Archive for 7月, 2017

Date: 7月 31st, 2017
Cate: audio wednesday

第79回audio wednesdayのお知らせ(結線というテーマ)

8月のaudio wednesdayは、2日である。
テーマは前回書いているように「結線というテーマ」である。
これがメインになるが、時間があまったら、
最後のほうでオカルト的ことを試そうと考えている。

ケーブルによる音の変化を認めている人でも、
それはちょっと……、といわれそうなことをやろうと考えている。
といっても、これにかかる費用は数百円程度である。

もし効果が認められれば、すぐに試せる簡単なことでもある。
実は、私もまだ試していない。
昨日、ふとそのことを思い出して、今回のaudio wednesdayでやってみようと思っているところだ。

もしそれで音が明らかに変化したとしても、その理由はうまく説明できない。
そんなことも予定している。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 7月 31st, 2017
Cate: 再生音

続・再生音とは……(波形再現・その3)

ステレオサウンド 48号でのレコードレベル記録測定のブロックダイアグラムをみると、
被測定プレーヤーは、80kg定盤の上にのせられている。

アナログレコードを使って測定なのだから、
外部からの振動・衝撃が被測定プレーヤーに伝わってしまっては、
その振動・衝撃もレコードレベルとして記録されてしまう。

80kg定盤とあるだけで、詳細はついては書いてなかった。
80kg定盤だけで、外部振動・衝撃を完全に遮断することは無理だから、
わずかとはいえ、それらの影響も測定結果にあらわれているはずだ。

そうなってくると、厳密な測定は非常にむずかしい。
私がいたとき、測定は三回やっていた。
アンプの歪率の測定の場合でも、必ず三回同じアンプで同じ信号で行う。
測定ミスが起っていないかを確認するためでもある。

それに測定は何機種も行う。
アナログディスクで、一機種あたり三回行い、
20機種とか30機種の測定になるわけだから、
30機種であれば90回、同じアナログディスクを再生することになる。
そうなると、アナログディスクの傷みも問題となる。

測定ごとにディスクも交換したら……、
これはこれで厳密な測定とはいえなくなる。
複数枚の同タイトルのアナログディスクの溝の状態が同一という保証はない。

すり減りにくいアナログディスクがあったとして、
カートリッジを被測定プレーヤーに取り付けて、
高さの調整、ゼロバランス、針圧の調整、
場合によってはラテラルバランス、インサイドフォースキャンセラーの調整を行う。

針圧は正確な針圧計をもってくれば、同じにできるが、
高さ、ラテラルバランス、インサイドフォースキャンセラーの量を、
すべて同一条件にできるかというと問題もある。

それからカートリッジの左右の傾きも調整してなければならない。

針圧をわずかに変化させただけで音は変化する。
その変化量がレコードレベルの測定結果にもあらわれるはずだから、
アナログディスクを使った波形再現の測定は、
メーカーが実験的に行うことはあっても、
オーディオ雑誌に客観的データとして掲載することは、
細心の注意を払ったとしても、種々の問題をクリアーできるとはならない。

Date: 7月 31st, 2017
Cate:

