Archive for 8月, 2011

Date: 8月 31st, 2011
Cate: Bösendorfer/Brodmann Acoustics, VC7

Bösendorfer VC7というスピーカー(その25)

ベーゼンドルファーのVC7は、録音(演奏)された場が、どういうところなのかを、
その響きの違いでしっかりと提示してくれる。
このことは、スピーカーシステムのどういう能力と関係することなのだろうか。

木で造られた教会か石で造られた教会なのかの違いは、
マイクロフォンが収録する間接音成分によってわれわれは聴き分けている。
マイクロフォンがとらえる楽器や歌手からの直接音には、その録音(演奏)の場に関する情報は含まれていない。
そういう場の情報は、マイクロフォンにはいってくる間接音に含まれている。

だからVC7が響きへの対応の柔軟性の確かさを高く評価しているけれど、
もともとの録音に、「場」に関する音的情報が収録されていなければ、
どんなスピーカーシステムをもってこようと、聴き分けることはできない。

録音における直接音と間接音のレベル的な比率は、いったいどのくらいなのだろうか。
マイクロフォンが楽器に近ければ近いほど直接音の比率が高くなり、間接音の比率は低くなる。
楽器とマイクロフォンとの距離が離れていくほど、間接音の比率は上ってくる。
ここまでははっきりといえても、マイクロフォンの設置場所やその場の広さやつくりなどによって、
直接音と間接音のレベル的な比率はさまざまであろうから、この程度だという具体的なことはいえない。

それでも大半の録音では直接音のレベルのほうが高い。
それに間接音には1次反射だけでなく、2次反射、3次反射……とある。
反射の次数が増えていくほどレベルは低くなる。

ただ録音(演奏)の場の壁が木なのか石なのか、
そういう違いは1次反射にそれに関する情報量が多く含まれているのか、
意外に2次反射、3次反射のほうがレベル的には低くなっても、
壁の材質に関する情報は逆に増えているのかもしれない。
それともまた別の要素があって、それも絡んでのことなのだろうか……。

このへんになると不勉強ゆえ、これ以上のことはなにも書けないけれど、
響きの鳴らし分けに関しては、レベル的には低いところのスピーカーの鳴りが大いに関係しているように思えるし、
それはただ単に微小入力へのリニアリティが優れていることだけではなさそうである。

Date: 8月 31st, 2011
Cate: 組合せ

妄想組合せの楽しみ(その51)

タンノイのヨークミンスターを鳴らすためのアンプとして、ふたつのプリメインアンプを選んだ。
ひとつはユニゾンリサーチのP70であり、これをメインとした上で、
季節感という要素をいれて、もうひとつ、コードのCPM2800を選んでいる。

CPM2800はUSB入力をもち、D/Aコンバーターを内蔵している。
これでCPM2800に録音用端子(つまりREC OUT)がついていれば、
P70でヨークミンスターを鳴らしているとき、CPM2800のD/Aコンバーターのみを使えることになるのだが、
CPM2800のリアパネルをみても、出力端子はスピーカー用のみだけである。
輸入元のサイトでは、このへんが確認しづらい。
リアパネルの写真もあるのだが、拡大してもそれほど大きく表示されるわけでなく、細部が確認しにくい。
結局、CHORD本家のサイトにいって、写真と取扱い説明書を読んだ。

わかったのは、REC OUTはなく、内蔵D/Aコンバーターのみを利用するという使い方はできない、ということ。
私が、ここで考えているのがやや特殊な使い方だから、それができなくてもCPM2800が悪い、ということではない。
でも、CPM2800にかぎらず、いまのコントロールアンプ、プリメインアンプの中には、
テープ関係の入出力端子をないがしろにしているものがぽつぽつ目立つようになってきている気もする。

以前は、フォノ入力の信号を、つまりイコライジングして増幅した信号をREC OUTからとり出すことができた。
つまりそのアンプのフォノイコライザーアンプのみを音を、REC OUTがあれば聴くことができ利用できた。

