老いとオーディオ(2026年)
今年も三ヵ月足らずで終る。
来年は2026年。
私が「五味オーディオ教室」と出逢ったのは1976年秋だったから、来年で五十年になる。
そしてステレオサウンドは1966年創刊だから、来年は創刊60周年となる。
ステレオサウンドは創刊60周年記念特集をやるだろうが、私は五十年経ったからといって、
何か特別なことやったり、起ったりもないように思う。
それでもほぼ一年前となった、この秋、あれこれおもうことはある。
今年も三ヵ月足らずで終る。
来年は2026年。
私が「五味オーディオ教室」と出逢ったのは1976年秋だったから、来年で五十年になる。
そしてステレオサウンドは1966年創刊だから、来年は創刊60周年となる。
ステレオサウンドは創刊60周年記念特集をやるだろうが、私は五十年経ったからといって、
何か特別なことやったり、起ったりもないように思う。
それでもほぼ一年前となった、この秋、あれこれおもうことはある。
audio sharingは、2000年8月16日に公開した。
今日で二十五年。
あのころは37歳だったのが、いまは62。
四半世紀経ったのだから、当然なのは頭でわかっていても、
いろいろあったなぁ、と振り返ると、
あと二十五年は、たぶん無理だろうな、と思う。
五年前は、誰かあとを引き継いでくれる人はいないだろうか、と、思っていたけれど、
いまはそういう人はいない(現れないだろう)のだから、
私がくたばったあとは、いつの間にか消滅しているはず。
それでいいと思うようになった。
音も音楽も所有できない。
私が出している音も、鳴った次の瞬間、消えてしまうのだから、それがいい。
ラジオ技術が、これからも年一冊のペースであっても発売されるのかは、わからない。
通巻989号の目次を見ていると、去年発行されるはずだった内容だとわかる。
一年遅れて発売になったわけで、
今年の春まで更新されていた組版担当の方のX(旧twitter)を読んでいた者からすると、
990号に関しては、あまり期待できない(それでも少しは期待している)。
ラジオ技術は、新しい号を出していくのもいいけれど、
過去の記事を全て電子書籍化してほしい。
オーディオ、音楽とは関係ないジャンルだが、月刊住職という月刊誌がある。
1974年に創刊されている。
この月刊住職は、五枚組のDVD-ROMがある。
創刊号から2019年の12月号までの全ページをPDFにしたものを収録している。
同じことをラジオ技術もできるはずだし、ぜひやってほしい。
ラジオ技術の最新号が発売になっている。
通巻989号であり、一年以上経っての発売。
秋葉原の万世書房で購入できるが、ラジオ技術のウェブサイトには、まだ告知されていない。
来年、990号が出るのか。
毎年一冊ずつ出て、2036年に通巻に1000号となるのか。
ステレオサウンド 234号の313ページの字詰めのひどさは、紙の本でも同じとのこと。
ステレオサウンドも、いまではDTPで制作されているはず。
今回の字詰めは、いわゆる誤植とは違う。
どんなに校正しても、なぜだか誰も気づかずに、本になってしまう誤植というものはある。
でも今回の字詰めは、どんな人が見ても、すぐにわかることだ。
これにどれも気づかないというのが、不思議でならない。
今の時代の校正は、私がいた頃とは違っているのだろうが、
それでも何回かはチェックの目が入るはずである。
一回、誰か一人が見て終りではないはずだ。
少なくとも数人、数回見ているはずと思う。
なのに、編集経験者、校正経験者でなくともすぐに見つけられる字詰めのひどさ。
だらけきっているのだろうか。
ステレオサウンド 234号をKindle Unlimitedで読んでいるところなのだが、
一点、すごく気になるところがある。
313ページ、本文上段の後ろから七行目、字詰めがひどすぎる。
これは編集者じゃなくともすぐに気がつく酷さである。
なぜ、これがそのままになってしまっているのか。
それとも、この字詰めの酷さは、Kindle Unlimitedだけのだろうか。
紙のステレオサウンドは、まともな字詰めなのか。
以前、別項で二回引用した孔子の論語が頭に浮ぶ一年でもあった。
子曰く、
