Archive for category 日本の音

Date: 12月 7th, 2017
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その37)

リヒテルが、ヤマハのピアノはパッシヴであり、受動的だから欲する音を出してくれる──、
そういう理由で選んだということは、彼自身がアクティヴなピアニストだからではないのか。

パッシヴなピアニストだったら、パッシヴなピアノではなく、
アクティヴなピアノを選択するのかもしれない。

アクティヴなピアニストといっても、みながみなリヒテルと同じわけではないから、
アクティヴなピアニストが、パッシヴなピアノをみな選ぶわけではなく、
アクティヴなピアノを選ぶことだってある。

ならばパッシヴなピアニストが、パッシヴなピアノを選ぶこともあろう。
四つのマトリクスがある、と考える。

ピアノをスピーカーと置き換える、
ピアニストを聴き手(オーディオマニア)と置き換える。

アクティヴな聴き手(オーディオマニア)は、
パッシヴなスピーカーを選ぶのか、アクティヴなスピーカーを選ぶのか。

パッシヴな聴き手(オーディオマニア)は、
パッシヴなスピーカーを選ぶのか、アクティヴなスピーカーをえらぶのか。

ここにも四つのマトリクスがある、と考えられる。

Date: 11月 19th, 2015
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(創られた「日本の心」神話・その1)

二ヵ月ほど前に、輪島裕介氏の著書《創られた「日本の心」神話》を、
audio sharing例会の常連の方から教えてもらった。

副題として、「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史、とついている。
2011年に新書大賞となった本である。

四年前の本をいま読んでいるところだ。

ステレオサウンド 56号「いま、私がいちばん妥当と思うコンポーネント組合せ法、あるいはグレードアップ法」で、
瀬川先生が《歌謡曲や演歌・艶歌》と書かれていたことが、ずっとひっかかっていた。

艶歌と書いても「えんか」と読む。
なぜ《歌謡曲や演歌》ではなく《歌謡曲や演歌・艶歌》と書かれたのか。

《創られた「日本の心」神話》の冒頭に書いてあることは、驚きだった。
     *
 確かに「演歌」は明治二〇年代に自由民権運動以降の文脈であらわれた古い言葉ですが、「歌による演説」を意味する明治・大正期演歌は、社会批判と風刺を旨とする一種の「語り芸」であり、昭和初期に成立するレコード会社によって企画された流行歌とは別物です。
     *
辞書をひくを、確かに同じことが書いてある。
瀬川先生は56号では、演歌は《歌謡曲や演歌・艶歌》のところのみで、
その後に出てくるのはすべて艶歌のほうである。

そして歌謡曲や艶歌をよく聴かせるスピーカーとしてアルテックをあげられている。
日本のスピーカーではなく、アルテックである。

そして続けて、こう書かれている。
     *
 もうひとつ別の見方がある。国産の中級スピーカーの多くは、概して、日本の歌ものによく合うという説である。私自身はその点に全面的に賛意は表し難いが、その説というのがおもしろい。
 いわゆる量販店(大型家庭電器店、大量販売店)の店頭に積み上げたスピーカーを聴きにくる人達の半数以上は、歌謡曲、艶歌、またはニューミュージックの、つまり日本の歌の愛好家が多いという。そして、スピーカーを聴きくらべるとき、その人たちが頭に浮かべるイメージは、日頃コンサートやテレビやラジオで聴き馴れた、ごひいきの歌い手の声である。そこで、店頭で鳴らされたとき、できるかぎり、テレビのスピーカーを通じて耳にしみこんだタレント歌手たちの声のイメージに近い音づくりをしたスピーカーが、よく売れる、というのである。スピーカーを作る側のある大手メーカーの責任者から直接聞いた話だから、作り話などではない。もしそうだとしたら、日本の歌を楽しむには、結局、国産のそのようなタイプのスピーカーが一番だ、ということになるのかどうか。
     *
いま別項でデンオンのSC2000を書いていた関係で、ステレオサウンド 81号を読み返している。
81号の新製品紹介のページでダイヤトーンのDS1000HRを、柳沢功力氏が記事を書かれている。

