Archive for category 老い

Date: 5月 24th, 2018
Cate: 老い

老いとオーディオ(病院で感じたこと)

病院では多くの人が働いている。
大学病院と呼ばれる規模のところでは、
いったいどれだけの人が働いているのだろうか。

医師、看護師、検査技師、事務関係に就く人たちは、
病院が雇っている人たちである。

この人たちの他に、
調理・配膳、掃除、ゴミ回収、リネン関係、ヘルパー、補修関係、警備などの人たちがいる。
これらの仕事に就く人たちを、病院側は外部の業者に委託していることが多い。

病院での掃除、ゴミ回収、補修関係を引き受けている会社の人から聞いた話では、
高齢化が進んでいる、ということだった。
若い人も積極的に採用している。
18歳の人もいるけれど、ある大学病院で働いている、
その会社の人たちの平均年齢は50代後半である。

若い人がいても、その数は少なく、
70をすぎても働いている人が少なくないから、である。

若い人が集まらない、らしい。
だから高齢の人たちに頼るしかない。

この会社だけではなく、リネン関係でも同じような状況らしい。
若い人がまったくいない。
ある年齢以上の人たちしか集まらない。

リネンを請け負っている会社の人たちの平均年齢も高い、とのこと。

この人たちがいなければ、病院は機能しなくなる。
汚れ物やゴミはすぐに溜ってしまうし、
病室も汚れたままになってしまう。

通院、入院している人たちは、そういう人たちの存在にあまり気が向かない、と思う。
病気、けがを治したくて通院、入院しているだから、
医師、看護師といった人たちには注意がいっても、
そうでない人たちのことは特に意識することはなくても不思議ではない。

だから気づきにくいのかもしれない。
このまま、いまの状況が進んでいくと、どうなるんだろうか。
改善される、とは思えない。

同じようなことは、実は他の業種・業界でも起っていて、進んでいるのかもしれない。
オーディオ業界も例外ではない──、そんな気がする。

Date: 3月 5th, 2018
Cate: アナログディスク再生, 老い

アナログプレーヤーのセッティングの実例と老い

いつどこで、といったことを書くと、
その場にいた人ならば、もしかして……、と気づくかもしれないし、
それに特定の誰か何かを批判したいわけでもないから、
そういったことはすべて省くが、
とあるところで、とある日に、アナログディスクをかけるイベントがあった。

たまたま近くにいたこともあって入ってみた。
すぐ目につくところにアナログプレーヤーが置かれていた。

けれど不安定そうなテーブルの上に置かれていて、
プレーヤーから3mほど離れていても、明らかにプレーヤーが傾いているのがわかる。

なのに、かまわずアナログディスクが次々とかけられていく。
いわゆるオリジナル盤だったりするアナログディスクがかけられている。

そのイベントを主宰している人たちは、私よりも年輩の方たち。
なのに……、と思う。

こんなにいいかげんなセッティングのままで鳴らすのか、と。
セッティングのいいかげんさは、ハウリングにもあらわれていた。

アナログプレーヤーは持ち込まれたようだった。
それゆえに完璧といえるレベルでのセッティングに無理にしても、
プレーヤーの傾きぐらいはきちんとしておくべきである。

しかも不思議なのは、プレーヤーの前後方向の傾きについては、
ある方法で確かめていた。
その方法を書くと、、どこでのイベントだったのかバレそうなので書かないで、
その方法で左右方向の傾きをチェックすればいいのに……、と思う。

もっともそんな方法でチェックしなくても、目で見て傾いているのだから、
それ以前の問題なのだが。

アナログディスク復権などといわれているようだし、
そのイベントも、その一貫のひとつなのだとしたら、
なんとも哀しいアナログディスク復権である。

と同時に、これひとつの老い(劣化)なのかもしれない。

Date: 3月 4th, 2018
Cate: 老い

老いとオーディオ(齢を実感するとき・その7)

