Archive for category 訃報

Date: 12月 21st, 2022
Cate: 訃報

大野松雄氏のこと

大野松雄氏の訃報を、facebookで知った。

大野松雄氏といっても、誰? という人が少なからずいると思う。

2020年6月のaudio wednesdayで、「鉄腕アトム・音の世界」をかけた。
「鉄腕アトム・音の世界」に収録されている音、
この音たちは、それまで世の中に存在しなかった音であり、
この存在しなかった音たちを生み出したのが、大野松雄氏である。

大野松雄氏は音響デザイナーである。
大野松雄氏の名前を知らなくても、
大野松雄氏によってうみだされた音たちは、どこかで耳にしているはずだ。

Date: 5月 9th, 2021
Cate: 訃報

ロジャー・ラッセル氏のこと

古くからの友人であり、オーディオマニアであるKさんから、
Roger Russell氏が亡くなった、という連絡があった。

ロジャー・ラッセルの名前をきいて、
誰だっけ? という人がいまでも多いかもしれない。

マッキントッシュのXRTシリーズの産みの親といえる人物である。
彼自身のウェブサイトを参照してほしい。

“Stereo Speaker System for Creating Stereo Images”という内容で、
特許を取得している。
XRT20のことである。

菅野先生は、「音[オーディオ]の世紀(ステレオサウンド別冊・2000年秋発行)」で、
《1958年の45/45ステレオレコードの発売を契機として、当時の、たんにモノーラルスピーカーシステムを2台並べてステレオを聴く状況にたいする、疑問と不満を発想の原点として開発がスタートして以来、じつに、20年かけたステレオフォニックスピーカーシステムの完成であった》
と書かれている。

別項でビバリッジのスピーカーのことを書き始めた。
シリンドリカルウェーヴについて、書こうかな、と考えていたところに、
ロジャー・ラッセル氏の訃報。

正確なピストニックモーションの実現が、
ステレオフォニックスピーカーシステムの実現へとつながっていくとは限らない。

オーディオの技術とは、決して無機的なものではなく、有機的なものだ、ということを、
ロジャー・ラッセル氏の功績をふり返ってみると、改めて実感する。

Date: 4月 13th, 2021
Cate: 訃報

金井 稔氏のこと

いま書店に、ラジオ技術の5月号が並んでいる。
書店といっても、ほとんどの書店では取り扱われてはいない。
ほんとうに限られた書店にしか並んでいない。

けれど、意外な書店に置いてある。
東京駅周辺だと八重洲ブックセンターにある。

いま歯の治療で、八重洲にある八重洲南口歯科に毎週通っている。
なので八重洲ブックセンター、丸善に週一回寄っている。

今日も行っていた。
ちょうど5月号が発売になったばかりである。
内容は、ラジオ技術のツイートを見て知っていた。
毎月発売日の一週間ほど前になると、目次を公開している。

5月号は、こういう内容なのか、面白い記事があったら買おうかな、と思って手に取った。
パラパラとページをめくっていくと、目次にはない記事が目に飛び込んできた。

金井 稔氏の訃報だった。
金井氏のことは、何度か書いてきている。
五十嵐一郎は、金井氏のペンネームであり、
さらに青山六郎のペンネームで、アンプの自作記事も発表されていた。

二ヵ月前の3月号に、五十嵐一郎氏の「オーディオから得たこと、伝えたいこと」が載っていた。
このことは別項で書いている。

読んで、年に一回でいいから、また誌面に登場してくれないものか、とおもっていた。

Date: 4月 23rd, 2020
Cate: 訃報

皆川達夫氏のこと

皆川達夫氏の訃報を、朝、目にした。
昨日の夕方にはニュースになっていたようだが、気がつかなかった。

皆川氏を音楽評論家といってしまうのは正しくないのはわかっていても、
私が皆川氏の名前を知ったのは、レコード評で、であった。

レコード芸術がいまもやっている、名盤300選、500選といった企画。
ここ二十年ほどはまったく興味を失ってしまったが、
20代のころ、つまり1980年代は、この企画はおもしろかった。