《オーディオ製品は音にお国柄が現れると言われる。》という書き出しではじまり、
日本のスピーカーのお国柄について次のように書かれている。
     *
 このお国柄を言葉にするのが難しいが、思い切って言ってしまえば、この音はとことんまで情に溺れない、高潔で毅然とした人物像にも例えられる。言動の一切にあいまいさがなく、やらねばならぬことは、けっして姑息な手段に頼らずあくまでも正攻法での解決をめざす。もちろんそのためには、それだけの努力も能力も必要であり、そうした裏付けから生まれた結果は、人に反論の余地を与えないような、ある種の説得力を持つものになっている。
 前置きが長くなったが、この日本的お国柄を代表するものがダイヤトーンの音と、僕は思っている。
     *
これには反論したいことがないわけではない。
けれど、柳沢氏の日本のお国柄をあらわす音については、あくまでも新製品紹介の前書きとしてであり、
文字数の制約もあってのことである。

日本のお国柄をあらわす音がテーマの、ある程度長い文章であれば、
もっと補足されることが出てくるであろうから、
81号の柳沢氏の文章そのものについて書くことはしない。

それに頷けるところもある。
特に81号で取り上げられているDS1000HRは、そういう音であるからだ。

では、そういうお国柄の音(DS1000HRのような音)は、
歌謡曲や演歌・艶歌をよく聴かせてくれるだろうか。

Date: 1月 23rd, 2014
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その36)

スタインウェイ、ベーゼンドルファー、そしてヤマハのピアノについて書いていることは、
あくまでも聴き手側からのことでしかすぎない。

ピアノが達者に弾けるのであれば、また違う感じも受けるのだろうが、
ピアノを弾けるだけの腕はない。

twitterにリヒテルの言葉を集めたアカウントがある。
S.Richter_botである。

そこに、こんなリヒテルの発言があった。
     *
なぜ私がヤマハを選んだか、それはヤマハがパッシヴな楽器だからだ。私の考えるとおりの音を出してくれる。普通、ピアニストはフォルテを重視して響くピアノが良いと思っているけれど、そうじゃなくて大事なのはピアニッシモだ。ヤマハは受動的だから私の欲する音を出してくれる。
     *
これはもう、ピアニストでなければできない発言である。

ヤマハのピアノはパッシヴであり、受動的だから欲する音を出してくれる──、
たしかに、ここがスタインウェイ、ベーゼンドルファーといったピアノと決定的に違うところなのだろう。

そして、同じことは、日本のオーディオ機器の中で特に優れたモノにもいえるのではないだろうか。

Date: 9月 27th, 2013
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その35)

ベーゼンドルファーがスタインウェイとは違うこと、
ヤマハのピアノとも違うこと、
それにスタインウェイのピアノとヤマハのピアノに共通するところは、
録音されたものを聴き続けていれば、自然と気がついていくことでもある。

この三つのピアノを、同じ場所に同じ時に比較して聴いた経験はない。
あくまでも録音されたもの、それにコンサートホールに脚を運んでそこで聴き得たことからの判断である。

それでも、いまははっきりとそういえるのは、
ベーゼンドルファーから出たスピーカーシステム、VC7を聴いているからである。

いまはベーゼンドルファー・ブランドからBrodmann Acousticsに変り、
残念なことに、この豊かな美しい響きをもつスピーカーシステムは輸入されなくなってしまったが、
VC7の音、というよりも響きに魅了された人ならば、
このVC7という、現代スピーカーシステムの技術的主流から見た場合に、
やや異端の構造・形式をもつ、とみえるだろうし、
実際にVC7の音は、いまのところ、他に同種の音・響きのものがあるようには思えないところももつ。

VC7というスピーカーシステムは、
ベーゼンドルファーの名前で登場したことが、その音を、だから表している、といえる。
そして、VC7の音・響きを聴けば、ベーゼンドルファーのピアノが、
スタインウェイ、ヤマハのピアノとはあきらかに違うところがはっきりと意識できるようになる。

Date: 9月 26th, 2013
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その34)

いくつものピアノのメーカーがある。

スタインウェイ、ベーゼンドルファー、ベヒシュタイン、ブリュートナー、プレイエル、ボールドウィン、
グロトリアン、ファツィオリがあり、
日本のメーカーとしてヤマハとカワイがある。