川崎先生の
《人間が「劣化」します。高齢による劣化、精神性での劣化、人格の劣化、欲望の劣化、この哀しみを存分に受け止められる人間は劣化から解放されるという幻想もあり!》は、
仏教でいうところの五濁(ごじょく)につながっていくのだろう。

 劫濁
 煩悩濁
 衆生濁
 見濁
 命濁

そうなのかもしれない。

Date: 3月 2nd, 2018
Cate: 老い

老いとオーディオ(齢を実感するとき・その6)

川崎先生が、2010年5月にTwitterに書かれていた
     *
人間が「劣化」します。高齢による劣化、精神性での劣化、人格の劣化、欲望の劣化、この哀しみを存分に受け止められる人間は劣化から解放されるという幻想もあり!
     *
誰だって毎年、歳をとっていく。
30になり、40になり、その十年後には50をこえる。
50からは60、70……とつづく。

《高齢による劣化》がおとずれる(まっている)。
にしても、老いるほどに、人はこれほどまでに違ってくるのか、とおもうことが、
私自身も50も半ばになったこともあって、増えてきた。

川崎先生は
《この哀しみを存分に受け止められる人間は劣化から解放されるという幻想もあり!》
と書かれている。

そのとおりなのかもしれない。
哀しみを存分に受け止められなかった人と、受け止められる人とがいて、
劣化から解放されない人と解放される人とがいる。

解放された人こそが、瑞々しさを得るのだろう。

つい先日も、川崎先生のこの言葉を思い出すことに出合った。
具体的なことは書かない。
何かが特定されるかもしれないことは書かない。

こんなにも人は「劣化」するのかと考え込むことがあった。
本人は、そんなことまったく思っていないのかもしれないが、
傍からみるこちらが辛くなるほどに「劣化」を感じてしまった。

本人がなにも感じてなければ、シアワセなんだろう。

Date: 12月 15th, 2017
Cate: 老い

老いとオーディオ(若さとは・その3)

むき出しの才能、
むき出しの情熱、
むき出しの感情、
これらをひとつにしたむき出しの勢いを、
audio wednesdayでの音で出しているのだろうか。

出せているのだろうか、それとも出せなくなったのか。

Date: 8月 20th, 2017
Cate: 老い

老いとオーディオ(続・死と……)

死は賜(し)であるならば、
自殺をしてはならぬわけが、ようやくわかる。

Date: 8月 20th, 2017
Cate: 老い

老いとオーディオ(死と……)

死は賜(し)なのか、とふと思う。

Date: 4月 30th, 2017
Cate: 老い

老いとオーディオ(齢を実感するとき・その5)

ポリーニは平均律クラヴィーア曲集の録音は、2008年9月、2009年2月となっている。
ポリーニは1942年1月5日生れだから、66歳、67歳の録音ということになる。

70を目の前にしてのバッハの演奏ということでは、
内田光子も、70でバッハを、とインタヴューで語っている。

内田光子は1948年12月20日生れ。
来年の12月で70になる。

ここ数年のコンサートで、断片的ではあるがバッハを弾いているのは知っていた。
自宅ではよくバッハを弾いている、とも別のインタヴューで答えている。
ピアノでバッハを弾くことは好きだし、問題ないと思っている、とも。

「考える人」2005年春号では、こんなことを語っている。
     *
 音楽にとって心と体は本当に大事。曲によっては演奏する私の体の使い方も違ってきます。ベートーヴェンのように私とは根本的に肉体の種類が違う人の曲をのめり込んで弾いていくと、私の体がどんどん変わって行くのがわかります。体が変わっていかないと、また逆に弾けない。変わったほうがましになるとは限らないんだけど、弾いているほうとしては変わっていくのは面白いです。
     *
一人の作曲家の曲をのめり込んで弾いていくことでも体は変っていくし、
齢とともに体は変る。

