Archive for 1月, 2022

Date: 1月 31st, 2022
Cate: Jacqueline du Pré

Jacqueline du Pré(その2)

2022年の1月も、今日で終り。
他の人はどうだか知らないが、
私は1月が、他の月よりも多少長く感じてしまう。
待ち遠しいと思う日がいくつかあるためだろう。

自分の誕生日がある、ということ。
誕生日は、いくつになってもうれしいものだ。

それだけでなく、私の好きな演奏家、作曲家の誕生日も1月の後半に集まっている。
水瓶座の時期に、いくつもある。

今日はシューベルトの誕生日だし、27日はモーツァルトの誕生日でもあった。
フルトヴェングラーが25日、そして26日はジャクリーヌ・デュ=プレである。

これだけではないけれど、好きな演奏家、作曲家の誕生日近くになると、
あと数日で、デュ=プレの誕生日だな、とおもう。
自動的にそうおもうようになっている。

特にデュ=プレの場合は、いまも生きていたら──、
そんなことを、どうしてもおもってしまう。

1945年生れだから、今年で77だ。
多発性硬化症という病に冒されてなければ、いまも現役だろう。
どんな演奏(録音)を残してくれていただろうか──、夢想する。

そんなことおもったところで……、とはわかっていても、
毎年、この時期になると、そんなことをおもう日々が続く。

26日の夜おそくに、iPhoneのロック画面の写真を替えた。
これまでもデュ=プレの写真にしていた。

今回は若いころのデュ=プレの写真にした。
ショートカットのころのデュ=プレは十八歳前後のはずで、
女学生の雰囲気の写真である。

ステージにいるデュ=プレは、どこかをみている。
バックにはオーケストラがいるのだから、彼女がみているのは、指揮者だろう。

でも、ここ数日、毎日、数回以上、このデュ=プレの写真をみていると、
どこを視ているのだろうか、とおもう。

Date: 1月 30th, 2022
Cate: 欲する

新月に出逢う(その9)

今年も、2月6日(日)から12日(土)まで、
有楽町の交通会館の地下一階ゴールドサロンで、
クラフトアート創作人形展が開催される。

2021年2月12日に、たまたま交通会館の地階にいて、
偶然、Enという人形作家のEleanorという人形と出逢った。

ちょうど新月の日だった。
今年2月の新月は1日だから、会期中に新月はこない。
とはいえ、今年のクラフトアート創作人形展にも、
En氏の作品は展示される。

一週間後が待ち遠しい。

Date: 1月 30th, 2022
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏のこと(バッハ 無伴奏チェロ組曲・その8)

ステレオサウンド 53号の4343研究中に登場する試聴ディスクは、
菅野先生録音、オーディオ・ラボの「ザ・ダイアログ」、
それからコリン・デイヴィス指揮のストラヴィンスキーの「春の祭典」(フィリップス録音)、
アース・ウインド&ファイアーの「黙示録」に、
チャック・マンジョーネの「サンチェスの子供たち」である。

どのディスクも当時(1979年)、優秀録音ということで、
ステレオサウンドの別の特集の試聴テストでも、とりあげられていたディスクばかりだ。

私も、当時「黙示録」以外は買って聴いていた。
「ザ・ダイアログ」は日本盤しかないが、
「春の祭典」と「サンチェスの子供たち」は輸入盤だった。

4343研究では、レコード番号も記載されていた。
56号のロジャースのPM510の文章中に出てくるディスクは、
バッハの「無伴奏」、とあるだけだ。

演奏者の名前も、レコードレーベル、番号については何も書かれていない。
同じ56号では、トーレンスのリファレンスの記事も、瀬川先生は書かれている。

そこでは、コリン・デイヴィスの「春の祭典」、
カラヤンの「ローマの泉」についての音の印象が出てくる。

おそらくなのだが、PM510では、「ザ・ダイアログ」は聴かれていない、と思っている。
「ザ・ダイアログ」は別項でも書いているように、この時期、よく聴いていた。
それだけでなくaudio wednesdayでもたびたび鳴らしていた。

でも「ザ・ダイアログ」をPM510で鳴らしたこと、聴いたことはない。
自分のPM510、自分の部屋においてだけ、でなく、
ステレオサウンドの試聴室でもPM510で「ザ・ダイアログ」は聴いていない。

「サンチェスの子供たち」も聴いていない。
「春の祭典」は一回だけかけたことがあるが、
4343で聴くときの音量で鳴らしたわけではなく、ずっと小さな音量で、であった。

