Archive for category オーディオの科学

Date: 9月 1st, 2017
Cate: オーディオの科学

閾値(その3)

8月のaudio wednesdayでやったことを、
常連のHさんは自宅でも試した、とメールが届いた。

自宅のシステムの三個所に試してみて、明らかな違いが聴きとれた、とのこと。
Hさんひとりの感想ではなく、奥さまも一緒に聴かれての違いの確認である。

CDプレーヤーに対しては、Hさんは試したほうがよかった、
奥さまは試さないほうが好ましい、と意見はわかれたそうだが、
他の個所では意見は一致されたのだろう。

どこに試すかによって意見の相違はあっても、
そのことを試すことによる音の変化は、オーディオの関心のない人の耳にも明らかだ。

ならば、どんなことをやったのか、ここで書いても、と思うのだが、
絶対、試しもせず、聴きもせず、そんなことで音は変らない、と言い張る人がいるし、
興味を多少なりとももって試す人もいるだろうが、
この方法はいくつかの条件を満たす必要がある。

そう大したことではない。
それでも、その大したことでない、三つぐらいの条件を満たさずに試す人がいるのも、
これまでの他の例でいくつも知っている。
それでいて、効果がなかった、という。

だから文字だけで伝えることはしない。
とはいっても出し惜しみもしない。
audio wednesdayで来てくださった人たちの前で試しているくらいなのだから。

どういうことをふったのかは、あくまでも音出しといっしょに伝えることにしている。

Date: 8月 3rd, 2017
Cate: オーディオの科学

閾値(その2)

へぇ、こんなのがあるんだ、と、
今回試したことを知ったのは4月だった。

facebookのタイムラインに、それを紹介した動画に友人が「いいね」をしていたからだった。
その友人はオーディオマニアではないし、
そこでの動画もオーディオに関する要素はまったくなかった。

それでも、そこでやっていることはオーディオでも、すぐに試せそうなことであった。
それに必要な材料もわりとすぐに手に入る。
しかもコストもほとんどかからない。

試すのに特別な技術は必要としない。
詳細は書かないが、誰にでもやれることであり、
どんなオーディオ機器であっても試せることである。
結果が芳しくなければ、取り除ければ元の状態にもどせる。
試さない理由はなかった。

ただ、音があきらかに変化した場合、
それも効果あり、判断できた場合、
なぜ? ということにほとんど説明をつけることができなかった。

なのでaudio wednesdayで、まずやってみようと考えた。
にも関わらず5月、6月、7月のaudio wednesdayでは、そのことを忘れてしまっていた。

今回数日前に思い出したので、やっと試すことになった。
数人とはいえ、複数で聴いて、音の変化(効果)が認められれば、
少なくとも説明がつかなくとも、私の気のせいではない、といえる。

audio wednesdayで試さない理由もないわけだ。

結果を書こう。
明らかな音の変化が、全員の耳に認められた。
条件がいくつかあって、それを守れば明らかに音は良くなった、といえる方向へ変化する。

類似のことをこれまでもさんざん試している。
その経験からいえば、ここでの音の変化は、説明がひじょうにつけにくい。

ささいなことであっても何かを変化させているわけだから、音はそれに応じて変化する。
だが、昨晩のことはその変化量が大きい。

ここでの音の変化は、
壁を隔てて仕事をしながら聴いていた喫茶茶会記の店主、福地さんの耳にも届いていた。

Date: 8月 3rd, 2017
Cate: オーディオの科学

閾値(その1)

ケーブルで音が変るなんてことはない、と主張する人たちがいることは、
前々から何度も書いている。

この人たちは、ケーブルで音が変るなんてオカルトだ、と主張する。
ケーブルで音が変ることを認めている人たちでも、
別のこと、そんなささいなことで音は変化しないはず、ということがある。

人によって閾値が違うだけのことなのかもしれない。

オーディオの音は、どんなことでも変化する。
これも以前から書いていることだ。
変化していることに気づくか気づかないかの違いがあるだけだ、とも思っている。

何かを変えて音が変化する。
なぜ音がそんなふうに変化するのか、説明がつくこともあればそうでないこともある。

頭で考えてしまうと(つまり頭で聴いてしまうと)、
そこでの音の変化を錯覚とか気のせいとか、そう思ってしまうこともあろう。

でも、まずは音を聴くという観察力こそが、
オーディオを科学として捉えるのに絶対に必要となる。

だから、私は音が変るであろうと思われることは試すようにしている。
それが少なからぬ人たちからオカルトと呼ばれがちなことであっても、
直感でおもしろそうだと感じたことは、やるのにためらいはない。