皆川氏はバロック音楽の選者の一人だった。
七人の選者のうち、私がもっとも信頼していたのは皆川氏だった。

皆川氏がどんな方なのか、ほとんど知らなかったが、
1982年に出たサプリーム(トリオの広報誌)のNo.144は、瀬川冬樹追悼号だった。
十五人のなかの一人が、皆川達夫氏だった。

その文章をよんでいたから、よけいに信頼していたのかもしれない。
サプリームから引用しよう、と思って、手にとって読み始めたら、
どこかを切り離すことができなかった。
     *
瀬川冬樹氏のための〝ラクリメ〟
(サプリーム No.144より)

 瀬川冬樹さん、お別れ申しあげます。
 あなたがわたくしにおつき合いくださった期間はわずかこの2、3年のことにすぎませんでしたが、しかしそのご交誼はまことにかりそめならぬものがあったと信じております。
 オーディオ専門ではないわたくしには、あなたのオーディオ専門家としての実力と申しましょうか、力量のほどは本当のところ分かっていないと思います。何の世界でもそうでしょうが、ひとつの専門とは素人の理解をはるかに越えた深さがあるものです。
 しかしながら、それでいて専門の世界での実力はおのずから素人にも大きな感銘をあたえ、また影響力をもつものです。あなたはそのような形でわたくしに、ふかい影響をあたえてくださいました。
 わたくしのような素人に辛抱づよく相手をされ、どんな素人質問にも適切に答えて、オーディオという世界の広さと深さを提示してくださったのです。
 どう仕様もないぐらい鳴りの悪いスピーカーが、あなたの手にかかるとたちまち音楽的なものに生まれ変ってゆく現場をみて、わたくしのような素人にはそれがひとつの奇蹟のように思えたものでした。それもそんな大騒ぎするのでなく、アンプのツマミをふたつ、みっつさわり、コードを2、3回はめ直すだけで、スピーカーはまるで魔法にかかったように生きかえってゆく。そんなことはわたくしだって何回もやっていたのに、どうして瀬川さんがさわるとちがってしまうのだろうと、どうにも納得がゆかなかったのです。
 そうした表情のわたくしに、あなたは半分いたずらっぽく半分は照れながら、「これはあまり大きい声では言えませんが、オーディオの専門家だからといって誰にでも出来るというものではないんですよ」と、心に秘めた自信のほどを冗談めかしに垣間見せてくださったのも、今ではなつかしく、そして悲しい思い出になりました。
 わたくしがあなたにもっとも共感し、共鳴していた点は、あなたがオーディオというものを常に音楽と一体にしておられたことです。
 あなたご自身は機械をみずからの分身のようにいつくしみ、狂気にもちかい機械遍歴をたどられながら、しかしあえて機械至上主義を排して音楽を優先させておられました。そのようなあなたの基本的態度は、「音楽を感じる耳と心なくしてはオーディオの進歩はありえない」というあなたの言葉に集約されておりましょう。
 これはわたくしが外部から見るかぎり、日本のオーディオ界にもっとも欠けている大切なポイントであり、この自覚なくしては本当に「オーディオの進歩はありえない」と思います。あなたは一貫してこの立場を提唱しつづけ、人びとを啓蒙されつづけたのでした。
