Archive for category 老い

Date: 7月 24th, 2019
Cate: 老い

老いとオーディオ(余談・その9)

グラシェラ・スサーナの歌う「抱きしめて」のオリジナルは、
フリオ・イグレシアスの“ABRAZAME”である。

フリオ・イグレシアスは作詞も手がけている。
確か西城秀樹も日本語で「抱きしめて」を歌っていた。

グラシェラ・スサーナの「抱きしめて」は、なかにし礼作詞で、
西城秀樹の「抱きしめて」は、誰なのかは忘れてしまったが、なかにし礼ではない。

なので日本語の歌詞は、微妙なニュアンスのところで少なからぬ違いがある。
グラシェラ・スサーナの「抱きしめて」の歌詞は、次のとおり。
     *
抱きしめて
何も云わずに 抱きしめて
初めて抱いた時のように この私を
抱きしめて
昨日のように 私を
今日も愛してほしいの 心こめて
     *
西城秀樹の「抱きしめて」は、
歌い出しの「抱きしめて」は同じでも、
続く歌詞はもう違っている。

グラシェラ・スサーナの「抱きしめて」は、
もう最初の「抱きしめて」にすべての情感が込められている、と感じる。
そうでなければ、続く歌詞の意味すら失せてしまう。

グラシェラ・スサーナの「抱きしめて」は、完全に女性の歌手が歌う歌詞である。
西城秀樹が、この歌詞で「抱きしめて」を歌ったら……、
あまり想像したくない。

フリオ・イグレシアスのスペイン語の歌詞の意味は知らない。
おそらく西城秀樹の「抱きしめて」のほうが、オリジナルの歌詞に近いのかもしれない。
だから、なかにし礼訳詩ではなく、なかにし礼作詞とあるのだろう。

私が聴きたいのは、なかにし礼作詞の、
そしてグラシェラ・スサーナが歌う「抱きしめて」である。

そういう歌だから、「抱きしめて」は、独りで聴きたい。

Date: 6月 9th, 2019
Cate: 老い

老いとオーディオ(brandead)

brand + ing = branding
brand + ed = branded
brand + dead = brandead

Date: 5月 11th, 2019
Cate: 老い

老いとオーディオ(なにに呼ばれているのか)

このごろ芽ばえてきた感覚として、なにかに呼ばれてきたのか、というのがある。
そんな気がするというだけであって、なにに呼ばれているのか、はっきりとしない。

それでも呼ばれていた、呼ばれてきたのだろうと思うようになっている。
それがなんなのか、おそらくわからないであろう。

ただそんな気がしている、というだけのことだ。

Date: 4月 13th, 2019
Cate: 老い

老いとオーディオ(長生きする才能)

五味先生の「私の好きな演奏家たち」からの引用だ。
     *
 近頃私は、自分の死期を想うことが多いためか、長生きする才能というものは断乎としてあると考えるようになった。早世はごく稀な天才を除いて、たったそれだけの才能だ。勿論いたずらに馬齢のみ重ね、才能の涸渇しているのもわきまえず勿体ぶる連中はどこの社会にもいるだろう。ほっとけばいい。長生きしなければ成し遂げられぬ仕事が此の世にはあることを、この歳になって私は覚っている。それは又、愚者の多すぎる世間へのもっとも痛快な勝利でありアイロニーでもあることを。生きねばならない。私のように才能乏しいものは猶更、生きのびねばならない。そう思う。
     *
《生きねばならない》、
《生きのびねばならない》とある。

長生きする才能とは、生き延びることなのか。
生き延びるとは……、と考えると、
生き残る、生き続けるの違いについて思うようになる。

生き残る才能、生き続ける才能は、同じようでいて、同じなわけではない。
二つをひっくるめての生き延びる才能なのか。

そんなことを考えていると、そういえば、生き抜くもあることに気づく。

Date: 3月 19th, 2019
Cate: 老い

老いとオーディオ(青春の一枚)

別項で、ケイト・ブッシュの“THE DREAMING”を青春の一枚だった、と書いた。
だった、と過去形で書いた。

だった、としたことを取り消そうとしたいわけではない。
“THE DREAMING”は、私にとって青春の一枚だったことは確かだ。

けれど書きながら、
3月6日のaudio wednesdayで“THE DREAMING”を聴いてきた心境を思い出してみれば、
“THE DREAMING”をこういう音で、この歳にになっても鳴らせるのか、と思っていたのは事実である。

