アナログプレーヤーのセッティングの実例と老い(その20)
アナログディスクのレーベルにヒゲをつけてもなんとも思わない、感じない人は、
どんなに高価なアナログプレーヤーを使っていても、初期盤を持っていたとしても、恥を知らない人なのだろう。
ヒゲに無頓着な人だけではない、最近のオーディオマニアにも恥を知らない人が増えてきているように感じる時がある。
アナログディスクのレーベルにヒゲをつけてもなんとも思わない、感じない人は、
どんなに高価なアナログプレーヤーを使っていても、初期盤を持っていたとしても、恥を知らない人なのだろう。
ヒゲに無頓着な人だけではない、最近のオーディオマニアにも恥を知らない人が増えてきているように感じる時がある。
レコードのレーベルにヒゲをつけるかけ方をしている人がいる、と書いた。
先日、これもソーシャルメディアで流れてきた動画でも、そうだった。
外国人男性で、かなり高価なアナログプレーヤーを使っている。
盤面に針を降ろす時は慎重に丁寧にやっているふうだけど、
その前のターンテーブルプラッターにディスクをのせる時、
無頓着にセンタースピンドルの先端で、レーベル面を擦っている。
その外国人の男性がいくつらいなのかははっきりしないが、三十代から四十代くらいに見えた。
ヒゲに関しては、世代も国の違いも関係ないようだ。ヒゲに無頓着な人は私よりも上の世代にもいるのを知っている。
ヒゲに無頓着な人が、アナログディスクの音を語る──。
今は2026年3月。
あと一年と少しで、岩崎先生が亡くなられて五十年になる。
さらに一年と九ヵ月足らずで、岩崎先生の百回目の誕生日を迎える。
没後五十年と生誕百年が、やってくる。
(その17)へのコメントがFacebookであった。
詳細は書かなかったから、高齢の方の取り扱いだと思われたようだが、実際は40代の方。
私よりも二世代若いとなると、音楽を聴き始めた頃はCDだっただろうし、
周りにアナログディスクの取り扱いの手本となる人もいなかった可能性もある。
コメントは、だから雑になってしまったのではないか──、ということだったが、
ショート動画を見るかぎり、扱いは丁寧なのだ。
だがセンタースピンドルの先端目指してすーっとレコードを置くことをやっていない。
音溝が刻まれているところだけには気を使っているのだろう。
つまりレコードのヒゲについて何も知らないからの、あの扱いなのだろう。
いま40代の人が読んできたであろうオーディオ雑誌には、レコードのヒゲについて書かれた記事はなかったように思う。
けれど、私が読んできたオーディオ雑誌にも、ヒゲについての記事はなかった。
私は「五味オーディオ教室」からスタートしているから、絶対にレコードにヒゲをつけてはならない──、
そのことが意識として常にあるけれど、他の人はどうだろうか。
ヒゲに関することは、あまり世代は関係ないように捉えているから、
丁寧に扱いながらもヒゲがつくことには無頓着な人がいることは、
オーディオの世界がいろんな意味で活発ならば、どこかで手本となる人と出会えただろうし、
注意してくれる人もいただろう。
オーディオショウでも、ヒゲについて言う人はいない。
そういうところに、オーディオの世界が老いてきているのかと、思ってしまう。
X(Twitter)に投稿されていたショート動画を見たばかり。
私が知らないだけで、ある程度有名なレコードコレクターの方が、レコードをかける動画だった。
無雑作にセンタースピンドルの先端で、レコードの中心孔周辺を擦っている。
いわゆるヒゲをつけまくるレコードのかけ方だ。
レーベルにヒゲがつこうが、音が刻まれている盤面には関係ない──、そういう感覚、認識なのだろう。
そんな人がレコードコレクターとして、そこそこ知られている。
人が、というよりもオーディオ界そのものが老いてきているような気さえする。
オーディオマニアとして齢を実感するのは、私の場合、人それぞれだ、と思うことが増えてきたことによってだ。
昔は、若かった頃は、ムキになって説明することもあった。
どうして、このことがわかってくれないのか、どうすれば理解してくれるのか──、
そこにエネルギーを費やすことがあった。
でも、ほぼ過去形になっている。
最初から諦めているわけではないが、何度か言葉を交わしていれば、わかってくる。
この人には、どれだけ言葉を尽くしても……、ということがだ。
人それぞれだから、この人には……、となる。
そういう時に、齢をとったのかなぁ、と思うわけだが、いや待てよ、と思うところもある。
相手にオーディオのことをもっと理解したいという熱があるのならば、それに応えようという気持は、まだある。
そうではなくて、要領よくやろうとしている人、横着な人、
オーディオの体系化された知識ではなく、ウワサ話的なことに興味がある人、
目の前のオーディオマニアが、そんな人たちなのかどうかが、昔よりも判別つくように、こちら側がなったということも関係していよう。
この項で以前書いていることのくり返しになるのは自覚しているが、
それでも「五味オーディオ教室」で出逢ってから、あと一年足らずで五十年となると、
「なにに呼ばれてきた」と、そのことを考えことが多くなってきた。
考えたところで、何にもわからない。
それでもなにかに呼ばれて、ここまで来たという感覚は少しずつではあるが、強くなってきている。
なにに呼ばれていたのか、