おもいだした文章

7月22日の川崎先生のブログ「知人、友人、親友、いや話相手としての別感覚の友」、
読んでいてふと思い出した文章がある。

黒田先生が1970年の終りに書かれたもの、
レコード藝術別冊「ステレオのすべて──1971」に載っている文章を、
読んでいて思い出していた。
     *
 悲しいのは誰だって同じだ。肝心なのはその悲しみをうたえるかどうかではないのか。ビリー・ストレイホーンがデューク・エリントンにとっていかにかけがえのない男だったかは、少しでもエリントンの仕事ぶりを見てきた人なら判るはずだ。協力者などという安っぽい、計算のかった間柄ではなかった。デューク・エリントンはビリー・ストレイホーンによってデューク・エリントンたりえていた部分があった。誰にもましてエリントンが、それを知っていたにちがいない。ストレイホーンにめぐりあえた幸せと、彼を失った悲しみを、エリントンが、このアルバムでうたっている。
 かけがえのない人を失うというのは、きっと誰にでもあることだろう。すくなくともひとりきりで生きられる強い人をのぞいては。ぼくにもあった。なにをはなしあったというのではない。なにか人にできないようなことをしたというものでもない。でも、ある時、なんの前ぶれもなくこの世の人間でなくなってしまったぼくの友人は、いなくなるということで、ぼくの中での彼の存在の大きさをぼくに教えた。
 A面の六曲、B面の5極がビッグ・バンドで演奏された後、人びとのざわめきをバックに、エリントンがピアノをひきはじめる。ストレイホーンの作品「蓮の花」だ。ざわめきはしずまり、エリントンのピアノがつづく。これは、エリントンだけにうたえた、ストレイホーンへの告別の歌ではないのか。
 悲しみをうたえることへのねたましさを、その時ほど感じたことはなかった。ぼくは、ぼくをおきざりにした友人に、なにがうたえたというのだ。心の中にできた空洞をもてあましているときにきいた、エリントンの、ストレイホーンへの告別の歌は、その切実さによって、たえがたかった。
 少しもしめっていない。あるとすればそれは、青い空のさびしさだ。男から男にだけ通じる抒情。しかしエリントンはその伝達の手段をもっていた。彼は音楽家だった。ピアノでうたうことができた。おそらくこの「蓮の花」、レコードにおさめることを意識して演奏されたのではないだろう。つまり、エリントンのつぶやき。つぶやきが歌になり、その歌には、なつかしい人を見やるやさしい目が感じられる。
     *
どのレコードなのかは、書く必要はないだろう。

Date: 7月 31st, 2017
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その25)

オーディオの想像力の欠如が、迎合へと向わせる。

Date: 7月 31st, 2017
Cate: オーディオマニア

オーディオは男の趣味であるからこそ(もっといえば……)

オーディオは男の趣味、
さらにいえば迎合しない男の趣味である。

Date: 7月 30th, 2017
Cate: High Fidelity

原音に……(その2)

オーディオにおける原音とは、
ミロのヴィーナス像の両腕のようなものかもしれない。

Date: 7月 30th, 2017
Cate: 表現する

自己表現と仏像(その6)

十年前に初めて京都に行った。
帰る日の午前中にすこし時間の余裕があったので、東寺に行った。
時間つぶしのつもりだった。

せっかく来たのだから仏像を、と軽い気持だった。
仏像を見たことがなかったわけではないが、
東寺の仏像はそれまでのみてきた仏像の印象とはまるで違ってみえた。
圧倒された。

40すぎて、やっと仏像に興味を持つようになった。
興味をもったからといって、特に詳しいわけではない。
仏像、いいな、とおもう程度になったくらいでしかない。

いま仏像は静かなブームのようだ。
表参道にあるイスムは、繁盛している、ときいている。
友人のAさんも、ここで阿修羅像を買った、といっていた。
仏像のフィギュアも、いまでは珍しくない。
浅草の土産店でも、小さな仏像が売られている。

買いたい、と思うモノもある。
けれど、いまのところ、まだ買っていないのは、
仏像は、自分の手でつくるものではないか、と思うようになってきたからだ。

Date: 7月 30th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(略称の違い・その3)

出版不況といわれているし、雑誌が売れない、ともいわれている。
売れないからだろうか、たとえばMac雑誌。

私がMac雑誌を読みはじめたころは、
Mac Japan、Mac Power、Mac Life、Mac Worldが月刊誌として出ていた。
それから数年後、Mac JapanがMac Japan ActiveとMac Japan Brosに分れた。
Mac Powerの姉妹誌としてMac Peopleが出て、
日経Mac、Mac User、Mac fanも創刊された。

これだけのMac雑誌があり、
コンビニエンスストアでもMac Powerが、
私鉄沿線の小さな駅の売店でもMac Peopleが売られているのを見ている。

それがいまではMac fan一冊のみである、残っているのは。
そういうMac雑誌に比べれば、オーディオ雑誌はまだマシということになるのか。

それでもオーディオ雑誌も売れなくなってきていることは、書店に行けば感じられる。
感じられる、というより、はっきりとわかる。
ながいこと書店でオーディオ雑誌の扱いをみてきた人ならば、わかっていることだ。