50をすぎて枯れてしまった、枯れてきている音ではなかった。
実というと、ほかの人よりも、ほかならぬ私自身が、
“THE DREAMING”を最初の曲から聴きはじめたものの、
途中でお腹いっぱいになったように感じてしまうのではないか──、
わずかではあっても、そんな気持があった。

一曲目の“SAT IN YOUR LAP”の冒頭の、あの鞭打を思わせる音を聴いた瞬間から、
もうワクワクしていた。

“THE DREAMING”はどれだけ聴いたか、もうわからない。
“SAT IN YOUR LAP”もどれだけ聴いたろうか。

だから、もしかするともう条件反射のようなものなのかもしれない。
“SAT IN YOUR LAP”の音を聴いただけで、
“THE DREAMING”の世界に入りこめるような錯覚があるのだろうか。

一曲目の“SAT IN YOUR LAP”から二曲目の“THERE GOES A TENNER”を聴いているときには、
老いの実感なんて、その瞬間には関係なくなっていた。

最後の三曲、
“ALL THE LOVE”、“HOUDINI”、“GET OUT OF MY HOUSE”では、
どっぷりケイト・ブッシュの世界だけでなく、
“THE DREAMING”を夢中になって聴いていた、
そして少しでもいい音に、ということで夢中になっていたころとすっかり同じ心境だった。

だからこそ「青春の一枚だった」と書いてしまったのか。

Date: 3月 6th, 2019
Cate: 老い

老いとオーディオ(齢を実感するとき・その13)

シモーヌ・ヴェイユの「純粋さとは、汚れをじっとみつめる力」と、
中原中也の「汚れつちまつた悲しみに」とが、この歳になって結びつくようになった。

「汚れつちまつた悲しみに」を知ったのは、高校生だったか。
こんな表現は私にはできないな、と衝撃にちかいものを受けたが、
だからといって「汚れつちまつた悲しみに」が表現しようとしている何かを感じとっていたわけではなかった。

それでも「汚れつちまつた悲しみに」は、心に残る。

白状すれば、私は詩が苦手だ。
読むのも書くのも苦手だ。

思い出したように、なんらかの詩集を買ってきても、最後まで読み通すのがしんどい。
詩でも、それが歌詞であり、素敵なメロディがついて、情感込められた歌を聴けば、
しみじみいいなぁ、と感じても、
活字での詩を読んでも、そうはなかなかならない。

詩には苦手意識がずっとある。
いまもある。

そんな私でも「汚れつちまつた悲しみに」は、心にひっかかってきた。
何かの拍子に思いだし、言葉にすることがある。

先月も、そんな機会があった。
「汚れつちまつた悲しみに」と話していて、
そういうことなのか、と少しわかったような気がした。

わかったような気がして、中原中也はやはり天才なんだなぁ、と感心していた。

Date: 3月 2nd, 2019
Cate: 老い

老いとオーディオ(ピーター・ゼルキンのこと)

ハタチぐらいのころだから、もう四半世紀前になる。
ピーター・ゼルキンのコンサートに行った。

コンサートのチラシには、長髪の、しかも神経質そうな表情のピータ・・ゼルキンの写真が使われていた。
現代曲中心のプログラムだったようにな記憶もあるが、正直なところひどく曖昧だ。

コンサートでのピーター・ゼルキンの演奏よりも、
彼の父であるルドルフ・ゼルキンとの風貌の違いが、より印象に残った。

そのころテラークから、
ルドルフ・ゼルキンと小澤征爾によるベートーヴェンのピアノ協奏曲が出て話題になっていた。

ジャケットでのルドルフ・ゼルキンと、
コンサートでのピーター・ゼルキンが親子とは、何も知らなければそうは思わないだろう。

その後、ピーター・ゼルキンは長髪でなくなったことは知っていた。
それでもピーター・ゼルキンの録音に興味を持つことはなかった。

つい先日、たまたまピーター・ゼルキンの近影を見た。
偶然に見かけたものだっただけに、
四半世紀前の印象とあまりにも違いすぎたピーター・ゼルキンに驚くだけでなく、
父と息子は、結局歳を重ねればそっくりになっていくのか、とも感じていた。

親子だから似てくるのは当然なのだが、
それでも長髪のころの印象が強かっただけに、
そのころのピーター・ゼルキンからはいまの風貌は想像できなかった。

そうなると不思議なもので、これまでさっぱり聴いてこなかったピーター・ゼルキンを、
ルドルフ・ゼルキン(こちらもほとんど聴いていない)の演奏とともに聴きたくなってくる。

Date: 2月 8th, 2019
Cate: 老い

老いとオーディオ(齢を実感するとき・その12)

