Archive for category 歌

Date: 11月 12th, 2022
Cate:

日本の歌、日本語の歌(その7)

日本語の歌における日本語の流暢さは、
歌そのものが与えてくれる情景に、どれだけ関係しているのだろうか。

その5)で書いているように、
「よく、こんな日本語の歌、聴けますね」とか「がまんできますね」とか、
グラシェラ・スサーナの日本語の歌を聴いて、そういう人はけっこういる。

ホセ・カレーラスの「川の流れのように」をかけても、
まったく同じことをいう。

そんなことを言う人と私の、日本語の歌の聴き方はずいぶん違うわけだ。
私だって、流暢であればそのほうがいいとは思うけれど、
たいして、そのことが気になるわけではないし、気にすることもない。

それよりも、日本人の歌手(流暢な日本語)による日本語の歌よりも、
それまで聴きなれていた、とおもっていた日本語の歌に、
新しい輝き(もっといえば生命)を吹き込んでくれたように感じる。

だからこそ、多少日本語がまずかろうと、そんなこと気にせずに聴く。
歌の本質とは、そういうもののはずだ。

そして思うのは、まず流暢な日本語かどうかをすごく気にする人と私とでは、
音楽の聴き方(捉え方)が違うわけだから、それは音の聴き方(捉え方)も違う。

Date: 12月 9th, 2021
Cate: High Resolution,

MQAで聴けるエリザベート・シュヴァルツコップ(その5)

今日(12月9日)は、エリザベート・シュヴァルツコップの誕生日。

エリザベート・シュヴァルツコップを聴いていた。
モーツァルトの“Ch’io mi scordi di te?… Non temer, amato bene, K. 505”を聴いていた。
MQA Studio(96kHz)である。

ここ数日、あらためてシュヴァルツコップ以外の、この曲の歌唱を聴いていた。
よく知られるのは、テレサ・ベルガンサである。

ベルガンサの「どうしてあなたを忘れられましょうか」も、久しぶりに聴いた。
ベルガンサの歌唱をいちばんに推す人が多いのは知っている。

他にも、新しい人の歌唱も聴いた。
それでも私にとってはシュヴァルツコップの歌唱が、
いちばん胸に響く。

それはマリア・カラスの「清らかな女神よ」がそうであるように、
と同じように、シュヴァルツコップの歌唱がそうである。

何度も「清らかな女神よ」は、
マリア・カラスの自画像だ、と書いている。

では「どうしてあなたを忘れられましょうか」は、
シュヴァルツコップの自画像なのか、という自問があった。

黒田先生が「音楽への礼状」で書かれていることを思い出した。
     *
 あなたは、ノルマであるとか、トスカであるとか、表面的には強くみえる女をうたうことを得意にされました。しかしながら、あなたのうたわれたノルマやトスカがききてをうつのは、あなたが彼女たちの強さをきわだたせているからではなく、きっと、彼女たちの内面にひそむやさしさと、恋する女の脆さをあきらかにしているからです。
 ぼくは、あなたのうたわれるさまざまなオペラのヒロインをきいてきて、ただオペラをきく楽しみを深めただけではなく、女のひとの素晴らしさとこわさをも教えられたのかもしれませんでした。
     *
ここでの「あなた」は、マリア・カラスのことである。
ここで書かれていることが、
そっくりそのままエリザベート・シュヴァルツコップにもあてはまる、とは思っていない。

けれど、《彼女たちの内面にひそむやさしさと、恋する女の脆さをあきらかにしている》、
ここのところが、シュヴァルツコップの歌う「どうしてあなたを忘れられましょうか」には、
はっきりと感じられる。

シュヴァルツコップのほかの歌唱からは感じとりにくいことが、
「どうしてあなたを忘れられましょうか」にはっきりとある──、
と私の「耳」にはそう聴こえるのだからしょうがない。

だから、私は「どうしてあなたのことが忘れられましょうか」は、
エリザベート・シュヴァルツコップの自画像だ、と思っている(確信している)。

Date: 12月 2nd, 2021
Cate: High Resolution,

MQAで聴けるエリザベート・シュヴァルツコップ(その4)

今日(12月2日)は、マリア・カラスの誕生日。
二年後の2023年は、生誕百年になる。

マリア・カラスを聴いていた。
いわゆるベスト盤の「PURE」を聴いていた。
MQA Studio(96kHz)である。

「清らかな女神よ」(Casta Diva, カスタ・ディーヴァ)ももちろんそこに収録されている。
別項で、「清らかな女神よ」は、マリア・カラスの自画像そのものだ、と書いた。
いまもそう思っているだけでなく、そう確信している。

