Archive for category 挑発

Date: 5月 29th, 2017
Cate: オリジナル, 挑発

スピーカーは鳴らし手を挑発するのか(オリジナルとは・その3)

その2)に書いたスピーカーの自作マニアの人について考える。
(その1)で書いたJBLのハーツフィールドの外観だけをコピーし、
中身は別モノをつくろうと考えていた知人と比較しながら考えてみる。

往年の名器と呼ばれるハーツフィールドやパラゴンをコピーし自作する人が昔はいた。
いまもインターネットで検索してみると、同じことをやっている人がいる。
昔はそういう人がオーディオ雑誌に取り上げられていた。
いまはそうではないから気がつかないだけなのかもしれない。

昔のオーディオ雑誌に登場していた自作マニアの人たちは、
パラゴンやハーツフィールドが欲しくて──、ということだけが自作の理由なのだろうか。
1970年代にはハーツフィールドはすでに製造中止になっていたが、
パラゴンは現役のスピーカーシステムだった。

1975年ごろ、パラゴンは1,690,000円だった。
パラゴンに搭載されていたユニット、
ウーファーのLE15Aは、67,200円(一本、以下ユニットの価格はすべて一本)。
ドライバーの375は125,900、ホーンH5038Pは当時単体ではカタログに載っていない。
トゥイーターの075は38,600円、ネットワークのLX5とN7000が、41,500円と16,500円。
ユニットの合計はホーンを抜きにして289,700円、これの二倍は579,400円になる。

ホーンを含めばユニットの合計は60万円をこえるとなると、
パラゴンのシステムとの差額は約100万円。

この100万円をできるだけ安く仕上げたいがための自作とは思えない。

パラゴンを自作するためには、まず図面の入手が必要である。
同じ図面を手に入れても、自作する人によって板取は違ってくる。
つまり材料の入手、板取、加工、仕上げなどをひとりで黙々とこなしていくことになる。

数時間程度で完成するものではない。
仕事が終り帰宅してから、もしくは休日に集中して作業しても、
完成までにはかなりの期間を要する。

アンプの自作とは違い、スピーカーの自作には、
特にパラゴンのような大型のシステムであれば作業スペースの確保もたいへんだ。

パラゴンの自作にともなうもろもろのことを金銭に換算したら、
100万円と同じくらいか、ときとしてそれをこえてしまうのではないだろうか。

思うには、あの時代、パラゴンやハーツフィールドを自作していた人たちは、
安く仕上げたい、手に入れたい、ということよりも、
むしろ挑戦という気持が強かったのではないか。

つまりパラゴン、ハーツフィールドに挑発されての挑戦である。

Date: 10月 23rd, 2015
Cate: オリジナル, 挑発

スピーカーは鳴らし手を挑発するのか(オリジナルとは・その2)

昨晩、JBLのハーツフィールドの外観だけをコピーしたスピーカーを作ろうと考えていた人のことを書いた。
私は、はっきりいって、こういうことは否定する。

だが一方で違う考え方ができる。
ハーツフィールドの外観だけそっくりのスピーカーを作ろうとしていた彼は、
少なくともオリジナルのハーツフィールドを手に入れて、
それに手を加えようとしていたわけではない。

その意味で、彼のことをオリジナル尊重者だとみることもできるし、
そう見る人もいると思う。

むしろ、私のように購入したオーディオ機器に手を加える者は、
オリジナルを尊重していない、けしからんやつだという見方もできる。

彼は彼なりにハーツフィールドを尊重しての考えだったのだろうか。
私には、どう考えてもそうは思えない。

私がオーディオに興味を持ち始めた1970年代後半は、
電波新聞社からオーディオという月刊誌が出ていた。
このオーディオ誌の別冊として、自作スピーカーのムックが何冊か出ていた。