内田光子の、70でバッハを、にはそんなことも意味しているのだろうか。
そう遠くないうちに、内田光子のバッハは聴けるようになるであろう。

けれど人はいつ死ぬのか、わからない。
まだまだ生き続けるつもりの私だって、いつくたばるのかはわからない。
まだまだ先のことと油断していると……、となるかもしれないが、
この人の平均律クラヴィーアを私は聴きたいし、
聴けるようになるまではしっかり(しぶとく)生きのびたい。

Date: 4月 24th, 2017
Cate: 老い

老いとオーディオ(齢を実感するとき・その4)

ポリーニのバッハの平均律クラヴィーアは、もう聴くことはないだろう。
誰かのリスニングルームで聴くこと(かけられること)はあるかもしれないが、
自分のシステムでかけることはない、といえる。

ポリーニのバッハの平均律クラヴィーアにがっかりした。
がっかりするとともに、アルゲリッチはなぜ、バッハを積極的に演奏しないのか、と思う。

アルゲリッチのバッハは、ドイツ・グラモフォンから出ている。
トッカータ ハ短調BWV911、パルティータ 第二番、イギリス組曲 第二番。

ハタチになったばかりのころ聴いた。
そのあとも思い出しては、ひっぱり出して聴く。
パルティータは素晴らしい、と三十年ほど経っても、そう思う。

何に書かれていたのか、正確に思い出せないが、
五味先生はアルゲリッチ(アルヘリッチと表記されていた)の音色に、
少しばか否定的なことを書かれていた。

そういうところはあると感じても、アルゲリッチの演奏には、
他のピアニストの演奏からは感じとりにくい輝きがあって、
バッハのパルティータは、まさにそうである。

アルゲリッチのバッハを聴いた時から、
いつかはバッハをもっと録音してくれる、と信じていた。

全集の完成にはあまり関心はないようだが、それでもいつの日か……、と。
平均律クラヴィーアを残してほしい、と思い続けてきた。

可能性は少ない。
それでもポリーニの平均律クラヴィーアを聴いて、ますます切望するようになった。

アルゲリッチの平均律クラヴィーアが聴ける日は来るのだろうか。

Date: 3月 7th, 2017
Cate: 老い

老いとオーディオ(余談・その7)

グラシェラ・スサーナの「抱きしめて」を聴いたのは、中学生のころだった。
スサーナが情感をこめて「抱きしめて」と歌い出す。

この最初の「抱きしめて」を聴いて、どきりとしたことは、いまも憶えている。
とはいえ、ここでの「抱きしめて」に込められた意味を正しく理解していたとはいえない。

なにせ中学生。そんな経験はないのだから、あくまでも想像での理解にすぎなかった。
それから月日が経ち、久しぶりに聴いたスサーナの「抱きしめて」は、
自分の経験を自然とそこに重ねていて、初めて聴いたときよりも、
もっともっとどきりとした。

思い出して後悔もした。

そのスサーナの「抱きしめて」を、
マイケルソン&オースチンのTVA1は、情感たっぷりに鳴らす。

「抱きしめて」は日本語の歌であっても、歌っているグラシェラ・スサーナはアルゼンチンの人。
日本人にはない濃密さのようなものがそこにはあって、
そのことをTVA1の音は、より濃く表現してくれる。

それに対してウエスギ・アンプのU·BROS3は淡泊に鳴らす。
若いころは、そこが不満に感じた。

私は真空管アンプでプリント基板を使っているのは、基本的に認めていない。
TVA1はプリント基板を使った配線、U·BROS3はプリント基板を使わずに配線し組み立てられている。

アンプとしての信頼性の高さはU·BROS3は上といえる。
それでもスピーカーから鳴ってくる音だけで判断すれば、
グラシェラ・スサーナの「抱きしめて」だけで判断しても、
TVA1を若いころの私は、何の迷いもなく選んだ。

けれどさらに歳を重ねていき、40を越えたころからU·BROS3の表現も、TVA1の表現も、
どちらも魅力的に感じられるように変ってきたことに、
どちらの「抱きしめて」も等しく受け入れられるように変っていることに気づいたわけだ。