Date: 1月 29th, 2022
Cate: 瀬川冬樹
3 msgs

瀬川冬樹氏のこと(バッハ 無伴奏チェロ組曲・その7)

その1)を書いたときには、そんなこと考えもしなかったのだが、
この項で書こうとしているのは、
瀬川先生にとっての「心に近い音」についてなのかもしれない──、
そう思うようになってきた。

なので、(その1)で引用している瀬川先生の文章を、もう一度である。
     *
 JBLが、どこまでも再生音の限界をきわめてゆく音とすれば、その一方に、ひとつの限定された枠の中で、美しい響きを追求してゆく、こういう音があっていい。組合せをあれこれと変えてゆくうちに、結局、EMT927、レヴィンソンLNP2L、スチューダーA68、それにPM510という形になって(ほんとうはここでルボックスA740をぜひとも比較したいところだが)、一応のまとまりをみせた。とくにチェロの音色の何という快さ。胴の豊かな響きと倍音のたっぷりした艶やかさに、久々に、バッハの「無伴奏」を、ぼんやり聴きふけってしまった。
     *
この文章は、ロジャースのPM510の新製品紹介記事である。
これを読んで、PM510を買おう! と決心したし、実際にPM510を手に入れることができた。

この文章だけでも、PM510こそ! と思ったはずなのだが、
ステレオサウンド 53号での瀬川先生の4343研究を読んでいたからこそ、
PM510のことがよけいに気になる存在となった。

このブログでも何度か取り上げているように、
53号で、JBLの4343をオール・マークレビンソンによるバイアンプ駆動を試されている。

その記事の最後に、こう書かれている。
     *
「春の祭典」のグラン・カッサの音、いや、そればかりでなくあの終章のおそるべき迫力に、冷や汗のにじむような体験をした記憶は、生々しく残っている。迫力ばかりでない。思い切り音量を落して、クラヴサンを、ヴァイオリンを、ひっそりと鳴らしたときでも、あくまでも繊細きわまりないその透明な音の美しさも、忘れがたい。ともかく、飛び切り上等の、めったに体験できない音が聴けた。
 けれど、ここまでレビンソンの音で徹底させてしまった装置の音(注)は、いかにスピーカーにJBLを使っても、カートリッジにオルトフォンを使っても、もうマーク・レビンソンというあのピュアリストの性格が、とても色濃く聴こえてくる。いや、色濃くなどというといかにもアクの強い音のような印象になってしまう。実際はその逆で、アクがない。サラッとしすぎている。決して肉を食べない草食主義の彼の、あるいはまた、おそらくワイ談に笑いころげるというようなことをしない真面目人間の音がした。
 だが、音のゆきつくところはここひとつではない。この方向では確かにここらあたりがひとつの限界だろう。その意味で常識や想像をはるかに越えた音が鳴った。ひとつの劇的な体験をした。ただ、そのゆきついた世界は、どこか一ヵ所、私の求めていた世界とは違和感があった。何だろう。暖かさ? 豊饒さ? もっと弾力のある艶やかな色っぽさ……? たぶんそんな要素が、もうひとつものたりないのだろう。
 そう思ってみてもなお、ここで鳴った音のおそろしいほど精巧な細やかさと、ぜい肉をそぎ落として音の姿をどこまでもあらわにする分析者のような鋭い迫力とは、やはりひとつ隔絶した世界だった。
     *
この時の音こそ、瀬川先生にとってもっとも「耳に近い音」だったのか──。
その九ヵ月後の56号での、PM510の音のこと。

そして、そこに登場するディスクのこと。

昨日の夜おそく、そして今日、
二日かけて、フルニエのバッハの無伴奏チェロ組曲を聴いていた。
MQA Studio(192kHz)で聴いていた。

Date: 1月 28th, 2022
Cate: Pablo Casals, ディスク/ブック

カザルスのモーツァルト(その8)

カザルスの演奏は、ソニー・クラシカルからも出ているおかげで、
TIDALでMQA Studioで聴ける。
といっても、これまで発売されたすべての録音が聴けるわけではない。

モーツァルトの交響曲がない。
CD(アメリカ盤)は持っているし、リッピングしているから聴けるのだが、
やはりMQA Studioで聴いてみたい。どうしても聴きたい。

