正しい音と正しい聴き方(その2)
そういえば、と気づく。
正視はあるが、正聴はない。
あるのは静聴と清聴である。
正視とは、まっすぐに見つめること。対象を正面から見つめること。
静聴は、静かにきくこと。心を落ちつけやすらかにしてよく聞くこと。
辞書には、そう書いてある。
静聴が、正視に相当する、ということなのか。
でも微妙に違うだろう、といいたくなる。
なぜ正聴がないのか。
そういえば、と気づく。
正視はあるが、正聴はない。
あるのは静聴と清聴である。
正視とは、まっすぐに見つめること。対象を正面から見つめること。
静聴は、静かにきくこと。心を落ちつけやすらかにしてよく聞くこと。
辞書には、そう書いてある。
静聴が、正視に相当する、ということなのか。
でも微妙に違うだろう、といいたくなる。
なぜ正聴がないのか。
幼かったころ、テレビからは「大きいことはいいことだ」というCMがよく流れていた。
森永のエールチョコレレートのコマーシャルソングで、山本直純氏が起用されていた。
子供の耳にも残りやすかったし、頻繁に流れていたようにも思う。
学校に行けば、誰かが口ずさんでいた。
それだけインパクトのあったコマーシャルだった。
「大きいことはいいことだ」と子供時代に刷り込まれてきた……、
とは思ってはいないが、
「大きいことはいいことだ」とは思うところがある。
大きいこと(というかモノ)が、すべていいとはいわないが、
何か大きいこと(モノ)を蔑む風潮が、オーディオにはあるようだし、
いつのころからが、その傾向が顕著になりつつあるようにも感じている。
特に大口径ウーファーに対してのそれは、
浅薄な知識による拒絶とでもいいたくなる言説を耳にしたり目にしたりする。
大口径ウーファーのすべてを認めているわけではないが、
大口径ウーファーでなければ得られない音の世界がある。
それにしても、なぜ大きいことは知性に欠ける、といった風潮が生れてきたのだろうか。
時計の秒針の音も、生活音のひとつである。
スタジオの様に高い遮音性のリスニングルームでもないがぎり、
音楽を聴いているときに、なんらかの生活音が耳に入ることはある。
生活音にはいろいろある。
人が発する音もあれば、機械が発する音もある。
その中で、時計の秒針は規則正しく音を発している。
この「規則正しく」が、私にとっては生活音から生活雑音へと、
そんなふうに意識してしまうところがある。
もちろん常に、というわけではないが、何かの拍子にひどく気になりはじめる。
なぜなんだろう? と昔から考えている。
けれど、これといった答らしきものは見つかっていない。
それでも今回Aさんとの会話の中で、このことが出てきて、
あらためて考えている。
いま書いていることと関係しているようにも感じているからである。
そんなのは単なる偶然でしかなくて、
にも関わらず私が何らかの意味を求めてのこじつけのようなことかもしれない。
読まれている方の中には、そう思われている人もいよう。
でも私はそうは思っておらず、
時計の秒針の音と記録のような音との関係性について考えているところだ。
エソテリックは、別タイトルのSACDでも同じことをやっている。
ただ、こちらの場合は、聴いた人の多くがすぐにわかるような欠落だったため、
しかも発売後すぐに、そのことがわかったこともあって、全数回収され、
きちんとした盤が発売になっているので、それがどのタイトルなのかは書かない。
ギレリスのベートーヴェンは、
購入した人から欠落個所があるという指摘があったのは、
発売後しばらくしてのことだったらしい。
それもあってか、エソテリックはギレリスのSACDは回収していない。
この種のミスは、どのレコード会社でも昔からあった。
出版の世界でいえば、誤植のようなものだろう。
どんなに注意深く編集作業を行っても、
本ができ上がってから気づく誤植がある。
しかもすぐに見つかるような誤植が、
どうしてなのか編集作業の過程で、何人もの人が見落しているわけだ。
レコード会社のミスも、そういうものなのかもしれない。
でも、それは録音を行い、編集を行い、