これらの中でも知名度という点では、スタインウェイ、ベーゼンドルファー、ヤマハとなるだろう。
この三つのピアノを分けるとすれば、スタインウェイとヤマハは同じグループに属し、
ベーゼンドルファーは、このふたつのピアノとは違うといえる。

これはピアノの音色のある側面からの分け方であるから、
別の側面からみればこうはならないだろうし、
私の、こ分け方に納得いかない人もいよう。

ベーゼンドルファーだけを違う、としたのは、
ピアノの音色における木のボディの役割の大きさからである。

あきらかにベーゼンドルファーのピアノの響きは、木のボディの響きを積極的に、
スタインウェイ、ヤマハよりもより比重が大きい、といえる。

スタインウェイ、ヤマハはベーゼンドルファーよりも金属フレームそのものに、
より比重においているのではないのだろうか。

ピアノのフレームは鋳物である。
それもかなり大きな鋳物である。
これだけの鋳物を製造する技術となると、一朝一夕に実現できるはずもないし、
そうとうな設備とノウハウを積み重ねてきて、はじめて実現可能といえる。

このフレームの強固さにおいては、スタインウェイとヤマハは肩を並べるのではないのか、
と、ピアノのレコードを聴いていると思うことがある。

Date: 9月 11th, 2013
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その33)

イソダケーブルの考え方のヴァリエーションとして、合金を使うという手もある。
イソダケーブルは銅線、アルミ線などといった複数の金属導体を使っている。
ただしそれらは独立した導体である。
これもブレンドのひとつの手法であるのならば、
すべての金属を混ぜてしまい合金にしてしまうというブレンド手法もあるわけだ。

合金のブレンドをどうするのか、
いったい何種類の金属をどういう比率で混ぜ合わせるのか、
そういうことを追求していくことで、
いままで銅の純度を極限まで高めていこうとしている現在のケーブルとは、
まったく違った音を聴かせてくれるのかもしれない。

同時に、まったく聴きなれない音に拒否反応を示す可能性だって考えられる。
われわれはそのくらい、ケーブルといえば銅線が、はっきりとした基準(ベース)になっているからだ。

銅の純度を上げていくことが、ケーブルの音を無色透明としていくのか、
それともいくつもの金属素材を混ぜ合わせて、
最良のブレンドを探しだすことがケーブルの音を無色透明にするのか、
どちらが正しいのかは、いまところなんともいえない。

ただピアノの音について考えるときに、
これまでに世の中に登場してきたすべてのピアノの音を混ぜ合わせたとしたら、
そこで得られる音こそが、製造メーカーによる個性を消し去ったピアノの音とは考えられないのか。

それこそが無色透明なピアノの音、
このいい方は、やはりおかしいから、無垢なピアノの音ということになるのかもしれない。

Date: 9月 10th, 2013
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その32)

イソダケーブルの音は、ステレオサウンドの試聴室で聴いている。
銅だけ、銀だけ、つまり単一導体を使用したケーブルとは、あきからに違う音が、
当時の試聴室のリファレンススピーカーだったJBLから、してきた。

不思議な音だな、という印象が、とにかく強かった。
このケーブルの開発者の磯田氏も一緒の試聴だった。

磯田氏が、このときのJBLの音をどう感じられていたのかは、私にはなんともいえないけれど、
あの時の音をふり返ってみると、
イソダケーブルのブレンドは、JBLのスピーカーシステムには不向きだった、とはいえる。

磯田氏がどういうスピーカーシステム、どういうシステムで聴かれているのか、
つまりそのシステムで、このケーブルのブレンドは決定されているわけだから、
磯田氏のシステムにぴったりとブレンドされたケーブルであればあるほど、
試聴室のスピーカーシステムに接いで聴く、という条件は、うまく合う可能性が低い方に傾いている。

つまり、この時のイソダケーブルのブレンドよりも、
もっといい方向へもっていってくれるブレンドがある、
つまり普遍的なブレンドがある、ということである。

結局、ステレオサウンドでイソダケーブルを取り上げることはなかったが、
ラジオ技術ではときどき取り上げられていて、五十嵐一郎氏は積極的に評価されていたし、
海外での評価は高い、ともきいていた。