よく出版社が発表している発行部数をもとに、いや売れている、と主張する人がいる。
けれど、その発行部数は公称発行部数であって、実際に印刷した部数ではない。

このことを指摘すると、今度は公称発行部数は印刷部数の数倍だから……、という。
だが公称発行部数は印刷部数の何倍とか何倍までしか発表できないわけではない。

実売に近い公称発行部数もあれば、数倍程度の公称発行部数、
中には十倍以上の公称発行部数もある。
公称発行部数では何もわからない。

証明書付き印刷部数を発表している雑誌以外の発行部数は、その程度のものでしかない。
それより書店に行ってみるほうが、確かだ。

もちろんネット通販で買う人がいるのも知っている。
電子書籍版を買う人もいる。
その分だけ書店での扱いが減っただけ、と考えることもできるが、
それだけとは考えられない。

なぜ減っているのか。
オーディオ雑誌だけに限っていえば、
編集者と読者との年齢の差が開きつつあるから、とまずいえよう。

Date: 7月 30th, 2017
Cate: High Resolution

Hi-Resについて(その9)

静特性は音質との関係性は薄い。
そんなことがずっといわれている。
確かに正弦波で測定するわけで、
しかもアンプの場合、負荷には抵抗器が使われ、
実際の入力信号、実際の負荷(スピーカー)とは大きく違う条件下での静特性である。

人間でいえば基本的な健康チェック的ともいえる。
それでもハイサンプリング化が上へ上へと高くなっていくと、
可聴帯域外の静特性の測定は、重要になっていると考える。

歪率やクロストーク、最大出力といったアンプに関係する項目だけでなく、
スピーカーのインピーダンス特性も、可聴帯域まで測定してみる必要が出てきているのではないのか。

スピーカーの教科書をめくると、フルレンジユニットのインピーダンス特性の説明が載っている。
f0でインピーダンスは最大になり、中高域ではほぼフラット、
それ以上の周波数になるとボイスコイルのインダクタンスによって上昇する。

そんな図と説明が、たいていの場合あった。
ただそれらはすべて可聴帯域内での特性である。
上限は20kHzまでであった。
ステレオサウンドの測定でもその点は同じだった。

あのころはそれでもよかった。
でも、現在はそうもいかない。
スピーカーのインピーダンス特性にしても、
最低でも100kHz、200kHzくらいまで測定してみる必要はあろう。
さらにはMHzの帯域まで測定してみることも必要となってこよう。

ボイスコイルはコイルゆえに高域にかけてインダクタンスは上昇していくが、
コイルには浮遊容量が並列に存在している。
周波数は高くなればなるほど、その影響は顕在化していく。

フルレンジスピーカーの場合は、ある程度の周波数まではどういう変化になるのかは想像がつく。
けれど実際のスピーカーシステムとなると、ネットワークや内部配線だけでなく、
アンプからのスピーカーケーブルを含めてまでが、アンプの負荷となるわけで、
実際の使用条件に等しい長さと種類のスピーカーケーブルを含めての、
200kHz、できればそれ以上の周波数におけるインピーダンス特性は、いまひじょうに興味がある。

Date: 7月 30th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(略称の違い・その2)