スピーカーを自作するために必要な知識、実際の製作例の他に、
自作マニアの紹介のページもあった。

ここに登場する人たちは、JBLのパラゴンやハーツフィールドを自作するような人たちだった。
オリンパスの、あの七宝格子をコピーして自作のスピーカーに取りつける人もいた。

この電波新聞社のムック以外にも、
当時は、アマチュアとは思えない木工技術をもっているオーディオマニアが、
タンノイのオートグラフやその他のスピーカー・エンクロージュアをコピーしていた。

そんな人たちの中には木工を仕事とする人もいたようだが、
世の中にはすごい人がいるものだと、中学生の私は感心していた。

この人たちは、ハーツフィールドの外観だけをコピーしようとした彼とは違っていた。
この人たちの木工技術があれば、彼が計画していたスピーカーをつくることは造作も無いことだろう。
複雑な内部構造は無視して、外観だけをそっくりに作ればいいのだから。

けれど、この人たちの中に、そんなコピーともいえないコピーを作る人はいなかった。
少なくとも当時のオーディオ雑誌に登場する人の中にはいなかった。

Date: 10月 22nd, 2015
Cate: オリジナル, 挑発

スピーカーは鳴らし手を挑発するのか(オリジナルとは・その1)

ハーツフィールドのことを書いていて思い出した人がいる。
彼もまたハーツフィールドを欲しい、といっていたひとりだし、
彼の財力があれば、程度のいいハーツフィールドを手に入れることはそう無理なことではなかった。

けれど、彼はハーツフィールドを買おうとはしなかった。
彼の求める音の方向とハーツフィールドは違っていた。

折曲げ低音ホーンの音を彼は毛嫌いしていた。
生理的にだめだったのかもしれない。
だから彼はハーツフィールドそっくりのエンクロージュアをどこかに作らせる、という。
ただし内部構造はホーン型ではなく、一般的なエンクロージュアとして、である。

ウーファーは左右の開口部に配置する。
ハーツフィールドの寸法からいって15インチ口径のウーファーを開口部のところにおさめるのは無理がある。
だからここにおさまる範囲の中口径のウーファーを数発左右に配置する。
そこそこの数のウーファーが取りつけられる。

中高域はJBLのホーンとドライバーを使う。
これで見た目はハーツフィールド、
出てくる音はハーツフィールドは違う、彼好みの音ということになる。

そんなことを熱心に話してくる。
やんわりとやめたほうがいい、といっても、
彼は、うまくいく、ハーツフィールド(の外観)がほしい、と熱っぽく語っていた……。

なんなんだろうなぁ……、と思っていた。
彼はこういう人だったのか、と。

Date: 10月 22nd, 2015
Cate: 挑発

スピーカーは鳴らし手を挑発するのか(その3)

瀬川先生にとって「イメージの中の終着点」であったJBLのハーツフィールド。
けれど、ハーツフィールドは、瀬川先生にとって求める音のスピーカーではなかった。

ハーツフィールドは美しいスピーカーである。
JBLのスピーカーシステムの中で、もっとも優れたデザインのスピーカーシステムだと、
いまも思う。

ステレオサウンド 41号「オーディオの名器にみるクラフツマンシップの粋」、
ここでハーツフィールドが取り上げられている。
カラーページのハーツフィールドは、素敵なリスニングルームのコーナーにおさまっていた。

ハーツフィールドは、こういう部屋に置くデザインのスピーカーなんだ、と痛感させられた。
その部屋におかれることで、ハーツフィールドはさらに美しかった。

写真でみてもそうである。
もし、この部屋に入って直にみることができれば、
「イメージの中の終着点」としてのハーツフィールドの存在は確固たるものになっていくはずだ。

意を尽くし贅を尽くした──、
ハーツフィールドをみていると、そういいたくなる。
ゆえに「イメージの中の終着点」となっていくのかもしれない。

それでも……、と思うことがある。
ハーツフィールドは美しい。
デザイナーを目指されていた瀬川先生だから、
そういう目でみても、ハーツフィールドは「イメージの中の終着点」であったと思う。

