Archive for category 日本の音

Date: 6月 13th, 2022
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その41)

そういえば、ともうひとつ思い出したモデルがある。
ダイヤトーンのP610である。

ロクハン(6インチ半、16cm口径)のフルレンジユニットである。
P610と型番だけいえば済んだのはもう昔のことで、
P610といっても、何の型番が通用しなくなっていることだろう。

P610は私がオーディオに興味をもったころ、
一本2,500円していたはずだ。
特に高価なユニットではなかった。
有名すぎるユニットで、古典的なユニットともいえた。

P610の音ならば聴いている──、という人はけっこう多いはずだ。
P610は高性能のユニットではないから、無理な鳴らし方をしてまってはだいなしになるが、
何の変哲もないエンクロージュアに入れて、音量も帯域も欲張らずに鳴らせば、
どこにも無理がかかっていない音を聴かせてくれる。

エンクロージュアは密閉型ならば、16cmという大きさを無視して、
かなり容積をもたせたい。
小さいエンクロージュアに無理矢理押し込めるような使い方はしないほうがいい。

欲張れば無理をすることになるユニットだが、
どこからが無理なのか、それを見極めて鳴らせば、
いまでも、その音は、どこにも無理がかかっていない性質の音のはずだ。

古い機種ばかり挙げても──、と思う。
その39)で触れているTADのTAD-ME1は、
私が聴いた範囲では、どこにも無理がかかっていない音を響かせていた。

だから、TADも、ついに、こういう音を鳴らせるようになったのか、と驚いただけでなく、
この音ならば、ずっと聴いていたい、とも思った次第だ。

Date: 6月 12th, 2022
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その40)

アグレッシヴとまでいわれたことのある日本のスピーカーから鳴ってくる音。
その38)で引用している瀬川先生の文章も、そのことを伝えているし、
1980年代の598のスピーカーの音は、まさしくアグレッシヴだった。

それだけではない、ハイスピードを謳ったスピーカーシステムが、
一時期各社から登場していた。
ハイスピードを謳ったモノほど、そこから出てくる音はアグレッシヴであった。

その一方で、日本のスピーカーを代表する存在として、
日本の音とはっきりといえる存在として、ダイヤトーンの2S305があり、
2S305の音は、アグレッシヴからはほど遠い。

日本のスピーカーのアグレッシヴな音は、
店頭効果によって生み出されたもの──、そういう見方はたしかにできる。

でも、ほんとうにそれだけが理由なのだろうか。
日本のスピーカーシステムは、どの方向を目指していたのだろうか。

2S305の後に登場した日本のスピーカーで、
海外でも高い評価を得たのは、ヤマハのNS1000Mである。
鮮鋭な音といわれたNS1000Mである。

NS1000Mの登場と成功が、アグレッシヴな音を生み出すことにつながっていったのか。
NS1000Mの音は何度も聴いているけれど、
登場したころは、私はまだオーディオに関心をもっていなかったから、
当時のことを肌で感じているわけではない。

そのNS1000Mを、1980年代、ステレオサウンドの試聴室でじっくり聴く機会があった。
鮮鋭さを代表する音というよりも、充分に鳴らし込まれたその音は、
意外にも穏やかな面を聴かせてくれた。

日本の音、日本のスピーカーの音とは──、
について考えるときに思い出すのは、黒田先生の文章である。

ステレオサウンド 54号、スピーカーシステムの総テストで、
エスプリ(ソニー)のAPM8の試聴記に、それが出てくる。
     *
化粧しない、素顔の美しさとでもいうべきか。どこにも無理がかかっていない。それに、このスピーカーの静けさは、いったいいかなる理由によるのか。純白のキャンバスに、必要充分な色がおかれていくといった感じで、音がきこえてくる。
     *
これこそが、日本の音のはずだ。
残念なことにAPM8を聴くことはできなかった。
けれど、ダイヤトーンのDS10000は聴いている。

DS10000の音も、どこにも無理がかかっていない。

Date: 4月 21st, 2022
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その33・番外)

ロケットニュース24というサイトがある。
ニュースとついているからニュース系のサイトといえばそうなのだが、
ロケットニュース24のサイトには、
《あまり新しくないことを早く伝えたい、という気持ちだけは負けていないネットメディア》
とある。
さらに《くだらなくて、おもしろい出来事などを、8割くらいの智からでお届けします》
ともある。