 瀬川さん、しかしあなたはそれでいて、他人には常に誠実に、ソフト・タッチで接しておられましたね。決して自説を押しつけることはせず、他人の言い分にもよく耳を傾け、他人との交わりを大切にされましたね。
 そのなかにわたくしは、あなたの心の奥ふかくに根ざした孤独と苦悩とを読みとっていました。どうしてあなたは何時も孤独感を持ちつづけているのか。あなたがどのような環境のなかで、どのような人生を歩んでこられたか──わたくしはそれを知ろうとは思いませんし、また詮索する必要もないことです。
 ただあなたは並の人間以上にそうしたものを持ちつづけ、そのためになお他人にたいして当りよく、時には人恋しく、そして時にはやや背伸びしてこられましたね。さらにわたくしはそうしたあなたのなかに、マザー・コンプレックスとでもいったものさえ感じとっておりました。
 そうしたあなたのもろもろの心情が、おそらくあなたをしてより美しい音楽を求めさせ、より美しい音楽を鳴らす機械を追求させていったのでしょう。あなたがいろいろの機械を並べてひたすらより美しい音楽を求めておられる姿は、時には求道僧にも似た厳しさと寂しさとを秘めていました。それはもはや他人のためにでも、もちろん名声や金のためにでもなく、ただ自分自身の心のためにひたむきになっている姿でした。
 わたくしは以前そのようなあなたの姿を、永遠の美女を求めつづけたドン・ジョヴァンニにたとえ、また永遠の救済を求めてさすらったオランダ人船長にたとえたものでした。
 そのあなたがわずか46歳の若きで、突然世を去ってしまわれました。あなたはその年ですでに永遠の音楽を、そして永遠の救済を見いだされたというのでしょうか。あなたはその若さで、もう人間の孤独と苦悩から解放されたというのですか。それをあなたのために喜んでさしあげるべきか、それともやはり悲しむべきなのか──わたくしには分かりません。ただひとつだけはっきり言えることは、あなたはそれでいいかもしれないが、あなたにこんなに早く逝かれてしまわれては、多くの人びと、そしてあなたより年上のこのわたくし、さらに日本のオーディオ界が困るのです。まことに、まことに口惜しい限りです。
 瀬川さん、わたくしには天国にいるあなたの姿が見えるようです。相変わらずソフト・タッチで、しかし一切の妥協はせずに、天体の音楽の周波数を測定したり、天使の音楽の編成について論じたりしている。そうしてまたわたくしには、ふとした風のそよぎのなかに、あなたがこの世に立ちかえってきて、あなたが好きだった極上のブランデーの盃を傾けながら、オーディオ談義をはじめる姿が感じとられてならないのです。
 たとえあなたが世を去られたにしても、あなたの果たされたお仕事は確実に今この世に生きていて、わたくしを含めた多くの人びとと共にあり、そして日本のオーディオ界を支えているのです。
 どうか、安らかに、安らかにお眠りください。
     *
三ページにわたっている。
最後のページには、あるレコードのジャケット写真があった。
ほかの方のところには、あったりなかったりしているが、
レコードの写真は皆川氏のところだけだった。