だがどうしてもハーツフィールドのイメージと瀬川先生のイメージとが一致しないところがある。
ハーツフィールドの中高域はスラントプレートの音響レンズなのだが、
この形状は1950年代のアメリカのイメージそのものであり、
これなくしてハーツフィールドは成り立たないことはわかっていても、
この537-509ホーンの形、大きさ、色とが、瀬川先生と結びつかないのだ。

Date: 3月 14th, 2015
Cate: 挑発

スピーカーは鳴らし手を挑発するのか(その2)

「いわば偏執狂的なステレオ・コンポーネント」に、瀬川先生が書かれている。
     *
むかしたった一度聴いただけで、もう再び聴けないかと思っていたJBLのハーツフィールドを、最近になって聴くことができた。このスピーカーは、永いあいだわたくしのイメージの中での終着駅であった。求める音の最高の理想を、鳴らしてくれる筈のスピーカーであった。そして、完全な形とは言えないながら、この〝理想〟のスピーカーの音を聴き、いまにして、残酷にもハーツフィールドは、わたくしの求める音でないことを教えてくれた。どういう状態で聴こうが、自分の求めるものかそうでないかは、直感が嗅ぎ分ける。いままで何度もそうしてわたくしは自分のスピーカーを選んできた。そういうスピーカーの一部には惚れ込みながら、どうしても満たされない何かを、ほとんど記憶に残っていない──それだけに理想を託しやすい──ハーツフィールドに望んだのは、まあ自然の成行きだったろう。いま、しょせんこのスピーカーの音は自分とは無縁のものだったと悟らされたわたくしの心中は複雑である。ここまで来てみて、ようやく、自分の体質がイギリスの音、しかし古いそれではなく、BBCのモニター・スピーカー以降の新しいゼネレイションの方向に合っていることが確認できた。
     *
ハーツフィールドの当て字のペンネーム、芳津翻人(よしづはると)を使われていたことでも、
瀬川先生のハーツフィールドへの憧れはわかるというもの。

なぜ瀬川先生はハーツフィールドに、「イメージの中での終着駅」を見いだされていたのだろうか。
ハーツフィールドは、JBLのスピーカーシステムの中でも、ひときわ光を放っている。
どんなスピーカーなのかわからずハーツフィールドの写真を初めてみた瞬間、
私の中にも憧れは生れていた。

ハーツフィールドを置けるだけのしっかりしたコーナーを用意できれば、
それはつまりそれだけの財力があるということでもあるわけだから、
ハーツフィールドが似合うコーナー、そういう部屋で音楽を聴く、ということは、
一般的な日本住宅で生れ育った私にとっては、リッチなアメリカという異文化への憧れでもあった。

でも私にとっては〝理想〟のスピーカーではなかった。
強い憧れを抱くスピーカーではあってもだ。

けれど瀬川先生は、〝理想〟のスピーカーと表現されている。
その〝理想〟のスピーカーの音を聴き、求める音でないことを気づかれる。

《それだけに理想を託しやすい──》と瀬川先生は書かれている。
ハーツフィールドを〝理想〟のスピーカーとされたのは、なんだったのだろうか。

「スピーカーを選ぶ」とは、瀬川先生にとってはどういうことだったのだろうか。

Date: 7月 1st, 2012
Cate: 挑発

スピーカーは鳴らし手を挑発するのか(その1)

伊藤喜多男先生のことば──
スピーカーを選ぶなどとは思い上りでした。良否は別として実はスピーカーの方が選ぶ人を試していたのです。

ステレオサウンド 72号に載っている。
記事ではなく、上弦(かみげん、と読む。シーメンス音響機器調進所)の広告に載っている。

72号は1984年の秋号。
私はシーメンスのコアキシャル・ユニットを平面バッフルにつけて聴いていた。
それもあって、この伊藤先生のことばは印象深く残っていて、今日ふいに思い出してしまった。