TIDALでMQA Studioで聴けるようになるのかどうかは、
いまのところわからない。

カザルスによる剛毅な音楽は、
太い血管を血がたっぷりと、そして勢いよく通っているからなのだろう。
そんな感じを受ける。

そんな演奏を毛嫌いする人がいるのは知っている。
優美さに欠ける──、そんなことをいう人もいる。
野暮とすらいう人もいる。

それはそれでいいけれど、剛毅な音楽だからこその音楽の優しさを、
そういう人は知らないのか。

Date: 1月 27th, 2022
Cate: 「オーディオ」考

オーディオにおける「かっこいい」とは(その4)

毎日書くということ(続々・モチベーションの維持)」へのfacebookでのコメントに、
オーディオがカッコいい、とは思っていない、
オーディオ機器にはそのような側面は重要な要素としてあるかもしれないが──、
そんな趣旨のことが書いてあった。

私は、というと、オーディオ機器にもかっこいいモノがあるし、
かっこいいと感じる要素もある、
それにオーディオに真剣に取り組んでいる人もかっこいい、と感じている。
そう感じている人は、極端に少ないけれどもだ。

そして、オーディオそのもの、オーディオの世界がかっこいいと思っている。

ふりかえって、「五味オーディオ教室」に、
かっこいい何かをすでに感じとっていた、と思う。

そういえばaudio wednesdayがaudio sharing例会といっていたころ、
タンノイのオートグラフやJBLの4343、
それらは優れたスピーカーであったからこそであって、
五味康祐氏や瀬川冬樹氏が鳴らしていたから、特別なスピーカーなわけではない──、
そんなことをいわれたことがある。

そう思っている人が多数派なのか。
だとしたら、私がおもしろいと感じているオーディオとは、
少々違うオーディオだな、と受けとっていた。

私にとっては、オートグラフは五味先生が、
4343は瀬川先生が鳴らされていたからこそ、特別なスピーカーである。

この二つのスピーカーだけではない。
他のスピーカーに関しても、まったく同じことがいえる。

Date: 1月 27th, 2022
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(facebookにて・その15)

facebookページの「岩崎千明/ジャズ・オーディオ」。

去年の夏以降、「いいね!」の数が増えてきている。
更新もさっぱりやっていないので、それ以前は、
新たな「いいね!」がつくことは、まずなかった。

夏以降、更新を再開したわけでもない。
なのに「いいね!」が数件ある日もあれば、
数日続いての「いいね!」があったりする。

理由はわからないけど、いいことではある。

Date: 1月 27th, 2022
Cate: 映画

HOUSE OF GUCCI

「ハウス・オブ・グッチ」を観てきた。
TOHOシネマズ日比谷のスクリーン1での上映だった。

映画の内容や感想について書きたいのではなく、
いくつかのシーンで、時計の秒針の音がはっきりと聞こえてくる。
ちょっと意外でもあった。

TOHOシネマズ日比谷で観ることが多い。
IMAXやドルビー・アトモスでの上映だと、スクリーン1ではなく、
スクリーン4やスクリーン5である。

スクリーン1での映画は、そういえばひさしぶりかも……、と思いながら、
本編上映前に流れる、毎回同じの鑑賞マナーや盗撮禁止の短い動画。

これらの音の印象が、スクリーン4、スクリーン5とはちょっと違う。
音の定位がいいのだ。

そういえば2020年の終りごろに、
サウンドシステムのチューニングを行ったというニュースがあったのを思い出す。

それがどのスクリーンなのかはわからなかったが、スクリーン1がそうなのは間違いないだろう。
そのことがあって、「ハウス・オブ・グッチ」での時計の秒針の音だったのか。

他の映画館では、そのあたりどうなんだろうか。

Date: 1月 26th, 2022
Cate: 書く

毎日書くということ(続々・モチベーションの維持)

ここ数日は、「老いとオーディオ(若さとは)」をおもに書いている。
その少し前も、オーディオのブランドや型番をあまり出すことのないことを書いていた。

アクセスログを見なくとも、
こういう内容を続けて書いていると、アクセス数は少し減る傾向にある。

なにかのオーディオ機器の型番をタイトルにつけて続けて書いたりすると、
アクセス数は増える傾向にある。

必ずしもそうなるとはいえないけれど、
全体の傾向として、そういえなくもない。

ブログを始めたころは、アクセス数がすごく気になっていた。
それからしばらくは気になっていたが、もうそれほど気にしなくなった。
割と安定している、ということもある。

ここ半年ほどは、アクセス数をチェックすらしなくなっていた。
なんとなく、このぐらいの数だろう、と予測がつくし、
たいていはそのくらいの数である。

アクセス数を稼ぎたければ、そういう書き方をしていけばいいわけで、
でもだからといって、アクセス数が増えることが、
モチベーションにつながっていくかといえば、そんなことはない。