ほかの方のところにある写真から判断すると、
ここでのレコードは皆川氏が選ばれたのではないか、と思っている──、
というよりも信じている。

バルバラの「Seule」だ。

「Selue」を聴いている人ならば、
皆川氏の文章の、ここのところは結びつくはずだ。
《そのなかにわたくしは、あなたの心の奥ふかくに根ざした孤独と苦悩とを読みとっていました。どうしてあなたは何時も孤独感を持ちつづけているのか》

皆川達夫(1927年4月25日 – 2020年4月19日)

Date: 12月 27th, 2018
Cate: 訃報

森芳久氏のこと

facebookを見ていたら、森芳久氏が12月26日に亡くなられたことを知った。

森芳久氏は、ソニーのカートリッジのエンジニアとして、
私がオーディオの世界に足を踏み入れたころから、オーディオ雑誌に登場されていた。

他の日本のメーカーのエンジニアの人たちも、
オーディオ雑誌に登場されている。
顔写真も載っていたりしていた。

森芳久氏の名前と顔はすぐに憶えた。
柔和な表情が、そのころからすごく印象に残っていたからだ。

ソニーのカートリッジは、こういう表情の人が設計・開発しているんだな、と思ったことを憶えている。

1982年から丸七年ステレオサウンド編集部にいたけれど、
森芳久氏と会う機会はなかった。
1982年秋にはCDが登場している。

いうまでもなくソニーはフィリップスとともに、CDのオリジネーターである。
CD登場後もソニーのカートリッジの新製品は出ている。

それでも会う機会はなかった。
森芳久氏のことを何か書けるわけではない。

だったら書かなければいいではないか……、
そのとおりなのだが、書かずにはいられない気持は消さない。

音環手帖というウェブサイトがある。
東京藝術大学音楽学部音楽環境創造科のサイトである。

森芳久氏は、音響技術史という講義を担当されていたそうだ。
音環手帖には、「教官モ、語ル」というページがある。
森芳久氏が登場されている。

技術は決して無機的なものではなく、そこには熱い血が流れているのです
そのページに、そう記してある。

Date: 12月 16th, 2018
Cate: 真空管アンプ, 訃報

佐久間駿氏のこと

12月13日に、佐久間駿氏が亡くなられたことを、今日の午後知った。

佐久間駿(すすむ)氏のことを知らない人もいるだろう。
ステレオサウンドだけを読んでいる人は知らないはずだし、
他のオーディオ雑誌を読んでいても、無線と実験を読んでいなければ知らなくても当然かもしれない。

私が無線と実験を読みはじめたのは、確か1977年。
そのころ既に佐久間駿氏は無線と実験にアンプ記事を書かれていた、と記憶している。

私は伊藤先生の真空管アンプに、とにかく魅了されてきた。
伊藤先生のアンプの世界と、佐久間駿氏のアンプの世界はかなり違う。

伊藤先生のアンプも伊藤アンプと呼ばれているように、
佐久間駿氏のアンプも佐久間式アンプと呼ばれ知られていた。

無線と実験では半導体のDCアンプは金田明彦氏の記事があり、
真空管は佐久間駿氏の記事が、その両極のようにあった。

どちらもわが道をゆくアンプであるが、その道は違う。
それでも読み物として、私は金田明彦氏の文章も佐久間駿氏の文章は、
高校生のときぐらいまでは必ず読んでいた。

佐久間駿氏は千葉県の館山市にコンコルドというレストランをやられていた。
そこに行けば、佐久間式アンプの音が聴けることも早くから知っていた。
けれど、いままで行かなかった。

数年前に、誰かから体調を崩れされているようだ、と聞いてはいた。
伊藤先生のアンプが、タブローといえるとすれば、
佐久間駿氏のアンプは、そういう世界ではまったくなかった。

佐久間駿氏のアンプはなんといったらいいのだろうか。
エチュード的といえなくもないが、それだけではない。
不思議なアンプである。

何をもって佐久間式というのか。
それすらはっきりと書けないけれど、
佐久間式アンプは見れば、それとわかる。

行っておけばよかった……、と、ここにも後悔がある。

房日新聞というサイトがある。
佐久間駿氏のこと、コンコルドのこと、佐久間式アンプのことが記事になっている。

Date: 1月 13th, 2017
Cate: 訃報

宇野功芳氏のこと(あと少し追補)

「男の隠れ家」6月号増刊の「音楽の空間」には、
宇野功芳氏のリスニングルームの記事だけではなく、
「音の良いコンサートホール」という記事も載っていて、宇野功芳氏が書かれている。

取り上げられているのホールは、
サントリーホール、東京文化会館、東京芸術劇場、東京オペラシティコンサートホール、
ザ・シンフォニーホール、いずみホール、紀尾井ホール、府中の森劇場 ウィーンホール、
リリア音楽ホール、上野学園 石橋メモリアルホール、ヤマハホールである。