1984年9月に、この上弦の広告をみたときは、ふかく首肯いた。
首肯きはしたものの、それほど実体験としてふかく理解していたわけではかった。

頭だけでなく実感をともなうものとしてふかく理解できるようになるには、それだけの年月がどうしても必要だった。

「スピーカーを選ぶなどとは思い上り」と「スピーカーの方が選ぶ人を試して」いる、
このふたつのことのうち「スピーカーの方が選ぶ人を試して」いることの方が、
若いときに実感できていた。

それはステレオサウンドで働くことが出来ていたからでもある。
本当の意味での使いこなしは、スピーカーに試されているところが実に多い、と感じていたからだ。
だから、私にとってより時間が必要だったのは、「スピーカーを選ぶなどとは思い上り」のほうだった。

スピーカーを何を使うかは、つまりは何を買うか、でもある。
買うためには、それだけのお金が必要でそのお金を出すのは、
たいていの場合、そのスピーカーを欲している本人である。

スピーカーは決して安い買物ではない。
値段の幅は広い。相当に高価なスピーカーもある。
それにすでに製造中止になっていて、程度のいいモノの入手がきわめて困難な場合だってある。

だから場合によっては、ほんとうに欲しいスピーカーをあきらめなければならないこともある。
もしくは先延ばしにするときだってある。

そういうときでも、私たちはスピーカーを、何か選ぶ。
これは主体的な行為であって、やはりスピーカーは選ぶものという気持が、1984年当時の私にはあった。

Date: 12月 29th, 2011
Cate: ベートーヴェン, 挑発

挑発するディスク(余談・その4)

「ベートーヴェン(動的平衡)」の項で書いたように、
ベートーヴェンの音楽、それも交響曲を音の構築物、それも動的平衡の音の構築物であるからこそ、
それに気がついたからこそ、できればモノーラルではなくステレオの、
それも動的平衡の音の構築物であることをとらえている録音で聴きたい、と変ってきたわけだ。

この心境の変化のつよいきっかけとなったのは、
菅野先生のリスニングルームで聴いたケント・ナガノ/児玉麻里によるベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番である。

このケント・ナガノ/児玉麻里のディスクを買ってきたから、といって、
すぐに誰にでも、動的平衡による音の構築物としてのベートーヴェンの音楽を再現できるわけではないものの、
このディスクが、そういえる領域で鳴ってくれることは確かななことである。
そういうことを考え、感じさせる音で録音・再生できる時代に──それはたやすいことではないにしても──、
いまわれわれはいる。

ベートーヴェンの音楽が音の構築物であることは、以前から思っていた、感じていた。
けれど「音の構築物」というところでとまっていた。
それが福岡伸一氏の「動的平衡」ということばと菅野先生のところで聴けたピアノ協奏曲第1番があって、
動的平衡の音の構築物という認識にいたることができた、ともいえる。

そうなってしまうと、むしろマーラーの交響曲に求める以上に、優れた録音でベートーヴェンの交響曲を聴きたい、
という欲求が強くなってきている。
それも細部までしっかりととらえた録音ではものたりない、
あくまでも動的平衡の音の構築物としてのベートーヴェンの交響曲をとらえたものであってほしい。

今日、シャイー/ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のベートーヴェンの第九番を聴いた。
来年早々にはティーレマン/ウィーンフィルハーモニーのベートーヴェンが聴ける。
楽しみである。
そして、これらのディスクを聴いて、フルトヴェングラーのベートーヴェンへ戻りいくことが、
さらなる深い楽しみである。

Date: 12月 29th, 2011
Cate: 挑発

挑発するディスク(余談・その3)

シャイー/ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によるベートーヴェン。
発売になってすぐに購入していたので、約2ヵ月、毎日聴いていたわけではないが、くり返し聴いてきたが、
第九番だけは、せっかくだから年末までとっておこう、と思い、今日まで聴かずにいた。