ことオーディオに限って、には、
オーディオを通して聴く音楽もふくめてのことだ。

狭く・浅いままの世界で、好きな演奏家、歌手を一流と思い込んでしまう。
時には超一流とも思い込んでしまう。

それが趣味の世界だろう、という人がいるのはわかっている。
けれど、それが本当に趣味の世界なのだろうか。
少なくとも、オーディオという趣味の世界ではない。

好きな演奏家、歌手を超一流と思い込み続けるためには、
狭く・浅い世界に囚われたままでいるしかない。

Date: 2月 8th, 2019
Cate: 老い

老いとオーディオ(齢を実感するとき・その11)

ことオーディオに限っても、若いは狭い(浅い)と、いまはいえる。
狭く・浅いからこそ、確信が持てることがある。

でも、それは狭く・浅いからこその確信であって、
その確信に囚われてしまっては、狭く・浅いままである。

狭く・浅いままの世界は、居心地がいいのかもしれない。
趣味の世界だから──、という人もいよう。

オーディオの世界に限っていえば、狭く・浅いままでいいとは私はまったく思っていない。
趣味の世界であってもだ。

そういう人は、狭く・浅いまま老いていくのか。

Date: 1月 29th, 2019
Cate: 老い

老いとオーディオ(齢を実感するとき・その10)

今日(1月29日)、ひとつ歳をとった。
56になった。

55も一の位を四捨五入すれば60になる。
それでも55と56の違いは、60という年齢をどれだけ意識するかということでは、
なってみてけっこうな違いのように感じている。

もう60がそこまで来ているようにも感じるし、
まだまだあるような気もしないわけではないが……。

14年前のことを思い出していることも関係しているのかもしれない。
川崎先生が菅野先生にたずねられたことが、よみがえってくる。
「50代をどう生きるべきですか」
そう川崎先生はきかれていた。

川崎先生(1949年生れ)と私(1963年)は14違う。
ちょうど、そのときの川崎先生と同じ年齢になっている。
厳密には川崎先生は2月生れなので、一ヵ月のズレはある。

「50代をどう生きるべきか」
14年前は、まだまだ先のことと思っていたことに、直面している。

Date: 12月 2nd, 2018
Cate: アナログディスク再生, 老い

アナログプレーヤーのセッティングの実例と老い(その2)

その1)で書いたイベントでは、プレーヤーの傾きもそうだったが、
ハウリングに関しても、ひどかった。

音楽が鳴っているときにハウリングが起っているのが、はっきりとわかるほどのひどさだった。
プレーヤーを操作している人も、ハウリングが起きているのは少しすればわかるようで、
音量を少し下げる。

こんな再生環境で、オリジナル盤が音がいい、と、
そのイベントの常連の方たちは、本気で思っているのか。
ハウリングが簡単に起ってしまうような状態で、日常的に音を聴いているのであれば、
それもまたすごいことだし、常連の方たちをみまわすと、
ハウリングが起っていることに、どうも気づいていない感じの人も数人いた。

そういう環境でも、オリジナル盤は音がいい、ということなのか。

なんにしても、イベントの準備の段階でハウリングのチェックはしなかったのか。
ターンテーブルプラッターを停止させた状態で、ディスクに針を降ろす。
そしてアンプのボリュウムをあげていく。

この、アナログプレーヤーの設置において最も基本的なチェックをしなかったのか。
10代のころ、国産の普及クラスのアナログプレーヤーを使っていたときでも、
ハウリングには十分気をつけていた。

ボリュウムが何時の位置でハウリングが起きはじめるのか。
2時の位置でも、なんとか大丈夫だった。
フルボリュウムにすれば、ハウリングを起していた。

もういまではハウリングもハウリングマージンということも忘れかけられているのだろうか。

ステレオサウンドで働くようになって、アナログプレーヤーは替っていった。
マイクロの5000番の糸ドライヴも使っていた。
このときもハウリングマージンは十分に確保していた。

次にトーレンスの101 Limited(930st)の時には、
フルボリュウムでもハウリングは起していなかった。

ハウリングを気にしながら、ボリュウム操作はしたくない。
このことも重要なことだが、
ハウリングが起きやすい状態で聴いていて、音を判断できるのか、と、
ハウリングに無頓着の人に問いたい。

Date: 8月 7th, 2018
Cate: 老い

老いとオーディオ(齢を実感するとき・その9)

28年前の8月は、今年ほどではないにしても暑かった。
8月下旬に左膝を骨折した。
夜だった。

近くの大学病院(いまニュースになっている大学)は空きがないということで、
翌朝、もう一度来てくれ、といわれた。
独り暮しの部屋に帰り、横になっても寝つけなかった。

