書き始めた。
50代はずっと書いてきている。
潮時としての60歳である。
2023年1月29日で、audio identity (designing)は終る。
ここ数日は、「老いとオーディオ(若さとは)」をおもに書いている。
その少し前も、オーディオのブランドや型番をあまり出すことのないことを書いていた。
アクセスログを見なくとも、
こういう内容を続けて書いていると、アクセス数は少し減る傾向にある。
なにかのオーディオ機器の型番をタイトルにつけて続けて書いたりすると、
アクセス数は増える傾向にある。
必ずしもそうなるとはいえないけれど、
全体の傾向として、そういえなくもない。
ブログを始めたころは、アクセス数がすごく気になっていた。
それからしばらくは気になっていたが、もうそれほど気にしなくなった。
割と安定している、ということもある。
ここ半年ほどは、アクセス数をチェックすらしなくなっていた。
なんとなく、このぐらいの数だろう、と予測がつくし、
たいていはそのくらいの数である。
アクセス数を稼ぎたければ、そういう書き方をしていけばいいわけで、
でもだからといって、アクセス数が増えることが、
モチベーションにつながっていくかといえば、そんなことはない。
この項で以前書いているように、毎日書くためにモチベーションから切り離している。
とはいえ、別項「老いとオーディオ(若さとは)」に、コメントが続いていると、
やはり嬉しいものである。
今日も、Tadanoさんが、「老いとオーディオ(若さとは・その15)」にコメントをくださった。
そこに、こう書いてあった。
*
私の場合ですと、まず、オーディオばかりにお金を割けない事情があります。しかしながら、「なにやらオーディオというのは奥が深く面白そうだ。なんだかカッコよくて、素敵な世界に見える。この世界の深遠を少し覗いてみたいなあ。しかし、専門用語があまりにも多すぎてついていけない。だけど、他の多くのビギナー向けのサイトは何かどこかうそ臭い。だから、ものすごく難しいのだけれどこれを読んでみよう」という感じです。
*
そう、オーディオは奥が深く面白い。
しかもカッコよくて、素敵な世界である。
ワルター・ギーゼンキングが「ピアノとともに」(白水社刊・杉浦博訳)で語っている。
*
なんらかのとくべつな指や手の運び方に、美しい音が出る原因をさがそうとするのはむだなことだと思うのである。わたしの確信によれば、響きの美しい演奏法習得の唯一の道は、聴覚の体系的な訓練である。
*
「耳」の想像力とは、このことが含まれるはず。