この項で以前書いているように、毎日書くためにモチベーションから切り離している。
とはいえ、別項「老いとオーディオ(若さとは)」に、コメントが続いていると、
やはり嬉しいものである。

今日も、Tadanoさんが、「老いとオーディオ(若さとは・その15)」にコメントをくださった。

そこに、こう書いてあった。
     *
 私の場合ですと、まず、オーディオばかりにお金を割けない事情があります。しかしながら、「なにやらオーディオというのは奥が深く面白そうだ。なんだかカッコよくて、素敵な世界に見える。この世界の深遠を少し覗いてみたいなあ。しかし、専門用語があまりにも多すぎてついていけない。だけど、他の多くのビギナー向けのサイトは何かどこかうそ臭い。だから、ものすごく難しいのだけれどこれを読んでみよう」という感じです。
     *
そう、オーディオは奥が深く面白い。
しかもカッコよくて、素敵な世界である。

Date: 1月 25th, 2022
Cate: 老い
1 msg

老いとオーディオ(若さとは・その15)

老成ぶる、ということは、
自らの心を粉飾する、ということだと考えている。

《粉飾した心のみが粉飾に動かされる》と、
小林秀雄が「様々な意匠」のなかで語っている。

Date: 1月 25th, 2022
Cate: 老い

老いとオーディオ(若さとは・その14)

その12)にもコメントがあった。
寂夜さんという方からのコメントである。

このブログへのコメントは、少ない。
facebookでもコメントは少ない。

なのに、今回「老成ぶっている」ということに関しては、コメントがある。
少しも短めのコメントではなく、書き手としては、少々驚いている。

ここでの書いていることにコメントがあるとは、当初はまったく思っていなかった。
なのに、書いてくださる方がいる。

ありがたいと思うだけでなく、なぜだろう、とも思う。

寂夜さんのコメントに、
《これは「老成ぶって」しまっていると言う事なのでしょうか?》とある。

老成ぶっているとは、まったく思っていない。

私が感じている老成ぶることについて、
具体的なことを書くのがわかりやすいかもしれないと思いつつも、
ある程度具体的なことを書いてしまうと、
「あっ、私のことだ」と思ってしまう人がいるはずだ。

老成ぶっていると感じている人は、一人ではないので、
うまくぼかして書くこともできないわけではないだろうが、
それでも個人攻撃になるような感じなので、それはやりたくない。

老成ぶっている人は、老成している人ではないことだけは、まずいっておきたい。
そして、ここで書いている老成とはオーディオに関しての老成である。

ことオーディオに関して、若くして老成していた人はどれだけいるのだろうか。
かなり少ないのではないのではないだろうか。

自分より年齢が上の家族が、そうとうなオーディオマニアであれば、
それもかなり恵まれた環境にいたのであれば、
本人に資質があれば、若くして老成していた人もいよう。

四十年前の1月から、ステレオサウンドで働くようになった。
菅野先生、長島先生、山中先生は1932年9月生れなので、このときはまだ49歳、
井上先生がちょうど50歳だった。

井上先生の若いころを知っているわけではない。
それでも試聴の合間に、若いころの話をしてくださった。

それを聞いていて、井上先生は若くして老成されていたのかも、と思うようになった。
私の勝手な想像でしかないが、
井上先生の若いころと、私が老成ぶっていると感じている人たちは、
いうまでもなくまるで違う。

知識も経験も、ノウハウも感性も、みんな大きく違う。

Date: 1月 24th, 2022
Cate: 録音

録音フォーマット(その2)

昨年秋に、「イージー・ウィナーズ〜PJBEへのオマージュ」が発売になった。
PJBEとは、いうまでもなくフィリップ・ジョーンズ・ブラス・アンサンブルのこと。

アーク・ブラスという結成されたばかりブラス・アンサンブルのデビューCDである。
録音は、オクタヴィア・レコードの江崎友淑氏。

この録音についてはオーディオアクセサリーが記事にしているし、
音元出版のPhile Webでも公開されているので、読まれた方もいよう。

ライナーノートにも書いてあるように、
この録音は352.8kHz、24ビットである。

352.8kHzは、44.1kHzの八倍。
352.8kHzは96kHzの整数倍ではない。

96kHzの四倍、384kHzのほうが、スペック的には352.8kHzよりも上だし、
少しでもサンプリング周波数が高い方がいいと短絡しがちな人へのアピールにもなろう。