5時ごろの日の出が待ち遠しかった。
ふたたび大学病院に行く。
系列の病院に入院しなさい、といわれた。

ほとんどそれだけのために行ったようなものだった。
また帰宅して入院の準備。
紹介された病院へと行く。もう薄暗くなっていた。

退院したのは10月なかば。
すっかり涼しくなっていた。

入院した時はTシャツと短パンだったけれど、それで退院するわけにもいかず、
友人に秋用の服を頼んだ。
水不足の夏だった。
退院のときは、水の心配をすることもなくなっていた。

一ヵ月以上の入院だと季節が変っていく。
春に入院して初夏に退院するのと、
晩夏に入院して秋に退院するのとでは、入院している者の心境は同じとはいえないだろう。

骨折でもそんなふうに感じていた。
一ヵ月、二ヵ月……、入院が長くなれば、夏の暑さは遠いものになってしまう。
冬が近づいていることを感じられていたのではなかろうか。

Date: 8月 7th, 2018
Cate: 老い

老いとオーディオ(齢を実感するとき・その8)

11月7日に、おもうことに、
8月7日に、おもうことが加わったのは、歳をとったからだ。

岡先生の文章を読んでいると、
8月7日の時点で救急車を呼んでいてもおかしくなかったように思う。
翌朝にしても、そうである。

瀬川先生は独り暮しだった。
8月7日の夜、どんなに長かったろうか、とおもう。
まんじりともせず夜が明けるのを俟たれたのではないのか。

Date: 7月 21st, 2018
Cate: 楽しみ方, 老い

オーディオの楽しみ方(天真爛漫でありたいのか……・その3)

四年前の「続・モーツァルトの言葉(その3)」で、
ネクラ重厚、ネアカ重厚、ネクラ執拗、ネアカ執拗といったことを書いた。

ネアカ重厚、ネアカ執拗で、オーディオ(音)に取り組んでいるつもりだが、
ネクラ重厚ではなく、ネクラ軽薄もあるように、
別項の「時代の軽量化」を書き始めて、思うようになった。

このネクラ軽薄が、(その2)でふれた「深刻ぶっているね」にも関係しているような気がする。

Date: 7月 10th, 2018
Cate: 老い

老いとオーディオ(余談・その8)

ウエスギ・アンプのU·BROS3とマイケルソン&オースチンのTVA1。
ふたつのKT88のプッシュプルアンプの対比というより、
グラシェラ・スサーナの「抱きしめて」では、二人の女性の対比である。

歌い出しの「抱きしめて」。
その後に続く歌詞。

一人は「抱きしめて」といいながら、
こちらとの距離をぐっと縮めてくる。
「抱きしめて」の歌詞のあとは、すぐそこにいるような錯覚すら起す。

もう一人の「抱きしめて」は、そこに込められている心情は同じであっても、
ずっと控えめだ。奥ゆかしいともいえよう。

実際にこんなシチュエーションがあったなら、
そのあとにとる行動は、男ならみな一緒であろう。

それでも控えめな「抱きしめて」のあとには、
こちらから近づいていく必要はある。

その6)で上杉先生の、ステレオサウンド 60号での発言を引用している。
ここでは、もう引用しないが、つまりはそういうことだ。
控えめな「抱きしめて」でも、そういうことである。

肝心なところは同じであり、そういう違いをTVA1とU·BROS3には感じる。
若いころならTVA1を迷うことなく選ぶ、と(その7)で書いている。

そのころから30年が経っている。
どちらの「抱きしめて」も、いい。

聴き手のこちらの心情も、いつも同じなわけではない。
TVA1の「抱きしめて」でなければならない時もある。
U·BROS3の「抱きしめて」こそ、と思うときもある。

歌っているのグラシェラ・スサーナである。
一人の歌手なのに、アンプというシステムの内面が変ることで、
「抱きしめて」も、それに続く歌詞も、
込められている心情は変らずとも表現はまるで違ってくる。

アンプの違いが、心情の違いになってしまっては困る。
なんともつまらない「抱きしめて」になってしまうアンプもある。

そんなアンプなら、「抱きしめて」を誰かと一緒であっても聴けよう。
けれど、心情をきちんと歌にのせてくれるアンプであるなら、
TVA1にしてもU·BROS3にしても、これはやはり独りで聴くしかない。

誰かと一緒でも聴ける、という人は、
「抱きしめて」に込められている心情がわかっていない。
それだけだ。