そのことがはっきりする日が来るとは思っていない。
それでも呼ばれているところには向かっているような気はしている。
今年も三ヵ月足らずで終る。
来年は2026年。
私が「五味オーディオ教室」と出逢ったのは1976年秋だったから、来年で五十年になる。
そしてステレオサウンドは1966年創刊だから、来年は創刊60周年となる。
ステレオサウンドは創刊60周年記念特集をやるだろうが、私は五十年経ったからといって、
何か特別なことやったり、起ったりもないように思う。
それでもほぼ一年前となった、この秋、あれこれおもうことはある。
audio sharingは、2000年8月16日に公開した。
今日で二十五年。
あのころは37歳だったのが、いまは62。
四半世紀経ったのだから、当然なのは頭でわかっていても、
いろいろあったなぁ、と振り返ると、
あと二十五年は、たぶん無理だろうな、と思う。
五年前は、誰かあとを引き継いでくれる人はいないだろうか、と、思っていたけれど、
いまはそういう人はいない(現れないだろう)のだから、
私がくたばったあとは、いつの間にか消滅しているはず。
それでいいと思うようになった。
音も音楽も所有できない。
私が出している音も、鳴った次の瞬間、消えてしまうのだから、それがいい。
ラジオ技術が、これからも年一冊のペースであっても発売されるのかは、わからない。
通巻989号の目次を見ていると、去年発行されるはずだった内容だとわかる。
一年遅れて発売になったわけで、
今年の春まで更新されていた組版担当の方のX(旧twitter)を読んでいた者からすると、
990号に関しては、あまり期待できない(それでも少しは期待している)。
ラジオ技術は、新しい号を出していくのもいいけれど、
過去の記事を全て電子書籍化してほしい。
オーディオ、音楽とは関係ないジャンルだが、月刊住職という月刊誌がある。
1974年に創刊されている。
この月刊住職は、五枚組のDVD-ROMがある。
創刊号から2019年の12月号までの全ページをPDFにしたものを収録している。
同じことをラジオ技術もできるはずだし、ぜひやってほしい。
ラジオ技術の最新号が発売になっている。
通巻989号であり、一年以上経っての発売。
秋葉原の万世書房で購入できるが、ラジオ技術のウェブサイトには、まだ告知されていない。
来年、990号が出るのか。
毎年一冊ずつ出て、2036年に通巻に1000号となるのか。
ステレオサウンド 234号の313ページの字詰めのひどさは、紙の本でも同じとのこと。
ステレオサウンドも、いまではDTPで制作されているはず。
今回の字詰めは、いわゆる誤植とは違う。
どんなに校正しても、なぜだか誰も気づかずに、本になってしまう誤植というものはある。
でも今回の字詰めは、どんな人が見ても、すぐにわかることだ。
これにどれも気づかないというのが、不思議でならない。
今の時代の校正は、私がいた頃とは違っているのだろうが、
それでも何回かはチェックの目が入るはずである。
一回、誰か一人が見て終りではないはずだ。
少なくとも数人、数回見ているはずと思う。
なのに、編集経験者、校正経験者でなくともすぐに見つけられる字詰めのひどさ。
だらけきっているのだろうか。
ステレオサウンド 234号をKindle Unlimitedで読んでいるところなのだが、
一点、すごく気になるところがある。
313ページ、本文上段の後ろから七行目、字詰めがひどすぎる。
これは編集者じゃなくともすぐに気がつく酷さである。
なぜ、これがそのままになってしまっているのか。
それとも、この字詰めの酷さは、Kindle Unlimitedだけのだろうか。
紙のステレオサウンドは、まともな字詰めなのか。
以前、別項で二回引用した孔子の論語が頭に浮ぶ一年でもあった。
子曰く、
吾れ十有五にして学に志ざす。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳従う。
七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。
「七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず」、
このことを思い出しながら、
なぜ、そうなれない人がいるのか、
それどころか大きく矩を踰えてしまった音を出す人がいる。
齢を重ねなければ出せない音があるのは確かだが、
どう齢をとっていったかによって、矩を踰えるかどうかが決まっていくのか。
どこでそうなっていったのか、
そういうポイントは一つでなく、幾つもあったように思うし、
その度にずれていってしまうのか。
修正することは、もう無理だったのか。
その意味で、齢を重ねてしまったがゆえに、
出せない音が生まれてしまった──、ともいえよう。
そんなことを考えさせられた一年だった。
ラジオ技術が、いよいよ終りを迎えそうである。
私の中では、終りを迎えている──、
そんな受け止め方をすでにしているが、
どうみても、復活することはないように感じている。
それもきちんとした終りではなく、振り返って、
あれが終りだったのか……、そんな感じにもなりそうである。
個人的には復活してほしい、と思っている。
まだ休刊しているわけではないから、
復活というのはおかしいだろうと指摘があるだろうが、
やはり「復活」である。