吾れ十有五にして学に志ざす。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳従う。
七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。
「七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず」、
このことを思い出しながら、
なぜ、そうなれない人がいるのか、
それどころか大きく矩を踰えてしまった音を出す人がいる。
齢を重ねなければ出せない音があるのは確かだが、
どう齢をとっていったかによって、矩を踰えるかどうかが決まっていくのか。
どこでそうなっていったのか、
そういうポイントは一つでなく、幾つもあったように思うし、
その度にずれていってしまうのか。
修正することは、もう無理だったのか。
その意味で、齢を重ねてしまったがゆえに、
出せない音が生まれてしまった──、ともいえよう。
そんなことを考えさせられた一年だった。
ラジオ技術が、いよいよ終りを迎えそうである。
私の中では、終りを迎えている──、
そんな受け止め方をすでにしているが、
どうみても、復活することはないように感じている。
それもきちんとした終りではなく、振り返って、
あれが終りだったのか……、そんな感じにもなりそうである。
個人的には復活してほしい、と思っている。
まだ休刊しているわけではないから、
復活というのはおかしいだろうと指摘があるだろうが、
やはり「復活」である。
ラジオ技術が出ない。
月刊誌から隔月刊誌になったものの、まともに出版されなくなった。
いまの感じだと年刊誌である。
ラジオ技術は、個人的に楽しい雑誌だけれど、
そろそろ終りが近づいているのか。
ラジオ技術のライバル誌は、無線と実験なのだが、
こちらは月刊誌から季刊誌になっている。
年12冊から4冊になったのだから、
一冊の読み応えは増すものだ、と期待していたけれど、
残念なことにそうではない。
月刊誌の内容のまま、季刊誌にになってしまったとしか思えなくて、
このまま続けていくのか──、それとも──、
そんなことを思わなくもない。
こんなことを書いているけれど、
ラジオ技術も無線と実験も休刊(廃刊)になってしまったら──、
その時のことを想像してみてほしい。
そうなった時、残ったオーディオ雑誌が、
ラジオ技術、無線と実験が担ってきた役割を引き継ぐのか。
あと二年で五味先生の「五味オーディオ教室」と出逢って五十年になる。
長いと思うだけでなく、
出逢った日のことを鮮明におもい出せるから、
あっという間だったとも感じているところもある。
なにに呼ばれてここまで来たのか、そしてどこまで行くのか。
そんなことを考えるようになってきたのは、齢をとってきたからなのか。
そうなのだろうか。
私と同じくらい、もっと長くオーディオをやってきた人は、多くいる。
その人たちは、なにに呼ばれてきたのか──、
考えてもいないし、感じてもいないのかもしれない。
いまの私の感覚では、そんなふうに感じも考えもしないことは、オーディオにおける老いではなく、
老いによる劣化なのではないだろうか。
これから、そういう劣化していく人を見ていくことになるのか。
(その1)を書いたのは2015年だから、九年前。
音の違いがわかる、ということと、音がわかる、ということは決して同じではない、
と九年前はそう思っていた。
いまになって、もう一度考えてみると、同じことだともいえる──、
そうおもうようになってきている。
音の違いがわかる、といっても、それは深い意味での音の違いではなく、
音の差にすぎないからだ。
だから前に聴いた音や聴く順番によって、音の違いがかわってしまう。
そのことをわからずに、音の違いがわかると豪語している人もいる。
つまりは音がわからなければ、本当の意味での音の違いはわからないということだ。
ステレオサウンド 228号は、
発売日のほぼ一週間後には、Kindle Unlimitedで読めるようになっていた。
モノクロページの新製品紹介の記事が、レイアウトを変更している。
見出しの扱いが、大きく変った。
おそらく本文の文字数を増やしたいのかもしれない。
にしても、思ってしまう。
見出しの存在感が稀薄になってしまっている。
横書きの見出しもあれば縦書きの見出しもあるし、文字数も違う。