USBやSPDIF端子も、その意味ではフォノ入力端子と同じであり、
内蔵D/Aコンバーターは内蔵フォノアンプと同じととらえることができるのだから、
REC OUTの復活と積極的利用が可能な構成を、メーカーに望みたい気持がある。

Date: 8月 30th, 2011
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(その36)

ケイト・ブッシュの12インチ・シングルは、厚手のディスクではなく薄手のディスクだった。
反りがまったくなかったわけではなかったが、特に問題とすることでもなかった。
なんなくトレースできて、12インチ・シングル用のリミックスをどきどきしながら聴いていた。

でもずいぶんあとになって、12インチ・シングルは、再生が難しい、という記事か記述を目にした。
12インチ・シングルの多くは薄手のディスクだから、
反りがあって、その反りによってトレースが困難になるからだ、とあった。

同じ程度の反りでも、レコードの回転数が変れば、その反りによるトレースへの影響の度合も変化する。
ゆっくりな回転数では難なくトレースできる反りでも、45回転、さらには78回転ともなれば、
アナログプレーヤーの性能が充分でなかったり、調整にどこか不備があれば、問題発生となる。

だからマーク・レヴィンソンの45回転盤、オーディオラボの「ザ・ダイアログ」の78回転盤が、
UHQRにしたのもうなずけることだ。
薄手の塩化ビニール盤で反りがあったら、78回転は実現できなかったのではないだろうか。
45回転盤ならば、マーク・レヴィンソンのレコードを購入するぐらいの人ならば、
アナログプレーヤーに不備があることはないだろうが、それでも完璧を期すマーク・レヴィンソンにとっては、
ほんのわずかな反りでも許し難かったのだろう。

レコードの回転数が増せば、33 1/3回転では無視できたことが、なにがしかの問題として浮上してくることになる。
だから、ケイト・ブッシュの45回転盤(12インチ・シングル)も、
グラシェラ・スサーナの第一家電のディスクのように、
UHQRほどではないにせよ、すこし厚手の反りの出にくい仕様であったならば、
もっといい音で聴けたはず、と思いながらも、それでも薄手のすこし反りのあったディスクでも、
12インチ・シングルの音は格別のものがあったし、12インチ・シングルの音にふれたことから、
アナログディスクはエネルギー伝送、CDは信号伝送という個人的な感覚論が、私の中に生れている。

Date: 8月 30th, 2011
Cate: ナロウレンジ

ナロウレンジ考(その5)

こんな実験をしてみたら、どうだろうか。
たとえば国産のブックシェルフ型スピーカーシステムを用意する。
ウーファーは30cm口径、スコーカー、トゥイーターはドーム型の構成だと、
カタログに掲載されている再生周波数帯域は、
低域は30Hzから40Hzのあいだ、高域はほとんどのものが20kHz以上になっている。
十分なレンジの広さを実現している、と、カタログ上の数値では、そういえる。

これらのスピーカーシステムの低域と高域をバンドパスフィルターでカットして鳴らしてみたら、
いったいどんな結果になるであろうか。
低域も高域も、40万の法則にしたがってカットするとしよう。
低域は100Hz、高域は4kHz、もしくは低域は80Hzで高域は5kHz。
どちらも低域と高域の積は40万になる。高域よりでもないし、低域よりでもない帯域幅だ。

国産の、上記のようなブックシェルフ型スピーカーシステムのクロスオーバー周波数は、
ウーファーとスコーカー間は400Hzから500Hzあたり、
スコーカーとトゥイーター間は4kHzから6kHzあたりに、たいていのものはある。
80Hzから5kHzのバンドパスフィルターを通したとしたら、
スコーカーだけでなくウーファーは確実に鳴っているし、トゥイーターも大半は鳴っている。
クロスオーバー周波数が高いものだとトゥイーターは関係ないように思われるかもしれないが、
ネットワークの遮断特性が12dB/oct.ならば、
6kHzのクロスオーバー周波数でもトゥイーターはレベルは下るものの鳴っている。

できれば、この実験は数機種用意してやりたい。
実際に、この実験をやったわけではないから、推測にしかすぎないが、
おそらく、そういう状態(つまりバンドパスフィルターを通した状態)で、聴き通せるスピーカーシステムと、
そうでないスピーカーシステムに分かれるのではないだろうか。

