Date: 6月 17th, 2022
Cate: 挑発
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スピーカーは鳴らし手を挑発するのか(その5)

スピーカーは鳴らし手を挑発するのか──、
挑発するスピーカーもあれば、そうでないスピーカーもある。

すべてのスピーカーに挑発される、というオーディオマニアは、
もしかするといるのかもしれないが、わずかであろう。

私もそうだし、ほとんどのオーディオマニアが、
挑発するスピーカーもあれば、そうでないスピーカーもある、というところのはずだ。

では、挑発するスピーカーが、すべてのオーディオマニア共通のモデルかというと、
けっしてそうではない。

私にとって挑発するスピーカーが、別の人にとってはそうでなかったりする。
逆もまたある。

たとえばJBLのパラゴン。
オーディオに興味を持ったばかりのころ、
なんという独自のスピーカーシステムなんだろう、と思った。

当時すでにロングセラーモデルでもあったし、
JBLの、ある意味フラッグシップモデルでもあり、
ステレオサウンドでの評価も高かった。

とはいえ、当時パラゴンを聴いたわけではなかった。
当時はスピーカーの自作が流行っていたし、ムックも何冊か出ていた。

パラゴンの自作に挑戦する人は、そのころは珍しくなかった。
大勢いたわけではなかったけれど、何人かいた。

オーディオ雑誌で取り上げられた人だけではなかったはずだ。
表に出ずとも、パラゴンを自作した人は他にもいた、と思っている。

彼らはパラゴンに挑戦していたわけなのだが、
当時中学生の私は、パラゴンの音をなかなか想像できなかった。

パラゴンの図面を眺めても音は鳴ってこないのだが、
こんな構造で、どんな音が鳴ってくるのか、
ほんとうにそれはいい音なのだろうか──、
そんなことをおもっていた。

1 Comment

  1. TadanoTadano  
    6月 19th, 2022
    REPLY))

  2.  1906年、マーク・トゥウェインは「人間とは何か」の中で、「人間とは機械である」と述べています。人間とは環境や生い立ち、刷り込みによって価値や観念が形成され、それを元に行動するという考え方です。
     ロボットの語源は1920年、カレル・チャペックというチェコの作家が書いた「RURロッサム万能ユニバーサルロボット会社」という戯曲の中に出てくる「ロボーター」という言葉で、チェコ語で「労働」という意味を持っています。労働のために作られた専用の機械、人造人間といったものでした。
     チャップリンのモダン・タイムズは1936年ですが、その甲斐虚しく20世紀・前半は殺戮の世紀となってしまいました。
     それから時を経て、1950年代の黄金の時代があり、アメリカは文明と科学の時代を謳歌します。朝鮮戦争があり、ベトナム戦争が泥沼化し、エルヴィスが徴兵されると、人々はアメリカの作り上げてきたモータリゼーションに懐疑的になっていきます。1955年にはラッセル・アインシュタイン宣言があり、ガガーリンの「地球は青かった」という言葉によって、人々は「はかない地球」「守らなければならないたった一つの地球」を見ます。これが1961年の出来事です。このコスモポリタン的思想と反体勢思想とが結びつき、後にウッドストックを代表するラブ&ピースの時代を作ります。ボブ・ディランとグレイトフル・デッドの時代です。トリュフォーの「大人は判ってくれない」は1959年でした。ケネディ暗殺と「愛こそはすべて」が1963年のことです。映画ではキューブリックの「2001年宇宙の旅」が1965年です。68年に「猿の惑星」、69年に「イージーライダー」が公開。1977年にはスター・ウォーズが始まっています。書籍では、フーコーの監獄の誕生が1975年、ベトナム戦争終戦の年です。M・スコット・ペックの「平気で嘘をつく人たち」が1983年です。
     この時代の流れの中にハーツフィールド(1954)、パラゴン(1957)、オリンパス(1960)4343(1973?)を並べてみると非常に面白いと思うのです。ニュー・ウェーブが勃興し、やがて「浸透と拡散」するまでの年代と、これらの変遷は一致しています。
     ハーツ・フィールドとパラゴンが、どのような文化や価値観を含んでいるのかということは、人によって感じ方が違うと思います。しかしながら、瀬川冬樹がハーツフィールドに感じた「違う」という臭覚について掘り下げて考えるということは、音楽史を考える上で非常に有意義なことだと思います。彼が4343を選んだということの背景には、時代を孕んだ音楽があると思うのです。そして、恐らくそれが20世紀のオーディオ史において非常に重要な問題となると思うのです。おそらく、200年後とか300年後の人類から見た時、研究対象として、これらのオーディオ史と音楽史、また文化史を紐付け考えることは非常に重要な意味を持つと思うのです。
     Z世代の若い人達を見ると、競争社会に対する懐疑的な視線を感じます。彼らのレトロ回帰は単にファッション的な範疇を越えた、ポストモダンに対する歴史的な考察への欲求が含まれています。