どうでもいい存在になりつつある。
見出しは、ほんとうに必要なのか。
私は、一度、本文中の中見出しをすべて省いた記事を作ったことがある。
雑誌の記事から、見出しはなくならない、と思っている。
ステレオサウンドもなくそうとしているのではないはずだ。
けれど見出しの扱いが、特集と新製品紹介の記事とでは大きく違っている。
ちぐはぐさも感じる。
こういうところにも、老いがあらわれはじめている──、
とするのはこじつけだろうか。
9月4日に、ステレオサウンド オンラインで、
「アクシスが、Ayre製品の取扱を終了」という記事が公開になった。
同じ内容の記事が、Phile webでは、
「アクシス、Ayre(エアー)製品の取り扱い終了を発表」として9月1日に公開になっている。
どちらの記事も、8月31日をもって、
アクシスのAyreの取り扱いが終了になったと伝えているのだが、
この二つの記事を読み比べてほしい。
Phile webでは、
《2023年8月31日をもって輸入代理店契約が終結したため、取り扱いを終了したと説明している》
とある。
ステレオサウンド オンラインではどうか。
《輸入代理店契約の終結に伴い2023年8月31日をもって取り扱いを終了する》とある。
どう思われるだろうか。
Ayreの輸入元であったアクシスは、ステレオサウンドにも音元出版にも、
同時にこのことを知らせているはずだ。
けれどステレオサウンド オンラインは三日遅れで記事にしている。
それだけではなく、
Phile webでは、取り扱いを終了した、と過去形にしているのに対し、
ステレオサウンド オンラインでは、《取り扱いを終了する》とある。
どちらの記事も8月31日をすぎてのものだから、当然「終了した」とするのが当然のこと。
ステレオサウンド オンラインの編集部は、そのことに気づいていないようだ。
アクシスから送られてきた内容を、そのままコピー&ペーストしているのではないだろうか。
些細なことを──、と思う人もいよう。
けれど、このことはほんとうに些細なことなのだろうか。
(その21)では(その20)の続きを書くつもりだったのだが、
今回のことは、どうにもステレオサウンドという組織が老いてしまっているとしか思えないのだ。
誰にも間違いはある。
けれど、他の人は誰も気づかないのか。
気づかないことに、何も感じないのか。
今回のOTOTENだけのことではないのだが、
気になることがあった。
トーンアームのインサイドフォースキャンセラーのオモリについてだ。
SMEのトーンアームのように糸の先にオモリをつけたタイプの場合、
なにかの拍子に、このオモリが揺れてしまうことがある。
このことに無頓着な人が少なくないように、昔から感じている。
今回のOTOTENでもあった。
私が座っているところからもはっきりとわかるくらいにオモリが揺れている。
気にしないのか──、
そんなふうに眺めていた。
音に影響しないのであれば、オモリが揺れていても気にしなければいいのだが、
このタイプのインサイドフォースキャンセラーをもつトーンアームを使っている人は、
自分でオモリを意図的に揺らしてみて、その音の違いを確認してみたらいい。
4月30日、Oさんのところにうかがったときに、
映画「BLUE GIANT」が話題にのぼった。
この日、集まった五人のうち三人が観ている。
Oさんが観に行ったのは休日だったということで、
映画館は若い人が大勢いたとのこと。
平日の朝一の上映で行っている。
劇場も違うし、時間帯も違うこともあって、若い人よりも年輩の人が多かった印象だったし、
空席もけっこうあった。
なので若い人は、あまり観ていないのか──、とそんなふうに思っていただけに、
三週間前に書いている(引用している)石岡瑛子氏の発言を思い出してもいた。
Oさんは、こんなこともいわれた。
したり顔のジャズ評論家の文章よりも、「BLUE GIANT」のほうが、
若い世代の音楽の聴き手にアピールしていくはず、と。
原作となったマンガ「BLUE GIANT」はいまも連載中である。
映画「BLUE GIANT」もヒットしているようだから、二作目、三作目が制作されても不思議ではない。
したり顏のジャズ評論家の文章と「BLUE GIANT」、
どちらがラディカルなのか。