いまどうなっているのだろう、とインターネットで検索してみると、
活動を停止していた時期があったようだが、いまもイソダケーブルは健在であることがわかった。

あのとき以来、イソダケーブルの音は聴いていない。
けれど、これだけ長く、ある評価を得ているということは、
あのときのブレンドよりも、普遍的なブレンドへと変っていったのかもしれない。

Date: 9月 10th, 2013
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その31)

たとえばコーヒー。
コーヒー豆の種類はいくつもある。
産地(生産地、集積・出荷地)によって、名前がついている、
コロムビア、キリマンジャロ、モカ、マンデリンなどである。

コーヒーを淹れるとき、豆を一種類のみ使うのか、
数種類の豆を混ぜて使う場合とかがある。

後者で淹れたコーヒーをブレンドコーヒーといい、前者で淹れたコーヒーはストレートコーヒーという。
決して前者を、ピュアコーヒーとはいわない。

オーディオ的、いまのオーディオ・ケーブル的な言い方をするならば、
一種類のコーヒー豆のみは、他のコーヒー豆が混じっていないわけだから、
豆の種類がコロムビアにしろ、モカにしろ、
コロムビア100%、モカ100%というわけだから、
それこそピュア・コロムビア、ピュア・モカといおうとすればいえるわけだ。

だがそんな言い方はせずに、ストレートという言葉が使われている。

コーヒーとオーディオのケーブルを一緒くたにはできないところはある。
けれど、銅の純度を追求して99.9999…としていくことは、
たしかにピュア(純度)を高めているわけだが、
結果としての音がピュアになるのかは、また別のことになることだって考えられる。

そういえば1983年ごろ、あるケーブルがステレオサウンドに持ち込まれたことを思い出す。
イソダケーブルという、そのケーブルは銅だけでなく、アルミやその他の金属を使った、
いわばコーヒーでいうところの、ブレンド・ケーブルだった。

Date: 9月 9th, 2013
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その30)

ピアノの音色が無色透明であるということは、いったいどういうことなのだろうか。
そういうことはありえるのだろうか。

ピアノの音色が無色透明になるとしたら、それは純度を極限まで高めていくことなのか。
とにかく、そう考えた。

純度を高めていく──。
そんなことがピアノの音色において、果して可能なのだろうか。

純度を高めていっているものとして、オーディオですぐに例として挙げられるのは、
ケーブルの素材である。
1970年代に無酸素銅が登場し、’80年代にはいり銅線の純度を高めていくことが追求されていった。
99.9%、99.99%、99.999%……と小数点以下の9の数が増えていった。

不純物を銅から取り除く。
そうやってすこしずつ銅の純度を高めていく。
99.9%の銅よりも99.99%の銅のほうが純度は高くなるわけだが、
銅の純度を高くしていくということは、音の純度を高くしていくことと、完全に一致することなのだろうか。

こんな考えもできる。
銅の純度を99.9999%(6N)、99.99999%(7N)、さらには8Nまで登場しているわけだが、
これは銅という素材のもつ音が、より強く出てくることにもなる──、
そうはいえないだろうか。

銅の純度を高くしていくということは、銅の固有の音を純殿の低いものよりも高いもののほうが、
よりストレートに出してくる──、
この可能性を否定できるだろうか。

Date: 9月 9th, 2013
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その29)

この項を書き始めると同時に考えていることがある。

ピアノの音色とは?、である。

われわれはピアノの音を聴けば、それがコンサートでの生の音であっても、
小型ラジオについている貧弱なスピーカーから流れてくる音であっても、
きちんとしたオーディオから流れてくる音であっても、ピアノの音はピアノと認識して、
ヴァイオリンや他の楽器の音は間違える人は、およそいない。

生の音もラジオの音も、オーディオの音も、
聴きようによってはずいぶん違うといえるのに、ピアノの音として聴いている、認識できる。
その一方で、スタインウェイのピアノ、ベーゼンドルファーのピアノ、ヤマハのピアノの音を区別もしている。

スタインウェイのピアノの音はヤマハのピアノからは聴けない、その逆もまた聴くことできない。
どちらもピアノという楽器と認識しているにも関わらず、にだ。
スタインウェイのピアノにはスタインウェイの、
ベーゼンドルファーにはベーゼンドルファーの、
ヤマハにはヤマハの、それぞれの独自の音色がある。