年内に発売予定だったティーレマン/ウィーンフィルハーモニーによるベートーヴェンは、発売が何度か延期になり、
来年になってしまった。
ティーレマン/ウィーンフィルハーモニーによる第九番も、この時期聴いておきたかった仕方がない。
ただ国内盤に関しては既に発売になっていて、輸入盤ではなく国内盤にしてしまおう、と思っているけれど……。

交響曲といっても、ベートーヴェンとマーラーとでは、交響曲そのものもの音楽としての性格のつくられ方、
そういうものが大きく違っている。
ベートーヴェンの交響曲にはいま鳴っている、響いている音が次の音を生み出す、
ベートーヴェンにしかないといいたくなる推進力ともいえるものがあるけれど、
マーラーの交響曲(別にマーラーに限ったことではないけれど)には感じとりにくい、というより感じとれない。

そういうことも作用してのことだと思っているが、
ベートーヴェンの交響曲よりもマーラーの交響曲が、オーディオを介して聴く場合には、
微妙な響きのニュアンス、色調の再現性がより重要となってくる、ともいえよう。
もちろんそれだけではないけれど、ベートーヴェンの交響曲はモノーラルの古い録音でも、
聴きはじめは多少録音の古さを感じることもあるものの、さほど気にならなくなる。

マーラーの交響曲となると、すこし違ってくる。
できれば優秀録音とよばれるもので聴きたくなる欲求がこちら側につよく出てきてしまう、
そういうことを要求するところがある。

マーラーの音楽が聴かれるようになってきたのは、決してオーディオ(録音・再生)の進歩と無関係ではないはずだ。
録音さえよければそれでよし、とするわけではないが、
すくなくともマーラーの交響曲はベートーヴェンの交響曲以上に、
モノーラル録音ではなくステレオで聴きたい欲求は強い。

それがこの数年間のあいだに、私の中では変化してきた。
ベートーヴェンの交響曲こそ最新の録音で聴きたい、と思うようになってきている。

Date: 11月 16th, 2011
Cate: 挑発

挑発するディスク(余談・その2)

期待はしていた。
だから、すこしどきどきしながらCDをCDプレーヤーのトレイにセットして、
プレイ・ボタンを押したことを思い出している。。

それが1年半以上前のこと。
マタイ受難曲という音楽の性格からして、そう何度も何度もくり返す聴くことはないのだが、
それでもこのあいだに、数回通してくり返して聴いてきた。

シャイー/ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によるマタイ受難曲は、
これはこれで挑発的なディスクとなっていた。

こちらの勝手な思いこみで、
シャイーに対する興味をまったくといっていいほど失ってしまっていたことを後悔している。
なぜ、こんな思いこみをしてしまったのか、いまでは思い出せないのだが、
それでも、ありがたいのは録音は、いまでも手に入れることができる。

シャイーのこれまでの軌跡をいまさらながらではなるが、追いかけてみたい、と思いつつも、
シャイーは、今年また、聴ける日が待ち遠しく感じられたディスクを出した。
やはりゲヴァントハウス管弦楽団を指揮してのもので、ベートーヴェンの交響曲全集である。

録音は2007年からはじまり2009年に終っているものが、今年全集として登場した。
5枚組の、このディスクは、いわゆる他の5枚組とはつくりが違う。
一冊の本のように仕上げられていて、その中に5枚のCDがおさめられている。

シャイーに関心を失っていたから気がつかなかったけれど、
シャイーにとってこの全集がはじめてのベートーヴェンの録音だという。

こういうのを満を持して、というのだろうか……。
そんなことを思ったりするようなディスク全体のつくりである。

昨年春、シャイーのマタイ受難曲を聴こうとしていたときよりも、
今回の方が期待は大きくなっていた。

Date: 3月 7th, 2010
Cate: 挑発

挑発するディスク(余談)

