Archive for category 歌

Date: 2月 10th, 2015
Cate:

日本の歌、日本語の歌(距離について・その1)

1989年か1990年だったと記憶している。
ヴィクトリア・ムローヴァが来日した。
津田塾ホールでのコンサートがある。

ムローヴァをかぶりつきで聴きたかった(見たかった)私は、
当時津田塾ホールの仕事をされていたKさんにチケットの手配をお願いした。
ムローヴァにいちばん近い席で聴きたい、という勝手な要望をつけて。

当日ホールについてチケットを受けとると、
いちばん前の席ではあるものの、中央の席ではなかった。
いちばん近い席という要望はかなえられなかったかぁ……、とすこしがっかりしていた。

コンサートが始る。
ムローヴァがステージに現れた。
なぜかムローヴァはステージの中央ではなく、私が坐っている席の真正面に立って演奏を始めた。

ムローヴァがステージのどの位置で演奏をするのか知った上で用意してくれたのどうかはわからなかったが、
私の要望は最高のかたちでかなえられた。

いまでは信じられないだろうが、当日津田塾ホールは満員ではなかった。
私の両隣はほとんど空席だった。

私の後には多くの人がいても、彼らは私の視界にははいらない。
私の視界にいるのはヴィクトリア・ムローヴァだけだった。

こういう距離感で音楽を聴けるのは、クラシックのコンサートではあまりない。

Date: 12月 21st, 2014
Cate:

日本の歌、日本語の歌(その4)

話すことと歌うこと。
同じ言語であっても、そのときの脳の部位が違うのだとしたら、
同じ日本語であっても、話しをきいているときと、歌を聴いているときとでは、
反応している脳の部位にも違いがあるのではないか。

同じなのかもしれないし、違うのかもしれない。
はっきりしたことは知らない。
けれど可能性としては考えられることであるし、
人によっても、もしかすると違うのかもしれない、とも思えてくる。

私のように日本語を話せない人による日本語の歌をに対して、
日本語としての瑕疵を感じない人もいれば、そこがすごく気になってしまうという人もいるからである。

すごく気になってしまうという人も、それが日本語だからなのかもしれない。
たとえばフランス語を解しないアメリカ人がフランス語の歌をうたったのを聴いたとする。

この場合でも、彼はフランス語としての瑕疵が気になってしまうのか。
もちろんここでの聴き手は、フランス語を解さない人である。

Date: 12月 18th, 2014
Cate:

日本の歌、日本語の歌(その3)

大脳の言語中枢がなんらかの原因で損傷を受け、言語障碍になっても、
歌は歌えるという話を、かなり以前にきいたことがある。

話すことがそうとうに困難な人であっても、歌となると言葉が出てくるから、
リハビリテーションにとりいれられている、とも聞いた。

となると話す時は言語中枢が必要となるわけだが、
歌では必ずしもそうではない、ということになるのか。

話し言葉も歌詞も、同じ言葉であるとつい捉えがちであるが、
うまく話せない人が、歌ならば歌えるという事実は、
このふたつの言葉は表面的には同じようにみえても、深いところではかなり違うことなのかもしれない。

グラシェラ・スサーナのコンサートに数年前に行った。
相変らず日本語は、お世辞にも流暢とはいえなかった。
上達していたとはいえなかったし、いま以上に上達することはないようにも感じた。

けれど、歌となると完璧な日本語とはいえないまでも、
話し言葉としての日本語とははっきりとレベルが違う。

なぜ、そうなるのか、がずっと不思議だった。
別にグラシェラ・スサーナだけの限らない。
昔は、外国人の歌手に日本語の歌をうたわせる企画が多かった。
ミルバも歌っていた。

なぜ、この企画が通ったのか。
それは日本語は話せなくとも、日本語の歌はうたえるから、だったのではないのか。

Date: 12月 18th, 2014
Cate:

日本の歌、日本語の歌(その2)

ホセ・カレーラスによる「川の流れのように」は心に沁みた。

美空ひばりによる「川の流れのように」はもちろん聴いていた。
何度も聴いていた。
いい歌だということはわかっていた。

けれど、こんなにもいい歌だったのか、と思い知らされた。
ホセ・カレーラスの日本語も決して流暢ではない。
そういう意味では、瑕疵のある歌唱ということになるだろう。

この瑕疵がどうしても気になってしまう人、そうでもない人がいる。
私にとっては、ささいなことであり、瑕疵とも感じていない。

なにかの機会に、ホセ・カレーラスの”AROUND THE WORLD”を人にすすめた。
「川の流れのように」が素晴らしいから、とすすめた。

たいていは「美空ひばりを聴いたこと、あります?」と返ってくる。
ある、と答えると、「なぜ、わざわざ外国人の日本語で聴く必要があるのか」といったことか返ってくる。

もし、美空ひばり以外の日本人歌手による「川の流れのように」をすすめたら、
違うやりとりになっているだろう。

ホセ・カレーラスの「川の流れのように」でそういうやりとりになってしまうのは、
ホセ・カレーラスが日本語を話さないからであり、
日本語に限らず、歌は、その歌詞の言語を理解していなければ、ほんとうのところでの歌唱とはなりえない、
そういう認識が聴き手側にあるからではないのだろうか。

Date: 12月 17th, 2014
Cate:

日本の歌、日本語の歌(その1)

日本語を解さない者が、日本の歌をまともに歌えるはずがない。

歌には歌詞があり、歌詞は言語であるから、日本語で書かれた歌を歌うのには、
日本語を理解、話せることが必要条件である──。

もっともなことであるのだが、
現実は必ずしもそうではない、と私は思っている。

私はグラシェラ・スサーナの歌う日本語の歌が好きである。
グラシェラ・スサーナの日本語は、初来日から40年以上が経つのに、お世辞にも流暢とはいえない。

菅原洋一の招きで日本に来た時、日本語はまったく解さないのに、日本語の歌を歌っている。
1971年の初来日の翌年に「愛の音」が出た。
このアルバムの録音時も、日本語は話せなかったであろう。

でも「愛の音」を聴いて、いい歌が聴ける、私は思う。
完璧な日本語で歌っているわけではない。
完璧な日本語ではないところに、魅力を感じているわけでもない。

ホセ・カレーラスには、”AROUND THE WORLD”というアルバムがある。
ホセ・カレーラスの数多いアルバムのなかで、
この”AROUND THE WORLD”と「ミサ・クリオージャ」は素晴らしい。
歌の素晴らしさが、二枚のアルバムには色濃くある。

歌、人の声が、なにか特別なもののように思えてくる。
“AROUND THE WORLD”でホセ・カレーラスは「川の流れのように」を歌っている。
日本語で歌っている。

“AROUND THE WORLD”は「愛の讃歌」で始まる。
これも素晴らしい、二曲目の「愛のことば」もいい、
つづく「愛していると君が言うだけで」、「アルフォンシーナと海」もよかった。

五曲目に「川の流れのように」。
ここまでの歌が素晴らしかっただけに、日本語での「川の流れのように」にはあまり期待してなかった。