Date: 8月 30th, 2011
Cate: ナロウレンジ

ナロウレンジ考(その4)

アルテックの755Eの音も、ウェスターン・エレクトリックの100Fの音も、
多くの人は、高域があまり伸びていない、とまず感じ、ナロウレンジの音だと判断されることだろう。

たしかにサインウェーヴで測定するかぎり、どちらも高域は伸びていない。
けれど、ここで考えたいのは、サインウェーヴでその測定結果と聴感上のレンジ感は一致することもあれば、
そうでないこともある、ということ。

よく聞く話に、こんなことがある。
テストレコード(テストCD)、もしくは発振器を使ってサインウェーヴを聞いてみたら、
年齢のせいか、もう20kHzなんてもちろん聞こえない。15kHzも無理で、12kHzあたりがどうにかこうにかで、
聴力が衰えることは頭ではわかっていても、その結果に愕然として、
もうこれからはスーパートゥイーターなてん不要で、ナロウレンジでいい、と。

こう語られる年輩の方がおられ、
若い人の中には、高域が聞こえにくくなっている年輩者の音の評価なんて当てにならない、という者もいる。

確かに高域に関しては若いときの方がよく聞こえるけれど、それはあくまでもサインウェーヴに関してのこと。
われわれがオーディオを介して聴くのは、サインウェーヴではなく、音楽であること。
音楽の波形とサインウェーヴの波形は、似て非なるものであること。

つまりサインウェーヴの高域が聞こえなくなったから、高音域まで再生できなくてもいい、
サインウェーヴの高域が聞こえなくなった聴覚は当てにならない、
このふたつは実に短絡的で、誤解でしかない。

サインウェーヴで捉えてしまうと、こんなふうに考えてしまうのも無理もないこととはいえ、
サインウェーヴの呪縛から解放されなければ、ワイドレンジについてもナロウレンジについても、
いつまでも誤解が解消されないままになってしまう。

Date: 8月 29th, 2011
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(その35)

UHQR(Ultra High Quality Record)は、
ビクターがテスト用レコードとして考えられるかぎりの高精度を追求したディスクだった、と記憶している。

オーディオラボが78回転盤の「ザ・ダイアログ」に、
マーク・レヴィンソンが45回転のディスクに、この高精度のディスクUHQRを採用した理由のひとつは、
反りとはほぼ無縁の精度の高さを誇っていたことがある、と思う。

レコードの回転数が増せばそれだけ線速度が増す。
アナログディスクは角速度一定だから、レコード外周と内周では線速度が異ることもあって、外周の方が音がいい。
最内周では再生条件はより厳しくなり、
それだけにアナログプレーヤーの微調整はいかに最内周の音をきちんと再生できるか、がポイントになってくる。

45回転といえば、高城重躬氏が担当されているFM番組で、
ストラヴィンスキーの「春の祭典」(だったはず)を回転数を間違えて45回転で再生したのを放送してしまった、
と何かに書かれていたのを思い出す。
いつの話だったのかはもう記憶にないが、
ストラヴィンスキーの音楽(レコード)がまだ珍しい存在だったころのようで、
番組を聴いていた人からの、回転数が違っていた、という指摘はまったくなかっただけでなく、
むしろ迫力ある音が聴けて、好評だった、と(そういう内容だったと記憶している)。

それだけレコードの回転数が増すことの、オーディオ的愉悦はたしかにある。

だからグラシェラ・スサーナの45回転盤を手に入れた。
そして1985年、ケイト・ブッシュの”Hounds of Love”からは、
いくつかの12インチ・シングルが輸入盤で入ってきた。

Date: 8月 29th, 2011
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(その34)

この項の(その32)への川崎先生のコメントにあるように、
1970年代の中頃、ちょうと私がオーディオに興味を持ち始めたころ、
オーディオ誌よりもFM誌のほうに積極的に広告を出していた「第一家電」が、気になっていた。

