Archive for category オーディオの科学

Date: 5月 5th, 2024
Cate: オーディオの科学, ケーブル

オーディオケーブルの謎(金田・江川予想とその周辺)

オーディオケーブルの謎(金田・江川予想とその周辺)」が、再頒布されている。
どういう内容なのか、入手方法はリンク先にアクセスしてほしい。

ケーブルをかえることで音は変ることを経験していても、
ではなぜ音は変化するのか、そのことについて説明することはかなりの困難である。

128ページの冊子「オーディオケーブルの謎(金田・江川予想とその周辺)」は、
サウンドロマンの1977年6月号から1978年10月号までの14回の連載記事に、
無線と実験の1981年9月号掲載の記事、
1987年の世界のステレオ掲載の記事をまとめたもの。

濃い内容だ。
リンク先にも、こう書いてある。
     *
この冊子は、この商品としてのオーディオケーブルが産まれた時代に 日本のオーディオメーカーの技術者が自社開発品の技術的根拠、 開発意図を説明したオーディオ雑誌などの記事を題材に、 (常識的な電気工学者としての)私が書いてみた記事をまとめたもので、 技術者以外の個人、商店、商社などによるオーディオアクセサリー開発者の 魔術的信仰と主張については触れていません。私にはまったく理解できませんから。

当初の構想では、電気音響工学の対象となる、 周波数特性(振幅・位相)以外に、 非直線性やCDなどの量子化(デジタル・オーディオ)の問題、 後に江川三郎さんが傾倒した「純度(私には理解できない)」の問題、 理論家にとって重要な「なぜ一部の人が電気計測では識別できない (オーディオケーブルなどの)音の違いを認識できるのか」 という原理的問題について書く予定だったのですが、 雑誌自体が休刊になったため、連載も打ち切りになりました。

というわけで、当時の歴史的記述としても完全ではありませんが、 オーディオケーブルが話題になった当時、 どんな主張があり、真実はどうだったのかといったことはわかると思います。
     *
在庫がなくなると頒布も終了となるようなので、
ケーブルについて理解したい方はお早めに。

Date: 10月 26th, 2019
Cate: オーディオの科学

閾値(その4)

この項の(その1)でやったことは、
そうとうにオカルトと批判する人はけっこういるように思う。

音は、audio wednesdayに来ていた人全員の耳で確認してもらった。
明らかに音は変化する。

これで変化するのか、
しかもここまで変化するのか、と試してみた本人の私が、
少々驚くほどだ。

その3)で常連のHさんが自宅のシステムで試されたことも書いている。
ここでも、音の変化ははっきりとあらわれただけでなく、
奥さまの耳にも、その変化は聴きとれた、とのこと。

パリ管弦楽団の副コンサートマスターの千々岩英一氏のツイートを、
Hさんが教えてくれた。

そこには、私がaudio wednesdayでやったことと同じと思われることを、
ヴァイオリンで試されている。

千々岩氏のツイートには、
《仕組みはよくわかりませんが、音が少し輝かしくなったような気がしなくもないです》
とある。

Date: 5月 29th, 2019
Cate: オーディオの科学

数学×曲線 〜世界を彩る美しい曲線の不思議〜

昨晩は、東京ガーデンテラス紀尾井町で開催された数学セミナー
「数学×曲線 〜世界を彩る美しい曲線の不思議〜」に行ってた。

昨年11月、
「プロダクトデザインと未来」のテーマで、
川崎和男×深澤直人・対談が、六本木のAXISであった。

このチケットを購入するには、Peatixというアプリを介して、であった。
このアプリがチケット(スマートフォンがチケット)になる。

購入するからには、名前などを登録する。
当然、その後、こんなイベントがあります、というメールが届く。
いままで、それらのメールを、パッと見ては消去していた。

二週間ほど前にも、そんなメールが届いた。
パッと見て消去しようとしたら、
「数学×曲線 〜世界を彩る美しい曲線の不思議〜」の文字に目が留った。
内容をきちんと見たら、おもしろそうな数学セミナーである。