なのに352.8kHzなのは、おそらくCDでの発売を考慮してのことだろう。

整数倍であることは、それほど音質に影響しない、という人もいる。
とはいえ、実際に自分の耳で確かめることはできないし、
素直に、それを信じられるかというと、そうではない。

たとえそうであってもなんとなく精神衛生上すっきりしないものを感じる。

96kHz、24ビットが録音現場の標準フォーマットなのはわかる。
それでもCDで発売するのであれば、
44.1kHzの整数倍の88.2kHz、さらには176.4kHzでリマスター処理をしてほしい、と思う。

なので「イージー・ウィナーズ〜PJBEへのオマージュ」の352.8kHzは、
やっぱり整数倍なんだな、とつい確信してしまう。

けれど不思議なのは、
「イージー・ウィナーズ〜PJBEへのオマージュ」はe-onkyoでも配信されている。
こちらは96kHz、24ビット(flacとWAV)である。

88.2kHz、176.4kHzではない。

Date: 1月 23rd, 2022
Cate: 録音

録音フォーマット(その1)

CDが登場し、デジタル録音が主流となった時代、
再生のフォーマットも録音のフォーマットも、
44.1kHz、16ビットとまったく同じになってしまった。

このことは、録音そのままのフォーマットで再生できる、と喜ぶこともできるし、
録音に対しての夢がなくなった、とも悲しむこともできた。

録音は再生よりも、つねに上のフォーマットであってほしい。
デジタル録音が主流になる前から、オーディオに取り組んでいた人たちの多くは、
おそらくそう思っている。

いま96kHz、24ビットが標準フォーマットになっている。
おそらくしばらくはこのままであろう。

CDのリマスター盤でも、96kHz、24ビットでのリマスターを謳うものが多いし、
録音フォーマットをみても、96kHz、24ビットが主流といえる。

このことはいいんだけれども、釈然としないのが、
CDは44.1kHzであり、96kHzとは整数倍の関係ではない、ということ。

ついさきごろ、諏訪内晶子のバッハの無伴奏のSACDが発売になった。
なのでDSD録音なのか、と思った。

TIDALでも聴けるようになった。
こちらは192kHzのMQAである。

ということは、諏訪内晶子のバッハの録音は、
DSDなのか、それとも192kHzのPCMなのか。

Date: 1月 23rd, 2022
Cate: 老い

老いとオーディオ(若さとは・その13)

老成しているのではなく、老成ぶっている人は、
「遠い」という感覚がないのかもしれない。

もともと欠如していたのか、
欠如していたから老成ぶることになっていったのか、
老成ぶっているうちに「遠い」という感覚を失っていったのか、
どちらかなのかははっきりしないが、「遠い」という感覚はないようだ。

「遠い」という感覚については、以前書いているので、ここではくり返さない。

Date: 1月 22nd, 2022
Cate: 老い
1 msg

老いとオーディオ(若さとは・その12)

(その10)へのコメントが、facebookにあった。

この項は、どなたかに宛てて書かれているようだ、と思っていた、とあった。
続けて、「それが当該の方ご本人のためになる」「書き残すことが公共の利益である」
という考えなのか、とあった。

そんなことはまったくおもっていない。
知っている老成ぶっているオーディオマニアに向けてではない。
その人が、仮に読んでいたとして、本人のためになるとはまったく考えていない。

書き残すことが公共の利益になるとも、まったく考えていない。

ずっと以前に書いているように、
ここに書いていることは、私に向けてのものである。

「五味オーディオ教室」にであったばかりの私、
「五味オーディオ教室」を夢中になって、何度も何度も読み返していたころの私、
そのころの「私」だけを想定して書いているだけであり、
そういう「私」に老成ぶるな、といいたいだけでもある。

とはいえ、まったくそれだけでもない。
老成ぶっているオーディオマニアに対しての怒りがあるといえばある。
老成ぶっているオーディオマニアが悪い、というわけではない。

趣味の世界と捉えれば、老成ぶっていることも、
そういう楽しみ方もあるだろうぐらいに思える。

老成ぶっているオーディオマニアは、昔からいたはずだ。
私が知っている老成ぶっているオーディオマニア以外にも、きっといよう。

その人たちに怒りがあるわけではない。

老成ぶっているオーディオマニアが、
自分の世界に閉じ籠もっているだけならば、そこに怒りをおぼえることはない。

もったいないぁ〜、と思うにしても、怒りはない。
けれど、いまは昔と違う環境がわれわれをとりまいている。

だからこその怒りがある。