カートリッジの販売に積極的だった販売店で、
カートリッジ専門の量販店と表現したくなるようなところがあった。
カートリッジをひとつだけ買うよりも、
ふたつ買った方が、さらにはみっつ買った方が、よりお得という売り方だった、と記憶している。

さらに会員になれば、第一家電が東芝EMIと協力して制作していたLPは、45回転の重量盤だった。
そのラインナップのなかに、グラシェラ・スサーナのアルバムがあるのを見つけて、
東京に住むようになったら、
まっさきに、このグラシェラ・スサーナのアナログディスクを手に入れる、と思いつづけていた。

45回転盤なので、片面に4曲。
通常のグラシェラ・スサーナのLP(33 1/3回転盤)は、片面5曲か6曲、収録されていた。

グラシェラ・スサーナ以外に、どんなものがラインナップされていたのか、じつはまったく憶えていない。
私にとっては、とにかくグラシェラ・スサーナのレコードを少しでもいい音で聴きたい、
そのためには33 1/3回転盤よりも45回転盤で聴きたい、
アナログディスクの回転数は音に直接関係してくる。
あのマーク・レヴィンソンも45回転盤を出していた、
さらに菅野先生主宰のオーディオラボからは「ザ・ダイアログ」の78回転盤も登場していた。

マーク・レヴィンソンのディスクも、オーディオラボの78回転も、ビクターが開発したUHQR盤だった。

Date: 8月 28th, 2011
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(その33)

すこし具体的に書けば、927Dstのイメージは大型の電源トランス(それも低磁束密度のコア採用)に、
容量も十分過ぎる平滑コンデンサーの組合せ、しかもチョークコイルも、チョークインプット方式で使っている、
電源の余裕度は、必要とされるエネルギー量の数倍、これまた十分にとってある。
あえて言葉で表現すると、こんなふうになる。

Anna Logはバッテリー電源のイメージなので、
商用電源を整流・平滑しての一般的な電源ほど贅沢な余裕度を確保するのは、やや厳しいところがある。
そのかわり出力インピーダンスは十分に低く、なによりもノイズが商用電源に頼る電源部と違い、
格段に少ない、というメリットがある。

なかばこじつけ的な印象を書いているが、
それでもこういうことを思わせる違いが、927DstとAnna Logの違いとしてあり、
それがこのふたつのプレーヤーの音の性格の違い──動と静──となっている。
そして、どちらも優秀な電源であり、それぞれに特徴があり、
私のなかには、どちらが理想の電源に近いのかという比較の対象ではない。

あくまではこれは、どこまでいっても個人的な感覚論にしかすぎない。
そして、その個人的な感覚論からいえば、
私にとってアナログディスクはエネルギー伝送、CDは信号伝送、というイメージへとつながっている。

Date: 8月 28th, 2011
Cate: アナログディスク再生
2 msgs

私にとってアナログディスク再生とは(その32)

カートリッジの、カンチレバーの先端にダイアモンドの針先がついている。
この針先がレコードの音溝をトレースして電気信号に変換していく。
このダイアモンドの針先の動きは上下左右だけでなく、
ステレオディスクが45/45方式でカッティングされているため、あらゆる方向へと音溝によって動かされる。
その動きの幅も音溝の振幅によって左右されるから針先が音溝から飛び跳ねる寸前まで動かされることもあれば、
ほとんど静止しているかのようなときもある。

このダイアモンドの針先の動きを、レコード片面の再生中撮影して、
光の線でその軌跡を拡大して表示したら、ダイアモンドが舞っているかのようにみえるのかもしれない。

ダイアモンドの針先がそういうふうに舞うことができるのは、
レコードが回転しているから、である。
レコードが回転を止めてしまったら、
どんなに優秀なカートリッジといえども、ダイアモンドの針先も舞うことを止めてしまう。

つまりレコードの回転(ようするにターンテーブル・プラッターの回転)がエネルギー源となっていて、
レコードの音溝とカートリッジが、音声信号へと変調している、ともいえる。
アンプもそうだ。
アンプ部にDC(直流)で供給される電源を、入力信号に応じて変調し、
外側から見るとそも入力信号を増幅して出力信号として送り出しているようにうつるのと同じことで、
アンプが電源部の回路・規模をふくめたクォリティによって音が変化するように、
アナログプレーヤーも、ターンテーブル・プラッターの回転が、いわばアンプにおける電源部にあたることになる。