Date: 3月 6th, 2017
Cate: ディスク/ブック, 老い

「トリスタンとイゾルデ」(バーンスタイン盤)

本は書店で買うようにしているのに、
CDはなぜかインターネット通販で買うことが圧倒的に多い。

今日ひさしぶりに新宿にあるタワーレコードに行った。
タワーレコードは独自に、廃盤になってしまった録音を復刻しているのはご存知のとおり。

バーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」のその中に入っていたことを、
店舗に行って気づいた。

「この曲の新境地を示したバーンスタイン唯一のワーグナーのオペラ全曲盤が、国内盤で約23年振りに復活!」
と帯にある。

なぜか、ずっと廃盤のままだった。
ハイライト盤はあったけれど。

数ある「トリスタンとイゾルデ」のディスクで、屈指の名演かといえば、そうとは思っていないけれど、
このバーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」は執拗さという点で、
異質といえるのかもしれない。

この執拗さは、老いからくるものだろうか。
そうだろうと思う。
だからだろう、40をすぎたあたりから、無性に聴きたくなった。

けれど廃盤のままでかなわなかった。
発売になってすぐに買って聴いていたバーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」だったが、
当時私は20代、最後まで聴き通すことがしんどく感じられた。

二、三回にわけて全曲を聴いたが、一回で最後まで聴き通したことはなかった。
そんなこともあって、他の事情もあって、手離していた。

いまなら、最後まで聴き通せるはずである。

Date: 1月 8th, 2017
Cate: 老い

老いとオーディオ(齢を実感するとき・その3)

五味先生は、以前、こう書かれていた。
     *
 ポリーニは売れっ子のショパン弾きで、ショパンはまずまずだったし、来日リサイタルで彼の弾いたベートーヴェンをどこかの新聞批評で褒めていたのを読んだ記憶があり、それで買ったものらしいが、聴いて怒髪天を衝くイキドオリを覚えたねえ。近ごろこんなに腹の立った演奏はない。作品一一一は、いうまでもなくベートーヴェン最後のピアノ・ソナタで、もうピアノで語るべきことは語りつくした。ベートーヴェンはそういわんばかりに以後、バガテルのような小品や変奏曲しか書いていない。作品一〇六からこの一一一にいたるソナタ四曲を、バッハの平均律クラヴィーア曲が旧約聖書なら、これはまさに新約聖書だと絶賛した人がいるほどの名品。それをポリーニはまことに気障っぽく、いやらしいソナタにしている。たいがい下手くそな日本人ピアニストの作品一一一も私は聴いてきたが、このポリーニほど精神の堕落した演奏には出合ったことがない。ショパンをいかに無難に弾きこなそうと、断言する、ベートーヴェンをこんなに汚してしまうようではマウリッツォ・ポリーニは、駄目だ。こんなベートーヴェンを褒める批評家がよくいたものだ。
(「いい音いい音楽」より)
     *
「他人の褒め言葉うのみにするな」というタイトルがつけられている。

ハタチそこそこのころ、ポリーニのベートーヴェンを聴いた。
名演とは思わなかったけれど、
五味先生がここまで書かれた理由はよくわからなかった。

「ベートーヴェンをこんなに汚してしまう」とある。
こことのところが大事にもかかわらず、ここがいちばんわからなかったところでもあった。

ポリーニの演奏は、コンサートでも聴いているし、
その後出てきた録音もすべてではないが、けっこう聴いてきた。

アバドとのバルトークのピアノ協奏曲は素晴らしい、と聴いた瞬間思ったし、
いま聴いても、ポリーニの代表作といえると思う。

でもポリーニのベートーヴェンを聴くことはなかった。
そうやって三十年が経ち、バッハの平均律クラヴィーアを聴いた。

ようやくわかった、と思えた。

音が濁っていると感じて、五味先生の文章を読み返した。
そうか、汚してしまう、と五味先生は書かれていたのか。
音が濁っていては、その作品を汚している、ともいえる。

私もそう感じた──、という人はごくわずかかもしれない。
ポリーニの音が濁っているのではなく、
お前が出している音が濁っているんだろう、とか、
お前の耳が濁っている、だろう、といわれるだろうけど、
そう聴こえるということは、私にとっては大事なことである。