ただし結果が思わしくないとなったときに、元の状態に戻せるかどうかは、
やるかやらないかの判断にかかわってくる。

オカルトと呼ばれがちなことは、元の状態に戻せる場合が割りと多い。
昨晩のaudio wednesdayでは、オカルトと呼ばれるであろうことをやった。

ケーブルで音が変ることを認めている人、
さらにもっとこまかなことで音で変ることを認めている人でも、
今回私が試したことは、オカルトとか気のせいだよ、と思われるだろう。

Date: 4月 27th, 2017
Cate: オーディオの科学

オーディオにとって真の科学とは(その8)

このテーマについて書いていて、ふと思い出したのが、
瀬川先生が以前書かれたものだ。
     *
 オーディオの再生の究極の理想とは、原音の再生だと、いまでも固く信じ込んでいる人が多い。そして、そのためのパーツは工業製品であり電子工学や音響学の、つまり科学の産物なのだから、そこには主観とか好みを入れるべきではない。仮に好みが入るとしても、それ以前に、客観的な良否の基準というものははっきりとあるはずだ……。こういうような考え方は、一見なるほどと思わせ、たいそう説得力に満ちている。
 けれど、オーディオ装置を通じてレコードを(音楽を)楽しむということは、畢竟、現実の製品の中からパーツを選び組合わせて、自分自身が想い描いた原音のイメージにいかに近づくかというひとつの創造行為だと、私は思う。いや、永いオーディオ歴の中でそう思うようになってきた。客観的な原音というものなどしょせん存在しない。原音などという怪しげなしかしもっともらしい言葉にまどわされると、かえって目標を見失う。
(ステレオサウンド別冊「続コンポーネントステレオのすすめ」まえがき より)
     *
1979年においても、「いまでも」とある。
ここからすでに38年が経っているが、この「いまでも」はそのままといえる。

《オーディオの再生の究極の理想とは、原音の再生だと、いまでも固く信じ込んでいる人》、
そういう人が、もしかするとケーブルでは音は変らない、
そんなことで音は変化しない、それらはすべてオカルトだ、
と決めつけている人と重なってしまう。

ケーブルで音は変らない、という人のすべてが
「究極の理想とは、原音の再生」と固く信じ込んでいるわけではいなと思うし、
原音再生こそ理想と信じ込んでいる人のすべてが、
ケーブルで音は変らない、といっているわけでもないだろうが、
両者には、客観的な良否の基準、客観的な原音、主観の排除といった、
《一見なるほどと思わせ、たいそう説得力に満ちている》考え方が根底に共通している──、
私にはそう感じられてしまう。

《怪しげなしかしもっともらしい言葉》、
それと時として数字であったりする。

Date: 2月 19th, 2017
Cate: オーディオの科学

オーディオにとって真の科学とは(その7)

(その5)で「あの程度のレベルの人を相手にすることはない」と書いた。
どういう考えで「あの程度のレベルの人」と言ったのかは聞いていない。

けれど私は「「あの程度のレベルの人」とは、
己の耳を鍛えることから逃げて、
それでは己のプライドが傷つくのか、ケーブルでは音は変らない、という人のことである。

音の聴き分けにも得手不得手はある。
それはオーディオ仲間といっしょに音を聴いていれば実感することのはずだ。

あるところに敏感に違いを聴き分ける人でも、
別のところでは意外にもそうでなかったりする。

それにオーディオマニアの誰もが、わずかな音の違いまで聴き分けることはない。

例えば誰かをあるシステムをセッティングして、チューニングしていく。
その過程をいっしょに聴く。

何をやっているのかはわからないところもあるだろうし、
それによる音の変化も、聴き分けられるところもあれば、そうでないところもある。

それでも最初に鳴っていた音と、
数時間後に鳴っている音の違いがわかれば、オーディオは趣味として楽しめる。

私はケーブルの違いはあまりわからないという人を揶揄したいわけではない。
ケーブルの違いがあまりわからなくてとも、音を良くしていくことはできる。
(その6)で書いた、評価軸がその度にブレてしまうことがなければ、音は良くしていける。