この記事を読んでいると、
宇野功芳氏が音楽評論だけでなく指揮も仕事とされていたことを思いだす。

それぞれのホールの客席での音・響きについては、
行ったことのある人ならば、書こうと思えば書ける。

でも宇野功芳氏はそれだけでなく、ステージ上での音・響きについても書かれている。
これは指揮者でなければ書けない。

サントリーホールについて書かれているところだけ引用しておこう。
     *
 特筆すべきは指揮台上のひびきで、オーケストラの音が下からはもちろん、天井からも降ってきて、ハーモニーに体全体が包まれる。その美しさと幸福感は味わった者でなければ分からないだろう。音楽ホールでいちばん大切なのは舞台の天井が高く、残響が強く、長くつくことだ。これが良いホールの第一条件であり、本欄に取り上げた大ホール、中ホール、小ホールはすべてサントリーに劣らず、中にはさらにすばらしいところもある。問題は舞台上の音がダイレクトに客席に伝わるかどうかである。サントリーがすばらしいのはその落差が小さいことと、音の悪い席が少ないことで、開場当時に比べるとまるで別のホールのようだ。
     *
サントリーホールはカラヤンがアドバイスをしたホールと知られている。
カラヤンがどんなアドバイスをしたのかはわからない。
宇野功芳氏の文章を読んで、
ステージ上の指揮台での音・響きの良さを実現するためのアドバイスだったのかも思った。
それだけではないにしても。

Date: 1月 5th, 2017
Cate: 訃報

宇野功芳氏のこと(追補)

2016年6月に宇野功芳について、少し書いている。
宇野功芳氏のオーディオについて、もう少しわかったことがあるので書いておく。

コントロールアンプは「宇野功芳氏のこと」で書いているように、マランツのModel 7。
パワーアンプはQUADのIIである。

この組合せは、瀬川先生がModel 7を導入されたときと同じである。
宇野功芳氏は、青木周三氏のアドバイスにしたがって、
当時かなり高価にもかかわらず購入を決められている。
(若い世代の人に、青木周三氏といっても、誰ですか、といわれるんだろうな。)

スピーカーも青木周三氏のアドバイスによるものだそうだ。
スピーカーの中心となるのはグッドマンのAXIOM 80である。
ウーファーはワーフェデールのSuper 15、トゥイーターはSuper 3である。

自作のスピーカーということになる。
最初はすべてワーフェデールのユニットによる3ウェイ、
スコーカーはSuper 8で、ウーファーはSuper 12だったのを、
まずスコーカーをAXIOM 80に交換され、ウーファーを口径アップされている。

エンクロージュアはバスレフ型。
ネットワークについては不明。

アナログプレーヤーはトーレンスのTD126MKIIIに、SMEのトーンアーム。
カートリッジは、これを書くにあたって参考にしている「音楽の空間(男の隠れ家増刊)」によれば、
シュアーのULTRA 500である。

CDプレーヤーの写真はなく、ただラックスマンと本文にあるだけだ。

「音楽の空間」にはこうある。
     *
青木さんはオーディオ評論家として一風変わっていて、分離の良すぎる音より、演奏会場のいちばんいい席で聴こえる音、実演に近い音をめざす人だった。それが宇野さんの志向にもぴったり合ったという。あるとき、別のオーディオ評論家が最新の器材をつないでくれたことがあるそうだが、さっぱりいい音が出ず、その評論家が「おかしいなあ」と首をかしげる結果に終わったそうだ。
     *
青木周三氏をオーディオ評論家とするのは少しばかり異を唱えたいが、
宇野功芳氏が志向されていた音の一端は伝わってこよう。

「音楽の空間」に載っているModel 7は、
中央の四つのレバースイッチのひとつ、右から二つ目がいちばん上に上げられている。
Model 7を使われている方、詳しい方ならば、
このスイッチが何なのかおわかりだから、これ以上は書かない。

