Date: 1月 25th, 2022
Cate: 老い
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老いとオーディオ(若さとは・その15)

老成ぶる、ということは、
自らの心を粉飾する、ということだと考えている。

《粉飾した心のみが粉飾に動かされる》と、
小林秀雄が「様々な意匠」のなかで語っている。

1 Comment

  1. TadanoTadano  
    1月 26th, 2022
    REPLY))

  2.  文章を読んでいただきありがとうございます。また、真摯な回答とても喜んでおります。また、個人的な攻撃を加えたくないという暖かさに心打たれました。
     ところで、老成という内容に書き込みが多かったことについて考えてみました。これは私の推測ですが、「老成」ということそのものが、あらゆる道に通ずる普遍的な価値を持っているからではないでしょうか。
     おそらく、このサイトを閲覧している人の多くは、趣味人や、自由な方、自由を求めておられる方が多いのではないかと思います。宮崎さんの文章を閲覧されているほとんどの方は、オーディオが「自分がいくつか持っている趣味の一つ」という方だと思います。少なくとも、オーディオにこの身すべてを捧げたというスペシャルな人は少ないでしょう。
     私の場合ですと、まず、オーディオばかりにお金を割けない事情があります。しかしながら、「なにやらオーディオというのは奥が深く面白そうだ。なんだかカッコよくて、素敵な世界に見える。この世界の深遠を少し覗いてみたいなあ。しかし、専門用語があまりにも多すぎてついていけない。だけど、他の多くのビギナー向けのサイトは何かどこかうそ臭い。だから、ものすごく難しいのだけれどこれを読んでみよう」という感じです。したがって、いつもならば恐れ多く、というよりも、そもそも内容が理解できないので、ここで発言しようという発想を持ちません。そういったような要因が、他のかたにも、まず一つあるのではないかと思います。
     あるいは現代の高齢社会の抱えているひずみへの投影的な反応というものも考えられます。現代は少子高齢化により、老人が自らの存在証明を守ることが難しくなってきています。そのために、若年者の成長を妨げるといった別のひずみも存在します。高齢化に伴い老人の絶対数が多くなりすぎ、老人が周囲から敬われなくなったという現実です。そういう現代日本の悲しい実情が反映されたひずみというものが、この国の問題として横たわっているわけです。
     未開の地ならば、ある一人の老人の死というのは、図書館が一軒つぶれたほどに大きな打撃となるでしょう。今のような少子高齢化の社会においては、そのような状況というのが起こりにくいわけです。すると、考えられるのは老人・間での尊敬感情の争奪戦や、どうせ私は敬われないんだという老人性冷笑主義思想が蔓延る原因となっているわけです。
     現代の若い趣味人ならば一度は「若者にはどうせわからん、こっちへ来るな」という待遇を受けたことがあるかと思います。老人には老人の崇高なる世界があり、それが若者に取られてしまったら老人の価値がなくなります。すると、老人側は老成されては困るという恐怖を感じることもあるわけです。そして、そこで生まれたジェネレーション間の溝によって、自分やスケープゴートされた他の若い友人達がどんどん幼稚になっていく姿を見ています。我々少子化世代は、それを一つの悲しみとして持っています。つまり、現代の社会には老成を妨ぐファクターがあまりにも多く存在していて、我々はそこに敏感になっているわけです。すくなくとも、私にはそのような感情の動きが常にあります。
     また一方で、高度成長期を支えた世代の智の巨大さ偉大さも感じています。菅野沖彦、井上卓也、上杉佳郎など(私の世代にとっては各人、歴史上の偉大な作家ですので、敬意をもって敬称は省略させていただいております)、彼らの文章のなんと知的なことでしょうか。そこにある深い哲学と基礎、また、彼らのほとばしるエネルギーも異次元のものに感じられます。現代の、我々世代のと比較した深みの違いが、我々世代にも圧倒的に感じられるわけです。おそらく、将来、200年とか300年後に、20世紀後半はオーディオ文化が隆盛し花開いた時代として研究の対象になるでしょう。丁度、浮世絵や植物品評の深く深遠な世界が後々になって失われた文化として再評価されるように、彼らの文章、および、宮崎さんがここに書かれている生きた文章も、その貴重な証言として保存されるでしょう。意外にもそれはAIによって発見され、論文化される際に認識されるものかもしれません。
     少子化によって老人が「そこにいるだけで敬われる」という社会は終わりました。日本はそうやって巨大な知と経験を持ちながらも、その知が若者に降りてこないという機能不全を抱えています。このようにして今日の日本は、文化も成熟度も墜落する飛行機のごとく真っ逆さまに落ちている真っ最中のように見えます。
     世界をリードしていたアニメーションの世界でさえ、今や日本は一笑に付されるようになりました。海外では新進気鋭のスタジオが無数に生まれ、大人向けのシリアスなアニメが続々と賞を取るようになりました。選考会場でノミネートされた日本のアニメがスクリーンに映しだされると、海外の方々は「またか」と鼻で笑うのだそうです。