申し込む。
数学セミナーだから、数学を専門とする人を対象としているのかと思ったら、
専門としない人でもいい、みたいなことも書いてあった。

講師は、中島さち子氏。
まったく知らない人だった。

私が知らないだけで、けっこう有名な人である。
ジャズピアニストであり、CDも数枚出されている。

会場は、東京ガーデンテラス紀尾井町である。
この数学セミナーは2017年から定期的に行われている、とのこと。

「数学×曲線」はおもしろかった。
セミナーが終って、Peatixからのメールにきちんと目を通しておけば……、と後悔していた。

東京ガーデンテラス紀尾井町のイベントのページには、
過去の数学セミナーが紹介されている。

今年1月には「数学×音 ~音・音の可視化・フーリエ解析~」が行われている。

この回の案内のメールも、きっと届いていたはず。
なのに見ていなかった。

数学セミナーはこれからも行われる。
毎回、中島さち子氏というわけではないようだが、
半分ほどは中島ちさ子氏のようである。

毎回は無理としても、中島さち子氏のセミナーだけは、きちんと行きたい。
オーディオとは直接関係ないように思われるだろうが、
決してそうではない、といっておく。

Date: 8月 16th, 2018
Cate: オーディオの科学
1 msg

オーディオにとって真の科学とは(コメントを読んで)

その5)にコメントがあった。
リンクしていても、読む人は少ないのがわかっているから、
paunogeira氏からのコメントを、ここに転載しておく。
     *
100mを9秒台で走れる人がいるように、「ケーブルで音が変わる」のを聴き取れる人は、おそらく百人に一人か千人に一人かの割合で存在するだろうと思います。しかし、「ケーブルで音が変わる」ことがオーディオ装置を論じる上で見落とせない要素であると主張したいのであれば、

1. 事象が存在しないこと(消極的事実)の証明は大変困難なので、存在を主張する側が証明するというのが、議論をするときの一般的なルールであると考えられること(宇宙人がいないことの証明は実際上できません)。
2. 自己の能力が他人よりも優れていることを主張する場合、優れていると主張する側が説明を尽くすのが礼儀であると考えられること(お前は劣っていると言われる身になってみればわかります)。

以上の二つの観点から、「ケーブルで音が変わる」と主張する立場の方が、証明とまではいかなくてもそれなりに筋の通った説明をつける努力をすべきでしょう。それをしないで「ケーブルで音が変わることはない」と主張する人々を非難するのは、たとえその人々の言説がどんなに低レベルであったとしても、いわゆる逆ギレのように思われます。
    *
ケーブルに関しては、
《「ケーブルで音が変わる」ことがオーディオ装置を論じる上で見落とせない要素であると主張したい》
わけではない。

この項の(その1)に書いているが、
ケーブルによる音の違いが聴きとれるかどうかは、耳の音の変化に対する閾値の違いであり、
何もこまかな音の違いを聴き分けているから、オーディオでいい音が出せるとは限らないし、
そうでないからといっていい音が出せないわけでもない。

少し誤解があるようなのだが、音の聴き分けに関しても、
ケーブルの音の違いが聴きとれている人でも、違う音の変化にはひどく鈍感なこともある。

音の変化、違いといっても、実にさまざまだ。
あれこれ音を変えながら、誰かに一緒に聴く機会がある人ならば感じているはずだが、
その人その人によって、敏感なところと鈍感なところがあるものだ。

すべてに関して敏感な耳の持主は、私の知るかぎりでは井上先生だけである。
だから、鬼の耳といわれていたわけだ。

こんなことを書いている私も、敏感なところもあれば鈍感なところもある。
要は、それを自覚しているどうかである。

100mを9秒台で走れる人は、確かにすごい。
けれど、100mを9秒台で走れる人が、
どんなことにおいてもすごいかというと、それは違うのと同じことだ。

それから、(その1)で書いていることのくり返しなのだが、
音のこまかな聴き分けができるから、いい音が出せるとは限らない。
違いがわかるだけではだめであって、
細かな音の違いの聴き分けが苦手であっても、いい音は出せるものである。

能力と書かれているから、あえてオーディオマニアとしての能力とするが、
それは細かな音の聴き分けではなく、どういう音を鳴らせるかのはずだ。

書きたいことは、もう少しあるけれど、それらはすでに書いてきていることであり、
そのくり返しになるから、このへんにしておく。

Date: 11月 12th, 2017
Cate: オーディオの科学

オーディオにとって真の科学とは(その10)