私がオーディオに弊害をもたらしている、と捉えているのは、
己の耳を鍛えることから逃げて、安易な道を選び、
けれど己のプライドだけはしっかりと守りたい、という人のことだ。

そういう人が「オーディオは科学だ」という。
何度でも書くが、科学であれば観察力が問われる。
オーディオにおける観察力とは耳の能力のことだ。

これは高域が20kHzまで聞こえる、といったことではない。

そして大事なのは、
オーディオを科学として捉えるには観察力、
その己の観察力を冷静に観察し、得手不得手を把握する観察力である。

Date: 2月 19th, 2017
Cate: オーディオの科学

オーディオにとって真の科学とは(その6)

これまでに何度も書いているように、
再生系のどこか一個所でもいじれば、音は間違いなく変化する。
その変化量は、ごくわずかなこともある。

そのため時として、人によっては、音の変化が掴めない、もしくは掴みにくいことはある。
それでも音は変化している。

そんなごくわずかな音の変化を聴き分ける人を、耳がよい人だという。
ただし、ほんとうに音の変化を確実に聴き分けているかという、
そうでもない人がいるのも事実である。

音の評価軸が、一回ごとに(もしくは数回ごとに)ブレてしまう人がいる。
そういう人は、何も変えていないとも、変えているような仕草を見せると、
音が変ったという。

そういう人は何度かいっしょに音を聴いていると、わかる。
そういう人といっしょに音を聴いても、耳を鍛えることはできない。

ほんとうに耳のよい人といっしょに音を聴くことこそが、
己を耳を鍛えていく道である。

私が幸運だった、と別項で書いているのは、そういうことでもある。
ほんとうに耳のよい人といっしょに音を聴くことで、
自分の耳を知ることができるし、鍛えることもできる。

ほとんどの人が、最初からわずかな音の変化をはっきりと聴きとれるわけではないだろう。
オーディオ仲間が聴き分けている音の違いを、聴き分けられない体験をしたことがあるはずだ。

そんな時どうするか。
オーディオマニアの多くの人は、己の耳を鍛えようとする。
けれどごく一部の人は、別の道に逃げ込む。
「オーディオは科学だ、そんなことで音は変化なぞしない」と主張する。

己を耳を鍛えようとはせず、安易な選択をする。
オーディオは趣味だから、そのこと自体を否定はしない。
けれど、黙っていろ、といいたい。

なのに、ごく一部の彼らは、我らこそが真実だ、と声高に主張する。
滑稽にも関わらず。

Date: 2月 18th, 2017
Cate: オーディオの科学

オーディオにとって真の科学とは(その5)

(その4)に対して、facebookでコメントがあった。
(その4)で書いたような人たちを相手にすることはない、というものだった。

同じことは、以前も別の人にいわれたことがある。
七年前、「オーディオの科学」について少し書いたことがある。

そのことに腹を立てたと思われる人(どん吉というハンドルネームだった)から、
コメントというよりもいちゃもんをつけられた。
その時も、「あの程度のレベルの人を相手にすることはない」といわれた。

そうかもしれない──、とは思っていない。
こういう人たちがいるからこその弊害がある。

観察力がないから、
いままでの知識だけで音を判断してしまう。

ここでの観察力とは、音を聴き分ける能力のことである。
この種の人たちの不思議なのは、
自分たちにできないことは他の人もできないと思っている節がある。

なぜそう思うのか。
人には得手不得手がある。
能力の違いがある。
多くの人がわかっていることを理解できない人たちのようだ。

自分の耳では聴き分けられないから、
ケーブルでの音の違いなどない、という結論にもっていく。

その人が聴き分けられなくても、聴き分けられる人はいるという事実を、
どうも認めたくないようである。

例えば100m走。
オリンピックに出る選手たちは10秒を切る速さで走る。

100mを10秒を切ることは、大半の人には無理なことである。
だから、すごいと思う。

自分にできないことだから、100mを10秒前後で走るのは、
何かトリックがある、オカルトだ、などというバカなことは思わない。

音のこまかな聴き分けも、同じことである。
すべての人の音に対する能力が同じなわけがない。

速く走れる人もいれば、高くジャンプできる人もいるし、
速く泳げる人もいる。

味覚や嗅覚でも、それを仕事としているプロフェッショナルがいる。
ケーブルで音など変らないと頑なに主張する人でも、
味覚や嗅覚のプロフェッショナルがいて、
そういう人たちの味覚、嗅覚と自分の味覚、嗅覚が同じレベルであるとは思っていないであろう。