このロケットニュース24が数日前に、
【ガチ】無印良品の「レトルトカレー」全53種類をすべて混ぜたらこうなった
という記事を公開している。

タイトルどおりの内容の記事である。
結果は、つまりその味は、というと、想像以上に美味しい、とのこと。

ロケットニュースは、以前、市販カレールー43種類をすべて混ぜた記事も公開している。
カレールーを一つではなく、二つほど混ぜて使う人はけっこういると思う。

一つのカレールーよりもたいていの場合、二つのカレールーを混ぜた方がおいしく仕上がる。
なのでレトルトカレーも混ぜたほうがいい結果がえられやすいとは思っていたが、
53種類というさまざなカレーを混ぜても、何の工夫もそこには要らずに美味しくなる、ということは、
なかなか興味深いことである。

この項の(その32)と(その33)で、イソダケーブルのことを取り上げている。

イソダケーブルとは、何種類かの金属線を一纏めにした構成のケーブルである。
私が聴いたのは1980年代半ばのころで、
その時のステレオサウンドの試聴室で、JBLの4344で聴いた限りでは、
芳しい結果は得られなかった。

けれど考え方としては面白い、といまでも思っている。
数種類程度ではなく、ロケットニュース24のカレーの記事のように、
もっとさらに徹底していたら、どうなっていただろうか。

Date: 9月 11th, 2019
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その39)

(その38)へのコメントが、facebookであった。

いま国産のスピーカーの代表といえるTADだが、とても攻撃的ではないか、
そう書いてあった。

ここでのTADが、現行製品のすべてを指しているのか、
それともTADのスピーカーシステムのひとつ、もしくはいくつかなのかははっきりしないし、
過去のTADのスピーカーも含めてのことなのか、そのへんははっきりとしない。

現行製品のTADのスピーカーシステムの音が攻撃的とは感じていないが、
そう感じる人がいても不思議ではない、とも思っている。

コメントをくださった方は、これまでにも何度かコメントをくださっていて、
ブリティッシュサウンドに魅了されている方のようである。

ここでのブリティッシュサウンドも、いま現在のそれではなく、
セレッションのDitton 25を気に入られていることからもわかるように、
佳き時代のブリティッシュサウンドのはずだ。

そういう方からすれば、TADは攻撃的と感じられるかもしれない、と思いつつも、
TADの小型スピーカーTAD-ME1を聴かれているのだろうか、とも思う。

オーディオショウで鳴っていたTAD-ME1を聴いて、意外だった。
これまでのTADのスピーカーの音を、どうしても先入観としてもってしまう。

そういう耳で聴いてもなお、TAD-ME1の音は、こちらを驚かせた。
TADも、ついに、こういう音を鳴らせるようになったのか、
そんなおもいだけでなく、この音ならば、ずっと聴いていたい、とも思っていた。

TAD-ME1には、それまでのTADのスピーカーの音にはなかった響きが感じられた。
響きと表現してしまうと、勘違いする人もいると思う。

スピーカーの付帯音を響きと解釈する人は、そう受けとってしまうことだろう。

それに音場感をきちんと出せれば……、という人もいるだろう。
けれど、音場感を出していても、そこに響きを感じられるかどうかは、
また別の問題であり、
ここのところは、クラシックをずっと聴いてきた聴き手ならば、
なんとなくではあっても理解してくれるだろうが、
そうでない聴き手にとっては、なかなか理解し難いことなのかもしれない。

それでも、やはりオーディオショウで初めてTAD-ME1を聴いた友人たちも、
数人だけではあるが、みな驚いていた。
いいスピーカーだ、と評価していた。

また横路にそれている、と思われるだろうが、
この「響き」をうまく出せるかどうかは、これから書いていくことに深く関係してくる。

Date: 9月 10th, 2019
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その38)

その37)で、四つのマトリクスがある、と書いた。
アクティヴな聴き手がパッシヴなスピーカーを選択、
アクティヴな聴き手がアクティヴなスピーカーを選択、
パッシヴな聴き手がアクティヴなスピーカーを選択、
パッシヴな聴き手がパッシヴなスピーカーを選択。