ステレオサウンド 31号(1974年夏号)に、
「音は耳に聴こえるから音……」という記事が載っている。

岡原勝氏と瀬川先生による実験を交えながらの問題提起である。
そこに、こういう対話がある。
     *
瀬川 最近特に感じるのですが、受け取る側も作る側も科学というものの認識が根本から間違っているのではないでしょうか。
 これはことオーディオに限らないと思いますが、一般的に言って日本人はあらゆるものごとに白黒をつけないと納得しないわけですよ。ふつう一般には、科学というものは数字で正しく割り切れるもので、たとえば歪みは極小、f特はあくまでフラットでなくては……というように短絡的に理解してしまっている。そのようには割り切れないものだという言い方には大変な不信感を抱くようなのですね。
 寺田寅彦や中谷宇吉郎らの、日本の本物の科学者というのは、科学を真に突き詰めた結果、科学さえも最後は人間の情念と結びつくというところまで到達していると思うのですが。
岡原 それで思い出したのですが、JISでスピーカーの規格を選定する時、大変困ってしまいまして、八木(秀次)先生にご意見を伺いにいったのです。
 すると『音響製品の規格を決めようとしているのでしょう。それならば聴いて良いものが良い製品だという規格を作ればいいのではないですか。』と仰るのですよ。
瀬川 さすがに本当の科学者ですね。しかし、八木先生のような現代日本最高の科学者にして初めて言える言葉ですね。
 ところが、今の科学というのは先に何か条件が決まっていて──しかもそれさえ誰が決めたのだか分らないようなものですが──まだ欠けたところが沢山あるが数字だけは整っているような条件にきちんと合わせてものをつくりさえすれば、それがいいはずで、それが良くないというのは聴いている人の方が悪いと言いかねない。それが今の大多数にとっての科学のような気がするのですが。
岡原 それは現在の科学は仮定の上に成り立っている学問だからなのですよ。
 ある境界条件を与え、その中だけならばそれでいいのかもしれないが、その条件の与え方そのものが間違っているのですよ。
 それより先にもっと大切なことがあるのに、それを無視して境界条件を決めてしまい、その中で完全なものができたと言っても仕様がない。
     *
この短期連載記事は、学ぶところが実に多い。
ステレオサウンドから出た瀬川先生の著作集には、残念なことに収められていない。

ここに出てくる八木先生とは、八木アンテナで知られる八木秀次氏である。

Date: 11月 11th, 2017
Cate: オーディオの科学

オーディオにとって真の科学とは(その9)

「急性心不全の患者がいたとします」──法事の席上で中年の医者が話しはじめた。
 故人は五十歳余りでこの世を去った銀行員である。東大を出て一流銀行に入りながら、これからという時に身体をこわし、不遇と憂悶のうちに身罷った。医師は故人の旧友。開業医を営んで三十年近くなる。彼には親友の死が「近代医学」に起因するもののように思われてならない。死因について、大学病院は種々の説明を加えたが、手遅れと化学薬品の副作用がその大きな部分を占めていたことは否定できなかった。
 医師は話を続ける。「心不全なんて病気は聴診器一本で九九%わかるんです。いや、一〇〇%と言い切っていいかもしれません。私の場合、心不全の徴候を見付けたときは確認のために一枚レントゲンを撮り、緊急処置を施して患者を休ませ、何日かして症状が治まったのち、もう一度治癒確認のため写真を撮り、余病の有無を調べてOKであれば退院させます。今迄それで失敗した例はありません。大家はレントゲンなんか撮らないんです。ところが、大病院の若い医者は、病因を確定するために十数枚、ときには七十枚もレントゲン写真を撮影する。聴診器による診断、人間の感性による診断を信用しないし、自信もないんです。その結果、患者の病因が確定するまでに数日、悪くすれば十日以上かかってしまう。心不全だということが証明されたときには、患者の身体が参ってしまっていることすらあります。手当の遅れに加え、検査疲れがひどいからです。検査薬の投与による余病併発だって考えられる。そうしたら大変です。余病の病名確定のため、また検査が始まります。医師にとって一番大切なことは、患者の苦痛を和らげ、生命を助けることである筈なのに、近頃の若い医者は病名の確定を最優先に考え、患者自身の生命を二義的に扱う傾向があるような気がしてなりません。残念なことです」
 ここ一、二年、私はことあるごとに「オーディオ機器の開発はもう一度原点に立ち返るべきだ」と言い続けてきた。ステレオは一体何のために開発されたのか。いうまでもなく、それは「音楽」を聴くために、「音楽」をよりよく味わうために開発されたのではなかったのか。ところが、最近のレコード、最新のオーディオ機器を聴くたびに、私はひどく不安な、たまらなく虚しい気持に襲われることが多くなった。「何か大切なものが失われている、失われかけている」そんな叫びをあげたくなることの多いこの頃である。
     *
中野英男氏の「音楽、オーディオ、人びと」のなかから「或る医師の歎き」からの引用だ。