Date: 6月 12th, 2016
Cate: 訃報

宇野功芳氏のこと

音楽評論家の宇野功芳氏が亡くなられたことを、
朝、インターネットを見ていて知った。

20代のころは、宇野功芳氏の書かれたものをけっこう読んでいた。
著書も何冊か買って読んでいた。

けれどしばらくすると、ぱたっと読まなくなってしまった。
だから、宇野功芳氏の音楽評論について何か書けるわけではない。

宇野功芳氏は、音に頓着しない人が多い音楽評論の世界にいて、
オーディオにこだわりを持っていた人である。

いつだったか、宇野功芳氏のシステムが何かの雑誌に載っていた。
レコード芸術だったと思う。
そこにはマランツのModel 7が写っていた。

アナログプレーヤー、スピーカー、パワーアンプも写っていたはずだが、
いまは記憶に残っていない。
ただマランツのModel 7だけがはっきりと記憶に残っているのは、
宇野功芳氏のレコード(録音物)による音楽の聴き方と、
マランツModel 7の音の描写とが、私の中では合致していたからだ。

もちろんコントロールアンプだけで、そこで鳴っている音がすべて決ってしまうわけではない。
それでも、この人の音楽の聴き方にぴったりと合うコントロールアンプといえば、
マランツのModel 7しかないだろう、と思っている。

宇野功芳氏がいつごろからModel 7を使われているのかも知らない。
どうやってModel 7と出合われたのかも知らない。
そういうことを知ろうとは思っていない。

ただ宇野功芳氏がマランツ Model 7で聴かれていた、ということが、
私にとっては記憶に残ることであった、というだけである。

Date: 1月 19th, 2015
Cate: オーディオ評論, 訃報

江川三郎氏のこと(その1)

昨夜、facebookで江川三郎氏が亡くなられたことを知った。
オーディオフェア、ショウの会場ですれ違ったことが二回くらいあるだけだ。

私はステレオサウンドで丸七年働いていたけれど、
そのころは江川三郎氏はステレオサウンドとの関係はまったくなかった。
ご存知ない方もいまでは増えているようだが、
ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」のアルテック号には、江川三郎氏が登場されている。
アルテックのユニットを使った自作スピーカー記事「アルテクラフト製作記」を担当されていた。
この記事は面白かった。

私にとって江川三郎氏ということで頭に浮ぶのは、
この「アルテクラフト製作記」に出て来た604-8Gを使用したアクロポリスがまずあり、
それからハイイナーシャプレーヤー、逆オルソン方式である。
あと思い出すのは、JBLのパラゴンを鳴らされていたことである。

パラゴンは1969年にはすでに鳴らされていた。
当時の山水電気の広告「私とJBL」にパラゴンをバックにした江川氏が登場されている。

たしかトリオの会長の中野氏が鳴らされていたパラゴンだったはずだ。
パラゴンといえば私の中では真っ先に岩崎先生が浮ぶ。
けれど江川氏が岩崎先生よりも早く、パラゴンを鳴らされていたことは忘れてはならないことだと思う。

パラゴンも最後のほうではウーファーの裏板を取り外して鳴らされていたはず。
1980年代以降の江川氏のイメージとパラゴンは結びつきにくい。
けれど山水電気の広告の写真をみていると、そんな感じはしない。

この写真を見ていると、あれこれおもってしまう。

Date: 4月 18th, 2014
Cate: 訃報

勝見洋一氏のこと

いつのころからかB級グルメという言葉をあちこちで目にするようになっていた。
私の記憶に間違いがなければ、
「B級グルメ」を最初に使いはじめたのは文藝春秋社が1980年代後半ごろに出しはじめた文庫本のシリーズのはずだ。

何冊出たのかはわすれてしまっているが、
書店で新刊を見かけるたびに即購入していた。

私が勝見洋一氏を知ったのは、この文藝春秋のB級グルメの文庫本において、である。
勝見洋一氏という人がどういう人なのか知らなくとも、
勝見洋一氏の書くものを読めば、そうとうな食い道楽であることはわかる。
私も勝見洋一氏のことはそれまでまったく知らなかった。