この四つのマトリクスが考えられる。

アクティヴに似た言葉にアグレッシヴがある。

ステレオサウンド 36号に瀬川先生の「実感的スピーカー論 現代スピーカーを展望する」が載っている。
     *
 日本のスピーカーの音には、いままで述べてきたような特色がない、と言われてきた。そこが日本のスピーカーの良さだ、という人もある。たしかに、少なくとも西欧の音楽に対してはまだ伝統というほどのものさえ持たない日本人の耳では、ただひたすら正確に音を再現するスピーカーを作ることが最も確かな道であるのかもしれない。
 けれどほんとうに、日本のスピーカーが最も無色であるのか。そして、西欧各国のスピーカーは、それぞれに特色を出そうとして、音を作っているのか……? わたくしは、そうではない、と思う。
 自分の体臭は自分には判らない。自分の家に独特の匂いがあるとは日常あまり意識していないが、他人の家を訪問すると、その家独特の匂いがそれぞれあることに気づく。だとすると、日本のスピーカーにもしも日本独特の音色があったとしても、そのことに最も気づかないのが日本人自身ではないのか?
 その通りであることを証明するためには、西欧のスピーカーを私たち日本人が聴いて特色を感じると同じように、日本のスピーカーを西欧の人間に聴かせてみるとよい。が、幸いにもわたくし自身が、三人の西欧人の意見をご紹介することができる。
 まず、ニューヨークに所在するオーディオ業界誌、〝ハイファイ・トレイド・ニュウズ〟の副社長ネルソンの話から始めよう。彼は日本にもたびたび来ているし、オーディオや音楽にも詳しい。その彼がニューヨークの事務所で次のような話をしてくれた。
「私が初めて日本の音楽(伝統音楽)を耳にしたとき、何とカン高い音色だろうかと思った。ところがその後日本のスピーカーを聴くと、どれもみな、日本の音楽と同じようにカン高く私には聴こえる。こういう音は、日本の音楽を鳴らすにはよいかもしれないが、西欧の音楽を鳴らそうとするのなら、もっと検討することが必要だと思う。」
 私たち日本人は、歌舞伎の下座の音楽や、清元、常盤津、長唄あるいは歌謡曲・艶歌の類を、別段カン高いなどとは感じないで日常耳にしているはずだ。するとネルソンの言うカン高いという感覚は、たとえば我々が支那の音楽を聴くとき感じるあのカン高い鼻にかかったような感じを指すのではないかと、わたくしには思える。
 しかし、わたくしは先にアメリカ東海岸の人間の感覚を説明した。ハイの延びた音を〝ノーマル〟と感じない彼らの耳がそう聴いたからといっても、それは日本のスピーカーを説明したことにならないのではないか──。
 そう。わたくしも、次に紹介するイギリスKEFの社長、レイモンド・クックの意見を聞くまでは、そう思いかけていた。クックもしかし、同じようなことを言うのである。
「日本のスピーカーの音をひと言でいうと、アグレッシヴ(攻撃的)だと思います。それに音のバランスから言っても、日本のスピーカー・エンジニアは、日本の伝統音楽を聴く耳でスピーカーの音を仕上げているのではないでしょうか。彼らはもっと西欧の音楽に接しないといけませんね。」
 もう一人のイギリス人、タンノイの重役であるリヴィングストンもクックと殆ど同じことを言った。
 彼らが口を揃えて同じことを言うのだから、結局これが、西欧人の耳に聴こえる日本のスピーカーの独特の音色だと認めざるをえなくなる。ご参考までにつけ加えるなら、世界各国、どこ国のどのメーカーのエンジニアとディスカッションしてみても、彼らの誰もがみな、『スピーカーが勝手な音色を作るべきではない。スピーカーの音は、できるかぎりプログラムソースに忠実であり、ナマの音をほうふつとさせる音で鳴るべきであり、我社の製品はその理想に近づきつつある……』という意味のことを言う。実際の製品の音色の多彩さを耳にすれば、まるで冗談をいっているとしか思えないほどだ。しかし、日本のスピーカーが最も無色に近いと思っているのは我々日本人だけで、西欧人の耳にはやっぱり個性の強い音色に聴こえているという事実を知れば、そして自分の匂いは自分には判らないという先の例えを思い出して頂ければ、わたくしの説明がわかって頂けるだろう。
     *
ステレオサウンドが出しているムック「良い音とは 良いスピーカーとは?」にも収められている。
興味をもった方は、ぜひ全文を読んでほしい。