最近、テレビ朝日のドラマ「ドクターX」を見ている。
仕事関係の知人が、以前から「おもしろい」といっていた。
「見た方がいいですよ」ともいっていた。

といわれてもテレビを持っていないし、
日本のドラマを見るくらいなら、見たい海外ドラマがまだまだあるのに……、と思う私は、
医療ドラマならば、もっとおもしろいものが海外ドラマにいっぱいあるよ、と、
その知人に言い返していた。

数ヵ月前から、amazonのPrime Videoで「ドクターX」の配信が始まった。
テレビがなくとも見れるようになったから、試しにシーズン1から見始めた。
(シーズン4まで見終って、シーズン1の内田有紀の美しさは、
なにか特別なものがあるように感じた。)

「ドクターX」の舞台は大学病院である。
ドラマなのはわかっている。
それでも、病名確定のために、かなりの時間が割かれている描き方がある。

「或る医師の歎き」は、いまから40年ほど前のことである。
時代は変っているのはわかっている。
いい方にばかり変っているわけでもないし、
悪い方ばかりに変っている、とも思っていない。

けれど病院での検査は、40年前よりも増えている。
より正確な検査が可能になっている、ともいえる。

聴診器ひとつでわかることに、いくつもの検査をしているのではないか。
聴診器による診断は、人間の感性による診断である。

Date: 9月 1st, 2017
Cate: オーディオの科学

閾値(その3)

8月のaudio wednesdayでやったことを、
常連のHさんは自宅でも試した、とメールが届いた。

自宅のシステムの三個所に試してみて、明らかな違いが聴きとれた、とのこと。
Hさんひとりの感想ではなく、奥さまも一緒に聴かれての違いの確認である。

CDプレーヤーに対しては、Hさんは試したほうがよかった、
奥さまは試さないほうが好ましい、と意見はわかれたそうだが、
他の個所では意見は一致されたのだろう。

どこに試すかによって意見の相違はあっても、
そのことを試すことによる音の変化は、オーディオの関心のない人の耳にも明らかだ。

ならば、どんなことをやったのか、ここで書いても、と思うのだが、
絶対、試しもせず、聴きもせず、そんなことで音は変らない、と言い張る人がいるし、
興味を多少なりとももって試す人もいるだろうが、
この方法はいくつかの条件を満たす必要がある。

そう大したことではない。
それでも、その大したことでない、三つぐらいの条件を満たさずに試す人がいるのも、
これまでの他の例でいくつも知っている。
それでいて、効果がなかった、という。

だから文字だけで伝えることはしない。
とはいっても出し惜しみもしない。
audio wednesdayで来てくださった人たちの前で試しているくらいなのだから。

どういうことをやったのかは、あくまでも音出しといっしょに伝えることにしている。

Date: 8月 3rd, 2017
Cate: オーディオの科学

閾値(その2)

へぇ、こんなのがあるんだ、と、
今回試したことを知ったのは4月だった。

facebookのタイムラインに、それを紹介した動画に友人が「いいね」をしていたからだった。
その友人はオーディオマニアではないし、
そこでの動画もオーディオに関する要素はまったくなかった。

それでも、そこでやっていることはオーディオでも、すぐに試せそうなことであった。
それに必要な材料もわりとすぐに手に入る。
しかもコストもほとんどかからない。

試すのに特別な技術は必要としない。
詳細は書かないが、誰にでもやれることであり、
どんなオーディオ機器であっても試せることである。
結果が芳しくなければ、取り除ければ元の状態にもどせる。
試さない理由はなかった。

ただ、音があきらかに変化した場合、
それも効果あり、判断できた場合、
なぜ? ということにほとんど説明をつけることができなかった。

なのでaudio wednesdayで、まずやってみようと考えた。
にも関わらず5月、6月、7月のaudio wednesdayでは、そのことを忘れてしまっていた。