数ヵ月前、書店に手にしたオーディオ雑誌に、
「みんな、アニソンを聴いてきた」、
そんなふうなタイトルがつけられていた記事があった。

アニソンとはアニメソングの略である。
ここで書きたいのはアニソンという略称についてではなく、
「みんな、アニソンを聴いてきた」という見出しについて、である。

この記事は、いまおじさんと呼ばれている世代も、
子供のころはアニソンと呼ばれる音楽を聴いていた、というものだった(はずだ)。

確かに聴いていた。
いまではクラシックを聴いている時間がながい私も、
小学生のころからそうだったわけではない。

だから「みんな、アニソンを聴いてきた」という趣旨は、
そのとおりである、と同意しても、その世代の者はアニソンとは呼んでいなかった。

アニメだけを見ていたわけではなかった。
子供向けの番組には実写ものも多かった。

ウルトラマン・シリーズや仮面ライダー・シリーズなどもあった。
これら特撮ものと呼ばれるもの以外の実写ものもあった。

それらの主題歌をすべてアニソンと言い切ってしまうところに、
反撥したくなるし、なにかひと言いいたくなる。

そのころの子供は、アニソンなんて言葉はつかっていなかった。
アニメソングでもなかった。
テレビ主題歌といっていた。

「みんな、アニソンを聴いてきた」の編集者は、若い人なのだろう。
それはそれでもいいのだが、なぜ、周りの、そのころの世代の人たちに確認しないのか。

中には、私と同世代であっても「アニソン、聴いていた」と答える人もいようが、
「聴いていたけど、アニソンとはいわなかったな」と答える人も必ずいる。

ほんのちょっとした手間を省いて、記事をつくってしまっている。
どこか細部をなおざりにしたまま記事をつくっている、という印象を受ける。

自分たちの世代だけの考え・感性だけで、
「みんな、アニソンを聴いてきた」といわれても、
同世代に向けての記事でしかない。

Date: 7月 30th, 2017
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これまで(OEM・その5)

エレクトロボイスのPatrician 800の復刻について、
もうすこし記憶をたどっていくと、
1981年以前にも一度限定で復刻していることを思い出す。

1979年暮に、当時の輸入元であったテクニカ販売が、
予約限定販売を行っていた。
50組(100台)のみの復刻だった。

Patrician 800のエンクロージュアは、カナダの家具メーカーによる製造だった。
このことは最初のPatrician 800のころからそうである。

Patrician 800の製造中止の理由は、コストの問題だったらしい。
そのカナダの家具メーカーが、特別に50組製造することになり、
1979年暮の復刻が実現している。

この時の復刻はテクニカ販売からの依頼のようで、
50組のPatrician 800は、日本向けに出荷された、ときいている。
ちなみに、この時のPatrician 800の予約は、一ヵ月足らずで現定数に達したとのこと。

Patrician 800の復刻は、だから好評だった、といえる。
おそらくテクニカ販売に、さらなる復刻の要望が届いたであろう。
とはいえカナダの家具メーカーが応じてくれたかどうかはわからない。

それでサカエ工芸が製造を請け負うことになったのではないか。

つまりPatrician 800には三つのヴァージョンが存在するわけだ。
元々のPatrician 800、
1979年暮に復刻が発表されたPatrician 800、
このふたつのエンクロージュアの製造は、カナダの家具メーカー、
それ以降の復刻(限定ではなくなった)Patrician 800、
このヴァージョンのエンクロージュアは、日本のサカエ工芸による製造、
こう見て間違いはなかろう。

Date: 7月 30th, 2017
Cate: 真空管アンプ

真空管の美(その7)

現代の真空管アンプというイメージは、
懐古趣味ではない真空管アンプということなのだろうか。

いまアナログディスクブームと、一般でもいわれている。
そしてアナログディスクの音は、あたたくてやわらかい、
デジタルのように無機的でつめたくはない、
そんなこともいっしょにいわれることがある。

同じように、真空管アンプの音は、あたたかくてやわらかい、といわれることがある。
真空管のヒーターのともりぐあいが……、ということもいっしょに語られることがある。

井上先生が1980年代にいわれていたことは、
日本での、あたたかくてやわらかい、という真空管アンプの音のイメージは、
ラックスのSQ38FD/II(過去のシリーズ作も含めて)によって生れてきたものだ、だった。

他のメーカーが真空管アンプの開発・製造をやめていくなかにあって、
ラックスは真空管アンプを作り続けてきた。
SQ38シリーズだけでなく、コントロールアンプもパワーアンプも、
さらにキット製品でも真空管アンプを提供しつづけてきていた。

なにもSQ38FD/IIが当時のラックスの唯一の真空管アンプではなかったけれど、
真空管アンプといえばラックス、ラックスの真空管アンプといえばSQ38FD/II、
そのくらいSQ38FD/IIの存在は、大きいというより独自の感じがあった。

それだけに真空管アンプの音として、
SQ38FD/IIの音が浮んでしまうのは仕方ないことだったのかもしれない。

SQ38FD/IIがつくってきたあたたかくてやわらかい、
そういう音から離れた音の真空管アンプを、現代の真空管アンプというのなら、
おかしな話である。

Date: 7月 29th, 2017
Cate: 真空管アンプ

真空管の美(その6)