この視点から、EMTの927dstとノッティンガムアナログスタジオのAnna Logを比較すると、
927Dstは交流を整流して直流にする電源、Anna Logはそうではなくてバッテリーにたとえられるのではないか。

Date: 8月 27th, 2011
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(その31)

ノッティンガムアナログスタジオのAnna LogにとりつけたオルトフォンSPU Classicのリードインの音は、
おそらくボッとかブッといった濁音がイメージされる音ではなく、かといってポッやプッでもないような気がする。
もっと静かな感じで、尾をひかない。だからポッではなくてポ、だったり、プッではなくプ、かもしれないし、
ほんとうに調整を追い込めば、半濁音も消え去ってしまうかもしれない。
もしくはフッと吹いたその息で、火をふき消すようにノイズを消し去ってしまうかのような感じかもしれない。

実際に音を聴かないと確実なことはいえないのがオーディオであることは重々承知のうえで、
それでもAnna Logでのリードインの音は、尾をひかないことだけはいえるはずだ。
このことが、消極的な音の表現になってしまっていては、Anna Logに魅力は感じない。

けれど井上先生の評価を読むと、そうでないことははっきりとわかる。
「SN比の高さは格段の印象」と書かれ、さらに「静か」という表現をくり返されている。
それでいて「確実に音溝を拾い」ながら「内容の濃い音を聴かせる」とある。
アナログディスクらしい、手応えの感じられる音が、Anna Logからは得られるはずだ。

Anna Logは静かだが、けっして薄っぺらな音につながる静けさではなく、
ストレスフリーへとつながっていく静けさをもつ。

こういう音を聴かせてくれるアナログプレーヤーが、Anna Log以前にあっただろうか。

暗く沈んだ印象の音を聴かせるプレイヤーはいくつもあった。
私がアナログディスク再生に求めたいヴィヴィッドな感じが見事にスポイルしてくれるプレーヤーは、
いくつかも聴いてきた。その中には非常に高価なプレーヤーもあった。
そんなアナログプレーヤーを、新世代のアナログプレーヤーともて囃す人たちもいるのは知っているが、
アナログディスク再生における「静けさ」と「暗い音」「沈んだ音」は同じではない。

音の傾向としては動と静という対極の性格をもちながらも、
EMTの927Dst(930st)同様、音楽をヴィヴィッドに甦らせることに関しては共通するものがある、というよりも、
まったく同じなのかもしれない、と井上先生の書かれたAnna Logの記事を読みながら、そう思った。

生れた国(ドイツとイギリス)の違い、開発年代の違い(半世紀ほど離れている)、
使用目的の違い(プロ用とコンシューマー用)などから、
見た目も構造も使い勝手も大きく異る927DstとAnna Logではあるが、
アナログディスク再生のもっとも大事なことは、どちらもしっかりとおさえている。

Date: 8月 27th, 2011
Cate: ナロウレンジ

ナロウレンジ考(その3)

アルテックの755Eを、そんな鳴らし方を、ときどき楽しんでいたときに、
ステレオサウンドの取材で出合ったのがウェスターン・エレクトリックの100Fである。
裏板の銘板には、LOUD SPEAKER SET、とあるとおり、アンプ内蔵の、いわゆるパワードスピーカーだ。

100Fは、電話交換手のモニター用としてつくられたもの、ときいている。
見た目は古めかしい。
最初見た時は、こんなものもウェスターン・エレクトリックか……と思ったぐらいだから、正直、あなどっていた。

記憶に間違いがなければ、たしかBGMを鳴らすときに100Fを使われた。
だから音量は小さめ、電話交換手のモニター用だから、
人の声(会話)が明瞭に聞こえることを目的として開発されたものだろうから、ワイドレンジではない。
せいぜい上は4〜5kHzぐらいまでか。下は100Hzぐらいであろう。
内蔵アンプも、電源トランスを排除しコストを抑えた設計・構造。
それなのに、耳(というよりも意識)は、100Fの方を向いていた。