最終的な形(LPなりCD)で発売するレコード会社だからのミスであり、
エソテリックのギレリスSACDに関しては、
レコード会社のそれと同じに捉えていいのだろうか、と思う。
エソテリックをはじめ、リマスター盤を専門に堕している会社は、録音は行っていない。
エソテリックでいえば、録音は、ギレリスならばドイツ・グラモフォン、
コリン・デイヴィスならばソニー・クラシカル、
その他にデッカやEMIが録音したもののマスターテープを使ってのリマスターなわけだ。
つまり見本となる盤がすでに存在しているわけだ。
ギレリスのベートーヴェンならば、ドイツ・グラモフォンからLPとCDが出ている。
菅野先生のリファレンスディスクといえるコリン・デイヴィスのベートーヴェンの序曲集。
エソテリックからSACDの第一弾として発売された時は、購入した。
好評だった、と聞いている。
採算ベースにのったのだろう。
その後、第二弾、第三弾……、といまも続いている。
コリン・デイヴィスのベートーヴェンの序曲集に関しては、
なぜかマスターテープが紛失していたそうだ。
その後は、マスターテープからのリマスターを謳っている(はず)。
その後のエソテリックのSACDは何枚か聴く機会があったが、
少しずつエソテリック色とでもいいたくなる独自の音色がついてくるように感じ、
購入したものはない。
それでもショルティのリングはかなり心が動いたけれど、
あの価格に手が出せなかった。
エソテリックのリマスターの評価は人によって違うようだ。
私と同じように感じている人もいれば、
どんどん良くなっていると高く評価している人もいるみたいだ。
ここで書くのはリマスターの音についてではない。
エソテリックから出たギレリスのベートーヴェンのディスクに関することだ。
このSACDは、1トラック目、エロイカ変奏曲の最後の方で、四小節分が欠落している。
そんな噂を聞いていた。
このあいだも、その話を聞いた。
そのSACDを持っていないので確認はできないが、
インターネットで検索してみると、抜けがあるのは事実である。
これは編集ミスなのだろうか。
ヤマハのA1というプリメインアンプのデザインについてこうして書いていると、
イギリスのいくつかのプリメインアンプのことを、対比として考えてしまう。
スペンドールのD40、
ミュージカルフィデリティのA1、
オーラ・デザインのVA40のことを考えている。
D40もA1もVA40も、
フロントパネルにあるのは電源スイッチと入力セレクター、レベルとバランスコントロールくらいである。
トーンコントロールもフィルターも、搭載していない。
D40はA1とほぼ同じころに登場している。
価格は当時145,000円だった。
1980年頃には、198,000円に値上りしていた。
A1の価格は115,000円、CA2000が158,000円だった。
A1もCA2000も、国産プリメインアンプの標準的なサイズと重量だったのに対し、
D40はW33.2×H9.6×D22.3cm、6.0kgという小ささで、出力も40W+40W。
内部を比較すると、国産プリメインアンプの同価格帯のモノとの落差を大きく感じてしまうほどである。
つまり国産プリメインアンプが、
自社製のスピーカーシステムをうまく鳴らすことをいちばんに考えていたとしても、
他社製のスピーカーシステムもきちんと鳴らすことを前提としているのに対し、
D40は割り切って、自社製(スペンドール)のスピーカーのみがうまく鳴ればいい、
そんな感じの音なのだ。
当時ベストセラーモデルだったBCIIと組み合わせた音を一度でも聴いたことのある方なら、
確かにそうだった、とD40の音を思い出してくれるだろう。
私はBCIIとの組合せでしか聴いたことがない。
BCIIIやSA1との音は聴いていないので、はっきりしたことはいえないが、
BCIIを鳴らすほどには、BCIII、SA1をうまく鳴らしてくれるわけではないだろう。
他社製のスピーカーシステムを鳴らすよりは、よく鳴らしてくれたであろうが、