36号は1975年秋号である。
40年以上前のことである。

アグレッシヴな音だったのは、そのころの日本のスピーカーだろう──、
そう思う人もいよう。
けれどその約十年後の1980年代の598のスピーカーの音も、
よほどうまく鳴らさない限りアグレッシヴであった。

そのアグレッシヴな音を、高解像度だとかハイスピードだとか、
そんなふうに勘違いしている人もいるようだが……。

Date: 12月 7th, 2017
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その37)

リヒテルが、ヤマハのピアノはパッシヴであり、受動的だから欲する音を出してくれる──、
そういう理由で選んだということは、彼自身がアクティヴなピアニストだからではないのか。

パッシヴなピアニストだったら、パッシヴなピアノではなく、
アクティヴなピアノを選択するのかもしれない。

アクティヴなピアニストといっても、みながみなリヒテルと同じわけではないから、
アクティヴなピアニストが、パッシヴなピアノをみな選ぶわけではなく、
アクティヴなピアノを選ぶことだってある。

ならばパッシヴなピアニストが、パッシヴなピアノを選ぶこともあろう。
四つのマトリクスがある、と考える。

ピアノをスピーカーと置き換える、
ピアニストを聴き手(オーディオマニア)と置き換える。

アクティヴな聴き手(オーディオマニア)は、
パッシヴなスピーカーを選ぶのか、アクティヴなスピーカーを選ぶのか。

パッシヴな聴き手(オーディオマニア)は、
パッシヴなスピーカーを選ぶのか、アクティヴなスピーカーをえらぶのか。

ここにも四つのマトリクスがある、と考えられる。

Date: 11月 19th, 2015
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(創られた「日本の心」神話・その1)

二ヵ月ほど前に、輪島裕介氏の著書《創られた「日本の心」神話》を、
audio sharing例会の常連の方から教えてもらった。

副題として、「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史、とついている。
2011年に新書大賞となった本である。

四年前の本をいま読んでいるところだ。

ステレオサウンド 56号「いま、私がいちばん妥当と思うコンポーネント組合せ法、あるいはグレードアップ法」で、
瀬川先生が《歌謡曲や演歌・艶歌》と書かれていたことが、ずっとひっかかっていた。

艶歌と書いても「えんか」と読む。
なぜ《歌謡曲や演歌》ではなく《歌謡曲や演歌・艶歌》と書かれたのか。

《創られた「日本の心」神話》の冒頭に書いてあることは、驚きだった。
     *
 確かに「演歌」は明治二〇年代に自由民権運動以降の文脈であらわれた古い言葉ですが、「歌による演説」を意味する明治・大正期演歌は、社会批判と風刺を旨とする一種の「語り芸」であり、昭和初期に成立するレコード会社によって企画された流行歌とは別物です。
     *
辞書をひくと、確かに同じことが書いてある。
瀬川先生は56号では、演歌は《歌謡曲や演歌・艶歌》のところのみで、
その後に出てくるのはすべて艶歌のほうである。

そして歌謡曲や艶歌をよく聴かせるスピーカーとしてアルテックをあげられている。
日本のスピーカーではなく、アルテックである。

そして続けて、こう書かれている。
     *
 もうひとつ別の見方がある。国産の中級スピーカーの多くは、概して、日本の歌ものによく合うという説である。私自身はその点に全面的に賛意は表し難いが、その説というのがおもしろい。
 いわゆる量販店(大型家庭電器店、大量販売店)の店頭に積み上げたスピーカーを聴きにくる人達の半数以上は、歌謡曲、艶歌、またはニューミュージックの、つまり日本の歌の愛好家が多いという。そして、スピーカーを聴きくらべるとき、その人たちが頭に浮かべるイメージは、日頃コンサートやテレビやラジオで聴き馴れた、ごひいきの歌い手の声である。そこで、店頭で鳴らされたとき、できるかぎり、テレビのスピーカーを通じて耳にしみこんだタレント歌手たちの声のイメージに近い音づくりをしたスピーカーが、よく売れる、というのである。スピーカーを作る側のある大手メーカーの責任者から直接聞いた話だから、作り話などではない。もしそうだとしたら、日本の歌を楽しむには、結局、国産のそのようなタイプのスピーカーが一番だ、ということになるのかどうか。
     *
いま別項でデンオンのSC2000を書いていた関係で、ステレオサウンド 81号を読み返している。
81号の新製品紹介のページでダイヤトーンのDS1000HRを、柳沢功力氏が記事を書かれている。