聴いているうちに、無性に欲しくなった。
これも、やはりウェスターン・エレクトリックだな、とさきほどまでと正反対のことを思っていた。

100Fは、当時よりもいまの方が入手しやすくなったと思う。
あるところに訊いてみたところ、1台10万円だった。それもそんなに程度がいいとは思えない100Fだった。
しかも、私はステレオで鳴らしてみたい、などと思っていたから、
いくらアンプ内蔵とはいえ、20万円かかるだけでなく、すぐにはペアでは揃わない、ともいわれた。
まだ20、21歳くらいのときで、そんな余裕はなかった。

そのあとも何度か100Fを聴く機会はあった。
それでもステレオで聴いたことは、まだない。
いまでは、もうモノーラルでいいじゃないか、とも思っている。
100Fをステレオで鳴らしてみたい、という気持、あのころほどではなく薄れている。
とはいえ、100Fは、私が聴いていた音のなかで、もっともナロウレンジらしいナロウレンジの音かもしれない。

Date: 8月 26th, 2011
Cate: ナロウレンジ

ナロウレンジ考(その2)

以前、アルテックの755Eを持っていた。
鳴らしていた、ではなく、持っていた、と書くのは、普段はダンボール箱の中にしまったままで、
ときどき思い出して引っぱり出してきて、鳴らす。

そういう使い方だから、755Eのために平面バッフルやエンクロージュアを用意していたわけではない。
梱包用のダンボール箱から出した755Eを床に置く。
つまりユニット前面が天井を向くようになるわけだ。
それでダンボール箱となかに入っていたダンボール紙を利用して、755Eを床から少し浮す。
床をバッフルみたいにして使う、しかもユニットは上向きだから、無指向性的使い方でもある。

755Eを使いこなしている方からみれば、なんといいかげんな、と怒られてしまいそうな鳴らし方なのだが、
意外にも、いい感じで鳴ってくれた。

低音も高音も出ていない。典型的なフルレンジ一発のナロウレンジの音なのだが、
それほど編成の大きくない録音を鳴らすと、中央に歌手が意外にも立体的に定位する。
さすがアルテックだな、声がいい感じ鳴ってくれる、と聴き惚れるぐらいの音が、
鳴らす音楽を選びさえすれば、そう思える音が鳴ってくれる。

ナロウだなぁ、と感じるのは聴きはじめのわずかのあいだだけで、
すぐに耳がなれてしまうのか、ナロウレンジであることはさほど気にならなくなる。
そうなってくると、マルチウェイのスピーカーシステムでは鳴らしにくいところを、
すんなり出してくれていることに気がつく。
もちろんマルチウェイのスピーカーシステムが苦手とするところすべてを、
フルレンジ一発のシステムがうまく鳴らすわけではないが、
フルレンジのナロウな音に耳がなれてくると、
意外にも楽器固有の音色の描き分けに関してはフルレンジの方が優っていることが多いのでは……と思えてくる。
楽器の音色だけではない、人の声、歌い手による声質の違いに関しても、
フルレンジのほうが素直に出してくる、というか、聴き分けやすいところがあることに気づく。

Date: 8月 26th, 2011
Cate: ナロウレンジ

ナロウレンジ考(その1)

私は、ワイドレンジを志向している。
でも、ずっとそうだったわけではなく、むしろ20代前半のころは、ナロウレンジ志向とまではいえなくても、
ワイドレンジを志向していたわけではないこともあった。

ナロウレンジのよさ、というよりも、フルレンジのスピーカーユニットによるよさを積極的に認めていた、
と言いなおした方が、より正確かもしれない。

ワイドレンジを志向する以上、スピーカーシステムはマルチウェイに必然的になっていく。
それは周波数レンジの拡大だけでなく、別項の「ワイドレンジ考」で述べているように、
ダイナミックレンジ、指向特性の拡大など、すべての意味でワイドレンジであるためには、
いまのところ、どんなに優秀なフルレンジのスピーカーユニットが登場したところで、無理なことだ。