Date: 1月 8th, 2017
Cate: 老い

老いとオーディオ(齢を実感するとき・その2)

ポリーニのバッハの平均律クラヴィーアが出たのは、七年前のこと。
ポリーニのバッハは聴いたことがなかった。
聴いたことのある人は、七年前、どのくらいいたのだろうか。

ポリーニが、やっとバッハを弾く。
それだけで聴いてみたいと思った。
でもなぜか買いそびれてそのままだった。

12月も終り近くになって、聴く機会があった。
これがポリーニのバッハか、と思ったのはわずかのあいだだった。

聴き進むうちに気づく。
音が濁っている、と感じたのだった。

こう書いてしまうと、誤解されるのはわかっている。
ポリーニのピアノの音が濁っているわけがないじゃないか、といわれるはずだ。

技巧的に音が濁っている、と感じたのではなかった。
違う意味での、音が濁っているだったのだ。

だから聴いているうちにいらいらし始めている自分に気づく。
怒りに近いものまで感じていた。

そして思い出した。
五味先生がポリーニが弾くベートーヴェンに激怒された、と書かれていたことを。
こういうことだったのか、とひとり得心がいった。

五味先生が激怒された理由と、私が怒りを感じてきた理由が同じという保証はどこにもない。
まったく違っているかもしれない。
そう頭ではわかっていても、そう得心したとしか書きようがない。

Date: 1月 1st, 2017
Cate: 老い

老いとオーディオ(齢を実感するとき・その1)

1月生れだから、一ヵ月もしないうちにひとつ歳を重ねる。

1月には成人式という行事がある。
ハタチになれば酒も煙草も解禁になるわけだが、
ハタチになった日とその前日とでは、何が違うのかといえば、
何も違わないといえる。

24時間でどれだけ人の体が変化するかというと、ほんのわずかだろうし、
それを本人も周りの人も感じとることはできないほどのわずかな差(変化)である。

ということは誕生日ととその前日がそうであるなら、
前日と前々日にも同じことがいえるわけだ。
二日前と三日前とでは……、三日前と四日前とでは……、
こんなふうに考えていくと、何も変っていないと、いえる。
そんな屁理屈めいたことを考える。
けれど一年前とでは、はっきりと違う。

ほんのわずかな差(変化)が積み重なって、歳をとる。

どういうことで自分の齢を実感するかといえば、
いろんなことがある。

私にとって意外なことといえば、
カルロス・クライバーの実演を聴いたことがある、と話すと、
若い人から驚かれることである。

人によっては、幻のコンサートを聴いたんですか、とまでいわれる。
こちらとしては、それほど大層なことをいっているつもりはない。

チケットを取るのも、そんなに苦労したわけでもなかった。
1986年のバイエルン国立歌劇場管弦楽団の公演を二回、
1988年のスカラ座の引越公演で、「ボエーム」を聴いている。

私としては三回しか聴けなかった、という感じなのだが、
羨望の眼差とはこういうものなのか、と思えるくらいに、
羨ましがられたこともあった。

そうか、と思った。
カルロス・クライバーを聴いたことがある、ということは、私にとっては、
フルトヴェングラーをきいたことがある、という人が目の前にあらわれるのと同じことなのだ。

世代が違うから、若い人にとってはカルロス・クライバーが、
私にとってはフルトヴェングラーが、というだけのことなのだろう。

Date: 4月 11th, 2016
Cate: 老い

歳を重ねるということ(音楽を聴きついで……)