今回数日前に思い出したので、やっと試すことになった。
数人とはいえ、複数で聴いて、音の変化(効果)が認められれば、
少なくとも説明がつかなくとも、私の気のせいではない、といえる。

audio wednesdayで試さない理由もないわけだ。

結果を書こう。
明らかな音の変化が、全員の耳に認められた。
条件がいくつかあって、それを守れば明らかに音は良くなった、といえる方向へ変化する。

類似のことをこれまでもさんざん試している。
その経験からいえば、ここでの音の変化は、説明がひじょうにつけにくい。

ささいなことであっても何かを変化させているわけだから、音はそれに応じて変化する。
だが、昨晩のことはその変化量が大きい。

ここでの音の変化は、
壁を隔てて仕事をしながら聴いていた喫茶茶会記の店主、福地さんの耳にも届いていた。

Date: 8月 3rd, 2017
Cate: オーディオの科学

閾値(その1)

ケーブルで音が変るなんてことはない、と主張する人たちがいることは、
前々から何度も書いている。

この人たちは、ケーブルで音が変るなんてオカルトだ、と主張する。
ケーブルで音が変ることを認めている人たちでも、
別のこと、そんなささいなことで音は変化しないはず、ということがある。

人によって閾値が違うだけのことなのかもしれない。

オーディオの音は、どんなことでも変化する。
これも以前から書いていることだ。
変化していることに気づくか気づかないかの違いがあるだけだ、とも思っている。

何かを変えて音が変化する。
なぜ音がそんなふうに変化するのか、説明がつくこともあればそうでないこともある。

頭で考えてしまうと(つまり頭で聴いてしまうと)、
そこでの音の変化を錯覚とか気のせいとか、そう思ってしまうこともあろう。

でも、まずは音を聴くという観察力こそが、
オーディオを科学として捉えるのに絶対に必要となる。

だから、私は音が変るであろうと思われることは試すようにしている。
それが少なからぬ人たちからオカルトと呼ばれがちなことであっても、
直感でおもしろそうだと感じたことは、やるのにためらいはない。

ただし結果が思わしくないとなったときに、元の状態に戻せるかどうかは、
やるかやらないかの判断にかかわってくる。

オカルトと呼ばれがちなことは、元の状態に戻せる場合が割りと多い。
昨晩のaudio wednesdayでは、オカルトと呼ばれるであろうことをやった。

ケーブルで音が変ることを認めている人、
さらにもっとこまかなことで音で変ることを認めている人でも、
今回私が試したことは、オカルトとか気のせいだよ、と思われるだろう。

Date: 4月 27th, 2017
Cate: オーディオの科学

オーディオにとって真の科学とは(その8)

このテーマについて書いていて、ふと思い出したのが、
瀬川先生が以前書かれたものだ。
     *
 オーディオの再生の究極の理想とは、原音の再生だと、いまでも固く信じ込んでいる人が多い。そして、そのためのパーツは工業製品であり電子工学や音響学の、つまり科学の産物なのだから、そこには主観とか好みを入れるべきではない。仮に好みが入るとしても、それ以前に、客観的な良否の基準というものははっきりとあるはずだ……。こういうような考え方は、一見なるほどと思わせ、たいそう説得力に満ちている。
 けれど、オーディオ装置を通じてレコードを(音楽を)楽しむということは、畢竟、現実の製品の中からパーツを選び組合わせて、自分自身が想い描いた原音のイメージにいかに近づくかというひとつの創造行為だと、私は思う。いや、永いオーディオ歴の中でそう思うようになってきた。客観的な原音というものなどしょせん存在しない。原音などという怪しげなしかしもっともらしい言葉にまどわされると、かえって目標を見失う。
(ステレオサウンド別冊「続コンポーネントステレオのすすめ」まえがき より)
     *
1979年においても、「いまでも」とある。
ここからすでに38年が経っているが、この「いまでも」はそのままといえる。

《オーディオの再生の究極の理想とは、原音の再生だと、いまでも固く信じ込んでいる人》、
そういう人が、もしかするとケーブルでは音は変らない、
そんなことで音は変化しない、それらはすべてオカルトだ、
と決めつけている人と重なってしまう。

ケーブルで音は変らない、という人のすべてが
「究極の理想とは、原音の再生」と固く信じ込んでいるわけではないと思うし、
原音再生こそ理想と信じ込んでいる人のすべてが、
ケーブルで音は変らない、といっているわけでもないだろうが、
両者には、客観的な良否の基準、客観的な原音、主観の排除といった、
《一見なるほどと思わせ、たいそう説得力に満ちている》考え方が根底に共通している──、
私にはそう感じられてしまう。