ワイドレンジ実現のために、スピーカーユニットを組み合わせてスピーカーシステムとしてまとめていく。
時間をかけて入念に仕上げていけば、かなり満足のいくワイドレンジ再生が可能になるであろう。

そういうシステムがひとまずうまくまとまったときに、フルレンジユニットを、
平面バッフル(もともと周波数レンジが広いわけではないので、大きなサイズはいらない)か、
余裕をもった内容積のエンクロージュアにとりつけて鳴らしたときの良さは、
精魂込めてまめてあげてきたワイドレンジのスピーカーシステムが、
どうしても出せない音(良さ)をもっていることに気づくことがある。

その良さは、フルレンジユニットだから鳴らせるのか、それとも適度にナロウレンジだから鳴らせるのか、
はたまたそのふたつの要因がうまく作用してことなのか。
とにかくフルレンジ一発のスピーカーしか出せない良さが、まだある、といえる。

日頃、ワイドレンジの音に馴れ親しんでいると、ナロウレンジの音をたまに耳にすると、
「ナロウだなぁ」と感じる。
それでも良質のフルレンジユニットによる、良質のナロウレンジの音であるならば、
すぐに耳のピントは、そのナロウレンジの音に合い、「ナロウだなぁ」と感じたのはほんの一瞬のことにしかすぎず、
すっかり、そのナロウなフルレンジの音を楽しんでいる自分がいることになる。

Date: 8月 25th, 2011
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェン(動的平衡・その4)

グレン・グールドの、この言葉も、長いスパンでの動的平衡を語っている、と私は感じている。
     *
芸術の目的は、神経を昂奮させるアドレナリンを瞬間的に射出させることではなく、むしろ、少しずつ、一生をかけて、わくわくする驚きと落ち着いた静けさの心的状態を構築していくことである。われわれはたったひとりでも聴くことができる。ラジオや蓄音機の働きを借りて、まったく急速に、美的ナルシシズム(わたしはこの言葉をそのもっとも積極的な意味で使っている)の諸要素を評価するようになってきているし、ひとりひとりが深く思いをめぐらせつつ自分自身の神性を創造するという課題に目覚めてもきている。

Date: 8月 25th, 2011
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェン(動的平衡・その3)

ベートーヴェンの音楽を聴いて、そこになにを感じとるかは、誰が聴いても共通しているところがありながらも、
聴く人によって、さまざまに異って受けとめられることもある。
別に、これはベートーヴェンの音楽についていえることではなく、他の音楽についても同じなのだが、
それでもベートーヴェンは、私にとっては特別な作曲家であって、
ベートーヴェンの、それもオーケストラによる音楽(交響曲、協奏曲など)を聴いて、
そのことにまったく無反応、なにも感じられない人とは、ベートーヴェンについて語ろうとは思わない。

これがほかの作曲家だったら、話をしてみようと思うことはあっても、
ことベートーヴェンに関しては、譲れない領域がある。
そのひとつが、ベートーヴェンの音楽は、音による構築物、ということだ。

この構築物は、聴き手の目の前に現れる、そしてそれを離れたところから眺めている、というものではなく、
その中に聴き手がはいりこむことが可能な音の構築物であり、
しかも音楽の進行とともにその構築物も大きさを変え形も変っていく。

これをいい変えれば、福岡伸一氏が「動的平衡」について語られた
「絶え間なく流れ、少しずつ変化しながらも、それでいて一定のバランス、つまり恒常性を保っているもの」となる。

ベートーヴェンの音楽がつくり出す音による構築物は、まさにこの「動的平衡」がある。
静的平衡の構築物ではないからこそ、音による構築物なのだ。

ベートーヴェンの音楽は、いま鳴っている音が、次に鳴る音を生むようなところがある。
世の中には、残念ながら、ベートーヴェンの音楽が鳴らないオーディオが存在する。
そういう音は、意外にもどこかに破綻したところがあるわけではない。
注意深くバランスをとった音でも、それが静的平衡の領域にとどまったバランスであるかぎり、
そのオーディオでは、私はベートーヴェンを聴きたくない。