《オーディオ製品は音にお国柄が現れると言われる。》という書き出しではじまり、
日本のスピーカーのお国柄について次のように書かれている。
     *
 このお国柄を言葉にするのが難しいが、思い切って言ってしまえば、この音はとことんまで情に溺れない、高潔で毅然とした人物像にも例えられる。言動の一切にあいまいさがなく、やらねばならぬことは、けっして姑息な手段に頼らずあくまでも正攻法での解決をめざす。もちろんそのためには、それだけの努力も能力も必要であり、そうした裏付けから生まれた結果は、人に反論の余地を与えないような、ある種の説得力を持つものになっている。
 前置きが長くなったが、この日本的お国柄を代表するものがダイヤトーンの音と、僕は思っている。
     *
これには反論したいことがないわけではない。
けれど、柳沢氏の日本のお国柄をあらわす音については、あくまでも新製品紹介の前書きとしてであり、
文字数の制約もあってのことである。

日本のお国柄をあらわす音がテーマの、ある程度長い文章であれば、
もっと補足されることが出てくるであろうから、
81号の柳沢氏の文章そのものについて書くことはしない。

それに頷けるところもある。
特に81号で取り上げられているDS1000HRは、そういう音であるからだ。

では、そういうお国柄の音(DS1000HRのような音)は、
歌謡曲や演歌・艶歌をよく聴かせてくれるだろうか。

Date: 1月 23rd, 2014
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その36)

スタインウェイ、ベーゼンドルファー、そしてヤマハのピアノについて書いていることは、
あくまでも聴き手側からのことでしかすぎない。

ピアノが達者に弾けるのであれば、また違う感じも受けるのだろうが、
ピアノを弾けるだけの腕はない。

twitterにリヒテルの言葉を集めたアカウントがある。
S.Richter_botである。

そこに、こんなリヒテルの発言があった。
     *
なぜ私がヤマハを選んだか、それはヤマハがパッシヴな楽器だからだ。私の考えるとおりの音を出してくれる。普通、ピアニストはフォルテを重視して響くピアノが良いと思っているけれど、そうじゃなくて大事なのはピアニッシモだ。ヤマハは受動的だから私の欲する音を出してくれる。
     *
これはもう、ピアニストでなければできない発言である。

ヤマハのピアノはパッシヴであり、受動的だから欲する音を出してくれる──、
たしかに、ここがスタインウェイ、ベーゼンドルファーといったピアノと決定的に違うところなのだろう。

そして、同じことは、日本のオーディオ機器の中で特に優れたモノにもいえるのではないだろうか。

Date: 9月 27th, 2013
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その35)

ベーゼンドルファーがスタインウェイとは違うこと、
ヤマハのピアノとも違うこと、
それにスタインウェイのピアノとヤマハのピアノに共通するところは、
録音されたものを聴き続けていれば、自然と気がついていくことでもある。

この三つのピアノを、同じ場所に同じ時に比較して聴いた経験はない。
あくまでも録音されたもの、それにコンサートホールに脚を運んでそこで聴き得たことからの判断である。

それでも、いまははっきりとそういえるのは、
ベーゼンドルファーから出たスピーカーシステム、VC7を聴いているからである。

いまはベーゼンドルファー・ブランドからBrodmann Acousticsに変り、
残念なことに、この豊かな美しい響きをもつスピーカーシステムは輸入されなくなってしまったが、
VC7の音、というよりも響きに魅了された人ならば、
このVC7という、現代スピーカーシステムの技術的主流から見た場合に、
やや異端の構造・形式をもつ、とみえるだろうし、
実際にVC7の音は、いまのところ、他に同種の音・響きのものがあるようには思えないところももつ。

VC7というスピーカーシステムは、
ベーゼンドルファーの名前で登場したことが、その音を、だから表している、といえる。
そして、VC7の音・響きを聴けば、ベーゼンドルファーのピアノが、
スタインウェイ、ヤマハのピアノとはあきらかに違うところがはっきりと意識できるようになる。

Date: 9月 26th, 2013
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その34)

いくつものピアノのメーカーがある。

スタインウェイ、ベーゼンドルファー、ベヒシュタイン、ブリュートナー、プレイエル、ボールドウィン、
グロトリアン、ファツィオリがあり、
日本のメーカーとしてヤマハとカワイがある。