《怪しげなしかしもっともらしい言葉》、
それは時として数字であったりする。

Date: 2月 19th, 2017
Cate: オーディオの科学

オーディオにとって真の科学とは(その7)

(その5)で「あの程度のレベルの人を相手にすることはない」と書いた。
どういう考えで「あの程度のレベルの人」と言ったのかは聞いていない。

けれど私は「あの程度のレベルの人」とは、
己の耳を鍛えることから逃げて、
それでは己のプライドが傷つくのか、ケーブルでは音は変らない、という人のことである。

音の聴き分けにも得手不得手はある。
それはオーディオ仲間といっしょに音を聴いていれば実感することのはずだ。

あるところに敏感に違いを聴き分ける人でも、
別のところでは意外にもそうでなかったりする。

それにオーディオマニアの誰もが、わずかな音の違いまで聴き分けることはない。

例えば誰かをあるシステムをセッティングして、チューニングしていく。
その過程をいっしょに聴く。

何をやっているのかはわからないところもあるだろうし、
それによる音の変化も、聴き分けられるところもあれば、そうでないところもある。

それでも最初に鳴っていた音と、
数時間後に鳴っている音の違いがわかれば、オーディオは趣味として楽しめる。

私はケーブルの違いはあまりわからないという人を揶揄したいわけではない。
ケーブルの違いがあまりわからなくてとも、音を良くしていくことはできる。
(その6)で書いた、評価軸がその度にブレてしまうことがなければ、音は良くしていける。

私がオーディオに弊害をもたらしている、と捉えているのは、
己の耳を鍛えることから逃げて、安易な道を選び、
けれど己のプライドだけはしっかりと守りたい、という人のことだ。

そういう人が「オーディオは科学だ」という。
何度でも書くが、科学であれば観察力が問われる。
オーディオにおける観察力とは耳の能力のことだ。

これは高域が20kHzまで聞こえる、といったことではない。

そして大事なのは、
オーディオを科学として捉えるには観察力、
その己の観察力を冷静に観察し、得手不得手を把握する観察力である。

Date: 2月 19th, 2017
Cate: オーディオの科学

オーディオにとって真の科学とは(その6)

これまでに何度も書いているように、
再生系のどこか一個所でもいじれば、音は間違いなく変化する。
その変化量は、ごくわずかなこともある。

そのため時として、人によっては、音の変化が掴めない、もしくは掴みにくいことはある。
それでも音は変化している。

そんなごくわずかな音の変化を聴き分ける人を、耳がよい人だという。
ただし、ほんとうに音の変化を確実に聴き分けているかという、
そうでもない人がいるのも事実である。

音の評価軸が、一回ごとに(もしくは数回ごとに)ブレてしまう人がいる。
そういう人は、何も変えていなくとも、変えているような仕草を見せると、
音が変ったという。

そういう人は何度かいっしょに音を聴いていると、わかる。
そういう人といっしょに音を聴いても、耳を鍛えることはできない。

ほんとうに耳のよい人といっしょに音を聴くことこそが、
己を耳を鍛えていく道である。

私が幸運だった、と別項で書いているのは、そういうことでもある。
ほんとうに耳のよい人といっしょに音を聴くことで、
自分の耳を知ることができるし、鍛えることもできる。

ほとんどの人が、最初からわずかな音の変化をはっきりと聴きとれるわけではないだろう。
オーディオ仲間が聴き分けている音の違いを、聴き分けられない体験をしたことがあるはずだ。

そんな時どうするか。
オーディオマニアの多くの人は、己の耳を鍛えようとする。
けれどごく一部の人は、別の道に逃げ込む。
「オーディオは科学だ、そんなことで音は変化なぞしない」と主張する。

己を耳を鍛えようとはせず、安易な選択をする。
オーディオは趣味だから、そのこと自体を否定はしない。
けれど、黙っていろ、といいたい。

なのに、ごく一部の彼らは、我らこそが真実だ、と声高に主張する。
滑稽にも関わらず。

Date: 2月 18th, 2017
Cate: オーディオの科学
1 msg

オーディオにとって真の科学とは(その5)