「PURE」のなかの一曲である「清らかな女神よ」だけを聴いても、
このベスト盤のタイトル「PURE」の意味をあらためて考える。

ピュアな、だとか、純粋だ、とか、書いたり言ったりする。
そんなふうに使われるピュアとここでのマリア・カラスにつけられたといえる「PURE」とでは、
ずいぶん意味の重さが違う。

意味そのものも違うようにも感じる。

誰が「PURE」とつけたのかは知らない。
けれど、ピュアということと裸の音楽ということが、少なくとも私の裡ではつながっていく。
ここには薄っぺらい意味でのピュアはない。

Date: 11月 29th, 2021
Cate: High Resolution,

MQAで聴けるエリザベート・シュヴァルツコップ(その3)

エリザベート・シュヴァルツコップ、
それにジョージ・セル、アルフレッド・ブレンデルらによる
モーツァルトの“Ch’io mi scordi di te?… Non temer, amato bene, K. 505”。

これを聴いて、美しいと感じない人と美について語り合うことは無理!
そんなことをついいいたくなるほど、美しい。

私はCDで聴いたのが最初だった。
だからアナログディスクもさがした。
イギリスからオリジナル盤を取り寄せたのは、1989年か1990年だった。
安くはなかったけれど、驚くほど高価だったわけでもない。

そのオリジナル盤も、背に腹はかえられぬ時期に手離してしまった。
もう一度、オリジナル盤を手に入れたいか、というと、
まったくないわけではないが、MQAで聴けるようになったいま、
オリジナル盤で聴くよりも、メリディアンのULTRA DACで聴いてみたい──、
という気持のほうがずっとずっと強い。

メリディアンの218に手を加えて、勝手にWONDER DACと呼んでいる。
そのクォリティには満足しているが、
218とULTRA DACとでは、元々が違いすぎる。

どれだけやっても超えられぬ領域があって、
それはマリア・カラスのCDをULTRA DACで聴いた時に、もっとも強く感じている。

マリア・カラスの肉体の描写において、
CD+ULTRA DACとMQA Studio+218(WONDER DAC)とでは、大人と子供くらい違う。
前者は胸のふるえる感じすら伝わってくる。

肉体の復活において、WONDER DACはULTRA DACに劣る。

価格がULTRA DACの1/20なのだから、製品の規模も大きく違うのだから、
その違いは埋めようがないことはわかっていても、
シュヴァルツコップの“Ch’io mi scordi di te?… Non temer, amato bene, K. 505”、
この美しい曲を聴いていると、そこまで美しいと感じているのに、
そこで踏み止まっているのか、という声が聞こえてきそうな──、そんな気さえする。

マリア・カラスは12月2日、
エリザベート・シュヴァルツコップは12月9日の生れ。
二人とも射手座。

そうだよなぁ……、独りごちる。

Date: 7月 18th, 2021
Cate:

薬師丸ひろ子の「戦士の休息」

ステレオサウンド 80号の「ぼくのディスク日記」に、
黒田先生が、薬師丸ひろ子の歌について書かれている。
     *
 よせばいいのに、ついうっかり安心して、ある友人に、この薬師丸ひろ子のコンパクトディスクを買ったことをはなしてしまった。その男は、頭ごなしに、いかにも無神経な口調で、こういった、お前は、もともとロリコンの気味があるからな。
 音楽は、いつでも、思い込みだけであれこれいわれすぎる。いい歳をした男が薬師丸ひろ子の歌をきけば、それだけでもう、ロリータ・コンプレックスになってしまうのか。馬鹿馬鹿しすぎる。
 薬師丸ひろ子の歌のききてをロリコンというのであれば、あのシューベルトが十七歳のときの作品である、恋する少女の心のときめきをうたった「糸を紡ぐグレートヒェン」をきいて感動するききてもまた、ロリコンなのではないか。むろん、これは、八つ当たり気味にいっている言葉でしかないが、薬師丸ひろ子の決して押しつけがましくもならない、楚々とした声と楚々としたうたいぶりによってしかあきらかにできない世界も、あることはあるのである。人それぞれで好き好きがあるから、きいた後にどういおうと、それはかまわないが、ろくにききもしないで、思いこみだけで、あれこれ半可通の言葉のはかれることが、とりわけこの音楽の周辺では、多すぎる。
 決めつければ、そこで終わり、である。ロリコンと決めつけようと、クサーイと決めつけようと、決めつけたところからは、芽がでない。かわいそうなのは、実は、決めつけられた方ではなく、決めつけた方だということを、きかせてもらう謙虚さを忘れた鈍感なききては、気づかない。
     *
黒田先生は1938年生れだから、この時48歳だった。
いまの私は58になった。