これらの中でも知名度という点では、スタインウェイ、ベーゼンドルファー、ヤマハとなるだろう。
この三つのピアノを分けるとすれば、スタインウェイとヤマハは同じグループに属し、
ベーゼンドルファーは、このふたつのピアノとは違うといえる。

これはピアノの音色のある側面からの分け方であるから、
別の側面からみればこうはならないだろうし、
私の、こ分け方に納得いかない人もいよう。

ベーゼンドルファーだけを違う、としたのは、
ピアノの音色における木のボディの役割の大きさからである。

あきらかにベーゼンドルファーのピアノの響きは、木のボディの響きを積極的に、
スタインウェイ、ヤマハよりもより比重が大きい、といえる。

スタインウェイ、ヤマハはベーゼンドルファーよりも金属フレームそのものに、
より比重においているのではないのだろうか。

ピアノのフレームは鋳物である。
それもかなり大きな鋳物である。
これだけの鋳物を製造する技術となると、一朝一夕に実現できるはずもないし、
そうとうな設備とノウハウを積み重ねてきて、はじめて実現可能といえる。

このフレームの強固さにおいては、スタインウェイとヤマハは肩を並べるのではないのか、
と、ピアノのレコードを聴いていると思うことがある。

Date: 9月 11th, 2013
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その33)

イソダケーブルの考え方のヴァリエーションとして、合金を使うという手もある。
イソダケーブルは銅線、アルミ線などといった複数の金属導体を使っている。
ただしそれらは独立した導体である。
これもブレンドのひとつの手法であるのならば、
すべての金属を混ぜてしまい合金にしてしまうというブレンド手法もあるわけだ。

合金のブレンドをどうするのか、
いったい何種類の金属をどういう比率で混ぜ合わせるのか、
そういうことを追求していくことで、
いままで銅の純度を極限まで高めていこうとしている現在のケーブルとは、
まったく違った音を聴かせてくれるのかもしれない。

同時に、まったく聴きなれない音に拒否反応を示す可能性だって考えられる。
われわれはそのくらい、ケーブルといえば銅線が、はっきりとした基準(ベース)になっているからだ。

銅の純度を上げていくことが、ケーブルの音を無色透明としていくのか、
それともいくつもの金属素材を混ぜ合わせて、
最良のブレンドを探しだすことがケーブルの音を無色透明にするのか、
どちらが正しいのかは、いまところなんともいえない。

ただピアノの音について考えるときに、
これまでに世の中に登場してきたすべてのピアノの音を混ぜ合わせたとしたら、
そこで得られる音こそが、製造メーカーによる個性を消し去ったピアノの音とは考えられないのか。

それこそが無色透明なピアノの音、
このいい方は、やはりおかしいから、無垢なピアノの音ということになるのかもしれない。

Date: 9月 10th, 2013
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その32)

イソダケーブルの音は、ステレオサウンドの試聴室で聴いている。
銅だけ、銀だけ、つまり単一導体を使用したケーブルとは、あきからに違う音が、
当時の試聴室のリファレンススピーカーだったJBLから、してきた。

不思議な音だな、という印象が、とにかく強かった。
このケーブルの開発者の磯田氏も一緒の試聴だった。

磯田氏が、このときのJBLの音をどう感じられていたのかは、私にはなんともいえないけれど、
あの時の音をふり返ってみると、
イソダケーブルのブレンドは、JBLのスピーカーシステムには不向きだった、とはいえる。

磯田氏がどういうスピーカーシステム、どういうシステムで聴かれているのか、
つまりそのシステムで、このケーブルのブレンドは決定されているわけだから、
磯田氏のシステムにぴったりとブレンドされたケーブルであればあるほど、
試聴室のスピーカーシステムに接いで聴く、という条件は、うまく合う可能性が低い方に傾いている。

つまり、この時のイソダケーブルのブレンドよりも、
もっといい方向へもっていってくれるブレンドがある、
つまり普遍的なブレンドがある、ということである。

結局、ステレオサウンドでイソダケーブルを取り上げることはなかったが、
ラジオ技術ではときどき取り上げられていて、五十嵐一郎氏は積極的に評価されていたし、
海外での評価は高い、ともきいていた。