トーレンスの101 Limitedには、アナログディスクが2枚ついてきた。
101 Limitedにあわせて金色のジャケットの、いわゆる高音質盤とよばれる仕様で、
ボップスとクラシックが1枚ずつ。

クラシックはリッカルド・シャイー指揮ナショナルフィルハーモニックによるロッシーニの歌劇序曲集だった。
じつはシャイーの演奏を聴いたのは、このレコードが最初だった。
シャイー、27か28歳の演奏で、なかなかどうして聴いていて気持の良いものだった。
あまり話題にはならなかったように記憶しているが、音にも気持の良さがあって、わりとよく聴いていた。

期待の若手指揮者のひとりになった。
けれど、低迷とまではいわないが、ある時期、あまりぱっとしなくなってきた印象があり、
ここしばらくはシャイーの新譜に興味をもつことはなかった日が、けっこうな期間続いていた。

それが、この2年くらいのあいだに、私の中で、急に復活してきた感があり、
今年1月に発売されたマタイ受難曲は、聴ける日が待ち遠しかった。
輸入盤入荷の翌日に購入。仕事が忙しく、聴いたのは2日後になってしまった。

Date: 12月 1st, 2009
Cate: 930st, EMT, TSD15, 挑発

挑発するディスク(その17)

トーレンスの101limited(930st)には、TSD15以外のカートリッジもとりつけては、
しばらく聴いていたことがある。
ノイマンのDST、DST62がそうだし、トーレンスのMCHIも付属していたので使っていた。

その他にもフィデリティ・リサーチのFR7のEMT仕様モデルを一時期試したこともある。
それに当時オーディオテクニカから発売されていたEMT用のヘッドシェルに、
気になるいくつかのカートリッジをとりつけては試聴していた。
このときイケダのIkeda9も試している(ただしヘッドシェルを加工する必要がある)。

内蔵のイコライザーアンプ155stを通したり、
トーンアームから出力をとりだし別途コントロールアンプを用意して聴いたり、けっこうあれこれやっている。

部分的には、TSD15以上の音を出すカートリッジは少なくない。
それでも、レコードプレーヤーシステムとして、信頼できるかどうかとなると、話は違ってくる。

やってみればわかるのだが、930stで聴くかぎり、TSD15のとき、いちばん信頼できる音が出てくる。
だからTSD15、それも丸針ではなく、新しいディスクを聴くことが多かったこともあり、
SFL針のTSD15が常用カートリッジの座にあった。

一流のプロ用機器であれば、信用はできるだろう。
けれど、優れたプロ用機器のすべてが信頼できるかというと、かならずしもそうではないだろう。

結局、誠実であるからこそ信頼できる。信頼して使える。信頼して心をあずけられる。

Date: 10月 14th, 2009
Cate: Kathleen Ferrier, 挑発

挑発するディスク(その16)

「誠実」ということでは、カスリーン・フェリアーの歌こそが、私にとって、
ある意味、もっとも、そして静かに挑発的であるといえよう。

Date: 10月 7th, 2009
Cate: 挑発

挑発するディスク(その15)

カザルスの、生命力が漲るベートーヴェンの交響曲第七番を聴いたばかりのころは、
どうしても耳は、強い緊張感の持続、燃えあがるような表現に傾きがちだったが、
なんどとなく聴いていくうちに、それだけでなく、カザルスの音楽に対する誠実さに気がついていく。

もうどこで見たのかも忘れてしまったが、カザルスとクララ・ハスキルが写っていた写真があった。
このふたりの演奏家に共通しているのは、音楽に対する誠実な態度であり、
その写真は、つよく、その誠実を伝えてくれていた。

パブロ・カザルスは、1876年12月29日、
クララ・ハスキルは、1898年1月7日生れで、ふたりとも山羊座であることは、単なる偶然とは思えない。

音楽に対して誠実であることの重要さを、ふたりの演奏を聴いていくごとに実感していくと、
オーディオ機器においても、とくに音の入口については、
誠実であることはかけがえのないことだと、理解できるようになっていく。