なのになぜか聴覚だけは違うようだ。
聴覚検査で問題がなければ、音の聴き分け能力まで同じだと考えているのだろうか。

Date: 2月 1st, 2017
Cate: オーディオの科学

オーディオにとって真の科学とは(その4)

その3)でも書いたスピーカーケーブルの長さの極端な違いによる、
スピーカーからの音圧の低下。
これは物理現象としても数値として確認できる。

つまりは音は変っているわけである。
しかもはっきりと。
聴感上だけでなく、数値上も変っている。

にも関わらず、ケーブルで音が変らないと頑なに主張する人は、
音圧低下分だけボリュウムを上げれば同じになる、という。
つまり音圧レベルの変化は、音の変化ではないということらしい。
すごい理屈だと思う。
そんな程度の人が「オーディオは科学だ」といい、
ケーブルで音が変るなんて、オカルトだ、といっているのである。

ボリュウムを上げれば同じ、という人の考えは科学とはいえない。
絶対的に科学とはいえない。
観測条件を意図的に変えているわけだから。

こういうことを何の疑問もなしにやってしまう人は、
いったい何なのだろうか。
オーディオマニアとはいえないし、オーディオを科学と捉えているともいえない。

本人がいくら「オーディオを科学として捉えている」といったところで、
自らの言動が、そうでないことを誰の目にもはっきりと表している。
本人は、なぜそのことに気づかないのか。

二本のケーブルの音を比較するにあたって、
ケーブルの品種の違い以外のすべてを、どれだけ条件を同じにできるか。
これは想像以上に難しいことであり、微妙な音の差を聴き分けようという場合には、
さらに難しさは増すにも関わらず、
ブラインドフォールドテストによる結果のみがオーディオの真実だ、といっている人の多くには、
理解されていないようである。

ブラインドフォールドテストを無意味とは考えていない。
けれど本当の意味でのブラインドフォールドテストを行うには、
ケーブルで音は変らない、としか聴こえない耳、
そして音圧低下分はボリュウムを上げればいい、と考えてしまう知性では、
はっきりと無理である。

Date: 1月 11th, 2016
Cate: オーディオの科学

オーディオにとって真の科学とは(ニューフロンティア)

本来、科学とは、人間の視野を拡張してくれるものである。

正月にスタートレックの映画を続けて観ていて、そう思った。
スタートレックでは、フロンティアという言葉が出てくる。

エンタープライズのクルーは、ニューフロンティアをめざす。
ニューワールドではなく、ニューフロンティアを。

Date: 12月 18th, 2015
Cate: オーディオの科学

オーディオにとって真の科学とは(その3)

ケーブルの交換で音が変ることを、オカルトだ、と決めつける人たちが昔からいる。
彼らは「オカルトだ」の次に口にするのが「オーディオは科学だ」である。

そういう主張をする人の中に、こんな人がいた。
「菅野先生はケーブルで音が変ると言われていない」
だからケーブルで音が変ることはありえない、ということだった。

菅野先生は、ケーブルによる音の違いについて、針小棒大に語られてはいない。
でもケーブルによる音の変化は認められているし、
ステレオサウンドのバックナンバーで確認できることだ。

にも関わらず、その人はたまたま彼が目にした範囲で菅野先生がケーブルについて語られていないから、
「菅野先生はケーブルで音が変ると言われていない」ということになる。

これは極端な例とは思う。
でも、この人も「オーディオは科学だ」というのである。

こういう例もある。
スピーカーケーブル長さを極端に変えても音は変らない、という主張だった。
同じ品種のスピーカーケーブルで、ひとつは1m、もうひとつは100mほどにする。

これだけ長くするとケーブルの直流抵抗も無視できない値になる。
1mと100kmとでは、スピーカーからの音圧にはっきりとした差が出る。
そのことは、ケーブルで音は変らない、と主張する人も認めている。

けれどその先がある。
100mのスピーカーケーブルで減衰した分はボリュウムをその分上げれば同じになる。
よってケーブルの長さ(1mと100mとでは)で、音は変らない、というものだった。