私がオーディオに興味を持ち始めた1976年よりも、
真空管アンプを作っているメーカーの数は増えている。

真空管アンプの新製品も、だからよく登場している。
安価なアンプではなく、本格的な真空管アンプの新製品が、である。

そういう真空管アンプの新製品が登場するたびに、
インターネットでもオーディオ雑誌でも、
現代の真空管アンプ、そういったことを書いて紹介する人が多い。

そんなありきたりな記事を目にするたびに、
何をもってして、現代の真空管アンプというのか、と、
そんな記事を書いた人に問いたくなる。

Date: 7月 29th, 2017
Cate: BBCモニター, LS3/5A

BBCモニター考(LS3/5Aのこと・その30)

QUADのESLのダブルスタック、トリプルスタックのことを書いていて思い出したのは、
LS3/5Aのダブルスタックのことだ。

私は試したことがないけれど、
ステレオサウンド 55号に、マラソン試聴会の記事が載っている。
1ページ、モノクロの記事である。写真は九点。
どれも不鮮明な写真ばかりだが、一枚だけ目を引くものがあった。

ロジャースの輸入元オーデックスのブースで、
写真の説明には「ダブルLS3/5Aがガッツな音を聴かせてくれた」とある。

写真は小さく、くり返しになるが不鮮明。
はっきりとは確認できないが、上下二段スタックされたLS3/5Aは、
上側のLS3/5Aは上下逆さまになっているように見える。

サランネットについているネームプレートが、上側のLS3/5Aは左下にあるように見えるからだ。
ユニット配置は、下からウーファー、トゥイーター、トゥイーター、ウーファーとなっているはずだ。

ESLのスタックもそうだが、最大出力音圧レベルの不足を補うための手法である。
LS3/5Aもその点ではESLと同じであり、ESLがダブルスタックにするのであれば、
LS3/5Aも……、と輸入元の人が考えたのかどうかははっきりしないが、
この時のダブルLS3/5Aの音は、取材した編集者の耳も捉えていたようだ。

55号の編集後記の最後に、《小さな一室でLS3/5Aのダブルが良く鳴っていた》とある。

Date: 7月 28th, 2017
Cate: 「オーディオ」考

デコラゆえの陶冶(その10)

S氏(新潮社の齋藤十一氏)のやり方を、五味先生は模倣されている。
けれどS氏のように放逐されたわけではないことは、「五味オーディオ教室」を読んでわかる。
     *
 レコードは、聴くこちらのコンディションでよし悪しが左右されることがある。私など、S氏のこの方法を模倣して排除した分も、そのまま残しておき、後日、聴きなおした。結局そうして未練ののこった盤はまたのこしておいた。二年ほど経って、あらためてこの方法で聴いてゆくと、やっぱり前に追放しようとした分は保存に値しないのを思い知るのがほとんどだったから、演奏への鑑賞能力、また曲への好みといったものは、聴くこちらのコンディションでそう左右されはしないこと、いいものは結局いつ聴いてもいいのをあらためて痛感したしだいだが、いずれにせよ、こうしてS氏は厳選のすえ残ったものを愛聴されている。その数はおどろくほど少ないのである。
     *
結局、五味先生は放逐されたのだろうか。
二年ほど経って、あたらめてこの方法で聴いてゆくと──、とある。
少なくとも二年間程度は手元に残されていた。

二年後に聴いても《前に追放しようとした分は保存に値にしないのを思い知ることがほとんどだった》、
ということはそのときに放逐されたのだろうか。
それとも聴かずとも、手元に残されたのだろうか。

「五味オーディオ教室」には、
《S氏に比べれば、私などまだ怠け者で聴き込みが足りない。それでも九十曲に減ったのだ》
ともある。

この九十曲以外の盤を、どうされたのかはわからない。
放逐されていたとしよう。
それでも二年間手元に置いていた点が、S氏のやり方の模倣とはいえ、違う。

この違い、いわば未練は、どこから来るのか、といえば、
デッカ・デコラとタンノイ・オートグラフから来るもの、とおもう。

音の違いというよりも、かたちの違いから来るものだろう。
もっといえばレコード収納スペースをもつデコラと、
もともとそういうスペースはない、オートグラフを中心とした五味先生のシステム。

そこだと思うのだけれど、
やはりデコラの音も深く関係してのことだとおもうのは、
五味先生はテレフンケンのS8を所有されていたからだ。