つまり、オーディオ的にこのことを捉えるならば、無色透明なピアノの音は存在しないのか、
こんなことを考えている。

Date: 9月 8th, 2013
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その28)

かなり以前に、キース・ジャレット(もしかすると他のジャズ・ピアニストかもしれない)が来日した際に、
スイングジャーナルのインタヴューに、
いまいちばん欲しいモノとして、ヤマハのピアノを挙げている。

そんなのは社交辞令だろう、と思う人がいる。
私も、その記事が載ったころに読んでいれば、そう思っただろう。

でも、いまは違う。
おそらく本音での、ヤマハのピアノが欲しい、だったはずだ。

ピアノといえば、まっさきに浮ぶのはスタインウェイの存在だ。
それからベーゼンドルファーがある。
クラシックを聴く私にとっては、そんなイメージである。

ヤマハのピアノは、スタインウェイとベーゼンドルファーからすれば、
特にこれといった理由はないのだが、昔から下に位置するピアノとして捉えていた。

グールドがヤマハのCFにする以前から、
リヒテルがヤマハのピアノにしていたことは知ってはいても、
それは例外中の例外というふうに勝手に捉えていた。

ピアノという楽器としての音色の魅力ということでは、
スタインウェイ、ベーゼンドルファーのピアノは、ヤマハのピアノとは根本的に違うものがあるとは思う。
それは他に変え難い魅力でもあるから、よけいにそう感じてしまうのかもしれない。

それほど音色の魅力は大きい。

Date: 9月 7th, 2013
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その27)

グレン・グールドは、ゴールドベルグ変奏曲の再録音に使ったヤマハのピアノ、CFについてこう語っている。
「これはコンピューターにまさるとも劣らぬエレクトロニック・マシーンだ。ぼくはチップ一枚はずんでやればいい」

ヤマハのCFが、こういうピアノであったからこそ、
グールドはゴールドベルグ変奏曲の反復指定を、再録音では行った、とは考えられないだろうか。

グールドはヤマハのCFを絶賛していた。
そういうピアノであったからこそ、それまでのピアノ、
それが気に入っていたピアノであったにしても、ヤマハのCFはそれ以上であったとしたら、
それまでのピアノでは困難だった表現も容易になった。

そう考えると、もし以前のピアノが運送途中で壊されることがなかったら、
グールドはかわりとなる新しいピアノを探すことはなかっただろう。
つまりヤマハのCFと出逢うことはなかった。

ヤマハのCFは、グールドにとって、音色のコントロールが非常に容易なピアノでもあったのではないのか。

これはあくまでも私の仮説でしかないのだが、
そう考えると、再録音で反復指定の前半を行っていること──、
反復指定では音色を意図的に自由に変えることもできるピアノがあり、
その微妙な音色の変化を、すくなくともそれまで以上にはっきりと録音できるようになった──、
だからグールドは反復指定を省かなかった。

Date: 9月 6th, 2013
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その26)

菅野先生の録音として知られる「SIDE by SIDE」は、A面とB面で、録音に使っているピアノが違う。
ピエール=ロラン・エマールによる「フーガの技法」では、
ピアノの調律をピエール=ロラン・エマールが求める音色に応じて変化させてある。

この音色の違いを出すことは、「SIDE by SIDE」よりも「フーガの技法」の方が、
調律はいくつか変えてあるというものの、同じピアノであるだけに、より微妙で難しい面がある。

それはなにも再生だけがそうであるわけではなく、
録音においてもそうだったはずだ。

そして、より微妙で難しい音色の鳴らし分けは、一台のピアノで調律を途中で変えずに、
ピアニストの演奏テクニックによってのみ音色を変化させていく場合である。

グレン・グールドは、よく知られているように最初の録音、
つまりバッハのゴールドベルグ変奏曲では反復指定を大胆にも省いている。
それが晩年の再録音では反復指定の前半は行っている。

その理由は、決してひとつではないように思う。
グールドも旧録音と再録音のあいだ分だけ歳を重ねている。
そういうことによるグールド自身の変化もあっただろうが、
録音の変化・進歩があり、ピアノも違ってきていることも、無視できない理由のひとつのように思えてくる。