そして、いまでも薬師丸ひろ子の歌を聴いている。

薬師丸ひろ子の歌は、それ以前に聴いている。
それでも、自分でディスクを買って、というわけではなかった。

私が最初に買った薬師丸ひろ子のディスクは、
黒田先生が80号で紹介されていた「花図鑑」である。

しばらくは頻繁に聴いていた。
その後は、パタッと聴かなくなった。

十年ほどしてから、また聴きたくなった。
一度、どれかの曲(歌)を聴いてしまうと、またしばらく頻繁に聴く。
そして、またしばらく聴かなくなる、ということをくり返してきた。

最近、また聴くようになった。
「戦士の休息」を、よく聴く。

最初に聴いた時から、いい歌だ、と思っていた。
薬師丸ひろ子の歌に興味のない人でも「セーラー服と機関銃」は、
どこかで耳にしたことがあるだろう。

「セーラー服と機関銃」と「戦士の休息」の歌詞は、男側の歌詞である。
それを薬師丸ひろ子が、黒田先生がいわれるところの
《決して押しつけがましくもならない、楚々とした声と楚々としたうたいぶりによって》
歌われることで、あきらかになる世界がある。

ほかの人はどう感じているのかわからないが、
「セーラー服と機関銃」、「戦士の休息」を聴いていると、
薬師丸ひろ子の歌に、少年っぽいところを感じてしまう。

少女っぽいところももちろん感じているのだが、
その陰に、少年っぽいところが、この二曲ではあるからこそ、
薬師丸ひろ子の歌でなければ、と感じてしまう。

Date: 8月 9th, 2020
Cate:

中島みゆきの「帰省」

中島みゆきの「短篇集」。

この「短篇集」で、「帰省」という歌を、はじめて聴いた。

歌詞の前半は、大都市の殺伐とした風景を描写している。
後半からは、変る。
     *
けれど年に2回 8月と1月
人ははにかんで道を譲る 故郷(ふるさと)からの帰り
束の間 人を信じたら
もう半年がんばれる
     *
8月と1月。
盆と正月である。

人は、年に二回、帰省することで忘れかけていたことを自然と思い出す。
けれど、今年は違う。

コロナ禍で、帰省をあきらめている人も多くいる。
妹夫婦も、今夏は帰省しない、といっていた。

ニュースでは、東京から帰ってきた人の家に、
心無い貼紙がしてあった、といっている。

「帰省」で描かれた風景は、今年の盆からはずっと減ることだろう。
正月もどうなることか、わからない。
来年のことも、だ。

このままずっと続いていけば、帰省ということが、世の中から消えてしまうのかもしれない。
コロナ禍がますますひどくなっていった、としよう。

そんな近い将来、たとえば50年後あたりになると、
「帰省」を聴いても、その風景を思い浮べられない人のほうが圧倒的に多いのかもしれない。

そうはならないであろう、と思いつつも、
変らないことは、この世にはない、という現実が、目の前にあるだけだ。

Date: 4月 18th, 2020
Cate: High Resolution,

MQAで聴けるバルバラ(その6)

ステレオサウンドから出ている「ボビノ座のバルバラ」で、
九曲目の「孤独のスケッチ」を、SACDで聴く。
それからCDで聴く。

そしてユニバーサルミュージックから出ている「バルバラ〜ベスト・セレクション」
その十三曲目の「孤独のスケッチ」を聴く。

SACD、CD、MQA-CDと聴く。
いうまでもなく MQA-CDの「孤独のスケッチ」はスタジオ録音で、
「ボビノ座のバルバラ」におさめられているそれはライヴ録音である。

MQA-CDの「孤独のスケッチ」を聴いていて、歌詞のことが頭に浮んだ。
「孤独のスケッチ」はフランス語で歌われている。
なので、そのまま聴いているだけではまったく意味は解さない。