(その4)に対して、facebookでコメントがあった。
(その4)で書いたような人たちを相手にすることはない、というものだった。

同じことは、以前も別の人にいわれたことがある。
七年前、「オーディオの科学」について少し書いたことがある。

そのことに腹を立てたと思われる人(どん吉というハンドルネームだった)から、
コメントというよりもいちゃもんをつけられた。
その時も、「あの程度のレベルの人を相手にすることはない」といわれた。

そうかもしれない──、とは思っていない。
こういう人たちがいるからこその弊害がある。

観察力がないから、
いままでの知識だけで音を判断してしまう。

ここでの観察力とは、音を聴き分ける能力のことである。
この種の人たちの不思議なのは、
自分たちにできないことは他の人もできないと思っている節がある。

なぜそう思うのか。
人には得手不得手がある。
能力の違いがある。
多くの人がわかっていることを理解できない人たちのようだ。

自分の耳では聴き分けられないから、
ケーブルでの音の違いなどない、という結論にもっていく。

その人が聴き分けられなくても、聴き分けられる人はいるという事実を、
どうも認めたくないようである。

例えば100m走。
オリンピックに出る選手たちは10秒を切る速さで走る。

100mを10秒を切ることは、大半の人には無理なことである。
だから、すごいと思う。

自分にできないことだから、100mを10秒前後で走るのは、
何かトリックがある、オカルトだ、などというバカなことは思わない。

音のこまかな聴き分けも、同じことである。
すべての人の音に対する能力が同じなわけがない。

速く走れる人もいれば、高くジャンプできる人もいるし、
速く泳げる人もいる。

味覚や嗅覚でも、それを仕事としているプロフェッショナルがいる。
ケーブルで音など変らないと頑なに主張する人でも、
味覚や嗅覚のプロフェッショナルがいて、
そういう人たちの味覚、嗅覚と自分の味覚、嗅覚が同じレベルであるとは思っていないであろう。

なのになぜか聴覚だけは違うようだ。
聴覚検査で問題がなければ、音の聴き分け能力まで同じだと考えているのだろうか。

Date: 2月 1st, 2017
Cate: オーディオの科学

オーディオにとって真の科学とは(その4)

その3)でも書いたスピーカーケーブルの長さの極端な違いによる、
スピーカーからの音圧の低下。
これは物理現象としても数値として確認できる。

つまりは音は変っているわけである。
しかもはっきりと。
聴感上だけでなく、数値上も変っている。

にも関わらず、ケーブルで音が変らないと頑なに主張する人は、
音圧低下分だけボリュウムを上げれば同じになる、という。
つまり音圧レベルの変化は、音の変化ではないということらしい。
すごい理屈だと思う。
そんな程度の人が「オーディオは科学だ」といい、
ケーブルで音が変るなんて、オカルトだ、といっているのである。

ボリュウムを上げれば同じ、という人の考えは科学とはいえない。
絶対的に科学とはいえない。
観測条件を意図的に変えているわけだから。

こういうことを何の疑問もなしにやってしまう人は、
いったい何なのだろうか。
オーディオマニアとはいえないし、オーディオを科学と捉えているともいえない。

本人がいくら「オーディオを科学として捉えている」といったところで、
自らの言動が、そうでないことを誰の目にもはっきりと表している。
本人は、なぜそのことに気づかないのか。

二本のケーブルの音を比較するにあたって、
ケーブルの品種の違い以外のすべてを、どれだけ条件を同じにできるか。
これは想像以上に難しいことであり、微妙な音の差を聴き分けようという場合には、
さらに難しさは増すにも関わらず、
ブラインドフォールドテストによる結果のみがオーディオの真実だ、といっている人の多くには、
理解されていないようである。

ブラインドフォールドテストを無意味とは考えていない。
けれど本当の意味でのブラインドフォールドテストを行うには、
ケーブルで音は変らない、としか聴こえない耳、
そして音圧低下分はボリュウムを上げればいい、と考えてしまう知性では、
はっきりと無理である。

Date: 1月 11th, 2016
Cate: オーディオの科学

オーディオにとって真の科学とは(ニューフロンティア)

本来、科学とは、人間の視野を拡張してくれるものである。

正月にスタートレックの映画を続けて観ていて、そう思った。
スタートレックでは、フロンティアという言葉が出てくる。

エンタープライズのクルーは、ニューフロンティアをめざす。
ニューワールドではなく、ニューフロンティアを。