これが、カザルスのベートーヴェンを聴きつづけてきて得たもののひとつである。

Date: 2月 8th, 2009
Cate: 930st, EMT, 五味康祐, 挑発

挑発するディスク(その14)

五味先生は「ステレオ感」(「天の聲」所収)で、EMTの930stのことを、次のように書かれている。
     *
いわゆるレンジののびている意味では、シュアーV一五のニュータイプやエンパイア一〇〇〇の方がはるかに秀逸で、同じEMTのカートリッジをノイマンにつないだ方が、すぐれていた。内蔵イクォライザーの場合は、RIAA、NABともフラットだそうだが、その高音域、低音とも周波数特性は劣下したように感じられ、セパレーションもシュアーに及ばない。そのシュアーで、例えばコーラスのレコードを掛けると三十人の合唱が、EMTでは五十人にきこえるのである。私の家のスピーカー・エンクロージアやアンプのせいもあろうと思うが、とにかくおなじアンプ、同じスピーカーで鳴らして人数が増す。フラットというのは、ディスクの溝に刻まれたどんな音も斉みに再生するのを意味するだろうが、レンジはのびていないのだ。近頃オーディオ批評家の(むしろキカイ屋さんの)揚言する意味でハイ・ファイ的ではないし、ダイナミック・レンジもシュアーのニュータイプに及ばない。したがって最新録音の、オーディオ・マニア向けレコードを掛けたおもしろさはシュアーに劣る。そのかわり、どんな古い録音のレコードもそこに刻まれた音は、驚嘆すべき誠実さで鳴らす、「音楽として」「美しく」である。
     *
EMTもスチューダーも、最新の音を聴かせてくれるわけでもないし、最高性能に満ちた音でもない。
信頼の技術に裏づけられた音だ。
はったりもあざとさもない、それこそ誠実さで音楽を鳴らしてくれる。
だから信頼できる。

井上先生は、「レコードは神様だ、疑うな」と言われた。
そのために必要なのは、私にとっては、驚嘆すべき誠実さで鳴らしてくれる機器なのだ。
だからこそ、音の入口となるアナログプレーヤー、CDプレーヤーに、EMTとスチューダーを選ぶ。

ときに押しつけがましく感じることのある、思い入れのたっぷりの機器は要らない。
ただし、これがアンプの選択となると、なぜだか、そういう機器に魅力を感じてしまうことも多い……。

Date: 2月 8th, 2009
Cate: EMT, 挑発

挑発するディスク(その13)

プロ用機器とコンシューマー用機器の違いは、音づくりの違いとも言える。

プロ用機器は、その器材がどういう用途でどういう状況で使われるのか、
そして求められる性能と信頼性の実現が、最優先されていることだろう。
そこには──あえて言うが──アマチュアの、思い入れは存在していない。

別項で書いているマークレビンソンの初期のアンプとは、
正反対の考え方からつくりこまれているともいえるだろう。

EMTもスチューダーも、もちろん試聴テストをくり返し行なっていることだろう。
だが、試聴よりも、まず研究・開発の比重の方がずっと大きいように感じられるのだ。

パーツの選択にしても、マーク・レヴィンソンは、おそらく入手できるかぎりのパーツを集めて、
ひとつひとつをひとりで聴き選んでいった──そう勝手に想像しても、間違っていないだろう。

EMTやスチューダーのパーツの選択は、まず信頼できるものを、というふうに感じられる。
求めている性能を満たしていて、なおかつ長期間に渡り安定していること。
この安定していることは、設計面に関しても言えることだ。

ひとつの機器をつくりあげるまでの試聴の回数も、マーク・レヴィンソンの方がずっと多いかもしれない。

だからプロ用機器の音を素っ気無く感じてしまう人がいても不思議ではない。
逆に言えば、それは堅実で信頼できる音づくりでもあり、
これこそEMT、スチューダーに共通する良さ、誠実さだ。