ようやく五十を過ぎた……、とおもうことがいくつもある。
そのひとつである。

五味先生の「オーディオ人生(10) ラフマニノフ 交響曲第二番」がそのひとつだ。
     *
 若い時分──私の場合でいえば中学四年生のころ──私はベートーヴェンに夢中になった。それはベートーヴェンが偉大な音楽家であると物の本や人の話で聞いていて、さて自分でその音楽を聴き、なるほどベートーヴェンというのはすごいと得心した上で、血道をあげたわけである。もし誰もがベートーヴェンなど褒めなかったら、果して、それでもベートーヴェンに私は熱中したであろうか? つまり絶讚する他者の声とかかわりなしに「気違いじみて大袈裟な音楽だ」とゲーテの眉をしかめたあの『運命』を、本当に素晴しいと私は思ったろうか、という疑問を感じる。むろん紛れもなくハ短調交響曲は傑作だから幾多の人々を感動させたので、ベートーヴェンの作品だからではない。言うまでもなく、感動はベートーヴェンの名前ではなく作品そのものにある。少々早熟な中学生の私が当時興奮して当然だったとは思う。しかし、齢五十を過ぎて今、よく十代の小悴にこの作品がわかったものだと私は自分であきれるのだ。五十をすぎて、ようやく第五交響曲に燃焼させたベートーヴェンの運命のようなものが私には見えてきたから。
 同じ《傑作》でも、チャイコフスキーの『悲愴』は今はつまらない。当時どうしてこんな曲に感激したか不思議なくらいだ。要するに若かったのだろうが、何にせよベートーヴェンの名を抜きにして当時の私のベートーヴェンへの傾倒は考えられない。つまり十代の私には、音楽作品を鑑賞する上で、あるいは夢中になるのに、或る程度の世評は必要不可欠だったのを今にして悟るのである。
 もう一つは、若気のあやまちというべき惹かれ方である。だれにもおぼえがあるだろうとおもう。メンデルスゾーンの『ヴァイオリン協奏曲』に、ドボルザークの『セロ協奏曲』に同じ時期私は聴き惚れ陶酔した。どちらも第一楽章にかぎられてはいたが、メンデルスゾーンとドボルザークはその頃の私にはベートーヴェンと同じ高さに位置する偉大な音楽家であった。敢えていえば夢中になったベートーヴェンでもそのヴァイオリン協奏曲よりラローの『スペイン交響曲』のほうが実は傑作だとひそかに思っていたのだ。シュナーベルによるベートーヴェンのピアノソナタ全集が当時出ていたが、愛聴したのは『月光』や『告別』『熱情』であって、作品一〇六や一〇九、一一〇などまるで面白くなかったことを告白する。ついでにいえば、シュナーベルの『月光』よりパデレフスキーのほうが演奏としては好きだったことを。ひどい話だが、事実である。熱中したベートーヴェンでこの態だった。『ハンマークラヴィーア』や作品一一一の真価──前人未踏ともいうべきその心境を聴き取るにはそれから二十年の歳月が(人生経験がではない)私には必要だったのである。
     *
この文章を、「オーディオ巡礼」が出た時に読んだ。
まだハタチにもなっていなかった。
五十は、遠い遠い未来のこととしかおもえなかったときに読んでいる。

《つまり十代の私には、音楽作品を鑑賞する上で、あるいは夢中になるのに、或る程度の世評は必要不可欠だったのを今にして悟るのである。》
私もそうだった。
十代の私には、まず五味先生の音楽についての文章が必要不可欠だった。
その五味先生が
《五十をすぎて、ようやく第五交響曲に燃焼させたベートーヴェンの運命のようなものが私には見えてきたから》
と書かれているし、
《『ハンマークラヴィーア』や作品一一一の真価──前人未踏ともいうべきその心境を聴き取るにはそれから二十年の歳月が(人生経験がではない)私には必要だったのである》
とも書かれているわけだ。

五十になるまで俟つしかない、と思っていた。