いまどうなっているのだろう、とインターネットで検索してみると、
活動を停止していた時期があったようだが、いまもイソダケーブルは健在であることがわかった。

あのとき以来、イソダケーブルの音は聴いていない。
けれど、これだけ長く、ある評価を得ているということは、
あのときのブレンドよりも、普遍的なブレンドへと変っていったのかもしれない。

Date: 9月 10th, 2013
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その31)

たとえばコーヒー。
コーヒー豆の種類はいくつもある。
産地(生産地、集積・出荷地)によって、名前がついている、
コロムビア、キリマンジャロ、モカ、マンデリンなどである。

コーヒーを淹れるとき、豆を一種類のみ使うのか、
数種類の豆を混ぜて使う場合とかがある。

後者で淹れたコーヒーをブレンドコーヒーといい、前者で淹れたコーヒーはストレートコーヒーという。
決して前者を、ピュアコーヒーとはいわない。

オーディオ的、いまのオーディオ・ケーブル的な言い方をするならば、
一種類のコーヒー豆のみは、他のコーヒー豆が混じっていないわけだから、
豆の種類がコロムビアにしろ、モカにしろ、
コロムビア100%、モカ100%というわけだから、
それこそピュア・コロムビア、ピュア・モカといおうとすればいえるわけだ。

だがそんな言い方はせずに、ストレートという言葉が使われている。

コーヒーとオーディオのケーブルを一緒くたにはできないところはある。
けれど、銅の純度を追求して99.9999…としていくことは、
たしかにピュア(純度)を高めているわけだが、
結果としての音がピュアになるのかは、また別のことになることだって考えられる。

そういえば1983年ごろ、あるケーブルがステレオサウンドに持ち込まれたことを思い出す。
イソダケーブルという、そのケーブルは銅だけでなく、アルミやその他の金属を使った、
いわばコーヒーでいうところの、ブレンド・ケーブルだった。

Date: 9月 9th, 2013
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その30)

ピアノの音色が無色透明であるということは、いったいどういうことなのだろうか。
そういうことはありえるのだろうか。

ピアノの音色が無色透明になるとしたら、それは純度を極限まで高めていくことなのか。
とにかく、そう考えた。

純度を高めていく──。
そんなことがピアノの音色において、果して可能なのだろうか。

純度を高めていっているものとして、オーディオですぐに例として挙げられるのは、
ケーブルの素材である。
1970年代に無酸素銅が登場し、’80年代にはいり銅線の純度を高めていくことが追求されていった。
99.9%、99.99%、99.999%……と小数点以下の9の数が増えていった。

不純物を銅から取り除く。
そうやってすこしずつ銅の純度を高めていく。
99.9%の銅よりも99.99%の銅のほうが純度は高くなるわけだが、
銅の純度を高くしていくということは、音の純度を高くしていくことと、完全に一致することなのだろうか。

こんな考えもできる。
銅の純度を99.9999%(6N)、99.99999%(7N)、さらには8Nまで登場しているわけだが、
これは銅という素材のもつ音が、より強く出てくることにもなる──、
そうはいえないだろうか。

銅の純度を高くしていくということは、銅の固有の音を純殿の低いものよりも高いもののほうが、
よりストレートに出してくる──、
この可能性を否定できるだろうか。

Date: 9月 9th, 2013
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その29)

この項を書き始めると同時に考えていることがある。

ピアノの音色とは?、である。

われわれはピアノの音を聴けば、それがコンサートでの生の音であっても、
小型ラジオについている貧弱なスピーカーから流れてくる音であっても、
きちんとしたオーディオから流れてくる音であっても、ピアノの音はピアノと認識して、
ヴァイオリンや他の楽器の音は間違える人は、およそいない。

生の音もラジオの音も、オーディオの音も、
聴きようによってはずいぶん違うといえるのに、ピアノの音として聴いている、認識できる。
その一方で、スタインウェイのピアノ、ベーゼンドルファーのピアノ、ヤマハのピアノの音を区別もしている。

スタインウェイのピアノの音はヤマハのピアノからは聴けない、その逆もまた聴くことできない。
どちらもピアノという楽器と認識しているにも関わらず、にだ。
スタインウェイのピアノにはスタインウェイの、
ベーゼンドルファーにはベーゼンドルファーの、
ヤマハにはヤマハの、それぞれの独自の音色がある。

つまり、オーディオ的にこのことを捉えるならば、無色透明なピアノの音は存在しないのか、
こんなことを考えている。