つまり録音に関してはモノーラルからステレオになり、機材の進歩があり、
録音方式自体もアナログからデジタルへの変化を迎えている。

このことによってテープに記録される情報量は、
旧録音と新録音とでははっきりとした違いがある。
その違いが、旧録音では捉えることができなかった(もしくは困難だった)、
グールドの演奏テクニックによる音色の変化をうまく捉えることができなかったのではないのか。

しかも、このことには録音だけではなく、ピアノそのものも大きく関係してくる。

Date: 5月 22nd, 2013
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(その25)

ある時「SIDE by SIDE」のことを話題にしたことがある。
A面のベーゼンドルファーとB面のスタインウェイの音色が、うまくその違いが出てくれるのかどうか、
そんなことを喋っていたら「そんなこと気にします?」といわれてしまった。

私は「気にする」と答え、楽器の音色の再現性は重視している。
けれど、一方にはそれほど重視しない、気にかけない聴き方をしている人もいることになる。

もうどこで読んだのか、いつごろ読んだのかも定かではないから、
細部に関しても曖昧なところがあるけれど、ある楽器演奏者がこんなことをいっていたのを憶えている。
「ぼくには絶対音感はないけれど、絶対音色感は、絶対音感を持っている人よりも高いものをもっている」と。
これだけを自信をもっていえる、とも。

昨年1月、「ピアノマニア」という映画について書いた。
この映画は全国上映はやらなかった。先月やっとDVDとして発売された。

この映画の主役はスタインウェイの調律師、シュテファン・クニュップファー。
著名なピアニストも何人か登場する。
そのなかのひとり、ピエール=ロラン・エマールの「フーガの技法」の録音が焦点となり映画は進んでいく。
ピエール=ロラン・エマールが「フーガの技法」でシュテファン・クニュップファーに要求することは、
かなり厳しいものだった。
「ピアノマニア」を観ていて、そこまで要求するのか、それに応えるのか、とおもっていたほどだ。

それがどういうものだったのかは、ぜひDVDを購入して確認していただきたいのだが、
この「ピアノマニア」から伝わってくることのひとつは、ピアノの音色に対する要求の厳しさである。
ピエール=ロラン・エマールが求めた「音色」が「フーガの技法」でどれだけ実現されているのか、
それは、ドイツ・グラモフォンから出ているCDを聴いて確認してほしい。
ピエール=ロラン・エマールが求めた「音色」はひとつではない。

「絶対音色感」というものが、録音の「場」においてだけでなく、
再生の「場」においても、非常に高いレベルで要求されているわけで、
それは「SIDE by SIDE」におけるA面とB面の、ベーゼンドルファーとスタインウェイの音色の違いよりも、
同じピアノでのことだけに、もっとシビアともいえる。

Date: 1月 24th, 2013
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(その24)

1970年代、菅野先生の録音で知られるオーディオラボから「SIDE by SIDE」というレコードが登場した。
シリーズ化された「SIDE by SIDE」は4枚出ていたと記憶している。

「SIDE by SIDE」はシリーズを通して、
A面はベーゼンドルファー、B面はスタインウェイによる演奏を録音している。
だから「SIDE by SIDE」のレコードを再生するにあたっては、
A面とB面とではピアノの音色の違いがどれだけ明瞭に出てくるのかが、大きなポイントでもある。

録音もベーゼンドルファーとスタインウェイという、ふたつのピアノの特質をよくとらえているからこそ、
その再生にあたっては、A面とB面とで、同じピアノが鳴っているように聴こえてしまっては、
再生装置による色づけが支配的ともいえなくはない。

自分にとって心地よい音が出てくれればそれでいい、という人もいる。
その気持はわかる。
オーディオが醸し出す音色には、うまくいくと実に心地よいものとなる。
ときに、その心地よい音色におぼれていたくなる(つつまれていたくなる)ことは、私にもあった。

でも、聴きたいのは最終的には音楽である。
音楽を聴く以上は、音楽を構成する音色に対して忠実でありたい。

完璧な状態で鳴らすことは、いまのところ無理なのはわかっていても、
それでもピアノはピアノらしく、ヴァイオリンはヴァイオリンらしく鳴った上で、
さらには同じピアノでもベーゼンドルファーはベーゼンドルファーらしく、
スタインウェイはスタインウェイらしく鳴ってくれなければ、私はこまる。