「孤独のスケッチ」の対訳を読みながら聴いていたのは、
ずっとずっと遠い昔のことである。
どんな歌詞だったのか、もう朧げでしかなかった。

それでもMQA-CDで「孤独のスケッチ」を聴いていたら、
その朧げでしかないけれど、もう断片でしかないけれど、思い出した。

歌詞カードを取り出した。
ああ、こういう歌詞だった、と三十数年ぶりに、胸にくるものがあった。

歳をとったから、というよりも、「孤独のスケッチ」の歌詞を知っている人ならば、
この状況下に聴くことで、感じるところがきっとあるはず。

心に近い音で鳴る、とは、こういうことでもある。

Date: 4月 17th, 2020
Cate: High Resolution,

MQAで聴けるバルバラ(その5)

昨年12月にステレオサウンドから「ボビノ座のバルバラ」のSACDが出た。

シングルレイヤーのSACDで、通常のCDとの二枚組である。
SACDとCDとの音は、けっこう違う。

けっこう違う理由の一つが、私のシステムの場合、
SACDは対応のCDプレーヤーのアナログ出力をアンプに接続している。
CD、それからMQA-CDを聴くときは、同じCDプレーヤーのデジタル出力を、
メリディアンの218に接続して、というわけで、
条件が同じとはいえないゆえの音の違いも加わっている。

SACDのほうが、誰の耳にも明らかなくらい情報量は多い。
ライヴ録音ゆえの会場の雑音は、SACDならでは、といいたくなるところもある。

でも肝心のバルバラの声となると、
SACDが圧倒的にいいとはいえなかったりする。

ここで書いてきているように、
私にとってバルバラの声(歌)は、
瀬川先生が熊本のオーディオ店に来られていたときの音によってつくられている。

その後、フランス盤(LP)で、何枚か聴いているのがベースになっている。

そういう耳には、MQA-CDでのバルバラが、もっともしんみりと聴ける。
SACDの「ボビノ座のバルバラ」は、耳に近く、心に遠いと感じなくもない。

218を通したバルバラのほうが、心には近くなる。
そんな心情的なところをのぞいてしまえれば、
SACDだよ、と言い切れる。
でも、私は、そういうバルバラの聴き手ではない。

もっと心に近くなるバルバラを聴きたい。
MQA-CDでのバルバラは、もっと心に近くなる。

「ボビノ座のバルバラ」がMQAで出てくるのかどうかはわからない。
出てきてほしい、と思う。

Date: 4月 9th, 2020
Cate: High Resolution,

MQAで聴けるエリザベート・シュヴァルツコップ(その2)

MQAで配信されたのが、2019年10月。
今日まで、そうたびたび聴いてきたわけではなかった。
大事な愛聴盤なのだから、むしろそういうものだろう。

MQAで聴くシュヴァルツコップの、
Strauss: Seven Songs – Mozart: Concert Arias”の一曲目、
モーツァルトの“Ch’io mi scordi di te?… Non temer, amato bene, K. 505”は、
美しい、というほかない。

シュヴァルツコップのK.505にであったときのことは、
1997年のサウンドステージに書いている。
純粋性ということを、シュヴァルツコップのK.505を聴いた後では考えてしまう。

私にとって、そういう存在だからなのか、MQAで聴いて満足しながらも、
もっともっと美しく鳴るはずだ、というおもいがつきまとう。

いわば欲だ。
美しい、といっておきながら、
純粋性などといっておきながら、
もっともっと、と求める欲があるわけだ。

ほんとうにシュヴァルツコップによるK.505の美しさを理解しているのか──、
そんなことも頭に浮かぶ。

ルンダールの絶縁トランスLL1658で200Vに昇圧してのメリディアンの218で聴いた。
求めていた音は、これだ! とそう素直におもえる音で鳴ってくれたからこそ、
こんなことを考えてしまう。

Date: 2月 18th, 2020
Cate: High Resolution,

MQAで聴けるバルバラ(その4)

「コンポーネントステレオの世界 ’77」でのそれぞれの組合せの記事中には、
すべての組合せではないが、試聴風景の写真が使われている。

写真の下にはネーム(説明文)がある。
たとえば、
《少し古いレコードを聴くためにはタンノイのレベルコントロールも活用する。調整中の瀬川氏》、
《ソニー、タンノイ、ヤマハの3機種のスピーカーを慎重に試聴する岡氏》、
《アンプの音の違いを真剣に聴き入る菅野氏》、
たいていはこんな感じのネームである。