そう思わせるくらい、D40はBCII専用と言い切っていいプリメインアンプだった。
木曜日に会っていたAさんとの会話に、ある人の音のことが出た。
Bさんとしておこう。
Aさんも私もBさんの音を聴いている。
一緒にではなく、別の機会にである。
Aさんと知りあったばかりのころだったか、
AさんにBさんの音のことをきかれて、「時計の音が気になった」と答えたことがある。
もう十年くらい前の話だ。
Aさんは、その話を憶えていて、木曜日に、そのことが会話に出た。
そういえば、確かにそう話した。
話した本人も忘れかけていたことを憶い出せてくれた。
Bさんは、私が伺ったときは、別のスピーカーを鳴らされていた。
その後、(その5)で書いている世評の高いスピーカーにされている。
その音は、私は聴いていない。
私が時計が気になったのは、以前のスピーカーでのことではあるが、
おそらくスピーカーを入れ替え後であっても、同じように時計の音が気になったであろう。
時計の秒針が動く音。
規則正しくカチッ、カチッ、と動く音が、どちらかといえば苦手だ。
かすかな音であっても、何かの拍子に気になると、ひどく耳障りに感じる。
この時計の音が気になる音とそうでない音とがあるように感じている。
Bさんの音は、はっきりと、私にとっては時計の音が気になるものだった。
時計がリスニングルームにあって、秒針の音がしていても気にならないこともある。
そういう音と、秒針の音が気になる音とは、私にとっては大きな違いのある音だ。
これは「「音楽性」とは(映画性というだろうか)」で書こうとしていることにも関係してきそうだ。
つまり記録のような音と記憶のような音、
この違いが、秒針の音が気になり、気にならないにつながっていくようなきがしている。
昨晩もまたオーディオ仲間であり友人のAさんと呑んでいた。
Aさんといっても、木曜日に会っていたAさんとは別のAさん。
昨晩はAさんの友人のIさんも一緒だった。
Iさんとは初対面だった。
17時過ぎから日付が変るころまで呑んでいた。
Iさんもまたオーディオマニアである。
話の中に、あるスピーカーのことが出た。
世評の高いスピーカーである。
ステレオサウンドでも高く評価されているし、
このブランドの新製品が出るたびに、多く取り上げられる。
勘のよい方ならば、どのブランドなのかは察しがつくであろう。
あえてブランド名は出さないが、
このスピーカー、優秀ではあるが、まったく欲しいという気が起きない。
それは私だけでなく、AさんもIさんも同じだった。
木曜日に会っていたAさんも同じだ。
二人のAさん、Iさん、私、ほぼ同じ歳である。
だからといって世代的な理由から意見が一致するのかといえば、そうではない。
同じ世代であっても、われわれ四人が欲しくないと思っているスピーカーを購入している人は、
けっこう世の中にはいる。
だからこそ世評が高いだけでもある。
ならばこの四人が、なぜこのブランドのスピーカーを拒否するのだろうか。
ひとつ思いあたるのは、血の気の多さかもしれない。
ドキュメンタリーは、いわば記録である。
そう考えると、テレビは記録を写し出すに適しているのかもしれない。
映画でもテレビでも、ドラマがある。
映画でのドラマとテレビでのドラマの違いは、
記録を写し出すに適しているテレビでのドラマであり、
一方の映画は、記録ではなく記憶を映し出す、と考えれば、
同じドラマであっても、テレビでのドラマと映画でのドラマの違いが、
浮び上ってくるような気がする。
記録と記憶。
写し出すと映し出す。
そんなことを考えているところに、ステレオサウンド 130号を開いていた。
このころのステレオサウンドには、勝見洋一氏の連載があった。
「硝子の視た音」の八回目の最後に、こうある。
*
そしてフェリーニ氏は最後に言った。
「記憶のような物語、記憶のような光景、記憶のような音しか映画は必要としていないんだよ。本当だぜ、信じろよ」
*
フェデリコ・フェリーニの、この言葉が映画の本質を見事言い表しているとすれば、
記録のような物語、記録のような光景、記録のような音を、映画は必要としていない、となる。