     老成について、宮崎さん曰く「オーディオに関しての老成」という観点で語られていらっしゃったのだということで、話の行き違いに納得したのですが、「オーディオに関しての老成」というのが私どもには、やはりなかなか理解しがたいものです。
     たとえば、老成することと達人になることは違うわけですね。この二つの言葉がその意味において、若干のクロスオーバーを持ちつつあるものの、達人を通過しなければ老成しえないということは無いわけです。それに比較すると、老成することと熟練することとは深い関係性があるとは思います。つまり、熟練することと達人になることは違う―、というのがまずあるわけです。達人というからには比較対象があり、圧倒的に抜きん出ている必要があります。しかし、熟練にはそのような比較が必要ではありません。したがって、宮本武蔵だけが老成できて、他の剣士は老成できないということはないわけです。映画・七人の侍で登場する、島田勘兵衛という侍を思い出します。志村喬演ずる島田は経験豊かで理性があり、また若年者に対し落ち着きと愛情を持っています。この役は未熟な若者から見ても判る、老成とはかくあるべしという存在として描かれています。彼はとても強いのですが、絶対無敵の最強の剣士という描かれ方はされていません。
     そこで私は、オーディオに関する老成に必要なスキルということを考えていました。
     再びたとえ話になるのですが、わが国では億万長者と呼ばれるような人があまりいません。私はインスタグラムで世界の不動産を見るのが好きなのですが、世界にはとてつもない豪邸に住んでいる方が実に大勢いらっしゃいます。いわゆるメガマンションと言って、プールと庭園と駐車場があり、高台や草原の中などロケーションのいい場所に建てられています。マンションとは英語では一軒屋の豪邸のことを指します。ちなみに日本のマンションは英語ではアパート、日本のアパートは英語ではスタジオです。メガ・マンションは築300年くらいの石造りがほとんどですが、フランク・ロイド・ライトの経てた20世紀建築や、近代のテクノロジーハウスもあります。ボーリング場や劇場はよく見る設備です。しかし、彼らの中にも貧富の差はあります。彼らからすれば、メガマンションは庶民の暮らしです。彼らにとっての金持ちとはシャトークラスの豪邸に住んでいる人のことです。ハリウッド俳優の早川雪舟はグレンギャリ城という城に住んでいました。城内に迎賓館があり、そこが日米国交のサロンにもなっていました。まさに金持ちの中の金持ちです。
     たとえば、どうでしょう。そういった人が「オーディオにおけるスーパーマニアとは、がむしゃらに働き、城(文字通り城)を買い、そこで自分のホールを築き、自らの音を構築しなければならない。城を持てぬものは、まだがんばりが足りない。」と言ったとしたら、とてもそれを受け入れられる人は少ないと思います。
     私は一貧乏な庶民なのですが、父方の在所が素封家、母方が貴族だったものですから、若い頃、何かそれに近い、途方も無い説教を受けた経験があります。ハイクラスのコミュニティでは、承認されるためのハードルがあまりにも高く、生きることが本当に途方も無く感じたものです。そのせいか私には、4畳半の茶室や方丈記の方丈庵をはじめとする「足るを知る」日本独自の世界観のほうに魅力を感じるようになりました。私が海外のメガマンションを閲覧するのは、それが、我々日本人の想像をはるかに絶する現実を見せてくれるからです。我々が発展途上国の人々の暮らしを想像できないように、彼らも我々中産階級の日本人の暮らしを想像できないでしょう。