井上先生の組合せ、
山崎ハコ、ジャニス・イアン、絵夢などのレコードをしんみり聴くための組合せでは、
《山崎ハコなど人前で聴くとやはりテレるのです》とある。

あきらかに、ほかの組合せとは違う。

オーディオのことはまだ何もわかっていないといえた中学二年の私でも、
この写真のネームの違いにはすぐに気づいた。

それだけに、キャバスのBrigantinかロジャースのLS3/5Aの組合せには、
ほかの組合せとは違うなにかを感じたものだった。

そういうことがあったからこそ、
バルバラを、いまMQA-CDで聴いていると、LS3/5Aのこととか、
井上先生のこととかをおもい出すことになる。

Date: 2月 15th, 2020
Cate: High Resolution,

MQAで聴けるバルバラ(その3)

MQA-CDでバルバラを聴いていると、
ふとLS3/5Aで聴いたら、どんな雰囲気でバルバラが歌ってくれるのだろうか、と思った。

20代の一時期、ロジャースのLS3/5A(15Ω)を持っていた。
狭い部屋だったこともあって、メインとして鳴らしていたわけではなかったこともあって、
通常は部屋の片隅に置いていて、聴きたい時だけ設置してという聴き方だった。

譲ってくれ、という友人がいて、手離した。
なのでバルバラをLS3/5Aでは聴いていない。

MQA-CDで聴いていると、LS3/5Aだったら、
インティメイトな感じがより濃く鳴ってくれそうな気がする。

それは、きっとぞくぞくするような鳴り方のはずだ。

LS3/5Aといえば、私にとっては井上先生がまず思い浮ぶ。
1976年12月のステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’77」で、
井上先生がLS3/5Aの組合せをつくられている。

カートリッジはAKGのP8ES、
コントロールアンプはAGIの511、パワーアンプはQUADの405だった。

当時は、この組合せで聴いてみたい、と思うだけだった。
でも、いまはこの組合せの記事は、井上先生の素の部分が出たものだと思う。

井上先生に確認したわけではない。
でも、井上先生はLS3/5Aをもっておられたはずだ。

Date: 2月 12th, 2020
Cate: High Resolution,

MQAで聴けるバルバラ(その2)

昨年秋に発売予定だったバルバラのMQA-CDは延期になって、
今年1月15日にやっと発売になった。

このMQA-CDは、オリジナルマスターテープからのものではなく、
国内にあるマスターテープからによるものだ。

このへんのことも、発売が延期になったことと絡んでいるのだろうか。
国内のマスターテープということは、ちょっとかっかりでもあった。

それでも買って聴いた。
発売日が15日だったので、1月のaudio wednesdayには間に合わなかった。
間に合っていれば、持っていった。

私にとってバルバラのイメージは、
瀬川先生が熊本のオーディオ店に来られていたときの音によってつくられている。

バルバラのレコード(録音)は、LPで聴いたのが最初だ。
フランス盤で、何枚か聴いている。

そうやってつくられたバルバラのイメージ通りの音が、MQA-CDから鳴ってきた。
国内のマスターテープということで、色褪た印象になるのでは……、と危惧していた。
そんなことはなかった。

「孤独のスケッチ」に聴き惚れていた。
色香のある音がする。

日本にあるマスターテープよりも、
フランスにあるオリジナルのマスターテープの音が、ずっといいに決っている。

そう思い込んでいた。
事実、そうなのだろう。

それでもバルバラのMQA-CDを聴けば、
日本に送られてきたマスターテープも、かなり良質なコピーのような気さえする。

Date: 10月 4th, 2019
Cate: High Resolution,

MQAで聴けるエリザベート・シュヴァルツコップ(その1)

エリザベート・シュヴァルツコップのMQAでの配信が、
e-onkyo musicで始まっているのは知っていた。

それでも、私がいちばん聴きたい曲は、まだそこにはなかった。
出ないのか、しばらくしたら出るのか。

一年後でも二年後でもいいから、出してほしい、
とにかくMQAで聴きたい──、
ULTRA DACでMQA-CDの音を聴いた日から、そう思っていた曲が、
今日から配信されるようになった。

Strauss: Seven Songs – Mozart: Concert Arias”の一曲目、
モーツァルトの“Ch’io mi scordi di te?… Non temer, amato bene, K. 505”である。

シュヴァルツコップの歌唱は、どうも苦手だった。
のめり込めないような何かを、聴く度に感じていた。

そんなときにふと手にしたのが、CD化されたばかりのモーツァルトのアリア集だった。
今回配信された“Strauss: Seven Songs – Mozart: Concert Arias”とは、
だから収録曲に違いがある。