2月1日のaudio wednesdayは、アナログディスク再生・序夜である。
喫茶茶会記のアナログプレーヤー(ガラード401にオルトフォンSPUとRMG309の組合せ)で、
当日鳴ってきた音を聴いて、やれることをやっていく。
昨年の音出しでは、CDプレーヤーかパソコンを使ってだった。
アナログプレーヤーは今回は初めて鳴らす。
喫茶茶会記の通常のセッティングの音は短い時間ではあるが聴いている。
セッティングはかなり違うわけだから、初めて聴くようなものである。
私はスピーカーのセッティングに必要なモノを持参するために、
アナログディスクまで持っていくつもりはない。
喫茶茶会記にあるアナログディスクはジャズが中心である。
だから聴きたいものがあれば、アナログディスクは持参していただきたい。
アナログプレーヤー関連のアクセサリーもどうぞ。
場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
「仕事は?」ときかれたときに、
「オーディオマニア」と答えることがある。
相手が男性だと、怪訝な顔をされることが多い。
女性だと興味をもつ人が時々いる。
そして訊ねられることがある。
「いい音って?」
これに答えるのは、難しい。
オーディオに関心のない人が相手であるからで、
オーディオマニア相手に、いい音について語るようにはいかない。
そんなときに使ったのが、(その21)で引用した瀬川先生が書かれていることである。
それをそのまま伝えたわけではなく、
疲れて帰宅して、一分でも早く寝たいんだけども、
十数分でもいいから、この音を聴いてから寝よう──、
そう思える音はいい音だ、と答えたことが何度かある。
でも、これだけでいい音について答えたことにはならない。
「いい音」とは、便利な言葉である。
なぜ便利かといえば、曖昧さを多分に含んでいるからだ。
確かに親しいオーディオ仲間との会話で、「いい音だよ」で伝わる場合はある。
でも、それは限られた条件において、であって、
オーディオ雑誌やブログのように不特定多数の人を相手に書いているところでの「いい音」は、
何も伝えてはいない、ともいえる。
だから2016年12月から、「いい音、よい音」というタイトルで書き始めている。
ひとりで酒を呑むことは、もう30年ほどやっていない。
誰かといっしょに呑むのは楽しい。
だから親しい人からの誘いがあれば、極力出掛けるようにしている。
今日も出かけていた。
友人で、オーディオ仲間のAさんと会って、あれこれ話して帰ってきたところである。
オーディオの話も、もちろんした。
それ以外の話のほうが多かったけれども。
オーディオの話で驚いたことを聞いた。
オーディオの話というより、オーディオマニアについての話である。
Aさんは私よりも、多くのオーディオマニアを知っている。
AさんがSNSに、あるオーディオ機器を買った、と書いたとする。
それが高額なモノであれば、彼を知っているオーディオマニアの方から連絡が来るそうだ。
聴かせてほしい、と。
ところが、新しいモノを何も買わずにいると、
まったく連絡がなくなるそうだ。
そういう人の中には、Aさんから連絡をしても無視する人もいるとのこと。
なんだろう、と思う。
そういう人は、Aさんに会いに来るのではなく、
Aさんが購入したオーディオ機器に会いに来ているのか。
そんな人も「音は人なり」というのだろうか。
だとしたら、Aさんが購入したオーディオ機器を聴きに来るということは、
Aさんの音を聴きに来ると同義であるのに……、とも思う。
テレビと映画の違いは、
映画は銀幕とも呼ばれるスクリーンに映写機によって映し出されるところにある。
つまり映画は、スクリーンに投影された反射像である。
サイズがどちらも100インチであったとしても、
液晶ディスプレイとスクリーンとでは、この点が決定的に違う。
昔、テレビはいまのように液晶ディスプレイではなかった。
ブラウン管だった。
だからテレビというモノ自体が、ひとつの箱だった。
テレビが登場したばかりのころ、