     オーディオの達人ということで考えても、これも人それぞれに考えが違うはずです。達人足りえるには、以上のような物質的な豊かさを必要とするものなのか、いや、むしろ心の豊かさを必要とするものなのか。同様に、オーディオにおける老成ということも、深く勘案すべき論点であるように思います。
     心に近い音に話を戻したいと思います。あれからじっくりと考えてみたのですが、やはり私には、子供にもわかる心に近い音というのがあるのではないかと思えました。音楽とは音によって構成されているものです。ですから、心に近い音楽がわかっても心に近い音はわからないということは、どうにも腑に落ちない。やはり、心に近い音を理解しなければ、心に近い音楽は理解しえぬように思うのです。それはオーディオにおいても、スピーカーで奏でるの音においてもです。世界を見渡せばローティーンの博士や学者もいますし、音楽でもジュリアードを何才で卒業とか、そういう方もいらっしゃいます。ですから、世界のどこかにはものすごいオーディオマニアの少年がいてもおかしくないし、今いなくとも、今後現れてもおかしくないと思うのです。達観と老成は異なりますが、時幼くし達観する方もいらっしゃいます。幼くして老成するということは無いでしょうが、心に近い音について、その真理を探ったり、心に近い音を操って出すという若いオーディオファイルが現れてもおかしくないように思います。
     心に近い音という言葉には学術的な定義がありませんから、考え方は人それぞれでありましょう。それぞれの人が、その人の思う心に近い音を持ってしかるべきでしょうし、それぞれが、おのおのの思い描く心に近い音を感じたり、追求したりするものと思います。
     心に近い音と聞いて思い出したのは、子供の頃に学校の裏山で聞いた「新世界」です。私にとって忘れもしない音楽的な体験でした。6つか7つの頃でした。私の母校では夕方になると「まだ校内に残っている者は速やかに帰宅しましょう」というアナウンスがかかります。それとともにドボルザークの新世界の「家路」が全てのPAスピーカーから流れるのですが、私はそのあまりの壮大さと切なさに心を動かされました。冬のことでした。手袋で涙を拭いたような覚えがあります。裏山から学校を見下ろすようにして聴いていましたから、スピーカーの設置してある場所はすごく遠いのですが、音は心の近くにあると感じました。これは宮崎さんのおっしゃっている心に近い音とは違うかも知れませんが、私にとってそれは、とても心に近い音でした。
     歌手の尾崎豊は19歳のときに彼が発表した彼の曲の中で「街のどこかでは誰かのクラクションが泣いている」と歌っていました。通常ならば煩わしいと思うはずのクラクションを、誰かの心の叫びとして聞くことができるという感性に、私は心を動かされました。物理的に隔たっている遠くのクラクションに自分の心を寄せているという点で、これも心に近い音という気がします。
     映画「ホーム・アローン2」では、マコーレー・カルキン演じる主人公のケビンという少年が、仲良しになったホームレスの女性とカーネギーホールの天井裏から音楽を鑑賞するというシーンがあります。とてもロマンチックなシーンで、私は特にこのシーンが好きで、テレビ放送を録画してもらったビデオを擦り切れるほど見ました。この屋根裏部屋は有名で、多くの映画に登場しています。主人公の少年ケビンは天井の照明の隙間から、はるか下の舞台を見下ろすのですが、その楽音に耳を澄ませ「いい音楽だね」と言うのです。これも心に近い音という言葉を聞いて思い出すエピソードの一つです。
     長々と駄文を連ねてしまいました。これからも、宮崎さんの音についての奥深い考察、楽しみにしております。

    1F

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