「オーディオは科学だ」という人すべてが、こんな人ではない。
ケーブルで音が変ることを私は認めているし、同時に「オーディオは科学だ」と考えている。
私だけではない、多くの人が「オーディオは科学だ」という認識の上に立っている。

その上でオーディオにおける観察──先入観なしに聴くこと──の重要性を正しく認識している。
その違いが「オーディオは科学だ」にもある。

Date: 12月 17th, 2015
Cate: オーディオの科学

オーディオにとって真の科学とは(その2)

「オーディオは科学だ」は正しい。
でも「オーディオは科学だ」とは、どういうことなのかが、場合によってひどく曖昧となる。
曖昧となったまま「オーディオは科学だ」を声高に叫ぶ一部の人たちがいる。

科学であるのだから、オーディオのすべての現象は、測定で捉えられるものだと信じきっている。
測定で差が出なければ音は変らない、と主張する。
わずかな差があったとしても、その程度の差は人間の耳では関知できない、ともいう。

科学は観察することから始まる。
「オーディオは科学だ」と主張するのであれば、
まずオーディオの現象を観察することから始めなければならない。

オーディオにおける観察とは、聴くことである。
測定することは、その次に来ることであって、
徹底的な観察は、徹底的に聴くことである。

ただし観察力は人によって違ってくる。
この当り前すぎることを「オーディオは科学だ」と主張する人の中には、
理解していないとしか思えない人がいる。

自分の耳で聴き分けられないから、他の人も聴き分けられない、となるようだ。
なぜか、音の聴き分けに関しては、人による能力差はないものとして、これらの人たちは語ってくる。

「オーディオは科学だ」といってケーブルの違いによる音の差を認めない人は、
100mを13秒くらいで走ることができたとしよう。

走るのもまた能力であり、人によって違う。
短距離を速く走れる人もいれば、長距離を速く走れる人もいる。

自分が100mを13秒くらいでしか走れないからといって、
100mを10秒を切って走る人たちを否定することはできない。

これはどんなことだってそうである。
自分にできないことを別の人は軽々となしえるし、その逆もある。

なぜか「オーディオは科学だ」と主張する人たちは、
音の聴き分けの能力に関しては、すべての人が同じだととらえている節がある。

Date: 5月 14th, 2015
Cate: オーディオの科学

オーディオにとって真の科学とは(その1)

世の中にはいろんな人がいることはわかっていても、
こうやってブログを書いていると、そのことを強く実感することがある。
ほんとうにいろんな人がいる……。

何度も書いていることだが、
オーディオはどこかを変えれば、音は変る。
ほんのわずかな違いのときもあれば、大きな違いとなってあらわれることもある。
小さな違いの時には、人によっては気がつかないこともあるだろう。

その場合、違いに気がつかなかった人にとっては音は変らなかった、ということになる。
気がついた人には音が変った、ということになる。
この時、わずかな違いに気がつかなかった人も、誰かの指摘を受けたり、
経験を積むこと、耳の訓練を積むことで、
その時はわからなかった音の違いをしばらくしたらわかるようになることだってある。

とにかく音はささいなことで変っていく。
こんなことで変ってくれるな、と思うようなことでも変化する。

ケーブルを替えれば音は変る。
接点が汚れていたのをクリーニングしても変るし、
RCAコネクターの嵌合具合を変えてみても音は変化する。

ラック(置き台、置き場所)をかえても変る。
ラックの天板の上でアンプやCDプレーヤー、アナログプレーヤーの位置をずらしても変る。

音が変る要素をひとつひとつ書いていったらキリがないくらいに、
つまり無数にあるといっていい。

けれど、世の中にはケーブルでは音は変らない、
ましてラックなどで音が変ってたまるか、と頑なに主張する人がいる。
それはそれでいい。
その人は、音の変化を聴きとれていないからなのだ。
耳の音の変化に対する閾値の違いであり、
何もこまかな音の違いを聴き分けているから、オーディオでいい音が出せるとは限らないし、
そうでないからといっていい音が出せないわけでもない。

だから私には違いがわからなかった、といわれた上で、
だから私にとっては音は変らなかったと同じこと、といわれるであれば、
それに対しては私は何も言うことはない。

けれど世の中にはいろんな人がいるのだから、
変らないという人の中にもいろんな人がいる。
やっかいなのは「オーディオは科学だ」という、
彼らにとっては水戸黄門の印籠ともいえる、このセリフを口にする。