Date: 7月 28th, 2017
Cate: 「オーディオ」考
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デコラゆえの陶冶(その10)

S氏(新潮社の齋藤十一氏)のやり方を、五味先生は模倣されている。
けれどS氏のように放逐されたわけではないことは、「五味オーディオ教室」を読んでわかる。
     *
 レコードは、聴くこちらのコンディションでよし悪しが左右されることがある。私など、S氏のこの方法を模倣して排除した分も、そのまま残しておき、後日、聴きなおした。結局そうして未練ののこった盤はまたのこしておいた。二年ほど経って、あらためてこの方法で聴いてゆくと、やっぱり前に追放しようとした分は保存に値しないのを思い知るのがほとんどだったから、演奏への鑑賞能力、また曲への好みといったものは、聴くこちらのコンディションでそう左右されはしないこと、いいものは結局いつ聴いてもいいのをあらためて痛感したしだいだが、いずれにせよ、こうしてS氏は厳選のすえ残ったものを愛聴されている。その数はおどろくほど少ないのである。
     *
結局、五味先生は放逐されたのだろうか。
二年ほど経って、あたらめてこの方法で聴いてゆくと──、とある。
少なくとも二年間程度は手元に残されていた。

二年後に聴いても《前に追放しようとした分は保存に値にしないのを思い知ることがほとんどだった》、
ということはそのときに放逐されたのだろうか。
それとも聴かずとも、手元に残されたのだろうか。

「五味オーディオ教室」には、
《S氏に比べれば、私などまだ怠け者で聴き込みが足りない。それでも九十曲に減ったのだ》
ともある。

この九十曲以外の盤を、どうされたのかはわからない。
放逐されていたとしよう。
それでも二年間手元に置いていた点が、S氏のやり方の模倣とはいえ、違う。

この違い、いわば未練は、どこから来るのか、といえば、
デッカ・デコラとタンノイ・オートグラフから来るもの、とおもう。

音の違いというよりも、かたちの違いから来るものだろう。
もっといえばレコード収納スペースをもつデコラと、
もともとそういうスペースはない、オートグラフを中心とした五味先生のシステム。

そこだと思うのだけれど、
やはりデコラの音も深く関係してのことだとおもうのは、
五味先生はテレフンケンのS8を所有されていたからだ。

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