     服飾の方面ではカーラ・デルベーニュなどがジェンダーレスを武器に話題性を広げ、フォロワーを増やしている一方で、ブルスタイン姉妹が実質的な文化的影響を若者に及ぼしています。音楽もまた、環境破壊を無視しつづける資本経済社会のエンターテイメントから、脱却を図ろうとしている新しい波が存在します。リル・ナズ・Xがゲイ・カルチャーのボルテージを使って人気を博している影で、チャイルディッシュ・ガンビーノは社会的な問題を投げかけています。彼の楽曲「ディス・イズ・アメリカ」は資本主義社会が持つ価値概念を痛烈に批判しています。
     親の世代が作り出した負の遺産を押し付けられるということは、いつの時代も共通したものでしょう。マルチメディアが歴史を持ち始めた今日、20世紀の本格的な時代考察が必要な時期に迫っているのだろうと思います。人間がどこから来て、どこに向かっているのかということを多くの人が考え始めていると思うのです。
     さて、リスナーを挑発するスピーカーというのは、その人の洞察や観念に訴えかける何かを持っているスピーカーということだと思います。たとえば、世の中のスピーカーのほとんどがパラゴンのような形をしていたら、パラゴンは歴史的な最初のものという位置づけにしかなりません。それはT型フォードのようなもので、歴史的考察としては意味のあることですが、挑発するという性質のものではないでしょう。
     ステレオサウンド60号1981AUTUMNの中の特集「サウンド・オブ・アメリカ」~憧れのスーパー・アメリカン・サウンドを聴く~の中で岡俊雄は以下のように発言しています。
    「オーディオの世界だけでなくて、アメリカの文化というか、アメリカ文明といっていいのかもしれないのですが、要するにベトナム戦争以後のアメリカの動きには、一種のニューウェーブ思想のようなものが感じられるわけです。映画でいえば、フランシス・フォード・コッポラを初めとするニューシネマといわれる連中がイニシアチブを取っている。これでアメリカ映画というのはがらっと変わってしまった。それがいいか、悪いかということは別にして、要するに伝統を断ち切ろう、何かトライしてみようという姿勢が感じられるわけです。」
     ところがニュー・ウォーブが、SFで言うところの「浸透と拡散」を起こし消滅したことで、今度は消失した波を探すという、もう一つの文脈があらわれました。それが管球王国をはじめとするゴールデン・エイジへの回帰、考察という流れだと思うのです。
     JBLのモデルの中で、私を挑発するモデルの一つにエベレストDD55000があります。このスピーカーのサウンドは、私にとって衝撃的なものでした。
     このスピーカーは優れた音像定位を持っていながらも、トレンディーなサウンドに傾きやすいという性質を音楽的な欠点、危うさとして受け取られていた時代があったと思います。ところが、2022年現在の目から見れば、このニュー・ウェーブ後期の思想をはらんだサウンドというのは、現在のローファイをはじめとするチル系、AOR、シティーポップの系譜の源流であり、今日の音楽にとって、最も重要な時代の産物の一つでもあると言えるわけです。そして、アポジーやインフィニティーのIRS、マグネパンのプレナー型とは違う性質をエベレストは持っています。それは、ニュー・ウェーブよりも前の時代の、トーキー・システムの系譜を引き継いでいるものです。しかし、実際にディスコではマグネパンやアポジーは使われていなかったはずです。恐らく、トーキーシステムの系譜であるアルテックやJBL、EV、UREIなどがディスコ・クラブを賑わしていたはずなのです。
     私は以前、DD55000のトレンディーな性質を、いかに削り取るかということを考えていました。しかし、今はそのような事を考えません。その時の私の考えは、私が90年代のグランジ思想の時代に多感な思春期を送ったことと、そもそも、そのグランジの親であるヒッピー・ムーブメントがリック・アシュトレイやカイリー・ミノーグをはじめとする80’sのトレンディ世代のサウンドと相容れない性質を持っていたからでしょう。パワー・ショルダーを身にまとうZ世代が聞いたら、噴き出してしまうようなたわ言になってしまったわけです。エベレストからトレンディさをろ過しようなどとは、それこそ、ハーツ・フィールドにメスを入れるようなものです。むろん、ラウド・スピーカーはオーディオ・コンポーネントであり、道具ですから、それはオーディオ・ファイル各々の自由です。ストラト・キャスターを買ったらバディー・ホリーのようにカッティングしなければならないというルールはありません。むしろ、自分のいいように改造してしまうという主体性、個性、発想を持つことは悪いことではありません。しかし、何かの考えを思い至ったときに、それが本当に自分が選んだものなのか?ということは考えたほうがいいと思ったのです。グランジの流行中、私はグランジ文化をいじけた文化だと否定していました。しかし、その時代を生きた私は、しっかりとグランジ思想の影響を受けていたのです。
     そういったことを、時が過ぎた今、見直しているのです。マーク・トゥウェインの言うように、人間とはそもそも、それほど自由な動物ではない―、そのことを実感した次第です。

    1F

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