テレビの箱の中に人がいて、演じていると思っていた、というシーンが、
そのころを描いた映画やテレビドラマでもある。
ほんとうにそんなことがあったのだろうか、と思う。
すでに映画はあったのだから、そんなことを思う人がいるのか、と、
その時代を知らない私などは、そんなふうに捉えるわけだが、
でも、このことは映画とテレビの違いを、端的に表している。
つまりテレビは、家庭に入りこんできた。
つまり日常に入りこんできた。
日常の空間の中にテレビの空間(世界)がある。
映画館に行き、入場料を払って、暗い空間で観る映画と、
スイッチを入れてチャンネルを合せるだけで、居間で見れるテレビの世界とでは、
日常の生活(世界)との連続性を感じさせる点においての違いがある。
もしテレビが存在しなかったら、
ドキュメンタリーという手法はかなり違ったものになっていたかもしれない。
「いい音を身近に」というタイトルで書き始めたのは、
ある知人が、同じテーマで書いて公開しましょう、といってきたことがきっかけだ。
知人はステレオサウンドの特集のタイトルである「いい音を身近に」を選んだ。
2010年春のことだ。
知人は適当な組合せ例を書いて、それで終り。
いまではそれも見られなくなっている。
いつもの知人のやることだ。
私は、またか、と思うだけで、
「いい音を身近に」というタイトルは、考えて書いてみて面白い、と思っている。
私が子供のころ、テレビは一家に一台だった。
高級品だったからだ。
それが一人一台に変っていった。
音楽を聴く装置も、同じだった、というか、
テレビよりも普及率は低かった。
それがウォークマンの登場により、テレビ同様、一人一台といえるくらいになっている。
でも私が子供だったころ、ステレオと呼ばれていたモノは、
一般家庭には、それほど普及していなかった。
その頃の身近なステレオ(オーディオではなく、ステレオのほうが合っている)は、
中学校の音楽室に備えつけてあった装置である。
私が通っていた小学校には、音楽室はなかった(と記憶している)。
中学校にはあった。
そこには、ビクターのステレオがあった。
スピーカーはバックロードホーンのFB5だった。
プリメインアンプとプレーヤーもビクターの製品だった。
FB5は壁に取りつけられていた。床からけっこうな高さまで持ち上げられていた。
普及クラスのステレオではあっても、
単品コンポーネントとして販売されていたモノの組合せであった。
学校にきちんと鳴らすことができる人がいれば、
そこそこの音を鳴らしてくれただろう、とは思う。
けれど、実際にはそうではなかった。
音楽の授業で、レコードを聴くくらいで、
中学生活の三年間で何度聴いたかといえば、数回くらいである。
この項の(その1)を書いたのは、2008年9月だから、
このブログを始めたばかりのころである。
少し時間をかけすぎた、と反省している。
「菅野沖彦氏のスピーカーのこと」というタイトルで書こうと思ったのは、
そのころよく「菅野先生の音は、どういう音なんですか」と訊かれていたからだ。
できるかぎりの説明はするものの、それだけで伝わっているとは思っていない。
菅野先生の音を想像する、それも正しく想像するのに、何かきっかけとなる音、
それも聴こうと思えば、多くの人が聴ける音として、何があるだろうか、と考えた。
浮んだのは、B&OのスピーカーシステムBeoLab 5である。
2008年の段階で XRT20は製造中止になって久しいし、
マッキントッシュのラインナップからXRT20の後継機といえるモデルはなかった。
JBLの375を中心としたシステムは、
JBLのスピーカーシステムのラインナップに近いモノはない。
ジャーマン・フィジックスのDDD型を中心としたシステムに関しても、同じだ。
でも、これら三組のスピーカーに共通する要素を考え、抽出し、
その要素を備えているスピーカーシステムとなると、Beolab 5ということになる。
だから、「菅野先生の音は、どういう音なんですか」と訊ねてきた人に対して、
全員ではないけれど、何人かにはBeoLab 5を聴いてみることをすすめた。