そんなことはどうでもいい。
私がとにかく聴きたかった一曲が入っているのだから。

“Ch’io mi scordi di te?… Non temer, amato bene, K. 505”は、
私にとってシュヴァルツコップへの認識をがらりと変えてくれた。

シュヴァルツコップには、もっと素晴らしい歌唱がたくさんある──、
そうなのかもしれない。

私はシュヴァルツコップの歌唱をすべて聴いているわけではない。

でもそんなことはどうでもいい、と思っている。
美しい音楽が聴ける。
それで充分である──、
そう思いながらも、さらに美しい音で聴きたい、という欲がある。

Date: 9月 11th, 2019
Cate: High Resolution,

MQAで聴けるバルバラ(その1)

昨年7月に「MQAで聴けるグラシェラ・スサーナ」を書いた。

MQA-CDでグラシェラ・スサーナが聴ける日が来る、とは、夢にも思っていなかったから、
発売リストにグラシェラ・スサーナの名前を見つけた時には、
ひとりガッツポーズをしたくらいだ。

今年10月に、またユニバーサルミュージックからMQA-CDが発売になる。
そこに、バルバラの名前があった。

またひとりガッツポーズをしてしまった。

Date: 7月 7th, 2019
Cate:

「音楽への礼状」より

 誰もが、あなたのようにゴーイング・マイ・ウェイでやっていけたらいいな、と思っています。ところが、願望は願望のままでとどまることが多く、なかなか思いどおりにはいきません。
 思ってはいても、なかなか思いどおりにいかない理由は、周囲の事情とかあれこれ、おそらく、いろいろあるでしょう。しかし、思いどおりにいかないもっとも大きな理由は、自分自身のなかで凛とした気性が欠如しているためのようです。あれやこれや、思いきってスパッと捨てられさえすれば、おのずとフットワークは軽くなる。にもかかわらず、望んでも、それがなかなかできない。そうとわかってはいても、実行がともなわないからです。
 仕事をすれば、その仕事を、一応はまわりのひとたちにも評価されたい、と思ったりします。他人に、たとえ表面的にであっても、うやまわれたりすれば、それなりに悪い気持はしません。多くのひとたちは、ともかく課長になりたいとか、あるいは、庭のある家に住みたいとか、さまざまな願望を胸にたたんで、毎日を生きることになります。そのようなことをあれこれ思いはかりながら人生をやっていれば、まるでバーゲンセールで不必要なものを買いこみすぎたときのように、階段をおりる足もともふらつきがちで、行動の自由をうばわれます。
 生活臭などというものには、不精髭ほどの愛矯もありません。しかし、そのことに無頓着なためでしょうか、髭は毎日しっかり剃るにもかかわらず、住宅ローンにやつれた顔を恥じようともしないひとがいます。ほんとうに大切なものはなんなのか、そのみきわめを怠れば、思いきりよくなにかを捨てられるはずもありません。あれもこれもと欲張るから、生活臭などという悪臭を周囲にふりまくことになります。生活臭という悪臭は、困ったことに、口臭に似て、当人はその臭いに気づかない。
(中略)
 あなたの、こだわりといったものがまったく感じられない仕事ぶりは、世俗の名声とか名誉とか、あるいは財産とかあれこれ、いずれにしても一服するときに飲むコーヒーほどの意味もないものを、いさぎよく無視したところでなされているように思われます。そのようにあなたによってうたわれた歌であるがゆえに、どの歌も、静かにほんとうのことをうたいます。
 残念なことに、ぼくらは、日々の生活をしていくうえで、小さな頭で姑息な計算をしつづけるウジウジした男やイジイジした女に会うことが多く、その結果、気分も、さっぱりせず、萎えがちです。そういうとき、北ヨーロッパのひとたちが輝く太陽をみたくて南に旅するときのような気持で、ぼくは、あなたのディスクをプレイヤーにセツトします。あなたのうたう、さらりと歌でありつづけている歌がスピーカーからきこえてくると、それをきくぼくは、自分のなかにも巣くっているウジウジやイジイジに気づき、これはいかん、と大いに反省したりします。
 過度に男を主張することもなく、楽しみつつさらりと男をやっているあなたの歌は、ぼくにとって、いつでもすがすがしく感じられます。
     *
黒田先生の「音楽への礼状」からの書き写してある。
ここでの「あなた」とは、ジョアン・ジルベルトである。