B級グルメの文庫本では複数の人が書いていた。
勝見洋一氏が書かれるもの以外にも面白かったのはいくつもある。
本全体として面白かったからこそ、新刊が出るたびに買っていた。

けれど B級グルメの文庫本で目にした多くの書き手の名前を忘れてしまっている。
いまも憶えているのは勝見洋一氏だけである。

それは、とんかつについて書かれたものが強烈な印象として残っているからだ。

私もとんかつは好物である。
B級グルメが出ていたころは20代ということもあって、
飽きずにとんかつを食べていた。

そういう時に勝見洋一氏のとんかつについての文章を読んだ。
そこにあった一節が、慧眼というしかなかった。

もう手元にB級グルメの文庫本はないし、
もしあったとしても、その部分をここで引用するのは少し憚られる。

だからぼかして書くことになるが、つまりはとんかつを好物とする男はすけべだ、ということだ。
これで察してもらうか、図書館や古書店でB級グルメの文庫本を探して読んでいただくしかない。

ともかく、この一節とともに勝見洋一氏の名前をはっきりと憶えることとなった。

B級グルメの新刊もいつしか出なくなった。
そうしたら今度はステレオサウンドで勝見洋一氏が書かれるようになった。

その連載もあるとき突然に終ってしまった。
不可解な終り方であった。
何か編集部とあったのだなぁ、とわかる、そんな終り方だった。
実際そうだった、とある人からきいている。

そして今朝、もう勝見洋一氏の文章を読むことができなくなったことを知った。

Date: 8月 16th, 2013
Cate: 訃報

青空文庫のこと

audio sharingは、2000年の今日から始まった。

audio sharingよりも前に、青空文庫はあった。
青空文庫の存在は、私にとっていい刺戟だった。
著作権の壁は50年という長さにある。

青空文庫が公開している作品にとっての50年と、
オーディオ・音楽に関する文章にとっての50年は、
同じ50年とはいえないところがある。

青空文庫には多くのボランティアの人たちがいて、
実に多くの作品が公開されていて、増えている。

けれど青空文庫で、オーディオの書籍が公開されることがあったとしても、
ずっとずっと先のことだ。
そんな先まで、私は待てなかった。
だからaudio sharingをつくった。

audio sharingは今日から14年目を迎える。
もうすぐ14年目の最初の一日も終ろうとしている。

今日のブログも書いた。
これから風呂に入ろうと思い、その前にちょっとニュース系のサイトを、と思って、
ふとGIGAZINEのサイトにアクセスした。そんな気分でのアクセスだっただけに、
そのトップには、【訃報】「青空文庫」の創始者である富田倫生さんが死去、とあったのは、驚愕といえた。

記事には、8月16日、午後12時8分に死去された、とある。

富田氏が亡くなったことは驚きだ。
しかも、8月16日という、私にとってはきわめてプライヴェートな意味をもつ日に、だ。
それはたまたまの偶然でしかないことはわかっていても、
私にとっては、単なる偶然とはどうしても思えないところがある。

本当に突然すぎる……。

Date: 2月 18th, 2013
Cate: James Bongiorno, 訃報

James Bongiorno (1943 – 2013)

いましがたfacebookを見ていたら、ジェームズ・ボンジョルノ逝去、とあった。

人はいつか死ぬ。
ボンジョルノは一時期肝臓をひどくやられていたときいている。
しかもキャリアのながい人だから、いつの生れなのかは知らなかったけれど、
けっこうな歳なんだろうな、とは漠然と思っていた。

そういう人であったボンジョルノが、亡くなった。
人は死ぬ、ということは絶対なのだから、それが突然のことであっても、あまり驚くことはない。
そんな私でも、ボンジョルノの死は、ショックに近い。

ぽっかり穴が、またひとつあいたような感じを受けている。

私がステレオサウンドにいた時期、
ボンジョルノはリタイア状態だった。
だから会える機会はなかった。
もっとも会いたい人だった……。